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芥子の花  1996年 日本

 ラフマンは、注文したハンバーグステーキに添えられていた、丸い人参のソテーを、さっきから何度もフォークでひっくり返している。波打つようなギザギザの切れ目が入った方を表だとすると、裏面ののっぺりとした平面には、ハンバーグの油がべったりとくっついて、テカテカと光っている。とてもそれを口に運ぶ気にはなれない。テカテカ、クルクルと鉄板の上で何度も回る人参を見ているうちに、幼い日の記憶が紐解かれていく。パキスタンの村で、大人たちが栽培していた、芥子の花。人参の色と形が、思い出したその芥子の花に、よく似ていた。
 
 池袋。午後一一時。
 『ジョナサン』にはラフマンたちの他に数人の客しかいない。これから深夜にかけて、長時間居座り続けるために、彼らは皆、仕切りのないソファー席に、空気の壁のようなものをこしらえている。自分達だけの空間をそこに作って、少しでも居座りやすくしている。
 昼間は、店の慌ただしさでまるで聞こえない、安っぽいオーケストラのBGMが、その空気の壁に頼りなく跳ね返りながら、店の中で浮遊している。客たちは、その空間を手に入れるために例外なく、午後十時以降に、10%割増しの料金を払う。
 大学生らしき男が一人と、若いカップルがちらほら。その中の一組のカップルが、さっきからラフマンたちの席を見ては、こそこそと何か囁き合っている。恐らく日本人の早苗とラフマンが、同じ席で向かい合っているのが物珍しいのだろう。今ではれっきとした日本人なのだが、ラフマンは、数年前まではパキスタン人だった。苦労の末、やっと日本国籍を手に入れた。
 しかしそんなことを、そのカップルが知るはずもない。だからといって、彼らの目の前まで行き、空気の壁を破り、「やあ、こんばんは。僕、こう見えても日本人なんです。勘違いのないように」と説明する必要もない。当然と言えば当然だ。それに、そんな視線にも、ラフマンは慣れっこだった。
「時間、まだ大丈夫? 夜勤っていっても、まだ暑いから気をつけてね。水筒は忘れてないわね? まったく会社もヒドいわ。いきなり日勤の後に、夜勤で入れなんて。せめて事前に知らせてくれないかしらねえ。」
「大丈夫だよ。こうやって仕事があるってことは、幸せなことだ。それに夜勤の後はよく眠れるから好きなんだ。昼夜が逆転してすまない。って社長は言ってたけど、僕はなんだか平気なんだ。幸い体力には、まだ自信がある。こういうの、なんて言うんだっけ? ええと、『昔取ったキネヅカ』だっけ?」
 日本に来て、もう十六年になる。今では流暢に日本語を話せたし、そうやってことわざまで持ち出せる。体力に自信があるのは、パキスタンにいた頃、ライトミドル級のボクサーだったからだ。将来も有望視されていた。しかし、度重なる紛争が続くうち、ボクシングを続ける環境は、どんどんなくなっていった。世界タイトルなど夢のまた夢で、国全体が戦争へ向かって突っ走っていた。
 日本に亡命してきた時、ラフマンはこれから自分がどうなるのかなんて、何一つ分からなかった。自分は一度死んだのだという考えを、消すことができなかったし、それが消えないことを、望んでいるような自分も、確かに存在していた。ひょんなことから、今の会社での仕事を得た時も、ラフマンは、ろくにその内容も聞かなかった。
 
 要町にある『有限会社飯田商店』は、主に会社のオフィスの移転業務を請け負っている会社だった。ビルから運び出した、デスクやらパソコンやらを、同じビルの違うフロアに運ぶこともあれば、丸の内のビルから運び出した荷物を、千葉の奥地まで運ぶこともあった。ビル自体が改装する時は、昼間の時間帯で作業を行ったが、直前まで業務を続けるような会社の移転は、夜間に作業をしなければならなかった。しかも、次の日には通常業務が行える状態に、夜中のうちに戻さなければならない。移転する距離にもよるが、夜間の作業は過酷を極めた。日勤を終えた後に、夜勤に入るラフマンの身を、早苗が心配するのも無理はない。
「ラフマン、困ったことがあったら何でも言え、金以外はなんとかしてやるから。なんてな。わはは!」
 飯田商店の社長、飯田は、ラフマンのことを、いつも何かと気にかけてくれていた。ラフマンが昔ボクサーだったことを知ると、自分も昔、プロを目指してたんだぜ。と言って、ラフマンの知らないボクサーの名前を口にした。そして、そいつらと同じジムだったのだと、今でもよく自慢話をする。
 見た目は豪傑で、山男のようだったが、飯田は繊細で、人に気配りを欠かさない。ラフマンの日本語が、まだおぼつかない頃にも、積極的にコミュニケーションを取ってくれたし、飯を御馳走してくれることもしばしばだった。
 早苗は飯田商店で事務員として働いていて、飯田が時折、その席に彼女を誘い出した。初めは何も話さなかった早苗だったが、機会を重ねるうちに、少しずつラフマンとも話をするようになった。やがて早苗とラフマンが結婚することになり、それを機にラフマンは日本国籍を取った。これまでアルバイトという立場だったが、正式に飯田商店の社員になった。新しい名前も手に入れた。
 結婚を報告した時、飯田は手を叩いて、我がことのように喜んだ。式を挙げる金などなかった二人のために、会社の事務所でささやかなパーティーを開いてくれた。従業員だけの小さなパーティーだったが、ラフマンは涙が出るくらい嬉しかった。
 社員になったとはいえ、ラフマンの稼ぎだけでは暮らしていけない。早苗は事務員として会社に残った。今でもラフマンは、飯田に強い恩義を感じている。だからいくら仕事がキツくても、我慢できる。
 夜勤の時間まで、仕事を終えた早苗と落ち合って、遅い夕食を食べるのは、決まってこの『ジョナサン』だ。池袋の外れの、家までの帰り道にあるこの店でこうやって食事をするのが、いつからか、二人の習慣になっている。
 その日もいつもと変わらない食事のはずだった。しかしラフマンは、ハンバーグに添えられていた、丸い人参を見てから、ずっと昔のことを考えている。軍の資金源のために密輸される芥子を、村の奥に密かに作られた、広大な畑で栽培していたこと。村中の大人達が、銃を持った男たちに、奴隷のように働かされていたこと。逃げ出す者や逆らう者は、虫ケラのように殺されていったこと。強い者だけが生き残る。そう信じて軍に志願したこと。そこで出会ったボクシングに魅せられ、のめり込んでいったこと。
 あの試合の前日に空爆があって、とうとうあいつと決着をつけることができなかった。あの男のことを、ラフマンは思い出している。アブドゥル・ミゲルのことを。


黒豹と虎  1979年 アフガニスタン

 リングから降りたミゲルの目の前に、興奮した観衆が集まってくる。客の大半は軍人だったが、中にはチャパンに身を包んだ金持ちや、パキスタン経由でお忍びでやってきた石油王なども混じっている。大声でミゲルの勝利を讃える声と、アラーに祈りを捧げる声とが入り混じって、そこは異様な熱気に包まれている。
 4ラウンドKO勝ち。ミゲルはその声に応えるように右手を高々と挙げる。最後の試合を務めたミゲルの相手は、一回級上の何とかというタジク人だった。名前なんて覚えちゃいない。ミゲルのジャブは面白いように相手の顔面をとらえ、そいつが弱った頃に、左フックをボディーに二発叩き込んだ。体がくの字になったところで、返しの右アッパーをお見舞いして完全に意識を断った。ミゲルの必勝パターンだ。
 アフガニスタンとパキスタンとの国境にほど近いその街で、週に一度リングが組まれていた。リングと言っても、木の棒に藁の紐を巻いただけの、お粗末なものだったが、賭けが行われるその興行には、毎週各地から多くの人が集まってきた。誰もが不安を抱えていて、それを発散できる場を求めていた。ソ連軍による、アフガン介入直前のこの年、街にはミゲルの所属するアフガニスタン軍だけでなく、国境を越えてやってきた、パキスタン軍の人間も数多く混じっていた。リングの中も、国と国とも、その時、国境などは存在していなかった。
 ミゲルの周りに集まってきたのは、ほとんど全員が、ミゲルの勝利に賭け、金を手に入れた奴らだった。ルールは国際試合そのままに行われたが、階級は関係なく、一日に何試合も戦う日もあった。過酷な試合をこなす中で、ミゲルは負け無しのチャンピオンだった。「砂漠の虎」と呼ばれ、アフガニスタンの国内においては、最強とまで言われていた。
 しかし、ミゲルの戦歴のなかで、二回だけ引き分けた試合がある。そのどちらも、相手はパキスタン軍にいた、ラフマンだった。「荒野の黒豹」と呼ばれていたラフマンとの二試合は、最終ラウンドを終えても決着をつけることができなかった。初めて戦った試合は、自分の負けだったと、ミゲルは思っている。足を武器にするラフマンのスピードは、最後まで衰えることを知らず、ミゲルはその華麗なボクシングに翻弄され、ほどんど決定打を打ち込むことができなかった。
 ジャッジがいなかったので、試合には判定がない。倒すか倒されるかだ。最後まで決着がつかない時は「引き分け」とされた。次に戦った時も、ミゲルは善戦こそしたが、決着はつかなかった。二人の力は、恐ろしいくらい均衡していた。 
 
 駆け寄ってきた群衆から少し離れたところに、ラフマンが一人で立っている。その日ラフマンの試合はなかった。ミゲルはラフマンに気がつくと、頷いて合図を送った。ラフマンもそれに応える。群衆が散らばっていった後、二人はリングから少し離れた場所に並んで座った。ミゲルの試合に興奮冷めやらぬ観客たちは、試合が終わっても、なかなか帰ろうとしない。
「来てたのか、ラフマン。お前だったら今日のタジク人、何ラウンドで転ばす?」
「どうだろな? まあ、4ラウンドはかからないことは確かだな。誰かさんみたいには手こずらない。」 
 いつからか二人は、お互いの力を認め合う友人になっていた。
「よく言うぜ。お前のスピードなら捕まりゃしないだろうが、逃げるばっかりじゃ、相手は倒れないんだぜ。」
「心配すんな。お前と次やる時は、蝶のように舞い、蜂のように刺すぜ。」
「なんだそりゃ?」
「知らねえのかよ。モハメドアリさ。アメリカで成功したチャンピオンさ。」
「モハメドなのにアメリカ人なのか?」
「アフリカンの血らしいぜ。」
「ほんとかよ? 俺たちもいつかそれくらい有名になれるかな? 強けりゃ誰もがついてくる。負ければ全てを失う。ラフマン、いつか一緒に、アメリカに行こうぜ。二人で世界を目指すんだ。」
「いいね。いつかお前の国と俺の国は、一つになるだろう。軍もあまり必要なくなる。平和な国に、軍隊はいらないからな。そうなったら除隊して、アメリカでもどこでも行けばいい。」
「その前に、お前との決着はつけておかなきゃな。階級制になったら戦えないしな。近々試合はできそうか?」
「そうだな。クリスマスにはできるだろ。」
「きっとだせ。ぶちのめしてやるぜ。」
「ぶちのめされるのはお前だよ、ミゲル。」
 そう言って二人は笑い合った。ミゲルはまだ試合の興奮が冷めやらないのか、立ち上がってシャドーを始めた。ラフマンにもその気持ちがよく分かる。二人とも、ボクシングに取り憑かれていたのだ。ボクシングだけが世界の全てだった。
「そういや、今日は彼女は来てないのか? お前の自慢の女。」
「ナディーは今日は来れなかったんだ。それに、あんまり殴り合いも好きじゃないらしい。どうしてだろうな。どうして女には、この素晴らしさが分かんないんだろうな。」
「俺に訊くんじゃねえよ。所詮、女には縁がないみたいなんでね。羨ましいよ。お前が。虎にはもったいない位の女だよ。彼女は。」
「ああ、正直俺もそう思うぜ。いささか良すぎるのが問題でね。」
「言ってろよ。まったく。」
 客が散らばり始め、リングも撤収されようとしている。別れ際にミゲルが、ラフマンを呼び止めて言った。
「おい、ラフマン、さっきお前、クリスマスって言ったよな?」
「ああ、言ったぜ。」
「アラーは、偉大なり。クリスマスなんて関係ないだろうが。この異端者め!」
 ふざけてミゲルが、右フックを入れる真似をする。
「例えだよ、例え。でもほら、アメリカに行くんだろ? それだったらまんざら関係なくもない。」
 ミゲルもふざけてそれをよける真似をする。二人は、もう一度笑い合って別れた。
 
 その年のクリスマス。ミゲルとラフマンは、決着をつけることはできなかった。
 ソ連軍のアフガン侵攻。パキスタンはアメリカ軍の影の支援を受けながら、ソ連軍と対立した。二人の試合の前日、ソ連軍はありとあらゆる街を爆撃し、そのほとんどは壊滅状態になった。二度とそこにリングが組まれることも、観客が集まることもなかった。
 アフガニスタン軍も、パキスタン軍も、忍び寄る大国の介入に怯えながら、それから長い戦闘の時代に突入した。二人は運命に翻弄され、二度と会うこともなかった。
 ミゲルが今どこにいるのか、生きているのか、死んでいるのかさえ、ラフマンは知らない。ましてラフマンが、日本という国に流れ着いて、日本人になったということなど、ミゲルが知っているはずもない。


首都高速  芝浦出口付近

 夜勤の仕事に入るのは初めてではないが、その夜の仕事は、いつにも増してハードだった。池袋のビルの三十一階から降ろした荷物を、芝浦の新しいビルまで運ぶという内容だったが、搬出用のエレベーターが一機しか使えず、池袋を出発した時には、もう東の空が白み始めていた。
 首都高速湾岸線に乗ってからずっと、芝浦でラフマンたちを待っている、電気工事の連中からの電話が、ひっきりなしに鳴っていた。彼らは、配置されたパソコンの接続作業をするために呼ばれているので、ラフマンたちの荷が届かなければ仕事にならないのだ。これまでも何度か荷物を運ぶのが遅れ、その度に謝っても、あからさまに嫌な顔をするそ彼らのことを、ラフマンはあまり好きではなかった。
「すいませんねー。いや、もう少しで高速を降りますから。はい、いや、本当に申し訳ありません。そんなことおっしゃらずに。超特急で向かいますから」
 助手席に乗った平山が、業者からの催促の電話に何度も謝罪して、ご機嫌をとっている。電話越しに相手にお辞儀をする日本人の習慣が、ラフマンは未だに不思議でならない。携帯越しの相手にジェスチャーをする人々の姿が、とても奇妙で滑稽に見える。
「マズイっすね。ラフさん。こりゃあ着いたら速攻始めないと、何言われっか分かったもんじゃない。しかしあいつら俺たちがどんなに遅れても、ぜってー手伝わないんだよなー。まったく何様のつもりだよ。」
 運転手の本田が、平山の電話に話し声が入らないように、小さな声でラフマンにそう囁いた。真ん中に挟まれたラフマンは、苦笑いで水筒に入った水を一口飲むと、ほとんど車の走っていない高速道路の標識に目を向ける。「湾岸線」「銀座」「目黒方面」「渋谷300メートル先分岐」今では何の苦もなく、漢字で書かれた標識を読むことができるし、街と街の位置関係も、だいたい分かる。しかし働き初めの頃は、車に乗せられて、あちらこちらを飛び回っていると、いったい自分がこの国のどこにいるのかが分からなくなり、無性に不安になったりしたものだ。
 平山は、ラフマンが会社に入る前からずっと働いているベテランで、歳もラフマンよりだいぶ上だった。仕事での顔も広く、信頼も厚い。普段はあまり喋らない、無口なイメージだったが、客の前では「調子のいいおじさん」というキャラクターを演じきっていた。それは、平山が必要に駆られて手に入れた処世術であるのは、ラフマンにもなんとなく理解できたが、そういう生き方は多分、疲れるだろうなと、いつもラフマンは思っている。平山は、ラフマンに対してどちらかというと好意的に接してくれていたし、仕事の先輩として世話になってはいるが、ふとした瞬間、急に黙り込んだりする彼を見ていると、どちらが本当の平山なのかを、分かり兼ねるところがあるのは確かだった。
 それとは対象的に、本田は底抜けに明るく、少年がそのまま大人になったような男だった。大人のような少年と言った方がいいだろうか。実際、年齢の若さもその理由ではあっただろうが、本質的に本田は物事を深く考えず、ポジティブに進むことができる男だった。
 ラフマンが社員になったすぐ後に、アルバイトとして会社に入ってきた本田は、仕事が終わると自分が組んでいるバンドの練習に向かう毎日で、「いつか音楽の世界で売れて、この世界とはおさらばっすよ」といつも口癖のように言っていた。一緒に働き始めてすぐに、ラフマンのことを「ラフさん、ラフさん」と呼び、パキスタンがどんな国なのか、何を食べてるのか、女は綺麗なのか、というようなことを、どんどん訊いてきた。
 普通なら、デリカシーのないと思われるようなことでも、本田の手にかかると、不思議とその嫌味は感じられず、相手に不快な印象を与えることもなかった。それはとても得難い才能だ。その才能が、音楽でも発揮されることを、ラフマンは切に願っている。
 何度か本田に、バンドを見にきてくれと言われていたが、まだ彼の演奏を聞いたことはない。歌を歌うらしいが、日本語の歌というのは、どうも難しいので、なかなか足を運べない。いつのことだったかラフマンは、車の中に置きっぱなしにしてあった、本田の楽譜を見たことがある。
「Like birds fly」
 そうタイトルがつけられていた。それを見て以来、いつか必ず本田の歌を聞きに行こうと、ラフマンは心に決めている。

「だめだ。あちらさんカンカンだよ。とりあえず、パソコン系の物を片っ端から上げていくしかないな。まったくやりにくいなあ。」
 平山が電話を切ると、少し声のトーンを落としてそう言った。
「大丈夫っすよ、平山さん。あいつらのことなんて気にしないでやりましょうよ。こっちだってわざと遅れてる訳じゃないんですから。それにあいつらが文句言うのは、よおく考えたら筋違いですよ。」
「そうは言ってもな、なかなかそうはいかないのが世の中なんだよ。バランスが肝心だ。おい、その先左な。芝浦まで一五分で行くだろ。この時間帯なら」
「バランスですかー。俺にはよく分からないなー。ラフさんは分かります? パキスタンでもそういう、なんて言うんだろ、義理とか世間体とかいう感覚って、みんな持ってんすか? 俺は日本人だけだと思うなー。」
「おい、おしゃべりはそこまでな。搬入先の割り振りを確認しとくぞ。本田、お前はエレベーター前で荷捌きだ。俺とラフマンで、フロアの部屋ごとに手分けして運んでいくぞ。守衛室の前にエレベーターがあって…」
 平山の説明を聞きながら、ラフマンは、本田の口にした言葉について考えている。今までそんなことを、意識したことなんてなかった。意識する暇もなかった。ボクシングが全てだった。それ以外のことには目も向けなかったし、周りに目を向けた時にはもう、全てが崩壊していて、消え去っていた。イスラムの教えが、あらゆる形にねじ曲げられ、国中にあらゆる正義が点在していた。
 もちろん、ラフマンもイスラム教徒だったが、亡命する頃にはもう、とっくに信仰心を捨ててしまっていた。今では、メッカの方角を向いて跪くこともなければ、ラマダンに入ることもない。祈りの時間にはワイドショーを見て、ファミレスでハンバーグを食べるのだ。それでいいのか悪いのかは、ラフマンには分からない。分からないが、それが自分の「現実」なのだ。失った時間は、もう戻らない。
「じゃあ、いっちょやりますかー、ラフさん。あと一踏ん張りですから。やっつけちゃいましょうよ!」
 本田がそう言いながら、ウインカーを左に出す。芝浦出口。この出口で降りるのも初めてじゃない。
 ラフマンはもう一度水筒の水を飲む。どうせそれも、一瞬で汗になって消えてしまう。やがてその汗と一緒に、過去もすべて消えていってしまうのかな。ラフマンは、ふとそう考えた。


花屋敷

 初めて二人だけでデートをしたのは、浅草の『花屋敷』だった。どうしてそこに行こうと決めたのかは、思い出せない。普段暮らしている、池袋界隈を離れたいと早苗が言ったような気もするし、浅草には行ったことがないと言ったラフマンの意見を聞いて、そうしたような気もする。二人は休みを合わせて、地下鉄を乗り継ぎ浅草に向かった。都営線の電車は車両が狭く、車内は混み合っていた。
 思えば早苗も、ほとんどこの街には来たことがない。ラフマンが珍しそうに下町の商店街を眺めて歩くのと同じように、早苗もまるで異国の街に来たような感覚で、街を歩いていた。浅草寺を経由して花やしきの前に着くまで、二人はほとんど会話らしい会話はせずに、駅で一つずつもらった、浅草の地図を眺めてばかりいる。周囲から見ても、日本人の早苗と、中東系のラフマンが並んで歩く姿は、珍しく見えたに違いない。すれ違う観光客が、時折振り返って、早苗たちを見ているのが分かった。
 日曜日だということもあって、花屋敷は混んでいた。入場するのにも、ずらりと行列ができていて、乗り物に乗るにも、だいぶ待たないといけなかった。二人は少しどこかで時間を潰して、行列が収まるを待とうということになり、場外馬券場が見下ろせる場所にある、小さな喫茶店に入った。
「なんだかすごい人ね。日曜日だってことを考えてなかったわ。どこか違う場所にすればよかったかも。ごめんなさい。」
「謝らなくてもいいですよ。僕、こういう機会がないと出かけないし、この街はとても活気があって、お店を見ているだけでも面白いです。連れて来てくれてありがとう。」
「そう。よかった。」
 早苗はそう言ってまた黙ってしまう。飯田に紹介されて、少しづつ話をするようになったとはいえ、ラフマンと何を話していいのか、早苗にはまだよく分からない。
 それは、ラフマンが日本人でないことも関係しているのだろうか? そうだ。関係は、ある。パキスタンという国が、どういう国なのかを、早苗は全くと言っていい程知らなかったし、もちろん行ったこともない。それどころか、早苗は日本を出たことすらないのだ。そんな早苗にパキスタンの国を想像することなど、出来るはずもない。ラフマンが見てきた物と、早苗が見てきた物との接点というものが、全く見つからない。
 社長にけしかけられてデートに来てみたものの、どうしたものかと、早苗は思いを巡らせている。そんな早苗を見越したのか、ラフマンが口を開いた。

「早苗さん。僕の国が、どんなところかなんて、想像もできないでしょう? 信じられないと思うでしょうが、僕もあまりよく覚えていないのです。おかしな話です。確かに生まれて育った国なのに、どんな国だったかを説明しようとすると、言葉にできないんです。父も母も早くに死んでしまって、兄弟もいない。親戚の家に預けられてからは、友達もあまりできなかった。ボクシングを始めて、親しい仲間はできましたが、今はバラバラになってしまって、行方も分からない。僕の国での思い出は、そのボクシングしかないんです。いろんなことがあったはずなのに。おかしな話ですよね。」
 早苗は、急に話し始めたラフマンの日本語が、とても上手いことに感心してしまった。言葉の選び方も丁寧だった。そして「父と母と早くに死に別れて」という言葉に、思わず反応してしまう。
 早苗は孤児だった。父と母が幼い頃離婚し、父はすぐに、病気で死んでしまった。母は幼い早苗を、お荷物のように疎ましく思っていて、育児そのものを放棄した。見兼ねた親戚のおばさんが、早苗を引き取ったが、早苗はそのおばさんの子供と、どうしてもそりが合わず、結局施設に預けられることになった。その頃にはもう早苗は、身内のごたごたに巻き込まれることにうんざりしていて、施設に入って一人になることは、むしろその時望んでいたことだった。
 これまで早苗は、孤児であることを弱みに感じるような生き方はしてこなかったが、自分から人にそれを話すようなこともなかった。しかしラフマンが包み隠さず自分のことを話してくれたのを聞いて、早苗も無性に自分のことを、ラフマンに話したくなった。
「ラフマンさん」
「呼び捨てでいいですよ。」
「え、ああ、じゃあ、ラフマン。私もよく幼い頃のことを覚えていないの。でもほんとは見ないようにしているだけだと思う。蓋をしている限りは、悲しくなったりはしない。でも完全には蓋ができないように出来ているみたいで、時折無性に寂しくなることがある。そんな時私は、昔からずっと使っているシーツにくるまって眠るの。その匂いを嗅ぎながらね。そうするといつの間にか寂しさは消えてる。この大好きな匂いだけを覚えていればいいって言い聞かせるの。自分に。だから、今言ったあなたの言葉の意味はよくわかる。」
「そうですか、パキスタンか日本かなんて、あまり関係ないのかもしれませんね。世界共通なんです。そういう喪失意識ってやつは。」
 早苗は思わず笑ってしまった。
「そんな言葉まで知ってるの? 『喪失意識』変な人ね。使う機会なんて、そうないでしょうに。」
「昔からそうなんです。余計な言葉ばかりを覚えてしまう。確かに、使う機会は少ないですね。」
 そう言ってラフマンも笑った。窓から外を見ると、馬券場にいつのまにか人だかりができ始めている。最終レースのオッズが出た頃なのだろう。そろそろ花屋敷の人混みも、落ち着いたかもしれない。ラフマンは汗をかいて、水滴が流れ落ちているアイスコーヒーのグラスを紙ナプキンで拭きながら、「そろそろ行ってみますか?」と早苗に言った。
「そうね、そろそろいい時間帯かも。ねえ、ラフマン。一つお願いがあるんだけど。いいかしら?」
「何ですか?」
「私だけあなたを呼び捨てにするのは、対等じゃないと思うの。だからこの店を出たら、私のことも『早苗』って呼んで。敬語はなしよ。いいかしら?」
 早苗がそう言うと、ラフマンはニッコリと笑って頷いた。
「オッケー。わかりました。この店を出たらそうしましょう。」
 支払いを済ませて、店の狭い階段を降りると、ちょうど最終レースが出走したところだった。人々は食い入るようにレースを映したスクリーンを眺めている。
 先に店を出たラフマンが、階段の最後の二段をジャンプして地面に降りると、早苗を見上げて言った。
「早苗、道がよく分からないんだ。悪いんだけど案内してくれない?」
 早苗は微笑んで、「ついて来て」とラフマンの手を取った。


神の名のもとに  1981年 アフガニスタン

「大佐殿、それは命令でありますか?」
 ミゲルは踵を合わせたままの姿勢を崩さずに、思い切ってそう口に出した。目の前の大きなデスクに、どっかりと腰を降ろしている男が、ギロリとミゲルを睨んだ。口髭をたくわえた初老のその男は、ゆっくりと腰を上げると、デスクの上に置かれた地球儀を、指でクルクルと回した。
「私の言葉が聞こえなかったか? アブドゥル・ミゲル。ボクシングで頭の回路がイカれてしまったか? 私は命令など出してはいない。これは神が命じた使命なのだ。分かるかね?」
 男はそう言うと、ミゲルの正面に立ち、デスクの上に腰掛けた。
 三日前に、司令部からの召喚状がミゲルの元に届いた。その頃ミゲルは、介入してきたソ連軍の指示で、市街に潜む反政府軍の分子たちを捕えては、ソ連軍に引き渡していた。表向きは、アフガニスタン軍を支援するという形だったが、実際は全ての実権を、ソ連軍が握っていた。ミゲルが呼び出された司令部でも、ロシア語が飛び交い、ロシア人の将校たちが建物をすっかり占拠していた。ミゲルが大佐と呼んだ、ハミード・ラシールも侵攻によって、実質的な地位は剥奪されてはいたが、侵攻ではないというソ連軍の言い訳のために、お飾りの形で司令部に残されていた。
「ミゲル、お前のことは聞いている。お前は強い男だ。神によって選ばれた男だ。神の子には、果たさなければならない義務がある。それを避けて生き続けることは、できないのだ。この国の現状を見ろ。あんな奴らにこの国の統治を、任せてはおけない。神の教えより、ウォッカの方が大事な野蛮人どもだ。今は忍耐の時だ。しかし、いつかこの国を、我々の手に取り戻さねばならんのだ。」
 ラシールはそこまで言うと、ミゲルの脛を軽く蹴った。
 ミゲルは不可解だった。もちろん、内政に干渉し、軍部を牛耳っているロシア人たちのことは、ミゲルも嫌悪している。ついこの間も、ソ連軍のある部隊が、反政府分子を捕え、そいつらを裸にし、街の真ん中で小便をかけて見せしめにしてから、銃殺した。その一部始終を、ミゲルは見ていた。殺されたのは、ミゲルと同じアフガン人であり、ついこの間まで、同じ街に住み、同じ店で食事をしていた人々だった。
 軍人として、国家の政策には従わなければならないが、一体この国で何が起きているのか、ミゲルにはさっぱり分からなかった。我々の手に、この国を取り戻さねばならないというのは、ミゲルにも理解できる。しかしそのために、軍を抜けて国を捨てろというのはどういう事だろう? 
 ラシールの命令は、軍を今すぐに離れ、秘密裏のうちに国境を越えてパキスタンに入り、軍に志願しろというものだった。
 その頃のパキスタンは、ソ連軍に対抗するアメリカを受け入れ、実質上アフガニスタンとは対立する形をとっていた。仮にパキスタンがソ連軍を撃退したとしても、支配がソ連からアメリカに移るだけで、アフガニスタンには戻らない。幸運にもアメリカが寛容な国で、アフガン人の手に内政を任せたとしても、そこにはパキスタンの政府が敷かれるだろう。どちらにしても、アフガニスタンは消えてしまうのだ。同じアラブ人ならばその方がまだましと考えることもできるだろうが、ミゲルは国が消える事には我慢がならない。アフガン人としての誇りもある。
「私はアフガン人です。いくら同じアラブとはいえ、国を捨てるのには正直、抵抗があります。それに、パキスタン人としてこの国に攻め入り、ソ連軍を追い払えたとしても、私には我々の手にこの国が戻るとは思えません。」
 ミゲルがもう一度、踵を合わせたままの姿勢を崩さずにそう言うと、ラシールは低い声で「ククク」と笑った。
「驚いた。ただのボクシング馬鹿ではなかったようだな。頭の回路はしっかりしているようだ。だがな、ミゲル。お前は何も考えなくてもいいのだ。パキスタンとの話はついている。お前の想像もつかないくらい先のことまで、綿密に、計画は立てられているのだよ。お前は軍人だろう? 違うか? 軍人ならば上官に言われた言葉が、全て絶対であることくらいは分かるだろう? お前は何も考えなくてもいいのだ。考えるのは私の仕事だ。」
 ラシールはそう言うと、ミゲルの頬を軽くはたき、立ち上がると、書棚の中から何やら色々な書類の入った袋を取り出した。
「必要なものはここに揃えてある。お前はもうパキスタン人だ。言うまでもないが、これは極秘事項だ。少しでも外に漏らせば、お前は二度と軍には戻れないし、探し出して銃殺にする。分かったな。準備が整い次第、国境を超えろ。連絡は取り合わなくてもいい。必要な情報は全てお前の元に届くだろう。いいな? 以上だ。」
 ラシールはそう言うと、再び腰を降ろした。ミゲルは、しばらくそのまま動けなかったが、廊下からロシア語の会話が聞こえたのを合図にするように、姿勢を解き、ドアに向かう。部屋から出る前に、もう一度ラシールの方に向き直り、敬礼をする。
「アラーは偉大なり!」
「アラーは偉大なり」
 ラシールも座ったままそう言ったが、もう何か別のことを考えているようだった。
 車が街に入り、周りにもソ連軍は見えなくなった。ミゲルは大きくため息をつく。ワイパーの音がしているが、それは雨ではなく、窓にこびりついた砂埃を払う音だ。
「パキスタンか。」
 しかしミゲルは、自分が負った任務のことではなく、ラフマンのことを考えている。あれ以来、あいつとは会っていないが、もしかしたら、これでもう一度会えるかもしれないな。決着だって、まだついていないんだ。いつか必ず、あいつを倒すと誓った。ミゲルはハンドルに添えた右手を軽く握ると、外の砂埃に向かって、パンチを打つ真似をした。長いことリングに立っていないと、体も怠けてきているのが分かる。
「ラフマン、待ってろよ。いつか必ずな。」
 ミゲルは声に出してそう言った。


 服を脱いで、上半身だけ裸になったラフマンは、鏡に写った自分の身体を眺めている。ボクシングで鍛えていた頃と比べると、だいぶ脂肪もつき、腹はたるんでいる。肉体労働をしているおかげで、実際の年齢よりは、たくましく、筋肉もついているように見えるが、昔はもっと鋼のような筋肉を纏っていた。
 ラフマンは両手を拳の形に握ると、鏡に向かってファイティングポーズをとる。脚が武器だったラフマンは、左手を腰の辺りに構える「ヒットマンスタイル」を自分の型にしていた。最後にグローブを着けたのは、いつのことだろう? もう思い出せない。何発か鏡に向かってジャブを出す。しかしすぐにラフマンは、諦めたようにポーズを解くと、そそくさと服を着る。何をやっているんだろう? 俺は。
 早苗は仕事に出ていて、夜勤明けのラフマンは、家に一人きりだ。普段なら、昼過ぎまで疲れ果てて眠り続けるのだが、その日はなぜか早く目が覚めてしまった。冷蔵庫を開けて、ビールを取り出し、テレビのスイッチを入れると、「笑っていいとも」が始まったばかりだった。テーブルの上に置かれたグラスには、早苗が出かける前に飲んだオレンジジュースが、半分くらい残されていて、先週出たばかりの女性誌が開いたままで置かれ、右肩が軽く折られている。ラフマンは早苗が座っていたのであろう場所に座って、ぼんやりとテレビを眺める。
 戦争が始まった時のことを、ラフマンはよく思い出せない。日本に来るまでの記憶がすっぽりとなくなってしまったんだと、これまでは思っていた。しかしそんなはずはない。記憶は確かにラフマンの頭の中に眠り続けていただけで、ふとしたきっかけで不意にその姿を現した。ミゲルのことを思い出していたら、それがきっかけになり、連鎖するように、ラフマンとの記憶が色を帯びてきた。
 
 ミゲルとの試合がなくなってすぐに、アメリカはパキスタンに近づいてきた。周囲はたちまち慌ただしくなり、街は殺伐とし始めた。ラフマンは、アフガニスタンとの戦いに派兵されることを覚悟したが、実際は違っていた。パキスタンとアメリカは、アフガニスタンの国内のムジャヒディン(反政府ゲリラ)の援助を行う形で、アフガニスタン内部で、戦争を完結させようとしていた。政治的な思惑までは、ラフマンには分からなかったが、これまでとは明らかに異なる光景が国内で見られるようになった。軍の訓練所では大勢のアラブ人が集められ、訓練を受けていた。中にはパキスタンの国内から志願して、その訓練を受ける者もいた。ラフマンが受けた命令は「自国の防衛」だったが、国内で戦闘がない以上、あまりやることはなかった。
 そんな時、アメリカ軍から派遣されてきた指導官の一人と親しくなった。ジム・ゴードンという男だ。ゴードンもボクシングをしていたということもあり、基地の中でラフマンはスパーリングの相手をするようになった。ゴードンはラフマンの才能に気付き、アメリカに来ないかと申し出た。有難い話だったが、ラフマンは迷っていた。国が戦争の中にあるのに、それを無視して逃げ出すのは許されることではない。もし国を出たら、二度と戻れないだろう。亡命者となるしかない。それに、もしかしたらどこかで、ミゲルとの約束を果たせていないことが、気に懸かっていたのかもしれない。
 しかし結局ラフマンは、ゴードンの申し出を受けることになった。大きな声では言えなかったが、この国にいても将来は見えないし、ジハード(聖戦)と言って、銃を突き上げて叫ぶ連中にも、正直うんざりしていた。ラフマンは、ただボクシングがしたいだけだった。
 ゴードンが用意したルートは、日本を経由するものだった。日本の基地にしばらく身を隠し、ほとぼりが覚めた頃にアメリカに入る。それが彼の作戦だった。深夜、飛び立つアメリカ軍の軍用機に乗り、ラフマンは長い時間をかけて日本にたどり着いた。しかしその後、ゴードンから手紙が届いた。アメリカへの入国許可がどうしても下りないと、彼は書いていた。
「今さら君は国に帰ることは出来ない。こんなことになって、本当に申し訳ないと思うが、日本に亡命してくれ。いつか必ずアメリカで会おう。」
 彼からの手紙にはそう書かれていた。それ以来、彼とは会っていないし、連絡もない。今となっては、アメリカに渡る気持ちもなくなってしまった。同時にボクシングに対する情熱も。
 
 ラフマンは早苗が残していったオレンジジュースのグラスを手に取ると、一気に飲み干した。あれから長い時間が経ったが、今は早苗もいる。日本という偶然訪れた国で、家族を持っている。自分は幸運だったし、幸せなのだ。そう思って生きてきた。しかし何故だろう? 何故、今になってミゲルのことを思い出すのだろう? パキスタンを飛び立った時に感じた、あのどうしようもない不安を、なぜ今、自分は思い出しているのだろう? 
 電話が鳴り、ラフマンは我に返る。グラスを置き、電話に出ると、それは飯田だった。
「休みのところすまないな。実はちょっと話があってな。電話じゃなんだから、夕方会社に来れないか? なに、あんまり時間は取らせないからさ。」
 ラフマンは壁の時計に目をやる。
「わかりました。四時には行けるようにします。早苗とその後、一緒に帰りますから。」
「すまない。大丈夫、そんな深刻な話じゃないんだ。すぐ終わるよ。じゃあ後でな。」
 ラフマンは受話器を置くと、飯田の話を予想してみた。しかしまるで見当もつかない。諦めてもう一度椅子に座ると、早苗が読んでいた雑誌をパラパラとめくった。もちろんそこにも、飯田の話が何なのかは書かれていない。
「それではお友達を紹介してください。」
 テレビの中の司会者がそう言った。
「ミゲル。アブドゥル・ミゲル。」
 ラフマンは心の中でそう答えた。



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