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△△◎▽▽

 新宿歌舞伎町の一角に、間口一間半ほどの小さな漢方薬局がある。店の名前は六砂堂(ろくさどう)
 自動ドアもなく、客は、(はんげん)しか開いていない木製の引き戸の間を通らないと中に入れない。(いちげん)の客には、かなり敷居が高く感じられるだろう。
 少し離れたところには大型ドラッグストアがあり、漢方薬も置いてあるから、普通の市販薬を買う客はそちらに入る。そのせいもあるが、繁華街の一角にありながら、店の中に客の姿が見えることは多くなかった。
 壁際には様々な和漢薬の材料が入った瓶が並べられている。もちろんメーカーが出している市販薬も並んでいるが、店としては、客の相談に乗り、個別の調合をすることに力を入れていた。
 その六砂堂の入口を、何の躊躇いもなく、小柄な中年男性がくぐった。
「例のやつ、まだ入ってこない?」
 男性は、レジそばにいた若い店員に、いきなりそう声をかけた。
「いらっしゃいませ」
 (もりやす)創司(そう)は、伝票をチェックしていた手を止めて顔を上げた。
「ああ、あんたじゃない。……まあ、いいか。フゲンα(アルファ)の予約をしている者だけれど。鈴木っていう……」
 またあの薬の話か……。
「申し訳ございません。フゲンαは入荷のめどがまったくたっておりません」
 創司は、うんざりする気持ちが顔に出ないよう努めながら答えた。
「そう……。やっぱりね。それで……」
 客はすぐには帰らなかった。
「他に何かご入り用なものがございますか?」
「いやね……なんていうか、君じゃなくて、もう一人の店員さんのほうがいいんだけど……」
宇川(うが)ですか。すみません、宇川は今、ちょっと外しておりまして、六時には戻りますが」
「ああ、そう……」
 客は、高価そうな腕時計に目を落とした。時刻は五時を少し回ったところだった。
「お薬のことでしたら、私が承りますが」
 内心、さっさと帰れと思いながらも、職務上、創司はそう答えた。
「うん……いやね。フゲンβ(ベータ)のこと。もしかして取り次いでくれるんじゃないかと思って」
「β? ああ、あれはまったくのデマですよ」
「本当? まあ、いいや……また寄ってみるから」
 客は薄笑いを浮かべると、何も買わずに帰っていった。
 男の少し丸まった背中を見送ると、創司は軽くため息をついた。
 このところ、こんな客が多い。
 フゲンαという薬が話題になり始めたのは数か月前のことだ。惷麟(しゅんりんどう)という、名もないメーカーが売りだした商品だが、回春効果があると評判になり、飛ぶように売れた。
 しかし、フゲンαは医薬品ではない。ラベルに表示された品名は「ニンニク加工食品」となっている。
 成分表示にも、これといって特別なものは書かれていない。ニンニクエキス、牡蠣殻粉末、白子抽出物、マムシエキス、デキストリン、ローヤルゼリー……。その程度の「健康食品」は世にあまた存在するが、フゲンαの定価は異常に高く設定されていた。三十錠入りで二万八千円。一錠千円弱だ。普通に考えれば、詐欺に近い。それでも売れ続けたということは、他の健康食品の類とは一線を画すような確かな「効能」があったのだろう。
 しかし、量産ができないらしく、たちまち品薄になり、裏で闇レートによる売買が行われるようになった。インターネットには「フゲンα売ります」というホームページも数多く現れた。
 さらには、一部で怪しげな噂が飛び交うようになった。
 フゲンαには、一般には売られていない「フゲンβ」という特別版があり、その効果はフゲンαの比ではないというのだ。
 この噂には様々なバリエーションがあった。基本形は「暴力団が買い占めて裏ルートで売っている」というもの。
 他にも、シティホテルにしか出張しない高級売春組織が、女と込みで斡旋しているとか、新宿歌舞伎町に中国人風の売人が出没するとか、巣鴨にある大人の玩具屋に入り、合い言葉を言うと売ってもらえるなどというものまで、いろいろある。
 中でも、ブラックジャーナリズムを標榜する某雑誌に載った与太記事はかなり傑作だった。
 その記事によれば、もともとフゲンαには、表示成分以外に、人間の精巣や肝臓などの「隠し原料」が含まれている。隠し原料の工場は北朝鮮にあり、そこから密輸された原料をごく少量ブレンドしたのがフゲンαで、北朝鮮からオリジナルなものを直輸入したのがフゲンβだというのだが、このへんまでくると、まともに取り合う者はほとんどいなかった。
 もちろん、フゲンαの発売元である惷麟堂は、すべてまったくのデマだと否定していた。
 創司も、もとよりそんな話は信じていない。

 入口からの光が一瞬翳ったかと思うと、さっきの客とは頭一つは違う、作務衣(さむ)を着た大柄な男が音もなく入ってきた。
「お帰りなさい」
「ああ」
 入ってきたのは六砂堂の店主・嵯峨野(さが)市朗次(いちろうじ)だった。
 肩まで伸ばした白髪で老人だと分かるが、背筋はピンと伸びている。
 歳は七十を過ぎているが、とてもそうは見えない。肌の艶もよく、肩には筋肉の盛り上がりさえ認められる。
「宇川はまだ来んのか?」
「はい。今日は六時からです」
「いや、話があるから早めに出てこいと言ってあるんだが」
 嵯峨野は一旦店の奥に消えると、白衣に着替えてカウンターの中に入ってきた。
 白衣の下は素肌だ。赤黒く光沢のある胸が覗いている。
 嵯峨野市朗次は、(はり)治療や生薬調合の達人で、その世界では伝説の人物だった。
 一口に達人と言うが、鍼も生薬調合も、奥の深い世界である。一方だけでも、究めるのは容易なことではない。どちらにも精通した上で、しかも達人と呼ばれるということは、普通にはとても考えられないことだった。
 ただし、嵯峨野自身は、その実力を積極的にアピールはしていなかった。人嫌いで、店に出ていても、客に愛想笑いできないどころか、気に入らないと追い返してしまうことさえある。
 それでも店がつぶれないのは、彼の腕の確かさを知る固定客がいるからだ。店の二階を使って、ひっそりと鍼治療をしているが、常連の中には相当な金持ちもいて、そうした患者からは高い診療費を取る。高いのではないかなどと少しでも文句を言おうものなら、二度と治療には応じない。
 創司は、そんな偏屈な嵯峨野になぜか気に入られている、たった一人の直弟子だった。
「宇川はクビにする」
 嵯峨野はぶっきらぼうにそう言うと、突然、店の帳簿をポンと創司の前に投げてよこした。
 予測できない事態ではなかった。
 宇川は店の経理面をほとんど任されていたが、最近、創司も、不明朗な金の動きや仕入れ帳簿の改竄に気づき始めていた。
「使い込みですか?」
「そんなところだ。それもせこせことやりおって。わしも前から変だとは思っていたが、あまりにやり口がせこいんで、見逃していたんだ。売上金をかすめるというなら分かりやすいんだが、店とは別に、勝手に汚ねえ商売をしていた」
「商品を横流ししたんですか?」
「そうだ。フゲンαとかいうインチキ臭え薬を、どうしても欲しいという客に、滅茶苦茶な金額で売りさばいていた」
 創司はさっき店を訪ねてきた客の、意味ありげな顔を思い出した。
 嵯峨野は、メーカー製の市販薬販売にはほとんど関心がなかった。仕入れなども、一応は目を通すものの、宇川に任せきりだった。
「市販薬など、どれも似たようなものだ」というのが嵯峨野の口癖だった。
「生薬の醍醐味ってのはな、一人一人の体質に合わせた調合にあるんだ。同じ処方でも、微妙な配合比率によって効き方が違ってくる。出来合いの薬を売っているだけじゃあ、本物の薬屋とは言えん」
 そうした口上を、創司は嵯峨野から何度も聞かされ続けてきた。
 創司もまた、店での販売業務にはあまり関わっていなかった。宇川が店を抜けているときに交代することはあるが、時間的には長くない。
「すみません。もっと早く気づいていればよかったんですが」
「馬鹿野郎。おまえにはそんな(こまごま)としたことは期待しておらん」
 嵯峨野は不機嫌そうに言った。
 そのとき、創司の腰にぶら下げている携帯電話が振動し、着信を知らせた。
 嵯峨野の顔を一瞥してから、電話に出た。
〈創司くん? 私、ミナコ。ベルベットのミナコ。今、空いてない? 背中が痛くてたまらないの……〉
 私用電話ではない。六砂堂の常連客でもあるソープ嬢からの出張マッサージ依頼だ。
〈……七時半に予約のお客さんが入っていて、それまで一時間半くらい空いてるから、その間にお願いできると嬉しいんだけれど〉
「すみません。今、店を空けられなくて……」
「行ってこい」
 創司が断る前に、電話の内容を察知した嵯峨野が、遮るようにそう言った。
「店はわしがおるから大丈夫だ」
「分かりました。今から行きます」
 創司は、嵯峨野の顔を見ながら、電話の向こうのミナコに答えた。
「ついでに飯も食ってこい。伝授ヽヽは九時からだ」
「はい」
 こんなふうに、風俗店で働く女たちから出張診療を頼まれることがよくある。これは嵯峨野も公認の「修行」のひとつだった。
 嵯峨野は、金を取らない限り、創司が他人の診療をすることを認めていた。いや、むしろ積極的に勧めていた。生きた人間をどれだけ相手にしたかによって、技は高まっていくからだ。
 風俗嬢の場合、仕事中は店から離れることはできないので、店が暇な時を見計らって、出張診療を依頼してくる。
 嵯峨野はほとんど出張診療をしない。それに風俗嬢からは高額の診療費を取るので、女たちはもっぱら弟子の創司に出張診療を頼んでくる。嵯峨野から渡されている携帯電話は、主にその受け付けと、創司が店から離れているときのための連絡用に使われていた。

 店を一歩出ると、そこは日本でも有数の歓楽街・新宿歌舞伎町。風俗店のまがまがしい看板が林立する路地を抜けていく間に、ポン引きに声をかけられることもよくある。
 足早に歩いていると、人混みを縫うように、前方から若い女が一人で歩いてくるのが目に留まった。
 シャギーカットの髪が肩の上で軽そうに揺れている。
 服装は、地味な半袖のシャツブラウスに、膝頭くらいまでのスカート。肩から布製のショルダーバッグを提げている。
 互いの距離が縮まるにつれ、創司の目はその女に釘付けになった。近くで見ると、思ったよりずっと若く、まだ高校生のようにも見える。
 化粧っ気のない顔は、知性と意志の力だけで十分に美しい。何かに怒っているようにも見える鋭い眼差しが、周囲の猥雑な風景を拒絶するかのように、行く手をきっと見つめていた。
 すれ違った後も、創司は歩を止めて彼女の姿を目で追っていた。すると、〈エスニックファッションマッサージ・麗裸(れい)〉という看板が出ている小さな雑居ビルに入っていった。
 あんな子が性風俗の店で働いているのか。
 軽くため息が出た。
 この町で働いていると、たいていのことには驚かない。若い女が一人で歩いている場合、かなりの確率で、性風俗の店で働く子である。その中には、一見して清純そうな美人もかなり混じっている。
 場所柄、六砂堂にもそういう女性たちが客としてやってくる。一日中、日の当たらない、決して衛生的とは言えない部屋で裸で働く彼女たちは、様々な健康障害に悩んでいる。生理不順、冷え性、腰痛、皮膚炎、不眠症、不安神経症……。西洋医学に不信感を持ってというよりは、噂を頼りに、漢方薬や鍼治療の門を叩く女性は少なくない。
 それにしても、今、ビルに消えた少女は、創司が日頃から接している風俗店で働く女性たちとはかなり違う雰囲気を持っていた。
 そのとき、見覚えのある痩せた男が、少女が消えた雑居ビルの中に、後を追うように入っていった。
 宇川だった。せこせことごまかした売り上げ金で、性風俗店で遊ぼうというのだろうか。
 創司は、嵯峨野が店で待っていることを彼に告げるため、店の入口に近づいた。
麗裸(れい)〉という風俗店の看板は一階のもので、すぐ横に二階への階段があった。二階の店はつぶれて空室になっているらしく、狭い階段室にはゴミと化した電飾看板が放置されていた。そこで、宇川は、さっきの少女と何やら話をしていた。
 宇川は小さな紙片のようなものを少女に渡し、それと引き替えに、少女は茶封筒を宇川に渡した。中身は金に違いない。少女が宇川から何かを買ったとしか見えなかった。
 そこまで見届けると、創司は店から離れた。
 すぐに二人が出てきて、宇川は六砂堂のほうへ、少女は元来た道を戻っていった。
 バランスのとれた若い身体が、倦怠感に満ちた人混みを切り裂くように進み、すぐに見えなくなった。
 何か、不思議なものを見てしまった気分で、創司はしばらく少女が消えた方向を見つめていた。
 ミナコのマッサージに遅れてしまうので、創司はそのままベルベットに向かった。後は嵯峨野に任せておけばいい。
 しかし、宇川は彼女に何を売ったのだろう。一瞬しか見えなかったが、ただの紙片のようだった。薬などではない。しかも、宇川と少女は初対面ではなさそうだった。
 なぜか妙に引っかかるものを感じた。
 
 ベルベットは、西武新宿駅からコマ劇場方面に斜めに抜けていく路地に面した雑居ビルの中にある。
 七階建てのビルの、四階以上が全部この店で占められている。歌舞伎町随一の高級店で、女の子の質にも定評があった。
 女の子たちの控え室が狭いので、部屋が空いているときは、店長の了承を得て、個室でマッサージをする。ソープ嬢と客の役割がほぼ逆転するわけだ。
 エレベーターで四階の受付まで登ると、カウンターの中にいた店長に目配せした。
「いらっしゃい。こちらへどうぞ」
 一般客の手前、店長の言葉遣いはていねいだ。そのまま直接従業員控え室に案内される。
 従業員控え室では、ミナコが待ちかねていた。
「七時半には客が入るの。慌ただしくてごめんなさいね。もう背中がパンパンで、吐いちゃいそう」
 そう言いながら、ミナコは店長のほうに意味ありげな視線を送った。
「終わったら私もお願いできないかしら?」
 隣にいたリリーが甘えた声を出した。
「リリーさんは今お客さん入ります」
 店長がすかさず釘を刺す。
 高級店だから、客がつくと二時間は抜けられない。
 リリーは残念そうに口元を歪めた。
 店にとって、創司は複雑な存在だった。
 創司の出張診療で、体調不良を訴えていた女の子が嘘のように回復する。結果的には女の子の病欠率が減り、サービスも向上するから、その点では店にとってもプラスになる。それが分かり、この店では営業時間中であっても、予約客がいない限り、創司の出張診療を黙認してくれている。しかし、けじめをしっかりつけなければ、従業員の統制が乱れる原因にもなる。
 ミナコの後について、創司は個室に入った。いつもの七階の奥。
 高級店の割にはあまり広くはないが、その分、調度品などは凝っている。バスタブは人工大理石で、フランス製だそうだ。
 ミナコは少し日本人離れした彫りの深い顔立ちで、虹彩の色が薄い。最初はカラーコンタクトを入れているのかと思ったが、そうではなかった。生まれつき、少し青みがかっているのだ。肌の色も白いし、訊いたことはないが、白人の血が混じっているのかもしれない。
「じゃあ、まず舌を出して」
 と創司が言い終わる前に、ミナコはペロッと舌を出した。
 舌の様子で健康状態がある程度は分かる。
 苔状の白い部分が増えていて、少し荒れていた。
 次に、創司はミナコの首筋に軽く手を当てる。
 熱はないし、リンパ節も特に腫れてはいなかった。
 チョゴリのような服の前をたくし上げて、ミナコの腹部を露出させると、ミナコはもどかしそうにそのまま服を脱いで、キャミソール姿になり、そしてさらにキャミソールも脱ぎ、ブラとTバックのショーツだけになった。
 この前診たときより、少し贅肉がついた感じだ。
 仕事柄、若い女の裸は毎日のように目にしているのだが、本当に美しいと思える身体はそう多くはない。形として整っていても、若さが感じられない、不健康な肉体も多い。
「じゃあ、ブラも取って仰向けになってください」
「はーい」
 ミナコは素直にブラを外すと、ベッドの上に仰向けになった。
 柔らかい乳房は、寝てしまうと美しい形が崩れるのが惜しい。
 診療に集中しようとする創司の心が少し乱れる。
 白い腹部に手を当て、次に耳を当てて腸の動きを探った。
「便秘気味でしょう?」
「よく分かるわねー。さすが名人」
「よしてくださいよ。名人は師匠のほうで、俺はまだまだ修行中の身です」
「でも、私は嵯峨野のじいちゃんより、創ちゃんのほうが相性がいいの。じいちゃん、うまいかもしれないけれど、なんか雰囲気が怖いんだもん。触られると、ちょっと身体が固くなっちゃう。リラックスできないんじゃ、マッサージにならないものね」
「そうですか……」
 背中が凝っていても、まずは身体の正面から診ていくというのが創司の流儀だった。いや、創司の、というよりは、師匠の嵯峨野のやり方だ。
 首の横から鎖骨の上、柔らかいために両脇に向いてしまった乳房の横……と、ゆっくり指先で触れていく。
 マッサージしていくというよりは、体内の「気」を探っていくのだ。
 短時間で凝りをほぐすには、物理的なマッサージよりも、「気」をうまく動かしてやるほうが効果的だ。
 一日に何人もの客と肌を合わせる風俗嬢の場合、肉体的な疲労からくる凝りに加えて、客から「邪気」を吸い取ってしまうことがよくある。
 多くの客は、単純な性欲のはけ口というだけでなく、様々なストレスや不安、劣等感、満たされぬ想いを癒されようと風俗店にやってくる。無意識のうちに、精液と一緒に精神の汚れを放出したいと願っているのだ。
 だから、気持ちの優しい風俗嬢ほど、そうした客の「邪気」を吸い取ってしまう。客から吸い取った邪気は、彼女たちの体内に(おり)のようにたまっていく。
 ベッドの上に仰向けになったミナコを見下ろすと、白い肌の向こう側に、澱みきった「気」が見える。ミナコの場合は、大体いつも、中極と呼ばれる、恥骨の上約二センチあたりにあるつぼに邪気がたまる傾向がある。
 今回もそうだった。
 他にも、乳房の裏側あたりに(よど)みがありそうだった。創司は、触れるか触れないかくらいの距離を置いて両乳房の上に掌をかざし、自分の気を送り込んだ。
 澱んだ邪気を少しずつ動かすように、そっとマッサージするにつれ、ミナコの柔らかい乳房が、創司の掌の中で独立した生き物のように呼吸し始める。
 はあーっと、ミナコは吐息を漏らす。その吐息と一緒に、体内にたまった邪気が少し外に排出される。
「しつこく乳房にしゃぶりついてきた客がいませんでしたか?」
「そうなのよー。昨日のお客さんに、最初から最後までおっぱいにこだわる変な人がいたのよね。四十くらいかな。頭つるつるに剃っててね。作家だって言ってたけど、本当かな。揉むとか吸うとかじゃなくて、頬とか頭とかをすりつけてくるだけなの。それだけで五分も十分も。最後はなんか気持ち悪くなっちゃって……。でも、そんなことまで分かるの?」
「いつもより乳房に疲れがたまっているようですから」
 創司は敢えて「気」という言葉を避けて「疲れ」や「凝り」と言う。妙にオカルトじみて受け取られたくないからだった。
 信用されないからではない。むしろ逆で、風俗嬢や水商売の女性たちは、人一倍、この手の話に乗りやすいところがある。
 仙道、風水、気功……そのへんの知識をいい加減に切り売りし、インチキ商品を高く売りつける連中も多い。健康の不安につけ込むカルト宗教もある。そうした商売とは一線を画しておきたいという気持ちがあった。
 乳房から下へ少しずつ移動し、股間にたまった邪気を動かそうと、さらに強く気を送る。
 指先は腰から股上のあたりを軽くマッサージしているが、物理的な力で血行をよくするのではなく、指先から気を送り込み、ミナコの体内に澱んでいる邪気を動かす。
 U字溝にたまった汚物が雨で押し出されるように、邪気が動き始めるのが分かった。こうなればもう一息だ。
「じゃあ、うつ伏せになってください」
 ミナコは黙って身体を反転させる。すでに表情は恍惚としている。
 首の後ろから背中の上部にかけて、前よりも脂肪が付いていた。この脂肪もくせ者で、風俗嬢の場合、不規則な生活やストレス発散のための暴飲暴食が原因で太ることが多い。自然に年輪を加えた身体の丸みは年相応の色気にもつながるが、風俗嬢が少しずつためていく脂肪には邪気が宿りやすい。
 上腕部を揉み、背骨の両側を下に向かってマッサージしていく。指圧のように強くは押さない。指圧で効果を上げるには時間が足りないからだ。
 背中側にたまった邪気をもみほぐすようにイメージしながら、指は腰のほうへと下りていく。
 ミナコが軽く鼻を鳴らした。すっかり身体がリラックスしている。
 この瞬間にも、邪気は鼻の穴を通って外へ排出されているはずだ。
 Tバックのショーツは、後ろから見れば、履いていないも同然だった。
 その光景に惑わされず、尻の中心部を軽く指圧する。
 次に掌で円を描くようにもみほぐしながら、やはり邪気を動かすようイメージする。
 仰向けになっていたときに動かした邪気の塊が、股間のほうに下りてきている。背中側から集めて押し下げてきた邪気と合体させ、ひとつの大きな邪気の塊にまとめたところで、最後の作業に入る。
 Tバックのストリングスの間から、かすかに左の中指を滑り込ませる。しかし、軽く触れるだけで、決してそれ以上は挿入しない。
 出口はこちらだと言い聞かせるように、指先に気を込め、ミナコの股間にたまった邪気を吸い寄せる。
「あ……あう……」
 眉間に小皺を寄せて、ミナコはため息を漏らす。
 その瞬間、膣口から、煙が吸い出されるように、邪気の塊が出てきた。
 これが「見える」ようになるまで、五年の修行を要したわけだが、嵯峨野に言わせれば、五年で邪気が見えるようになる者などいないそうだ。達人と呼ばれる嵯峨野ですら、十年以上かかったという。つまり、創司には嵯峨野以上の才能があるらしい。
 問題はこの瞬間だった。
 ミナコの体内から抜け出した邪気を自分の身体が吸い取ってしまわないよう、全身の「正気」を結集させ、跳ね返す。これを嵯峨野は「気を張る」と表現する。
 気の張り方が中途半端だと、ミナコの身体は楽になっても、抜けた邪気が創司の体内に入り込み、今度は創司自身が体調を崩してしまうことになりかねない。
 修行の初期段階では、何度もこれにやられ、寝込んだものだ。
 ミナコの体内にたまっていた邪気は、いつになく強く、しつこかったが、幸い、うまく跳ね返し、部屋の中の空気に逃がすことに成功した。
 邪気は水に溶ける。
 創司はそこで慢心せずに、空気中に拡散しようとする邪気をバスタブのほうに誘導し、シャワーの水で排水溝に流した。
 うまく治療できた安堵感から、思わず軽い吐息が漏れた。
 気を張っていた状態から、自分の身体の状態を少しずつ元に戻す。
 シャワーから水を流している創司を、半ば放心状態になっているミナコが不思議そうに見つめている。まだ、言葉を発するまで意識が戻っていないようだ。
 そのとき、ドアの外を誰かが走っていく気配がした。こういう場所では、走るという行為はそうそうあることではない。
 ミナコが不安そうな顔をした。
 どこかの部屋で、客が無茶な要求をし、女の子がフロントに助けを求めたのだろうか。
 高級店のほうが、タチの悪い客は多い。高い金を払っているんだから、どんなリクエストにこたえるのも当然だという顔をする。薬をやっている客が紛れ込むこともある。
 嫌な予感は的中した。しばらくすると、ドアがノックされた。
 ドアを開けると、店長が真っ青な顔で立っていた。
「血を止められるか? 隣の部屋で、お客さんが血まみれなんだ」
「見てみましょう」
 創司はすぐに店長の後に続き、隣の部屋に入った。
 入口のそばに、リリーが放心状態でへたりこんでいた。バスローブさえ羽織っていない全裸のままだ。
 部屋の奥を見やるなり、創司は思わず息を呑んだ。
 奥のベッドの脇に、全裸の中年男が倒れていた。男の周囲だけではなく、部屋中に血飛沫が飛び散っている。一目で、動脈が切れたことが分かった。恐らく即死だろう。
 男の右手には、刃渡り十センチほどのナイフが握りしめられていた。血糊をなるべく踏まないようにして近づくと、右耳の下から、まだ血が流れ出していた。
 それにしてもよくここまで見事に切れたものだ。切ると言うよりは、耳の下にナイフを突き刺して引き抜いたのだろう。相当の思い切りと「技術」が必要だ。
 一応脈を確かめてはみたが、もちろんなかった。
「どうしたんです?」
 創司は諦めて、リリーに訊いた。
「どうもこうもないわよ。終わってヽヽヽヽ、上がり湯の準備をしていてちょっと目を離したら、こうなってたのよぉ……」
 リリーはかすれた声で言った。
「自殺ってことですね?」
 返事をする代わりに、リリーはしゃくり上げるように首を上下させた。
「冗談じゃないぜ。なんでこんなところで」
 店長の声も、興奮と怒りで少しうわずっていた。
「救急車より警察ですね。完全に死んでますから」
 創司は冷静に宣告した。

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△△◎▽▽
 警察の事情聴取などがあり、創司が六砂堂に戻ったのは九時半に近かった。
 死んだ男は民放テレビ局のプロデューサーということだった。
 リリーの話では、最初から暗い顔つきをしていたが、それでもしっかりやることはやったらしい。ナイフをしのばせたまま店に入り、セックスをした後、素っ裸のまま自分の首に突き立てたということになる。どう考えても理解できない。
 心臓発作で腹上死したり、滑って頭を打って死ぬ客というのはたまにいるが、わざわざソープランドに客として入り、頸動脈を切って自殺する客というのは前代未聞だ。警察でも、この異様な事件の処理に頭を悩ませていた。
 可哀想なのはリリーだった。彼女はまだ警察にいる。
 どういうサービスをしたのか、どういう体位でしたのかということまで、根ほり葉ほり訊かれているはずだ。
 六砂堂では、嵯峨野が待ちかねていた。
 電話で事情は簡単に話していたが、戻るなり、すぐに何があったのか訊かれた。
 最初から、なるべく簡潔に説明した。
 嵯峨野は黙って創司の説明を聞いていたが、しばらくして、ぼそりと言った。
「シャブ中毒とも思えんな。死体を見てみたいもんだ」
「血まみれでした」
「馬鹿野郎。そんなことは分かってる」
 嵯峨野はそう言うと、立ち上がった。
「遅くなったが、今夜の『伝授』を始める」
 そう言ってさっさと二階に上がっていった。
 創司もすぐ後に続いた。
「始める」
 狭い治療室の中に胡座をかき、嵯峨野は宣言した。
「はい」
 創司は姿勢を正した。
「ちょうどいい。自殺について話そう。躁の自殺と鬱の自殺についてだ」
 嵯峨野はいつもの『伝授』の口調になって、話し始めた。
 普段はぶっきらぼうな口調だが、伝授のときだけは、琵琶法師のように一人で滔々と話し続ける。
 創司は、嵯峨野の話のリズムを崩さぬよう、ひたすら耳を傾ける。
「自殺は、鬱の病が原因だと思われておる。だが、そうとも言えん。
 鬱は、何かをするエネルギーを生み出さない。だが、自殺をするにはかなりのエネルギーが必要だ。今日、首をかき切った男にしても、単なる鬱病の人間の行為とは思えん。そうだろう? わざわざ短刀を用意していき、自分で頸動脈の位置に正確に突き刺したんだ。よほどの精神力が必要だ。剃刀くらいではまず頸動脈までは届かんもんだ。切ったと思っても、その上の静脈止まりで、出血はするが、すぐには死ねん。その男は自分の頸動脈の位置と、その切断方法を正確に知っていて実行したことになる」
 嵯峨野の伝授はいつになく熱っぽかった。
「いつも言っていることだがな、人間は単なる細胞組織の塊ではない。が正常に宿ってこそ、初めてまともな精神活動が成り立つ」
 その考え方は、創司が長い間、西洋医学に対して抱いていた疑問に対する答えでもあった。だが、今夜はいつもとは違う重みを持った響きを感じる。
「この国全体の気が乱れておるんだ。その乱れが、わしやおまえも巻き込み、波長を合わせるよう囁きかける。
 いざというとき、我が身を守れるのは自分しかない。他人の身体を診て、治療する技も大切だが、場合によっては、相手の肉体を直接攻撃する技も必要だ。創司。おまえに以前、人間を一撃で殺す技を教えたことがあったな?」
 急に話が意外な方向に向かった。
「はい。大針で急所を刺す方法ですね」
 創司は緊張しながら答えた。
 大針というのは、普通の針治療に使う針よりもはるかに太くて長い、特殊な針だ。それを頸椎の間に素早く打ち込む殺人技は、テレビドラマの『必殺仕事人』で有名になった方法だが、実際にはあんな風にスマートにはいかない。頸椎の間は特に難しいが、他の急所でも、瞬時にして探り当て、そこに正確に針を打ち込むのは至難の業だ。
 しかし、嵯峨野はそうした一種の殺人術なども、ときに創司に「伝授」した。雑談というには熱心すぎるほどの口調で殺人術を語るときの嵯峨野には、一種鬼気迫るものさえ感じられた。
「刃物を隠し持った狂人が、何食わぬ顔でそのへんを歩いている世の中だ。使わぬにこしたことはないが、錆びつかせぬようにしておけ」
「はい」
 創司は納得できぬまま、返事をした。
 
 日付が変わろうとする頃、嵯峨野はようやく伝授を終え、家に帰っていった。
 店の二階に一人残された創司は、昼間は患者の治療用に使っている煎餅蒲団の上に横たわる。
 患者たちが残していった匂いは、毎晩少しずつ違う。
 特に、性風俗店や飲み屋で働く女性たちが残していった匂いは、独特の邪気を含んでいる。最初の頃は気になってなかなか寝つけなかった。
 今ではすっかり慣れてしまったものの、その夜は久々に、蒲団に残された匂いが気になった。
 そのときになってようやく、ベルベットに行く前、宇川が少女と怪しげな取引をしている現場を目撃したことを嵯峨野に話しそびれたことに気づいた。
 その後遭遇したソープ客の凄絶な自殺事件に比べれば、そんなことはどうでもいいことかもしれない。どっちみち宇川は解雇されたのだから、今さら何をしていても関係ない。しかし、どうも二人が何かを売り買いしていたシーンが気になって仕方がなかった。
 思い出そうとしながら、創司は、二人の行為よりも、あの少女の存在そのものが気になっている自分に気づいた。
 今思えば、あの少女は、今までに体験したことのない「気」を発していた。その気の正体を知りたいという気持ちが抑えられないでいる。
 この部屋にある唯一の家電品と言ってもいいトランジスタラジオのスイッチを入れると、最近、都会では自殺者が急増しているという話が流れてきた。
〈千葉県銚子市にある老人ホームでは、ここひと月の間に立て続けに五人ものお年寄りが自殺しました。
 また、この春以降、政財界の長老と呼ばれる人たちの自殺も相次いでいます。山岸証券元会長の鈴木徳治郎さん七十七歳。参議院の古参議員で、経済通としても知られていた音山育朗さん七十九歳。戸野川建設取締役の平丘政次郎さん七十四歳。いずれも高齢ではあるものの、病気や仕事上のトラブルなどは見あたらず、周囲の人たちは異口同音に、なぜ自殺しなければいけなかったのかと、首をひねっています。
 なぜ理由の見あたらない自殺が急増しているのでしょう?〉
 アナウンサーが淡々とした口調で語るのを、創司は横になったまま聴いていた。
 ラジオを切った後も、しばらくは闇の中で、創司は寝つけないひとときを過ごした。
 壁の外は、眠ることのない街・歌舞伎町。
 どこかから、また救急車のサイレンが聞こえてきた。

△△◎▽▽
 銚子道路をまっすぐ犬吠埼に向かって走ると、やがて一般道になり、〈犬吠埼入口〉という交差点に出る。
 特殊車両を示す88ナンバーをつけた黒塗りの大型乗用車は、その交差点をさらに突っ切って行った。
「さっき見えた老人ホームの案内看板には、今の所を右折と書いてあったね」
 後部座席右側に座っていた(たかさご)克矢(かつ)警視は、運転する千葉県警の(はっこう)警部補に声をかけた。
「いえ、あれは別のホームです。あっちは特別養護(とくよ)老人ホームでして、市の施設なんです。自殺者が続出したホームは、一昨年できたばかりの新しいホームでして、公費でやってる老人ホームとは違うタイプだそうです。名前もオーシャンヴィラ・ロワイヤル銚子という長い名前でして」
 八光警部補は、シャツの袖口で額の汗を拭いながら答えた。口癖なのか緊張からか、「でして」がやたらと多い。
「リゾートマンションみたいだな。金持ち相手のやつ?」
「そうですね。私らもあまりこっちには来たことがないもんでして、よくは知らないんですが……」
 警部補は自信なさそうな声で答えた。
 助手席には、もう一人、県警の刑事が座っている。後部座席には高砂の部下である荒木警部もいた。高砂と荒木は警視庁の公安部特殊捜査班という部署から来ていた。県警の刑事たちにしてみれば、やりにくいゲストだった。
 車はやがて狭い道に入り、さらに何回か目立たない交差点を曲がって、ようやく目的地に着いた。
 海岸からは少し離れているが、高台に位置しているために、太平洋が見渡せる。周りには雑木林と、あまり手入れされていない畑があるだけで、殺風景な場所だった。蝉時雨がかえって寂しさを印象づける。
 しかし、できたばかりというだけあって、建物は立派だった。二階建てだが、まさにリゾートホテルのような豪華な外観を誇り、海側に背を向けるようにしてL字型に建っている。
 車は誰もいない広場にそのまま入り込み、停車位置を気にすることもなく停められた。
 県警の刑事二人の案内で、高砂と荒木は老人ホームの中へと案内された。
 理事長室という部屋でしばらく待たされている間、高砂は県警が用意した報告書を読み返していた。
 ファイルの頭には、「銚子老人ホーム連続自殺事件」と記されている。ここひと月の間に、このホームで生活していた五人の老人たちが次々に自殺を遂げたのだ。
 首吊り、崖から海への身投げ、果てはチェーンソーで自分の首を切断するなどという派手なものまで、方法はまちまちだった。
 老人の自殺自体は珍しいことではない。だが、短期間に五人の自殺は多すぎる。しかも不思議なのは、その五人は、ホームの中でもとびきり社交的で明るく、健康状態にも特に深刻な問題がなかったことだった。
 このところ、都内を中心に自殺者が急増している。それも、大会社のオーナーや長老格の政治家など、裕福で名のある人物が多かった。どのケースも、自殺する理由がまったくと言っていいほど見あたらない。
 自殺した男性と関係があったと見られる女性たちも、相前後して自殺、あるいは失踪していた。六十八歳の会社オーナーに囲われていたと噂される三十歳年下の愛人。古参参議院議員の若い女性秘書。あるいは銀行頭取とつき合いがあったと言われるクラブのホステス。そしてそのホステスがつきあっていた若いホスト……。連鎖反応のように、交友関係に沿って、理由の分からない自殺が相次いでいた。
 普通なら公安の特捜班が自殺事件に乗り出すことなどないのだが、これだけ不可解な自殺が続く背後には何か重大な秘密が隠されているのではないかということで、異例とも言える捜査が始まったのだった。
 それにしても、千葉の外れにある老人ホームでの連続自殺が、都内で起きた一連の金持ち自殺と関係があるのだろうか。
 このホームは裕福な老人たちを相手にした営利施設だから、その意味では都内の金持ち自殺とも関係があるかもしれない。だが、日本全国に散らばる有料老人ホームで、連続して入所者が自殺したのはこのホームだけなのだ。
 県警が用意した資料の中に、ホームの資本金出資者リストというものがあった。
 株式会社全由薬品、全由ケミカル工業株式会社、ハイパーライフラボ株式会社……。
HLL(ハイパーライフラボ)……あの会社か……」
 高砂は十年前、まだ警視になる前に捜査した厚生省官僚の汚職事件のことを思い出した。
 そのとき、ドアが開いた。
「お待たせしてすみません。(わきもと)です」
 高級老人ホームの理事長という肩書きから想像していたよりもずっと若々しい声に顔を上げると、派手なアロハシャツを着た男が入ってきた。高砂自身よりも明らかに十歳は年下、つまり、まだ四十代半ばくらいだろうか。
 ソファから立ち上がりながら、高砂は思わず相手の顔を凝視した。
 相手もすぐに気づいたようだった。
「これはこれは……。こんなところでまたお会いするとは……」
 不動産屋の営業課長のような顔には、ラフなスタイルがまるで似合わない。理事長は、口元を斜めに歪め、苦笑しながら言った。
「まったくですね。製薬会社の広報部長から老人ホーム経営に転身ですか」
 高砂はそう言うと、相手が答える前に、さっさとまたソファに腰を下ろした。
 一緒にいた三人の刑事たちは、みな一様に不思議そうな顔で、二人を見比べていた。
「経営と言っても、私はただの雇われ者ですよ」
「さっそくですが、ハイパーライフラボがこのホームに納入していた商品リストを見せてください。特に医薬品関係は詳細なものをね」
 高砂はそれ以上は挨拶もせず、いきなり理事長にそう告げた。
 理事長は当惑した表情で高砂を見つめた。
「どういうことですか?」
「今言ったとおりです。HLLがこの施設に納入していた医薬品リストを見せてくださいと言ったんですよ。紛らわしい表現はしていないはずですが」
「入所者の自殺について調べにこられたんじゃないんですか?」
「そうですよ」
「それとHLLとどういう関係があるんです?」
「それはこれから調べます。あなたは私のリクエストに応えていただければそれでいい」
 理事長は憮然とした顔で高砂をしばらく見つめていたが、やがて静かな口調で答えた。
「分かりました。まあ、お気の済むように」

△△◎▽▽
 西武新宿駅方向へ斜めに抜ける狭い路地に、小料理屋「(うおちょう)」がある。
「こんにちは」
 店先で魚を焼いていた女将(おか)に声をかける。
「ああ、(そう)ちゃん。ちょうどよかった。食べたら五分くらい、いい?」
 女将は創司の顔を見るなりそう言った。今時、手ぬぐいを姐様かぶりにしているというのも珍しい。
「はい」
 創司は狭い店の奥に進み、勝手知った調理場にすっと入る。去年還暦を迎えたという店の主が、忙しそうに皿に刺身を盛りつけていた。
「すみません。またお世話になります」
「おう」
 会話はそれだけだ。
 この店を切り盛りしている本多夫妻は、二人とも六砂堂の馴染み客だった。
 創司は食器戸棚から茶碗を取り出し、炊飯ジャーから飯を七分くらい盛って、カウンターのいちばん奥に座った。
 おかずは、自分が買って置いてもらっている瓶詰めの佃煮や、前日の付きだしの残りなどを適当につまむ。店の冷蔵庫から、生卵を一つもらうこともあるし、来る途中の店で買った納豆や豆腐を持ち込むこともある。
 店に代金を払ったことはない。その代わり、時折マッサージをしてあげる。
 生薬の調合や見立ては、まだまだ師匠の嵯峨野に遠く及ばないが、指圧と鍼の腕は、並みの指圧師、鍼師よりも上だという自負はある。
 ただし、創司には鍼灸師の資格がない。
 職業としての鍼師、灸師、マッサージ師は、厚生労働大臣が認定する医療資格である。嵯峨野から学んだ知識や技術をもってすれば、資格を取ること自体は簡単なことだが、創司は敢えて資格を取らないでいた。
 嵯峨野が「伝授」と呼ぶ教えは、一般に鍼灸師学校で教えることとはかなりかけ離れた部分もあった。仙道や気功に近いかもしれない。創司にとって、そうした「非公認」の世界を探求することは、国家資格を取ることなどよりはるかに魅力的で価値のあることだった。
「絵描きや詩人に国家資格が必要か? わしの術は、お上に認めてもらうようなちゃちなもんじゃない」
 そう言う嵯峨野自身は、鍼、灸、マッサージ、すべての国家資格を持っているのだが、そのことを恥だと思っている節もあった。

「これ、うまいぜ」
 主人が、小皿に目刺しを二匹のせて持ってきた。
 ふと見上げ、目が合った主人の顔に、いつになく深い疲労の色が浮かんでいるのを、創司は見逃さなかった。
 ただの肉体的疲労ではない。もっと精神的なものだと感じられたが、言葉には出さなかった。
「すみません。いただきます」
 それだけ言うと、創司は出された二匹の目刺しに箸をつけた。
 若いのに小食だと、最初の頃は主人や女将にずいぶんと心配されたものだ。
 質素な食事は、師匠の嵯峨野に教え込まれたもので、言ってみれば修行の一環である。
 仙道の基礎的な術に「小周天」というのがある。身体の正中線に沿って、体内の「気」をぐるりと移動させていくというものだ。毎日これをやっていると、自然と体質が小食になる。
 主人も女将も、そうした細かいことは分からないが、創司が修行中の身であり、あまり食事をしなくても平気らしいということは、なんとなく理解している。だから今では「もっと食べろ」などということは一切言わない。
 食事が終わり、使った食器を自分で洗って片づけると、女将が待ちかねたようにやってきた。
 店の奥に入り、指圧と整体を混ぜたようなマッサージを施す。
「ああっ。効くわー……そこ……あ……」
 気持ちよさそうに声を出す女将の髪は、魚臭かった。
「うまくなったねえ、あんた。嵯峨野先生に負けない腕だよ」
「とんでもないですよ。まだまだ修行中の身です」
「そうかい? もう何年になるかね、嵯峨野先生のところに弟子入りして」
「もうすぐ丸五年です」
「じゃあ、腕も上がるはずだね。あの、宇川って店員も弟子なの?」
 女将が宇川の名を口にしたので、創司はどう答えていいものか迷った。
「いえ、宇川さんは鍼灸はやりません。で、彼は先日辞めました」
「え? そうなの。辞めたのかい。なんかねえ、根性が足りない顔してたもんね。神主の息子だって聞いたけど、それにしちゃあ俗物だよねえ」
「神主の息子?」
 初めて聞く話だったので、思わず問い返した。
「お店に入ってきた頃、本人から聞いたことがあるよ。父親は、埼玉の小さな神社の神主だとかなんとか。どうでもいいことだけどね。あの男に比べちゃ失礼だけど、とにかく創ちゃんは偉いよ。嵯峨野先生が惚れ込むのも無理はないわ」
「やだな。誉めすぎですよ」
 創司は、宇川がいつから店で働いていたのかよく知らない。五年前、嵯峨野に弟子入りを志願してやってきたとき、すでに宇川はいた。他に店員はいなかったが、性格が合わないので、仕事以外のことでは、あまり話をしたこともなかった。
 店に新たな客が入ってきたので、女将へのマッサージはそこでおしまいになった。
 店の奥で客の邪魔にならないよう、創司は自分で茶を入れて飲んだ。
 この数分間が、一日のうちでいちばんリラックスできる時間だった。
 女将との会話の続きをたどるように、創司はふと、嵯峨野に弟子入りするまでのことを想い出していた。

 創司は、もともとは医学部の学生だった。
 父親は長い間大学病院で勤務医をした後、五十近くになって病院を辞め、地方都市の住宅街に小規模な医院を開業した。一人息子の創司に後を継がせたいという思いが強く、医学部以外の受験を認めなかった。大学も、自分の恩師がいる国立大学を第一志望にするようにと強く主張した。
 創司も一応はその期待に応え、父親の望みどおり、その国立大学の医学部に現役で合格した。成績も優秀だったが、時が経つに連れ、そのまま医者になる人生を受け入れがたい気持ちが強くなっていった。
 これは自分の人生ではなく、父親の人生の延長ではないか──。
 そもそも、創司は物心ついたときからずっと、自分の父親に言いようのない違和感を抱いていた。
 まず、風貌が似ていない。性格や習癖も、親子だと共感できるところがひとつもない。価値観もまるで違う。
 母親は父よりも十歳若かったが、従順なだけのつまらない人間だった。父親は、時折創司に、おまえの優柔不断なところは母親に似た、と愚痴をこぼした。
 創司もそれを感じることがあったので、そう言われてよい気持ちはしなかった。確かにそうだ。自分が今、医学を学んでいるということこそ最大の「優柔不断」だろう。
 学部在籍中は中国拳法のサークルで主将を務め、拳法の技を磨くことで気を紛らせた。
 女子学生にももてたし、適当に遊んでもいた。そのうちに、結婚を真剣に考えてもいいと思える恋人もできた。
 ジーンズがよく似合う、細身の美人。父親は医薬品メーカーの重役で、友人たちからもお似合いのカップルだと羨まれていた。
 医師免許試験の申し込み期限直前になって、彼女に「どうしても医者になる気持ちが固まらない」と告白した。彼女は驚き、説得を始めたが、それが効かないと悟ると、最後はこう言い残して去っていった。
「今はそんなこと言っているけれど、十年後、結局あなたは医者になっているはず。でも、そのときは、私はもうあなたの前にはいないのよ。それでいいのね?」
 今でも時折彼女の夢を見る。だが、彼女にはそれっきり会っていない。
 
 創司は公言したとおり、学部の全課程を修了してからも、国家試験は受けずに、そのまま大学の研究室に居残った。
 担当教授は柄尻(えじ)隆二といい、創司の父親がかつて世話になったというのはこの教授のことだった。
 柄尻は通常の定年を過ぎていたが、名誉教授として大学に残っていた。感染症の専門家としてだけでなく、DNAの研究でも日本では第一人者であり、大学の看板でもあった。
 柄尻研究室は、学内でも特別な存在だった。専用の設備を与えられ、各地から優秀な人材が集まっていた。医師だけではなく、生化学者、物理学者まで出入りしていた。
 当時、創司は人間の身体を切り刻むという発想に疲れていて、医学とは直接関係のない、アンモニアの電子構造やインシュリンのアミノ酸構造などというものを勉強しながら、DNAとは何かというようなことを漠然と考え始めていた。それも、今思えば、自分から興味を持ったということではなく、大学に居残るための口実に近かった。
 そんなある日、DNA研究班の班長を務めていた柄尻の息子・(けいすけ)が、創司を捕まえてこう言い渡した。
「君は逃げている。我々の究極の目的は人間のDNAを解明することだ。ヒトゲノム計画は世界中で進んでいる。これは競争だ。解明された順にどんどん特許申請がされている。君は優秀なんだから、もっと核心を突くテーマに取り組んでくれなければ困る。明日からは、血液研究班に加わってくれ」
 柄尻研究室には、DNA研究用のサンプルとして、膨大な種類の血液保存庫があった。輸血などに使うわけではなく、あくまでもDNAの研究に使う目的で、大学付属病院から分けてもらったものの他、学生や教授が自らの血液をサンプルとして提供していた。
 ある日、研究のために、その血液サンプル保存庫に入る機会があった。血液提供者リストを検索していると、自分と同じmoriyasu という名前があることに気づいた。
 調べると、それは自分の父親の血液だった。父親はかつて柄尻の下で研究していたから、そういうものがあっても不思議ではない。
 そこでふと思い立ち、父親の血液サンプルを少量盗み出してDNA鑑定をしてみた。結果、半分予測していたとおりの答えが出た。
 創司は父親の実子ではなかったのだ。
 どういう理由で守安家の長男として育てられたのかは分からない。だが、はっきりしていることは、自分と父親とは血がつながっていないということだ。
 創司はその事実を知って、むしろほっとした。
 父親に対して抱いていた違和感も、これで説明がつく。
 そのことについて、創司は両親を問いつめることもなかった。
 
 それ以降、創司はますます研究からは逃避するようになっていった。
 柄尻桂佑は、そんな創司を許さなかった。
 ことあるごとに叱りつけ、提出したリポートを無視するなど、いじめに近いような仕打ちをすることもあった。
 創司は、もともと桂佑とは相性が悪かった。一度、他の学生から、桂佑と顔の輪郭が似ているなどと言われたことがあったが、とても心外だった。髪をきっちり七三に分けている桂佑とは正反対になろうと、わざと長髪にしたほどだ。
 ある日、桂佑は、医学部の学部生たちを実験室に集めて特別授業をした。そこに助手として創司も同席させられた。
 内容は、ウサギの殺し方だった。
「ウサギはこうやって殺すんだ」
 桂佑は二匹用意したウサギのうち、一匹の耳を無造作に掴んで抱えると、プラスチックでできた筒状の保定器に入れた。そして、頭だけ出されたウサギの耳の血管に空の注射器を刺し、空気を注入した。
 ウサギはほとんど身動きできない筒の中で必死にもがこうとしていたが、やがて、ぐったりと動かなくなった。
「昔はこういう便利なものがなくてね。バタバタ暴れるウサギをしっかり抱え込むのにはそれなりの技術が必要だったが、今は軟弱にこんな風にして殺すわけだ。OK。じゃあ、君たちの優秀な先輩・守安君に手本を示してもらおう。よく見ておきなさい」
 そう言うと、柄尻桂佑は、二匹目のウサギの耳を鷲掴みして、創司のほうに放り投げるようにして渡した。
 創司は怯えるウサギを抱き留めると、静かな口調で柄尻に言った。
「生意気言うようですが、ウサギは耳を持ってはいけません。痛いんです」
 柄尻の目の奥が冷たく光った。
「私はウサギの殺し方を教えているんだ。ペットとしての飼育法を教えているわけじゃない。殺すウサギが痛がろうが苦しもうが意味がない。要は、効率よく殺せればいい。さあ、やりたまえ」
 創司は結局、ウサギを殺せなかった。
 実験室に用意された二匹のウサギは、創司の目の前で殺されていった。「殺し方」をマスターさせるためだけに死んでいったのだ。貴重な実験動物をそんな風に扱うなど、普通には考えられない。柄尻が私的にストレスを発散させたとしか思えなかった。
 その数日後、創司は研究室を去った。

 息子が大学を辞め、医者になることも拒否したことを知って、父親は激怒した。母親はおろおろするばかりだった。
 そのときも、創司は両親に自分のルーツについて訊ねることはなかった。親なんてどうでもいい。親が誰であったところで、自分は自分でしかない。それに、もしかしたら、父親は何も知らないのかもしれない。それならそれでいいと思ったのだ。
 少しの間、アルバイトをしながら適当に暮らしていたが、医学部在学中から、中国拳法を通じて東洋医学に興味を持っていたこともあり、五年前に六砂堂を訪ね、半ば強引に雇ってもらった。
 店の二階に寝るだけの場所を与えられた代わりに、ほとんど無給と言っていいような低賃金。衣類以外のものは、ほとんど所有することも不可能という生活だった。
 そんな生活を心配して、母親が何度か様子を見に来たりもしていたが、今ではもう諦めたようだった。
 父親はその後、急に生きる張り合いを失ったかのように病死し、医院も自動的に消滅した。その半年後、母親も交通事故に遭い、後を追うように死んだ。
 もう、自分のルーツを確かめる術はないし、しがらみもない。
 創司はもうすぐ三十三歳になるが、今の生活が結構気に入っていた。

△△◎▽▽
 無影灯がともる部屋の中で、水色の手術着を着た男たちが、台の上に全裸で横たえられた一人の女性を見下ろしていた。
 顔のほとんどは大きなマスクで覆われ、目にも感染防止用のゴーグルをしているので、男たちの表情は一切分からない。
 手術台の上の女は微動だにしなかったが、死んではいなかった。その証拠に、女の鼻と口は、酸素マスクで被われていた。
「林檎はまだ使えそうか?」
「いえ、ぼろぼろですね。もう、これが限界でしょう」
「黒か。OK。では取り出そう」
 リーダーらしい男の静かな声とともに、作業は始まった。
 執刀医の握るメスが、女の下腹部にあてられ、すっと一直線に引かれた。
 女の乳房が、わずかに揺れた。

 彼女が自分の身体に何が起きているのか、気づくことは二度となかった。  


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