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日記

  日よう日にぼくはおじいちゃんと、おともだちのゆかちゃんと、みづうみにいきました。みづうみへはおじいちゃんのトラックで行きました。ぼくとゆかちゃんはトラックの後ろにのりました。風がびゅうびゅうとなってジェットコースターみたいでした。とちゅうでゆかちゃんが気持ちわるいと言って、コンビニによりました。

 みづうみにつくとぼくはすぐに水ぎにきがえました。ゆかちゃんもきがえました。おじいちゃんは水ぎにはきがえずに、パンツだけのかっこうになって入りました。水はとても冷たかったけど、気持ちよかったです。

 深くてこわかったのでぼくが泳がないでいると、おじいちゃんがみづうみのまん中まで連れていってくれました。天気がよかったので、みづうみのそこまで見れました。とてもきれいに見れたので、およいでいるのではなくて空をとんでいるみたいでした。それでもぼくを支えているのはおじいちゃんの手だけなので、いつか水のそこに落ちるかもしれないとふるえていました。

 ぼくはおじいちゃんに、ぜったいにここにはかいじゅうがすんでいるよ、と言うとおじいちゃんも、そう、だからあまりここであばれちゃいけんよ、と言いました。

 ゆかちゃんが少しおぼれました。一回ぼくもおぼれそうになりました。おじいちゃんが手をはなしたのです。体が全部水の中に入りましたがあまりこわくありませんでした。水の中から見た外の景色はゆらゆらとゆれてやっぱりきれいでした。

 ゆかちゃんは水がつめたいと言ってまた気持ちわるくなっていました。

 本当にとてもとてもきれいなところでした。たぶん大きくなってもこのみづうみのきれいさは、どんなことばを使っても言うことはできないと思いました。

だからぼくはビデオで見たことのある「せかいいさん」にこの風景を送ろうと思いました。きっとこのみづうみは「せかいいさんに」なると思います。

 

 

 

 その夢は決まって、親戚一同の歓声にも似た笑い声で始まる。まだ僕が小学生の頃だ。

なぜそんな状況になったのかは覚えていない。ただその頃はとにかく近しい者たちで集まり鍋を囲めば、どんなにつまらなく些細なことでも賑やかになるようなことが自然に飛び出してきていたような気がする。

 祖父の登場は衝撃的だ。顔は真っ赤で、身体はふらつく完全な酔っ払いだ。皆の表情は少々引きつっている。それぞれが見てはいけないものを見てしまったような苦々しい顔つきだ。なぜか祖父はドアから顔しか出さずに、にやついている。

記憶の中の祖父は、大半が酔っているものだった。だから祖父のイメージは「酔ってみんなを困らせる」という後ろ向きなものが常に先行する。もちろん素面のときは、世の中の全てのつらいことを笑い飛ばすような快活な祖父なのだが、どうしても酔っ払ったときの印象のほうがそれを遥かに凌駕してしまうのだ。

 祖父はそれぞれの胸中に抱えた思いなどは当然意に介してないような様子で、転がるとポンポンと跳ねそうな大声を張り上げる。

「沖海志朗、ただいま『やまさん』より帰還しました!」

 やまさん、は近くにある居酒屋である。口調は軍隊みたいな固いものだが、いかんせんこちらからは顔だけしか見えないので、かっこがつかない。

 今でこそ、「アル中寸前の元気なおじいちゃん」という散々なイメージが僕の中で定着してしまっている祖父だが、幼い頃のイメージは全く違っていた。そのときの世の中では祖父が一番おもしろい「大人」だった。

 見えない網でがんじがらめになって、とても動きにくそう。それが子供の僕が抱いた大人へのイメージだった。当時の僕が見ていた大人なんて、ひどく一面的なんだろうけど、親戚同士で集まったとき際には意味も無く互いを褒めあい、くだらない話題で大笑いし、無駄に時を過ごしているように感じたのだ。

 その点祖父は気に入らないことがあるとすぐに殴り合いのけんかになったし、酔ったときの行動は常軌を逸していた。小学生の僕は祖父に、一種の可能性を感じていた。今度は一体どんなおもしろいことをしてくれるのだろう。自由を奪う網なんてこれっぽっちも見えなかった。

 この夢でもそうだ。いきなり開け放たれたドア、祖父の隣にはバス停があった。いや、この場合は、居た、と説明するほうがしっくりくる。僕から見たそのバス停は、とても恥ずかしそうにしているように見えたからだ。実際、全体的に赤らんでいたかもしれない。

「よーし! これからは家にもバスが停まるようになるけん、便利になっばい!」

 耳をつんざくような声に、窓がビリビリと音を立てた、気がした。


メール

  

 携帯の着信音で目が覚めた。無意識に時計を見る。八時を少し回ったところだった。こんな早い時間帯に、と毒づきながらも携帯を手に取る。ディスプレイには「沖海理恵子」と表示されていた。

「はやいよ」

「もしもし? なんね? 何が早かと」

「まだ八時じゃん」

「なんば言いよっとね、お母さんなんて毎日六時には起きてから――」

 寝起きに母の金切り声はきつい。

「分かった。分かりました。ごめんなさい。で、用件は」

「今年は夏休み帰ってくるやろ?」

「ああ、うん」

 去年は東京の生活に慣れることに精一杯で、一回も帰っていなかった。特に帰る必要性は感じていなかったのだが、口から反対の言葉が出る。寝起きに帰る帰らないのようなことで言い合いをしたくない。

「そういえばこの前、あんたが昔描いた作文ば見つけたよ」

「作文?」

「ほら『みずうみ』のすをつに間違って書いてたやつ」

「ああ」と言って僕は寝起きの頭を回転させる。その記憶はすぐに呼び起こされた。クラスの皆の前で教師に指摘され、大恥をかいたことは未だに苦々しい思い出だ。「いいよ、今更そんなもの。捨てなよ」

「よかやんね。お母さん懐かしか」

「用件はそれだけ? もう切るよ」

「うん分かった。じゃあ気をつけて帰ってきんしゃいよ。バイチャ」

「おい、ねえ、バイチャって」

 会話は母の奇怪な言葉で終了した。用事はそれだけだったのだろうか。一抹の不安を覚えながらも再び横になる。

 眠れずにすぐ起き上がり、僕は寝起きの心地よい倦怠感を持てあましながら、虚空を見すえた。

 

 焼肉定食

  

 教授の平坦な声は、順調に多くの学生を眠りの世界に誘っているようだった。僕も例に漏れず、あくびをかみ殺すことに苦労していた。

 何とはなしに、今朝見た夢のことを考えてみる。祖父とは年齢を重ねるごとに、会話をしなくなった。盆や正月に訪れても挨拶を交わすぐらいだ。何であんな夢を見てしまったのだろう。

 盆に再び訪れることを思って、気持ちが暗くなっていることに気づいた。どんな話題を持ち出しても、長く続きそうにない。期待できること言えばこづかいをくれることだ、などと想像をしている自分に再び失望する。

 ようやく昼食の時間になり、まず僕は学生食堂に足を向けた。定刻よりも早く講義が終わったせいか、人はまばらだった。ラッキーだ。僕は指をパチンと小気味よく鳴らし足取りも軽く、食券を買い求める。

 準備は整った。食べる前に手を合わせ、お肉の柔らかい食感を楽しもうか、いやまずは味噌汁からだ、と無駄な葛藤をしてみる。

 まずはお肉に箸を伸ばした。甘辛いタレが、こちらの食欲をさらに刺激してくる。ご飯を口に入れながら思う。近くのちょっとお洒落でリッチな洋食屋に行ってるやつ、学食なめんな。

 僕はゆっくりと食を進めた。ご飯は一粒も残さない。祖父との約束だ。


帰省

 

 アパートから各駅停車、新幹線、特急を乗り継いで六時間をかけ僕は実家へと向かう。飛行機は絶対に使わないと心に決めていた。少々古風な考えかもしれないが、何であんな図体のでかい代物が空を飛ぶのかが理解できないからである。

 改札を抜けると、そこには両親の姿があった。別れてまだ半年も経っていないというのに、二人ともどことなく老けたように見える。

「おーい、聡」

 父が両手をちぎれんばかりに振っている。恥ずかしい。父の明るさの十分の一でも僕に遺伝していればと思う。

 挨拶もそこそこに、駐車場へと向かう。駅を出るとすぐに熱気が押し寄せてきた。東京よりもいくぶん暑さの度合いが大きいように感じるが、緑が多いせいだろうか、こちらのほうがまだ我慢できる。

 父の愛車カローラに乗り込み、自宅へと向かうなか、矢継ぎばやに質問してくる両親に適当に返事をする。

 窓の外には、オレンジ色に染まった田園風景が広がっていた。すでに五時を回っているが、まだまだ陽は落ちそうにない。

「どこかに寄ってくね」父が訊いてくる。

「いい」

「方言、出んごとなったね」

「標準語になじんだから。てか暑いね。もう少しクーラーきかせてくんない」

 父は空調のつまみを操作するついでにラジオをつけた。訪れたことはないが、ハワイのビーチを想像してしまうような、アップテンポで陽気な音楽が流れてくる。

「じゃあ、まっすぐ家に帰るけんね」

 

 家に到着し、僕はまず入り口で立ち尽くすことになった。記憶が確かならば、引き戸のはずなのだが、戸をまさに「引く」ところにはなぜかドアノブが付けられている。

「何これ」

「びっくりしたやろ」父が、どうだという誇らしげな表情をして近づいてくる。「開けてみんしゃい」

 言われた通りに、ドアノブを捻ってみるがびくともしない。まさかと思って、右方向にそのままスライドさせると、今度はすっと開いた。何の意味があるのだ。

「何これ」

「ははは。おもしろかやろ。ドアノブと見せかけて、実はただの取っ手なのだー」

 もう、呆れるしかない。父の隣では母も同じように笑っている。こっちは長旅で疲れているというのに。

 両親はあるときから通販で様々な買い物を始めた。それが実用的なものならばまだしも、用途が知れない変てこなものばかり購入するのだ。実質的に被害を受けるのは僕だけである。

 奇行とも言うべきその趣味は両親に絶大な効果をもたらした。以前と比べものにならないぐらいに仲が良くなったのだ。いや、もうラブラブと言ってもいいほどに。

 玄関から上がろうとすると再びそこには、理解に苦しむ代物が綺麗に三つ揃えて置いてある。ビーチバレーで用いるようなゴム製のボールの上に、スリッパがくっついている。今度は何だろう。頭痛がしてきた。

「これは」

「気づいた? これはねえスリッパに平衡感覚を養える機能を追加した、その名も『月面歩行』て言うとよ」次は母が嬉々として、説明してくれる。「家の中で、宇宙にいるような浮遊感を味わうことができると」

 父と母は器用にそのスリッパを履き、リビングに消えた。一応僕も履いてみるが、すぐにバランスを崩し、尻もちをついてしまう。脱げたスリッパのボールがポンポンと飛び跳ね、笑っているようだった。


調査

 

 夕食はカレーだった。何もやっていない僕が言うのも失礼だが、母は料理は上手いほうではないと思う。特に食材にこだわるというわけでもなく、作るものは大半はレトルトで、あるときは一週間レンジでチンするだけのカツ丼というときもあった。

 カレーは母の数少ない料理のレパートリーの中でも、一番の得意料理だろう。当然辛さは父と僕の希望するものになっているし、具の大きさ、ルーのなめらかさも丁度よい。

 カレーを三人で食べて僕は初めて、帰ってきたのだなと実感した。しばらくはスプーンに食器が当たったり、食べものを咀嚼するときの音が部屋を満たした。

「ママ、がばいおいしかよ。おいしくてほっぺどころか、脳みそも溶けちゃうかもしれん」

「まあ、ありがとう。でも溶けちゃ嫌よ。ずっと元気なパパでおって」

 両親は仲がいい。いや深く愛し合っている。僕が中学に進学するまではほぼ毎日ケンカが絶えなかったのだが、僕が中学に進学してからはこのように子供の前でも平気でいちゃついたりする。

 なぜそうなったのか理由は定かではないが、熟年夫婦の離婚が増加する現代では微笑ましい夫婦の在り方なのではないかと僕は思うようにしている。

「じゃあママ、アーンして」

「んもう、聡がおるやんね。恥ずかしか」

「よかやんね、はい」 

 あーんと父が間延びした甘い声を出し、母にカレーを食べさせる。少しいたたまれなくなった僕は、早々に食事を終え、風呂に入ることにした。

「ああ聡、風呂上がったら話があるけん」

「話」

「まあそんときに説明すっけん、はよう入ってきんしゃい」

 何事かと訝しみながらも、僕は準備をして風呂場に向かう。背中から母の、お父さんアーンして、という声が追いかけてきた。

 

「おじいちゃんがね、浮気しとるみたいなのよ」   

 母のその言葉に僕は思わず、ガリガリ君を床に落としてしまった。清涼感溢れるソーダ味の薄い青に染まった氷が、見る間に水分に変わっていく。

「まさか」慌ててティッシュで拭き取りながら、訊き返す。酒に酔っ払うとどうしようもなくなる人だが、今の年齢になってそんなことはしないはずだ。

「おじいちゃん、この前引退したやろ? それで時間ができたとは分かるばってん、毎日のようにどこかに出かけとるみたいやっとよ」

 祖父は今まで大工をしていたのだが、ついに体力の限界を感じたのか、隠居生活に入ったのだった。

「確かにそれは怪しいけど、だからといって浮気っていうのは」

「女性の写真ば、持っとんしゃったとよ」母はこちらに目尻に皺が増えた顔を寄せ、声をひそめて言う。

「写真?」

「うん。おばあちゃんがどうしても気になって調べたみたら、財布の中に。そいでね、その写真ば、じっと見つめとったって」

 どういうことなのだろう。今まで僕は、酒を呑んだことでことで起こった事件には数多く遭遇してきたのだが。

「今まで、そういうことはあったの?」

「なかよ。もう結婚して何十年もたつばってん、そういうことは一切。だからおばあちゃんも困っとるやんね」

「そりゃあ、俺も心配だけど、どうしようもないでしょ」

 すると父と母が目配せをして、いきなり正座になった。

「何だよ」

 たじろぐ僕にまず父が口を開いた。「聡、ちょっと調査してくれんね」

「ばあちゃんが、どうしても真相が知りたかて言いよんしゃっとよ。お願い」と母。

「は? 調査?」

「ちゃんと報酬は支払うけん」

 そんな急に無理な要請をされてもどうしようもない。「嫌だよ。そもそも、俺は夏休みだからこっちに帰ってきたんだよ? 何でそんなことさせられなくちゃ」

「へえ、そんなこと言うてよかと」さっきまでの、懇願するような目の色が二人から失われた。今は僕を睨んでいる。「別によかとよ、調査せんでも。その代わり夏休み以降の仕送り無しね」

「へ?」仕送りを止められると、相当生活を切りつめないといけなくなる。「そんなの卑怯だ」

 僕の抵抗は、負け犬の悲しい遠吠えにしかすぎなかった。

「はっはっはー! 悔しかったら、自分一人で生きてみんしゃい!」

「……ます」

「んー、聞こえんやったなあ」父が大げさな身振りで耳に手を当てる。「もう一度」

「やります!」

 両親の笑い声は、まだカレーの匂いがほのかに漂う部屋に響き続けた。

 

 秘密基地

 

 一夜明け朝食をとったあと、とくにやることもなかったので僕は散歩に出かけることにした。自動車が通るための道路以外は、田んぼしかない。

 日差しは容赦なく照りつけているが、まだ膝丈ぐらいにしか伸びていない稲を風が通り抜けるときの、ざー、という音が多少は気を紛らわせてくれる。

 道路を避け、草が好き勝手に生えている農道をぶらぶら歩いていると、もう景色に飽きてしまっている自分に気づく。

鉄橋の下に行きついた。この先は幅五十メートルほどの川が流れていて、土手を上がると空のように青いペンキで塗られた鉄橋を間近で見ることができる。

 思わず顔がほころぶ。日陰でひんやりと冷たい空気や植物の湿った匂い。その全てが記憶の箱を刺激してくる。

 昔友だちとここに秘密基地を作ったことを思い出した。もちろん何かの施設を建てたというわけではなくて、ござを敷くだけのお粗末なものだったのだが。

 けれど、当時の僕はそこが憩いの場所だった。仲間以外は誰も知らない場所でくつろぐことは、何とも言えない優越感を与えてくれた。

 皆でござに寝転がり、電車が過ぎ去っていく様を眺めていた。ときには鉄橋を登り線路から顔を出すこともしていた。危険なことをしていたものだ。

 それにしても、面倒くさいことを押し付けられてしまった。

 何もなかったら、それでよかやんね。ばあちゃんも安心できるやろうし。とにかく真相ば知りたかとよ。

 母はそう言うが実際に調査をやる者のことも考えてほしい。これではそこら辺の興信所と大差ないではないか。

 突然目の前が暗くなった。一瞬の浮遊感ののち、僕は尻からそこに着地する。

 どうやら落とし穴のようだった。葉っぱが敷き詰められているが、尾てい骨を打ってしまって、痛い。

「動くな」

 突然声をかけられた。上を仰ぎ見るとそこには二人の子供がいた。兄妹なのだろう。おもちゃの弓矢を持っている男の子の背中に隠れるようにして、女の子が怯えた目つきでこちらをうかがっている。

「基地を壊しにきたとやろ」

「違う。それより、早くあげてくれ」その穴の大きさは幅で両手を広げたぐらいで、長さは僕の背丈の二倍はあろうかという大作だった。よじ登ろうとすると、矢が飛んできて、見事に僕の額に命中する。ゴムの吸盤が先についているものだ。

「動かんでって!」

 男の子の声は恐怖のせいか上擦っていた。

「昔は俺と友達の基地だったんだ」

「嘘だ。ここはずーっとおいたちの基地やもん」

「嘘じゃない。そこら辺に野いちごなってるだろ? いつも食べてた」

 男の子の目から若干、怒気が抜けたようだった。「ほんと?」

「甘そうに見えて、すごく酸っぱいんだよな」

 尻の骨は相変わらず悲鳴をあげているが、嬉しさがこみ上げてきた。ここは何年たっても、子供の心をつかんで離さない。

 携帯が震えた。母からのメールだ。

『おじいちゃん出かけるみたい。至急戻れ』

「おいロビンフッド、緊急要請だ。行かなきゃいけないから早く助けてくれ」

 少しばかりすると縄ばしごが投げ入れられた。僕はそれを使って脱出する。

「お兄ちゃん、誰? ロビンフッドって何?」

「俺はにわか探偵だよ。ロビンフッド知らないのか。小説読んだこと……まあいいや、それじゃ」

 二人に声をかけ土手を降りる。彼らは急にボールを投げられ、そのまま走り去られた者のように、戸惑った表情で僕を眺めていた。


ワゴン         

 

 家に戻ると、見慣れぬ車が一台停まっていた。白い軽のワゴンでボディには英語の筆記体を模したような字が描かれてある大きなステッカーが、そこかしこに貼られてある。派手な車だ。

 怪しみながらも家に入ると、母の金属を擦り合わせたような高い声が迎えてくれた。

「どこ行っとったとね。いつ連絡きてもよかごと、近くにおんしゃいって言ったろうが」

「いや、ちょっと落とし穴に」

「なーにが、落とし穴ね。そがん冗談おもしろうなか」

 僕は恐らく青あざができているであろう尻を見せようとしたが、やめた。情けなさすぎる。

「とにかく、はよう出動しんしゃい。ずっと待っとったとよ」母が手でリビングのほうを指し示す。

 ドアから顔を出しているのは、全く知らない女性だった。金髪で化粧も派手だ。このような人種の友人はいないはずだが。

「あの、どなたですか」

「何? 覚えとらんと」

 金髪女が大きな足音を立てて僕に近づいてくる。きつい香水の匂いと、キャミソールにデニム生地の短いスカートという露出しか意識していない服装も相まって、僕はさらに辟易した。

「あんたいつも遊んどったろうが」

 母は平然としている。この姿に驚かないのだろうか。

「聡さいてー」

 何でこんな女に侮辱されなければいけないのだ、と鼻息も荒くしていると腕にコースターほどの小さな染みがあることに気がついた。

「……あ、もしかして由夏」

「ぴんぽーん! てか遅いよ」

「腕見たら分かったよ。ミッキー」

「そう、案外役に立つとね」

 由夏の腕の染みはミッキーマウスのような形をしているのだ。それにしても、何だこの変わりようは。会えたことは嬉しいが、単に思い立ったというだけの理由で来ることは難しいはずだった。

「ほら、聡」母が急かす。

「由夏、行こう。それじゃああの車も」

「わたしの。かっこよかやろ?」

「ああ……まあ」

 慌しく家を出ようとするとする僕に、母が陽気な声をかける。

「行ってらっしゃーい。おいしかご飯作って待っとうけんね」

「行ってきます」

 母を軽くにらみつけながら、僕は夏の光に対抗するかのように派手に輝く車に乗り込んだ。

 

 由夏

 

「ほんっと、久しぶりね」

「うん」

 車内には外人が早口で喋るように歌う、がちゃがちゃした音楽が流れている。言葉は英語だということは判別できるが、意味は分からない。シートは羽毛のようにふさふさしていて、ハンドルも皮張りででかい。ルームミラーには「LOVE」という形に加工されたごついネックレスがかけられ、左右に揺れている。視界が悪くならないのだろうか。

「そがん珍しか?」

 乗ってからきょろきょろとしている僕が面白かったのだろう。由夏は笑っている。

「いや、そういうわけじゃないけど」

「いつ振りやっけ?」

 ちらりと由夏の表情をうかがう。少し笑みすら浮かべて前方を見ている。あのことはもう整理がついたのだろうか。

「由夏は私立の中学校に行ったから、小学校を卒業して以来だな」

「わお。そんなになると」

「お前変わりすぎ」

「そう? わたしはそういうことは無いと思うんやけど。聡は変わらなすぎやん」

 慣れた手つきで由夏は田舎道を走行する。懐かしい景色が窓の外を流れていく。

 由夏とは小学校を卒業するまで、毎日のように遊んでいた。家が近くて親も知り合いだったので、すぐに仲良くなり、母の実家へもよく一緒に行っていた。彼女の父親は教育家で中学校は県でも有数の私立を受験し、そこに進学して以来会っていなかった。母からは由夏の家族が引越しを繰り返しているらしいということや、成績が優秀などの情報だけは聞いてはいたのだが。

「こっちに戻ってきてたのか」

「うん。大学が近くやったけん」

「へえ。何ていう大学」

「多分聡知らないと思う。偏差値めっちゃ低かもん」

「もったいないな。せっかく私立行ったのに」

「もう、勉強は飽きたけん」

「お母さんも一緒に?」

「ううん。わたし今彼氏と住んどるっちゃんね」

 それまでの口調が歯切れの悪いものになる。かゆくもないだろうに鼻をかいている。明らかに恥ずかしがっている。

 あらためて僕は由夏の変化に驚いていた。当時は暗くはなかったが、決して人よりも前に出るという性格ではなかった。どちらかといえば、いつも僕の後ろについているような少し臆病な子供だったのだ。

 いや、と僕は思い直した。それほど時が経ったということなのだろう。十年も昔のことを基準にして考えること自体がおかしな話だ。

「何か変な想像ばしよるやろー」

 運転中にもかかわらず、由夏が探るような目つきで僕の顔をのぞきこんでくる。

「考えてないよ。それより運転に集中しろよ事故るぞ」目をそらすと、由夏の足に目がいった。太腿に拳大の青痣ができていたからだ。

「それ」

「ん?」僕の指差したほうをちらりと見て、何かを思い出したように由夏はからからと乾いた笑い声を発した。「こけたとよ」

 足元を見てみると、軽く十センチは超えているであろう赤色のヒールが転がっている。よくこれで歩けるものだと感心しながらも苦笑する。

「さぞ盛大に転んだと見える」

「突然ぐきってなってね。車が入れんようにポールあるやん? それにちょうどぶつかった」

 僕と由夏は一緒に笑った。そのあとふいに由夏はさっきまでの笑みをひっこめ、どこかつまらなそうに言った。

「別に何もなかよ。親とも仲よか」最後に無表情で、ぼそっと付け加える。「人は変わるとよ」

「まあな」

 そろそろ目的地の駅が見えてくる頃だ。祖父はいつもそこからどこかへ出かけているらしい。僕と由夏は話題はいくらでもあるだろうに、なぜか話そうという気にはならなかった。

「あーもう! 気まずくなったやん。聡、今度のもう」突然ハンドルを叩いて、由夏が嘆く。「あとこれからこの件で手伝うことになるけん、連絡先教えて」

 慌しくアドレスを交換し、駅の近くで降りる。僕はじりじりと焼けるようなアスファルトを歩き出した。

泣き声

 

 どうやら間に合ったらしい。駅に着くとほぼ同時に祖父は現れた。僕は近くの物陰に身を隠す。

 祖父の服装は灰色のスーツにワイシャツという出で立ちだった。普段はステテコにゆるゆるのシャツを着ている姿しか見たことがないので、新鮮だ。

祖父は若い頃はハンサムだったのだと母が言っていたことを思い出した。そのときはいまいちピンとこなかったのだが、あらためて見てみると背の高さや大工仕事で得た体格は、祖父を年寄りと呼ぶには失礼なほどの精悍さを醸し出している。

 辺りに甲高いブレーキ音が響かせ、電車が到着した。祖父が乗り込む。僕も続こうとしたが、小さな駅で人の数が少ないため、すんでのところで踏みとどまった。

 祖父が三両編成の一両目に乗車したことを確認し、発車する直前に何とか電車に乗ることができた。あとは祖父がどこの駅で降りるのか注意しなければならない。

 少しの間外にいただけなのに、大量の汗でもう肌に衣服が張り付いている。腕時計で時刻を確認すると正午を回ったところだった。短時間で気温が急激に上昇したようだ。空腹と喉の渇きを感じつつ、僕は何とはなしに車内を見回す。

 お年寄りや学生らしき若者や子供づれの女性が、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。隣の車両に祖父がいることを確認し、僕は見えない位置に移動する。

 ほとんど差はないだろうが、田舎の電車のほうがゆっくりと移動している気がする。心地よいほどの揺れに身を委ねながら、僕はあの湖のことを思い出していた。普段生活をしているときでさえ浮かんでくるのだから、祖父の顔を見ると条件反射のように映像が流れてくる。

 

 

 

「どこ行くとー?」

「よかとこに連れていってやるやんね」

「どこどこー?」

「よかけん、聡も由夏もはよう乗りんしゃい」

 トラックのドアを閉める音。ばたん。僕はあの音が怖くて仕方なかった。なんでそんなに強く閉める必要があるのか、内心で首をひねっていた。

 僕の心の中にある映写機はたまにその湖とそれに付随した風景を映し出す。それはご飯を食べているときだったり、大学においての講義中だったり、テレビを見ているときなど容赦ない。

 その記憶が再生されるたび、僕の身体は一陣の風が通り抜けたように爽やかに、だけど思い出すにはあまりにも古すぎて楽しすぎて、皮膚という皮膚がむずがゆくもなる。

 正確な場所はもう思い出すこともできない。いや、その日に戻れたとしても道は分からなかっただろう。

 祖父のトラックの荷台に乗って、ひたすら遠ざかっていく見慣れた風景に不安を覚え新しい街に期待を抱き、僕は落ちないように端のほうに身を寄せ興奮していた。

「ねえ」

「ん」

「具合悪かと?」

「大丈夫」

 由夏は祖父にどこか連れていってもらうたびに乗り物酔いになっていた。僕がからかって、乗ってくんな、と言っても由夏は家で待っていることを頑として拒んだ。

 気分が悪いときはなるべく遠くを見たほうがいいと祖父が助言をしてくれたので、僕らはトラックに乗ると、雲の形が何に見えるか言い合うという決まった遊びがあった。

「あれは……ちくわだ。そう見えん?」

「うん」

「あの雲とその上にある雲でボウシをかぶった人に見える」

「うん」

「由夏も何か言えさ」

 そう催促するとしばしの間雲に目を向ける。由夏はまるで骨董品の真贋を見定めるように真剣だった。

「あのスーパーの看板の上にある雲、ドルーリーオオアゲハみたい」

「ど、ドルー……? 何ねそれ」

「ドルーリーオオアゲハ。アゲハチョウ族の。左右の羽が斜め上にそれぞれ広がっている感じが似とる」

 由夏はたまにやけに詳しいことを言う子供だった。

 遊びに飽きて、ぼーっとしていると由夏がぼそっと独り言のように言った。

「気持ち悪い」

「え」

「はく」

「いかん。わああ、じいちゃんじいちゃん!」

 荷台の端から道路にもどそうとする由夏をはがいじめにして、トラックをコンビニに停めてもらう。僕は荷台に乗ったまま帰りを待つ。目の前に広がっている田園風景は見慣れたものだが、あきらかに空気というか雰囲気はよそよそしい感じがした。

 すっきりしたのだろう。由夏は案外元気そうな足取りで戻ってきた。祖父が緩やかに笑う。

「気持ち悪うなりそうなときは、遠くば見んしゃい」

「見てたよ?」

「もーっと遠くばさ。空を飛ばんと見えんようなところを見れば、車に乗っとらん気さえするけん」

「そがん遠くは見えんよ」

 祖父はそれ以上は喋らず、運転席に戻った。さっそく僕と由夏は空に目をこらしてみたが、やはり雲しか見えなかった。

 

 目的地に着くと僕と由夏は荷台を飛び降り、祖父の制止も聞かずに駆け出した。そこは森の入り口で、人が通れるようにならされた小道を抜けると突然視界が開けて、木に囲まれた海が現れた。そのときの僕には湖という存在を知らなかったので、海にしか見えなかったのだ。

 僕たちは言葉にならない叫び声を上げると。猛スピードで水着に着替え水に入ろうとした。

「危なかよ」

 直前に祖父に注意されたところで僕らはすんでのところで立ち止まり、しょうがないので中をのぞきこむことにした。確かに浅いのは歩いて二、三歩の距離でそれから先は底が確認できないほど深くなっているようだった。

 由夏は早々に怖気づき、砂遊びを始めた。僕と祖父は準備体操をしてまず水を浴びることから始めた。肌が縮こまって身体が小さくなるかと思うほど水温は低く、驚いた。それでも僕はそろそろと湖へ歩を進めた。

 まるで柔らかい氷の中に侵入するように身体は異常な温度に飛び跳ね、液体と一つになっていった。あらためて目をこらしても底が見えなかったので躊躇しているとふいに身体が軽くなった。祖父が両手で僕を支えてくれたのだ。

 足がつかないという感覚がおもしろかった。

「飛びよるみたい」

「うん。聡、こうしたら飛ぶことができるとよ。下見えるやろ」

 視線を落とすと何とかおぼろげに水底を確認することができた。深すぎて距離がどれくらいあるかなど見当がつかなかった。

「いろんなことが空を飛んでいるように見えたらよかとけな」祖父が誰にともなくつぶやいた。

 突然ばしゃばしゃと音がした。見やると、由夏が手足をばたつかせて溺れている。

 急いで祖父が助けに行く。そのせいで僕は底なしに近い底を持つ湖に投げ出されてしまった。

 不思議と恐怖はなかった。口から発せられた空気のあぶくが上がっていく。祖父が泳いでいたが無音だった。そこは全てが淡い青色に支配されていて、存在するのは僕たちだけのように思えた。

 由夏の行方を心配しながらも、僕はつかめそうな一筋の光を届ける太陽に手を伸ばしてみた。

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