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 ほんの数分だったろうか、洋二は頭を抱えるようにして悩んでいたが、この親子を救えるのはもはや自分しかいないのだと思い込むしかなかった。
「分かりました。今夜だけ。今夜だけ二人ともここに泊まってください」
「どうも、ごめんなさい。このお礼は必ずいつかさせてもらいます」
 母親は深く頭を下げて礼を言った。洋二が二人に夕食を済ませたのかと聞くと、二人とも今日は何も口にしていないということだった。二人に洋二の下手な料理を食べさせるわけにもいかないので、二人を連れて外に食事に行こうとすると、母親は材料があれば自分が作ると言ってくれた。丁度買い物をしてきたところだったし、持ち合わせの金もあまりなかったので、洋二は内心その方がありがたかった。母親はキッチンに行くと、買ってきたばかりのビニール袋に入ったままの材料と、冷蔵庫の中を確認してから料理を始めた。
 洋二はすることもないので、テレビのスイッチを入れようとリモコンを探した。娘は母親のそばをうろうろとしては母親に「あっちにいってなさい」と追い返されていた。娘が戻ってくるのを洋二が見ると、娘と目が合ってしまった。娘は立ったままその場で母親の方を振り向いたりしながらもじもじとしていた。洋二はソファの上に置いたままになっていたぬいぐるみを拾って、娘に渡すつもりでぽんと投げてやった。ところが、ぬいぐるみは娘の顔に当たると、そのまま床に落ちてしまった。洋二はしまったと思い、娘が泣き出すのではないかと思わず首をすぼめてその姿を見ていた。娘は驚いたような顔をしたかと思うと、笑顔になってぬいぐるみを掴むと、洋二に投げ返してきた。それは洋二のところまでは届かずに床に転がった。洋二はそれを拾い上げると、娘の近くに座り直してから再びそれを娘に投げた。それは再び娘の顔にぽんと当たって床に落ちた。
「ぎゃははは」
 娘はそれが面白いのか、急いでぬいぐるみを拾い上げると、同じように洋二に投げ返してきた。それが今度は洋二の胸に当たると、手を叩いて喜び始めていた。洋二はこの娘がこんなに元気良く笑うことができるのだと知って、安心したのと同時に、笑顔を見ることが不思議と嬉しく感じていた。洋二と娘はそれからしばらくその遊びを続けていた。母親が夕食の準備を済ませる頃には、娘は洋二にすっかりなついていた。
「あら、麻衣ちゃん。遊んでもらって良かったわね」
 母親が出来上がった肉じゃがをテーブルに置くと、笑みを浮かべて娘の姿を見ていた。この時に洋二は初めて娘の名前を知った。「ああ、麻衣ちゃんていうのかい。今はいくつなの」
 麻衣は掌を洋二に向かって突き出した。
「私、五つ」
 洋二はそれを見てから、母親の方を見た。
「そういえば、まだ名前とか、何もそちらのことを知らないんですよね」
「はい、準備が終わったら、色々とお話させてもらいます」
 母親はそう言って再びキッチンに戻ると、食事の準備を続けた。テーブルの上には洋二の母親のいる実家に帰らなければ、食べられないようなものが並んでいた。味噌汁とご飯が並んでいるのを見ると、こんなまともな食事をするのは何ヶ月ぶりだったかと思い出していた。
「あの、お口に合うか分かりませんけど」
 母親が娘をテーブルの前に座らせてから自分もその横に座ると、洋二も茶碗を持って食事を始めた。肉じゃがを口にすると、あまりの美味さに感動してしまいそうになった。何だか全員が家族になったような錯覚を起こしそうだったが、考えてみるとまだ名前も知らない女性と、その子供とこうして食事をしている自分の不思議さを思った。
「これ、すごく美味しいです」
 洋二がそう言いながら箸で肉じゃがをつまみ上げると、口に放り込んだ。
「すいません、こんなことまでさせてもらって。明日にはすぐに出ていきますから」
「いえ、そんなことはもういいんです。あの、まだ名前とかも知らないんですよね。それに何で娘さんとこんなことをしているのか、とか、聞いてもいいですかね」
「まだ、名前も申し上げてなかったんですね。すいません。私は岩野、岩野多佳子といいます。それと娘は、さっき話してましたね。麻衣です」
 食事を済ませた後、洋二は多佳子から様々なことを聞いた。年齢が三十歳であることや、千葉からやってきたこと。それに麻衣の父親である夫が三年前に他界してしまっていることなど、かなり苦しい生活をしながらここまでやってきたのだという。親戚がこの近辺にいるので頼るつもりだったのだが、追い返されてしまったらしい。なぜそのようなことになってしまったのかについては語らなかったが、時折黙り込んで、何かを押し殺しながら話す姿に、洋二はなぜか美しいと感じてしまった。
 洋二はそういった話を聞いて、同情することはできたが、自分でどうにかしてやろうというところまでは思えなかった。明日になればここを出ていき、自分たちでどうにかしてもらうしかなかった。そのため、話を聞きながらも、必要以上に同情しているような表情は見せないようにした。多佳子もそれを感じ取っていたのか、聞かれたこと以上のことは語らなかった。二人が話をしている間に、麻衣はソファの上で寝てしまっていた。
「あの、お風呂が実は壊れていて使えないんですよ。シャワーだけは使えますから、使ってください。それとベッドと布団がありますから、麻衣ちゃんと多佳子さんはそちらで寝てください」
「竹下さんはどちらで寝られるんですか」
 洋二は麻衣が寝ているソファを指差して笑った。
「いえ、それは悪いです。麻衣はもう寝てしまっていますから、何か掛けてあげてこのまま寝かせておいてください。私は布団をお借りします。ですからベッドでお休みになってください」
 洋二はうーんと唸って頭を掻いていたが、既に寝てしまっている麻衣を動かすこともないだろうと思い、毛布と掛け布団を持ってきてやった。その時に、麻衣が寝言で何かを言ったが、あまりに小さな声なので分からなかった。
 多佳子がシャワーを浴びている音がバスルームから聞こえてくると、洋二はなんだかそわそわと、用もないのに何度も冷蔵庫を開けてはまた閉めていた。あの美しい多佳子が自分のすぐそばで裸でシャワーを浴びている姿が何度か頭をよぎった。多佳子が洋二の貸してやったパジャマを着て出てくると、やはり大きすぎたのか手がすっぽりとかくれてしまい、裾を引き摺りながら現れた。
「やはり大きかったですか。すいません他になくて」
 そう言いながらも、洋二はその姿に思わず何かが熱くなるのを感じていた。それを必死に表情に出すまいとしながら自分もバスルームに入っていった。冷たい水を頭から勢いよくかぶると、ぶるっと体が震えた。冷やせ冷やせと心の中で叫びながら、そのままじっとしていた。
 洋二はついいつもの癖で、パンツ一枚の姿で出てしまった。多佳子が洋二に気がついて振り向くと、洋二はしまったとばかりに慌てて寝室に飛び込んでいった。すぐにTシャツにジャージをはいて戻っていった。
「あの、僕は明日も仕事がありますんで、六時には起きます。僕が仕事に出る時に一緒に出てもらえればと思うんですけど」
 多佳子は、「はい」とだけ言って麻衣の方をずっと見ていた。
「僕はもう寝ますんで」
 洋二はそう言ってから寝室に入ると、ベッドに潜り込んだ。当然のことながら、なかなか寝付くことができなかった。昨日からのことを思い出し、麻衣や多佳子の姿が何度も閉じたまぶたの裏に浮かんでは消えていった。やがてその姿はぼやけて暗闇の中に消えていこうとしていた。眠りにつく寸前に、布団を寝室から出しておくことを忘れていたなと思っていた。麻衣の寝ているソファの横に、布団を動かしておけばよかったと思っていたが、もはや睡魔の方が意識よりも勝っていた。すぐにあらゆる思考は暗闇の中に落ちていった。
 何かが自分の腕を掴んでいるのに気がついたのは、その腕を掴んでいる人間が自分のベッドの中に入ろうとしてきた時だった。洋二はまどろみの中でそれが多佳子だと思った。洋二がうっすらと目を開くと、暗闇の中でその人間はすでに体をベッドの中に滑り込ませていた。この女め、体で恩を返そうというつもりなのかと思いながらも、洋二はそんなことを期待していた。美しい多佳子の姿を思うと、体が熱くなるのを感じていた。洋二が体をひねらせてから、その人間の肩を掴むと、柔らかい温もりが伝わってきた。それはとても小さい、大人の女にしてはあまりにも小さすぎる肩だった。
 洋二は凄まじいスピードでまどろみから覚めると、それは麻衣だった。麻衣が小さな声で「寒い寒い」と言うと、洋二の肩を枕のようにして頭を乗せると、そのまま寝てしまった。洋二はそれから動くことができずに、結局朝までそのまま眠ることができなかった。
 洋二が動かすことのできる右腕を伸ばして、目覚まし時計を掴むと、四時になっていた。視線を移すと、ベッドの横に用意されていた布団に多佳子は寝ていた。
 洋二はゆっくりと自分の肩と枕を入れ替えて麻衣を寝かせると、自分はベッドから出ていき洗面所へ向かった。鏡を見ると寝不足のせいか目が真っ赤に充血していた。ずっと同じ姿勢で寝ていたせいか、背中が痛かった。蛇口をひねり顔を洗うと、ソファに座って煙草をくわえた。ゆっくりと煙草を一本吸い終えると、そのままソファに横になり、床に落ちていた毛布をかぶるとそのまま眠ってしまった。



 誰かが自分の体を揺さぶるのを感じて目が覚めた。はっとして起き上がると、多佳子と麻衣が自分の顔を見て笑っていた。味噌汁の匂いがしてテーブルを見ると、朝食が用意されていた。
「なんだか麻衣がベッドを横取りしてしまったようで、どうもすいません。ぐっすり眠っていたようなので、勝手に朝食の準備なんかさせていただいたんですけど」
 洋二は覚めきらない頭でしばらくテーブルを見つめていたが、すぐに多佳子の方に向き直った。
「あ、いえ。すいません、今、何時ですか」
「今は六時を少し過ぎたところですけど。起こすのが遅かったですか」
 洋二は危うく寝坊をしたのかと思っていたが、まだそんな時間なのかと安心した。洋二は立ち上がって洗面所に向かうと、鏡を見た。そこには笑って自分を見つめている男が映っていた。
「何で笑ってんだ、俺は」
 洋二は勢いよく水を出すと、蛇口の下に頭を突っ込んだ。顔を洗って服を着替えると、三人で朝食を食べた。
「麻衣、きちんと謝っておきなさい」
 麻衣は口の中にご飯が入ったまま、洋二の方を向いた。
「うおめんなはい」
 多佳子が麻衣の頭をぱちんと叩いた。
「食べながらじゃないの」
 麻衣は自分の頭を撫でながら、口に入っていたものを飲み込むと、また洋二の方を向いた。
「ごめんなさい」
「まあいいよ。あれだけのベッドを独り占めしたんだから、ぐっすり眠れただろう」
 麻衣は笑っていた。食事が終わると麻衣は洋二の膝の上に乗ってきて、洋二の胸を叩いた。洋二が麻衣の額をぽんと叩くと、麻衣はバランスを失って倒れそうになった。洋二が腕を掴んで麻衣を引き戻すと、麻衣は「きゃはは」と笑って同じことを繰り返していた。多佳子は食器をキッチンに持っていくとそれらを洗っていた。
 そろそろ出勤の時間になっていた。洋二が出かける準備を始めると、多佳子と麻衣も出る準備をしていた。洋二はこれでこの親子と会うことはもうないだろうと考えていた。
「これからどうするんですか」
 洋二は多佳子にそれを聞くべきかどうか悩んでいたが、ついに聞いてしまった。多佳子は動じる様子もなく、洋二の顔を笑顔で見つめた。
「そうですね、どうにかやっていきますよ」
 その表情には女としての、そして母親としての凄味のようなものが表れていた。洋二はこの母親なら大丈夫だろうと思っていた。他人の財布を盗んでおいて、されに盗んだ相手の家に押しかけるくらいだから。そして、この母親の子である娘なら、どうにかやっていけるだろう。
 アパートを出ると、すぐ目の前がずっと空き地になっていたのだが、その雑草で埋め尽くされているところに、麻衣は駆けていった。草むらに体を埋めると、「わあ」と言って飛び出してきた。
「遊んでないで、さあ行くわよ」
 多佳子は麻衣の手を引こうとするとすぐに「ひゃあ」と言って飛びのいた。
「虫、虫が付いてるわよ」
 洋二がそばに近づくと、胸にとげの沢山付いた小さな茶色の物体がいくつか付いていた。
「ああ、オナモミですよ。植物の実です。虫ではありませんよ」
 洋二は麻衣のセーターから、オナモミの実を一つずつ取ってやると、麻衣も自分でそれを摘んだ。麻衣がそれをぽいと投げると、洋二のしていたマフラーにくっついた。麻衣は嬉しそうな顔をすると、また一つオナモミの実を摘んで洋二に投げた。洋二がそれをうまくかわすと、マフラーに付いていた実を取って麻衣に投げた。それが再び麻衣の胸元に付くと、麻衣は体を揺すってそれを落とそうとしたが、オナモミの実はいくら体を揺すっても落ちなかった。洋二はそれを取ってやると、草むらに放った。
「さあ、行きましょうか」
 洋二は麻衣の手を引いて、多佳子の方を向いた。三人は何も言わず、黙ったまま駅へと向かう道を歩いていた。あの全ての始まりであるポストを通りかかると、多佳子もちらりとそちらの方を見たようだった。洋二はこれを見て多佳子は何を思っているんだろうと考えていた。聞いてみたい気もしたが、黙ったまま通り過ぎていった。駅前まで来ると、多佳子は立ち止まった。
「それではここで」
 麻衣は洋二のそばにいたが、何かを察すると離れて多佳子のそばへ行った。
「あの、それでは」
 洋二は何か言いたいことが山のようにあったような気がしていたが、何も言えないまま、それが最後の言葉になった。多佳子は深く頭を下げると、麻衣にも頭を下げさせた。すぐに体の向きを変えると、二人はそのまま歩き始めた。洋二は二人の後ろ姿を、その場で立ちすくんだまま見つめていた。一度だけ麻衣が振り返って洋二の姿を見たが、立ち止まることなく消えていった。洋二は二人が見えなくなると、駅の中に入っていった。 

 電車の中はいつもと変わらず、人に溢れていた。洋二は気づかぬうちに、ここにいるはずのない多佳子と麻衣の姿を探していた。改札口でも、車内でも、女性や子供の姿を見つけると、つい気になってしまった。
「おう、どうした、顔色が悪いぞ。まだ財布のこと気にしてんのか」
 会社に着くと、相変わらず陽気な声で内田は洋二に挨拶をしてきた。
「いえ、それは大丈夫です。少し寝不足なもんで」
「寝不足だと、女でもできたんじゃねえだろうな」
 内田は笑いながらその場を去っていった。洋二は女と聞いて多佳子のことを思い出していた。その日は仕事をしていても、何か集中ができなかった。一日が恐ろしく長く感じた。
 残業を終えて会社を出ると、八時を過ぎていた。帰り道も洋二は多佳子と麻衣の姿を探していた。夕食をとるためにレストランに入ると、洋二の横のテーブルには三人の親子連れが笑いながら食事をしていた。幼い娘と母親が、父親の話に笑っていた。洋二はいつか自分が家族を持つ日のことを想像したが、想像の中の妻と娘には多佳子と麻衣の姿があった。あの家族のように洋二の話を笑いながら聞く二人の姿が頭に浮かんだ。洋二はふと、多佳子と麻衣が今夜も自分のアパートで待っているような気がした。洋二は食事を途中でやめると、レストランを出ていった。
 今にも走り出したい気持ちを抑えながら、早い歩調でアパートに向かっていった。アパートが見えると、洋二はもはや走り出していた。階段を駆け上がると角を曲がった。そこには昨夜と同じように二人が座っていた。先に麻衣が洋二のことに気が付くと、立ち上がって洋二のところに走ってきた。そして、洋二の足に抱きついてきた。洋二はその麻衣の頭を撫でてやった。
「寒かったろう。さあ中に入ろう」
 多佳子の方を見ると、もうすでに立ち上がっていた。その顔は涙に濡れていた。洋二は何も言わずに鍵を開けると、二人を中に入れた。中に入ると、麻衣は「あれ、あれ」と言いながら洋二の肩の方を指差した。洋二が自分の肩を見ると、そこには何もなかったが、手で肩から背中の方を探ると、ちくりとした感触があった。それを摘んでみると、オナモミの実だった。
「知らぬ間に付いていたんでしょう。ずっと付けたままだったのかしら」
 多佳子は赤い目で笑った。洋二はまるでお前たち親子みたいだよ、と言ってやりたかった。洋二はその実を見つめながら、この実から芽を出してみたいと思った。

終 

奥付



オナモミの親子


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著者 : N.O
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