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姉弟

「先生、まだテストの採点、山のように残ってますよ」
 鞄を持って当たり前のように帰ろうとしていたサイラスは、アンジェリカに見咎められると、ギクリと足を止めて振り返り、きまり悪そうに笑いながら頭をかいた。
「ごめん、今日は研究所に行きたい気分なんだよね」
「じゃあ、気分を切り替えてください」
 アンジェリカは冷ややかに言い放った。何かにつけて研究所に逃げ込もうとするサイラスに、彼女は次第に強気な態度を見せるようになっていた。助手としての使命感がそうさせているだろう。それでもサイラスにはあまり効果はなかった。笑顔のまま、のんびりとした口調で、のらりくらりと反論する。
「別に今日中にやらなくちゃいけないものでもないよ」
「でも、あしたはあしたで課題の採点がありますから」
「そうだね、じゃああしたは今日の分まで頑張るよ」
「もう……」
 アンジェリカは口をとがらせて膨れ面を見せた。
 たいてい彼女の方が折れることになる。ジークのように正面きって言い返してくる相手には強いが、サイラスのように微妙に論点をずらしてかわす相手には弱いのだ。もっとも今日の場合は、あまり切羽詰まった状況でないため、しつこく食い下がらなかったというのもあるだろう。
 とりあえず彼女の優しさに感謝しつつ、サイラスはニコニコしながら手を振って、アカデミーの狭く散らかった自室をあとにした。

 特に何かがあったわけでなくても、気分が乗らない日というのはある。
 そういうとき、サイラスはなるべく無理をせず、可能であればそこから離れるようにしている。つまりは気分転換である。その方が効率よく進められると思うのだが、アンジェリカの賛同はなかなか得られなかった。気分転換自体は否定しないが、その気分転換が多すぎると言うのだ。確かにそれはもっともだと納得するものの、あまり反省はしておらず、怒られながらもこうやって逃避を繰り返しているのである。

 日は傾きつつあるが、まだ空は青く、空気も暖かいままだった。
 アカデミーを出たサイラスは、大きく深呼吸をして凝り固まった背筋を伸ばすと、研究所に向かって歩き出した。教師としての仕事や雑務が多いため、日が落ちてから研究所に向かうことが多く、明るいうちにこの道を歩けるのは、今日のように仕事を放り出してきたときくらいである。残してきたアンジェリカには悪いことをしたと思いつつも、この開放感に幸せを感じていた。
「先生!」
 背後から弾んだ声が聞こえて振り返ると、金髪の少年が人なつこい笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。その後ろから、小柄な少女もついてきている。
「やあ、アンソニー」
 サイラスは笑顔で応じた。少女の方に見覚えはなかったが、少年がユールベルの弟であることはすぐにわかった。サイラスは人の顔を覚えるのは得意な方ではないが、その人目を引く容姿のせいか、一度会っただけにもかかわらず強く印象に残っていた。
「今から研究所へ行くの?」
「そう、君は学校帰り?」
「そんなところ。ちょっと遠回りして寄り道してたけど」
 身長はサイラスと変わらないくらいだが、屈託なく答える表情は年相応に子供であり、サイラスは少しほっとしていた。ユールベルの家で見たときの彼はやけに大人びていて、時折、ふと深く仄暗い何かをその瞳に覗かせることもあり、何となく気になっていたのだ。
 アンソニーは隣の少女の肩を引き寄せて続ける。
「紹介するよ、こっちは僕の彼女のカナ=ゲインズブール、そしてこちらが魔導科学技術研究所の研究員で、アカデミーの教師も兼務しているサイラス=フェレッティ先生。姉さんがお世話になってるんだ」
「こんにちは」
「初めまして」
 緩いウェーブを描いた茶髪をふわりと弾ませ、カナは膝を折って可愛らしく挨拶をした。見ているだけで幸せが伝わってくるかのような笑顔を見せている。マシュマロのように甘く柔らかい雰囲気の子だとサイラスは思った。
「あのさ……先生、ちょっと時間ある?」
「いいけど、どうしたの?」
 躊躇いがちに尋ねてきたアンソニーを見て、サイラスは不思議そうに尋ね返す。しかし、彼はそれには答えず、隣のカナに申し訳なさそうな顔を見せながら、その顔の前で左手を立てて片眉をひそめた。
「ごめんカナ、今日は先に帰ってくれる?」
「えっ? あ……うん、わかったわ」
 突然のことに、彼女は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにエメラルドの瞳をくりっとさせて素直に頷いた。アンソニーの腕からぴょんと飛び出すと、短いスカートをひらめかせながら振り返り、屈託のない笑顔を見せる。
「じゃあまたあしたね! 先生もさようなら。今度はゆっくりお話したいな」
 会ったばかりのサイラスにも気後れすることなく、彼女は人なつこく挨拶をした。サイラスもつられるように笑顔になって、丁寧に挨拶を返した。

 サイラスとアンソニーは、カナがその先の角を曲がるまで、軽く手を振って見送った。
「可愛い子だね。同級生?」
「そうは見えないってよく言われるけどね」
 アンソニーは肩を竦めた。確かに、サイラスも彼の年齢を知らなければ、二人が同級生とは思わなかっただろう。アンソニーは年齢のわりに背が高く大人びていて、カナは年齢のわりに小柄で幼い顔立ちをしているのだ。並んだ二人はまるで大人と子供のように見えた。
「それで、どうしたの? 何か相談とか?」
「相談っていうか……えっと……もしかして、先生、本当はあまり時間ないの?」
 急かしたつもりはなかったのだが、アンソニーはそう感じたようで、不安そうに小首を傾げてそんなことを尋ねてきた。大人びた外見とは不釣り合いな子供っぽい仕草に、サイラスは思わず笑みを漏らす。
「そんなことないよ。じゃあ、歩きながらゆっくり話そうか」
 アンソニーはほっと安堵の息をついて頷いた。
 サイラスは特に当てもなく、無意識に研究所の方に足を進めた。通り慣れた道をのんびりと歩いていく。頬を掠める暖かい風が心地いい。
「先生って独身だよね?」
 不意に隣のアンソニーが口を切った。思いもしなかった質問に、サイラスは目を見開いて驚いたが、すぐに穏やかな表情に戻って答える。
「そうだよ」
「どうして結婚しないの?」
「相手がいないと出来ないことだからね」
 サイラスは少年時代からずっと勉強と研究に没頭してきた。それ以外の優先順位は低い。こと恋愛や結婚に関しては、ほとんど興味がなかったといっても過言ではない。彼にとっての幸せは魔導の研究だけだった。アカデミーの教師も本当は気が進まなかったのだが、次世代の研究者を育てるのも大切な仕事だとサイファに説得されて、4年だけの約束で仕方なく引き受けたのだった。
「僕はいずれカナと結婚したいと思ってるんだ」
 空を見上げて息を吸い込み、アンソニーはぽつりと言った。その表情は、夢見るようなものではなく、どこか憂いを含んだものだった。何か障壁となることでもあるのだろうか、とサイラスは思ったが、それを尋ねていいものかどうかわからなかった。
「随分と気が早いんだね」
「いろいろ考えないといけないことが多くてさ」
 当たり障りのない探りに、彼は軽く苦笑してごまかすように答えた。
 反射的にサイラスは追及する。
「それって進路のこと? 家のこと?」
「家のことはあまり関係ないよ。僕はラグランジェ家に執着していないしね。もっとも、家を出るには当主の許しがいるけど、サイファさんなら、僕が出ていくと言っても許してくれると思うし」
 淡々と答える彼の端整な横顔は、とても子供とは思えないものだった。
「君もお姉さんみたいにアカデミーに行くの?」
「まだわからないけれど、できれば進学するよりも早く働きたい。アンジェリカが14で働いてるんだから、僕も働けるところがあるんじゃないかと思って。それでさ……サイファさんには相談するつもりだけど、先生も何かいい伝手があったら紹介してくれないかな」
 アンソニーは真剣に言った。もしかしたらこのことを頼むために自分を誘ったのかもしれない、とサイラスは思う。しかし、アカデミー首席卒業のアンジェリカでさえ自分の助手程度の仕事しかしていないことを考えると、たいした学歴を持たない彼が働けるところはほとんどないような気がした。
「勉強するのも悪くないよ?」
 サイラスがやんわりと言うと、彼はふっと小さく笑みを漏らした。
「でも、姉さんだけに働かせるのは申し訳ないからさ」
「君はまだ子供なんだから甘えていいんじゃないかな」
「姉さんが安心して頼れるようなしっかりした人だったら、僕だって遠慮なく甘えていたと思うけどね。実際は、むしろ僕の方が支えないといけないくらいだからさ」
 その口調は普段と変わらないように聞こえたが、瞳には仄暗い陰が潜んでいるように見えた。誰にも甘えられないつらさ、姉を支えねばならない大変さ、というだけではない何かがそこにあるように感じたが、深く立ち入ってはならない気がして、サイラスは「そっか」と軽い相槌だけを打って口を結んだ。

 サイラスもアンソニーも無言のまま足を進めた。
 アカデミーに近いこともあって、若者が多いその道は、適度に活気があり穏やかな喧噪が広がっていた。そんな中、二人の間の空気だけが重く淀んでいた。
 不意にアンソニーは空を仰いだ。
「姉さんさ、子供の頃に両親から酷い仕打ちを受けていたんだ」
 突然の告白に、サイラスはきょとんとした。しかし、納得のできない話ではなかった。彼らが両親と一緒に住んでいない理由、そして、彼女の持っている陰のある雰囲気は、そういう過去が原因だったのだと合点がいった。
「親元を離れているのはそのせいだったんだね」
「そう、今はサイファさんが僕たちの親代わり」
 アンソニーは静かに答えると、斜め下に視線を落として続ける。
「そんな子供時代のせいかな、姉さんは今でもまだ不安定で脆くてさ、他人との接し方もよくわからないみたい。姉さん自身もこのままじゃいけないって頑張ってるんだけど、ときどき無理をして壊れそうになっていて……」
 そこで言葉が途切れた。
 彼はゆっくりと足を止めると、難しい顔でうつむいて息をついた。そして、ズボンのポケットに両手を突っ込み、自分の足元を見つめたままぽつりと言う。
「そんな姉さんを放っておけないんだよね」
 横から吹いた風に、鮮やかな金の髪がさらさらとなびいた。
「強くなれって突き放すのは簡単だけど、人ってそんなにすぐに強くなれるものじゃないでしょう? 多分、姉さん、今はまだ誰か縋れる人がそばにいないとダメなんだ。自分のことを無条件に愛してくれる人が……その実感をくれる人が……」
 彼の表情は次第に険しく曇っていった。
 しかし、急にパッと顔を上げると、おどけるように肩を竦めながら付言する。
「でも姉さんに近づいてくる男ってろくなのがいなくてさ」
 確かに、とサイラスも苦笑する。過去のことは知らないが、研究所に来て早々、レイモンドに目をつけられ酷い目に遭わされていたことを思い出していた。ラグランジェの名のせいで、こういう輩が近づいてくることも多いのだろう。
「だから……今は、僕がその役目を負っているんだ」
 静かに落とされた言葉。
 その意味がよくわからず、サイラスは聞き返すように怪訝な表情を浮かべた。それを目にしたアンソニーは、自分が責められたと勘違いしたのか、自嘲の笑みをその薄い唇にのせる。
「姉さんに頼まれたわけじゃない。僕が姉さんを救いたいって思ったから、僕の意思でそうしてるんだ。いけないことだってわかってる……でも、それで姉さんが少しでも救われるならと思って……」
 彼の言っていることが何となくわかってきた。体は大人と変わらなくても、心はまだ大人になりきれていない。そんな彼が、精一杯に悩み、苦しみ、出した答えだったのだろう。正しいこととはいえないが、彼を責める気にはなれなかった。
「だけど、いつまでもってわけにはいかない。ずっと今のままじゃいけないってことはわかってる。でも、姉さんを一人には出来ないし……見捨てられることをすごく怖れてるから……あっ、別に邪魔だと思ってるわけじゃないよ!」
 アンソニーは慌てて弁明すると、小さく息をつき、再び表情を沈ませて目を伏せた。
「姉さんのことは好きだよ。だからいつかは姉さんも本当に幸せになってほしいし、僕も僕自身の幸せを手に入れたい。あまりカナも裏切りたくないし……って勝手だよね。図々しいよね。無茶苦茶だよね」
「何となくわかるよ」
 サイラスは優しくそう言うと、額を押さえてうつむくアンソニーの頭にそっと手をのせた。その瞬間、何かがプツリと途切れたように、鮮やかな青い瞳にじわりと涙が浮かんだ。
「ごめん、先生……僕も結構まいってたのかな」
 きまり悪そうにはにかみながら、溢れそうになった涙を拭う。通り過ぎる人たちが、ちらちらと不思議そうにこちらの方を窺っていた。子供とはいえない外見で、なおかつ人目を引く容姿のアンソニーが、このような往来で涙を浮かべていては、注目を浴びるのも当然のことだろう。
「今日のことは誰にも言わないでくれる? 姉さんにも、ジョシュにも」
「わかってるよ」
 サイラスは落ち着いた声で答える。もともと頼まれなくても誰にも言うつもりはなかった。わざわざ口外する理由などない。ただ、深い意味はなかったのかもしれないが、アンソニーからジョシュの名前が出たことに少し驚いていた。
「それと、僕はいいけど、姉さんのことだけは……軽蔑しないでほしい……」
 アンソニーは張り詰めた表情で言葉を絞り出す。秘めておかねばならないはずのことを、許可なく勝手に話してしまったことに責任を感じているのだろう。もしかすると後悔しているのかもしれない。だが、サイラスにはそのことで軽蔑するような気持ちは起こらなかった。安心させるようににっこりと微笑んで言う。
「ユールベルのことも、もちろん君のことも、軽蔑なんてしないよ」
「……先生みたいな人が、姉さんを支えてくれるといいんだけど」
 アンソニーはほっとしたように、しかし少し悲しげに、小さく笑みを漏らして呟いた。

 彼には子供でいられる場所が少なかったのかもしれない。本来ならば、まだ親の庇護を受けて甘えている年齢にもかかわらず、逆に姉を支える立場にまわっているのだ。歪みが生じても仕方のない境遇だったといえるだろう。
 だが、それを知ったところで、サイラスにはどうすればいいのかわからなかった。
 どうにかしたいという気持ちがないわけではないが、安易に手をつけていい問題でもないと思う。彼らの事情に踏み込むには相当の覚悟が必要だと感じた。今の自分に出来るせめてものことといえば——。
「ねえ、アンソニー、アイスクリームでも食べに行こうか」
「……アイスクリーム?」
「そう、アイスクリーム。嫌いなら別のものでもいいけど」
 アンソニーは不思議そうな顔をしていたが、やがてふっと表情を緩めた。
「ありがとう、先生」
 少しの間のあと、静かにそう言う。いつもとあまり変わらない口調だったが、そこには精一杯の気持ちがこめられているように感じられた。サイラスは目を細めて柔らかく微笑むと、ほとんど背丈の変わらない彼の背中にぽんと手を置いた。


選択

 ユールベルは図書室の返却カウンターに、古びた3冊の本を重ねて置いた。
 卒論用に借りた本の返却期限が迫っていたので、今日はこのためだけにアカデミーへ来たのだ。他に用はない。せっかくなのでサイラスの部屋へ寄っていこうかと考えるが、この時間は、まだ担当している1年生のクラスで教壇に立っているはずである。アンジェリカはいるかもしれないが、彼女と二人きりになるのは気が進まない。授業が終わるまでここで時間を潰そうと、本棚から適当に一冊を選び、窓際の席について読み始めた。
 授業時間中であるものの、図書室にはちらほらと人がいる。ユールベルと同じように卒業間際の4年生なのだろう。みな静かに黙々と本を読んでいた。ページを繰る音だけが、近くで、遠くで、遠慮がちに聞こえる。半開きになった窓からは、そっと、微かな風が滑り込んだ。

 ガラガラガラ——。
 扉を開く無遠慮な音が、静寂の空間に響き渡った。
 意識的に見ようとしたわけではないが、音につられて、ユールベルは何気なく扉の方に目を向ける。その瞬間、ハッと息を呑んで立ち上がった。何故という疑問が脳裏を掠めるものの、それを考える余裕などない。気づかれないよう慌てて顔を逸らすと、読んでいた本を本棚に返し、うつむいて足早に図書室を去ろうとする。だが——。
「……っ!!」
 すれ違い際、先ほど入ってきた男に上腕を掴まれた。
 逃げようとしたのは彼と会いたくなかったからである。だが、彼の目的は自分であるはずがないと思っていただけに、この展開に驚かずにはいられなかった。
「何をするの?! 離してっ!!」
「おまえに話がある」
 その男——ラウルは無表情でそう言うと、ユールベルの腕を掴んだまま、脇に抱えていた本を返却カウンターの上に置いた。そして、逃れようと足掻くユールベルを引きずるようにして図書室を出ていく。
 去りゆく二人の背後では、小さなざわめきが起こっていた。

「私が図書室にいるって……どうしてわかったの……」
 図書室からさほど離れていない廊下の壁に押しつけられ、ユールベルは怯みそうになりながらも、上目遣いでじっと睨み、訝るように声を低めて尋ねた。
「勘違いするな。用があって行った図書室に、たまたまおまえがいただけだ」
 ラウルは無感情に見下ろして答える。
 その冷たい言い方にムッとし、ユールベルは掴まれた腕に力をこめてそれを示す。
「だったら、これはどういうつもりなの」
「おまえが医務室に来ないからだ」
 ラウルはポケットから紙切れを取り出し、それをユールベルの前に差し出した。メモ用紙を四つ折りにしたようなもので、この状態では、書いてある内容まではわからない。
「……何?」
「この王宮医師におまえのことを頼んでおいた。医務室の場所も書いてある。私と顔を合わせたくないのならここへ行け」
 ユールベルは頭の中が真っ白になり、絶句した。
「面倒だろうが定期的に診せろ。医師としての最後の忠告だ」
 力の入らないユールベルの手に、ラウルは無理やりその紙を握らせた。そしてもう用はないとばかりに、少しの未練も見せることなく、長い焦茶色の髪を揺らせて背を向けようとする。
 とっさに、ユールベルは彼の手首を掴んで引き留めた。
 白いワンピースがふわりと風をはらみ、緩くウェーブを描いた髪が揺れ、後頭部で結んだ包帯がひらりとなびく。そして、無言のままゆっくりとうつむき、縋るように、彼を掴む手に力をこめた。
「……私のことを……見捨てるの……?」
 喉の奥から絞り出した声は小さく震えていた。
「おまえが私のところに来るというのならそれでもいい。自分で選べ」
「……どうして……そんな突き放したことを言うの……っ!」
 包帯をしていない方の目から雫がこぼれ、タイルに落下して弾けた。膝から体が崩れ落ちそうになり、両手でラウルの服を掴んでしがみつく。ラウルはそれでも無表情を崩さなかった。
「おまえはもう子供ではない。自分のことは自分で決めろ」
 その言葉はユールベルの胸に深く突き刺さった。
「みんな……みんなそう言うの……18だから子供じゃない、自立しろ、全部自分で選べって……そんなの本当は厄介払いしたいだけなんでしょう? やっと突き放せてほっとしているんでしょう? 物わかりのいいふりして、おまえのためだなんて言って……そんなのずるいわ! 卑怯よ! 嫌いだ、来るなって言われた方がまだましだわ!!」
 考えるよりも先に言葉が飛び出していた。何を言っているのか自分でもわからなくなっていた。頭の中はぐしゃぐしゃである。ただ、怖かった。我を忘れたように彼の胸を何度も叩き、溢れくるまま感情をぶつけて泣きわめく。
 ラウルは微動だにせずそれを受けていた。しかし、やがて面倒くさそうに溜息をつくと、ユールベルの細い手首を掴んで止め、その華奢な体を軽々と肩に担ぎ上げた。
「何する……のっ……!」
 ユールベルは背中側に頭を落とされ、逆さになったまま、広い背中を叩いて必死に抗議する。しかし、ラウルはまったくの無反応で、まわりの視線も気にせず、暴れるユールベルを抱えて大股で歩いていった。

 ラウルが医務室へ向かっていることは、ユールベルにもすぐにわかった。そのことで少し頭が冷えたようだ。無駄な足掻きをすることはやめ、小さくしゃくり上げながら大人しくなった。

 ラウルは医務室の扉を開けて中に入ると、そこにユールベルを下ろし、ガラス扉のついた棚から新品の包帯と薬を取り出した。
「座れ」
 自分も席に腰を下ろしながら、突っ立っているユールベルに冷たく言う。
 何度もこの医務室で診察を受けているので、勝手がわからないわけではない。だが、今日はラウルの機嫌がいつも以上に悪く、またその原因が自分だという自覚があったので、冷静さを取り戻したユールベルは少しびくついていた。それでも、言われるままに患者用の丸椅子にそろりと腰を下ろす。
 ラウルは無言でユールベルの頭を引き寄せ、包帯の結び目をほどいた。そのくたびれた包帯を巻き取ると、傷の具合と見えない目を診察し、消毒をして、薬を塗って、ガーゼを当て、新しい包帯を巻いていく。その手際はいつもどおり丁寧かつ素早いもので、どこにも荒っぽさはなかった。
 最後に、ユールベルの頭を抱えるようにして、後頭部で包帯を結ぶ。
 このとき、いつも、ユールベルは胸がきゅっと締めつけられる。そんなはずはないとわかっているのに、大事にされているのではないかという錯覚に陥りそうになり、そんな自分を浅ましくみっともなく思うのだ。
 二人の体が離れた。
 微かに感じていた温もりがなくなり、ユールベルは急に心許なくなった。手を伸ばしたい衝動に駆られたが、握りしめたこぶしを膝に留めてじっと耐える。
「これからは自分で選べ。ここへ来るか、他の医務室へ行くかを」
 ユールベルの胸の内を知ってか知らずか、ラウルは包帯の残りと薬を片付けながら、淡々と冷ややかに言葉を落としていく。
「いくら泣いても喚いても、おまえは私にとってただの患者でしかない。望むようなことはしてやれん。いいかげんに諦めろ」
「わかっているわ、そんなこと……諦めている……諦めているわ……」
 ユールベルは眉根を寄せてうつむき、膝の上でワンピースの裾をギュッと握りしめた。白く柔らかな布に、無数の皺が放射状に走る。
 理性ではもう完全に諦めていた。
 だが、実際に会ってしまうと心が乱されてしまい、些細なことで気持ちが暴走して抑えきれなくなってしまう。そのことがわかっていたからこそ、医務室には行かず、ラウルを避けていたのだ。
「私に会うのは苦痛だろうと思い、他の選択肢を用意した。だが、患者としてのおまえが、医師としての私を選ぶのなら拒絶はしない。お膳立てはここまでだ。あとはおまえが自分で選択しろ」
「私には……選べない……」
 ユールベルは声を震わせながら固く目をつむり、小さく首を横に振った。真新しい白い包帯とともに、腰近くまである長い髪が鈍重に揺れる。
「おまえはいつまで甘え続けるつもりだ」
 いつものように感情のない声が響く。
 今のユールベルにはそれがひときわ冷たく感じられた。
「大人になれば誰もが自分で考え、悩み、自分の責任で物事を選択している。たとえ意に沿わない選択肢しかなくてもな。嫌だと駄々をこねるのは子供のやることだ。おまえは誰かに責任を押しつけ、ただ子供のように守られていたいのだろう」
「18だから急に大人になれなんて、そんなの無理よ!」
「ならば、いつになったら大人になれるというのだ」
 ユールベルはきゅっと下唇を噛んだ。自分の訴えがただの言い訳だったことに気づいたが、それをすぐに認めるほど素直ではなかった。黒く渦巻く気持ちを抱えながら、攻撃の矛先を変える。
「あの人はいまだに守られてばかりいる」
「おまえはあいつのことを何も知らない」
 具体的に名前は出さなかったが、ラウルには誰のことかわかったようで、即座に言い返してきた。ムッとしたユールベルに、片付ける手を止めてさらに語り出す。
「あいつは……つらいことがあっても自分の心に秘め、酷い仕打ちを受けても相手を責めることはなく、皆に心配かけないように笑顔を見せている。守られていることを当たり前と思わずに感謝を忘れない。そんなあいつだからこそ、私も、サイファも——」
「そんなの惚れた欲目ってだけでしょう?!」
 たまらなくなって、ユールベルは涙目で叫んだ。
「そう思いたければ思えばいい」
 ラウルは怒りもせず落ち着いた口調でそう言うと、椅子をまわしてユールベルに振り向き、正面からまっすぐにその瞳を見据えた。
「少なくとも、おまえのようにまわりを恨んでばかりの人間を、守られていることに感謝もできない人間を、私は守りたいとは思わない」
 無表情のまま、彼はきっぱりと言い放つ。
 ユールベルは大きく目を見張った。
 返す言葉が見つからなかった。
 ラウルが自分のために手を尽くしてくれたことは知っている。それなのに、感謝の気持ちを伝えるどころか、さらに多くを求めて責め立てるばかりだった。自分の境遇に甘えて恨み言をぶつけるばかりだった。
 こんな私では、愛想を尽かされるのも当然だわ——。
 彼の最も大切な存在になりえないことが怖かったのかもしれない。他人を責めることで自分の心を守ろうとしていたのかもしれない。深くうつむき、目をつむる。悔しいというより、恥ずかしいという気持ちの方が大きかった。
 変わりたいと思っているのに、変われない。
 強くなりたいと思っているのに、強くなれない。
 結局いつも甘えて、逃げて、縋ってばかり。
 でも、このままではいけない。このままでは——。
「今……は……、もう少しだけ、考える時間がほしい……」
 ユールベルはうつむいたまま、掠れる声を絞り出した。
「わかった」
 ラウルは静かにそう答えると、もう一度、四つ折りにした紙切れをユールベルに手渡した。図書室の前で渡されたものと同じもののようだ。あのとき、我を忘れたユールベルがいつのまにか落としていたのだろう。ラウルが拾っていたことすら気づいていなかった。
 ユールベルは硬い面持ちでそれを見つめると、ゆっくりと握りしめ、決意を固めるようにきゅっと口を結んで立ち上がった。


逃避

 ユールベルは、両脇に紙束が積まれたスチール机の上で、俯せになって目を閉じていた。細く開いた窓から舞い込んだ風が、薄いカーテンをひらひらとはためかせ、緩いウェーブを描いた金の髪と白い包帯を小さく揺らす。いつ来ても乱雑で、狭くて、お世辞にもきれいとは言い難いこの部屋が、なぜかユールベルには落ち着ける場所になっていた。
 私、逃げている——。
 ラウルに言われたことの結論はまだ出ていない。それどころか真剣に向き合ってさえいない。あの日以来、毎日のようにここへ来て、何をするでもなく、ただぼんやりしたり、サイラスと話したり、ときにはアンジェリカと話したりしている。そんなユールベルを、サイラスはごく自然に受け入れてくれていた。不思議には思っているだろうが、頻繁にここに来るようになった理由も訊かないのである。
 しかし、それももうすぐ終わる。
 卒業式の日は目前に迫っていた。卒業してしまえば、気軽に訪れることもできなくなるだろう。それまではせめて許してほしい、ここに逃げ込むことを、結論を先延ばしにすることを——ユールベルは薄く目を開いた。

 ガチャン——。
 静かな部屋にドアノブのまわる音が響いて、扉が勢いよく開いた。サイラスたちが戻ってきたのだろうと思い、ユールベルは顔を上げたが、そこにいたのは思いもしない人物だった。
「あれ? おまえ何でここにいるんだ? アンジェリカは?」
 魔導省の制服を着たジークが、ユールベルを指さしながら混乱したように尋ねた。
「先生とアンジェリカは図書室に行ったわ。すぐに戻ってくるって」
 ユールベルは無感情で淡々と答える。
「そうか……」
 ジークは僅かに声を沈ませると、微妙に渋い顔で、落ち着きなく首をひねったり頭を押さえたりした。ここで待つべきかどうか迷っているのだろう。そんな彼を、ユールベルはじっと見つめて口を開いた。
「ジークは成人して何か変わった?」
「……えっ?」
 唐突な質問に、ジークはぱちくりと瞬きをした。しかしすぐに真面目に考え始める。
「そうだなぁ……18になってもそんなに意識はしなかったな。大人になったって実感はあんまりなかったし、まわりからもそんなに大人扱いされなかったし。のらりくらり学生やってたってのもあるんだろうけど」
 それは拍子抜けするような答えだったが、ユールベルにはとても羨ましく思えた。
 ジークは斜め上に視線を向けて、さらに続ける。
「就職してからの方が変わったことは多かったな。自分の言動に責任を持たなきゃならないってことを実感を持って理解した、っていうか、理解させられたっていうか……結構大変だぜ、働くのも」
 その言葉とは裏腹に、彼の声にはどこか楽しげに弾んでいた。
「そういやおまえ、あの研究所に就職するんだってな」
「ええ……」
 あの研究所、などという極めて曖昧な言い方だったが、おそらく王立魔導科学技術研究所のことだろうと思い、ユールベルは戸惑いながらも小さく頷いた。
「気をつけろよ。あそこにはラグランジェの関係者ってだけで嫌ってくるやつがいるんだ。おまえなんてもろにラグランジェ家の人間だし、おまけにサイファさんの口利きで入ったんだから、標的になることは間違いないぜ」
「ジョシュ……?」
 ジークの言った人物像に当てはまるのは彼しかいなかった。少なくとも、ユールベルが知る中では彼だけである。
「あれ? 知ってんのか?」
「研修に行っていたから……」
「ああ、そうか」
 ジークは軽く納得すると苦笑した。
「ひどかっただろ? あいつの態度」
「でも、ジョシュはいい人……私を助けてくれたもの……」
 確かに、彼にはラグランジェの人間だからという理由で冷たい態度をとられたが、襲われかけていたときには見過ごすことなく助けてくれたのだ。しかし、事情を知らないジークは、怪訝な顔で腕を組みながら首をひねる。
「まあ、悪いやつではないと思うけどな……ひぃっ!!」
 突然、彼は引きつった悲鳴を上げて飛び上がった。
「おまえっ! 背筋を指でなぞるのはやめろっ!!」
「だってジークが入口をふさいでいるんだもの」
 顔を赤くして勢いよく振り返ったジークに、アンジェリカは楽しそうに笑いながら答えた。図書室から戻ってきたところなのだろう。その隣にはにこにこしているサイラスもいた。
「ったく……おまえ忘れてたんじゃねぇだろうな」
「心配しなくてもちゃんと覚えているわよ」
 アンジェリカはニコッとして答えると、隣のサイラスに振り向いて言う。
「それじゃ、私はこれで帰りますね。お疲れさまです」
「お疲れさま」
 サイラスが片手を上げて応えると、彼女はサイラスに小さく手を振り、部屋の中のユールベルにも手を振って、幸せそうな顔でジークと並んでどこかへと去っていった。

「留守番させちゃってごめんね」
 サイラスは部屋の中に入ると、一番奥の自席に座り、すっかり冷めた飲みかけのコーヒーを口に運んだ。それでも美味しそうに顔をほころばせると、ほっと一息ついて、無表情のユールベルに微笑みかける。
「君もジークと知り合いだったんだ」
「……あの二人はどこへ行ったの?」
「さあ、詳しくは聞いてないけど、何かお祝いとか言ってたよ」
「そう……」
 ユールベルはそう言うと、再び机に俯せになった。他人の幸せを素直に喜べない今の自分は、多分、とてもひどい顔をしている。そんな顔をサイラスには見せたくなかった。
「ねえ、僕たちもどこかへ行こうか」
「……どこへ?」
 サイラスの思いがけない誘いに驚きながら、それでも顔を上げることなく、ぽつりと小さく尋ね返した。彼は、ギシリと音を立てて椅子の背もたれにもたれかかると、腕を組んでのんびりと答える。
「そうだね、アイスクリームでも食べに行こうか」
 ユールベルは少しだけ顔を上げ、ちらりとサイラスに横目を向けた。その視線がぶつかると、彼はにっこりと微笑み、机に肘をついて前屈みでユールベルを覗き込む。
「嫌い?」
「嫌いじゃ、ない……」
「じゃあ行こうよ、ね?」
 まっすぐ向けられたその視線に、ユールベルは微かな戸惑いを感じたが、不思議と逃げたい気持ちは起こらなかった。机に頭を載せたままじっと彼を見つめ返すと、小さくこくりと頷いた。

「ここのアイスクリームが好きなんだけど、一人ではちょっと行きづらくてね。これからもときどき付き合ってくれると嬉しいな」
 向かいに座るサイラスは、カップ入りのアイスクリームをスプーンですくいながら、これまで見たこともないくらいの晴れやかな笑顔でそんなことを言った。
 ユールベルが連れてこられたのは、小さなアイスクリーム専門店だった。
 店内を見まわしてみると、並んでいるのも、席に着いているのも、ほとんどが若い女性である。ちらほら男性客もいるが、みな女性と一緒に来ているようだ。確かにこれでは男性一人では行きづらいだろう。
「先生がアイスクリームを好きだなんて知らなかった」
「まだまだ君の知らないことがたくさんあると思うよ」
 サイラスはにっこりと笑って言った。
 ユールベルは何と答えていいかわからず、無表情のままアイスクリームを口に運ぶ。それでも彼はにこにこと微笑んでユールベルを見ていた。
 今日だけではない。
 ユールベルがどれだけ無愛想な態度をとっても、いつも優しく見守るようにそこにいてくれる。だからだろう、彼のそばはとても居心地が良く、ついそこに逃げ込みたくなるのだ。他人の優しさを利用するのは、もうやめなければと思っていたのに——。
「先生、私、逃げているの……」
 ユールベルはゆっくりうつむくと、スプーンを握る手に力をこめた。
 突然のことにサイラスはきょとんとしたが、すぐに軽く笑いながら答える。
「僕もしょっちゅう逃げてるよ。つらいときは逃げるのもいいんじゃないかな。気分が乗らないときまで無理することはないよ」
 彼の言葉を聞いていると、逃げるのも悪いことではないように思えてくる。しかし、彼の「逃げる」は、ユールベルのそれとは根本的に違うのだ。彼の場合は、気分転換のための一時的な逃避であり、その根底にあるのは前向きな気持ちである。それに引き替え自分は——。ユールベルはますます深くうつむき、独り言のように呟く。
「結局、本当に逃げたいものからは逃げられないのね……」
 サイラスは不思議そうに瞬きをしてユールベルを覗き込む。
「本当に逃げたいものって?」
「私自身」
 ユールベルはぽつりと言葉を落とした。
「弱くて、ずるくて、我が侭で、嫉妬深くて、欲深くて、僻んでばかりで、手に入らないものばかり欲しがって。そんなどうしようもない人間だから、自分でも大嫌いだし、他の誰からも好かれないの」
「僕はユールベルのことが好きだよ」
 それはサイラスの優しさだったのだろう。いや、同情なのかもしれない。ユールベルは言いようのない虚しさを感じて、きつく眉根を寄せた。スプーンを持つ手にも無意識に力が入る。
「先生は私のことをよく知らないもの。私のことを知ればきっと嫌いになる」
「そうならない自信はあるけどね」
 サイラスは楽しげにアイスクリームをすくいながら平然と言った。自信満々というよりも、それが当然であるかのような口調だった。
「どうして?」
「勘、かな?」
 あまりにもいい加減な答えに、ユールベルは唖然とすると、呆れたように溜息をつく。
「研究者とは思えない答えね」
「研究者には勘も必要なんだよ」
 サイラスは頭を指さしてそう答えた。いったいどこまで本気で言っているのか、ユールベルにはわからなかった。しかし、邪気のない彼の笑みを見ていると、黒く渦巻く気持ちが薄らいでいき、これ以上、反論する気もなくなっていった。
「変な人……」
「アイスクリーム、溶けちゃうよ」
 サイラスは笑いながら言った。
 ユールベルは溶けかかったアイスクリームをすくって黙々と口に運ぶ。それはとても冷たかったが、ほっとするような甘さがあり、口にするたびに気持ちが和らいでいくように感じた。
 いつかは現実と向き合わなければならない。
 だけど、あと少しだけ——。
 そんな甘えた考えも、今だけは許されるような気がした。


年上

「ユールベル、卒業おめでとう!」
 ターニャは講堂から出てきたユールベルに駆け寄り、彼女が戸惑うのも構わずに思いきりぎゅっと抱きしめた。白いワンピースの裾がふわりと舞い、金の髪が揺れ、立ち上ったほのかな甘い匂いが鼻をくすぐる。
「卒業生代表の挨拶も良かったわよ」
「あれは俺が書いたようなものだ」
 ユールベルの後ろからついてきていたレオナルドが、自慢げに胸を張って割り込んできた。普段と変わらない格好をしているユールベルとは対照的に、新調したと思われる、高級そうな仕立ての良いスーツを身に着けていた。
「それどういう意味よ」
「何を言ったらいいかわからない、ってユールベルが悩んでたから、ネタ出ししてやったんだ。まあ、文章に起こしたのはユールベルだけどな」
 腰に手を当てて鼻高々のレオナルドに、ターニャは呆れた眼差しを送った。
「卒業できるかさえ危なかったのに、よくそんな余裕があったわね」
「卒業が決まってからの話だ!!」
 レオナルドは卒業証書の入った筒を握りしめ、顔を真っ赤にして言い返した。

 今日はアカデミーの卒業式である。
 元ルームメイトで友人のユールベルを祝うために、ターニャはここへやってきたのだ。もっとも、当事者である卒業生と教師以外の立ち入りは許可されていないため、式は外からこっそり覗いていただけである。だが、取り立てて派手なことを行うわけでもないので、声を聞くだけでも十分なくらいだった。
 長くはない厳粛な式が終わると、講堂のまわりは急に賑やかになった。外に出た卒業生たちのはしゃいだ声があちこちで上がる。ターニャたちの声も、その中のひとつだった。

「ユールベル、卒業おめでとう」
 ふと、背後から落ち着いた声が聞こえ、3人は会話を中断して振り返る。
 そこにいたのは、優しく微笑む温厚そうな男性だった。
 ターニャには見覚えのない人物であり、誰だろうかと不思議に思う。ユールベルの父親にしては若すぎるし、そもそも全く似ていない。第一、このぼさぼさ髪の冴えない男が、ラグランジェ家の人間であるとも思えない。
「ありがとう」
 考え込んでいるターニャをよそに、ユールベルは素直に淡々と応じた。
 ターニャは、その男性のことが気になりつつも、さすがに本人の目の前で「誰?」などと訊くことは躊躇われた。だが、レオナルドの方は、そんな気遣いなど微塵も持ち合わせていないようだ。
「おまえユールベルとどういう関係だ」
 単刀直入に、しかもあからさまな敵意を込めて、睨みつけるような視線で問いただす。年上の人間に対して、かなり失礼な態度といえるだろう。
「やめてレオナルド、この人は……」
「僕はサイラス=フェレッティ。アカデミーの魔導全科1年担任と、魔導科学技術研究所の研究員を兼務している。ユールベルとは研究所で知り合ったんだ」
 困惑したユールベルを制止して、相手の男性は笑みを崩すことなく端的に説明をした。それでもレオナルドは納得しなかったらしく、さらに険しい顔になり食ってかかる。
「教師が生徒に手を出していいと思っているのか」
 それはあまりにも飛躍した決めつけだった。サイラスは困ったように乾いた笑いを浮かべると、ユールベルに振り向いて肩を竦める。
「何か誤解しているみたいだね、君の……彼氏?」
「彼氏じゃなくて、親戚……」
 ユールベルは無表情でぼそりと答えた。
 それまで黙って聞いていたターニャは、その言葉を耳にして思わず噴き出した。しかし、すぐに咳払いしてそれをごまかす。レオナルドは、その様子を横目で見ながら、ムッと眉をひそめて睨んだ。
 サイラスは申し訳なさそうに微笑みながら、ユールベルに振り向いて口を開く。
「ごめんね、ユールベル。友達と一緒のところに声を掛けちゃって。これからアイスクリームでもどうかなと思ったんだけど、それはまた今度にするよ」
「ええ……私の方こそ、ごめんなさい……」
 ユールベルのその声には、どこか寂しそうな響きがあった。気のせいではないだろう。彼女の場合、表情にあまり動きはなくても、声には比較的素直に感情が表れるのだ——ターニャは確信してくすりと笑う。
「ユールベルは先生と行って。私からのお祝いは、また今度ってことで」
「おまえっ! 何を言って……」
 勢いよく突っかかってきたレオナルドの口を、ターニャは両手を伸ばして無理やりふさぎ、満面の笑みを浮かべて続ける。
「今日はレオナルドを祝ってあげることにするわ。だから、こっちは気にしないでね」
「えっ……あの……」
「それじゃーねっ!!」
 戸惑うユールベルに一方的にそう告げると、大きく手を振り、レオナルドの腕を引きながら逃げるように門に向かって走っていった。講堂前に残されたユールベルとサイラスは、呆気にとられ、去りゆく二人をただ立ちつくしたまま見送っていた。

「おい、どういうつもりなんだよ」
 アカデミーの門を出ると、レオナルドはむすっとした膨れ面を見せながら、前を歩くターニャにぶっきらぼうに尋ねた。ターニャは掴んでいた彼の手首を放すと、くるりと振り返り、その鼻先に人差し指を突きつけて言う。
「ユールベルが先生と過ごしたがってるって気づかなかったの?」
「あんな野暮ったい冴えないおっさんなんて、冗談じゃないぞ」
「大事なのは外見じゃなくて中身でしょ。いい人そうじゃない」
 嫌悪感を露わにしたレオナルドに、ターニャは反論する。
「ユールベルにはああいう穏やかで優しい人が似合ってるのよ。すごく大切にしてくれそうな感じがするし。あの二人はきっと上手くいくわ。うん、間違いない!」
 一人で盛り上がると、両手を組み合わせ、澄み渡った青空をうっとりと仰ぐ。
「なに勝手に決めつけてるんだよ」
「決めつけじゃなくて、女の勘よ」
「女の勘……おまえがね……」
 レオナルドは嘲笑まじりに口先で呟いた。
 その言葉が聞こえていたものの、彼の失礼な態度には慣れていたため、ターニャは気にすることなく受け流した。それより、他にもっと気になっていることがあるのだ。横目を彼に向け、遠慮がちにそろりと切り出す。
「ねぇ、余計なお世話かもしれないけど、いい加減ユールベルのこと諦めたら?」
「とっくに諦めてるさ。もう終わってるんだよ」
 レオナルドの答えは、拍子抜けするくらいあっさりとしていた。先ほどまで見せていた態度とは裏腹の、まるで何の未練もなさそうな口調である。ターニャは怪訝に眉をひそめて問い詰める。
「じゃあ、何でそんなにムキになるのよ」
「終わったからって、情までなくなったわけじゃない。あいつが不幸になるのは見たくない。いつか幸せになれることを願っている……それだけのことだ」
 そう語るレオナルドの眼差しは、ドキリとするくらいまっすぐで、真剣そのものだった。その言葉に嘘やごまかしはないだろう。別れた相手からこんなふうに思われるユールベルを、ターニャは少し羨ましく思う。
「だったら大人しく見守ることね。上手くいくものもいかなくなっちゃう」
「だからあんなおっさんじゃ、あいつが幸せになれないって言ってるんだ」
 レオナルドは相変わらず一方的に決めつけていた。先ほど羨ましいと思ったばかりなのに、ターニャはもうその気持ちを撤回したくなった。思いきり眉をしかめた不機嫌な顔を、グイッと背伸びして彼の鼻先に突きつける。
「そんなのわからないじゃない。ユールベルを信じて見守るの! いい?!」
「……わかったよ」
 ターニャの勢いに圧され、レオナルドは少し上体を引きながら、仕方なくといった感じでしぶしぶ返事をした。柔らかい金髪を掻き上げながら顔をそむけると、小さく溜息をつく。
「それで、どうやって祝ってくれるんだ?」
「えっ?」
 ターニャは隣のレオナルドに振り向いて、問いかけるようにぱちくりと瞬きをした。彼は、空を見上げたままポケットに両手を突っ込み、静かな声で言う。
「さっき言っただろう、祝ってくれるって」
「ああ、そっか。じゃあゴハンでも奢ってあげるわ。何が食べたい?」
 ターニャが人差し指を立てて明るく尋ねると、レオナルドは少しだけ振り向き、どこかむくれたような表情で、ターニャにじとりと視線を流した。
「貧乏人のおまえに、俺が奢られるのか?」
「あら、これでも立派に社会人やってるのよ? 今はもうそんなに貧乏でもないんだから。妙なプライドなんか捨てて、今日くらいは素直にお姉さんに奢られなさいって」
 ターニャは軽く笑いながらレオナルドの肩をぽんと叩いた。
 その瞬間、彼の表情があからさまに翳った。
「そんなに年が違わないのに、年上ぶってお姉さんなんて言うな」
 彼がなぜそんな表情でそんなことを言うのか、ターニャにはわからなかった。戸惑いを感じながらも、目を合わそうとしない彼の横顔を見つめ、小さく首を傾げて尋ねる。
「2年違えば十分でしょ?」
「3ヶ月しか違わない」
「えっ?」
 彼の言った意味が理解できず、ターニャは聞き返した。
「俺は入学したとき19歳だった」
「あ、そうなんだ……でも、3ヶ月??」
 彼がアカデミーに19歳で入学したとなると、生まれ年はターニャと一つしか変わらないことになる。そこまではいいが、3ヶ月という数字に関しては、やはりわからないままだった。しかし、続くレオナルドの言葉で、その疑問も解ける。
「おまえの生年月日はアカデミーの名簿で調べた」
「……は?」
「そんなことも知らないのか? 図書室に行けば、卒業生の氏名と生年月日が書かれた名簿がある。アカデミーの関係者なら誰でも閲覧可能だ」
 平然と答えるレオナルドの言葉を聞いているうちに、ターニャの目は大きく見開かれていった。両方のこぶしをギュッと握りしめて、眉根を寄せると、語気を強めて勢いよく責め立てる。
「そうじゃなくて! だからって何でわざわざ人の生年月日をこっそり調べてるわけ? 普通そんなことしないでしょ。何かちょっと怖いんだけど!!」
 それでもレオナルドに動揺は見られなかった。少しばかり上気したターニャをじっと見下ろし、開き直ったかのようにふてぶてしく言い返す。
「好きな女のことを調べて何が悪い」
「ああ、まあそういう理由だったらわからなくもないけど……って、あれっ?」
 ターニャはいったん納得しかけたが、何かがおかしいことに気づいて首を傾げた。ユールベルことを言っているのかと思ったが、彼女の生年月日ならば、わざわざアカデミーの名簿など見なくても知っているだろう。だとすれば、彼の言う好きな女というのは、ユールベル以外の誰かということになる。
「もしかして、もう他に好きな子いるの?」
 ターニャは瞬きをして尋ねた。
 何を言ってるんだといわんばかりの表情で、レオナルドは柔らかい金の髪を掻き上げながら、呆れたように小さく溜息をついた。それから顔を上げ、真剣な眼差しでターニャを見据えると、ゆっくりと薄い唇を開いて言う。
「おまえが好きだ。俺と付き合え」
「……へっ?」
 呆然としたターニャの口からは、間の抜けた声しか出なかった。


攻防

「ターニャ、そろそろ切り上げない?」
「ごめん、私、もう少しやっていくから」
 定時が過ぎてすっかり帰る気になっている同僚のアニーに、ターニャは申し訳なさそうに両手を合わせて詫びた。そして、さらに申し訳ない顔になり、上目遣いで、言いにくそうに二日連続のお願いを切り出す。
「それでさ……もしあいつが待ってたら、もう帰ったって言ってくれない?」
「またぁ? 私は別にいいけど……でも、嫌ならちゃんと断った方がいいよ?」
 アニーは机の書類を片付けながら軽く忠告する。しかし、そんなことはもちろんターニャにもわかっていた。疲れたように薄く笑って溜息をつく。
「もう何度も断ったわよ。でも、あいつ全然あきらめてくれないんだもの」
「そんな情熱的に想われるなんて羨ましいよ。いっそ付き合っちゃえば?」
「バカ言わないでよ!」
 悪戯っぽくからかうアニーの言葉に、ターニャはむきになって反論した。思いのほか大きかった声は、しんとしたフロアに響き渡り、まわりの注目を集めてしまう。ターニャは慌てて肩を竦めて小さくなり、ごまかし笑いを浮かべながら周囲にペコペコと頭を下げた。
 アニーは首を伸ばしてターニャに顔を寄せると、声をひそめて話を続ける。
「どうしてよ? 結構カッコイイし、一途っぽいし、何よりラグランジェ家のご子息なんでしょう? 言うことないじゃない。上手くいけば玉の輿だよ? 何が不満なわけ?」
「……バカなのよ」
 少し考えたあと、ターニャはぽつりと言葉を落とした。
「えっ? でもアカデミー卒業したんでしょう?」
「成績の問題じゃなくて、人としてバカなのよ」
「ふぅん、まあ、人の好みはそれぞれだけどね」
 アニーは興味なさげにそう言うと、鞄を持って立ち上がり、「お先に」と挨拶をして帰っていった。遠ざかる彼女の足音を聞きながら、ターニャは書類に目を落としたが、胸がざわついてなかなか集中することができなかった。

 突然の告白以来、レオナルドは毎日のようにターニャの前に姿を現した。
 その度に、ターニャは毅然と断ってきた。少なくともターニャ自身はそのつもりだった。しかし、人の話を聞いているのかいないのか、それとも断り方が悪いのか、レオナルドは性懲りもなく告白を繰り返し、付き合えと偉そうに迫るのだ。
 彼のことが嫌いなわけではない。
 だが、あくまで友人の一人である。恋愛対象として見たことはなかったし、見るつもりもなかった。それ以前に、彼とは付き合うわけにはいかない理由がある——。

 数時間が過ぎ、フロアに残っている人もだいぶ少なくなってきた。
 ターニャはきりのいいところまで仕事を片付けると、大きく腕を上げて背筋を伸ばした。あくびを噛み殺しながら、帰り支度をして立ち上がり、残っている人たちに挨拶をして研究所をあとにする。
 外はもうすっかり暗くなっていた。
 濃紺の空に数多の星がきらきらと瞬いている。夜遅くまで仕事をした帰り道、新鮮な空気を吸い込みながら星空を眺めると、体も心も少しだけリフレッシュできる。ターニャはこのひとときが好きだった。
 だが、今日は、それを楽しむ余裕はなさそうである。
 もうすぐ深夜といってもいい時間のせいか、だいぶ冷え込んでおり、ブラウスに薄手のジャケットという格好では寒さが身に沁みるのだ。ここまで遅くなるとは思わず、コートを持ってこなかったのだが、ターニャはその判断を後悔していた。
 小さく身震いして足早に帰路につこうとした、そのとき——。
「随分と卑怯な手を使ってくれたな」
「レオナルド……っ!」
 木の陰からぬっと姿を現したレオナルドに驚き、ターニャは息を呑んで後ずさった。すぐさま彼はその間を詰めると、少し怒ったような顔で、逃げるように視線を逸らしたターニャをじっと見下ろす。
「二度も同じ手が通用すると思ったのか」
「…………そうよ」
 ターニャはぽつりと言葉を落とすと、キッと強い眼差しで顔を上げる。
「私はこういう愚かで卑怯で馬鹿な人間なの。あなたの思っているような人間じゃないの。落胆した? 軽蔑した? 嫌いになればいいじゃない。早く愛想つかしなさいよ!」
 感情のまま早口で捲し立てたが、レオナルドはまともに取り合うことなく、呆れたように小さく溜息をついた。
「おまえ、本当に意地っ張りだな」
「あなたこそどこまでしつこいのよ!」
「おまえが素直にならないからだ」
「素直に嫌だって言ってるでしょう?」
 いつもと同じ言い合いの繰り返し。どうしてわかってくれないのだろうと苛立ちが募る。それはレオナルドも同じなのかもしれない。一瞬、苦々しく顔をしかめたが、それでもすぐに平静を装うと、じっとターニャを見つめて落ち着いた口調で続ける。
「おまえのことだ。どうせユールベルのことを気にしているんだろう。だけどユールベルとはとっくに終わってる。おまえが遠慮することなんて何もない」
「お、終わってるからいいってもんじゃないわよ!」
 ターニャは必死に言い返した。
 レオナルドはうんざりしたように反論する。
「俺が振ったのならともかく、俺があいつに振られたんだぞ。おまけにあいつはあの先生と仲良くやってるんだろう? いったいどこに遠慮する要素があるんだよ」
「それでも、私はユールベルの友達だから……きっとあの子は傷ついちゃう……きっと裏切られたような気持ちになると思う。あなただってユールベルを傷つけたくはないでしょう?」
 それは今まで口にしなかった本音だった。ユールベルは自分を見捨てられることを何よりも怖れている。だから、今まで自分を好きだと言っていたレオナルドが、他の人、それも友人と付き合いだしたとなれば、理性ではともかく、感情的な面では見捨てられたと感じてしまうに違いない。
 しかし、それでもレオナルドは引かなかった。
「そんな納得できない理由で、好きな女を諦めるつもりはない」
 真剣にそう言うと、さらに間を詰める。ターニャはその距離の近さに驚き、後ずさりかけたが、レオナルドは手首を掴んでそれを引き留めた。
「俺が諦めるのは、本気でおまえに嫌われたときだけだ」
「嫌いよ!」
 ターニャはカッとして間髪入れずに叫んだ。その瞬間、急に目頭が熱くなり、彼の姿が大きくぼやけて見えた。そんな自分に混乱し、やけになって大声を張り上げる。
「あなたみたいなわからずや大っ嫌いなんだから!!」
「……俺には好きって言ってるように聞こえるけどな」
「はぁっ?!!」
 レオナルドはどこまでも自己中心的だった。だが、その声にはどことなく寂しさが漂っているように感じられた。少し冷静さを取り戻したターニャの胸に、理由のわからない罪悪感が広がる。
「いい加減に素直になれよ。無理をしていたら苦しいだろう。俺も……きつい」
 ふわり、と背中をあたたかいものが覆い、ターニャは驚いて顔を上げた。それはレオナルドのジャケットだった。彼が自分の着ていたものを掛けてくれたのである。彼の体温の残るそのジャケットに、ターニャの身体はすっぽりと包まれた。
「不格好だが、こんな時間だ、誰も見ないだろう」
「レオナルド……」
 ターニャは戸惑いながら目を泳がせる。心臓を鷲掴みにされたように苦しい。彼を拒絶するつもりなら借りるべきではないのかもしれない。だが、彼の厚意を踏みにじるようなことは言えなかった。肝心なときに強気になれない自分に歯痒さを感じた、そのとき——。
「もしも本当に俺のことが嫌いだったら、そのジャケットは返さずに焼き捨てろ」
「えっ……」
「おまえがそこまでするなら、俺もキッパリと諦めてやる」
 レオナルドは真剣な面持ちで言った。そして、軽く右手を上げながらくるりと背を向け、シャツ一枚という見るからに寒そうな格好のまま、片手をポケットに突っ込んで帰っていく。ターニャは何も声を掛けることができず、闇夜にほのかに浮かぶ白い背中をただ呆然と見送った。

 焼き捨てるなんて出来るわけないじゃない——。
 狭いアパートに帰ったターニャは、ハンガーに掛けたジャケットを見つめながら、膝を抱えて心の中で毒づいた。レオナルドの貸してくれたそのジャケットは、生地も仕立ても良く、明らかに高そうなものである。貧乏だった自分がそれを焼き捨てるには勇気がいる。
 彼の勝手な押しつけに腹が立って仕方がなかった。
 なのに、あのときの彼のことを思い出すと胸がキュッと締めつけられ、顔も熱くなる。その感情の正体に、ターニャ自身もうっすらと気づきかけていた。それでも、ユールベルのことを思うと、受け入れるわけにはいかない。しかし、彼の言い分ももっともであり、間違ってはいない。
 思考は堂々巡りして結論に辿り着けない。
 灯りを落とした暗い部屋の中で、抱えた膝に顔を埋める。答えを出さなければいけないことはわかっている。けれど、一晩中考えても、何一つ決断は下せなかった。

 翌日、レオナルドは姿を見せなかった。
 その翌日も、翌々日も、ターニャの周辺は平和すぎるくらいに平和だった。彼がしつこくつきまとう以前、つまり、ほんの数週間前までの生活である。これが自分が望んだ結果なのだ。にもかかわらず、心に大きな穴が空いたような寂しさを感じた。
 愛想つかされたのかな、私——。
 嘘をついて逃げようとしたうえ、嫌いだの大嫌いだの言ったのだ。愛想を尽かされるのも当然のことだろう。最後の去り際に見た、彼のつらそうな顔が脳裏によみがえり、胸がズクリと疼く。それでも、ユールベルのことを思えばこれで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせた。

「4日ぶりだな」
 ターニャが仕事を終えてアパートへ帰ってくると、レオナルドは門の横にもたれかかって待ち構えていた。組んでいた腕をほどき、軽く右手を上げて一歩前に出る。
 ターニャはビクリとして半歩下がると、訝しげに眉をひそめた。
「どうして私の住んでるところを知ってるのよ」
「おまえが教えてくれたんだぞ」
 レオナルドはポケットから取り出した小さな紙片を掲げる。それは、以前、ターニャが渡した名刺だった。裏には自宅の連絡先を書いた記憶がある。もう1年以上前のことであり、今の今まですっかり忘れていた。
「……諦めたんじゃなかったの?」
「俺の言ったことを忘れたのか? 本気で嫌われない限り、諦めるつもりはない」
 じゃあ、なんで……と言いかけて、ターニャはその言葉を呑み込む。しかし、表情には出ていたのだろう。レオナルドは少し視線を逸らし、柔らかい前髪を掻き上げながら、微かに頬を染めてぶっきらぼうに説明する。
「ずっと風邪をひいて寝込んでいたんだ。何度も抜け出して行こうとしたんだが、母親に引きずり戻されてベッドに縛りつけられてな」
「もしかして、その風邪って……」
 あの日の夜はかなり冷え込んでいた。そんなところでコートも着ずに何時間も待ったうえ、ターニャにジャケットを貸してシャツ一枚で帰ったのだ。風邪をひいても仕方のない状況である。
「ああ、俺が勝手にやったことだ。おまえが気にすることはない」
「気になんてしないわよ」
 誇らしげに胸を張るレオナルドに、ターニャは呆れたような眼差しを送る。
「どうしようもないバカだなって思っただけ。バカなのに風邪をひくなんて、本当に何の取り柄もないじゃない」
「おまえな……」
 反論のしようがなかったのか、レオナルドは低い声でそれだけ言うと、額を押さえて小さく溜息をついた。真新しいジャケットの腕に固く皺が走る。それを目にしたターニャは、あることを思い出し、しばらく思考を巡らせてから静かに切り出す。
「少しここで待っててくれる?」
「……ああ。だが、逃げるなよ」
「そんなつもりはないわ」
 訝しげに念を押したレオナルドに、ターニャは冷たく答えると、アパートの階段を小走りで駆け上がっていった。

「はい」
 アパートから出てきたターニャは、待たせていたレオナルドに、口の部分を折り返した紙袋をそっけなく手渡した。レオナルドは不思議そうな顔で受け取り、顔の位置まで持ち上げてじっと眺める。
「何だこれ? 俺へのプレゼントか?」
「あなたのジャケットの燃えかすよ」
「何っ?!」
 レオナルドは焦って紙袋の口をバッと開き、顔を突っ込まんばかりに中を覗き込んだ。
「燃えてない……よな?」
 そう言いながら折り畳まれたジャケットをそろりと取り出し、表を眺めたり裏返しにしたりして確認する。しかし、どこも燃えてなどいない。
 結局、ターニャは燃やすことができなかったのだ。
 渡すものだけ渡したあと、素知らぬ顔でこっそり帰ろうとしたターニャを、レオナルドは手首を掴んで引き留める。ニッ、と口の端が吊り上がった。
「ようやく俺を好きだと認めたな」
 ターニャはカッと顔を真っ赤にしてあたふたとする。
「べっ、弁償しろって言われたら困るから! だから燃やさなかっただけよ!!」
「この期に及んでまだそんな意地を張るのか。まあそんなところも可愛いけどな」
「年下のくせに、年上に向かって可愛いとか言わないでっ!」
 突然、レオナルドは真剣な表情になると、ターニャの両方の手首を掴んで壁に押しつけ、ぐいと顔を近づけた。鮮やかな青い瞳で、じっと心の奥底を見透かすように覗き込む。ターニャはますます自分が熱を帯びていくのを感じた。
「なっ、何よ……」
「おまえが好きだ」
 まっすぐな言葉と眼差しに、ターニャの心臓はドキンと跳ねた。目を見開いたまま動きが止まる。その一瞬の隙に、レオナルドは掠めるようにターニャの唇に口づけた。
 な、な、な……。
「何するのよっ! は、初めてだったのにっ!!」
 ターニャはあまりのことにパニックになり、ゆでだこのように耳まで真っ赤にして、わけもわからずぼろぼろと涙を流した。手首を掴まれたままで、頬を伝う涙を拭うこともできず、浅くしゃくり上げながら震える口を開く。
「い、いつか素敵な人とロマンチックにって、ずっとずっと夢見てたのに……!」
「それならいま叶っただろう」
「どこがよ、バカーーっ!!」
 しかし、レオナルドはその暴言を受け流してニヤリと笑う。
「そうか、初めてだったのか……これから楽しみだな」
「なっ……バカっ! 変態!! 最低っ!!!」
 そう喚き立てながら抵抗するターニャを、レオナルドはものともせずぎゅっと抱きしめた。ターニャは泣きながら彼の背中を叩いていたが、次第にその手は弱まっていく。やがて完全に動きを止めると、レオナルドの胸に顔を埋めて小さく鼻をすすった。
 本当にどうしようもないくらい最低……あなたも……私も——。
 レオナルドの背中にまわした手に、ターニャは戸惑いながらもそっと力をこめた。


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