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△△◎▽▽
 警察の事情聴取などがあり、創司が六砂堂に戻ったのは九時半に近かった。
 死んだ男は民放テレビ局のプロデューサーということだった。
 リリーの話では、最初から暗い顔つきをしていたが、それでもしっかりやることはやったらしい。ナイフをしのばせたまま店に入り、セックスをした後、素っ裸のまま自分の首に突き立てたということになる。どう考えても理解できない。
 心臓発作で腹上死したり、滑って頭を打って死ぬ客というのはたまにいるが、わざわざソープランドに客として入り、頸動脈を切って自殺する客というのは前代未聞だ。警察でも、この異様な事件の処理に頭を悩ませていた。
 可哀想なのはリリーだった。彼女はまだ警察にいる。
 どういうサービスをしたのか、どういう体位でしたのかということまで、根ほり葉ほり訊かれているはずだ。
 六砂堂では、嵯峨野が待ちかねていた。
 電話で事情は簡単に話していたが、戻るなり、すぐに何があったのか訊かれた。
 最初から、なるべく簡潔に説明した。
 嵯峨野は黙って創司の説明を聞いていたが、しばらくして、ぼそりと言った。
「シャブ中毒とも思えんな。死体を見てみたいもんだ」
「血まみれでした」
「馬鹿野郎。そんなことは分かってる」
 嵯峨野はそう言うと、立ち上がった。
「遅くなったが、今夜の『伝授』を始める」
 そう言ってさっさと二階に上がっていった。
 創司もすぐ後に続いた。
「始める」
 狭い治療室の中に胡座をかき、嵯峨野は宣言した。
「はい」
 創司は姿勢を正した。
「ちょうどいい。自殺について話そう。躁の自殺と鬱の自殺についてだ」
 嵯峨野はいつもの『伝授』の口調になって、話し始めた。
 普段はぶっきらぼうな口調だが、伝授のときだけは、琵琶法師のように一人で滔々と話し続ける。
 創司は、嵯峨野の話のリズムを崩さぬよう、ひたすら耳を傾ける。
「自殺は、鬱の病が原因だと思われておる。だが、そうとも言えん。
 鬱は、何かをするエネルギーを生み出さない。だが、自殺をするにはかなりのエネルギーが必要だ。今日、首をかき切った男にしても、単なる鬱病の人間の行為とは思えん。そうだろう? わざわざ短刀を用意していき、自分で頸動脈の位置に正確に突き刺したんだ。よほどの精神力が必要だ。剃刀くらいではまず頸動脈までは届かんもんだ。切ったと思っても、その上の静脈止まりで、出血はするが、すぐには死ねん。その男は自分の頸動脈の位置と、その切断方法を正確に知っていて実行したことになる」
 嵯峨野の伝授はいつになく熱っぽかった。
「いつも言っていることだがな、人間は単なる細胞組織の塊ではない。が正常に宿ってこそ、初めてまともな精神活動が成り立つ」
 その考え方は、創司が長い間、西洋医学に対して抱いていた疑問に対する答えでもあった。だが、今夜はいつもとは違う重みを持った響きを感じる。
「この国全体の気が乱れておるんだ。その乱れが、わしやおまえも巻き込み、波長を合わせるよう囁きかける。
 いざというとき、我が身を守れるのは自分しかない。他人の身体を診て、治療する技も大切だが、場合によっては、相手の肉体を直接攻撃する技も必要だ。創司。おまえに以前、人間を一撃で殺す技を教えたことがあったな?」
 急に話が意外な方向に向かった。
「はい。大針で急所を刺す方法ですね」
 創司は緊張しながら答えた。
 大針というのは、普通の針治療に使う針よりもはるかに太くて長い、特殊な針だ。それを頸椎の間に素早く打ち込む殺人技は、テレビドラマの『必殺仕事人』で有名になった方法だが、実際にはあんな風にスマートにはいかない。頸椎の間は特に難しいが、他の急所でも、瞬時にして探り当て、そこに正確に針を打ち込むのは至難の業だ。
 しかし、嵯峨野はそうした一種の殺人術なども、ときに創司に「伝授」した。雑談というには熱心すぎるほどの口調で殺人術を語るときの嵯峨野には、一種鬼気迫るものさえ感じられた。
「刃物を隠し持った狂人が、何食わぬ顔でそのへんを歩いている世の中だ。使わぬにこしたことはないが、錆びつかせぬようにしておけ」
「はい」
 創司は納得できぬまま、返事をした。
 
 日付が変わろうとする頃、嵯峨野はようやく伝授を終え、家に帰っていった。
 店の二階に一人残された創司は、昼間は患者の治療用に使っている煎餅蒲団の上に横たわる。
 患者たちが残していった匂いは、毎晩少しずつ違う。
 特に、性風俗店や飲み屋で働く女性たちが残していった匂いは、独特の邪気を含んでいる。最初の頃は気になってなかなか寝つけなかった。
 今ではすっかり慣れてしまったものの、その夜は久々に、蒲団に残された匂いが気になった。
 そのときになってようやく、ベルベットに行く前、宇川が少女と怪しげな取引をしている現場を目撃したことを嵯峨野に話しそびれたことに気づいた。
 その後遭遇したソープ客の凄絶な自殺事件に比べれば、そんなことはどうでもいいことかもしれない。どっちみち宇川は解雇されたのだから、今さら何をしていても関係ない。しかし、どうも二人が何かを売り買いしていたシーンが気になって仕方がなかった。
 思い出そうとしながら、創司は、二人の行為よりも、あの少女の存在そのものが気になっている自分に気づいた。
 今思えば、あの少女は、今までに体験したことのない「気」を発していた。その気の正体を知りたいという気持ちが抑えられないでいる。
 この部屋にある唯一の家電品と言ってもいいトランジスタラジオのスイッチを入れると、最近、都会では自殺者が急増しているという話が流れてきた。
〈千葉県銚子市にある老人ホームでは、ここひと月の間に立て続けに五人ものお年寄りが自殺しました。
 また、この春以降、政財界の長老と呼ばれる人たちの自殺も相次いでいます。山岸証券元会長の鈴木徳治郎さん七十七歳。参議院の古参議員で、経済通としても知られていた音山育朗さん七十九歳。戸野川建設取締役の平丘政次郎さん七十四歳。いずれも高齢ではあるものの、病気や仕事上のトラブルなどは見あたらず、周囲の人たちは異口同音に、なぜ自殺しなければいけなかったのかと、首をひねっています。
 なぜ理由の見あたらない自殺が急増しているのでしょう?〉
 アナウンサーが淡々とした口調で語るのを、創司は横になったまま聴いていた。
 ラジオを切った後も、しばらくは闇の中で、創司は寝つけないひとときを過ごした。
 壁の外は、眠ることのない街・歌舞伎町。
 どこかから、また救急車のサイレンが聞こえてきた。

△△◎▽▽
 銚子道路をまっすぐ犬吠埼に向かって走ると、やがて一般道になり、〈犬吠埼入口〉という交差点に出る。
 特殊車両を示す88ナンバーをつけた黒塗りの大型乗用車は、その交差点をさらに突っ切って行った。
「さっき見えた老人ホームの案内看板には、今の所を右折と書いてあったね」
 後部座席右側に座っていた(たかさご)克矢(かつ)警視は、運転する千葉県警の(はっこう)警部補に声をかけた。
「いえ、あれは別のホームです。あっちは特別養護(とくよ)老人ホームでして、市の施設なんです。自殺者が続出したホームは、一昨年できたばかりの新しいホームでして、公費でやってる老人ホームとは違うタイプだそうです。名前もオーシャンヴィラ・ロワイヤル銚子という長い名前でして」
 八光警部補は、シャツの袖口で額の汗を拭いながら答えた。口癖なのか緊張からか、「でして」がやたらと多い。
「リゾートマンションみたいだな。金持ち相手のやつ?」
「そうですね。私らもあまりこっちには来たことがないもんでして、よくは知らないんですが……」
 警部補は自信なさそうな声で答えた。
 助手席には、もう一人、県警の刑事が座っている。後部座席には高砂の部下である荒木警部もいた。高砂と荒木は警視庁の公安部特殊捜査班という部署から来ていた。県警の刑事たちにしてみれば、やりにくいゲストだった。
 車はやがて狭い道に入り、さらに何回か目立たない交差点を曲がって、ようやく目的地に着いた。
 海岸からは少し離れているが、高台に位置しているために、太平洋が見渡せる。周りには雑木林と、あまり手入れされていない畑があるだけで、殺風景な場所だった。蝉時雨がかえって寂しさを印象づける。
 しかし、できたばかりというだけあって、建物は立派だった。二階建てだが、まさにリゾートホテルのような豪華な外観を誇り、海側に背を向けるようにしてL字型に建っている。
 車は誰もいない広場にそのまま入り込み、停車位置を気にすることもなく停められた。
 県警の刑事二人の案内で、高砂と荒木は老人ホームの中へと案内された。
 理事長室という部屋でしばらく待たされている間、高砂は県警が用意した報告書を読み返していた。
 ファイルの頭には、「銚子老人ホーム連続自殺事件」と記されている。ここひと月の間に、このホームで生活していた五人の老人たちが次々に自殺を遂げたのだ。
 首吊り、崖から海への身投げ、果てはチェーンソーで自分の首を切断するなどという派手なものまで、方法はまちまちだった。
 老人の自殺自体は珍しいことではない。だが、短期間に五人の自殺は多すぎる。しかも不思議なのは、その五人は、ホームの中でもとびきり社交的で明るく、健康状態にも特に深刻な問題がなかったことだった。
 このところ、都内を中心に自殺者が急増している。それも、大会社のオーナーや長老格の政治家など、裕福で名のある人物が多かった。どのケースも、自殺する理由がまったくと言っていいほど見あたらない。
 自殺した男性と関係があったと見られる女性たちも、相前後して自殺、あるいは失踪していた。六十八歳の会社オーナーに囲われていたと噂される三十歳年下の愛人。古参参議院議員の若い女性秘書。あるいは銀行頭取とつき合いがあったと言われるクラブのホステス。そしてそのホステスがつきあっていた若いホスト……。連鎖反応のように、交友関係に沿って、理由の分からない自殺が相次いでいた。
 普通なら公安の特捜班が自殺事件に乗り出すことなどないのだが、これだけ不可解な自殺が続く背後には何か重大な秘密が隠されているのではないかということで、異例とも言える捜査が始まったのだった。
 それにしても、千葉の外れにある老人ホームでの連続自殺が、都内で起きた一連の金持ち自殺と関係があるのだろうか。
 このホームは裕福な老人たちを相手にした営利施設だから、その意味では都内の金持ち自殺とも関係があるかもしれない。だが、日本全国に散らばる有料老人ホームで、連続して入所者が自殺したのはこのホームだけなのだ。
 県警が用意した資料の中に、ホームの資本金出資者リストというものがあった。
 株式会社全由薬品、全由ケミカル工業株式会社、ハイパーライフラボ株式会社……。
HLL(ハイパーライフラボ)……あの会社か……」
 高砂は十年前、まだ警視になる前に捜査した厚生省官僚の汚職事件のことを思い出した。
 そのとき、ドアが開いた。
「お待たせしてすみません。(わきもと)です」
 高級老人ホームの理事長という肩書きから想像していたよりもずっと若々しい声に顔を上げると、派手なアロハシャツを着た男が入ってきた。高砂自身よりも明らかに十歳は年下、つまり、まだ四十代半ばくらいだろうか。
 ソファから立ち上がりながら、高砂は思わず相手の顔を凝視した。
 相手もすぐに気づいたようだった。
「これはこれは……。こんなところでまたお会いするとは……」
 不動産屋の営業課長のような顔には、ラフなスタイルがまるで似合わない。理事長は、口元を斜めに歪め、苦笑しながら言った。
「まったくですね。製薬会社の広報部長から老人ホーム経営に転身ですか」
 高砂はそう言うと、相手が答える前に、さっさとまたソファに腰を下ろした。
 一緒にいた三人の刑事たちは、みな一様に不思議そうな顔で、二人を見比べていた。
「経営と言っても、私はただの雇われ者ですよ」
「さっそくですが、ハイパーライフラボがこのホームに納入していた商品リストを見せてください。特に医薬品関係は詳細なものをね」
 高砂はそれ以上は挨拶もせず、いきなり理事長にそう告げた。
 理事長は当惑した表情で高砂を見つめた。
「どういうことですか?」
「今言ったとおりです。HLLがこの施設に納入していた医薬品リストを見せてくださいと言ったんですよ。紛らわしい表現はしていないはずですが」
「入所者の自殺について調べにこられたんじゃないんですか?」
「そうですよ」
「それとHLLとどういう関係があるんです?」
「それはこれから調べます。あなたは私のリクエストに応えていただければそれでいい」
 理事長は憮然とした顔で高砂をしばらく見つめていたが、やがて静かな口調で答えた。
「分かりました。まあ、お気の済むように」

△△◎▽▽
 西武新宿駅方向へ斜めに抜ける狭い路地に、小料理屋「(うおちょう)」がある。
「こんにちは」
 店先で魚を焼いていた女将(おか)に声をかける。
「ああ、(そう)ちゃん。ちょうどよかった。食べたら五分くらい、いい?」
 女将は創司の顔を見るなりそう言った。今時、手ぬぐいを姐様かぶりにしているというのも珍しい。
「はい」
 創司は狭い店の奥に進み、勝手知った調理場にすっと入る。去年還暦を迎えたという店の主が、忙しそうに皿に刺身を盛りつけていた。
「すみません。またお世話になります」
「おう」
 会話はそれだけだ。
 この店を切り盛りしている本多夫妻は、二人とも六砂堂の馴染み客だった。
 創司は食器戸棚から茶碗を取り出し、炊飯ジャーから飯を七分くらい盛って、カウンターのいちばん奥に座った。
 おかずは、自分が買って置いてもらっている瓶詰めの佃煮や、前日の付きだしの残りなどを適当につまむ。店の冷蔵庫から、生卵を一つもらうこともあるし、来る途中の店で買った納豆や豆腐を持ち込むこともある。
 店に代金を払ったことはない。その代わり、時折マッサージをしてあげる。
 生薬の調合や見立ては、まだまだ師匠の嵯峨野に遠く及ばないが、指圧と鍼の腕は、並みの指圧師、鍼師よりも上だという自負はある。
 ただし、創司には鍼灸師の資格がない。
 職業としての鍼師、灸師、マッサージ師は、厚生労働大臣が認定する医療資格である。嵯峨野から学んだ知識や技術をもってすれば、資格を取ること自体は簡単なことだが、創司は敢えて資格を取らないでいた。
 嵯峨野が「伝授」と呼ぶ教えは、一般に鍼灸師学校で教えることとはかなりかけ離れた部分もあった。仙道や気功に近いかもしれない。創司にとって、そうした「非公認」の世界を探求することは、国家資格を取ることなどよりはるかに魅力的で価値のあることだった。
「絵描きや詩人に国家資格が必要か? わしの術は、お上に認めてもらうようなちゃちなもんじゃない」
 そう言う嵯峨野自身は、鍼、灸、マッサージ、すべての国家資格を持っているのだが、そのことを恥だと思っている節もあった。

「これ、うまいぜ」
 主人が、小皿に目刺しを二匹のせて持ってきた。
 ふと見上げ、目が合った主人の顔に、いつになく深い疲労の色が浮かんでいるのを、創司は見逃さなかった。
 ただの肉体的疲労ではない。もっと精神的なものだと感じられたが、言葉には出さなかった。
「すみません。いただきます」
 それだけ言うと、創司は出された二匹の目刺しに箸をつけた。
 若いのに小食だと、最初の頃は主人や女将にずいぶんと心配されたものだ。
 質素な食事は、師匠の嵯峨野に教え込まれたもので、言ってみれば修行の一環である。
 仙道の基礎的な術に「小周天」というのがある。身体の正中線に沿って、体内の「気」をぐるりと移動させていくというものだ。毎日これをやっていると、自然と体質が小食になる。
 主人も女将も、そうした細かいことは分からないが、創司が修行中の身であり、あまり食事をしなくても平気らしいということは、なんとなく理解している。だから今では「もっと食べろ」などということは一切言わない。
 食事が終わり、使った食器を自分で洗って片づけると、女将が待ちかねたようにやってきた。
 店の奥に入り、指圧と整体を混ぜたようなマッサージを施す。
「ああっ。効くわー……そこ……あ……」
 気持ちよさそうに声を出す女将の髪は、魚臭かった。
「うまくなったねえ、あんた。嵯峨野先生に負けない腕だよ」
「とんでもないですよ。まだまだ修行中の身です」
「そうかい? もう何年になるかね、嵯峨野先生のところに弟子入りして」
「もうすぐ丸五年です」
「じゃあ、腕も上がるはずだね。あの、宇川って店員も弟子なの?」
 女将が宇川の名を口にしたので、創司はどう答えていいものか迷った。
「いえ、宇川さんは鍼灸はやりません。で、彼は先日辞めました」
「え? そうなの。辞めたのかい。なんかねえ、根性が足りない顔してたもんね。神主の息子だって聞いたけど、それにしちゃあ俗物だよねえ」
「神主の息子?」
 初めて聞く話だったので、思わず問い返した。
「お店に入ってきた頃、本人から聞いたことがあるよ。父親は、埼玉の小さな神社の神主だとかなんとか。どうでもいいことだけどね。あの男に比べちゃ失礼だけど、とにかく創ちゃんは偉いよ。嵯峨野先生が惚れ込むのも無理はないわ」
「やだな。誉めすぎですよ」
 創司は、宇川がいつから店で働いていたのかよく知らない。五年前、嵯峨野に弟子入りを志願してやってきたとき、すでに宇川はいた。他に店員はいなかったが、性格が合わないので、仕事以外のことでは、あまり話をしたこともなかった。
 店に新たな客が入ってきたので、女将へのマッサージはそこでおしまいになった。
 店の奥で客の邪魔にならないよう、創司は自分で茶を入れて飲んだ。
 この数分間が、一日のうちでいちばんリラックスできる時間だった。
 女将との会話の続きをたどるように、創司はふと、嵯峨野に弟子入りするまでのことを想い出していた。

 創司は、もともとは医学部の学生だった。
 父親は長い間大学病院で勤務医をした後、五十近くになって病院を辞め、地方都市の住宅街に小規模な医院を開業した。一人息子の創司に後を継がせたいという思いが強く、医学部以外の受験を認めなかった。大学も、自分の恩師がいる国立大学を第一志望にするようにと強く主張した。
 創司も一応はその期待に応え、父親の望みどおり、その国立大学の医学部に現役で合格した。成績も優秀だったが、時が経つに連れ、そのまま医者になる人生を受け入れがたい気持ちが強くなっていった。
 これは自分の人生ではなく、父親の人生の延長ではないか──。
 そもそも、創司は物心ついたときからずっと、自分の父親に言いようのない違和感を抱いていた。
 まず、風貌が似ていない。性格や習癖も、親子だと共感できるところがひとつもない。価値観もまるで違う。
 母親は父よりも十歳若かったが、従順なだけのつまらない人間だった。父親は、時折創司に、おまえの優柔不断なところは母親に似た、と愚痴をこぼした。
 創司もそれを感じることがあったので、そう言われてよい気持ちはしなかった。確かにそうだ。自分が今、医学を学んでいるということこそ最大の「優柔不断」だろう。
 学部在籍中は中国拳法のサークルで主将を務め、拳法の技を磨くことで気を紛らせた。
 女子学生にももてたし、適当に遊んでもいた。そのうちに、結婚を真剣に考えてもいいと思える恋人もできた。
 ジーンズがよく似合う、細身の美人。父親は医薬品メーカーの重役で、友人たちからもお似合いのカップルだと羨まれていた。
 医師免許試験の申し込み期限直前になって、彼女に「どうしても医者になる気持ちが固まらない」と告白した。彼女は驚き、説得を始めたが、それが効かないと悟ると、最後はこう言い残して去っていった。
「今はそんなこと言っているけれど、十年後、結局あなたは医者になっているはず。でも、そのときは、私はもうあなたの前にはいないのよ。それでいいのね?」
 今でも時折彼女の夢を見る。だが、彼女にはそれっきり会っていない。
 
 創司は公言したとおり、学部の全課程を修了してからも、国家試験は受けずに、そのまま大学の研究室に居残った。
 担当教授は柄尻(えじ)隆二といい、創司の父親がかつて世話になったというのはこの教授のことだった。
 柄尻は通常の定年を過ぎていたが、名誉教授として大学に残っていた。感染症の専門家としてだけでなく、DNAの研究でも日本では第一人者であり、大学の看板でもあった。
 柄尻研究室は、学内でも特別な存在だった。専用の設備を与えられ、各地から優秀な人材が集まっていた。医師だけではなく、生化学者、物理学者まで出入りしていた。
 当時、創司は人間の身体を切り刻むという発想に疲れていて、医学とは直接関係のない、アンモニアの電子構造やインシュリンのアミノ酸構造などというものを勉強しながら、DNAとは何かというようなことを漠然と考え始めていた。それも、今思えば、自分から興味を持ったということではなく、大学に居残るための口実に近かった。
 そんなある日、DNA研究班の班長を務めていた柄尻の息子・(けいすけ)が、創司を捕まえてこう言い渡した。
「君は逃げている。我々の究極の目的は人間のDNAを解明することだ。ヒトゲノム計画は世界中で進んでいる。これは競争だ。解明された順にどんどん特許申請がされている。君は優秀なんだから、もっと核心を突くテーマに取り組んでくれなければ困る。明日からは、血液研究班に加わってくれ」
 柄尻研究室には、DNA研究用のサンプルとして、膨大な種類の血液保存庫があった。輸血などに使うわけではなく、あくまでもDNAの研究に使う目的で、大学付属病院から分けてもらったものの他、学生や教授が自らの血液をサンプルとして提供していた。
 ある日、研究のために、その血液サンプル保存庫に入る機会があった。血液提供者リストを検索していると、自分と同じmoriyasu という名前があることに気づいた。
 調べると、それは自分の父親の血液だった。父親はかつて柄尻の下で研究していたから、そういうものがあっても不思議ではない。
 そこでふと思い立ち、父親の血液サンプルを少量盗み出してDNA鑑定をしてみた。結果、半分予測していたとおりの答えが出た。
 創司は父親の実子ではなかったのだ。
 どういう理由で守安家の長男として育てられたのかは分からない。だが、はっきりしていることは、自分と父親とは血がつながっていないということだ。
 創司はその事実を知って、むしろほっとした。
 父親に対して抱いていた違和感も、これで説明がつく。
 そのことについて、創司は両親を問いつめることもなかった。
 
 それ以降、創司はますます研究からは逃避するようになっていった。
 柄尻桂佑は、そんな創司を許さなかった。
 ことあるごとに叱りつけ、提出したリポートを無視するなど、いじめに近いような仕打ちをすることもあった。
 創司は、もともと桂佑とは相性が悪かった。一度、他の学生から、桂佑と顔の輪郭が似ているなどと言われたことがあったが、とても心外だった。髪をきっちり七三に分けている桂佑とは正反対になろうと、わざと長髪にしたほどだ。
 ある日、桂佑は、医学部の学部生たちを実験室に集めて特別授業をした。そこに助手として創司も同席させられた。
 内容は、ウサギの殺し方だった。
「ウサギはこうやって殺すんだ」
 桂佑は二匹用意したウサギのうち、一匹の耳を無造作に掴んで抱えると、プラスチックでできた筒状の保定器に入れた。そして、頭だけ出されたウサギの耳の血管に空の注射器を刺し、空気を注入した。
 ウサギはほとんど身動きできない筒の中で必死にもがこうとしていたが、やがて、ぐったりと動かなくなった。
「昔はこういう便利なものがなくてね。バタバタ暴れるウサギをしっかり抱え込むのにはそれなりの技術が必要だったが、今は軟弱にこんな風にして殺すわけだ。OK。じゃあ、君たちの優秀な先輩・守安君に手本を示してもらおう。よく見ておきなさい」
 そう言うと、柄尻桂佑は、二匹目のウサギの耳を鷲掴みして、創司のほうに放り投げるようにして渡した。
 創司は怯えるウサギを抱き留めると、静かな口調で柄尻に言った。
「生意気言うようですが、ウサギは耳を持ってはいけません。痛いんです」
 柄尻の目の奥が冷たく光った。
「私はウサギの殺し方を教えているんだ。ペットとしての飼育法を教えているわけじゃない。殺すウサギが痛がろうが苦しもうが意味がない。要は、効率よく殺せればいい。さあ、やりたまえ」
 創司は結局、ウサギを殺せなかった。
 実験室に用意された二匹のウサギは、創司の目の前で殺されていった。「殺し方」をマスターさせるためだけに死んでいったのだ。貴重な実験動物をそんな風に扱うなど、普通には考えられない。柄尻が私的にストレスを発散させたとしか思えなかった。
 その数日後、創司は研究室を去った。

 息子が大学を辞め、医者になることも拒否したことを知って、父親は激怒した。母親はおろおろするばかりだった。
 そのときも、創司は両親に自分のルーツについて訊ねることはなかった。親なんてどうでもいい。親が誰であったところで、自分は自分でしかない。それに、もしかしたら、父親は何も知らないのかもしれない。それならそれでいいと思ったのだ。
 少しの間、アルバイトをしながら適当に暮らしていたが、医学部在学中から、中国拳法を通じて東洋医学に興味を持っていたこともあり、五年前に六砂堂を訪ね、半ば強引に雇ってもらった。
 店の二階に寝るだけの場所を与えられた代わりに、ほとんど無給と言っていいような低賃金。衣類以外のものは、ほとんど所有することも不可能という生活だった。
 そんな生活を心配して、母親が何度か様子を見に来たりもしていたが、今ではもう諦めたようだった。
 父親はその後、急に生きる張り合いを失ったかのように病死し、医院も自動的に消滅した。その半年後、母親も交通事故に遭い、後を追うように死んだ。
 もう、自分のルーツを確かめる術はないし、しがらみもない。
 創司はもうすぐ三十三歳になるが、今の生活が結構気に入っていた。

△△◎▽▽
 無影灯がともる部屋の中で、水色の手術着を着た男たちが、台の上に全裸で横たえられた一人の女性を見下ろしていた。
 顔のほとんどは大きなマスクで覆われ、目にも感染防止用のゴーグルをしているので、男たちの表情は一切分からない。
 手術台の上の女は微動だにしなかったが、死んではいなかった。その証拠に、女の鼻と口は、酸素マスクで被われていた。
「林檎はまだ使えそうか?」
「いえ、ぼろぼろですね。もう、これが限界でしょう」
「黒か。OK。では取り出そう」
 リーダーらしい男の静かな声とともに、作業は始まった。
 執刀医の握るメスが、女の下腹部にあてられ、すっと一直線に引かれた。
 女の乳房が、わずかに揺れた。

 彼女が自分の身体に何が起きているのか、気づくことは二度となかった。  


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