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 妹が私のベッドで寝るのは、これで12回め。

 私が散弾銃を撃ったのも、これで12回。

 夜が明けたら町まで行って、鹿弾をひと箱求めてこなくては。

 隣でやすらかな寝顔を見せている妹の体からは、今日もオレンジの香りがする。


  ○


「お姉ちゃん、ひとりで寝たくないの。こっちで一緒に寝てもいい?」

 椅子に座ったままふりかえると、寝間着姿で大きめの枕を胸に抱き、片手にお気に入りのぬいぐるみをぶらさげた妹が、半開きのままにしてあったドアのところに廊下の暗がりを背にして立っていた。

「またなの? 別にかまわないけど、私、もうちょっと仕事してるよ」

 彼女は、うん、いいの、と答えると、ぽてぽてと室内に入ってきて、私のベッドの上に重なっている毛布と掛け布団の下に、もぞもぞと潜る。

 私は天井から下がるランプの灯を吹き消して、机に立てた蝋燭の光だけを頼りに作業をつづける。

「わたくしはいま眠りにつきます。わたくしの命をお守りください。もし、明日の朝がくるまえに、わたくしの命が尽きたとしたら、わたくしの魂をお導きください。お父さまとお母さまといっしょの場所へ」

 毛布を頭からかぶったまま早口で就寝前のお祈りをする、もにょもにょした声が聞こえたその数分後には、もう妹はすうすうと気持ち良さそうな寝息を立てていた。


 しばらくして階下の居間で柱時計が11時を打った。

 私は伸びをして立ち上がり、窓のところへ行った。

 外の冷気が侵入してこないように、わずかに開いていた分厚いカーテンの裾を整える。

 ちらりと覗いてみた窓のむこうでは、町の灯はもとより、今宵は月もない闇の中で、黒い木々がぞわぞわと蠢いていた。

 机のところに戻って蝋燭を消し、肩掛けを取って椅子の背に乗せる。

 それから私は、両腕を広げて大きく口を開け、すっかり安心して寝入っている様子の妹の横にするりとすべり込み、押しのけられてベッドから落ちそうになっていたぬいぐるみの「ちゃいろさん」を彼女の顔の脇に置き直したあと、自分たちの上に毛布と布団をしっかり掛けなおした。

 それですこしだけ目が覚めたのか、あるいは無意識なのか、妹が私のほうに体を寄せてくる。

 彼女の首すじと長い髪が私の鼻先に近づいて、爽やかな店売り石鹸の匂い、それに、オレンジの果汁のような甘い香りが、かすかに漂った。

 普段は使いなどしない香水を、湯上がりにつけたらしかった。

 ——それだけじゃ、爪の奥まで入りこんだ湿った臭いや、肌に染みついた鉄のような臭いはごまかせないのに。


  ○


「お父さん、夕ごは……」

 扉を押し開けた私の上着に、鮮血がざあっと降りかかってきた。

 ごつん、とむこう側から戸板にぶつかってきた何かが、そのままごろりと床に転がる。

 目をむけるとそれは、引きちぎられた人間の頭だった。

 くちゃ、くちゃ、というちいさな音に顔を上げれば、部屋の中央部、実験ベンチに飛び乗った四つん這いの影が、そこに横たわる胴体の腹のあたりに喰らいつき、はみ出した腸を咀嚼している。

 私のほうを見たそいつの、猿のようなしわしわの顔面。

 赤く染まった口のまわり。

 私が父がやっていたことを真似できないのは、ただ単に適性を受け継がなかっただけなのか。それとも、そのときの光景が記憶に染みついてしまっているからなのか。

 ともかく、私は学校を卒業したあとは父の仕事を半分だけ継承し、薬草の採集や調合をするかたわら、書庫に残された古典籍の研究を細々とつづけていた。

 当時まだ赤ん坊で、母屋で眠っていた妹は、何も見なかったし、何も憶えていないはずだ。

 けれども、ものごころがつくころになると、彼女は不思議なひとり遊びをするようになった。

 はじめは泥人形だった。

 家の前の空き地は、香草やすこしばかりの芋や野菜を植えられるように地面を耕してある。

 雨の日が続くと、そこには水たまりがいくつもできた。

 それらのぬかるみから柔らかい土をすくいとり、玄関ポーチの板張りの上に盛っておく。

 空が晴れて数日もすれば、ほどよく水分の抜けた土は、手で好きなふうに整形できるようになる。

 そうしてできた粘土をぐにぐにといじり、頭や体、手足を作る。

 木の棒を押しつければ、目や口を描いたり、大きなボタンがついた服を着せたりするのも自在だった。

 そこまでは、父が私にやってみせてくれたとおりに私が妹に教えたこと。

 彼女はすぐにその遊びに熱中し、雨降りの日を心待ちにするようになった。

 だが、それから先は、自分で思いついたのか、誰かに聞いたのか。

 粘土がたくさん準備できると、妹はまず一日をかけて手のひらほどの大きさの人形を5体、10体と練りあげた。

 翌日に、彼女はまた一日がかりで人形を吟味する。

 そして、せっかく作った人形の頭や手足を木のへらで胴体から切り落としてしまう。

 それから彼女は、ばらばらになった人形を、右手、左手、右足、左足……と、部位ごとに見比べていく。

 切り離された頭部だけをふたつ手に持って一日中ためつすがめつしているようなこともあった。

 最後に彼女は、いちばん気に入ったパーツだけを水で湿らせた粘土で貼りあわせ、理想の一体を完成させる。

 そうやって作られた泥人形は、すぐに潰されてしまうこともあったし、次にまとまった雨が降るまでの間ずっと、玄関ポーチや裏の森を臨むデッキに飾られていることもあった。

 

 妹がもうすこし大きくなると、私は彼女に針と糸の使いかたを教えた。

 しばらくして私は、妹と私がふたりで使っている寝室から、ぬいぐるみがいくつか減っていることに気づいた。

 ずっと深い森の奥で生活させていることを申し訳なく思うのか、父はたまに町に出ると、私たち姉妹のために、お人形やぬいぐるみ——それに、ときには櫛や髪かざり、強い人工的な匂いのする安物の香水なども——を手に入れてきてくれた。

 ふさふさの毛が生えた店売りの猿やライオン、端切れを縫い合わせたものに綿を詰めた手作りふうの牛や馬、テディベア、毛糸の髪にボタンの目をした女の子。

 それらは背の低いチェストや窓の桟、朝起きて整え直したあとのベッドの上に、ところせましと並べてあった。

 姿を消したぬいぐるみたちは、数日後、居間の長椅子の背と壁との隙間で見つかった。

 あるものは手足が切られ、あるものは頭を失い、あるものは腹を割られ、傷口からは綿が無残に飛び出している。

「どうしてこんなことをするの? かわいそうじゃない」

 拾い上げた数体を手に妹を叱ると、彼女は、どうして怒られるのかわからない、という顔で、かわいそうじゃないよ、と答えるのだった。

 それからも一体、また一体とぬいぐるみはいなくなった。

 家中の家具の陰はもとより、前庭や家の脇の木々の下で落ち葉や泥にまみれているのを発見することもあった。

 妹を問い詰めると、彼女は毎回、自分がやったことは認めるのだけれど、罪悪感はまったく抱いていないようなのだった。

 そして、数ヶ月が経って。

 新月の夜が明けた朝、朝食の席についた妹は、抱いてきたぬいぐるみを自分の隣の椅子に座らせた。

 そのぬいぐるみには見覚えのある頭部がついていた。

 毛糸編みの生地で綿を包んだ丸い顔。

 ただ、もともとそこにあったはずの茶色いボタンの双眸は、片方が赤、片方が青のものになっていた。

 むしられた毛糸の三つ編みのかわりにライオンのたてがみが乱雑に縫いつけられ、どうやって染めたのか、ちょこん、とついていただけの紅色の唇は横に裂けている。

 不釣り合いなほどにちいさな胴体は灰色のテディベアから取ったものに違いない。

 その右側からは猿のぬいぐるみのものだったらしい腕がだらりと垂れ、左手は逆に、掌だけが真横に突き出していた。

 右脚は先に木製の蹄のついた馬の、左脚は白い毛がもこもこと植わった羊の。

 さらに両脚の間からは長い牛の尻尾が生えている——。

 妹が毎日連れ歩いている「ちゃいろさん」は、こうしてこの世に現れた。


「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 何か切るものと、瓶、ちょうだい」

 早く、早く、と裏庭に駆けこんできた妹が急かすので、私はちょうど洗って井戸端に伏せてあった背の低いガラス瓶と、作業台の上に出したままだった剪定鋏を彼女に渡した。

 何に使うの? 私の質問が終わる前に、彼女はもう家の角をまわっていってしまっている。

 私は苦笑して、薬草を乾かすための下準備に戻った。

 するとほどなくして、前庭のほうから、ひいっ、という動物の鳴くような人の悲鳴のような声が響いた。

 妹が何かしでかしただろうか。

 心配になって様子をうかがいに行くと、玄関ポーチ前の畑の、豆の蔓を絡みつかせた棚がわずかにかしぎ、その根元に落ちているものがある。

 近づいてみれば、それは妹が肌身離さず持ち歩いている「ちゃいろさん」だ。

 その傍らに、私がさきほど妹に貸したばかりの大ぶりの鋏が転がっている。

 腰をかがめ、ふたつを拾い上げようとしたとき、私は不吉な予感で心臓が締めつけられたようになるのを覚えた。

 剪定鋏の尖った2本の刃が、べっとりと濡れていたのだ。

 赤黒い血液で。

 見まわすと、ここ数日の日照りで乾いて白っぽくなった土の上に、ぽつり、ぽつりと血の滴が垂れている。

 私は動悸する胸をおさえながら、それをたどっていった。

 不規則な間隔でついた血痕は畝の間を抜け、庭を斜めに横切って、今は使っていない離れの裏手あたりから森に消えていく。

 息を大きく吸って、吐いて、私は下生えに足を踏み入れた。

 そのとき。

 前方の薮の中から、突然、ばたばたばたばたっ、という音がした。

 それに驚いて立ちすくんだ私の前に、ひょっこりと顔を出したのは妹だった。

「あ、お姉ちゃんだ」

 見て、これ捕まえた。そう言ってガラス瓶に自分の手で蓋をして差し出してきた彼女の指は血に塗れ、薄い空色のワンピースの襟や袖にも、白い前掛けにも、額や鼻の頭にも、赤い滴がはねている。

 そして、瓶の中を見た私は、さらに顔をこわばらせることになった。

 そこにはちいさな石のようなものが、ころん、と入っていた。

 ただの石ではない。

 私の眼前で、その表面はかすかに明滅しながら、灰色から紫、紫がかった赤、と色を変えたのだ。

「『ちゃいろさん』に見せてこよっ」

 妹がスキップしながら前庭のほうへ戻っていったあとで、さきほど彼女が出てきた茂みを恐る恐る覗いてみると、兎が1匹、くたりと斃れている。

 目は見開かれたままだったが、耳は折れ、手足はだらりと伸び、なにより、腹の下の地面には、黒い染みが広がっているのだった。


 日暮れどき、布で顔を隠して林道を登ってきた若い女が、人目を気にしながらそそくさと坂を下っていく。

 色褪せたスカートに粗末な靴、近くの農場の娘なのだろう。

 数本ばかりの麦が穂を出している畑ごしにその背中を見送っていた私に、だれ? お客さん? と声がかかった。

「子供を堕ろしたいんだって」

「ふーん」

 玄関ポーチの端のほうに腰かけた妹は、興味のなさそうな返事をかえしてくる。

 背中を丸め、自分の手元を覗き込んで、熱心に何かをいじっている様子だった。

「もうちょっとしたらご飯だからね」

「うん」

 そう答えるときにも顔を上げなかった。

 しばらくして、準備ができたよ、と呼ぶと妹は家に入ってきてテーブルについたのだけれど、手の上ではまだ、ちいさなものをこねまわしている。

 私は彼女に、片づけてきなさい、と言いつけて、また泥人形遊びでもはじめたのだろうか、と何気なく目を向けただけだったのだが……。

 一瞬、目の前が真っ暗になったような気がした。

 彼女の掌に乗っていたのは、泥団子などではなかった。

 黄色がかった緑に輝く小石なのだ。

 色こそ変わっていたけれど、それは昨日、兎を追っていったときに採取した石と同じものであるはずだった。

「そんなので遊ばないの! 早く捨ててきなさい!」

 妹は、体の変調を紛らわそうと叫び散らす私の剣幕に、ぽかん、とした顔になる。

 その表情が、私の怒りと困惑をさらに強いものにした。

 私は妹の腕を掴んで無理矢理立ち上がらせ、勝手口のところまで引きずっていった。

 そして彼女の固く握った拳をこじ開け、石を宙に放させた。

「あ」

 彼女が伸ばした指の先をすり抜けた光の玉は、デッキの板の上でいちど跳ねたあと地面に転がると、じゅうっ、と音を立てて一瞬の間、白く輝き、それからさらさらと崩れて消えてしまった。

 妹の目にじわり、と涙が浮かんだ。

 唇をぎゅっと噛んで私を振り切って走り去っていった妹は、家に寄りかかるように建てられた農具などをしまう小屋の隅の、いつもの隠れ場所にしゃがみこんでいたけれど、私が声をかけても決してそこから出てこようとしなかった。

 説得をあきらめて台所に戻ると、椅子のひとつの上に取り残された「ちゃいろさん」が非難するような視線で私を見るのだった。

 

 それ以降、妹が光る石を触っているところを目にすることはなくなったのだが、家の中や菜園のまわりにときおり不可解な解体のされかたをした鼠や小鳥、蛙の死骸が落ちていることがあったから、彼女は私に見つかることのない隠し場所を探し出したのだろう。

 11歳になったとき、妹は自分だけの部屋と自分だけのベッドを持つことを希望した。

「血の臭いがするね」

「嫌ならもう一緒に寝なくてもいい」

 私と妹の間で何度か交わされたそんな会話がひきがねになったのかもしれない。

 私は、それまで本を取りに入るとき以外はほとんど手をつけていなかった父の書斎兼寝室の埃をはらい、ふたりで使っていた子供部屋を妹に明け渡して、そちらに移った。

 古文書を読んだり薬草の調合を紙に書きつけたりして私が遅くまで起きている夜、壁いちまい隔てただけの隣の子供部屋から低い話し声が聞こえてくることがときおりあるようだったけれど、声の主が誰であるのかは杳として知れなかったし、妹に訊ねても何も教えてはくれないのだった。

 

 その後一度だけ、私は家の裏にできた水たまりの中に奇妙な生き物がいるのを目撃した。

 もともとの四肢のあるべきところに裁縫用の黒い太い糸で蛙の脚を縫いつけられたそいつは、脚の方向があべこべなせいでまともに歩くことすらできず、泥にまみれてばたばたと転がりつづけている。

 私は心の中で安堵のため息を漏らした。

 妹がそれを、「ちゃいろさん」と同じように手元に置こうとしなかったことに。


  ○

 

 ——私たちの祖先は、悪魔と契約して魔術を操った罪科で首縊りになったのだという。

 それは、遠い歴史の中のことでも、海のむこうの私たちが見も知らぬ土地でのことでもない。

 たかだか数世代前、この家から数10マイルと離れていない村でのことだ——。


 父を埋葬したあと、私はかつて父が実験室として使っていた離れを、板と釘と鎖とで厳重に閉ざした。

 しかし妹は、いつのころからかそこに立ち入る方法を見つけ、たびたび忍び込んでは文献や実験記録を読んでいたらしい。

 森に遊びに行ったり、学校に行っていただけのはずの彼女の上着やスカートに、長年封じ込められていた薬品と湿っぽい埃の混ざった臭いが染みついていることが幾度となくあるようになって、私はそれに気がついた。

 もちろん、離れに近づくのは厳禁、と私に何度も言い聞かされていた妹は、いくら問い詰めても、知らない、入っていないの一点張りだった。

 けれども、まだ劣化したり発散したりしてしまっていなければ、彼女は見たのだろう。

 壁際の棚の上に整然と並んだガラス瓶を。

 そこに入れられた、薬液に浸った人体の一部や、ぼんやりと明滅し色を変えるちいさな石。

 「いちばん良い組み合わせ」を実現するために父が収集した部品の数々を。


 そして、去年の末、妹の冬休みがはじまったその晩——日を正確に覚えているのは、妹が学校から帰ってくるすこし前、毛皮を着込んで猟銃を携えた男たちが森の中から現れて、隣村の親類を訪ねていった一家が戻ってこないので山狩りをしている、と告げていった日でもあったからだ——最初の事件が起きた。

 二階家の全体を揺るがすようなノック。

 深夜の突然のおとないに、私が何事かと廊下に出ると、妹の部屋のドアのむこうから声が上がった。

「出ちゃだめ。お姉ちゃん、出ちゃだめ」

 そのときは、しばらくしてドアを殴りつける音も止み、来訪者は去って行ったようだった。

 翌朝、表に出た私は、前庭に降り積もった新雪の上に残されている、ひと組の足跡を発見した。

 大きな靴の跡と、ちいさな靴の跡。

 大人が子供を連れて歩いたのだろうか。

 ときおり引き摺り加減になるほかは、ほぼすべてが一定の間隔についていた。

 追いかけてみると、森の中からあらわれ、戸口の前で立ち止まり、家の外を一周したあと、ふたたび周囲を取り巻く森に消えていく。

 私は室内に戻り、外套とブーツと手袋を身につけた。

 それから玄関扉の上にかけてある2連発の散弾銃を手に、足跡の主が進んで行ったらしき方向とは逆向きに足跡をたどって木々の間に踏み込んだ。

 たいして進まないうちに足跡は途切れていた。

 その先の地面には穴があった。

 さほど深くはなく、長さも子供ならばひとりが横たわって入れるほど。

 つい最近掘り返されたのだろう、穴の内部と周辺に散らばった土はほんのりと雪をかぶっている程度で、湿った落ち葉のような新鮮な土の匂いが立ちのぼってきていた。

 まわりをぐるりと巡ってみたけれども、穴を作った何者かがその地点までやって来たときに着けたはずの痕跡は、雪に消されてしまったのか、ひとつも見つけることができなかった。

 家をはさんで反対側につづいている足跡もしばらく追ってはみたのだが、私だと手がかりなしでは立って歩けないほど斜面が急になっているところを越えて、さらに先へと向かっていたので、それ以上の探索はあきらめざるを得なかった。

 麓の町や近隣の開拓農地から、日が落ちるまで作業をしていた働き手や、丘に橇滑りに行った子供たち、枯れ枝を拾いに浅い山に入っただけのはずの娘たちがいなくなることが頻繁に起こるようになったのと、生まれた直後からこの山中で育ち、環境には慣れているはずの妹——11歳の誕生日をむかえたときに、もうお姉ちゃんとは一緒に寝ない、と一方的に宣言した妹——が、夜の闇が怖いと言って、たびたび私の部屋に寝に来るようになったのは、それからだ。

 妹とひとつ布団の下に入ると毎回必ず、それ以外の日にはつけていない柑橘系の香水が彼女の肌から香った。

 

 居間の柱時計が1回鳴って、私は、はっと現実に引き戻される。そのつもりはなかったけれど、寝入っていたのだろうか。

 それとも、いろいろなことを思い出していたせいで12時を告げる音を聞き逃してしまったのか。

 いつも通りなら、そろそろ来る刻限だった。

 私は、父がなぜ、あのような研究をはじめることになったのかを知らない。

 どうして妹が——「研究」とはまだ呼べないかもしれないけれど——父と似たような行為に手を染めるようになったのかも。

 みずから思い立ったのであれ、誰かに示唆されたのであれ、父や妹の行動原理は私には理解しがたいものだった。

 でも私たちはそもそも、そういった異質の積み重ねで成り立っているものなのかもしれない。

 1階の玄関の扉が乱暴に叩かれる音がした。

 隣で寝ている妹が、しかめ面を作り、ううん、と唸りながら寝返りを打つ。

 彼女の隣で「ちゃいろさん」が犬のようなちいさな唸り声をあげたように思えたのは、気のせいだったろうか。

「出ちゃだめ。お姉ちゃん、出ちゃだめ」

 あの夜、私を制止した妹が、つづけて発した言葉が脳裏によみがえる。

 彼女は、こう言ったのだ。

「お父さんみたいに死にたくはないでしょ」

 私たちの父親が凄惨な死をむかえたとき、妹はまだ赤ん坊で、母屋ですやすやと寝ていたはずだ。

 なにも知らずに。

 そっと体を起こしてベッドから離れると、私は部屋履きをはいて肩掛けを羽織った。

 部屋を出て暗い廊下を抜け、階段を小走りに駆け下りる。

 荒々しいノックが、もういちど響く。

 私はドア枠の上にかけてある散弾銃を取り、装弾がなされていることを確認する。

 折った銃身を元に戻すと、安心感のある手ごたえとともに機関部が閉じる。

 それから私は、ふたつ付けてある錠前を外してノブを回す。

 そして、開いた扉のむこうに立っている来訪者に、鹿弾を2発、つづけざまにぶち込むのだ。


奥付



オレンジの香り


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著者 : 高家あさひ
ブクログのパブーで公開中の作品: http://p.booklog.jp/users/asahit


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