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 世界が終わる。

 世界が終わる少し前、僕らは海にいた。  

 

 海に行った。自転車で。一日は一日中夜のままで。世界にはもう誰もいなかった。

 道路と壊れかけた外灯と海があった。それだけだった。

 少し干からびた海と防波堤があって、真っ暗な水平線と星を臨み僕らは腰を下ろした。  

 もうあまり、話すことはなかった。

 結局もう、海に来てしまっていのだから。

 

「俺、好きな娘ができたんだ。」  と、イセシンタロウは、呟いた。独り言のような声だった。

「そうかい。」  と、僕は答えた。俯いたまま。聞き流してしまっても良かった。

 だが、それきりだった。

 その後は、波の音が聴こえた。飲み込む音や、擦れあう音に溢れていた。  

 

 

 星が水平線へミサイルのように降って、その度に空が輝いた。どうでもよかった。  

 ただ寒すぎる。  

 さっきまで半袖でも充分だったのに。

 ふと、イセシンタロウが言葉を待っていることに気付いた。

「恋なんて、この世界で滅んでしまったのかと思った。」  と、僕は何気なく言った。

 冗談のつもりだったが皮肉でもあった。

 イセシンタロウは、黙って首を振った。イヤイヤをしているみたいだった。星がまた、向こう側へ堕ちた。  

 イセシンタロウは黙って息を止め、唐突に頭皮をマッサージし始めた。

 何か視えない真理を掴みとっていくような仕草だった。

 僕も奴の真似をしてみた。それでも何一つ分からなかった。

「悩んでいるときはいつだってこれが一番なんだ。」

 と、奴は言った。  風が僕らの上に落ちるように振ってきた。  

 僕らは二人で頭皮をマッサージしていた。

 身体はもっともっと冷たくなった。

 

 


 

 風とマッサージが一頻りやむと、イセシンタロウも僕も手を休めた。  

 防波堤の上では、さっきと同じ時間が流れている。何一つ変わらない。  

 闇が少し動いた気がしたが、まったくの気のせいだった。

 イセシンタロウは眼鏡を外して、強度遠視で形が変わってしまった眼を擦った。

 「女の子の名前は・・・。」  と、イセシンタロウはごにょごにょ言った。

 「ん?」

 「俺の好きなオナゴの名前は、アラカワフミカですたい!」

 「は?」

 「だから、アラカワフミカ!・・・ったく、分かれよ!」

 いつものようにイセシンタロウは突発的にキレた。

  僕には慣れっこだった。

  「はあ。そうか。」

  「そうたい。」

  「そうか・・・。」

 イセシンタロウはそれっきり黙ってしまった。

 「イセ。」

 「お、おう・・・。」

  「その子は本当に・・存在しているのか?」  

 僕らの間で時が流れた。  

 イセシンタロウはまた首をびくびくと振り、眼鏡を揺らしながら、頭皮をマッサージしようとしていた。  

 僕はイセシンタロウの手を制止し、

 「もう止せ。」  

 と、言った。  

 イセシンタロウの手は震えていた。

 堪えきれない痛みが爪の中に溢れていた。イセシンタロウの手は脈打っていた。

 「イセ。もう止すんだ。自分を苦しめるのは。」

 時が流れた。

 「どうでもいいだろ!」

 イセシンタロウが言った。

 「は?」

  「どうでもいいだろ?」

 「何が?」

 「アラカワフミカが・・存在していようがいまいが、それはどうだっていいことだろ!」

 イセシンタロウは、息せき切って叫んだ。  


 確かにそれはどうでもいい問題だった。  

 風は叫んでいた。  

 波は強くなる。

  もうすぐ世界は滅びるのだ。

 そう風が言っていた。

 

 そして、世界にはだいたい僕らぐらいしか残ってはいなかった。

 アラカワフミカが・・実在していようがいまいが、どうでも良い話だった。彼女は確かに・・存在しているのかも知れなかった。

「すまない。…だが、不滅だっちゃ。まるで世界で最も神聖なもののように…。」

 とイセシンタロウが言った。また星が堕ちた。意味不明だった。

  僕も何かを言おうと思っていたが、結局黙っていた。意味が通り過ぎるのを僕はじっと待っていた。

 彼に、少しも、謝りたくなどなかった。

 イセシンタロウも押し黙ってしまった。

 そのとき僕の言葉はこぼれた。

  「仕方がないさ。イセシンタロウ。俺たちはいつも、ずっとこの広くて狭い箱の中で生き、もがき、こんな最後の最後の瞬間まで、誰かを探し、恋に恋をして来たんだ。」

 僕はイセシンタロウの肩を叩いた。 イセシンタロウは頭皮をマッサージしていた。

「すまない。」

 イセシンタロウは言った。

「オレはアラカワフミカのことを何も知らないんだ。アラカワフミカどころかあらゆるものについて、世界が、本当にまだ存在しているかどうかさえも。恋や希望が、オレたちの幻想以外の場所に確かにあるのかさえも……。競馬以外は、競馬以外のことは、これまでもこれからも何も知らないんだ。知らないんだ。知らないんだよ…。知らないんっすよ…。」

 イセシンタロウは肩を落とした。

「競馬も、もう滅びた。」

 僕は言った。

「ああ…。だが、不滅だ。まるで世界で最も神聖なもののように…。」  

 イセシンタロウは言った。

 イセシンタロウは死んだようにうなだれていた。イセシンタロウは死んだままぽつりと呟いた。

「俺たちって全然モテないよな。」

 星がまた一つ堕ちた。

「余計なお世話だ。」

 僕は吐き捨てた。  僕は泣きたくなった。


 世界は今もまだ、勝利と主立って敗北に溢れているような気がした。そして、もしかすると信じられるものなんてこれまでも、何一つなかったのかも知れないと、僕は想った。

 星が次々に堕ちていく。  

 救いなど希望など何一つなかった。けれども、こいつがいるからこそ、僕の幼馴染の僕と同じくらいに醜いこの男がいてくれたからこそ、僕はいつだって立ち上がらざるを得なかった。僕は、そんなことをこの世界の終りに感じていた。

「イセシンタロウ。俺たちの永遠の対決は此処で終りにしよう。どちらが先に生涯の伴侶をみつけ、幸福を手にできるか、という例のアレだ。もうそれも此処で終りにしよう。こんな世界では、何一つ意味はないんだ。俺はどんなに頑張っても、どんなものに向かっていっても、何にだって、一度だって、勝てやしなかった。この先、世界が残ってもきっと、勝てやしないだろう。俺の夢は此処で、終わった。俺はもう、この世界を生き尽したと思うんだよ。」

「・・・。」

「俺はもう充分に戦ったよ。イセシンタロウ。どうやら勝負はお前の不戦勝のようだ。イセシンタロウ。お前は、俺の代わりにこの世界を生きていてくれ。お前がこれからお前のものになる世界のバランスを変えてくれ。」  

 イセシンタロウは黙って、僕の言葉を聴いていた。

 だが、彼が意味を受け取っているのかどうなのか、問いただしたくなるほど時間が過ぎると、僕の言葉でさえも、もはや意味不明なもののように思われた。僕はひどい孤独を感じていた。僕は溜め息を吐いた。

「お前は負け犬だ。」  イセシンタロウは言った。  

 胸に突き刺さる言葉だった。癒すつもりもない傷が胸に刺さっていた。この切り口を憶えておこうと想った。


 そこにいつも奴がいてくれたからだった。  

 海が心臓のように、激しく揺れていた。

「お前は負け犬だ。ここで諦めるのか?」  

 と、イセシンタロウは繰り返した。

「ああ、そうさ。諦めるんだ。努力した俺は誰よりも悲惨な負け犬になった。勇気を振り絞って敗けたんだ。俺にはこれがいい。」

「認めたくはないものだな…。笑わないのか?笑えるのか?俺は勝つのか・・・?お前は本当に敗けるのか?本当に?本当に?」

 イセシンタロウは僕の肩を揺さぶった。僕は彼の手を振り払った。

「俺は・・いや・・・イセシンタロウ。お前の勝ちだ。俺にはそんな気がするんだ。」  

 僕は立ち上がって空を仰いだ。

 宇宙が僕の鼻先で揺らめいているようだった。宇宙も揺れていた。星が遠くから僕らの方へ堕ちて来ようとしているのが見えた。僕らを狙っていた。  

 

 さよならだ。

 

 

 僕は想った。

 僕は眼下の揺らぎに、視線を定めた。

 くそっと僕は想った。だが、

「あばよ。」

 と、僕は言った。イセシンタロウが沈黙から何かを押し出そうとした瞬間、僕は海に飛び込んだ。  

 そして、世界には星の光が降った。

 

 

 アラカワフミカとイセシンタロウの世界がそこにあればいいのにと、と僕は思った。

 もし奴が、幸福ならば、きっと世界中の誰だって幸福になれるはずなのに…。  

 それほど、いまこの世界の秩序はチープだった。  

 僕は振り返って、水面をみた。  

 水面の向こう側でイセシンタロウが、何かを叫びながら、手を振っているのが見えた。星は奴から外れたらしい。奴の背後で煌々とした光が燃えていた。

 奴は確かにこの賭けに勝利したようだった。

 僕もまた赤ん坊のように朗らかに手を振り返してみた。  

 奴に向けての初めての笑顔だった。

 

 最後の世界がイセシンタロウによって創られるのだろう、と僕は想った。誰よりも凡庸で、平凡で、美しくもなく、それでいて、誰しもが忘れ去ったものを確かに残し続けた男の最後の世界によって。

 

 



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