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末次平蔵と木村一族

1550(天文19)年、フランシスコ・ザビエル等一行が松浦領平戸に上陸しました。
さて、ザビエルが初めて日本の土を踏んだのはこの前年1549年のことです。日本人青年アンジロー(弥次郎)に導かれ鹿児島に上陸したザビエルは、一年この地で布教活動に従事しました。しかし当初の期待は島津貴久の冷遇もあって、充分報いられることはありませんでした。翌50年、ザビエルは希望を都へとつなぎ鹿児島をあとにします。そして都への途上、この平戸へ立ち寄ることとなったのです。おりからこの地に初めてのポルトガル商船が入港しており、ポルトガル貿易を重視した松浦隆信は、このためザビエル等一行をも盛大に歓迎することになりました。ザビエルは言います。
「そこ(平戸)の領主は、私達を大いに歓迎した。其処に居ること暫くにして、住民の数百名が信徒となった」と。
さて、この改宗の中心となった人物が松浦氏の家臣木村氏です。彼はザビエル平戸滞在中の宿主であり、平戸における最初のキリスト教改宗者でした。それはおそらくキリスト教界にとって、日本における最大の収穫の一つではなかったでしょうか。なぜなら、のちにこの一族からは、日本人として最初の司祭に叙せられるセバスチャン木村が誕生し、更にアントニオ木村、レオナルド木村、マリーア木村デ村山など数々の模範となるべき切支丹が生み出されたからです。彼らはいずれも名誉ある殉教をとげ、日本における他の殉教者とともに、1867年(慶応3)教皇ピオ九世によって福者として世界に発表されました(レオナルド木村は1619年11月18日に、アントニオ木村も同年11月27日に、またセバスチャン木村とマリーア木村デ村山については1622年9月10日にそれぞれ長崎において、火刑もしくは斬首によって殉教したことが伝えられています)。
イエズス会士ジロラモ・マヨリカは言います。
「木村一族は彼らの信仰の師父聖フランシスコ・ザビエルの英雄的な徳からそれることのない子孫だけを生み出すようである」と。
しかし彼の言に反して、その同じ木村氏から後に背教者となり迫害者となる末次平蔵が登場してくるのです。平蔵と木村氏との関係はキリスト教界側の史料の中にしばしば顔をのぞかせます。例えば一六一九年の「イエズス会年報」にはアントニオ木村の殉教に触れ、その中で彼アントニオが「レオナルド木村の親戚であり、末次平蔵の従弟」であると紹介していますし、またドミニコ会士オルファネールも、このアントニオ木村と平蔵の関係について次のような興味深い記録を残しています。
「(長崎奉行長谷川)権六はアントニオ木村が平蔵の従弟でありかつ平蔵は彼の釈放を願い出ていたので」権六は「平蔵が願い出ているのを考えよ。転べば釈放するであろう」とアントニオに説得を試みました。しかし彼は「デウスの御助により、私は正気の間は決してそんな罪深い不名誉なことは致しません」と、殉教の道を選んだというのです。
また村山徳安アンドレスの殉教を伝えるパードレ・モラーレスの書翰には、アンドレスの妻「マリーア夫人」即ちマリーア木村デ村山について次のように記されています。
「長崎代官(村山当安)の息子(徳安)の妻であり現代官(末次平蔵)の姪であって、あれほどの名誉と栄華の中で生活していたのに、いま彼女が夫のいない甚だしい貧困に満足していること、ただ神の御恵みによってこの苦しみを容易に耐えていることは確かに人々の大きな驚きとなっています」と。
更にアルバレス・タラドゥリース氏もセバスチヤン木村について、彼が「殉教者レオナルド木村S・J、アントニオ木村、マリーア木村デ村山(中略)、マリーア木村デ村山の叔父・養父であり棄教者・迫害者たる末次平蔵ジョアンの親族である」ということを指摘されています。
では平蔵と木村氏の具体的つながりは何でしょうか。1614年、平蔵自身が述べたところによれば「彼の祖父は自分の家に宿泊させていたパードレ・メストゥレ・フランシスコ(ザビエル)に洗礼を受けた。75歳になる彼の母も、誰によってか記憶していないが、種々の事情から考えておそらく同パードレ・メストゥレ・フランシスコによって受洗した」と。つまりザビエルの宿主となった木村氏は、平蔵の祖父にあたる訳で、そして平蔵の父とは先にも述べた博多の商人末次興善なのです。しかし、ここで見るかぎり、平蔵は興善の受洗については触れていません。もし興善がこのとき受洗していないとすれば「木村が家族全部と一緒に洗礼を受けた」という記録に矛盾します。とすれば、おそらく興善はこのとき、すでに平戸には居なかったのではないでしょうか。
興善は博多の末次家に養子に入り末次興善を名乗りました。いつの頃であったかは判然としませんが、このような事情や、ザビエル来島当時、興善は既に30歳前後であったということから考えて、このときにはもう末次家に入っていたとも考えられます。いずれにせよ興善は、木村氏とは別の機会に受洗したのでしょう。彼は洗礼名をコスメといい、コスメ・コーゼンの名で、これ以後フロイスの『日本史』の記述の中にもしばしば登場することとなるのです。

※松田毅一・川崎桃太訳「フロイス・日本史2」によれば1590年12月「善良なコスメ・コーゼンは七十歳を越している」とあることから、ザビエルが平戸を訪れた1550年には彼が30歳前後であったことが推測されます。


コスメ末次興善

コスメ・コーゼンの名がフロイス『日本史』に最初に現われるのは、1565年(永禄8)のことです。興善は45歳前後であったと思われます。このときイルマン・ルイス・デ・アルメイダは病の身を堺の日比屋了慶の屋敷に休めていました。その病も癒え、明日は河内の国、飯盛へ旅立とうというとき、了慶は別れの茶会を催すことを決めたのです。フロイス『日本史』は言います。
「その翌日9時に、彼(了慶)は、私(アルメイダ)と一日本人いるまんと、またもう一人、日本で何くれとなく我々の用事を世話していてくれる男で、コスメ・コーゼン Cosme Cojenという、富裕で、たいそう善良なキリシタンに口上を伝えてよこしました」と。
この二年後、即ち1567年、フロイス『日本史』はやはり堺においてですが、コスメ興善が憐れな捨子を野犬から救けたことを伝えています。このあと興善に関する記述は途絶え、再びその消息が知れるのは11年後、1578年(天正6)のことです。
この年、切支丹大名大友宗麟は島津征討軍をおこし、耳川で決戦におよびますが、逆に惨めな大敗を喫しました。この敗報は宗麟治下の博多にも入り、町はときならぬ混乱状態に陥りました。
博多在住のイエズス会パードレ、ベルショール・デ・モウラ及びバルタザール・ローペスは、この混乱を避け秋月へ逃げることを決しました。そしてその避難途上「彼等は博多で彼等の保護者であったコスメ・コーゼンに逢った」のです。
秋月に入った宣教師らはそこでも多大の困難にぶつかることとなりました。秋月種実が大友氏に叛旗を翻したのです。宣教師らはたちまちその保護を失い、生命の危険にさえさらされることとなりました。そこで彼らの苦難を救ったのが、他ならぬ末次興善です。彼は「秋月(殿)に働きかけて、ぱあでれたちを迎えて保護を加えさせ、これによって彼等は自由を与えられた」のです。
末次興善はこのあと1590年(天正18)にもこの秋月に姿を現わしています。それは恐らくフロイス『日本史』に登場するコスメ興善の最後の姿でしょう。
この年インド副王使節の資格を以って巡察師バリニャーノ一行が長崎に到着しました。彼らは豊臣秀吉に謁見すべく、ただちに長崎をあとにしましたが、その一行を博多の近く秋月で出迎えたのがコスメ末次興善だったのです。
「(彼らが秋月に)着くと、(一行は)コスメ・コーゼン Cosme Cojenという古くからの優れたキリシタンの老人に迎えられた。彼は博多の町の非常に重立った人で、名望ある多くのキリシタンの息子たちの父である。本来の主な家は博多にあるが、(その他)諸所にも家を持っている。その多くの家の一つは秋月にあり、そこで彼は(先に)秋月(種実)殿からはなはだ挙用されたのであった。」



※「村山当安に関するヨーロッパの史料一」中、アルバレス・タラドゥリース氏はその(註)において彼興善に関し「各地に多数の家を有し」「また堺にも家があり、その地で彼の数寄屋は有名であった」と述べておられる。

今こうして、フロイス『日本史』の記事中から、末次輿善に直接関係するものを拾い出し並べてみました。これら一連の記事を読むとき、我々は、善良な切支丹としての興善の姿を思い描くことができると同時に、また未次氏初期の活動範囲をもほぼ推測することが可能でしょう。それは概ね堺と博多を結ぶルートでした。中世末から近世初頭にかけて、博多は対馬~朝鮮を結ぶ重要な貿易港でした。しかし博多はその膨大な輸入品を捌く消費都市を後背地として持ちません。そこで京都といぅ一大消費都市を後背地として持つ堺との連繋が必要となってくるのです。末次興善の屋敷が「諸所」にあり、その一つが堺に在ったというのも当然のことかもしれません。ところがこれから約百年後『元禄二年堺大絵図』には、既に末次氏の名を見付け出すことはできません。それどころか、未次興善が堺に居たという記録は、フロイス『日本史』以外には皆無なのです。例えば『今井宗久茶湯日記書抜』にも、また『天王寺屋会記』にも興善の名は登場していません。それは末次氏の当時の商業活動がそれ程大きな影響力を持たない、言いかえれば、やっと頭をもたげてきたばかりの新興商人のそれでしかない、ということを物語っているとも言えましょう。

※興善がいつ長崎へ進出したかは明らかではない。ただ、長崎が開港したのが1571年であり、秀吉が長崎を収公したのが1588年、恐らく興善の長崎進出はこの20年たらずの間のこと、しかもかなり早い時期のことであったと考えられます。なぜなら秀吉が長崎を天領としたとき、既に市街を形成している26町に対し地子を免除したが、この中に興善町もまた含まれていたからです。金井俊行編「増補長崎略史」第十巻

しかし末次家も平蔵の代となり、長崎貿易に携わるようになると、末次氏の名は急速に当時の商業活動の表面に躍り出てくることとなります。例えば1592年(文禄元)、豊臣秀吉は初めての海外渡航朱印状を発給しましたが、これには、

 長崎ヨリ五艘
  末次平蔵 二艘
  船本弥平次 一艘
  荒木宗太郎  一艘
  絲屋随右衛門 一艘

 京都ヨリ三艘
  茶屋四郎次郎 一艘
  角倉 一艘
  伏見屋 一艘

 堺ヨリ一艘
  伊予屋 一艘
  以上



とあって、この年発給された朱印状九通のうち、5通までを長崎在住商人が得ており、しかも内2通が末次平蔵に宛てられたものであることがわかります。長崎貿易を背景とした末次氏の台頭ぶりが窺えるというものでしょう。しかし、かといって、この末次氏の隆盛をもたらしたのが、平蔵一人の力に依るというのでは決してありません。むしろその土台を築きあげたのは、平蔵の父興善の活躍によるところが大きかったでしょう。
当初、末次氏の発展は対ポルトガル貿易にかかっており、そしてこれは次の二つの柱に支えられていました。一つはイエズス会との関係であり、今一つは新たに開港した貿易都市長崎との関係でした。興善は切支丹となることによって対ポルトガル貿易に有利な地位を占め、更にポルトガル貿易のために開かれた長崎へ逸早く進出し、その地に興善町を興すなどして町の発展に寄与し、長崎の町政に少からざる発言力を有するようになったのです。
そして、末次平蔵の活躍もこの土台のうえにあってこそ、初めて可能になったといえるでしょう。因に平蔵の誕生は、長崎開港に遅れること2年、即ち1573年(元亀4)のことでした。以後、末次氏は衰退の途を歩む堺を棄て、新興貿易都市長崎の商人として次第に頭角をあらわしてくるのです。


アントニオ村山当安

そろそろこのあたりで村山当安について触れておく必要があるでしょう。彼は後に平蔵背教のきっかけをつくり出す人物で、未次家とは並ならぬ関係にあります。このことは例えば冒頭にも述べた、平蔵の養女であり姪にあたるマリーア木村―彼女が当安の長男であるアンドレス徳安のもとに嫁いでいることでも察せられるでしょう。
さてこの村山当安と末次家との関わりは、当安が身体一つで長崎に流れてきたときに始まります。未次興善が博多から長崎に進出し、興善町を興すなど精力的に長崎に地盤を築きつつあった頃、一人の青年がこの長崎にたどりつきました。この人物が後に長崎外町代官となる村山当安その人です。彼は1562年(永禄5)の生まれというから平蔵より11歳の年長となります。出生の地は「尾張名古屋」とも「安芸広島」とも、また「筑前博多」ともいわれます。何れの説をとるにせよ未だ確たる根拠はありません。『長崎縁起略』によれば、「東安と云ハ、本名伊藤小七郎といふ者也、生国尾張名古屋の者、元来武士也」とあり、どうやら零落した武士の出であるらしいのです。「天正年中」長崎に来り当初末次興善の許に身を寄せ、切支丹に改宗し、その洗札名アントニオに「安東」「安等」「和奴唐」等の文字を当てていたようです。その彼が己れの才覚一つを武器に徐々に身を起し遂に肥前名護屋在陣中の豊臣秀吉にとり入り、長崎外町の代官に任ぜられるようになりました。
この間の事情を『長崎根元記』は次のように記しています。

文禄の頃のことです。長崎の町も次第に諸国の者が集まり繁花の地となりました。然る処、文禄元年、秀吉公が唐津名護屋御在陣のとき、長崎惣代として町の主だった者の一人が御礼として秀吉の元へ参上することになりました。その頃、生所芸州村山安東(アントーニオ)という者が、長崎に居住し、才覚もあり弁もたち、乙名衆に可愛がられておりました。その安東が「某を名護屋へ遣わしていただければ首尾よく調えてご覧にいれます」と、しきりに望むものですから、乙名衆も色々献上を支度し、安東を名護屋に差し遣わすことになりました。秀吉は安東の利発さにいたく感じいり、御目見の節、汝、東庵と言うべきところ、安東ということおかしく思し召すとの御雑談がこれあり、安東もこれを受けて、早速、名を東庵と改めたうえ、再びお目通りを願い、長崎内町の外は某に御預りを願いたい。そのうえは、地子銀として二十五貫目を差し上げ、外町並びに在郷地まで、御代官を相務めますと申し上げ、首尾よく外町の代官となりおおせました。

当安の長崎代官出世譚としては非常によくできた話です。しかし、かといってこの伝承を頭から鵜呑みにすることもできません。というのは、当安の長崎代官就任にはイエズス会が関係していると思われるふしがあるからです。このことを確証する史料こそありませんが、次の事実は、これを類推させるに充分でしょう。当安が長崎乙名たちの依頼を受け、肥前名護屋在陣中の秀吉を訪ねた年、即ち1592(文禄元)年、イエズス会士ジョアン・ロドリゲスがやはり秀吉のもとを訪ねているのです。しかもこの年入港したポルトガル船船長を伴っての謁見であり、日本巡察師バリニャーノの指図によるものでした。このことの意味するところは大きいと思われます。
これより四年前、秀吉が貿易と布教の分離を謀り、世にいう伴天連追放令を発しましたが、このときイエズス会は報復措置として、ポルトガル船に対し長崎渡航中止を勧告しました。以来ポルトガル船の来航は一時途絶え、秀吉はイエズス会とポルトガル貿易の切り離せざることを否応なく思い知らされたのです。そこへ巡察師バリニャーノがインド副王使節として来日しました。秀吉はイエズス会の布教活動を黙認せざるを得なかったでしょう。そして、これまでの方針を一変し、イエズス会パードレを貿易の仲介者として利用することを考えたのです。
ここに登場してくるのが滞日十余年に及ぶというイエズス会士ジョアン・ロドリゲスです。彼はバリニャーノの通訳として秀吉に謁しましたが、秀吉はこのロドリゲスを厚遇し、彼に対し頻りにポルトガル船の来日を要請したのです。そしてロドリゲスは、この秀吉の意向に応えるかのように、ポルトガル船船長を伴い肥前名護屋に秀吉を訪ねました。秀吉にとっては、貿易と布教の不可分を今一度見せつけられたようなものであり、それだけに貿易仲介者としてのイエズス会を意識しない訳にはいきませんでした。
村山当安が長崎外町代官に任ぜられたのも、やはりこの同じ年の出来事なのです。イエズス会士フランシスコ・ヴイエイラは言います。
「長崎市に当安アントーニオと称するキリシタンがおりました。貧しい生まれではありましたが、秀れた能力とキリシタンらしい行ないをもっていましたので、イエズス会はこの者を庇護しました。彼はその援助によってこの市の主要なキリシタンたる代官の一人になるに至りました」と。
つまりイエズス会は、熱心なキリスト教信徒を長崎代官にすることによって、貿易のことや長崎町政のこと、更には長崎貿易をめぐる様々な政治・経済関係にまで有利な地位を獲得しようとしたのです。その証拠に、秀吉没し政権が徳川家康に移るや、イエズス会パードレ、ジョアン・ロドリゲスは、この当安を伴い年頭の挨拶として家康を訪ねました。それは、秀吉以来の長崎代官の職を当安に対し引き続き安堵してもらうためでした。要するに、イエズス会は「長崎代官」としての村山当安を必要としたのです。ときに1603(慶長8)年、当安41歳のときのことでした。

※「村山当安に関するヨーロッパの史料」「鈴田の囚人」などにより、当安の誕生が一五六二年、また平蔵の誕生が1573年であることが知れます。また、その名について、当安は「等安」とも「東安」ともまた「東庵」とも書かれていますが、岩生成一氏は中国側史料に「等安」と記されることが多いことを述べ「当時一般に等安なる文字を充てゝ常用し、恐らく彼自身も此の署名を用ひた」とされています(「村山等安の台湾遠征と遭明使」)。
これに対しアルバレス・タラドゥリース氏は、イエズス会トレード文書館第九九一束、第14葉裏に「村山当安安当仁与 Murayama Toan Antonio」と自筆の署名があることから「当安」の文字を妥当として採用されています(「村山当安に関するヨーロッパの史料」)


当安とイエズス会の対立

ところで、当安とイエズス会の蜜月期間はそう永くは続きませんでした。当安はやがてイエズス会から離反していくのです。なぜでしょうか。フランシスコ・ヴイエイラは、当安の道徳的堕落がその唯一の原因であるとしていますが、ではイエズス会自体には原因がないのでしょうか。この頃イエズス会は、布教資金捻出のため、生糸を中心とした長崎~マカオ間貿易に深く関わり、ついには本末転倒し利潤を追求するに急となり、キリスト教布教団体としての枠を大きく踏みはずすようになってしまっていました。しかもイエズス会は、この貿易に関係する日本人の商業活動を、キリスト教という枠で大きく制限したのです。このため、その取引について「望み通りの生糸を入手出来ない」日本商人たちの不満が常に存在したのです。さらに、この長崎~マカオ間貿易の全般にわたって、日本人とポルトガル人の仲介にたち、終始大きな指導力をふるったパードレ、ジョアン・ロドリゲスは「しばしば法外な糸値段をつけたらしく、宣教師ですらそのやり方を適切でない」と指摘した程であり、加うるにイエズス会は、当安を利用して長崎町政まで関与しようとしたのです。
当安のイエズス会離反も、このようなイエズス会の行き過ぎた商業活動が原因しているのではないでしょうか。当安にとってイエズス会は、いまや単なる商業上のライバルでしかなくなっていました。ためにこれ以後当安は、イエズス会商業活動の中心的存在である、パードレ、ジョアン・ロドリゲスの日本追放を画策するようになるのです。例えば当安は、ロドリゲスが貞潔の誓願を犯したと言いたてこれを陥れようとしていますし、またイエズス会を危険な存在として機会あるごとに、長崎の主要な人物や「王宮の重要人物たち」に説いてまわっているのです。
「諸パードレに騙されないようによく注意しなさい。そして神などは存在しないし、すべては生命と共に終ることは確かであると考えなさい。パードレが霊の救いがあるといっているのは全くの偽りであり、パードレ自身もそれを知っているが、この方法によって日本をイスパニア国王に服従させるため、彼らの教えに従うように説いているのである」と。
このようにして当安とロドリゲスの対立は次第に根深いものとなり、ついに1610年マードレ・デ・デウス号事件の発生をむかえて更に決定的なものとなるのです。
1609年(慶長14)夏、長崎に入港したポルトガル船マードレ・デ・デウス号に対し、長崎奉行長谷川左兵衛と代官村山当安はその積荷に厳重な統制を加えようとしました。積荷の目録を呈出させ、その商品に対し価格の面その他において、日本人官憲の指揮権を発動しようとしたのです。それはイエズス会の貿易介入を排し、ポルトガル貿易の主導権が日本人にある、という意志の表明でもありました。このため生糸を中心とする積荷の多くが差し押えられ、許可なく荷揚げをすることが禁じられたのです。しかし船長アンドレア・ペッソアは、あくまでこれに反対し、家康に直訴さえほのめかしたのです。
ところでこの前年、マカオにおいて有馬晴信の部下とポルトガル官憲との間に武力衝突がおこり、日本人は暴徒として鎮圧され、その多くが殺されまた捕えられるという事件が発生しました。そして、この事件の鎮圧にあたったのがほかならぬこのペッソアだったのです。
さて当安らは積荷に関する種々の統制が拒否されたと知るや、このマカオにおける日本人騒擾事件を利用して、ペッソアを陥れることを画策したのです。ポルトガル側は、マカオにおけるこの事件を長崎入港後何より早く家康に報告する筈でした。しかし当安や左兵衛は、あろうことかイエズス会を使ってその中止を説得させたのです。
「マカオで殺された日本人たちのことを内府の耳に入れるのは絶対に適当ではない。非常な打撃をうけられ苦しまれるにちがいないし、内府様を納得させるに足る理由も弁明もあろう筈がない」。更にこのことは「決してポルトガル人の利益にはならない」であろうと。
こうしてマカオにおける事件は、ポルトガル人の口からは家康へは知らされないこととなりました。それは結果として、ポルトガル人がこの事件を家康に対し、隠そうとしたかのような印象をあたえたのです。イエズス会は当安らに躍らされ同胞破滅の原因をつくり出してしまいました。次に当安らは有馬晴信にゆさぶりをかけたのです。イエズス会士モレホンは言います。
「この策謀の張本人は左兵衛と等安であった。彼らは有馬殿をこの策謀に引き入れるために、左兵衛は、もし貴殿が家来の殺されたことを遺憾に思わず同盟に加わらないならば、貴殿の家来が日本の外で犯した種々な問題について貴殿を訴えるといって嚇した」と。
晴信はマカオより逃げ帰った部下を連れ、駿府へ赴き、マカオにおける事件の一切を報告するにいたりました。ポルトガル側の報告は左兵衛や当安らによって阻止されており、有馬晴信の報告が一方的に受け入れられ、怒った家康は、ポルトガル船の捕獲・ペッソアの逮捕を晴信に命じたのです。事件は既に周知のごとく、デウス号の爆沈という形で結末を見ました。しかし当安のイエズス会に対する攻撃は終りませんでした。彼は家康の怒りを背景に、日本からイエズス金の立退きをほのめかしたのです。そこで日本管区長パシオは、当安や左兵衛に和解工作を講じ、当安らは「ペソア来朝中の行動に関する責任をロドリゲスに帰し、ロドリゲスをマカオヘ追放すること、それはイエズス会の決議の結果によると家康に伝えること」。この二つを条件にパシオの和解工作に応じたのです。
おさまらないのはイエズス会でした。当安らにさんざんふりまわされた挙句、デウス号事件の責任をおしつけられ、ロドリゲスをマカオへ追放しなければならなくなりました。しかも、このデウス号沈没で、イエズス会は1万2000ドゥカド相当の生糸を失い、莫大な負債をかかえこむことになったのです。一イエズス会士は言います。
「われわれは想像もできない程みじめな状態に陥った。というのは、維持する財源をもたない許りか、既に2万2000タエルの負債を負っており、しかも毎年さらに負債を重ねていくことになろう」と。

平蔵とポルトガル貿易

マードレ・デ・デウス号事件の影響は大きく、イエズス会内部でもこの事件を機に宣教師らの貿易介入批判の声がおこり、1621年、パシオによってイエズス会服務規定の中にハッキリと禁止措置をとることが明示されました(ただし守られはしなかったが)。
しかし最も大きな影響を蒙ったのは日本人、それもポルトガル貿易と密接にむすびついた長崎在住の貿易商人たちではなかったでしょうか。
この頃ポルトガル船は1607年、1608年と日本への渡航はなく、1609年やっと渡来したマードレ・デ・デウス号も前述の如く爆沈し、このためさらに1610年、1611年とポルトガル貿易は空白状態が続くこととなりました。
ポルトガル貿易によって利益を得ていた者たちにとっては、その痛手はいかばかりだったでしょうか。
ところで長崎という町の性格を考えるに、それは海外貿易―それもポルトガルとの貿易のためにイエズス会が中心となって開いた町でした。1588年(天正16)秀吉によって公領になったとはいえ、ポルトガルとの関係は鎖国まで続きます。しかもその貿易量は鎖国間際までオランダ・中国を凌いでおりました。そして、このポルトガル貿易を背後から支えたのが長崎銀主の存在だったのです。彼らはポルトガル船に多額の投融資を行い、ポルトガル商人らと利害を一にしていました。ボクサー氏によれば、ポルトガル人の日本人に対する貸借関係は既に十六世紀中に始まっていたと考えられ、「17世紀の初25年間」はその最盛期に達したといわれています。
例えば『バタヴィア城日誌』1634年2月19日の条には、「日本の商人たちは(中略〕ポルトガル人に迫り、委託金および貸渡金として長崎において払い渡したる金額を精算してことごとく払い戻すことを請求せり」とあって、長崎の銀主が鎖国の完成を目前にして、ポルトガル人負債者にその返済をせまったことが記されています。そしてこの長崎銀主の中に内町乙名・ジョアン末次平蔵がいました。彼は朱印状を得て自ら「安南」や「東京」更には「交址」「高砂」へと貿易船を派遣するほか、このポルトガル船に対しても多額の投融資を行い、言わば長崎貿易全般にわたって大きな発言力を有する存在だったのです。
さて、この平蔵とポルトガル人との関係は極めて緊密で、台湾事件で平蔵とオランダが衝突した際も、オランダ人たちは彼の背後にポルトガル人があるのではないかと勘ぐった程であり、またボクサー氏も平蔵とポルトガルの関係について、「この平蔵は葡萄牙(ポルトガル)人からは、彼等の最も有力な支持者の一人であると思はれていた」と、両者の親密な関係を指摘しておられます。
次の事実は両者のこのような関係をすこぶるよく反映していると言えるでしょう。それは1638年8月23日のことです。二隻のポルトガル船が長崎に入港しました。
「これ等の船には、340人の人々が乗組んでいて、中90人が白人であった。然るに彼等は僅に230ピクルの生糸を持って来たが、その中150ピクルは長崎代官平蔵のために持って来たもので、残る80ピクルが葡萄牙人自身のものであった」と。
つまり、このポルトガル船のほとんどが平蔵の資本で賄われていたのです。平蔵がいかにポルトガル貿易と密着していたかを察していただけるでしょう。
これとは逆に、長崎代官村山当安は、ポルトガル貿易の主導権を奪おうとして、イエズス会と対立し、あまつさえポルトガル船から一種の関税を強要し、挙句はマードレ・デ・デウス号焼打に見るような強硬措置に出るにいたりました。当安の一連の行動は、見方によれば外国資本に対する商業ナショナリズムの萌芽として捉えることができるかもしれません。しかし現実の問題として、当安の動きは、かえってポルトガル貿易で利益を挙げている日本人資本家をも締めつけることとなり、ひいては平蔵の当安に対する敵対感情を生み出す一因ともなったのです。
さてポルトガル貿易をめぐって生じた、この当安と平蔵の対立関係は、これを核として、当時長崎が有していた様々な矛盾を吸着し、長崎全市を包みこむ複雑な様相を呈しはじめました。しかも、このことは逆に当安と平蔵の関係にも反映し、二人の対立を更にのっぴきならぬところまで追いこんでいくのです。アルバレス・タラドゥリース氏は言います。
「末次平蔵対村山当安の争いは、おそらく個人的闘争ではなく、外町と内町即ち長崎の新市内と旧市内の乙名たちの間の―宗教問題を多分に含んだ―競争心の集積であった」と。

      
つまり二人の対立関孫の背後には、内町と外町の対立があり、更にイエズス会=ポルトガル系対フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスティン会=スペイン系の対立関係が存在したのです。イエズス会はザビエル以来約半世紀にわたって対日布教権を独占してきましたが、16世紀末から17世紀初頭にかけて、フランシスコ会などスペイン系修道会が盛んにその不当を攻撃し、ついに1608年、ローマ法皇パウロ五世によって全面的にイエズス会以外の他修道会にも日本布教が公許されたのです。このため日本布教の入口ともいえる長崎は、このイエズス会とスペイン系修道会の対立の中心となりました。そしてイエズス会と衝突した村山当安は、このフランシスコ会と結び、ポルトガル貿易と密着した平蔵は、当然イエズス会に協力したのです。しかも二人は、それぞれ外町と内町を代表する人物でした。当安は外町代官として、また平蔵は内町乙名(町年寄)として……。
ところで、当時長崎の町政は、外町については長崎代官が、また内町については「町年寄の合議」に依っておこなわれていました。しかもこの二つを統轄すべき長崎奉行は未だ長崎に常駐せず、従って長崎奉行といっても「行政の監督機関でありながら、町政面に於ける行政司法権さえ具備していないというような状態でした。つまり長崎は、内町乙名・外町代官という、二つの頭を有する一つの自治都市ともいうべき存在であって、互いに他に対しその指導力をおよぼそうと競い合っていたのです。このため次のような関係が成立するにいたりました。平蔵=内町のグループをイエズス会が支持し、当安=外町のグループをフランシスコ会をはじめスペイン系修道会が支持するというような。
次の事実はこのような関係を非常によく反映していると言えるでしょう。


1614年(慶長19)、即ち切支丹大追放の年ですが、この年、長崎では禁教令に対抗するかのように連日贖罪の行列が町をねり歩きました。このおりスペイン系修道会とその信徒たちの行列は凄惨を極め、5月19日には「3千人以上の血の贖罪者の行列が出ました。彼らはかつて見たこともない程惨たらしく互いに鞭うっていた」。
そしてこの行列には長崎代官村山当安が家族ぐるみで公然と参加していたのです。これに対しイエズス会の行列は、かなり見劣りのするものでした。アビラ・ヒロンの『日本王国記』には、イエズス会の行列の模様を次のように記しています。
「行列の歩き廻った距離は極く短いものだったが、それは町の年寄らが、あの悪魔のような敵がこの上怒らないように、パードレたちに行列を通りへ進ませないでくれと頼んだからであった」と。
つまり幕府に気兼ねした内町乙名たちがイエズス会に行列を目立たぬようにと依頼し、イエズス会はこれに応じた訳である。二種類の聖行列を見くらべるとき、内町=イエズス会と外町=スペイン系修道会のそれぞれの連繋がそこにあらわれているように思われるのですが。



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