目次

閉じる


 あれからずっと消えてしまったあの存在のことを考えている。
 あの日二階の自分の部屋で私は一体何をしていたのだろう? もはや思い出すことは出来ないが、何かをしていた私がふいに窓から外の景色を見た時、黄緑色のものが二階の屋根瓦の上にあるのに気が付いた。
『……もしかしたら』
 私は目を凝らしてそれの正体を見極めようとした。しかし部屋の窓越しからでは心に描いているものだ、という確信が持てない。私はそれが自分の心に描いているものかどうかをどうしても確かめたくなり、ガラス窓を開け手すりを乗り越え裸足のまま二階の屋根瓦の上に降りた。
 それがもし私の心に描いているものならば、逃げないようにそっと近付かなければいけない。私はゆっくりゆっくりと屋根瓦を移動した。そして身体を少し屈め、心に描いているものであることを自分の目で確かめた瞬間、私はハッと息を呑んだ。
『凄い!なんて素晴らしく立派なカマキリなんだ……』
 その体長は10センチはあるだろうか。胴も太くてしっかりとした身体つきは、長年生き抜いてきたツワモノだと想像させる。何処にもくすんだ色のない綺麗な黄緑色の身体。それにもまして宝石のように輝くライムグリーンの眼球。
『何を見詰め続けたらこんなに綺麗な瞳の色になるんだろう……』
 カマキリの瞳から自分の視線を離せないまま感嘆の溜息をつく私。そんな私の気配を感知しているのか否か、カマキリは微動だにしない。一枚の瓦の斜面に合わせ、やや斜め下を向いていることにカマキリ自身は果たして気付いているのだろうか。
 それに対して数枚の瓦のデコボコした斜面に不自然な格好でしゃがみ込み、カマキリを観ている自分の体勢が苦しい事は充分に感じている。無意識と意識、その違いがカマキリの毅然とした姿にも現れているのか。
 11月とは言え日中の暑い日差しの中にも係わらず、瞑想中の禅僧のようにも見えるカマキリの気配の無さに、わたしは魔が差したように呟いた。
『もしかしたら……』
 しかしカマキリは死んでいるかもしれない、という平凡過ぎる思考の落とし穴に一時でも落ちたことを私は直ぐに後悔した。何故なら、試しに触れてみた私の手でさえもカマキリは反応しなかったのに、宝石のように吸い込まれる程に美しいその瞳だけは一瞬、微妙に動いたことでカマキリは生きている事実を思い知らされたからだ。
『生きているんだ!』

 その場所が屋根瓦の上でなければもう少し長い時間その瞳を観ていられただろうに。私の中の何がそう思わせたのか、その時は無性にカマキリの側を離れたくないと思った。しかし生きているということはいずれその場を自ら離れる可能性は高いということ。出来ればこの目でその瞬間を見届けたかった。
 私はカマキリに相対した時、相手が人でなくともこの感情はあるのだと知る。この感情とは即ち、心に残っている存在と生き別れる寂しさ。その人の死を知ることは永遠に叶わず、自らの想念の中で想像し感じ取るその人の最期。その心理状態となんら変わること無く、このカマキリ対する感情が今ハッキリと私の中にある。
『カマキリよ!あなたは一体何者なのです』
 どれほど後ろ髪を引かれたことだろう。私はカマキリの側からゆっくり離れると、窓の手すりを再び乗り越え部屋に戻った。そしてもう一度だけ、と思いカマキリの姿を部屋の窓越しから自らの目に焼き付けた。

『もう、カマキリは居ないだろう……』

 その日の夜、寂しさが現実になることを覚悟しながら、部屋の窓からすっかり暗くなってしまっている屋根瓦の上を見渡した。確かあの辺りに居た、という思いで微かに光る街灯の明かりと部屋の窓明かりを頼りに私はカマキリの姿を探した。
『……やはりもう居ないのか』
 心で呟き諦めかけたその時、薄っすらとカマキリの姿が見えた。
『居た!』
 直ぐに見つけられなかったのは暗さだけでは無く、カマキリがほんの少しだけ移動していたからなのだろう。兎に角、カマキリが未だそこに居る事を私は心から喜んでいる。
『今夜一晩ずっと居るのだろうか……』
 居て欲しいと切に願っている私。心の中にカマキリの姿を宿し眠りに就きつつ、共に夜を経て夜明けを迎え再会できる。そう信じて私は静かにベッドの中で目を閉じた。

 翌朝、出かける前に急いでカマキリの存在を確かめた。夜の神秘的な雰囲気も加わっていたせいか、昨夜と違い今朝は昨夜のような名残惜しさは無い。いや無いと断言してしまうには微妙な心理状態ではあるが、帰宅した時にはたぶん居なくなっているだろうと覚悟をしていたせいか、心の中で軽く、じゃあ行ってくるね、と声を掛けた。本当はそんなノリのカマキリではないのは分かっていたが、居なくなった時の事を想定して、自分の寂しさを紛らわそうとしたのかもしれない。いや、むしろ居なくなってくれていた方が、カマキリにはまだまだ生き続ける余力があると思えた。

 昼間の忙しさのせいで外出先から帰宅してもカマキリの存在を確かめる時間も無く、私が再びカマキリの姿を見た時はすっかり夜になっていた。
 この日の夜、空には月が登り、昨夜とは打って変わって二階の屋根瓦にも月光が差して明るい。その月明かりに照らされてカマキリの黄緑色の身体をハッキリと確認することが出来た。
『……動いてないな』
 私はカマキリが未だそこに居たという驚きよりも、今朝と同じ場所から殆ど動いていないことが気になった。
『……ずっと同じ場所に居たのだろうか?』
 仮に一度動いていたとしても、再び同じポイントに戻って来ることの方が可能性が低いように思われる。昆虫に帰る場所があり、時々そこへ戻って来るのは巣を持つ蜂や蟻や蜘蛛なら現実としてあることだが、カマキリにそんな習性があるという真実を私は知らない。借りに巣に代わる場所があるとしても、この屋根瓦のこのポイントを住まいと決めている筈も無い。ならば何故未だに同じ場所に留まっているのだろうか?という疑問が私の脳裏を駆け巡った。
『それにしても綺麗な月……』
 色々とカマキリのことを考えながら月とカマキリを交互に観ていると、カマキリも何かを考えながら月を見ているような気がして来た。
『月を見ながらあなたは何を思っているのですか?』

 翌日、昨夜の月光とその光景が幻だったかのように朝から小雨が降っていた。カマキリの身体は小雨に濡れて埃が洗われたのか、何となく黄緑色が鮮やかに見えたが、遠めに見えたあの輝くようなライムグリーンの瞳が今朝は少し霞んでいるように感じた。
『今日もこの雨の中、カマキリは同じ場所から動かないのだろうか?』
 この日、わたしは雨に濡れるカマキリが心配になり、外出先から帰宅すると何度も二階の窓からその存在を確かめた。
『居る…… 動いてないんだ』

 更に翌日、明け方まで雨は降り続いていたのか目覚めて外を見ると未だ屋根瓦は濡れていた。しかし徐々に日が差し始めると直ぐに瓦も乾いてカマキリの身体からも朝露が消えた。これで3日目になるが、カマキリは相変わらず同じ場所に居る。
『もしかしたら……』
 再び私に魔が差し始めた。生きているという思考が楽観的ならば、今私が入りかけている思考の入り口は悲観的な門と言わざるを得ない。しかし、悲観的な門を潜るのがこの場合自然なのかもれない。何故ならばカマキリはもう3日間も同じ場所から動いていないからだ。
 その間、太陽の熱に晒され月の光に見守られながらも雨に打たれ、殆ど移動していないので当然食べ物も口にしていないに違い無い。それは正に岩肌に座禅を組む断食の修行僧と同じ境遇である。

 私はカマキリがもう既に死んでいるのかもしれない、と思うといたたまれなくなり、もう一度窓の手すりを乗り越え、初めての時と同じようにそっとカマキリの側に寄り、その生死を確かめた。
 結果、カマキリは生きていた。確かにカマキリはあのライムグリーンの瞳が私のことを見たのだ。

 私はその瞬間から、カマキリに出会ったことの意味を自ずと考えるようになっていた。
『一体あなたは何に耐え、何を考えているのですか?』

 3日目の夜、再び月が現れた。私は11月のひんやりとした夜の空気を吸い込みながらカマキリと共に同じ月を眺めている。黙して語らない存在は今、私に多くのことを語りかけている。
『私もあなたのように、ジッと何かに耐えることが必要なのですね?』

 翌日の朝、同じ場所に居るカマキリの姿を確かめると私は出かけた。一泊の用事だ。きっと帰宅した時には今度こそカマキリは居なくなっているだろう。何故かそんな予感がした。
 そしてカマキリに出会って5日目の昼、帰宅した私が一番に見たのは、カマキリの姿が何処にも見当たらない二階の屋根瓦だった。
『……居ない』
 自らの意思で動いたのか、それとも力尽きて風にでも飛ばされてしまったのか、生きているのか死んでしまったのか、やはりわたしには確かめることは出来なかった。

 自然界の生き物の死は人知れずが天則と聞く。そしてまた、鳥と同じく昆虫もまた人の魂を運ぶ媒体である、と過去の聖人の言葉を伝え聞く。何となれば、あのカマキリは誰の魂を運んで来たのだろうか?
 あれ以来、消えてしまった存在が私の記憶の中で生き続けている。生きるとは多分そういうことなのだろう。言葉にはならないが、私はその存在から何かを感じ、何かを得たに違い無い。それはきっと魂に刻み込まれた貴重な何かなのだろう。  了


この本の内容は以上です。


読者登録

mikatuki98さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について