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0. 光の魔神

「お兄ちゃん、早く!」
「はしゃぎすぎだよ、美咲」
 橘 大地(たちばな だいち)は、振り返って手招きする美咲(みさき)に目を細めながら、大きめのスポーツバッグを肩にかけてタラップを進んでいった。微かな潮風を頬に受けると、歩調を緩め、雲ひとつない青空を見上げて微笑む。
「お兄ちゃんってば!」
 少しも急ごうとしない大地に、美咲は不服そうに口をとがらせた。タタタ、と軽い足どりでタラップを駆け戻ると、待ちきれないとばかりに手を引いて急かす。そのとき——。
「きゃあっ!」
 後ろ向きに歩こうとしてバランスを崩したのか、彼女の体はぐらりと大きく傾いた。漆黒の髪がふわりと舞う。しかし、すんでのところで大地が抱き止め、自分の胸に引き寄せた。こわごわと顔を上げた彼女の頭に、大地はぽんと手をのせて言う。
「ほら、だからはしゃぎすぎだって」
「う、うん……」
 気恥ずかしさからか、美咲は頬をほんのり染めながら、少々きまり悪そうに頷いた。しかし、すぐにニコッと笑顔を見せると、大地の隣に回り込んで手を繋ぎ、今度は二人並んで出航間近のフェリーへと歩き始めた。
 
 美咲が橘の家に引き取られてから、一年が過ぎていた。
 初めの頃はよそよそしく遠慮がちで、笑顔を見せることも少なかったが、今ではすっかり橘の家族として馴染んでいる。特に大地にはよく懐いており、まるで年の離れた兄妹のように仲良くなっていた。
 今回の船旅は、二人にとって初めての旅行である。
 夏休みを利用してのんびりしようと、学生である大地と美咲の二人だけで、二週間ほど小笠原へ行くことにしたのだ。当初は、橘家が所有している軽井沢の別荘を予定していたが、海がいいという美咲の要望もあり、一度行ってみたいと思っていた小笠原に変更したのだった。
 
「わぁ、すごい! 船なのにホテルみたい!!」
 美咲は船室に入るなり感嘆の声を上げた。白いワンピースをひらめかせて中央に駆けていき、小躍りしながらくるりと振り返る。
「絨毯の上でみんなと雑魚寝だって友達が言ってたけど、全然違ってびっくり」
「この船でも2等はそうかな」
 大地としては、この特等船室でも不満があった。手前に小さめのテーブルと椅子、奥にベッドが二つ、あとはユニットバスがあるくらいで、さして広くもなければ、内装もごくありきたりなものである。ルームサービスすらないという。美咲はホテルのようだと言ったが、せいぜいがビジネスホテルのツインルームといったところだろう。しかし、美咲が喜んでくれたことでひとまず安堵し、部屋の隅にスポーツバッグを下ろした。
「ちょっと、お兄ちゃん! どうして寝ちゃうの?!」
 さっそくベッドに潜り込もうとした大地に、美咲は思いきり抗議の声を上げた。シーツを引っ張りながら、ぷくっと膨れ面を見せる。そのあまりにも可愛らしい怒り顔に、大地は思わずくすっと笑ってしまう。
「美咲も寝ておかないと体力が持たないよ。旅はまだ始まったばかりなのに、こんなところで疲れちゃったらもったいないだろう?」
「うん……でも……」
 美咲は一応は素直に頷きつつも、もぞもぞと反論したそうな様子を見せていた。大地はそのことに気づいていたが、あえて無視して言葉を繋ぐ。
「それに、今晩はお楽しみもあるしね」
「お楽しみって?」
「それはまだ秘密」
 美咲は口をとがらせた。
「じゃあ、船内を探検して、それからお昼寝じゃダメ?」
 おねだりするようにそう言うと、漆黒の瞳をまっすぐに向けて、ちょこんと首を傾げて見せる。こんな顔をされては降伏せざるをえない。敵わないな、と大地は胸の内で密かに苦笑した。
「わかったよ」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
 美咲はパッと顔を輝かせると、ベッドに寝そべる大地に飛び込んで抱きついた。幸せな重みを感じながら、大地は彼女と目を見合わせ、絹糸のようななめらかな黒髪を指に絡めて慈しむ。
 外では大きく汽笛が鳴り、ゆっくりと船が動き出した。
 
 結局、船内探検に時間を費やしすぎて、昼寝の時間はほとんど取れなかった。
 大地は部屋に戻ってから一時間ほど眠ったが、美咲は興奮のためか一睡もできなかったらしい。それでもまだ元気いっぱいで、おなかが空いたから何か食べに行こう、と起き抜けの大地に容赦なくせがむ。
 これだけはしゃいでいたら、島に着く頃には疲れ切っているかな——。
 足どり軽く船内レストランへ向かう美咲の後ろ姿を見ながら、大地は苦笑しつつも優しく目を細めた。
 
「んー……眠くなってきた……」
 予想どおりだった。
 遅めの夕食を終えてから部屋に戻ると、美咲は目をトロンとさせ、吸い寄せられるようにベッドに倒れ込もうとする。しかし、大地は背後から抱き止めて、シーツに触れる寸前でそれを阻んだ。
「まだ寝ちゃダメだよ」
「どうして?」
「お楽しみがあるって言ったの忘れた?」
 眠くて不機嫌になっている美咲は、口をとがらせて非難するように大地を睨んだ。今の彼女にとって、眠らせてくれない相手は誰であろうと敵である。しかし、大地はそんなことなどお構いなしに、「おいで」と言って彼女の手を引くと、半ば無理やり部屋の外へと連れ出した。
 
「どうです? なかなかのものでしょう、溝端さん」
「これは……妻と息子にも見せてやりたいですな」
 扉を開けて外に出たところで、男性二人が夜空を仰ぎ見ながら会話していた。まだそれほど遅い時間でもないためか、甲板には他にもちらほらと人の姿が見える。おそらく、その多くが同じ目的で来ているのだろう。
 大地は手すりに両手を掛けた。
 夜の大海は空よりも暗くて黒く、まるで深い闇が広がっているかのようだった。じっと見ていると引きずり込まれそうな、そんな恐ろしささえ感じる。しかし、その上空には——。
「見てごらん」
 眠い目をこする美咲の頭にぽんと手を置き、大地はもう一方の手で空を指し示した。言われるまま、美咲はその指を追ってぼんやりと顔を上げる。しかし、その表情はみるみるうちに輝いていった。
「わぁ……」
 彼女の大きな漆黒の瞳には、たくさんの目映い輝きが映っていた。
「すごい、こんなに星があるなんて……」
「本土と違って空気がきれいだし、まわりに光もほとんどないからね」
 どこまでも続く紺色の空に、無数の星が散りばめられている。数えることなどとてもできない。それは、まるでおとぎ話に出てくる天の川そのものである。隣に視線を移すと、小さな口を半開きにした美咲が、ただただじっとその星空を見つめていた。
「美咲は覚えてる? 僕たちが初めて出会った日のことを」
「うん、ここまでじゃないけど、星のきれいな夜だった」
 美咲は空に目を向けたまま返事をした。
 大地はふっと表情を緩め、美咲を柔らかく懐へ引き入れた。そのまま何も言わず、二人でゆったりと同じ星空を仰ぎ見る。まるで、広大な濃紺色のキャンバスに煌めく星々を、余すことなく目に焼き付けようとするかのように——。
 それから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
 大地たちのまわりから人影がなくなった。声もしなくなった。耳に届くのは、船のエンジン音と波を掻き分ける音くらいである。この広い世界にたった二人きり、そんなありえない幻想さえ抱きそうになる。
 大地は小さく呼吸をしてから口を開いた。
「美咲、僕はね、君を一目見たときから決めていたんだ」
 そう静かに語りかける大地の胸に、美咲はふらりと背中からもたれかかった。空を映した漆黒の瞳がそっと閉じられる。彼女の耳に届いているかわからないが、それでも大地は優しく抱きしめ語りかけていく。やがて、話の終わらないうちに、彼女は大地の腕の中で小さく寝息を立て始めた。
 
「美咲、そろそろ起きない?」
 部屋には、カーテンの隙間から目映い光が射し込んでいた。
 大地は自分の胸元で眠る少女にそう囁くと、柔らかい頬にそっと指を滑らせた。彼女は「ん……」と小さな声を漏らし、ぼんやりとベッドから体を起こすものの、深くうつむいたまま固まったようにじっとしている。大地は少し不安になり、起き上がって美咲を覗き込んだ。
「もしかして酔った?」
「ううん、平気、眠いだけ」
 美咲は小さく頭を横に振り、顔を上げてにっこりと答えた。大地はその笑顔にほっとし、彼女の頭にぽんと手を置くと、ベッドから降りてカーテンを開いた。シャッ、という軽い音とともに、白い光が溢れ込む。美咲はパァッと顔を輝かせると、素足のまま弾むように窓際に駆けつけた。
「すごい、東京じゃないみたい!」
 ガラス窓に張り付いて海を眺める美咲の横顔を、大地は目を細めて見つめた。星空を映した瞳もいいが、キラキラと光る海面を映した瞳もきれいだと思う。
 美咲はガラスに手をついたまま振り向いた。
「ね、甲板に出よう?」
「あとでね」
「今すぐ行きたい!」
「それは無理だよ。まずは、顔を洗って服を着替えないと」
「じゃあ、お兄ちゃんも急いで!」
 美咲は待ちきれない様子でそう言うと、さらさらの黒髪をなびかせてユニットバスへと駆け込んでいった。
「あ、甲板の前に朝食だからね」
「ええっ?!」
 服を脱ぎかけた美咲が、素っ頓狂な声を上げて顔を覗かせる。しかし、不満そうな表情を見せただけで、何も言わずユニットバスへ戻り、いっそう大急ぎで着替えの続きを始めた。
 
 大地たちは、船内レストランでトーストとベーコンエッグを注文した。
 窓際に席を取り、二人で向かい合って座る。テーブルも椅子も何もかもが安っぽく、レストランというより食堂といった方が相応しく思えるが、それでも清々しい陽光と微かな潮風を感じながらの食事は格別である。ひどく空腹だったこともあり、美咲と喋りながらだったが、大地はあっというまに平らげてしまった。
「じゃあお兄ちゃん、外へ行こう?」
 大地のプレートが空になったことに気がつくと、美咲は急かすように促して立ち上がった。気持ちはすっかり外に向かっているようだ。しかし、彼女のプレートには、トーストもベーコンエッグもまだ半分ほど残っていた。大地は腰を上げることなく、穏やかな口調で美咲を窘める。
「ダメだよ、美咲、全部食べないと」
「もういい、早く行きたいんだもん」
 美咲はテーブルに両手をついたまま、焦れったそうに言う。
「ちゃんと食べないと成長できないよ」
「そんなに大きくならなくてもいいの」
「身長だけじゃなくて、いろんなところがだよ」
「……お兄ちゃんのエッチ」
 美咲は非難するようにじとりと睨み、口をとがらせた。頬はほんのりと桜色に染まっている。その様子から、彼女があらぬ誤解をしていることを悟り、大地は思わず肩を竦めて苦笑する。
「真面目に言ってるんだけどね」
「いいもん……子供のままで……」
 美咲は急に声を暗く沈ませると、斜め下に視線を落とす。その様子は、拗ねているというよりも、何か深く思いつめているように見えた。大地は理由がわからず当惑したが、それでも彼女を安心させるべく優しく微笑む。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
 待ってるんだから——。
 心の中でそう言葉を繋ぐと、うつむいた美咲の頬に手を伸ばした。
 
「わーっ! 気持ちいい!!」
 美咲が朝食をきっちり食べ終わってから、二人は甲板に出た。
 まだ早い時間のためか、ちらほらとしか人がいない。美咲は麦わら帽子のつばを両手で掴み、白いワンピースをひらめかせながら、弾むように軽やかに甲板を駆けていく。
「あんまりはしゃぐとパンツが見えるよ」
「お兄ちゃんのエッチ!」
 先ほどと同じ言葉を、今度は屈託なく笑いながら言う。ステップを踏むように振り返ると、腰より少し短い黒髪がさらりと潮風に舞い、白いワンピースが大きく風をはらんだ。
 立ち止まった美咲に歩み寄って、大地は口を開く。
「そろそろ島が見えてくる頃かな」
「えっ、どこ?」
「あっちの方だよ」
 手すりから身を乗り出した美咲の背後から、大地は大きく手を伸ばし、船の進行方向を指さした。しかし、そこには海と空が広がるばかりで、目を凝らしても島らしきものはどこにも見えない。
「お兄ちゃん、見える?」
「うーん、まだみたいだね」
 大地はきまりが悪くなって苦笑した。腕時計に目を落として時間を確認すると、確かに少し早かったようである。船は白い波しぶきを上げながら着実に進んでいる。焦る必要は何もない。大地は小さく息をついて、絵に描いたような鮮やかな青空を見上げた。
 美咲は手すりに置いた腕に頭をのせると、寂しげにぽつりと言う。
「お兄ちゃんとの旅行、これが最初で最後かな」
「まだ着いてもいないのに何を落ち込んでるの」
「だって……」
 何か理由を言いかけて、彼女は口をつぐんだ。帽子のつばに隠れて見えないが、おそらく朝食のときに見せたような、暗く沈んだ表情をしているのだろう。大地は不思議に思って首を傾げた。
「美咲、きのうの夜のこと覚えてる?」
「えっ? 一緒に甲板で星を見たこと?」
「そう、そこで僕は美咲に話したよね」
「……何を?」
 美咲はきょとんと顔を上げて尋ねる。とぼけているわけではなさそうだ。話の途中で眠ってしまったことは承知していたが、冒頭の少しくらいは聞いていたと思っていた。聞いてはいたが、忘れてしまったのかもしれない。
「じゃあ、美咲、あらためて聞いてくれる?」
「やめて、今はこの旅行を楽しみたいから……」
 美咲は逃げるように視線を外すと、再び手すりに置いた腕に顔を埋めた。
 先刻からどうも様子がおかしい。まるで、二人で過ごす時間は、これが最後であるかのような物言いを続けている。思い返してみれば、この数日の間にも何度か似たようなことがあった。
 まさか——。
 ふと頭をよぎったその考えに、大地は眉をひそめる。
 先日、伯母が大地に持ってきた縁談を、父は「すでに婚約者は決まっている」と一蹴したのだ。大地自身もそれに同調している。しかし、婚約者が誰であるかについては、二人とも頑なに口を閉ざしていた。もし、美咲がどこかでこの話を耳に挟んだとしたら——。
 大地は美咲の隣に並び、手すりに両手を置いて顔を上げた。
 彼方まで澄み渡った青空を仰ぎながら、優しくも力強さを感じさせる口調で言う。
「花は大地に根ざして美しく咲き誇り、大地は美しい花によって潤いと彩りを与えられる」
 前置きもなく発せられた詩のような一節に、美咲は怪訝に振り向き、瞬きもせず大地を見つめた。そして、真面目な顔で小首を傾げると、薄紅色の愛らしい唇を開く。
「それって“美咲”と“大地”は離れられないってこと?」
「よくわかったね」
 大地は満面の笑みで答えた。
 美咲は顔を隠すように深くうつむくと、身を翻しながら、軽く跳ねるように後ろに下がった。泣きそうなのをこらえるような、笑おうとして失敗したような、何ともいえない微妙な表情を浮かべて、後ろで手を組み合わせる。
「ずっと一緒にいてくれるの?」
「ずっと一緒にいるよ」
 それでも美咲の表情は晴れなかった。瞳を揺らしてさらに問いかける。
「私を置いていなくならない?」
「美咲をひとりにはしないよ」
「もし私がいなくなったら?」
「あれ? 美咲は忘れてるのかな? もう引退したとはいえ、これでも僕は元怪盗だよ」
 大地は腰に手を当て、大きく抑揚をつけながらおどけるように言った。
 まわりに人はいなかったが、たとえ誰かが聞いていたとしても本気にはしないだろう。年の離れた妹と遊んでいる微笑ましい光景としか映らないはずだ。その荒唐無稽な話が真実だと知っているのは、この船ではただひとり美咲だけである。
「でも、お兄ちゃんがそう思っていても……」
 そのとき、不意に突風が吹いた。
 麦わら帽子が空に攫われ、慌てて美咲はすらりとした手を伸ばす。
 瞬間——。
 
 ドォン!!
 
 耳をつんざくような轟音とともに、硬いはずの甲板が激しく波打った。
 大地の体は弾かれるように宙を舞い、視界は大きくぶれ、天も地もわからなくなった。反射的に鉄の柵のようなものを掴んでぶら下がったが、それも今にも外れそうになっている。体に容赦なくしぶきが叩きつけられた。
「美咲ーーーっ!!」
 何ひとつ状況の掴めないまま、どこにいるかわからない彼女の無事を確かめるべく、あたりを見まわしながら必死に名前を叫んだ。しかし、返答はなく、姿も見当たらない。聞こえてくるのは船の悲鳴と荒れ狂う波の音だけである。
「うわっ!!」
 大地の体が大きく旋回すると、とうとう掴んでいた鉄柵が外れ、遠心力で勢いよく弾き飛ばされた。叩きつけられるように海に落ちる。その痛みであやうく失神しかけたが、何とか意識を保ち、海流のうねりに揉まれながら海面に浮上して顔を出した。
 そのとき、少し離れたところに白い布が浮かんでいるのが見えた。
 大地はそれが美咲だと確信した。
 海水を吸った服が重たく纏わりつき、思ったように体が動かせず、焦る気持ちとは裏腹になかなか進まない。それでも、何とか彼女のもとまで泳ぎ着くと、背後から小さな体を抱きかかえて起こす。
「美咲っ!」
「ゲホッ」
 美咲はむせながら水を吐くと、苦しげに荒い息をしながら振り返り、うつろな目でぼんやりと大地を見た。潤んだ漆黒の瞳は、不安と恐怖に彩られている。それでも、彼女が生きていたことに、辛うじて意識があることに、大地は全身の力が抜けそうなほど安堵した。冷たい海に浮かんだまま、彼女の体をぎゅっと抱きしめる。
 しかし安心できる状況ではない。
 いつまでも、海の中に浮かんでいるわけにはいかないのだ。どこか陸のあるところまで泳いでいくか、通りがかりの船に助けてもらうしかない。けれども、まわりには水平線が広がるばかりで、目印になるものなど何もない。自分たちの乗ってきたあの船以外には——。
 おそるおそる、轟音の鳴りやまないその方に目を向ける。
 そこあったのは、海を割き天を貫く巨大な光柱により、おもちゃのようにあっけなく真っ二つに割られた船だった。片方は船首を上に向けて沈みかけ、もう片方は強烈な光によってバラバラに崩されていく。破片や人がゴミのように落ちていくのが見える。穏やかな青空と海の中で、そこだけが異空間のように地獄絵図が映し出されていた。
 現実とは思えない光景。けれど、紛れもない現実。
 今まで何が起こったのかさえ理解できずにいたが、離れたところから状況を見ても、やはりわからないままだった。常識では処理しきれないことが目の前で起きているのだ。大地の瞳には、光の魔神が雄叫びを上げ、怒りまかせに暴れ狂っているかのように映った。
 腕の中の美咲がぶるりと震えた。
 その感覚で大地ははっと我にかえる。とりあえず、出来るだけ船から離れなければならない。あの光がいつ自分たちの方に襲い来るかわからないし、そうでなくとも沈没時の渦に巻き込まれる危険もある。大地は凄惨な現場に背を向けると、美咲を抱えて必死に泳ぎ出した。
 ドォン——。
 縦になっていた船体が爆発し、炎と黒煙を上げながら海面に倒れ込んだ。真っ白な水しぶきとともに大きな波が起こる。それは生き物のようにうねりながら、大地たちに襲いかかった。
「美咲っ!」
 大地は高波に背を向けて、美咲を庇うように頭から抱き込む。しかし、それはほとんど意味をなさないことだった。高波はいとも簡単に二人をまるごと飲み込んでしまう。激しい水流に揉まれて引き裂かれそうになった。それでも、美咲と離ればなれにならないよう、彼女を抱く腕に死にものぐるいで力を込めた。
 
 1975年7月26日 午前8時すぎ
 小笠原沖にて旅客フェリー・おがさわら号 沈没
 死者 162名
 行方不明者 481名
 生存者 2名——。
 

1. 怪盗ファントム

「遥、澪、おまえたちは今日で17歳だな。おめでとう」
「ありがとうございます、おじいさま。このドレスも」
 橘 澪(たちばな れい)は、正面に座る祖父に笑顔で応えると、身に付けている薄いベージュのパーティドレスを軽くつまんで見せる。それを見た祖父の剛三(ごうぞう)は、満足げに頷きながら、広い執務机の上で両手を組み合わせた。
「二人ともよく似合っておるぞ」
「こんな服、どこで着ればいいわけ?」
 澪の双子の兄である遥(はるか)も、祖父からの誕生日プレゼントを身に付けていた。澪のパーティドレスと対をなすダークスーツである。しかし、澪とは違ってあまり嬉しそうにはしていない。もっとも、遥はいつもこんな調子であり、剛三はまるで気にすることなく答える。
「心配せずとも機会ならいくらでもあるぞ。おまえたちも、そろそろ私の同伴でパーティに連れて行こうかと思っておるのだよ」
 パーティといっても、いわゆるホームパーティの類ではない。会社関係やその付き合いで呼ばれるレセプションのことである。詳しいことは澪も知らないが、取り立てて楽しいものでないことは想像がつく。少し気が重くなったものの、それを口には出さずに愛想笑いを浮かべた。しかし、遥の方は無遠慮に言葉を吐き出す。
「興味ないけど。むしろ面倒くさい」
「そう言うな。いい社会勉強になるだろう。特に、おまえは橘の後継者なのだからな」
 これという議論がなされたわけではないが、暗黙の了解で、男である遥が橘家の後継者として扱われていた。おそらく古い人間である剛三の一存なのだろう。
 だが、それで揉めたことは一度もない。
 いささか無愛想ではあるものの、聡明で思慮深く、冷静に物事を見通す力がある——そんな遥を後継者とすることに、異を唱えるものは誰もいなかった。もちろん澪とて例外ではない。遥の方が相応しいということには納得していたし、それ以前に、橘家を継ぐことなどに何の興味も持っていないのだ。押しつけられなくて良かったと喜んでいるくらいである。
「社会勉強、頑張ってね」
「澪は気楽で羨ましいよ」
 にこにこしながら発破をかける澪に、遥は溜息まじりで恨み言を口にする。実のところ、彼も後継者など乗り気でないらしいのだが、だからといって反発することはなく、仕方がないと観念しているようである。
「17歳か……」
 剛三は肘掛けに両腕を置き、革張りの椅子に体重を預けると、遠くを見やりながら感慨深げに呟いた。そして、後ろに控えていた秘書の楠 悠人(くすのき ゆうと)に振り向いて口もとを上げる。
「とうとうこの日が来たな」
「ええ、準備は万端です」
 そんな意味ありげな会話を交わすと、剛三はすぐさま澪たちに向き直った。怖いくらい真剣な眼差しで見据えながら、静かに重々しく切り出す。
「他言無用の大切な話だ。心して聞いてほしい」
 16歳の誕生日のときには、似たような前置きのあとで、株式投資を始めろという話をされた。今回も、社会人としての勉強になる何かを始めさせるつもりなのだろう。やっかいなことでなければいいけれど——澪は心の中で願った。
 しかし、続く剛三の言葉によって、その願いは儚くも打ち砕かれる。
「今日からおまえたちは怪盗になるのだ!」
「……かいとう?」
 澪と遥はきょとんとして顔を見合わせた。いきなりこんな突拍子もないことを言われて、驚かない人間などそうはいないだろう。普段はあまり感情を表に出さない遥でさえも、困惑したような複雑な表情を見せている。
「それって演劇の話? それとも仮装パーティ?」
「いやいや、仮装などではなく本物の怪盗だよ」
 剛三は軽く笑いながら答えた。
「おまえたちは知らんだろうが、我が橘家が代々やってきたことなのだ」
「うそ……」
 唖然とした澪の口から小さな言葉がこぼれ落ちた。その反応を愉しむかのように、剛三はニコニコとしながら、執務机で両手を組み合わせて説明を続ける。
「盗むといっても利益を得るためではないぞ。我々がターゲットとするのは、そこに籠められている思いを踏みにじられた不遇の絵画のみ。つまりは絵の尊厳を守るということだな」
「もしかして、怪盗ファントム?」
 遥は顎に手を添え、ぽつりと言う。
 それを聞いた剛三は、満面の笑みを浮かべて、誇らしげに大きく頷いた。
「よくわかったな。さすがは遥」
「何、そのファントムって?」
 澪は瞬きをしながら、隣の遥に振り向いて尋ねる。
「もう20年以上前かな。絵画専門の怪盗がいたんだよ。鮮やかな身のこなしで、幻影のように消えたり現れたりすることから、ファントムって名前がつけられたらしいね」
「おまえたちは、その怪盗ファントムの二代目というわけだな」
 遥の端的な説明のあとに、剛三は嬉々として言い添えた。
 しかし、澪の理解は追いつかない。
「私たちが二代目……? 初代って誰だったんですか?」
「先ほど言っただろう、橘家が代々やっておるのだと」
「……もしかして、お父さま?」
 これまでの話の流れからすると、また剛三の口ぶりからしても、その答え以外には考えられない。それでも澪は半信半疑だった。父親はどちらかといえばインドア派であり、鮮やかな身のこなしで夜を駆け巡る怪盗とは、あまりにもイメージがかけ離れている。想像がつかないのだ。
 しかし、剛三は当然のように頷いて話を続ける。
「さよう、ファントムと名付けたのはどこぞのマスコミだったが、大地がえらく気に入ったようで、そのうち自らファントムと名乗って大々的に予告状を出すようになったのだ。私はそこまでするつもりはなかったのだがな」
 そのときの状況が目に浮かぶようで、澪は妙に納得してしまい、思わず小さく肩を竦めて苦笑した。確かに父親には調子に乗りやすいところがある。大人になった今でもそうなのだから、若かりし頃であればなおのことだろう。
「美咲とも、怪盗ファントムの活動が縁で出会ったのだぞ」
「そういえば、お母さまの亡くなった父親は画家って……」
「そう、その相沢修平が亡くなったとき、未発表の遺作である娘の肖像画を、悪質な美術ブローカーが騙し取ってな。それをワシらが取り返してやったのだ。おまえたちも知っているだろう、大階段に飾ってあるあの絵だよ」
 剛三の言う大階段の絵は、この家の人間ならば誰しも日常的に目にしているものである。描かれているのが美咲の少女時代であることも周知の事実だった。しかし、そのような劇的な逸話があったことは、少なくとも澪はこれまで知らなかった。
「ファントム、つまり大地が、美咲のところへその絵を返しに行ったのが、二人の最初の出会いでな。月下の淡い光に包まれながらベランダに降り立った大地は、驚く美咲に絵を手渡すと、黒のマントを大きく翻し夜空に舞い戻っていったのだ。その後、ファントムを追ってきた刑事が美咲に言った。ヤツはとんでもないものを盗んでいきました、それはあなたの心です!」
 剛三はこぶしをグッと握りしめ、前のめりになって熱く語った。しかし澪は、どこかで耳にしたようなその話を聞きながら、醒めた目を向けて胡散臭そうに言う。
「おじいさま、話を作ってません?」
「だいたい合っとるわい」
 剛三はぶっきらぼうに答える。
 その後ろで、秘書の悠人は声を立てず控えめに笑っていた。そこからは、何もかも知っているかのような、それを楽しんでいるかのような、そんな余裕が感じられる。
「師匠はご存知だったのですか?」
「僕はファントムの影武者だよ」
「えっ?!」
 突然なされた衝撃の告白に、澪は素っ頓狂な声を上げた。
 だが、言われてみれば、十分に考えられる話である。大地と悠人は同じ年齢で、背格好もよく似ており、そして、何より悠人は様々な武術を修得している。ファントムの影武者にこれほどの適任はいないだろう。
 隣で、遥は呆れたように溜息をついた。
「代々ってことは、じいさんもやってたんだね」
「無論だ。もっとも私は怪盗ではなくただの泥棒だったがな。そもそも私が始めたことなのだよ。おまえたちは怪盗ファントムとしては二代目だが、絵画泥棒としては三代目ということになるな」
 結局のところ、すべては剛三の独断だったようだ。ほとんど趣味といってもいいかもしれない。強引ではあるものの行動力と決断力がある、というのが世間での評判だが、ありすぎるのも困りものである。
「それくらいじゃ、代々っていうほどでもないと思うけど」
「これから脈々と受け継がれていく予定になっておる。おまえたちが歴史と伝統を作っていくのだよ。どうだ、わくわくするだろう?」
 冷ややかな遥とは対照的に、剛三は子供のように浮かれていた。
「おまえたちの任期は20歳までの3年。獲物の選定や作戦の立案はこちらで行う。おまえたちは指示に従って作戦を遂行するのが役目だ。良いな?」
「いいわけありません! おじいさま、窃盗は犯罪です!!」
 危うく流されそうになっていた澪は、ハッと身を乗り出して力説する。いくら祖父の命令とはいえ、犯罪に手を染めるわけにはいかない。祖父の間違った考えを改めさせなければならない。
「相変わらず澪は堅いのう」
「いくら不遇の絵画を救い出すためといっても、窃盗が許されるはずはありません。正当な手段で救い出すべきだわ。おじいさまなら、そのくらいのことが出来ないはずは……」
「面白そうじゃん、僕はやるよ」
 必死になって説得する澪をよそに、遥はさらりと軽く了承した。
「はっ、遥?!」
「遥ならそう言ってくれると信じておったぞ」
 剛三はほくほく顔でそう言いながら、何度も満足げに頷いていた。
 澪は慌ててふたりの間に割って入る。
「遥、落ち着いてよく考えて。怪盗なんてやったら犯罪者になっちゃうのよ? 映画や漫画とは違うのよ? ヒーローでも正義の味方でもないんだから」
「わかってるよ。警察に通報する?」
 その突き放したような物言いに、一瞬、澪はたじろいで小さく息を呑んだ。
「違うの、そういうことじゃなくて」
「澪はいいよ、僕ひとりでやるから」
「遥だけに押しつけて知らん顔なんて、そんなこと出来ないよ……」
 消えゆくようにそう言うと、表情を沈ませて目を伏せた。遥が何を考えているかわからず、泣きたいような気持ちになる。だが、ここで諦めるわけにはいかない。
「おじいさま、怪盗なんて馬鹿げたこと、本当にやめません?」
「遥ひとりでは何かと危険なのだがのう」
 剛三は、澪の言葉に耳を貸すどころか、とぼけた口調でそんなことを言う。そうやって澪の弱点をつくことで、ファントムに引き入れようとしていることは明らかだった。
「二人であれば使える様々なトリックも、一人では不可能だからな」
「怪盗ファントムをやめてしまえば、万事解決するじゃないですか」
 その声には露骨に苛立ちが滲んだ。
 剛三はわざとらしく大きく溜息をつき、遥に目を向ける。
「すまんな遥、聞き分けのない薄情な妹を持ったと諦めて、大変だろうが一人で頑張ってくれぬか。澪さえ協力してくれれば、遥の負担も減るのだがのう。いや、実に残念だ。澪はせめて遥の無事を祈っていてくれないか」
「わ、わかったわよ……私もやる……」
 不本意ながら、澪は追いつめられてしまい、そう答えるしかなくなっていた。せめてもの抵抗とばかりに、じとりと横目を向けて祖父を睨む。しかし、彼は少しも動じることなく、わははと豪快な笑い声を響かせた。
「よし、怪盗ファントム再始動だな!」
 剛三は執務机にバンと両手をついて勢いよく立ち上がる。そして、修羅場をかいくぐってきたことを窺わせるような凄みのある顔で、不敵にニッと白い歯を見せた。

 剛三の書斎を後にした澪と遥は、並んで長い廊下を歩いていく。澪はまだ気持ちの整理がつかず、浮かない面持ちで考え込んでいたが、遥はふと何かを思い出したようにくすっと笑った。
「澪が昔よく言ってたこと、当たらずとも遠からずだね」
「え? 何だっけ?」
「私たち雑伎団に売られるよ、って」
 小さな子供の頃から強制的に様々な武術や体術を習わされ、しかし何の大会に出ることも許されず、澪はそのことに大きな不信感を抱いていた。そして、子供なりに考えた結論が「雑伎団に売られる」だったのだ。ことあるごとに遥にそう言っていたが、当時は全く取り合ってくれず、いつも軽く聞き流されていた。もっとも、澪の方も、成長するにつれてそんな考えは消えていき、今となってはすっかり忘れていたくらいである。
「別に雑伎団に売られるわけじゃないでしょう?」
「下心があったって意味では似たようなものだよ」
 確かに、武術を習わせていた目的が、怪盗ファントムにあることは間違いないだろう。ふたりの師匠はその影武者をやっていた悠人なのだ。最初から二代目育成という計画に基づいて進めてきたと考えるのが自然である。
「怪盗かぁ……いろいろ驚きすぎちゃって、まだちっとも現実感がないよ。自分にはまったく縁のない世界だと思っていたのに、おじいさまはともかく、お父さまや師匠までそんなことをしていただなんて」
「じいさんは言い出したら聞かないから、父さんたちも仕方なくやることになったんじゃないかな。さっきの澪みたいにね」
 歩みを止めることなく、遥は淡々と語った。その声からはほとんど感情が窺えない。澪は長い黒髪をさらりと揺らして覗き込むと、小さく首を傾げて尋ねる。
「遥はどうだったの? 嫌じゃなかったの?」
 遥はちらりと視線を流し、僅かに口もとを綻ばせた。
「ここだけの話、僕はちょっと怪盗ファントムに憧れてたんだよ。活躍してたのは生まれる前のことだから、もちろんリアルタイムでは知らないけど、昔の新聞や本でそのときのことを読んでね」
 めずらしく嬉しそうに語るその姿を見て、澪は乾いた笑いを浮かべて脱力した。聡明な彼が怪盗になることを了承したのは、もしかしたら何か深い考えがあってのことではないか——と勘ぐっていたのだが、実際は呆れるくらい子供っぽい理由だったのだ。
「でも、怪盗ファントムって名前は間抜けだよね」
 遥はそう言いながら、赤絨毯の引かれた大階段を降り始める。
「どうして? 私はそんなに悪くないと思うけど」
「英語だと Phantom the phantom thief だよ」
「え、そうなの?」
 澪は思わず聞き返した。
 父や祖父はこのことを知っていたのだろうか。気にはなったが、下手をするとややこしいことになりかねないので、二人には、特に剛三には黙っておいた方がいいだろうと思う。
「ねえ、遥、おじいさまにはその話……」
「わかってるよ。面倒は御免だからね」
 遥も同意見だったのか、当然とばかりに軽く流した。そして、広い踊り場に降り立つと、その中央で足を止め、壁側に向き直って視線を上げる。
「この絵だよね、父さんが取り返した母さんの肖像画」
「うん……」
 澪もその隣に並んで立ち、同じく肖像画を見上げて頷いた。
 そこには10歳くらいの少女が描かれていた。可愛らしく上品な白のドレスを身に纏い、正面を見据え、破れたテディベアを抱えて椅子に座っている。肌は透き通るように白く、腰まである髪は艶やかな漆黒で、同じく漆黒の瞳には、子供とは思えないほどの鋭く理知的な光が宿っている。
「知ってる? 少女の無垢な狂気が描かれているって評論があったこと」
「モデルの子供が実在してるのに、狂気っていうのもひどい話だよね」
 肖像画を仰ぎ見たまま、遥は小さく笑いを含んだ声で言う。澪もつられるようにくすっと笑うと、後ろで手を組み、大きく息を吸い込みながら背筋を伸ばした。
「でも、何となくわかるなぁ。絵じゃなくて、お母さまの狂気ね」
「どういうこと?」
 遥はきょとんと振り向いて尋ねる。
「16になってすぐに結婚して、高校を休学することなく私たち双子を産んで、それから日本最高峰の大学に現役合格。そして今はノーベル賞に一番近い日本人といわれる研究者。何だか凄すぎて狂ってるとしか思えない、なんてね」
 最後におどけた口調でそう付け加え、澪は肩を竦めて見せた。
 遥もふっと表情を緩めて言う。
「高校の方は学校側の特別な配慮があったんだろうけど、母さんが凄いのは間違いないよね。狂ってるっていうのはさすがに言い過ぎだと思うけど」
 不意に、澪のポケットの中で携帯電話が震えた。
 パールホワイトのそれを取り出し、背面のディスプレイを確認すると、澪はパッと大きく顔を輝かせた。折り畳まれた本体を急いで開き、通話ボタンを押して耳にあてがう。
「もしもし、誠一?」
『ああ……澪、いま家にいるのか?』
「うん、いるけどどうしたの?」
『今から少しだけ会えないか?』
「いいよ、どこへ行けばいいの?」
『今、澪の家の前まで来てる』
「ホント? じゃあ今から行くね。待ってて」
 澪は逸る気持ちを胸にそう声を弾ませると、携帯電話を切った。二つ折りにしてポケットに戻しながら、遥に向き直り、すぐ下の玄関ホールを小さく指さす。
「誠一が来てるから行ってくるね」
「その格好で?」
 二人ともまだ祖父のプレゼントを身に付けたままだった。つまり、澪はパーティドレスを着ているのである。しかし、そのことを忘れているわけではなかった。
「家の前で会うだけだから平気よ。せっかくだから誠一にも見せたいんだもん」
 えへへと笑って、その場でくるりと一回転する。レースをあしらったアンシンメトリーの裾が、風をはらんでふわりと華やかに舞った。しかし、そんな上機嫌な澪に、遥は無表情で冷や水を浴びせかける。
「別れた方がいいんじゃない?」
「えっ?」
「刑事なんだよね?」
 遥の言いたいことはわかった。怪盗である澪と、刑事である誠一——つまり、敵対する立場の二人が付き合うのは、何かと問題があるということだろう。
「んー……でも、殺人事件の担当みたいだから、怪盗の捜査はしないんじゃないかな」
 多少の不安を感じないでもなかったが、澪は心配ないとばかりに努めて明るく答えた。誠一と別れるなど考えられない。それほど軽い気持ちで付き合っているわけではないのだ。
「ね、遥はまだ好きな子いないの?」
「いないよ」
 遥の答えは、いつもと変わらない淡泊なものだった。はっきりとは言わないものの、彼がこの手の質問を快く思っていないことはわかっている。それでも、今日の澪は引き下がらなかった。
「じゃあ、富田とかどうかな?」
「……なに言ってんの?」
 遥は思いきり訝しげに眉をひそめた。その反応ももっともである。なぜなら、富田は遥と同性の男なのだ。
「だってほら、アイツいつも言ってるじゃない? 同じ顔なら私より遥の方がいいって」
「そんなこと真に受けてるの澪だけだよ」
 人差し指を立てて明るく言う澪に、遥は呆れた目を向けた。しかし、澪はふざけているわけでも、冗談のつもりでもなかった。今度は、慎重に考えながら言葉を繋いでいく。
「別に富田と恋愛しろってわけじゃなくてね……親友とか、自分にとって頼りになる存在がいた方がいいんじゃないかなって。富田とは幼なじみで友達だけど、親友ってほど心を許してないでしょう? まあ、富田でなくてもいいいんだけど、誰かひとりくらいはそういう人がいた方がいいよ」
「余計なお世話。誠一、待たせてるんじゃない?」
「あっ!」
 澪は口もとに手を当てて声を上げた。そして、慌ただしくじゃあねと手を振ると、母親譲りのしなやかな黒髪をなびかせながら、一段とばしで大階段を駆け下りていった。

「誠一!」
 澪は屋敷横の細道に回り込むと、弾けんばかりの笑顔を見せながら、煉瓦塀にもたれかかる誠一に駆け寄った。名を呼ばれて振り向いた誠一は、澪の姿を瞳に映すなり、驚いたようにその目を大きく見開く。
「澪、どうしたんだその格好……」
「おじいさまからのプレゼント。どうかな?」
 澪はドレスの裾を軽く持ち上げ、踊るようにくるりとまわった。それと同時に、橘家の敷地内からせり出している大きな木が、頭上でさわさわと音を立てた。誠一は目を細めて微笑み、ジャケットの内側に手を入れながら言う。
「よく似合ってるよ。ちょうど良かった」
「えっ? ちょうど良かったって、何が?」
「澪、お誕生日おめでとう」
 懐から出された手には、プレゼント用にラッピングされた細長い箱が握られていた。薄いピンク色を基調とした包装紙に、白のリボンが掛けられている。澪の顔はパァッと輝いた。
「わぁ、ありがとう! 開けてもいい?!」
「もちろん」
 誠一は小さく笑ってそう答えた。
 澪は胸を高鳴らせながら、出来るだけ丁寧にリボンを外し、包装紙を剥がし、横開きの箱をそっと開いた。そこには、淡いピンク色の上品な輝きがあった。シンプルで控えめな、それでいて上質な存在感を放つペンダントである。
「あ、かわいい! ピンクダイヤ?」
「よくわかったな」
 誠一は感心したように言った。
 しかし、澪が言い当てたのは偶然のようなものである。母親が似たようなピンクダイヤのペンダントを持っていたので、そうではないかと思っただけで、特に宝石に詳しいというわけではないのだ。それでも、ピンクダイヤが安いものでないことくらいは知っている。
「無理したんじゃない?」
「そういうことは聞くなよ」
 きまり悪そうに苦笑する誠一を見て、澪は肩を竦めてペロッと舌を出した。
「貸して、つけてあげる」
 誠一は箱からペンダントを取り出すと、澪の首に手をまわして留め、胸元のピンクダイヤの位置を直した。そのまま置いた手を引くことなく、ペンダントを、それから漆黒の瞳をじっと見つめる。
「よく似合ってる……澪……」
 熱のこもった囁きを落とし、ゆっくりと澪に顔を近づけていく。
 しかし、澪は立てた人差し指を彼の唇に当て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「外ではダメって言ったでしょう?」
「そう、だったな」
 誠一は傍目にもわかるくらい意気消沈し、ごまかし笑いを浮かべた。その様子が、澪には何かとても可愛らしく感じられた。くすっと笑うと、踵を上げて頬に軽く触れるだけのキスを落とす。それから、ゆっくりと彼の肩に額をつけて寄りかかり、小声でそっと甘えるように尋ねた。
「今度、いつゆっくり会える?」
「近いうちに……必ず」
 誠一は力をこめて最後の一言を付け加えた。そして、目を細めてふっと微笑むと、少し冷えてきた澪の肩を、あたたかい手で優しく包み込むように抱いた。

「…………」
 少し空気が冷たくなってきた夏の終わり。微かな風が吹き、豊かな緑の葉がさわさわと揺れる。
 その緑に姿を隠しながら、遥は大木の枝の上に立っていた。すぐ下で繰り広げられている双子の妹と恋人の一部始終を、無表情でじっと見つめている。妹と同じ漆黒の瞳を細めながら——。


2. 不条理な要求

「南野誠一サン」
 聞き込みを終えて警視庁へ戻ろうとしていた誠一は、背後から名を呼ばれ、隣の岩松警部補とともに振り返った。街中でフルネームを呼ばれるなど、そうそうあることではない。事件の関係者だろうかと思ったが、そこに立っていたのは、ブレザーの制服を正しく着こなし、学校指定のスクールバッグを肩に掛けている、見知った高校生の少年だった。
「遥クン、どうしたんだ?」
 誠一は少し目を大きくして尋ねた。彼は、付き合っている恋人の兄であり、何度か挨拶を交わしたことはあるが、個人的に話したことは一度もない。なのに、いきなり何の用だというのだろうか。彼の自宅や学校から離れていることから考えても、偶然ではなく、待ち伏せしていた可能性が高いと思われる。
 しかし、遥が答えるより先に、岩松警部補がひょっこりと横から割り込んできた。厳つい大きな体を屈め、愛嬌のある笑顔で人なつこく尋ねる。
「確か、キミは澪ちゃんの弟だったかな」
「兄です」
 遥は無表情のまま訂正を入れた。そして、ペコリと頭を下げて続ける。
「その節は妹がお世話になりました」
「いやいや、お世話になったのはこっちの方さ。あそこにいたのが澪ちゃんじゃなかったらと思うとゾッとするよ。俺たちにとっちゃ、いくら感謝してもしきれない恩人だ。おかげでこいつの首も繋がったしな」
 岩松警部補は白い歯をこぼしながら、節くれ立った手で誠一の頭を鷲掴みにし、ガシガシと乱暴に撫でまわした。硬めの黒髪が逆立ちボサボサになっていく。誠一は自分の失態を蒸し返された居たたまれなさに、為すがまま、ただぎこちなく苦笑するしかなかった。

 それは、今から一年半ほど前のことである。
 誠一と岩松警部補は、職務で聞き込みにまわっているときに、別の殺人容疑で指名手配されている男を見つけ、二人だけで彼を追いつめて手錠を掛けた。犯人を見つけられたのは、誠一の記憶力と観察力があったからこそで、このことに関しては大手柄といって差し支えないだろう。
 問題はその後だった。
 岩松警部補が本部に連絡を入れている間に、あろうことか気の緩んだ隙を突かれ、誠一は犯人に殴り倒された挙げ句に逃げられてしまったのだ。暴走した犯人は、手錠で両手首を繋がれたまま、隠し持っていたナイフを振りかざし、たまたま通りかかった当時中学生の澪に襲いかかる。が、澪は逆にその男を投げ飛ばし、地面にねじ伏せ、鮮やかな手並みで取り押さえたのだった。
 それが、澪との最初の出会いである。
 彼女のおかげで、一人の怪我人も出さずに事なきを得た。が、岩松警部補の言うように、そこにいたのが武術の心得のない人間だったら、最悪の事態になっていたかもしれない。そうなれば、誠一も刑事ではいられなかっただろう。つまり、誠一にとって澪は、恋人であると同時に恩人でもあるのだ。

「それで、遥クン、南野に何か用なのか?」
 岩松警部補が覗き込んで尋ねると、遥は誠一を小さく指さしながら言う。
「少し相談したいことがあるので、お借りしてもいいですか?」
「ああ、構わんぞ。だが、遅くならないうちに返してくれよ」
「ちょっと、勝手に決めないでください!」
 おおらかに笑って答える先輩に、誠一は抗議の声を上げた。借りるだの返すだの、物扱いされていることも気に入らない。しかし彼は宥めるように、それにしては少し乱暴に、誠一の頭をボンボンとゴムまりのように叩く。
「職務じゃないとか堅いこと言わずに、話くらい聞いてやってもいいだろう。あの橘財閥のご子息なんだぞ? おまえの首くらいなら軽く飛ばせるかもしれん。粗末に扱ってあとでどうなっても知らんからな」
 冗談めかした口調でそう言うと、カラリと笑顔を見せて右手を上げた。
「じゃあな、俺は先に戻ってる」
「自分もすぐに戻ります!」
 立ち去っていく広い背中に、誠一は慌てて声を張り上げる。
「ゆっくりしてきていいぞー」
 岩松警部補は左手をポケットに突っ込んだまま、振り返ることなく、もういちど右手を上げてひらひらと振った。頼りになるはずの背中は、無情にも誠一を置き去りにして遠ざかっていった。

「会いに来てくれるのは嬉しいけど、できれば非番のときにしてくれるかな」
 誠一は密かに溜息をついてから、角が立たないようにやんわりとそう言った。何を考えているのかわからない彼のことは少し苦手であったが、付き合っている彼女の兄だから無下にはできない。しかし、遥はといえば、相変わらず愛想のかけらもない態度を見せている。
「非番の日も連絡先も知らない」
「君の妹に聞けばわかるだろう」
「澪には内緒だから」
 誠一はその言葉に引っかかるものを感じた。澪に内緒の話など見当もつかないが、遥の態度からすると、あまり良い内容であるとは思えない。ごくりと唾を呑み込み、緊張しながらも核心を尋ねようとした、そのとき——。
 遥はパッと車道に振り向いた。
 つられて、誠一も何気なくその視線を辿る。5、6メートル先の道路脇にいたのは、エンジンをかけたままの大型バイクにまたがり、フルフェイスのシールドを上げて、じっとこちらを凝視している長身の男だった。彼の双眸は、誠一ではなく遥を捉えているようである。
「知り合いか?」
「僕は知らない」
 観察するような目をその男に向けたまま、遥は答える。
「もしかしたら、誘拐しようと狙ってるのかも」
「誘拐?!」
 あまりにも飛躍した話に驚いて、誠一は素っ頓狂な声で聞き返した。
「もしかしたら、だよ。子供の頃に誘拐されかけたことがあるから、ありえなくはないと思って」
 言われてみれば、彼はあの橘財閥の一人息子である。誘拐を企てられてもおかしくない立場といえるだろう。彼を見つめるバイクの男が、堅気とは思えない鋭い眼光をしているのも気になるところだ。
 念のため話を聞いた方がいいかもしれないと思い、誠一はその男へと足を踏み出した。それとほぼ同時に、男は素早くシールドを下げて地面を蹴り、四輪車の間を軽快に縫いながら、鼠色のアスファルトを滑るように疾走していく。その姿は、あっというまに見えなくなった。
「行っちゃったね」
 遥は他人事のように言った。
 これだけで誘拐かどうかの判断はつかないが、男の不審な行動には何らかの意味があるような気がして、誠一は心配になってきた。当の本人に危機感が窺えないのも問題である。
「気をつけるんだぞ」
「わかってる」
 遥はそう答えると、漆黒の瞳を細めてふっと微笑んだ。
 瞬間、誠一は息を呑む。普段の無表情ではあまり思わないが、微かに綻んだその顔は、澪と重なって見えるほどよく似ていた。顔立ちや表情だけでなく、身長も体格もほとんど変わらないため、なおさらそう感じるのかもしれない。
「……何?」
「え? いや、えっと……」
 遥に訝しげに眉をひそめて尋ねられ、誠一は狼狽して口ごもった。まさか本当のことを言うわけにはいかないだろう。彼にはもちろん、澪にも、誰にも、そんな誤解を招きそうなことは知られたくない。
「そうだ、何か話があったんじゃないのか?」
「ああ、うん、澪と別れてもらおうと思って」
 一瞬にして、誠一の愛想笑いは凍り付いた。あまりにも軽い口調だったので、何かの冗談ではないかと思ったが、彼は少しも笑っていなかった。それどころか、静かに挑むような目を向けている。
「……随分はっきりと言ってくれるな」
「まわりくどいのは好きじゃないから」
「とりあえず、理由を聞かせてもらおうか」
 誠一は出来うる限り冷静に尋ねた。本人に内緒で別れさせようとするなど、随分と卑劣な行為であるが、感情的になるのは大人としての態度ではない。彼が間違った行動をとっているのなら、自分が諭さねばならないだろう。そう思っていたのだが——。
「29歳のオトナが、17歳のコドモと付き合っていいわけ?」
「うっ……」
 言葉を詰まらせた誠一に、遥は冷ややかな顔をして畳み掛ける。
「付き合い始めたのは、16になりたての頃だったよね?」
「あ、ああ……まあ……」
「マズいんじゃないの?」
 澪とそっくりの白くきれいな顔立ちで、蔑むような冷たい目を向けられて、誠一の全身から冷や汗が噴き出した。額から頬へと伝い落ちていく。それでも引き下がることなく、強気に視線を返して胸を張った。
「いや、俺たちは真剣に付き合っている。何の問題もないはずだ」
「そう……」
 遥は顔色ひとつ変えず無感情に相槌を打つと、突然、ボクシングのレフェリーが勝者にするように、その場で誠一の手首を取って高々と掲げた。
「遥クン、何を……?」
「皆さん、こちらに注目ーー」
 彼がどこか気怠そうに声を張り上げると、まわりを行く多くの人たちが振り向いた。わざわざ足を止めた人もいる。彼が何をしようとしているのか見当もつかず、また、いきなり視線を集めたこの状況に当惑して、誠一は手を掲げられたまま慌てふためいた。
「ちょっ……」
「皆さん、刑事って見たことありますか? ドラマや映画などではよく見ますが、意外と刑事に会う機会はないですよね。でもなんとこの人、本物の、しかも本庁捜査一課の刑事さんなんです」
 興味深そうに目を輝かせる人、つまらなさそうに去っていく人、横目を流して微妙に気にしている人、胡散臭そうに眉をひそめる人——向けられた反応はさまざまだった。誠一はうつむき、耳元を赤らめながら目をつむる。今すぐにでもここから逃げ出したい気分だった。
 しかし、遥は容赦なく続ける。
「その優秀な本庁の刑事さんが、なんと、17歳のじょ……」
「わーーーっ!!!」
 ようやく遥のやろうとしていることを理解した誠一は、それを掻き消すように全力で叫び声を上げた。掴まれた手を振りほどき、大慌てで彼の口をふさぐ。そして、まわりからの不審な目にごまかし笑い浮かべながら、遥を背後から抱え込んで後ずさると、人通りのない細い裏路地へ半ば強引に連れ込んだ。

「問題ないんじゃなかったの?」
 膝に両手をついて大きく肩で息をする誠一を、遥は冷ややかに見下ろして言った。やることなすことがいちいち小憎たらしい。誠一は腹立たしく思いながら、大きく溜息をついて体を起こす。
「公務員は何かと風当たりが強いんだよ。だいたい、真剣に付き合っていると言ったところで、この年の差では、そう簡単に信用してもらえるものでもないし……」
「へぇ、誠一の真剣ってその程度なんだ」
 その一瞬、誠一は心底から彼を憎いと思った。外見は澪と瓜二つといっても差し支えないが、内面はまるで違うようで、随分とえげつないことをしてくれる。遣る方ない怒りが胸に渦巻き、奥歯をギリと強く噛みしめた。
「こんなところで立ち話もなんだから、どこか喫茶店でも入らない?」
「……店の中でさっきみたいなことはやめてくれよ。本当に頼むから」
 眉をひそめて切実に懇願するものの、遥は何も答えてはくれなかった。ただ、逃がさないとばかりに誠一の手首を掴み、迷う様子もなくどこかへ向かって歩き出した。

「これ、喫茶店じゃなくて、アイスクリーム屋……」
 遥に連れてこられたのは、ショッピングビルの一角にある小さな店だった。カウンターには様々なフレーバーのアイスクリームが並んでいる。どう見てもアイスクリーム屋としか言いようがない。一応、イートインもあるにはあるが、テーブルも椅子も簡素なもので、喫茶店ほど落ち着ける場所ではなさそうに思えた。
「僕はストロベリーパフェ。誠一は?」
「いや、俺はいい……」
 もはや何も言い返す気になれず、誠一は右手を挙げて溜息まじりに答えた。
「そう、じゃあ、僕は席を取っておくから」
「……俺が奢るのか?」
 さっさと奥のイートインへ向かう遥の背中に、誠一はぽつりと疑問を投げかけた。遥は足を止める。そして、もったいつけるようにゆっくりと振り返ると、氷のような冷たい視線を流して小さな口を開く。
「女子高生」
「わかった、わかったよ」
 誠一は顔をしかめながらそう言い、開いた両手を顔の横に挙げて、投げやりに降参のポーズを見せた。

 どことなく嬉しそうにパフェを食べる遥の向かいで、誠一はむすっとしながら腕を組んで座っていた。目の前のパフェに夢中なのか、少しもこちらを見ようとしない彼に、じとりとした視線を送って尋ねる。
「美味いか?」
「誠一もひとくち食べてみる?」
 遥はようやく顔を上げると、山盛りの生クリームとイチゴがのったスプーンを差し出し、真顔でそんなことを尋ね返してきた。からかっているのか、本気なのか、彼の様子からは判断がつかない。誠一は小さく溜息をついて、無言で首を横に振った。
「さっきから気になっていたんだが……」
 そう前置きをして、続ける。
「誠一と呼び捨てにするのはやめてくれないか」
「澪はそう呼んでる」
 遥はスプーンを持ったまま、悪びれることなく答えた。
「澪は付き合ってるから特別だ。君とは何度か挨拶した程度で、特に親しいわけでもない。こっちの方が10歳以上も年上なんだから『南野さん』と呼ぶのが常識だろう」
 誠一が大人げなく切り返すと、遥はちらりと視線だけを寄こす。
「敬称って、敬ってもない人につけるものじゃないと思うけど」
「そんなことを言っていては、社会に出てからやっていけないぞ」
「その辺は抜かりないからご心配なく。今は、誠一に敬称をつけることにメリットを見いだせないだけ。そういう常識が求められる場なら、誠一のこともちゃんと南野さんって呼ぶから」
「あ、そう……」
 誠一は腕を組んだまま盛大に溜息をつき、そのままぐったりとうなだれた。彼と話をするだけで疲れて仕方がない。眉間に深く皺を刻みながら、ぶつくさと不満を独りごちる。
「何が楽しくて、アイス屋で男と二人きり……」
「へえ、相手が女だったら楽しいんだ?」
「まわりを見てみろ。どう見ても俺たちは浮いているぞ」
 狭い店内を見渡してみても、店員以外は若い女性しかいない。スーツと制服の男性二人が向かい合っている姿は、明らかに異質といえるだろう。しかし、遥はまわりを見ようともせず、パフェをすくいながら平然と言う。
「人の目なんて気にすることないんじゃない? 悪いことしてるわけでもないんだし」
 確かにそれは正論である。だが、好奇の視線を向けられれば、誰でも少しくらいは居心地の悪さを感じるものだ。しかしながら、遥の態度は堂々としたもので、見事なくらいに自己矛盾なく一貫していた。
「誠一は女なら誰でもいいんだね。澪に言っておく」
「えっ……」
 誠一は絶句した。しかしすぐに首を左右に振ると、大慌てで否定する。
「いやいやいや、そうは言ってないぞ」
「似たようなことは言ってたけど」
 思い返してみれば、確かにそう受け取られかねないことを口にしていた。だが、それは本意ではない。この店で男と二人きりという状況が恥ずかしかっただけである。慌てて、とっさに苦し紛れの言い訳が口をついた。
「こっ、言葉の綾というやつだ……」
「それ、失言をごまかすって意味?」
「うぐっ……」
 遥の追及は容赦なかった。感情的ではなく理性的なのが尚更たちが悪い。的確にダメージを与え、反論の術を奪っていくのである。もはや何を言っても勝てる気がしなかった。
「誠一、次はチョコレートパフェが食べたい」
「……わかった」
 誠一は半ば自棄になってそう答えると、テーブルに手をついて立ち上がった。そして、あまり多くはない財布の中身を確認しながら、鉛のような足を引きずってカウンターへ向かった。

「遥クン、君、橘財閥の御曹司なんだから、パフェくらい自分で買えばいいだろう」
 買ってきた二つ目のパフェを遥の前に置き、誠一は溜息まじりに文句を垂れた。そういう問題ではないとわかってはいたが、どうしても何か言わずにはいられなかった。しかし、遥は眉ひとつ動かさず、空になったグラスを脇に寄せると、新しいパフェのチョコレートアイスを山盛りすくった。
「確かに、家が裕福だってのは認めるけど、僕たち子供はそんなに甘やかされてないよ。何でも買ってもらえるわけじゃないし、お小遣いだって常識的な金額だし、そういう面では普通の高校生と変わらない」
 それは、本当のことなのだろうと誠一は思う。澪と接していてそう感じた。古くからの執事が仕えているとか、何部屋あるのかわからないとか、家の話については想像を超えるものがあるが、彼女自身はいたって普通で、一緒にいても財閥令嬢であることなどほとんど感じさせないのだ。
「だからって脅迫は良くない。立派な犯罪だぞ」
「17歳の子供と付き合うのも犯罪だと思うけど」
「真剣に付き合っていれば犯罪にならないんだよ」
 今度は冷静に言い返した。
 16歳になれば女の子は結婚できる——それが澪の言い分であり、誠一も一応は納得している。だからこそ澪と付き合っているのだが、本当に問題がないのかは今ひとつ確信が持てずにいた。どちらにしろ、一般的に理解してもらうのが困難だということはわかっている。遥には強硬な態度に出ているが、相手によってはこうもいかないだろう。だから、これまで二人の関係を誰にも漏らしたことはなかった。もっとも、澪の方はそうでもないようだが——。
「誠一ってロリコンなの?」
「なっ……違う違う、断じてそれは違うぞ!」
 意表を突かれて、誠一は慌てて否定する。これまで同級生と付き合ったこともあり、年下でなければならないとか、まして十代以下でなければ受け付けないとか、そのようなことは決してない。断じてない。たまたま澪が一回りほど年下だっただけのことである。そう、あくまで偶然の結果なのだ。
「じゃあ、年相応の彼女を見つけるべきだよ」
「……君、誰かを好きになったことないの?」
「ないよ」
 遥はパフェから目を離さず答えた。それを聞き、誠一は鼻先で笑って腕を組む。
「なるほどな」
「何?」
 遥は顔を上げると、訝しむように眉をひそめた。
「君、人のことをロリコンだとか言うけど、本当は自分がシスコンなんじゃないか? 他の子を誰も好きになれないくらいにな。可愛い妹を取られたのが悔しくて、こんな自分勝手なことを頼みに来たんだろう」
 誠一は勝ち誇ったように言う。これで、ようやく遥より優位に立てると思った。だが——。
「浅ましいね」
「あさ……?!」
 遥はぞっとするような軽蔑の眼差しを向けていた。
「確かに、澪のことは好きだし、大切に思ってる。でも、それは家族として当たり前のことだよね。それをシスコンだなんておかしくない? そういう目でしか見られないの? 浅ましいとしか言いようがないよ」
「…………」
 返す言葉がなかった。
 そう言われると、先ほどの自分の態度が本当に浅ましく思えてくる。遥の弱点を見つけたくて焦っていた、というのはあるだろう。けれど、あのような鬼の首を取ったような言い方はすべきでなかった。
「誠一ってさ……」
 うつむいて考え込んでいると、遥は思いついたようにそう切り出す。
「どんな理由があっても犯罪は許せない?」
「……当然だろう。これでも俺は刑事だぞ」
「ふーん……」
 遥は意味ありげにそんな相槌を打つと、再びパフェをすくいながら軽く言う。
「やっぱり澪と別れてよ」
「なんでそうなるんだよ」
 誠一はわけがわからず眉をひそめた。犯罪が許せないから澪と別れろなど、もはやただの言いがかりとしか思えない。いや、言いがかりの体さえなしていない。しかし、わかっているのかいないのか、遥は強気を崩すことなく続ける。
「詳しい理由は言えないけど、このまま誠一と付き合い続けていたら、澪はいずれ苦しむことになる。澪のために別れてって頼んでるんだよ」
 その静かな迫力に圧倒され、誠一はうっすらと額に汗を滲ませた。組んだ腕の中で握りしめた手も、じわりと湿り気を帯びてくる。それでも、とってつけたような言い分に納得できるはずもなく、落ち着いた態度を装いながら反論する。
「俺が別れを切り出したら、澪は苦しむことになると思うが?」
「ずっと付き合っていた方が、結果的には苦しむことになるの」
 遥は迷いなくきっぱりと言い切ると、大きな漆黒の瞳で、心の奥まで見透かすようにじっと見つめた。
「とにかく、澪のことを大切に思うなら別れてよ」
 誠一は眉根を寄せる。
「遥……いったい、俺の何が気に入らないんだ?」
「誠一のことは好きだよ」
 遥は上目遣いでそう言うと、悪戯っぽい妖艶な笑みをその唇にのせた。それは、一瞬、彼が男であることを忘れてしまうくらいのものだった。澪とそっくりなきれいな顔で、澪にはない色気をまとっている——不覚にも動揺してしまった誠一をよそに、遥はすぐに真顔に戻って続ける。
「澪にしてはまともな人を選んだと思ってる。できれば僕も反対なんてしたくなかった。上手くいってほしいと願ってさえいた。ついこの前まではね。でも、状況が変わってしまったから仕方がないんだよ」
 なぜここまで別れさせようとするのだろう——誠一は単純に疑問に思った。もしも今の遥の言葉が本心ならば、彼個人の感情が理由ではないということになる。年の差を問題視しているわけでもなさそうだ。澪と付き合い続ければ彼女が苦しむことになる、というのが本当だとしたら、それは一体どういうことなのだろうか。
「せめて、理由を教えてくれないか」
「理由は言えないって言ったはずだよ」
「そんな都合のいい話があるか!」
 誠一はカッとしてテーブルに右手をついた。しかし、前のめりになる気持ちを必死に抑えると、その手をグッと握りしめて膝に下ろした。納得したわけではない。澪と別れろの一点張りで、その真意を話そうとしない彼に、苛立ちと不安は募る一方だった。
「忠告はしたから」
 遥は突き放すようにそう言うと、空になったパフェグラスに放り投げるようにスプーンを戻した。カランカラン、と耳障りな音が二人の間に響く。
「ごちそうさま」
 感情の窺えない義務的な声が、うつむいた誠一の耳に届いた。
 遥は立ち上がって紺色のスクールバッグを肩に掛けると、座ったままの誠一を一瞥して店を出て行った。ただの一度も振り返らない。まるで、用件以外には興味がないと言わんばかりに——。

 テーブルには、二つの空になったグラスが残されていた。
 誠一は眉を寄せてそれを見つめながら、先ほどの遥との会話を心の中で反芻する。肝心なことは避けているものの、彼の言葉は基本的に率直だった。少なくとも嘘を言っているようには思えない。
 もしも、本当に自分と付き合うことが、澪を苦しめることになるとしたら——。
 誠一はテーブルに肘をついて祈るように両手を組み合わせると、その上に額をのせ、細く息を吐きながらゆっくりと目を閉じた。


3. 互いの秘密

 ピンポーン——。
 広くはないアパートの部屋に、電子的なチャイムの音が響き渡った。
「はーい」
 誠一は軽い調子で返事をすると、読んでいた新聞を床に置き、はやる気持ちのまま足早に玄関へと向かう。その日は非番だったため、洗いざらしのシャツにジーンズというラフな格好ではあるが、清潔感を損なわないよう、それなりにこざっぱりと身なりは整えてあった。
 それというのも、澪が来ることになっていたからである。
 平日なので学校を終えてからになるが、ここ、誠一の部屋で一緒に過ごそうと約束していたのだ。もちろん夜までには帰さなければならず、いられるのはせいぜい一時間ほどである。それでも、互いの休日が重なることの少ない二人にとっては、切り捨てることのできない貴重な時間だった。
 誠一は鍵を開けて、ドアノブに手を掛ける。他に尋ねて来る人間に心当たりもなく、ちょうど約束の時間だったこともあり、澪が来たのだと疑いもせず扉を押し開いた。が——。そこにいたのは、外見だけはよく似た別人だった。
「……遥?」
 予想外のことに混乱して、誠一は目をぱちくりと瞬かせた。あたりを見まわしてみるものの、彼ひとりきりで、澪と一緒に来たわけでもないようだ。訝しげに眉を寄せると、遥はそれに答えるように口を開く。
「会いに来るなら非番のときにしろ、って言ってたから」
「それは、そうだが……どうしてここを知ってるんだ?」
「澪に聞けばわかるって言ったの、誠一だよ」
 確かにその通りであるが、職務中に押しかけられると迷惑だと言いたかっただけで、家に来てほしいなどと思っていたわけではない。第一、あれからまだ二日しか経っておらず、来るにしても早すぎだと言わざるをえない。
「それで、何の用だ? まだ話があるのか?」
「せっかく来たのに上げてくれないの?」
 まるで小さな子供が何かをねだるように、遥は大きな瞳でじっと見つめて尋ねた。さっさと話を終わらせて帰ってもらうつもりだったが、やはり一筋縄ではいかないようである。誠一の顔に抑えきれない苛立ちが滲んだ。
「これから澪が来るんだよ」
「だから追い返すつもり?」
 口では彼に敵わない。
 他の住人の目もある玄関先で、いつまでも不毛な押し問答を続けるわけにもいかないだろう。
「……澪が来るまでだぞ」
 誠一は投げやりにそう言うと、溜息をつき、入口を塞いでいた自分の身を退けた。

 遥は何の遠慮もなく中へ進むと、スクールバッグを下ろして丸テーブルの前に座る。わかっているのかいないのか、いつも誠一が使っているクッションを、ちゃっかりとその下に敷いていた。
「僕はコーヒーでも紅茶でもどっちでもいいよ」
「……待っていろ」
 完全に遥のペースである。
 誠一は早くもぐったりとして深く溜息を落とした。彼の言いなりになるのは腹立たしいが、彼と言い合うだけの気力はすでにない。仕方なく傍らの流しへ向かい、ヤカンに水を入れてコンロにかけた。

「あらかじめ言っておくが、澪と別れるつもりはないからな」
 誠一は棚からマグカップを取り出しながら、低い声でそう切り出した。
 遥が今日ここへ来たのは、おそらくその話に決着をつけるためだろう。だから、先手を打って自分の意思を伝えておこうと考えたのだ。澪が苦しむことになると言われて、多少は悩んだが、澪本人に無断で別れを決めるなど出来るはずもない。そもそも、この話自体がハッタリである可能性も捨てきれないのだ。
「ねえ、誠一の趣味ってゲーム?」
「えっ?」
 突然、それまでとはまったく別の話題を振られて、誠一はぽかんとし、インスタントコーヒーの瓶を持ったまま振り返った。いつのまにか、遥は自分のすぐそばに立っていた。そして、その手には——。
「うわあぁあぁぁっ!!!」
 誠一は絶叫ともいえるくらいの悲鳴を上げると、すさまじい勢いで遥の持っていた箱を取り上げた。今さら手遅れであるが、とっさにそれを背中に隠す。熱湯と氷水を一気に頭からかぶせられたような、目まぐるしく混乱した感覚が誠一を襲った。
「どこから持ってきた?!」
「寝室の机の引き出し」
「勝手に漁るなっ!!」
 それは、18歳未満が遊ぶことを禁じられている、いわゆる美少女ゲームと呼ばれるものである。パッケージにも、裏側に小さくではあるが、そういうイラストが掲載されている。当然ながら、これがどういうものであるか、遥にも察しがついたのだろう。
「澪はこのこと知ってるの?」
「……君と違って、彼女は無断で引き出しを開けたりしないからな。いや、別に隠しているわけじゃないが、あえて言うようなことでもないし、まだ17歳だから見せるわけにもいかないし……」
「ふーん」
 その相槌は凍えるほど冷たかった。誠一は固唾を呑んで尋ねる。
「澪に、告げ口するのか?」
 二人を別れさせたがっている遥である。こんな格好の材料を逃すはずはないだろう。もしかすると、何か弱みを探すために、強引に部屋に上がり込んだのかもしれない。そう考えると、無意識のうちに表情が険しくなっていく。
「俺たちは、そのくらいで壊れるような仲じゃない」
「そう、良かったね」
 感情のない遥の言葉が、着実に誠一を追いつめる。これしきのことで愛想を尽かされはしないだろうが——そう信じているが、何かしら負の感情を持たれることは避けようがなく、そのことを思うと多少の恐怖感は禁じ得ない。
「……あの、やっぱり黙っててもらえるかな。パフェ奢るから」
「自信ないんだ?」
 遥はそう言うと、冷ややかに蔑むような目を向けた。誠一は返す言葉もなく口を引き結ぶ。自分の不甲斐なさに、彼の卑怯なやり口に、徐々に苦々しさがこみ上げてきた。

 ピンポーン——。
 本日、二回目のチャイムが鳴った。
 無言で視線をぶつけ合っていた二人は、その音と同時に、どちらからともなく視線を逸らした。張り詰めていた空気が緩み、誠一もほっとしたように息をつく。
「君はもう帰れよ」
 澪が来るまでという条件であり、短かったが、これで遥との時間は終わりである。持っていたゲームの箱を、扉のついた戸棚に押し込むと、彼をその場に残して玄関に向かった。

「いらっしゃい」
 今度こそ、訪問者は澪だった。肩口の大きく開いたセーターに、短いプリーツスカートという、やや肌寒そうな格好ではあるが、茶色を基調としたコーディネイトは十分に秋らしく、また、スタイルの良い彼女にはとてもよく似合っていた。
 ここに来るとき、澪はいつも私服である。そう言いつけてあるのだ。
 さすがに、制服姿の女子高生に出入りされるのは、あまりに世間体が悪いと自覚している。どんな噂を立てられるかわからない。悪くすれば、通報されてしまうかもしれないのだ。私服であれば、はっきりとした年齢がわからない以上、少しくらい若く見えても、むやみに騒ぎ立てられることはないだろう——。
 澪との交際に問題はないと主張しておきながら、これだけ気を遣っているという事実に、誠一はあらためて胸の内で苦笑した。遥には絶対に秘密である。人の弱点をとことん衝いてくる彼に知られたら、どんな行動を起こされるかわかったものではない。
 誠一は扉を大きく開けたまま、澪を中へと促した。
「お邪魔しまーす」
 彼女ははしゃいだ声でそう言うと、軽い足取りで玄関に入っていく。そして、靴を脱ごうと視線を落としたとき、少し小さめの革靴に気づき、屈んだ姿勢のまま誠一を見上げた。
「誰か来てるの?」
 誠一は右手を腰に当て、乾いた笑いを浮かべながら答える。
「君のお兄さんだよ」
「えっ、さっそく?」
 澪は大きな漆黒の瞳をぱちくりさせた。その口ぶりからすると、彼女がこの場所を教えたことは間違いないようだ。さすがに少し文句を言いたい気持ちになったが、無邪気な彼女を見ていると何も言えず、誠一はただ胸の内で盛大に溜息をつくしかなかった。

「いらっしゃい、澪もコーヒーでいいよね?」
 湯気の立つヤカンを片手に振り返り、遥は真顔でそんなことを言った。まるで主であるかのように振る舞っているが、彼がこの家に来たのは今日が初めてである。しかし、澪はこの状況を疑問にも思う様子もなく、笑顔で頷きながら答えを返していた。
「……君、何やってるの?」
 誠一は低い声でそう言い、早く帰れと目で訴えた。それでも、遥はまるで意に介することなく、マグカップに熱湯を注ぎながら平然と答える。
「お湯が沸いたからコーヒー淹れようかと思って。マグカップ、二つしかないみたいだけど、誠一の分はどうすればいいの?」
「いいよ、なくて」
 誠一はもう言い返す気にもなれなかった。しかし、澪は嬉しそうに笑顔で腕を絡めてくる。
「じゃあ、私たち一緒に飲むことにするね」
 彼女の屈託のない明るさは、いつも誠一の救いとなっていた。疲れたときも、沈んだときも、彼女といるとあたたかい気持ちになれる。それは、付き合い始めの頃からずっと変わらない。誠一はふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「あ、そうだ」
 澪は思い出したように、肩にかけた鞄から茶色の紙袋を取り出した。
「これ差し入れ、櫻井さんのマフィン」
「ああ、ありがとう」
 櫻井さんというのは、橘家の執事である。老人といっても差し支えないくらいの年配の男性で、澪が生まれるずっと前から、もう何十年にもわたって橘家に仕えているそうだ。お菓子作りが得意らしく、澪はときどき彼の手作りを持参していた。
「たくさんあるから、遥も食べてね」
 澪はそんなことを言いながら、うきうきと紙袋からマフィンを取り出し始めた。こうなっては遥に帰れとは言い出しづらい。そもそも、彼女が嫌がっていないのならば、無理に帰すわけにもいかないだろう。誠一は肩を落として溜息をついた。

 二つのマグカップから、香ばしい湯気が立ち上る。
 三人は小さな丸テーブルを均等に囲んで座っていた。クッションは二つしかなかったので、澪と遥に使ってもらい、誠一はフローリングの床にそのまま腰を下ろしている。そのこと自体は構わない。しかし、せっかく澪と過ごせる貴重な時間なのに、いつまでも遥が無遠慮に居座っていることには、どうしても不満を感じずにはいられなかった。
「誠一、もう一つクッションとマグカップを買っておいてよ」
「ああ、そうだな」
 誠一は投げやりに気のない答えを返した。まさかこれからも来るつもりなのだろうか、と不安が頭をもたげたが、藪蛇になるかもしれないと思い、あえてそのことは口に出さなかった。
 そんな二人を眺めながら、澪は嬉しそうにニコニコと両手で頬杖をついていた。
「良かった、遥と誠一が仲良くなってくれて」
 どこが! と全力で突っ込みたかったが、彼女を落胆させるのも気が進まず、その言葉をすんでのところで呑み込んだ。遥も気持ちは同じだったのか、肯定も否定もせず、うつむいたまま黙々とマフィンを食していた。
「誠一も食べて」
「ああ」
 澪はいつもと変わらず明るかった。素直で屈託のない笑顔も、溌剌とした振る舞いも、華やかで凜とした声も、まったく普段どおりで少しもおかしなところはない。だが。
 このまま誠一と付き合い続けていたら、澪はいずれ苦しむことになる——。
 先日の遥の言葉が、抜けない棘となって、誠一の心に疼きを与えていた。いずれというのはいつなのか、何について苦しむのか、どうして苦しむのか、彼女の様子からは何一つとして見当がつかない。今日、このことを澪に聞いてみようと思っていたが、ただでさえ切り出しにくい話なのに、遥に同席されていてはなおさら困難である。
「どうしたの? なに考え込んでるの?」
「いや……何か、変わったことはないか?」
「別に、ないけど……?」
 澪はマグカップを両手で持ったまま、小首を傾げ、斜め上に視線を向けて考えを巡らせた。そして、独り言のように「そうだ」と小さく声を漏らすと、マグカップをテーブルに下ろして誠一に目を向ける。
「ここに来るときなんだけどね、バイクに乗った男の人が、じいっと私のことを見てたの。それだけなんだけど……見とれてたって感じでもなかったし、何だかちょっと気になっちゃって」
 えへへと照れ笑いする澪とは対照的に、誠一と遥の表情は途端に険しくなった。
「それ、どんな男だ?」
「えっ? うん、えっと……」
 思いがけず真剣な誠一の問いかけに、澪はいささか面食らったようだが、すぐに記憶を辿りながら言葉を紡いでいく。
「背が高くて、脚も長くて、けっこう鍛えられてそうな体格? ヘルメットかぶってたから顔は半分くらいしか見えなかったけど、目はきりっとして、鼻筋はすっと通って、色白で……整ったきれいな顔って印象かな。かなり格好良さそうな感じだったよ」
 後半、澪の声は少し弾んでいた。そのことに自分でも気付いたのか、すぐにハッとして、慌ててふるふると顔の前で両手を振った。
「私が好きなのは誠一だけだから! 外見で好きになったりしないから!!」
 誠一は思わず苦笑を浮かべた。あまりフォローになっていない気もするが、ただ正直なだけで、彼女に悪気がないことはわかっている。実際、自分の容姿は十人並みなのだ。彼女が外見を重視するのなら、最初から他の男を選んでいただろう。
「こうなると、冗談抜きで誘拐かもね」
「それどういうこと?」
 澪は腕をついて遥の方へ身を乗り出した。誘拐などと物騒な言葉を聞いたせいか、不安そうに眉がひそめられている。しかし、遥は顔色ひとつ変えることなく、落ち着いた声で淡々と答えていく。
「おととい、たぶん澪が見たその男だと思うけど、僕も同じようにじっと見られてたんだよ。僕だけでなく澪もとなると、橘家の何かが目的ってことなんじゃないかな。だから、僕たちは気をつけないといけないって話」
「あの獲物を見定めるような目の鋭さは、堅気とは思えなかったしな」
 誠一がそう言い添えると、澪は少し目を大きくする。
「もしかして、誠一も一緒だったの?」
「まあね、たまたま会ったんだよ」
 遥は少しも動揺を見せずにさらりと嘘をついた。さすがに、あのような勝手きわまりない行動を、澪には知られたくないとみえる。誠一はしばらく考えたあと、目を伏せ、小さく息をついてから口を開いた。
「澪と別れろ——」
「えっ?」
「遥はそう言いに来たんだ」
 一瞬、遥は刺すように誠一を睨んだが、すぐに無表情に戻り、何も言わずコーヒーを口に運んだ。反論も弁解もしない。それでも澪のことは気にしているようで、ちらちらと視線だけを隣に向けている。
「…………」
 澪は、思いつめた顔でうつむいていた。
 この反応からすると、何らかの心当たりがあることは間違いなさそうだ。誠一と別れなければ澪が苦しむことになる、という遥の主張は、ただのハッタリではなかったということか——嫌な胸騒ぎに、誠一は思わず目を細める。
「澪……」
「大丈夫、別れないから!」
 澪はパッと勢いよく顔を上げて訴えた。しかし、その必死さが、逆に誠一の不安を煽り立てる。
「澪、もし何かあるのなら、俺にも話してくれないか?」
「……ごめんなさい、誰にも話せないことなの」
 頼りなさげな声からも、伏し目がちな表情からも、彼女の苦悩が滲み出ているようだった。そして、一段と表情を曇らせると、薄紅色の唇を開いて付言する。
「家の、事情だから」
「そうか……」
 誠一には、澪の言葉が嘘だとは思えなかった。少なくとも何かを口止めされているのは事実だろう。橘ほどの大きな財閥ともなれば、他言無用の事情があっても不思議ではない。それに加えて、恋愛に干渉するようなことといえば——。
 ふと頭をよぎった可能性に、誠一は眉をひそめる。
 もしかしたら、彼女に政略結婚まがいの話が出ているのではないだろうか。政略結婚というのは言い過ぎでも、家の事情で結婚相手を決めることは、ありえない話ではないように思う。それならば遥の忠告とも矛盾がない。
 もしもそれが本当で、どうやっても逃れられないのだとしたら——。
 まわりが見えないほど深く考え込んでいると、澪が隣から腕をまわして抱きついてきた。そのまま誠一の肩口に顔を埋める。胸元に当たる柔らかい感触と、首筋にかかるあたたかい吐息に、誠一の体は自然と熱くなっていく。
「澪、今は……お兄さんの前だぞ」
「僕のことはお構いなく」
 遥は茶色の紙袋に手を突っ込みながら言った。どういうつもりかはわからないが、お構いなくなどと言われても、構わないわけにはいかないだろう。横目で困惑ぎみに睨みつけたが、彼はこちらに目を向けることなく、袋から取り出したマフィンを口に運んでいた。
「帰りたくない」
 耳元に、ぽつりと落とされた言葉。
 彼女がこんな我が儘を口にするのはめずらしい。それだけ参っているのかもしれない。できることなら、誠一もこのまま帰らせたくはなかった。ずっとここにいさせたかった。けれど——。
「あのな、澪」
「わかってる」
 誠一の背中にまわされた細腕に、力がこもる。
「帰らないといけないんだよね。私がまだ高校生だから」
 澪の声はとても落ち着いていたが、その中には、どこか寂しげな響きもあった。彼女は現実がわからないほど子供ではないが、簡単に割り切れるほど大人でもない。その頼りのない華奢な背中を、誠一は返事の代わりにそっと抱きしめた。
「……ごめんね」
 澪は甘えるように顔を埋めたまま、少し笑ったような、それでいて今にも泣き出しそうな声で言う。
「なあ、澪」
「ん?」
 澪の頭が少しだけ動いて、黒髪がさらりと流れた。その絹糸のような長い黒髪を梳くように、ゆるりと指を通しながら、誠一は遠くを見つめて目を細める。
「澪が高校を卒業したら、一緒に旅行でも行くか?」
 澪は弾かれたようにパッと体を離すと、目を丸くして誠一を見た。
「うん、行きたい! 行く!」
「まだ、だいぶ先の話だけどな」
 すぐにでも準備を始めそうな澪の勢いに、誠一は苦笑して言い添えた。それでも、彼女はとびきりの笑顔を見せたままはしゃいでいる。
「じゃ、忘れないように約束ね」
 そんな可愛らしい言葉を口にすると、誠一の腿に手をついて身を乗り出し、そっと柔らかな口づけを落とした。誠一の鼓動はドクンと大きく脈打つ。触れ合ったのは一瞬だったが、その不意打ちの甘さに、昂ぶった興奮は鎮まらない。
「あまり身内のそういうトコ、見たくないよね」
 不意に届いた溜息まじりの声。
 誠一はギクリとして全身をこわばらせる。不覚にも、兄である遥の存在をすっかり忘れてしまっていた。こればかりは全面的に申し訳なく思い、あまりのきまり悪さに身を小さくする。しかし、澪は納得のいかない様子で、唇をとがらせた。
「お構いなくって言ったの、遥だよ?」
「だからって限度ってものがあるの」
 遥は呆れたように言い返した。そして、軽く嘆息してから静かに切り出す。
「誠一、ひとつだけ約束してほしいんだけど」
「……何だ?」
 彼の真面目な声につられ、誠一も真剣な顔になった。
「家の事情を詮索しないで。今度、澪に訊こうとしたら、問答無用で別れてもらうから。そして、もしそれを知ってしまって、受け入れられないと思ったら、何も言わずに澪の前から姿を消してほしい」
「……わかった。約束する」
 遥の要求は今一つ腑に落ちないものだったが、これで自分たちを認めてもらえるのなら、とりあえずは呑むしかないだろうと思った。家の事情に対する不安は募る。しかし、大丈夫という澪の言葉を信じる以外、何ひとつとして今の自分に出来ることはなかった。
 澪はテーブルに腕をついて、上機嫌でニコニコと微笑んだ。
「これで問題はなくなったね」
「そうでもないよ」
 遥は軽く受け流すと、どこからか取り出した箱をポンと澪に手渡す。
「なに、これ……?」
「ちょっ、まっ、おいっっ!!」
 それは、例の美少女ゲームだった。誠一は焦って取り上げようとしたが、澪はひょいと軽くそれをかわした。身のこなしでは澪に敵うはずもない。青ざめる誠一の前で、彼女はそのパッケージにじっくりと真剣に目を落としていた。
「じゃあ、僕はこれで」
「おいっ! 遥っ!!!」
 遥は素知らぬ顔で立ち上がり、スクールバッグを肩に掛けた。手を伸ばして必死に呼びとめる誠一を無視すると、振り返りもせず部屋を後にする。誠一は、手を伸ばして口を開けたまま、時が止まったかのように硬直していた。冷や汗だけが、一筋、頬から伝い落ちる。
 廊下の先で、玄関の扉がガチャンと重く冷たい響きを立てた。


4. 二人でひとり

「結局、誠一とは別れなかったの?」
「あれくらいで別れるわけないって」
 赤絨毯の引かれた大階段を上っていた澪は、遥の質問を笑い飛ばし、軽やかに足を弾ませくるりと振り返った。黒髪が艶やかに流れ、高窓からの光を受けてきらりと輝く。
「別にあんなことで怒ったりしないもん。まあ少しは驚いたけど……でも、男の人ってそういうものでしょう? みんなやらしい本とかビデオとか隠し持ってるんだって、綾乃もいつも言ってるし」
「それは偏見。みんなってのは言い過ぎだから」
「そっか、隠さず堂々としてる人もいるもんね」
「そうじゃなくて……」
 遥は眉を寄せて反論しかけたが、諦めたように言葉を切って溜息をついた。肩からずり落ちそうになったスクールバッグを掛け直し、澪に続いて大階段を上りながら、その歩調に合わせて淡々と畳みかける。
「修羅場になってないんだったら、どうしてあんなに帰るのが遅かったわけ? ひとこと連絡くらい出来なかったの? こっちからの電話をなんで無視したの?」
「それは、ちょっとね」
 澪はごまかし笑いを浮かべて言葉を濁した。その表情だけで察したのか、それとも興味がなかったのか、遥は呆れたように溜息をつくだけで、それ以上追及しようとはしなかった。上目遣いでちらりと視線を送ると、立ち止まっている澪を追い越しながら忠告する。
「今回は僕にも責任があると思ったからフォローしたけど、もうこれきりだからね」
「うん、ありがと」
 澪は明るく笑って答え、先を行く背中を追いかけた。
 昨晩、夕食の時間になっても帰らない澪を心配して、執事の櫻井が捜索願いを出そうとしたのを、遥がどうにか引き止めてくれたらしい。それに関しては、申し訳なかったと素直に反省していた。
「ねえ、遥」
「何?」
「もう別れさせようとしないで?」
 目を伏せたままの遥に、澪は小首を傾げてお願いする。
 しかし、彼は振り向きもせず、面倒くさそうにズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「困るの?」
「えっ?」
「僕が何か言ったくらいでダメになるなら、その程度の仲ってことじゃない?」
「それは……」
「だったら、遅かれ早かれ別れることになると思うよ」
「そっか……そうだよね……」
 澪はそう呟くと、ギュッと両手を握りしめて気合いを入れた。
「私、遥の妨害には負けないんだから!」
「ホント、澪はノーテンキだね」
 遥は呆れたように横目を流しながら、溜息まじりに言う。
 それでも、澪はニコッと笑い返した。なんだかんだ冷たいことを言いながらも、彼はいつもあたたかく見守ってくれている。それは、小さな頃からずっとそうだったし、これからもずっとそうだと信じていた。

 二人は並んで階段を上る。
 肖像画の掲げられた踊り場を通り過ぎ、二階へ足を進めると、突き当たりの大きな扉の前で立ち止まった。そこは剛三の書斎である。学校が終わったら来るようにと、彼に言いつけられていたのだ。
 コンコン、と遥は強めに扉をノックした。
「入れ」
 中から、剛三の迫力ある重低音が聞こえた。二人は扉を押し開けて入る。だが、いつもいるはずの正面の執務机に、彼の姿は見えなかった。
「こっちだ」
 声のする方に振り向くと、先日まではなかった打ち合わせスペースらしきものが目に入った。机も椅子も小さな会議室で使用するような簡素なもので、この重厚な書斎には不釣り合いな、いかにも急ごしらえという安っぽい雰囲気が漂っている。
 その奥の席で、剛三は意気揚々と手招きをしていた。隣には、秘書の悠人が微笑を浮かべて座っている。
 しかし、そこにいたのは、彼らだけではなかった。
 二人の向かい側には、澪の見知らぬ若い男性が、妙に馴染んだ様子でパイプ椅子に腰掛けていた。会社関係の人間ではないだろう。シャツにジーンズというカジュアルな格好をしており、髪も栗色に染められ、少なくとも本社で勤務するにはありえない姿である。それに、外見からするとかなり若そうで、澪たちとそれほど年齢が違わないように見えた。
「あの……」
「遅かったな。何をやっておったのだ」
 意図的ではなかったのだろうが、澪が切り出した言葉を遮るように、剛三はよく通る低音を響かせた。そこには、非難というほどでもないものの、はっきりとした不満の色が滲んでいた。
「学校で勉強だけど」
「今日は8時限まであったんです」
 素っ気ない遥の返答に、澪は補足する。
 だが、剛三の表情は変わらなかった。自分から訊いたにもかかわらず、興味なさそうに「まあ良い」と受け流し、空席を示しながら二人に座るよう促す。
 先に遥が右端に座ったので、澪は中央の席に腰を下ろした。左隣に座っているのは例の見知らぬ男性で、頬杖をつきながら、澪たちを観察するように無遠慮な視線を送っている。澪は少しムッとして、左手で彼を指さしながら剛三に尋ねた。
「この人どなたです?」
「おまえは本当にせっかちだな」
 剛三は呆れたようにそう言うと、軽く咳払いをしてから続ける。
「それではさっそく紹介するとしよう。怪盗ファントムの一員として、我々を手伝ってくれることになった志賀篤史君だ。彼は大学生ながら経験豊富なハッカーでな、現在、日本で彼の右に出るものはいないと言われておるのだ」
 聞き慣れない怪しげな単語に、澪の眉は反射的にしかめられた。
「ハッカーって、コンピュータで悪いことをする犯罪者?」
「それはクラッカー」
 間髪入れず、篤史が訂正する。
「ハッカーっていうのはコンピュータやネットワーク技術に精通した人のことで、必ずしも犯罪者ってわけじゃない。まあ、俺の場合、多少ヤバいことをやってきたのも事実だけどな」
「…………」
 臆面もなく悪事を告白する彼を、澪は浅ましげに睨んだ。
「おじいさま、こんな犯罪者まがいの人を仲間にしていいんですか?」
「そういうおまえだって、犯罪に足つっこもうとしてんだろ?」
「そっ、それは……」
 篤史から思わぬ横やりを入れられ、澪は返す言葉もなく口ごもる。自身が望んでのことではないが、やがて同じ穴の狢となる以上、どんな反論も空疎な言い訳にしかなりえない。
 剛三は豪快な笑いを響かせた。
「高度情報化社会の時代、こういう人材は必要不可欠でな。快く迎え入れてやってほしい」
 今やセキュリティも書類もほとんどがコンピュータで管理されている。そういう方面に詳しい仲間がいれば、頼りになることは間違いないだろう。そのことはもちろん理解しているが、澪としてはやはり気が進まなかった。彼を信用することも、彼に好感を持つことも出来そうにない。せめてもう少し誠実そうな人なら良かったのに、と思うものの、今さらそんなことは聞き入れられそうもない。
「おじいさまがそう言うのでしたら」
 渋々ながら澪が折れると、剛三は満足げに大きく頷く。
「おまえの心配もわからないではないが、彼を仲間にすることは悠人も賛成しておる。十分に吟味して出した結論なのだ。腕の方は申し分ないし、人格的にも問題はない。それに、我々と同じファントムの名を持っていたのも何かの縁だろうからな」
「それどういう意味です?」
「彼のハッカー名が『phantom』なのだよ。そのことが、彼に目をつけた理由の一つでもある」
 剛三はいつになく上機嫌で声を弾ませていた。まるで無邪気な子供のようである。彼にとっては、新しいおもちゃを見つけたようなものなのだろう。澪は溜息を落として篤史に振り向いた。
「災難だったね」
「どうかな」
 篤史は口もとに薄く笑みを乗せて言う。どういう意味なのか判然としない。わざわざ問い詰めようとまでは思わないが、その思わせぶりな物言いが腹立たしく、澪は片眉をしかめて唇をとがらせた。

「まずは、簡単な案件で感覚を掴んでもらおうと思う。いわば実地研修のようなものだな」
 剛三は真面目な顔になり、机の上で両手を組み合わせた。
 会社の新人教育みたいなことを言っているが、その内容は反社会的な怪盗としての仕事である。もう開き直ったつもりではいたが、現実として自分たちが犯罪者になるかと思うと、澪は否応なしに暗澹とした気持ちになった。
「悠人、写真を」
「はい」
 剛三の指示を受けて、悠人は手元のファイルから一枚の写真を取り出した。少し頬のこけた細身の男性と、小学生くらいの女の子が、仲睦まじそうに笑顔を寄せて写っている。二人とも幸せそうに見えるが、背景から察するに病室のようだ。
「誰? この人たち」
「先日、夭逝した洋画家の高塚修司と娘の春菜だ。この写真は亡くなる少し前のものだろう。妻は春菜を産んだときに亡くなっており、それ以来ずっと二人きりの家族だったそうだ」
「じゃあ、今は娘さん一人ぼっちなんですか?」
 澪が心配そうに尋ねると、剛三は重々しく頷いた。
「親戚が引き取るか、施設に預けるか、まだ決まっていないらしい。どうやら親戚とは疎遠だったらしく、誰も春菜とは会ったことがなかったそうだ。それに、高塚修司は天才画家といわれてはいたが、寡作だったため、遺産と呼べるものはほとんどない状態でな。それも、皆が春菜を引き取りたがらない理由の一つなのだ」
「そんな……」
 短い身の上話を聞いただけにもかかわらず、澪はすっかり春菜に同情していた。彼女の心境を想像すると、自分まで泣きたいような気持ちになってくる。それは、相手に面識があろうとなかろうと関係のないことだ。
「とりあえず本題に入ろう」
 剛三は冷静に言葉を継いでいく。
「不治の病で先が短いことを知った高塚修司は、娘への最後のプレゼントとして、文字通り命を削って彼女の肖像画を描き上げたのだ。だが、自称親友で画商の浅沼がそれに目をつけてな。画商というよりブローカーと云った方が近いかもしれんが」
 その吐き捨てるような語尾には、やるかたない忌々しさが滲んでいた。
「奴は金のためなら平気で悪辣なことをやる男で、今回も高塚修司が亡くなると、管理のために預かるなどと言いくるめて、その未発表の肖像画を持ち帰ったのだ。後日、春菜が返してくれるように頼んだが、そんなものは知らんと……要は騙して手に入れたということだな」
「ひどい! 詐欺じゃない!」
 澪はカッと頭に血をのぼらせる。正義感の強い澪には、とても冷静でいられる話ではなかった。
 その隣で、遥は胡散臭そうな目をしていた。
「そんなのすぐにバレるんじゃないの?」
「そうでもないぞ。春菜が何を言っても証拠はないからな。逆に浅沼なら売買契約書の捏造くらいはやるだろう。おそらく何年か寝かせておいたのち、寡作の天才画家の遺作として大々的に発表し、最大限に価値の上がったところで売り払う寸法に違いない」
「ふーん……」
 彼は無感情に相槌を打つと、澪に視線を移して言う。
「なんか似てるね、こないだ聞いた母さんの話と」
「あっ、言われてみれば」
 先日聞いた母親の過去と、今日聞いた春菜の話は、細かいところは違うのだろうが、話の骨子はまったく同じといっても過言ではない。偶然とはいえ、ここまで立場や状況が重なることもめずらしいだろう。
「どうだ、力になってやりたいと思うだろう?」
「私、俄然やる気が出てきたわ! その肖像画を取り返すのね?」
 澪は身を乗り出して言う。もはや怪盗としての仕事であることなどすっかり忘れていた。
 剛三は大きく頷く。
「そう、おまえたちにはこの肖像画を盗み返してもらうのだ!」
 舞台役者のように声を張りながら、芝居がかった所作で大きく右手を伸ばす。その先では、いつのまにか悠人が肖像画を掲げていた。描かれているのは、どこか気恥ずかしそうに微笑む愛らしい少女で、それが高塚の娘であることは一目でわかった。
「……えっと、どうしてその絵がここにあるんですか?」
「レプリカじゃない? それと同じ絵を盗めってことだよ」
 遥は当然だとばかりに言う。澪も素直に納得しかけた。しかし——。
「いや、これが本物だ」
「……どういうことです?」
 剛三の答えはいたって端的だが、その意味はまるで理解できない。澪は訝しげに眉をひそめて聞き返した。遥も同じく、口には出していないものの、追及するようにじっと祖父を見つめている。
 ニヤリ、と剛三の口の端が上がった。
「先日、悠人と篤史がこっそりと浅沼邸から盗んできたのだ。代わりにこちらで用意した贋作を置いてきたから、あやつにはまだ気付かれておらんだろう。この案件についてはひと月以上も前から準備を進めておってな。何度か正式な客として浅沼邸を訪問しながら、家の構造やセキュリティを密かに調査攻略し、今はもう自由に出入りできるようになっておる」
「そこまで大掛かりなことをする必要があるの?」
「何ごとも慎重かつ大胆にやるのが、成功の秘訣だ」
 半ば呆れたような口調の遥に、剛三は得意げに答えて胸を張る。
 しかし、澪はいまだに釈然としなかった。
「もう盗んできたのなら、行く必要ないんじゃ……」
「馬鹿者っ!!」
 ダン、と勢いよく両手で机を叩きつけ、剛三は唾を飛ばしながら一喝した。
「ただ盗むだけではコソ泥でしかないだろう。我々は怪盗なのだぞ。派手に、華麗に、人々の記憶に残るように盗まねば意味がない! 最高に素晴らしいパフォーマンスを皆に見せつけるのだ!!」
「はあ、そうですか……」
 暑苦しく力説する剛三についていけず、しかし無下な態度をとることもできず、澪は当たり障りのない相槌を打った。その気持ちは表情にも滲み出ている。それでも、剛三はまるで意に介する様子もなく、コホンと咳払いして一方的に話を進めていく。
「二代目は美少女怪盗というコンセプトで行こうと思っておる」
 そう言うと、悠人のファイルからイラストボードを取り出して皆に見せた。そこには、長い黒髪をなびかせた澪そっくりの少女が、東京の煌めく夜景を背にして、凛々しくビルの屋上に立っているイラストが描かれていた。高校の制服に似たジャケットとスカートだが、中は真紅のシャツと白のネクタイで、全体的にあまり制服っぽさは感じられない。さらに、黒のニーソックスと革靴、純白の手袋、赤のリボンが巻かれた黒のシルクハットというオプションが付き、地味なようでいて意外と目立つ格好になっている。
「どうだ? なかなか良いだろう。初代以上の話題沸騰は間違いなしだ」
 剛三は喜色満面で声を弾ませた。
「えーっと……この格好するのって、その……私?」
「おまえ、今さら何を言っておるのだ」
 こわばった顔でおずおずと尋ねた澪に、剛三は呆れたような目で睨みをきかせる。そこには、拒否など決して許さないという、怖いくらいの気迫が満ちていた。もはや、どう足掻いても回避できそうにない。
 二人の会話を聞いていた遥は、つまらなさそうに頬杖をついた。
「じゃあ、僕は裏方ってことだね」
「裏でもあり、表でもある。そのあたりの詳細はこれから説明しよう」
 剛三はイラストボードを机の中央に置くと、隣の悠人と目を合わせ、意味ありげに口もとを斜めにした。篤史は左腕を机につきながら、遥に視線を流してニヤニヤと厭らしく笑う。その場に流れる奇妙な空気に、自分に向けられる好奇の眼差しに、遥は困惑した様子で微妙に顔をしかめた。

「へえ、けっこういい家。画商って儲かるのかな」
「誠実でないほど儲かる職業なのかもね」
 後部座席で呟いた澪の独り言に反応し、運転席の悠人はにこやかに皮肉を言った。
 澪、悠人、篤史の三人は、乗用車で小高い丘の上にある浅沼の家に来ていた。といっても、訪問するわけではなく、ゆっくりと前を通り過ぎるだけである。悠人と篤史はすでに飽きるほど訪れているが、澪はまだ見たことがなかったため、先に軽く下見をすることになったのだ。
 外はすっかり暗くなっていたが、家には煌々と灯りがついており、庭もところどころライトアップされている。おかげで、こちらから照らさずに観察することができた。敷地はかなり広いようだ。建物自体はそうでもないが、庭だけならば橘家よりも大きいだろう。しかし、そこには庭園のようなものはなく、ただひたすら芝生が続いているだけである。
「予告状は出したって言ってましたよね?」
「もちろん怪盗ファントムの署名入りでね」
「そのわりには静かじゃないですか」
 あたりに人の気配はほとんどない。予告状を出したとなれば、警官や警備員が大挙して出動し、報道陣が押し寄せ、野次馬も集まっているような、騒がしく物々しい状況を予想していたが、現実はまったくの肩透かしである。
 篤史は膝に載せたノートパソコンを操作して、システム画面や隠しカメラの映像を次々と映し出した。
「警察はいないけど、一応、警備員は二人呼んでるな。半信半疑ってところなんだろう」
「あれでも何十年も美術に携わってきた人間だから、怪盗ファントムを知らないことはないと思うけど、もうかれこれ20年以上も活動していなかったし、悪戯を疑うのは当然といえば当然だろうね」
 ハンドルを切りながら、悠人は冷静に分析する。しかし、篤史は小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、頭の後ろで手を組み、背筋を伸ばしてシートにもたれかかった。
「狙われているのが騙し取ったものだから、警察に通報しづらいってのもあったんだろう。そして警備員を雇うには金がかかる。何億もする名画ってわけじゃないし、来るか来ないかわからない怪盗のために、そんなに金はかけられない。あのケチなおっさんなら、そんなところだと思うぜ」
「そのあたりも見越して、これを実地研修に選んだんだよ」
 悠人はそう言うと、後部座席にちらりと視線を向けて微笑む。
「派手なデビュー戦はちゃんと用意してあるからね」
「えっ? いえ、そんなのはいらないです!」
 澪は慌てて両手をぶるぶると振った。困るとわかっていて意地悪を言う悠人が恨めしく、ほんのりと頬を染めて口をとがらせる。
「贋作ってことはバレてないみたいだな」
 膝上のノートパソコンに目を落とした篤史は、隠しカメラの映像を見てニヤリと笑った。そこには浅沼邸の一室が映し出されており、その中央に置かれた大きな透明ケースには、すり替えた肖像画の贋作が鎮座していた。
「なーんにも知らずに大事そうにしてるぜ」
「それでは、予定どおりプランAでいこう」
 悠人は事務的な口調で決断を下した。身を乗り出していた澪は、シートに座り直しながら尋ねる。
「よくバレませんでしたね。画商なんでしょう?」
「彼に絵画の良し悪しを見るだけの眼力はないよ。良い値がつく絵を嗅ぎつける才能は持っているみたいだけど。絵は単なる儲けの道具でしかない、という考えだからね」
「つくづくサイテーな人ね。俄然やる気が出てきたわ!」
 悠人の話を聞いて、澪は浅沼という人間にいっそう嫌悪感を募らせた。力強くこぶしを握りしめて気合いを入れると、耳に装着したイヤホンマイクを軽く押さえ、別の場所で待機する遥に電波を通して話しかける。
「頑張ろうね、遥!」
『ファーストだよ』
 イヤホンから無愛想な返答が聞こえた。
「あ、そっか。コードネームで呼ばなきゃいけないんだっけ。遥はファースト、私がセカンド、ハッカーがサード、師匠が副司令、おじいさまが司令ね。なんかめんどくさいなぁ。呼び方なんて、そんな急には変えられないよ」
 澪が溜息まじりに不満を漏らすと、隣の篤史が咎めるような目を向ける。
「遊びじゃねぇんだぞ。一応スクランブルは掛けてあるが、誰に聞かれるかわからないんだからな。本名で呼び合うなんて、捕まえてくださいって言ってるようなもんだぜ」
「わかってるよ、サードっ!」
 すぐ隣にいるにもかかわらず、わざわざ嫌みたらしくイヤホンマイクに向かって言った。それでも腹立たしさはおさまらず、顔をしかめたまま、腕を組んでぶつくさと独りごちる。
「せめて、もう少しかっこいいのなら良かったのに」
「剛三さんの一存だから仕方ないよ」
 悠人は軽く笑って受け流しながら、標的の家からほど近い駐車場に入った。その隅に車を停めてエンジンを切る。いくつかある残りの駐車スペースは空のようだ。一通りあたりを見まわして確認すると、イヤホンマイクを通して剛三に報告する。
「ポイントBに到着しました。問題はありません」
『よし、さっそく作戦開始だ。総員配置につけ!!』
「了解」
 暑苦しいくらいテンションの高い剛三とは対照的に、車の三人はそろって淡泊な声で返事をした。悠人と篤史はどうだかわからないが、澪が呆れていることは、そのわかりやすい表情からも明らかだった。

 澪は、屋敷の裏側に張り付いて待機していた。
 外にはひとりも警備員が出ておらず、監視カメラも門と玄関だけのため、敷地内に侵入するのは容易だった。
 すでに衣装替えは済んでいる。ほぼコンセプトイラストどおりだが、シルクハットだけは身に付けていない。逆に追加されたのは、顔全体を覆う白い仮面である。薄気味悪くて澪は気に入らなかったが、素顔を晒すわけにはいかず、文句を言いながらも受け入れるしかなかった。
『家の構造は頭に入ってるか?』
「もちろん」
『作戦の手順は?』
「大丈夫よ」
 澪はイヤホンマイク越しに、篤史と短い会話を交わす。家の構造も作業の手順も、今日の打ち合わせで聞いたばかりだが、その場ですぐさま頭に叩き込んだ。遥ほどではないが、澪も記憶力はいい。この程度のことならば難なく覚えられるのだ。
『一応こちらで指示を出すけど、現場では想定外のことが起こる。そういうときは、自分の判断で臨機応変に対応しろ。捕まらないことが最優先だ』
「できるかなぁ」
『今さらなに言ってんだよ。自信を持ってやれよ』
 弱音を吐露した澪を、篤史はぶっきらぼうに叱咤する。澪は表情を引き締めてこくりと頷いた。
『そろそろ予告の時間だ。セカンド、ベランダの柵の上に立て』
 そのベランダは二階にあるが、澪にとっては何の問題もない。少し下がって助走をつけると、凹凸を利用しながら外壁を駆け上がり、音を立てないようにベランダへと飛び移る。そして、その柵の上にすくっと立ち、背筋を伸ばして右手を腰に当てた。
「オッケーよ」
 澪が声をひそめて報告すると、篤史は40からカウントダウンを始めた。澪はそのポーズを維持したままで、彼の声を聞きながらじっと待つ。カウントが10を切ったあたりから、次第に鼓動が速くなってきた。
『5、4、3、2、1、0』
 その瞬間、敷地内の灯りがいっせいに落ちた。部屋の中から、浅沼と思われる男の動揺した叫び声が聞こえる。警備員にもヒステリックに怒鳴り散らしているようだ。
『ライトアップ』
 篤史の冷静な声と同時に、澪は背後から強烈な光で照らされた。光源を直接見ているわけでもないのに、眩しくてまともに目を開けていられないほどである。
『いいぞ、セカンド、いいシルエットだ』
 部屋の中に設置してある隠しカメラの映像で、カーテンに映るシルエットを見ているのだろう。先ほどまでとは違い、篤史の声は少し熱を帯びていた。
 当然ながら、部屋の中の浅沼もシルエットには気がついていた。あたふたとその窓に駆け寄り、乱暴にカーテンを開け放つ。そして柵に立つ澪の姿を視認すると、ギョロ目をいっそう大きく見開いて、半開きの口をカクカクと震わせた。
「お……女……?!」
 驚愕と困惑の入り交じった表情で、浅沼はよろめきながら数歩後ずさった。警備員たちも後ろで呆然と立ちつくしている。
『セキュリティは切った。上の窓を開けろ』
 浅沼が窓を開けた場合はそこから入ることになっていたが、いまだその気配がないため、準備してあった別手段を取るよう篤史が指示を送ってきた。
 ちらりと右側に目を向けると、キラリと小さく輝く釣り糸が、柱に貼り付けられているのが見えた。澪はそれをさっと掴み、大きく振りかぶって引き下ろす。すると、仕掛けてあったからくりが動き、上部の窓がすうっと静かに開いた。おそらく浅沼たちからは、ファントムが手を振り下ろしただけで、触れることなく窓が開いていくように見えたのだろう。だらしなく口を開けてポカンとしている。
『飛び移れるか?』
 篤史の声は少し心配そうだった。
 その開いた窓はかなり高い位置にある。ガラスを割らずに飛び乗るのは至難の業だ。しかし、打ち合わせのときに、澪ならできると悠人は断言してくれた。師匠に信じられているのなら、難しかろうとやるしかない。
 軽く柵を蹴ってベランダに降りると、その流れで助走をつけ、最適な位置を見極めて強く踏み切る。
 ダンッ——。
 長い漆黒の髪をなびかせて、澪の体は宙に舞った。
 窓枠に掛けた両手にグッと力をこめ、体を引き寄せそこに飛び乗り、勢いを止めることなく再び大きく跳躍する。そして、浅沼と二人の警備員の頭上を越えると、くるりと宙返りをし、部屋の中央付近に軽やかに着地した。
 すぐ隣に目的のものがあった。
 それは四角い透明ケースの中にあり、開けるためには電子錠を解除しなければならない。
『0141だ、急げ』
 篤史が早口で指示を出した。言われなくても覚えていたのに、と澪は少しムッとしながら、素早く四桁の数字を入力して解除ボタンを押す。ピピッと電子音が鳴った。間髪入れずケースを跳ね上げると、中に鎮座していた肖像画を抱えて走り出した。

 一連の大胆で鮮やかな手口に、浅沼も警備員たちもただ呆然と見入っていた。
「なっ、何をやっとるかぁっ! 取り返せっ!!」
 我にかえった浅沼は、顔を真っ赤にして二人の警備員に怒鳴り散らす。それで、彼らもようやく自分の仕事を思い出し、部屋を飛び出したファントムを追って駆け出していった。

『なかなか落ち着いてて良かったぜ』
「まだ終わったわけじゃないでしょっ」
 澪は廊下を全力疾走しながら篤史に言い返す。今はまだ作戦続行中であり、喜ぶのは早いし、何よりそんな状況ではない。ちょっとした不手際が命取りになりかねないこの作戦を成功させるには、雑念は捨て去り、自分のすべきことに集中しなければならなかった。
 やがて奥の突き当たりに行き着いた。振り返ると、二人の警備員が息を切らせて走ってくるのが見える。
「追いつめたぞ!!」
 警備員の一人がそう言うと、もう一人とともに澪に飛びかかってきた。
 澪は抱えていた肖像画をその場に投げ捨てると、身軽に一歩下がり、つんのめった警備員の背中を踏み台にして上方に跳び上がった。そして、あらかじめ取り付けてあった天井の小さな手すりを掴むと、足を振り上げて点検口を蹴り飛ばし、そのまま足から天井裏に飛び込んでくるりと着地する。
 警備員たちは唖然としていたが、ハッと我にかえり、傍らに置き去りにされていた肖像画を拾い上げた。それの無事を確認すると、大きく安堵の息をつく。そして、重そうな体を揺らして追いかけてくる浅沼に、その肖像画を頭上に掲げて嬉しそうに報告する。
「取り返しました!」
「汚い手で触るな!」
 その瞬間、ズサッという鈍い音とともに、肖像画に深々とナイフが突き刺さった。天井裏から澪が放ったものである。ナイフにはメッセージカードも刺してあった。
 浅沼は声にならない悲鳴を上げた。
 青ざめて凍り付く警備員を突き飛ばし、肖像画からナイフを抜いて黒いカードに目を落とす。
 ——本物はいただきました 怪盗ファントム
「おのれ、いつのまにっ……!」
 浅沼は奥歯が削れそうなほどにギリギリと歯がみした。そのナイフで偽物をズタズタに切り裂くと、二人の警備員を睨みつけて濁声で叫ぶ。
「おまえら何をやっとる?! 追え!!」
「は、はいっ! 梯子は……」
「ファントムみたいに跳び上がれ!!」
「出来るならとっくにやってます!」
 浅沼は頭をぐしゃぐしゃに掻きながら梯子を探しに走り、その間に警備員たちは肩車をして、一人だけでも天井裏に這い上がろうと奮闘していた。

 澪は身を屈めながら、音を立てないように天井裏を進んでいく。まわりの空気は少し湿っていてカビ臭い。だが、思ったより埃っぽさはなく、普通に呼吸をしても咳き込むようなことはなかった。
『一応、軽く掃除しておいたからな。感謝しろよ』
「至れり尽くせりね」
 他家の天井裏をこそこそ掃除する篤史たちを想像し、澪は肩を竦めて苦笑する。
『目的の場所はわかりそうか?』
「目印、ちゃんと見えてるよ」
 天井裏はほとんど暗闇といっていい状態だったが、所々に蓄光テープが貼ってあり、澪の進むべき道をわかりやすく示してくれていた。そのテープを回収しながら進んでいくと、やがて、隅に隠すように置かれたスクールバッグを見つける。
「例の鞄、あったわ」
『よし、警備員のやつらは振り切ったか?』
「うん、やっと天井裏に登ったところかな」
 肩越しに背後を確認してみるが、まだ姿は見えず、音も遠くに聞こえるだけである。目印はすべて回収済みなので、どこに怪盗ファントムがいるのか、この広い天井裏で見つけるのは困難だろう。
「じゃあ、そこから下に降りろ」
 澪は足元の点検口を開き、先ほど見つけたスクールバッグを抱えて飛び降りた。そこは来客用のお手洗いである。大きな屋敷に見合うだけの広さがあり、内装も立派で、当然のように隅々まできちんと清掃されていた。
「降りたよ」
『あとは打ち合わせどおりいけるな。おまえはそこで着替えて、見つからないようこっそり外に出る。そしてA3番から戻ってこい。仮面は敷地を出るときに外すこと。いいな?』
「うん……でも……」
『何か問題でもあるのか?』
 歯切れの悪い返事を聞いて、篤史は怪訝に問いかけた。澪はぎゅっと鞄を抱えてあたりを見まわしたあと、少し言いにくそうに切り出す。
「もしかして、ここに隠しカメラついてたりしない?」
『はぁ?』
 裏返った素っ頓狂な声がイヤホンから聞こえた。
『アホな心配してないでさっさと着替えろ!』
「そうやって誤魔化すところが怪しいっ!!」
『おまえ、自意識過剰もいい加減にしろよ!』
『セカンド、そこにカメラはついていない。僕が保証する』
 これまで黙っていた悠人が、ヒートアップした二人の言い合いに口を挟んだ。いつものように冷静な声である。その言葉が本当だという証拠は何もないが、彼がこんなくだらないことで嘘をつくとは考えられない。
「わかりました、師匠……じゃなくて、副司令」
 澪は落ち着きを取り戻してそう答えると、個室のひとつに入って鍵をかけた。しつこくもあたりをきょろきょろと確認してから、白い仮面を取り、素早く怪盗ファントムの衣装を脱いで着替え始めた。
『さ、出番だファースト』
『了解』
 今度は遥の方に指示が出される。もう覚悟は決めているのだろうが、面白くはないらしく、あからさまに気乗りのしない声で返事をしている。怪盗ファントムをやると言ったことを後悔しているのかもしれない。
 バリバリバリバリ——。
 上空から轟音と強烈な光が降りそそいだ。その振動が屋敷にも伝わってくる。
「あっちだ! 何をやっとる! 追え!!」
 その轟音の正体が何であるか、浅沼はすぐに理解したのだろう。必死に警備員たちに怒号を飛ばして急き立てていた。しばらくして、澪の潜んでいるお手洗いの前を、いくつかの足音が通り過ぎる。計画どおり、彼らをもうひとりのファントムのもとへ誘導することに成功したようだ。
「頑張ってね、ファースト」
 ちょうど着替え終わった澪は、長い髪を後ろに流しながら、くすっと小さく笑ってそう言った。

「その女だ!! 捕まえろ……っ!!」
 浅沼は息を切らせてヨロヨロになりながら、前を走る警備員たちに命令する。
 広大な庭の奥には、本物の肖像画を抱えた怪盗ファントムが、すぐ上でホバリングするヘリコプターの風を受けて、長い髪を舞い上がらせながら立っていた。左手に持っていた黒いシルクハットを被ると、ヘリコプターから下ろされた縄ばしごに足を掛ける。
「逃がすなっ! 飛びつけっっ!!」
 実際に捕まえられそうなくらいまで、警備員たちは怪盗ファントムとの距離を詰めていた。浅沼に命じられるまま飛びかかろうとする。が、その瞬間——怪盗ファントムは、メッセージカードの刺してあるナイフを、まるでダーツの矢ように素早く投げ放った。サクッと草を切る音とともに、追っ手の足元付近に突き刺さる。
 二人が怯んだ隙に、ヘリコプターは高く上昇していった。
 警備員たちは唖然とし、浅沼は地団駄を踏む。そんな彼らに、怪盗ファントムは自らの姿を見せつけるように、縄ばしごにつかまったまま、印象的な長い黒髪をなびかせながら遠ざかっていった。

「ただいまー」
 澪が剛三の書斎に戻ったとき、すでに打ち合わせスペースには篤史と遥が座っていた。二人とも先ほどまでと同じ格好をしている。つまり、遥はまだ怪盗ファントムの衣装を身に着けたままだった。
「大成功だったね」
 澪はニコニコしながら、空いていた篤史の隣に腰を下ろす。席が決められているわけではないが、何となく、最初の打ち合わせのときと同じ場所になっていた。
「おまえ、もうちょっと真剣にやれよ」
「やってるよ!!」
 澪はムッとして篤史に言い返すと、ひっそりと座っている遥に振り向いた。
「ねえ、遥、いつまでその格好でいるつもり?」
「じいさんが反省会が終わるまで着替えるなって」
 遥は顔を上げることもなく、腕を組んだまま、むすっとふてくされて答えた。さすがに仮面とシルクハットは外しているが、ジャケットもスカートもニーソックスも、おまけに長髪のカツラまでそのままである。自分そっくりのその姿に、澪はどことなく落ち着かないものを感じた。
「カツラくらい取ってもいいんじゃない?」
「冗談じゃない。このままの方がまだマシだよ」
 なぜカツラを取りたくないのかわからなかったが、めずらしく機嫌の悪い遥を刺激しないよう、澪は何も訊かずそっとしておくことにした。
「おお、澪も帰ってきたか」
 肖像画を抱えた悠人を伴って、剛三はニコニコしながら書斎に入ってきた。打ち合わせスペースにどっしり座ると、篤史、澪、遥と順に視線を送り、誇らしげにゆっくりと大きく頷く。
「皆、ようやってくれた」
 滑舌のいい聞き取りやすい声で、まずは労いの言葉を掛ける。それが心からの言葉であることは、彼の表情を見れば一目瞭然だった。
「怪盗ファントムはこのまま続けていけそうだな」
「はい、問題ないでしょう」
 悠人が静かに同意すると、剛三は満足そうに口もとを上げた。
「なかなか良いアイデアだっただろう、美少女怪盗。澪と遥の見た目を最大限に活かして、人目を引くものになっておる。顔を隠さねばならんのが実に惜しい。二人ともきれいな顔でよく似ておるのに。むしろ脚の方が気になるくらいだ」
「……脚?」
 その意味するところがわからず、澪は小首を傾げた。すると、剛三は不意に残念そうな面持ちになり、芝居がかった深い溜息を落とすと、机の上で両手を組み合わせながら答える。
「遥の方がな、少しだけ脚が細いのだよ」
「う、うそよ、そんなこと……っ!」
 そう言いながらも、澪は縮こまって視線を落とした。そこへ篤史は容赦なく追い打ちをかける。
「胸も遥の方つめすぎなんじゃねーの?」
 剛三と悠人はそろって澪と遥の胸を見比べようとする。澪は慌てて両腕で抱え込むように胸元を隠した。篤史を睨んで無言で非難するが、彼は悪びれることなく、頬杖をついて涼しい顔をしていた。
「悠人、あとで調整しておいてくれ」
「承知しました」
 からかわれるのはもちろん嫌だが、真面目に議論されるのも困る。澪は頬を紅潮させたまま口をとがらせた。
「それより盗んだ絵はどうするんです? 本来の持ち主に返すんでしょう?」
「無論だ。我々が利益を得るためにやっているわけではないのだからな」
 堂々と力強く答える剛三の隣で、悠人は肖像画をあらためて机の上に置いた。すでに額装までされている。今日盗んだわけではないので、もう何度も目にしているはずだが、それでも剛三は心を奪われたようにその肖像画に見入った。
「見れば見るほどいい絵だな」
「ええ」
「いつもは鋭く深く迫力のある絵を描く高塚修司が、このような柔らかい絵を描くのはめずらしい。何かを感じ取った娘の不安な内面が繊細に描き出されているが、それを優しい愛情で包み込むように彩っており、それゆえこのような深みのある温かい絵になったのだろう」
 熱っぽい視線を注ぎ、饒舌に語る剛三を見ていると、その絵に相当入れ込んでいる様子が伝わってくる。自らの意思で絵画泥棒を始めたくらいなので、当然ながら絵画は好きなのだろうが、だからこそ澪は少し心配になってきた。
「おじいさま……まさか、返すのが惜しくなったなんて言いませんよね?」
「ちゃんと返すわい。取り返してやったんだ、眺めるくらい良かろう」
 剛三は面倒くさそうに言い返すと、無言で座っている遥に振り向いた。
「遥、今からおまえが返してこい」
「僕が?」
「異議は認めんぞ」
 剛三にそう言われては、遥も観念せざるをえない。せめてもの自己主張なのか、大きく溜息をついてから立ち上がった。そして、うざったそうに長髪を後ろに流しながら尋ねる。
「この格好で行けばいいの?」
「いや、男性版の衣装も用意してあるので、それに着替えて行くが良かろう」
 剛三はニコニコと満面の笑みを浮かべて言う。しかし、彼が笑顔を見せるときはろくなことがない。遥は疑惑と警戒の眼差しでじとりと祖父を見下ろした。

 コンコン——。
 ベッドで横になっていたものの、寝付けずにいた春菜は、不思議な物音を聞いて体を起こした。ガラス窓がノックされるような音だが、ここは一軒家の二階である。普通に考えればありえないことだ。気のせいか風のせいだろう、そう自分を納得させて再び横になろうとしたのだが。
 コンコンコン、と再びノックの音が聞こえた。
 気のせいなどという言い訳はもう通用しない。怖いと思う気持ちはあったものの、確かめない限り、気になって眠ることはできそうもない。音を立てないようベッドから降りると、カーテンを少しだけ開き、おそるおそる外のベランダを覗く。
 そこには、白い仮面をつけた、黒スーツ姿の男性が立っていた。
 春菜はビクリとして一歩後ずさる。逃げようと思うものの、体が凍り付いたように動かない。薄く開いたカーテンの隙間から、表情のない白い仮面がじっとこちらを見ている。そのまま互いに身じろぎもせず向かい合っていたが、やがて、男はゆっくりとした動作で仮面を外した。露わになったその顔は、まだ少年だ。大きな漆黒の瞳がまっすぐに春菜を捉えている。
 このひと、誰——?
 その疑問に答えるかのように、彼の胸元に絵画らしきものが掲げられた。
 春菜はハッとする。
「お父さんの絵!」
 細い隙間からでは一部しか見えなかったが、それだけでも一瞬でわかった。亡くなった父親が唯一自分に遺してくれた絵だと。大切にしようと思っていたのに、浅沼に言葉巧みに騙し取られ、それ以来ずっと馬鹿な自分を責めていた。そして、これからも責め続けるのだろうと思っていた。なのに、その絵がなぜここに——。
 彼は白手袋をはめた人差し指で、何かを指し示した。どうやら窓の鍵を開けろと云っているらしい。冷静に考えれば危険なことである。だが、春菜は父の絵に会いたい一心で、考える間もなく、鍵を外してガラス窓とカーテンを開け放った。
 冷たい夜風が静かに滑り込み、柔らかな頬を撫でる。
 肩ほどの黒髪がささやかにそよぎ、綿のパジャマも微かに風をはらんだ。
「お父さんの絵……本当にお父さんの絵……」
 春菜は一目見て本物であると確信した。この大切な絵を見間違えるはずはない。触れられるほどの距離で直に見ることは、もう二度と叶わないだろうと思っていただけに、胸に熱いものがこみ上げてきた。
 ふと、その絵が目の前に差し出された。
 戸惑いながら、春菜はおずおずと顔を上げて尋ねる。
「くれる、の……?」
「もう二度と離すなよ」
「……ありがとう!」
 春菜は震える手で絵を受け取り、涙を滲ませながら顔を綻ばせた。
 黒スーツの男性もつられるように小さく笑みを漏らすと、すぐに背を向け、軽々と舞うようにベランダの手すりに飛び乗った。すらりとした細身の体躯が、ほのかな月明かりに浮かび上がる。
「待って! お兄さんは……誰……?」
 春菜の問いかけに、彼は答えなかった。顔半分だけ振り返ると、立てた人差し指を唇に当てて見せる。内緒だ、ということなのだろうか。それでも春菜は諦めきれなかった。
「誰にも言わないから、名前だけでも教えて?」
「……怪盗ファントム」
 少しの躊躇いを含んだ声で、彼はそう答えた。
 ザワザワ、と木々の葉擦れが聞こえる。
 瞬間、突風が吹き込んできて、春菜は思わず目をつむった。前髪が額に打ちつけられる。風が過ぎ去りそろりと目を開けると、もうそこに彼の姿はなかった。慌ててベランダに飛び出し、ぐるりとあたりを見まわす。しかし、どこにも彼を見つけることは出来なかった。
「怪盗ファントム……」
 春菜は噛みしめるようにそうつぶやくと、くすっと小さく笑い、大切な絵を抱えながら夜空を見上げる。柔らかな月明かりは、優しく包み込むように彼女を照らしていた。



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