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愛もしくはストーカー

 代々木上原まで自転車でいくとき、代田橋から井の頭通りに入る瞬間がとても好きだ。ボートをこぐように、一足ごとに水中を進んでいくような気がする。

 なめらかでまっすぐなグレーの坂に、ブルーの街灯が等間隔で気持ち良く配置されている。ぼくはどうしようもないアプリしかビルドしていないけど、こんな道をつくってほしいと言ってくれるようなクライアントに逢えたら、プログラマーとして最高だと思う。

 ペダルに両足を立てて坂をすべり降りながら、大山の交差点からケヤキ並木に入るタイミングで、携帯のプレイリストをシャッフルする。バンジョーの弦をていねいにアルペジオする音が聴こえてくる。千里さんが教えてくれた、スフィアン・スティーブンスだ。

 澄んだ声とバンジョーの音が、春の曇り空にすっと流れていく。選曲のセンスにかけて、千里さんには神がかったものがある。東京ジャーミー・センターのモスクが見えたところで、ぼくは両手をハンドルからエンドバーに持ちかえ、軽く腰を浮かせる。

 千里さんが音楽予報をするのは毎朝六時だ。東東京はヴィニシャス・カントゥアリアの「ホース・アンド・フィッシュ」、西東京はシルヴァン・シャヴォの「ノクターン・インパルパブル」。そんな感じのしずかな予報は、十分間ほど淡々と続く。

 いまでは千里さんには三千人のフォロアーがいて、東京から神奈川にかけての予報がくるのを待っている。フォロアーたちは洪水のように予報をコピーしていく。ぼくは記念すべき最初のフォロアーとして、毎月第三水曜日に休みをとり、こうして千里さんに逢いに行く。

 上原三丁目と上原一丁目の中間くらいのところを左折し、青い屋根が見えたところで自転車をおりる。トーストのバターみたいな壁に、つるバラの青い葉がうっすら輝いている。むりやりくっつけられた無骨なインターフォンだけが、ばつが悪そうにおさまっている。

「わあ、青木くんだ」

 ドアを開けた千里さんは、一瞬目を細めてから、頬をたわめて笑顔になった。ふんわりした白のタンクトップに、うすむらさき色のジャケットをきれいに着ていた。ぼくはその瞬間から、千里さんのゲストになる。自分の側にあるのはメッセンジャーバッグひとつだけだ。

「なんかね、最近おみくじになったみたいで、へんな気分よ」

 千里さんは、まるい茶壺にお湯をかけながらそう言った。ぼくは自転車のオイルで黒くなった指をハンカチでぬぐいながら、湯気の向こうにいる千里さんを見ている。短くて、くしゃくしゃっとして、これでもかと黒い髪が、千里さんの輪郭をくっきりさせている。

「みんな言うの、“当たってました”。何が当たりなのか、私も分からないのに」
「好きなんじゃないですか? 自分のこと話すの」

 千里さんはうすいブラウンの眉をひそめ、まじめな顔をつくった。

「そんなのつまんないじゃない。ねえ」

 小さな茶杯を受けとり、ぼくは木製の椅子で姿勢を直した。ピアノ教室を兼ねた千里さんの事務所は、壁もテーブルもナラの木で、いい風が入る。今日はごく小さな音量でエレクトロニカがかかっていた。このまま日が暮れてしまえばいいのに。ぼくは心からそう思う。

 ぼくはバッグからクッキーみたいなコンピューターを出し、茶杯の隣に開く。茶杯はつるりとしていて、千里さんの好きな青い鹿柄だった。金色のお茶は透明な湯気をたてている。深く息をすると、湯気はツツジのように強く香った。

「左がストーキングの内容です。アクセスログとつぶやいてた内容で、時系列順です」

 ぼくは網目のこまかいグラフにマウスカーソルをあわせて、くるくる回した。千里さんは、ぼくに出したのと同じ茶杯を両手で持ち、目を細めた。頬に小さなしわが寄っていた。少女のように可愛いしわだ。ぼくはパソコンに目を戻して、ビデオに変える。シンプルな白い線で描かれた地図の上を、真っ赤なラインが生き物のように動きはじめる。

「アクセスログに、ケータイのGPSをマッピングしたのが、これです。赤いラインが、行ったところ。青い点はネガティブなことをつぶやいたところで、ピンクはその逆です」

「スーフィさん、前向きなことも言えるの」

 千里さんはビデオから目を離さず、うっとりした声で言った。あるフォロアー、スーフィさんの一ヶ月が千倍速のスピードでちゃかちゃかと過ぎていくのを、ふたりでじっと見つめた。行動半径およそ三十五キロメートルの、つつましやかな暮らしぶりを。

 赤いラインは池尻駅徒歩十五分のマンションを中心に動いた。スーフィさんは、事務として働いている祐天寺のブティックとの往復を中心に、三日に一度は山手通り沿いにある中目黒の小さなバーに行き、金曜日にはジャーミー・センターへ通い、礼拝をした。週末、美術館やコンサートに行っていたのを除けば、ほとんどその繰り返しだった。

 ビデオが終わると、千里さんは広告画面を見つめながら、満足そうにため息をついた。赤ちゃんに向けるような穏やかな表情だった。

「わたし、こっちの方が“当たってる”と思うな」

 千里さんはそう言い、テーブルごしにパソコンをなでた。うすい頬がそっと色づいていた。鼻でしずかに息をすると、白檀のようないい香りがした。エレクトロニカが軽やかなピアノソナタへと替わったとき、ありがとう、と千里さんは言った。

 ぼくがノートパソコンをとじると、千里さんは鼻の先をまっすぐ上に向けて、息を吸った。ほんのちょっと肩が震えたあと、ゆっくり落ちていった。千里さんは上を向いたまま、ねえ青木くん、と小さい声でつぶやいた。ぼくが前のめりになると、千里さんはそっと顔を下げた。

「プログラム、青木くんがはじめて見せてくれたときね、ちょっとまずいな、って思ったの」
「でも、まだ40%しかできてなかったから」

 千里さんは顔を上げ、ぽかんと目をひらいてぼくを見た。

「40%しかできていなかったの?」

 ぼくがうなずくと、千里さんはくすくす笑いはじめた。そうだね、わたしも40%くらいしかできてなかったのかもしれないしね。二つの茶杯を重ねながら、千里さんは言った。

「わたしね、ぜんぜん知らない人が好きなんだなあって、があんってなったの。なあんにも知らないほど、よかったの。そしたら、それまでのわたしが、ばかみたいに思えてね」

 千里さんはテーブルの上で両手を重ねてそう言った。胸もとで、大きな三日月のネックレスがきらきら金色に輝いている。こうなるとよくわからず、ぼくはうなずくしかできない。千里さんの中では、ぼくにはわからないロマンスの感情が歯車みたいに動いているのだと思う。

「実をいうと、あのとき、青木くんが帰ったあとでわたし、泣いちゃったんだよね」
「見せたの、百人目のフォロアーだった、ですよね。千歳烏山の」

 そう、と千里さんはうなずいた。

「いま教えてる子、小学四年生なんだけど、その子がシューマンを弾いてるときだったの。いきなり、本当にもう、ずたずたになっちゃって、どうしてだろうって、自分でもぜんぜんわからなかった。口をおさえるんだけど、声が出ちゃって、とまんなくって」

 ぼくはピアノを見た。重いふたが閉じられた黒いピアノは、光のさしこむフローリングのまんなかにぽつんと置かれ、きれいな棺桶のように見えた。

「でもね、そのうち、わかったの。わたし、あの人が、千歳烏山で生きていてくれたことが、ほんとうにうれしかったんだって。いま目の前でわたしを心配してくれているこの子よりも、顔も知らない、逢ったこともない人のほうが、ずううううっといとおしく思えるんだって」

 千里さんはそのまま黙ってしまう。ぼくはこういうとき話題のストックがなく、千里さんの音楽予報、あのときまだ一ヶ月くらいでしたよね、と、どうでもいい話をした。はじめはバロックばっかりだったけど、そのうち、ギターロックとかエレクトロニカとかテクノがまざって。

「わたし、べつに予報なんてどうでもいいの」

 千里さんははっきり言った。ぼくの目を見てはいたけど、自分に強く言っているみたいだった。言ってなかったっけ。あれね、わたしがおぼえてるだけ。

「つめたい曇り空にはこの曲を聴いてたな、すっきりした晴れならこの曲を聴いてたなって、それだけなの。ぜんぶ、むかしのことだからね。予報じゃなくて。そのときのことなんて忘れてるけど、フレーズだけがオバケみたいにぽっかり浮かんで、書かないとこわいの」

 最後はもうひとりごとのようになっていた。たぶん、千里さんはそういう人なんだと思う。ジョジョのスタンドみたいに、いろんなことをカラフルにイメージできる才能があって、それに苦しんだりもする。そういうことだと思ったけど、ジョジョの話は通じないので黙っていた。

 そのあと、千里さんはいつもどおりの千里さんに戻った。おいしいフォーを出すお店が近くにできたから寄ってみて、と楽しそうに話しながら、ぴしっとした封筒に入ったお礼をくれた。ぼくは封筒をバッグにしまい、玄関でルームシューズを脱いだ。

「それじゃ、また一ヶ月後に」

 自分の中のスイッチを切るようにそう言うと、千里さんはドアの前で、ほほえみながら手を振った。皇族のように前後にゆっくりと振るのは、千里さんのお気に入りだった。自転車のチェーンロックをはずして振り返ると、もうドアはぴったりと閉まりきっていた。

 びっくりして、あれっと思った。ぼくがほんとうに、さっきまでそこにいたのかが分からない。住宅街はしんとして、人の姿は見えなかった。このまま戻ってしまうと、二度とここに来られなそうで、ぼくはイヤホンを耳にさしたまま、しばらく息をする気になれなかった。

この本の内容は以上です。


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