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 すきなおとこのひとに朝抱かれるのは、悲しい。
 それが最初だったりすると、もっと悲しい。
 それが最後だったりしたら、もっと悲しい。
 それが最初で最後だったら、それが最初で最後のいちどだったから。
 私は今、とても悲しい。

「帰れよ」
 もう朝なんだから、と共生ともおが言った。どうしてそんなひどい言葉を言えるのかが、私には分からなかった。
 夜は終わってしまったのだ。曙、とひとはこの時間をいうらしい。
 一緒にいながら体を繋げなかったおとこのひととおんなのひとの曙は、ひどくまぬけだと私は思う。
 共生は目の落ち窪んだ、疲れた顔を晒していた。私はあくびを通り越し、いきぐるしさを感じていた。
 夜の間、共生と私は一度も眠りに落ちなかった。
 寝れば私が襲うのを知っていて、居眠りもできなかった共生である。
 帰らないわよ、と私は言った。
「共生が抱いてくれるまで、帰らない」
 ソファに座っていた共生は、もう何度目か分からない大袈裟な溜息をついた。そうして両手で顔を覆った。
「勘弁してくれよ。もう朝なんだよ。今日水曜なんだぜ。週のど真ん中に、完徹で会社行けっていうのかよ」
 共生の声は掠れていた。その掠れ方まで愛おしかった。少し伸びすぎた爪とか、掻き毟ってぼさぼさになった髪とか、皺になったシャツとかよく洗えていない靴下の先とか。そういうものを見る度になんでこんなおとこのひとを好きなんだろうかと思ったのに、私はどうしても共生にしか抱かれたいと思わなかった。
 私は共生に抱かれたい。
 いや、違うな、と私は思った。
 私は共生を抱きたいのだ。
 抱いて抱いてこのおとこのひとをめちゃくちゃにしてしまいたい。私のなかにいれて、他のことなんか何も考えられなくしてやりたい。
 例えばそれは今日の会議のことだったりとか、ガソリンの高騰だったりとか、ロトシックスの結果だったりとかパソコンの不具合だったりとか。そういう諸々のことを、私のなかで粉々にしてやりたい、と私は思う。
 共生、と私が呼ぶと、共生はびくりと肩を揺らした。顔から手を外して私を見上げた共生の目は、何だか子鹿のようだった。臆病なひとだと思った。臆病で、とても優しくて、どうしても私を突き放せない共生の、その優柔不断さに私はつけこもうとしている。
「私、知ってるのよ」
 何を、と共生は唇だけで言った。
「おとこのひとは、かくせないからかわいそう」
 共生は身を折るようにして、もう一度頭を抱えた。おとこのひとの業だなあ、と私は思う。
「本当に、頼むから、勘弁してくれ。俺は、こんな、本当に、許されない」
 共生は少し泣いているようだった。乾いていたはずの声が湿っていた。でも、どんなに泣かれても私は共生を離してあげられないのだわ、と私は思った。
 だって私は知っていた。本当は本当は共生だって私を抱きたくて仕方ないのだ。でもこの臆病なひとはここまできながら一生懸命無駄な我慢をしていたりする。私が導いてあげなければ、一体誰が共生の願いを叶えてあげられるというのだろう。
 私は共生の前に立った。ふくをぬいでしまってもよかったのだけれど、共生にぬがせてあげようと私は思った。私はゆっくりと共生の肩を掴み、その背をソファに押しつけた。そうして共生の上に乗った。共生は目を見開いていた。すこしもうごけないようだった。無意識のうちにうごいていたのは、おとこのひとの業だけだった。
 私は共生の頬を掴んで上を向かせた。共生の唇がすこし青く震えていた。やめろとかなんとかいおうとしてか、共生は口をあわあわとさせた。それでも私が乗っているせいで、共生は抗うことができなかった。共生が本気で抗えば、私の骨のひとつやふたつ、ぽきぽきとお菓子のように折れてしまう。私はそれを知っていて、共生が立ち上がれないように、こうして共生の上に不安定に乗っている。本当は、共生の上に重くのしかかっているのは、今に始まったことではないのだけれど。
 共生の唇は、かさかさとしていた。それが痛くて、私は舌でそれを舐めた。べつにあまくもなんともない。どうしてこれが欲しいのだろう。どうしてこれでなくてはだめなのだろう。私はもういちど共生の口をすっかり塞いだ。私はすこし目を開けた。もしもここで
共生が薄目でも開けていようものならば、私はついうっかりといったように共生を殺してやるつもりだった。
 共生は閉じた瞼の隙間から、つぶのような涙を落とした。こころぐるしかったのだろう。共生の舌は、しつけが悪かった。ごしゅじんさまのいいつけとは反対に、私を追って、やまなかった。
「わたしにはいって」
 唇を離して、私は言った。
 共生は一瞬こうちょくして、それから顔をくしゃくしゃにゆがめた。
 私のからだを抱き寄せた、共生の腕が震えていた。ちくしょう、とか、くそ、とか言いながら、私の胸に顔を強く押しつけた。
 だいたいおんなのひとの方がどうしたってけいさんだかいのだ、とこころひそかに私は思う。
 私は朝を待っていた。おとこのひとはすがたがみえるほうがこうふんするとがっこうのきょうかしょでならいました。
 共生の抱いた、背骨がきしきしとした。共生の涙で、私のシャツがしとしととした。窓に映った共生の後姿は、とぼとぼとしていた。きしきし。しとしと。とぼとぼ。この時私がしりとりをしていたなんて、共生は知るまい。
 共生はもう唇を重ねたいんだか服を脱がせたいんだか抱きしめたいんだか分からないような体のうごきをした。それでも共生が私の背や腕のうちがわや腰に素手で触れた時、そのあたたかさに私は思わずしゃくりあげていた。
 せんせいが教えてくれた。
 ここ、ね。ここが痛いですっていうでしょう。でもおいしゃさんがここですかって触れて訊いたら、あなたはそこですって答えるでしょう。自分の身体だけれども、相手が触れた瞬間だけは、相手の方にもっと近くなっちゃうんだよねえ。
 共生にもっと触ってほしかった。全部全部、共生のものにしてほしかった。
 共生が私の胸に触れた。届くのなら心臓にまで、そっと触れてほしかった。
 あたたかい手。
 あたたかいひと。
 こんなあたたかいひと、ほかにしらない。
 私は共生に触れた。それはもっとあたたかかった。かわいそうにね、嘘つけなかったのよね、我慢できなかったのよね、と私はそれがとてもいじらしく思われて仕方なかった。
 いつしか私は共生の下に敷かれていた。共生の頭を抱き寄せた。おえつのような溜息が私の耳のそばでこぼれた。
 共生、共生。時々びっくりするほどきれいな指をもっているひと。へたくそな歌を、それでも一生懸命歌ってくれたひと。背中のちょっとした仕草だけで、私をどきどきさせたひと。背骨も気骨もまっすぐなひと。私のすきな、ひと。
 もう、共生はためらわなかった。ためらうよゆうがなかったのかもしれない。
 
私にはいった共生の涙は乾いていて、代わりに目元が上気していた。
 やっとうごけることに、共生が喜んでいるのか悲しんでいるのかは、分かりたくなかった。
 息があがった。
共生がうごくたび、あしのうらから剣山で刺されたかのような細かなしびれが沸き起こった。共生のはだがあせでしとどにぬれはじめた。共生の爪が、私の腿にあとをつけた。
 
朝だから、なにもかくすことができなかった。
 映画や本には、抱き合いながら、このまま朝が来なければいいと思うおとこのひととおんなのひとが、たくさんいる。
 けれど、朝に抱き合っている私たちは、これからいったいなにを思えばいいのだろう。
 もうしばらくすれば、共生は満員電車に揺られるのだ。くたびれて会社について、同僚と笑いながらおいしくもないコーヒーをすするのだ。そうして合間にすこしは私を思い出すかもしれないけれど、上司の皮肉と山積みの書類と要返信のイーメイルに、私の存在を忘れてゆくのだ。
 きぬぎぬの文など、
共生は決して遣わせはしまい。そもそも共生はそんな絢なるひとではないのだ。それ以前に、おとずれたのがおんなのひとである時点で、おとこのひとは便りをよこす必要を、少しも感じなくなったのだろう。
 共生のうごきがはやくなった。まだいかないでほしかった。もっともっと共生に触れていてほしかった。このまま共生をのみこんでしまいたかった。
 どうしてからだがふたつあるのだろう。からだがふたつある理由が分からない。
 こんなにも、からだの温度は同じなのに、どうして、私たちは。
 すこし声をあげたのは共生だった。私はすこしも声をあげることができなかった。ただ背中だけ、こらえきれずにつよくそらした。

 私はしばらく目を閉じ続けた。閉じた瞼の内側の、赤い模様を見続けた。力尽きて自分の上に覆い被さる、共生の重みだけ、感じたかった。
 ぬくもりに潰されながら、おろかなひとだと私は思った。
共生をこの手に入れる為なら幾らでもけいさんだかくなりたかった、私はどれだけおろかなおんなのひとに成り果てたのだろう。
 共生が大きく息を吸った。
 もしもここで、ごめん、と共生が言ったなら、私は自分の舌をついうっかりといったように噛み切ってやるつもりだった。
 共生が私のおでこに唇を落として言った。
「愛してる。本当に、愛しているんだ」
 鳥がたからかにさえずっていた。自転車や車のタイヤがとおくでかすかにきしんでいた。窓のすきまをさわやかな風がくぐりぬけた。
 水曜日、朝七時。
 もうにどとやってはこない、いま。
 私は共生を抱きながら、号泣した。
 なんてひと。
 なんて臆病で、なんてひどいひと。
 なんてひどい、私のすきな、ひと。
 匂いも、声も、ぬくもりも、いつしか朝霧にまかれるように消えていた。
 私は長いこと泣き続けた。
 
共生に抱かれたあとの私には、帰ることか、泣くことしか残されてはいなかった
 いちにちのはじまり、にじいろに照り返す部屋の中、今は満員電車の中で潰されているだろう共生の姿を思いながら、私はひとり、いつまでも泣き続けていた。















奥付



水曜日、朝七時。


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著者 : 戸田環紀
発行日 : 2011年10月12日


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