目次
はじめに
お礼の言葉
はじめに
第一章 江差の五月は江戸にもない
あれがエゾ地の山かいな
松前の花守りたち
「商場知行制」という独得の封建体制
ニシン場に「工場制手工業」が形成された
商業的農業と海運がニシン漁繁栄を支えた
江差追分はタバ風が産んだ歌だ
繁栄のなかに衰亡のタネがまかれた
第二章 春告魚は消滅したのか
ほんとうにニシンが来ない
ニシン場の消滅は南から始まって北へ拡大波及した
魚の「生活戦略」が資源変動を主導する
日本海ニシン増大対策が開始された
木遣り音頭は漁夫たちの祈りの声
第三章 蛎崎慶広、秀吉と家康へ売り込む
エゾ交易独占権を獲得したかった
秀吉が新しい国家観をもたらした
「蝦夷」のなかから「エゾ(アイヌ)」があぶり出された
「和人」と先住民族とで構成される地域杜会
和人勢力の統制強化とエゾの抗争
自然に働きかけ、自然を利用し、自然と「共生」する文化
自由と尊厳を侵されたとき、怒り狂って戦う
「日本列島通史」が構想されなくてはならない
第四章 日本海航路の船乗りたち
飢餓が海商活動を活性化した
「買積船」と「賃積船」の歴史的役割
経営危機が船乗りたちを立ち上がらせた
冒険的ビジネスの緻密な情報管理
跛行的な経済発展のなかで巨富を蓄える
やがて船頭衆がござるやら
第五章 水運とそろばん算盤で繁昌した都市
売買利潤富貴の湊なり
大阪は江戸の賄い方として働いた
近世城下町は巨大な「人工的装置」だ
河村瑞賢は大阪の恩人である
大和川の切替えが河内平野をひらいた
「出船千艘、入船千艘」とうたわれた
金融・財政テクノクラートたちが豪商へのしあがった
第六章 河内木綿と在郷資本盛衰のこと
木綿が麻をおしのけて急速に成長した
十七世紀後半に農民の経済余剰が生まれている
「コメの経済」と「貨幣の経済」の格闘
都市商人と農村生産者の争闘の歴史
「営業の自由」を獲得できなかった
華族、政商らが産んだ日本の「産業資本」
第七章 日本の「近代化」を考える
明治維新論は「プロクルステスの寝台」だった
われわれの時代は本質的に悲劇の時代である
近代国家づくりの「パイロットファーム実験農場」
歴史は死んでふたたび生き返る
参考文献
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お礼の言葉

 この本は春ニシン漁・北前船・河内木綿とたくさんの題材を欲張って盛り込んだので、北海道の日本海沿岸および北陸、京都、大阪を歩いた。取材旅行のことを懐かしく思いかえしながら、お世話になった方々の名をここに記させていただく。〔役職名は取材当時のもの〕

 
①春ニシン漁について=松村隆氏(HKサービス社長)、幡宮輝雄氏(北海道水産林務部栽培振興課研究企画係長)、河野本道氏(歴史民族学者)、新原義昭氏(稚内水産試験場資源増殖部長)、田中伸幸氏(稚内水産試験場資源管理部)、丸山秀佳氏(北海道中央水産研究所漁業資源部沖合科長)、熊谷直実氏(松前町役場総務課広報係)、故長田博氏(元増毛漁業協同組合専務理事)、三浦一郎氏(忍路鰊場の会大船頭)、松野泰治氏(総本家にしんそば松葉社長)〔長田博氏は先年物故されたが、ご遺族の許しをいただいてインタビュー記事を掲載した〕

 
②北前船について=牧野隆信氏(北前船研究家)、和田浩氏(加賀市地域振興事業団企画事業部長)、見付裕史氏(加賀市企画部文化振興課課長補佐)

 
③河内木綿について=酒井晶子氏(東大阪市民美術センター主査学芸員)

 

(株)かんぽうサービスは、平成一六年六月、「山内景樹の世界――もう一つの日本」と題して、未刊行の拙著『源頼朝と天下の草創』『鰊来たか』『米がつくった明治国家』の三冊について、それぞれの内容を紹介するホームぺージを開設し、また拡販用チラシを作成して予約注文募集を開始した。右の三冊の原稿は、平成八年(1996)夏から平成一三年(2001)春にかけて書き継いだものだが、きょうまで陽の目を見なかった。同社桐生敏明社長の引き立てで、やっと商業出版を実現させるチャンスを得たのである。幸い、たくさんの人々から予約をいただいたので、『鰊来たか』と『米がつくった明治国家』の二冊を刊行することにした。残る『源頼朝と天下の草創』については、もう少し予約募集を続けることにする。近々に続刊するので、猶予をいただきたい。

 

 先ず、いちはやく予約注文を発してくれた読者の方々へ、感謝を捧げる。みなさんは私の「本」を見ないで注文してくれた。その「信用」は絶大であり、万金に値する。これによって私は希望と勇気をいただいた。
 次に、桐生氏はじめ編集・制作・印刷のスタッフの方々へ心から御礼申し上げる。(株)かんぽうサービスでは、私がいきなり持ち込んだ三冊の原稿を読み解いて、素敵なホームページとチラシを作成し、さらに本づくりの仕事を的確・着実に進めてくれた。かんぽうサービスの「オーダーメイド出版」が出版界の一角に足場を築いて、例え少部数であっても、他に先駆けて良書を読書界へ送り出す事業に育ってくれるようにと祈る。

 

 この小さな書物を私は、父母そして兄たちの眠る大阪泉州長滝村明福寺境内の墓に供えるとともに妻享子に感謝を籠めて贈る。

平成一六年一二月  山内景樹


はじめに

 大阪で生まれて育ったが、私は、子どもの頃から遠く離れた北海道に漠然と親しみを感じていた。その根拠は「食い物」である。昆布《こんぶ》と鰊《にしん》の二つだ。どちらも北海道だけで獲れると、おとなが教えた。大阪人はコンブ佃煮や塩コンブを好んで食べるが、「松前屋」という屋号の塩コンブ屋が長年繁昌している。専門業者だけでない。母親たちは賽の目に切ったコンブと大量の醤油を鍋に入れ、火鉢の火にのせてことこと煮詰めて塩コンブを作った。塩コンブと山椒の香りが家中にただよった。町の公設市場へ行くと、隅っこのコンブ屋で親父が鋭い刃先きでコンブを削る作業を見るのがおもしろかった。おぼろコンブととろろコンブは、コンブを削る方向を変えることで作り分けることを、私は知った。大阪ではコンブを食材として色々使いこなしているが、“ばってら”と呼ぶサバの押し鮨に透き通るような薄いコンブがかぶさっていないと、話にならない。また、“大阪の味”をつくるには、コンブ出しが欠かせない。
 もう一つのニシンについては、コンブほどの馴染みはなかったが、ニシンのコンブ巻きという佃煮がある。安い惣菜なので、弁当のおかずに入れるのを朝近所の佃煮屋へ買いにやらされた。ニシンが大阪と馴染みが薄いと言うのは、とんでもないことで、幼い私が知らなかっただけだ。江戸時代後半から明治時代前半にかけて蝦夷地で獲れたニシンは〆粕《しめかす》に加工され、農業肥料として畿内および西国へ大量に供給され、綿作を中心とする商業的農業の発展を支えたのである。
 コンブやニシンと縁が深いのは大阪だけではない。京都鴨川にかかる四条大橋の東詰、南座の一角に店舗を構える小さな角店《かどみせ》は、ニシンそばの元祖「松葉」である。創業は文久元年(1861)で、維新の数年前だが、明治十五年(1882)頃に二代目店主松野与三吉がニシンそばを考え出して、評判を取った。四代目の松野泰治社長は、与三吉は京都の町のおばんざい(お惣菜)をもとにしてニシンそばを考案しただろうと推量する。
「わたしたちの子どもの頃、北海道から身欠きニシンが入ってくる夏が来ると、ニシンと茄子の煮き合わせをよく食べさせられました。京都人にとって、ニシンというのはどうしても身欠きニシンでなくてはならないのです」
 かつて、芝居見物のあとニシンそばで空き腹をしのいで家へ帰るという暮らしの楽しみ方があった。昔から京都は富と貧、高尚と卑俗、そして贅沢と倹約がなかよく同居する町である。今日でもニシンそばは最多売上を維持する「松葉」の看板商品だ。
 また、日本海沿岸の富山市の一世帯当りの年間コンブ購入量は全国第一位である。ニシンのコンブ巻きはもちろんのこと、コンブ巻きかまぼこ、とろろコンブ、おぼろコンブの消費が大きい。そして、カジキマグロ、アマダイ、キス、タラ、ヒラメ、サヨリなどの生鮮魚をコンブで締める独得の料理法が発達した。この地方はかつて北前船の船主が輩出したので、北海道海産物の中継地市場になっていた。北海道と北陸、京阪の地を結んで、「コンブの道」と「ニシンの道」が形成されていたのである。その伝統はいまも生き続けている。
 数年前にある刊行物《パンフレット》のなかに「鰊《にしん》のミステリー」と題する十数枚の原稿を書いたことがある。かつて春になると北海道の西海岸へ大挙して押し寄せ沿岸の町々を繁栄させたニシンが、あるところから資源減少の一途をたどり出して、ついに忽然として姿を消したという出来事に興味を覚え、漁業資源管理の見地から短いレポートをまとめたのである。その後、ニシンについてあれこれ資料を読むあいだに、北海道春ニシン興隆と衰亡には人間の行為がもたらす多くの社会的・経済的条件のからみ合っていたことが分かって、さらに関心を深めた。
 北海道春ニシン漁の興亡は独立した完結的な自然現象ではなかった。それは人間と自ドラマ然の交渉の膨大な集積が産み出した、歴史の劇《ドラマ》である。したがって「鰊のミステリー」を究明するには、ニシン漁業の変遷を「歴史の弁証法」(へーゲル)の位相においてとらえなければならない。まずニシン漁が盛大になったのは、その背景に松前藩の「場所請負制《ばしょうけおいせい》」という植民地経済型の生産関係が確立されていたからである。「商場《あきないば》知行制」という他に類例のない藩体制および同藩の執った蝦夷(アイヌ)政策こそ、春ニシン漁を形成する基礎であった。つぎに、時代を同じくして日本海沿岸航路に「北前船《きたまえぶね》」と呼ぶ海商たちの船団が登場した。これが蝦夷地(北海道)から畿内および瀬戸内海沿岸各地までの海産物の長距離輸送を実現した。ハチの巣のように細かく仕切られた徳川幕藩体制社会のなかで北前船の船主たちが広域的営業をくりひろげて成功することができたのは、彼らが緻密で機敏な情報活動を駆使して日々の商売に役立てていたからである。そして、ニシンを畿内先進地の大きな需要に結び付ける結節として働いたのが、近世の近江商人であり大阪商人であった。もし大阪の干鰯《ほしか》市場の支えがなかったなら、松前と江差が経済的繁栄を極めることはむずかしかっただろう。いわばインターネットのプロバイダーのような役割を果たしていた近世大阪経済の特質に眼を注ぐ必要がある。地域内および地域間における「人間と自然の交渉」の積層が生産─流通─消費という大きな経済循環を形成したのである。
 春ニシン漁の盛行、北前船の活躍、商業的農業の発展─これらが近世にあい前後して出現したことは一つの「偶然」にすぎなかったかのように見える。しかし、それらはたがいに脈絡をつけながら、一つの経済的・社会的現象へ発展した。いずれも未来へ賭ける人間たちの「挑戦」《チャレンジ》によって貫かれていたので、それが歴史という「必然」へ導いたのである。
 私は「挑戦」を人間が人間になるための根本的な行為としてとらえる。物事を考えるとき、言葉の語源をたずねるのが有益である場合が多い。

 challenge n・①歩哨が誰何《すいか》すること。Who goes there? ②陳述の真実性の立証を要求すること。③〔法廷で〕異議を申し立てること。④決闘、試合を申し込むこと。

 

 暗闇に向かい声を発して問い質すことが、挑戦である。歴史を作るものは「英雄豪傑」でもなければ、「歴史法則」でもない。人間集団の知恵と勇気の「挑戦《チャレンジ》」が歴史を作る。第二次世界大戦で、一九四四年六月六日連合国軍はノルマンディ上陸作戦を敢行してナチス・ドイツを撃破し欧州戦線を終息にみちびいたが、その際、英国首相ウィンストン・チャーチルが「これは終わりの始まりかも知れないし、あるいは、始まりの終わりかも知れない」という警句を吐いたことが有名である。これは歴史の主体性と歴史の不確実性の争闘の機微をよく伝える逸話だ。人間社会の歴史を貫くものは、後世において歴史的主体の使命を担う者と認定された人間集団のおこなう「挑戦《チャレンジ》」の連鎖である。

       * * * *

 大阪の「阪」の字は江戸時代までは一般的に「坂」の字を使っていた。明治以降しばらく二つの字を混用したが、その後「阪」に統一された。二つの文字を使い分けるのはわづらわしいので、近世、近代を問わず全て「大阪」あるいは「大阪城」で通した。


あれがエゾ地の山かいな

 桜の頃に江差追分《えさしおいわけ》を聞きに行こうと考えた。毎年九月に北海道江差町で「江差追分全国大会」の開かれることは知ってはいるが、それは待ちどおしい。それなら、松前城の桜と江差追分の一石二烏を狙おうと思い付いたのだ。私が住む多摩丘陵地帯で、桜の開花期は四月第一週である。三月の終わりにあちらこちらの花便りが新聞の「県版」に現れて、四月七日、八日、九日あたりに満開する。私の町の小田急線に沿って流れる疎水の両岸の桜は見事なもので、駅前のスーパーヘ買物に出かけたついでに見て歩いた。足早に咲いて散る花は、まいとし人の心を騒がせる。北海道の桜を思うと、二重に心が騒いだ。青森県弘前城址のソメイヨシノの開花期は四月下旬である。そして満開になるのは四月二十九日頃だった。数日のあいだに、桜前線は津軽海峡を渡って北海道渡島半島の南岸へ取り付く。函館、松前、江差の花の見頃は五月のゴールデンウイークが終わったあたりだろう。あと四週間しかない。疎水のまんなかを流れる花びらの行列を眺めながら、私は、旅に出かけるやりくりをつけることで頭がいっぱいだった。
 江差追分は「鰊場《にしんば》」で歌われた。鰊沖揚音頭(ソーラン節)とともに、北海道の代表的な民謡だ。

 

  ♪ かもめの鳴く音に ふと目を覚まし

     あれが蝦夷地の山かいな[本唄]

 

 信州の山国で産まれた馬子唄「信濃追分」が海辺の土地へ出て「越後追分」となり、船乗りたちに歌い継がれ、船で越後から北海道江差まで運ばれたと言う。一方、伊勢松坂の民謡「松阪節」が越後に入って祝い唄となり、「越後松坂くずし」としてうたわれていた。天明年聞(1781~88)に、越後の座頭松崎|謙良《けんりょう》が松前に渡り、松前藩の重臣のもとに寄寓するあいだ酒席で祝い唄を巧みに歌いまわしたので、評判をとって「謙良節」と呼ばれるようになった。その後、天保年間(1830~43)に南部盛岡の琵琶師の座頭佐之市が江差へ渡り、謙良節を元に越後追分を加えて編曲し、作詞をして「二上がり」の調子で歌った。これが「江差追分」の興りである。「恋の道にも追分あらばこんな迷いはせまいもの」という佐之市の作詞に馬子唄の名ごりが見える。
 江差追分の歌い方はふたとおりあった。一つは、浜小屋と称する娼家で酌婦らと戯れる漁夫や舟子たちが歌う酒盛り唄で、彼らは荒々しい情念をこめて思いの丈を歌った。もう一つはニシン場の親方や北前船の船頭衆が茶屋と呼ぶ山の手の小料理屋の座敷で三味線や踊りをつけて歌う節回しの江差追分で、これは艶節《つやぶし》あるいは新地節と呼ばれた。粗野な浜小屋節は江差のノド自慢たちによって長短、高低、抑揚や止め方を練り上げられ、また船に乗り、船乗りたちによって西へ運ばれていった。加賀の「山中節」や隠岐の島の「どっさり節」は、江差追分の血筋をひくと言われる。
 ニシンは北海道の魚である。太平洋ニシンの生物学上の分布の南限は日本列島では日本海側は秋田県ぐらい、太平洋側は宮城県ぐらいまでと考えられており、幕末から明治にかけての資源増大期に青森、秋田、宮城で好漁を見た記録があるが、その後途絶えた。近世に入るまで北海道は「日本」の外の異境だったので、ニシンという魚の名前が歴史に現れることはまれであった。山口和雄(日本漁業経済史学)は〈天文十七年の『運歩色葉集』に鯡《にしん》とあり、『御湯殿の上の日記』慶長十二年十二月二十四日の條に「女御の御かたより かずのこ、とりのこまいる」とある〉のが比較的古い記録だとしている。
 ニシンは、昔は、農業資源の乏しい北国の貧しさを象徴する魚だった。豊漁期に大量に漁獲されることともあいまって、西洋でも日本でも保存食品として活用する加工法と調理法が発達した。北欧では獲ったニシンの内蔵を取って塩のなかでかきまわし、樽詰めにして塩蔵ニシンを作る。食べる時に塩抜きをして甘酢に漬け、トマトソースをかけたりスパイスを用いて野菜といっしょにサラダをこしらえた。日本でも同様に塩を使って一塩《ひとしお》・塩蔵・糠漬《ぬかづけ》・粕漬・麹漬《こうじづけ》・塩辛・なれ酢《ずし》を作ったが、一番ポピュラーなのは塩を使わないで乾燥する「身欠《みが》きニシン」と塩蔵数の子、干し数の子である。江戸っ子はニシンには目もくれず猫の食う魚だとさげすんだが、かえってエゾ地から一層遠く隔る北陸や関西地方でニシンは重用された。また獲れ過ぎた時代に、ニシンは魚油を採るほかに家畜の餌や畑の肥料に用いられた。飼肥料の原料となるフイッシュミール(魚粉)を製造する産業は、世界で一般的には、第二次大戦後に発達したが、日本では早く江戸時代に農業肥料を供給するニシン|〆粕《しめかす》を作る手工業が発達した。魚油製造や肥料生産がひきおこした漁業の産業化は、漁業資源に重大な影響をおよぼしたのである。
 北海道のニシン漁場は日木海側に集中していた。これは沿岸の海底地形と関係する。地図を眺めると、オホーツク沿岸および十勝平野、勇払平野の太平洋沿岸はきれいな弧状の海岸線がのびているが、ここは遠浅の砂浜海岸がひろがっている。他方、日木海沿岸は、松前から稚内までバスに乗って北上するとすぐ分るが、切り立った崖の隆起海岸が多い。急深の岩礁海岸が連続しているのである。岩礁海岸へは高塩分の外洋水の波が打ち寄せるので、コンブ、ワカメ、ホンダワラ、ヒジキなどの褐藻類が繁茂する。そして、ニシンは褐藻類に卵を産み付けるのである。北海道ではニシンを「春告魚《はるつげうお》」と呼んだ。春の花にさきがけて産卵のために沿岸へおしよせ、海一面を真っ白に濁らせたからである。待ちかまえていた漁師たちはいっせいに船をこぎ出し、胴網に乗ったニシンを枠網へ攻め落とした。江差の町がニシン漁で繁栄したのは、江戸時代の文化・文政年間(1804~29)から明治二十年代にかけての約一世紀であった。近世期に松前がエゾ地の政治都市の役割を受け持ったのに対し、江差は商業都市として栄えた。その頃江荒には現在の人口のおよそ二倍の三万人が住んでいた。ニシンの集荷地として、また内地から運ばれる米や味噌、塩、酒などの荷揚港としてにぎわい、回船問屋、海産間屋、金融業者たちは巨利を得て、我が世の春をうたった。彼らは「江差の五月は江戸にもない」と言ったのである。


松前の花守りたち

 連休明けの五月六日朝、私は羽田空港から函館へ発った。松前を訪ねるには函館空港から函館駅前へ出て函館バスに乗る。函館湾に沿って走る海岸道路は知内町を過ぎると大きく右へ曲がって内陸部へ入るが、福島町でふたたび海岸へ出る。そして北海道最南端の白神岬に立つ白神灯台の下を通過すると、道路は緩やかな下り勾配に人り、右手の海岸段丘の上に発達した松前の町が視野に入ってくる。左手には岩礁海岸がつらなる。
 松前藩の福山港(松前港)は、固い岩盤の波蝕人り江を開いて作った小さな港である。港の水深は二十メートル以浅で、干潮時に狭い入江のそこそこに岩礁が現れる。天然の防波地形を持たず港湾条件に恵まれていないのだが、ここに近世エゾ地の最重要港が開かれたのは、その地政学的位置から見て明らかだ。松前が本州北端の重要港である十三湊《とさみなと》(現在の十三湖)から至近距離に位置していたからである。このことはエゾの側から見ると、松前を本州(日本国)への最前線としてとらえることができた。松前はエゾ地と本州を結ぶ中核港湾《ハブ・ポート》として働いたのである。
 史跡松前城の入口になる多門櫓跡に「桜前線本道上陸標準木」という標識が立ち、一本の染井吉野《そめいよしの》が植わっていた。それは葉桜に変わっていた。二の丸の崖をめぐって並ぶ紅色の南殿《なでん》は満開であったが、色あせはじめていた。ところどころに立ち交じる淡紅の普賢象《ふげんぞう》、濃紅の関山《かんざん》、淡黄色の御衣黄《ぎょいこう》は、いまが盛りだった。今年の桜前線は例年より十日ほど早く日本列島を北上した。ゴールデンウィークのあいだに舞台装置が入れ替わってしまった。出かけるのが一週間遅かったと思った。だが私は間違えていた。
 春の松前では二百五十種、約一万本の桜が咲く。光善寺の「血脈桜《けつみゃくざくら》」を親木にして増やされた濃艶な南殿が主流をなす品種だが、この他に一重、八重、紅、白、黄とさまざまな種類の桜花が四月下旬から一ヵ月間、次から次に咲き競う。その背景に「花守り」の物語があった。明治の終わりから大正にかけて松前ではニシン凶漁が続いた。当時役場の職員をしていた鎌倉兼助(1878~1968)は人心の荒廃に心を傷め、桜を増やして人々をなごませようと思い立ち、大正四年光善寺近くの畑の一隅に桜苗園をつくった。町内の老木から接穂を収集して接木による増殖を開始したのである。鎌倉による桜の増殖と移植は大正期から第二次大戦後にいたるまで続けられた。戦後に後継者が登場する。松城小学校の教諭として赴任してきた淺利政俊氏(現北海道教育大学講師)である。淺利氏は科学的な桜の増殖方法を研究し、全国各地から珍しい桜の苗木を収集して松前に移植した。さらに桜の品種改良に取り組み、桑島《くわじま》、優雅《ゆうが》、北鵬《ほくおう》など約百種類の「松前品種」を生み出した。昭和三十五年に町の有志が「松前桜保存会」を結成した。松前の人々は、これら先覚者と支援者たちを「花守り」と呼ぶ。
 松前公園には桜見本園がある。ここでは各地から収集した桜と淺利氏が開発した新品種を合わせて百四十種、二百八十五本の桜が植えられ、保存と管理がおこなわれている。落花と木漏れ陽のまだら模様を地面に敷いた園内を散策したあと、私は、となりの桜資料館に入って桜に関する書画や工芸品を眺めた。出口のところで振舞ってくれた桜湯を縁台に腰をおろして飲んだが、湯飲みを口に近付けて微かな桜の香りをかいだ時に、私は、ふと思案した。明治の初めに東京の染井村(現豊島区駒込)の植木商がヒガンザクラとオオシマザクラをかけあわせて作った新品種がソメイヨシノである。花は一重で大きく華やかであり、木の成長がはやいので、明治いらい公園や堤防などいたるところに植えられて日本中に普及した。そのせいでか、桜といえばソメイヨシノの花姿を思い浮かべるのが普通になった。いわばソメイヨシノによる桜の「近代化」のおかげで、自分を含めて日本人の「桜花観」がかたよってやせたものになっていたことを認めないわけにいかなかった。桜花の個性と品種の多様性を追求した松前の「花守り」は、それとは別な「近代化」の道のあったことを私に教えた。

「商場知行制」という独得の封建体制

 松前城は市街地を見渡す丘の上にある。松前|慶広《よしひろ》が慶長五年(1600)から六年がかりでこの城を築いた。古くは福山館《ふくやまのたて》と称した。しかし、その原型は現在は失われている。幕末の嘉永二年(1849)、徳川幕府は藩主松前崇広に城の改築を命じた。その頃津軽海峡にしきりに出没する外国艦船に対し、北辺の警備を固めるための緊急措置であった。この時、本丸御門の右手に通称「天守」と呼ばれる三重|櫓《やぐら》が築かれ、城郭東南部に太鼓櫓、櫓台が設けられた。また津軽海峡をにらむ三の丸塁上外の崖上に七座の砲台を設置し、城周辺の沿岸台地九ヵ所に二十五門の大砲を据えた。松前は北辺の防人《さきもり》として「要繁都市」の陣容を固めたのだが、明治維新の開国まで砲門が火を吹くことは一度もなかった。明治六年(1873)の廃城令で松前城は「天守」と本丸御門の二つを残して解体された。また天守は昭和二十四年(1949)の失火で焼け落ちてしまった。いま見る天守は、銅板葺き、鉄筋コンクリート造りで昭和三十六年に再建されたものだ。
 幕末に大改修された松前城は本丸を中心に二の丸、三の丸の曲輪《くるわ》(城郭)をめぐらせており、近世築城法を踏まえた日本で最後の和式築城の遺構である。だが、それは北海道でただ一つの伝統様式をそなえる「お城」であるとともに、かなり特異な性格を持つ「お城」であった。日本近世の城郭は、封建領主の「居城」であるとともに「政庁」であり、また一朝有事の際に用事拠点となる「砦」である。ところがエゾ地(北海道)では近世にいたるまで、「城」を「館」と呼んだ。慶長年間の城普請を完成させた松前慶広は、新しい居城を幕府に対して「館」と報告し、エゾ(アイヌ)に向かっては「チャシ」と言っている。もし、「館=チャシ」であるのなら、松前城(福山館)は近世城郭の常識からかけはなれた異色の存在となる。「チャシ」はアイヌの砦と解釈されているが、道内に約五百の遺跡が確認されている。チャシはアイヌのコタン(集落)の後背地に設けられていて、部族の祭祀《さいし》場であるという見解もある。海岸部の「館」が海を見下ろす段丘の上や河口付近の微高地に位置しているのに対し、内陸部のエゾの「チャシ」は河川沿いに見出される。どちらも交通の要衝を占めていた。館あるいはチャシを開設して運用管理する者は館主《たてぬし》あるいはエゾの惣大将《そうだいしょう》である。そこは権力者の「居城」であり、「政庁」であり、戦いの時には「砦」になる。しかし、それだけではない。館およびチャシは部族にとって「祭祀《さいし》場」であるとともに、異部族と交易活動をおこなう「市場」としても機能した。この仮説は、近年の研究のなかで有力になっている。昭和四十三年(一九六八)、函館市郊外の「志苔館《しのりたで》」付近から約四十万枚におよぶおびただしい埋蔵古銭(主に北宋銭)が出土して、「館」と交易の結び付きを裏付けた。また祭祀と交易を関係させて考えることは、世界史的に見て決して奇異ではない。一般に「市場」は交易の自由と公正を保証するために「平和」と「政治的中立」を確保しなければならないが、そのために特定の場所を柵囲いや濠などで区画して、ここは「聖なる土地」であると宣言するのである。
 都市は幾層もの「古層」の上に築かれる。「要塞都市」の下に隠れているのは「殖民都市」である。さらに、その下に「交易都市」が埋もれている。江戸期に封禄一万石以上を将軍から認められていた大名のなかで、エゾ地(北海道)を領有する松前氏は他に見られない特徴をそなえていた。それは、近世を通じて「商場知行制るびあきないばちぎょうせい」を敷いたことである。江戸期の北海道で米は産しなかったので、松前藩は幕藩体制の根幹である石高制を敷くことができなかった。松前氏は石高を持たない「おかしな大名」である。幕府から最初は「七千石格」で扱われ、享保年間から「一万石格」になった。藩の財政はエゾ(アイヌ)との交易で得る収益を主要財源とした。交易でもたらされるエゾ産物はサケ、ニシン、コンブなどの海産物が主要なものであり、他に鷹、獣皮、鷲の羽のような狩猟の獲物があった。これ以外に藩は、領民から徴収する諸税、諸国から松前へ往来する商船・商人に賦課する「船役」(出入港税)、砂金探取に対する運上金、鷹捕獲に対する運上金をあわせて収入源にしたけれども、交易から上がる収益の比重が圧倒的に大きかった。
 他方、藩主は道内の一定地域六十一ヵ所に「商場《あきないば》」を設定し、家臣の身分に応じた大きさの商場をそれぞれに給付した。家臣らは、この商場でエゾと独占的な交易を営み、自らの収入を得た。これが「商場知行制」である。ところが、元来商いにうとい武士が交易をうまくおこなって十分な収益を上げることは難しかったので、家臣たちは、しだいに自分の商場でのエゾ交易を商人に一定期間請負わせて、商人から運上金を徴収するやり方を採るようになった。この傾向は寛文年間(1661~72)に発生し、本州からエゾ地へ進出する商人の数が増えるにつれて広まり、元文年間(1736~41)までに全藩に行き渡った。これを「場所請負制《ばしょうけおいせい》」と呼ぶ。
 商場知行制という独得の封建体制のなかから「商場」の経営権を商人へ引き渡すという場所請負制が展開されたことで、中世いらい「エゾ」と「和人」のあいだに形成された交易関係は、大きく変質する。場所請負人となった商人は、本州で仕入れた米、塩、鉄器類の各種産品を「商場」へ運び、海崖物をはじめとするエゾ産品と物々交換し、これをふたたび本州へ持ち帰って売りさばき、利潤を得た。最初はこれだけで莫大な利潤を得たが、エゾ地へ進出する商人が噌えて初期の利幅を確保するのが難しくなると、利潤を増やすためにエゾ産品を増やす手段をとらなければならなくなった。獣皮、鷹などの狩猟やコンブ採り、ナマコ採りの採集はエゾ固有の伝統技術に依存する他ないが、サケ漁やニシン漁については漁業技術を進歩させることで生産性の向上が可能になる。請負人は本州の漁具・漁法を導入して、それをエゾに教えた。この「開発輸入方式」がかなりの成果を上げたことはもちろんだが、漁法が進化して操業規模が大きくなると、エゾ自身が漁具を製作して自分たちで操業することが不可能になった。場所請負人自ら漁業経営に乗り出し、生産手段を失ったエゾは請負人に使役される賃労働者に転落せざるを得なかった。場所請負人たちは漁場開拓に精力を注いだ。とくに大量に漁獲できるニシンの増産に目を付け、肥料として用いる魚粕の製造を開始したことがニシン漁業の発展をうながした。松前藩は、はじめニシン漁を東は亀田、西は熊石の番所までの松前本領に限定して認めていたが、元禄期(1688~1703)に入ると藩の禁制がゆるみ、瀬棚~寿都~磯谷~歌棄の西エゾ地へ出漁する者が現れた。また寛政五年頃、有力な場所請負人である江州の往吉屋西川伝左衛門が美国~古平~忍路~高島と積丹半島の奥地の場所を請け負ってニシン場を立てた。江差追分に「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」とうたわれるのは、一説では、江州の住吉屋に続けと策を弄して藩に取り入り、やっと利権を手に入れた商人たちの心情をよみこんだ文句だという。
 松前本領から離れてエゾ奥地の処女漁場を開拓していくことを「追鰊《おいにしん》」と呼んだ。松前、江差の松前本領のニシン漁が薄くなると、資力のある場所請負人たちはつぎつぎに瀬棚~歌棄の「近場所」から磯谷~高島の「奥場所」へ進出していった。天保年間(1830~43)以降は石狩~厚田~浜益~増毛~留萌とニシン漁場は日本海沿岸をさらに北上して漁業域を拡大する。追鰊の盛行を支えたのは、ただ同然の安価な報酬で使える豊富な労働力である。場所請負人はエゾを漁夫として雇い入れ、「交易」を「生産」に変換することによって「資本の原始的蓄積」を進めた。請負人たちの蓄財の華々しい成功を助けた要因に商人の「詐欺」「瞞着」とエゾの「無知」「未開性」を強調するのが従来の通説である。しかし、事はそんな単純なものではない。近世のエゾ地でくりひろげられた出来事は、「農業社会」と「非農業社会」の衝突である。前者が後者を圧倒することにより、植民地《プランテーション》経済が無制限に発達した。搾取(取りつくすこと)の対象になったのはエゾの労働力だけでない。主として狩猟と漁労を営む非農業社会が生存するために必要とする「資源」にまで搾取の手は伸びたので、人間と自然を結ぶ「代謝過程」(マルクス)が徐々に破壊され、ついにエゾは「民族」として自立するアイデンティティの基盤を失ってしまう。だが、この問題については、視点を変えてエゾの側からも検証しなければならない。

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