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疾走する男児

 男児は走り続ける。「お友達」を求めて走り続ける。
 はじめに出会ったのはもっと小さな男児。ヨチヨチ歩く姿が愛おしくて思わず抱きしめた。すぐに大きな手が引き剥がした。「ダメ」と言う声に応答して男児はまた駆け出す。勢い余って少し大きな女児に激突した。「やめてぇ」と罵られる。金切り声に応答してまた駆け出す。下り道で加速。バランスの悪い身体はすぐに転倒。斜面であろうとそこに凹凸でもなければ涙は流れない。助けの手が無いことを認識して間もなく立ち上がる。下り坂の先に花壇を見つけた。これは好きだ。煉瓦づくりの縁によじ登る。フラフラ進んでポンッと飛び降りる。上手に着地ができると気持ちがいい。ここに新たな遊びフラフラ・ポンッを発見。男児は繰り返す。花壇の縁によじ登る。フラフラ進んでポンッ飛び降りる。フラフラ・ポンッ。フラフラ・ポンッ。これは好きだ。「お友達」探しをしばし忘れて。繰り返す。繰り返す。ふと見上げれば空高く雲を引く飛行機。とても高く飛ぶ小さなそれを指さし「飛行機」と言う。世界は魅力的で男児は忙しい。 
 そして「お友達」にたどり着く。背格好が同じくらいの男児だ。今度はいきなり抱きつかないように。はじめに思いつく限り「お友達」の名前を呼んでみる。残念ながら「お友達」の名前がそれと同じとは限らない。むしろ同じでないことのほうが多い。案の定「お友達」から応答はなかった。男児は「お友達」に駆け寄る。すると「お友達」は背中を向けて駆けだした。遊ぼうの合図。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きは合致して遊びがはじまる。男児は追いかける。「お友達」と呼び合いながら。喜びの表情を浮かべながら。階段を駆け上り。スロープを駆け下り。縁石を見つけてはフラフラ・ポンッ。風を切って二人は遊び続ける。
 男児のほうが少し元気が過ぎたようだ。「お友達」は息を切らせて座り込んだ。男児はその隣にしゃがみ込む。そして「お友達」抱きしめる。でも「お友達」は知り合って間もない男児に抱きしめられることが嫌い。途端に大人みたいな顔をした。怪訝な顔が大人みたい。「お友達」は立ち上がる。背中を向けて駆けだした。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きが合致すればすぐに笑顔が返ってくる。
 飽きることなく繰り返される遊び。やがて陽が傾く。大きな手が男児をすくい上げた。
 「帰ろう」
 男児はまだ遊びが足りない。無理矢理連れ去ろうとする大きな力の中で懸命にもがく。その力はとても大きくとても暖かい。「お友達」が遠く離れてしまうと男児はとても疲れていることに気付いた。小さな体には遊びが過ぎた。樹洞に眠る椋鳥。夢の中。遊びは続く。

失速するおっさん

 「一気に加速してあとは惰性で走ってください」
 それが電車の走り方らしい。某シミュレーションゲームで仕入れた知識だ。己にも通じるものがあるだろうと、俺は朝マラソンで実践してみる。食事制限で減量に成功して気をよくしていたところだ。
 タンスの奥に眠っていたマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームを引っ張り出し、そいつに袖を通して家を飛び出した。未明の雨もあがり、あたりはまっ白な朝靄に包まれている。俺は二、三度屈伸してから一気に加速した。気分はデイビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム。一〇年も昔に外人の露天商から購入したユニフォームだ。サッカーに関する知識も古ければ、ユニフォームのデザインも古い。その真っ赤なシャツの胸元にはには日本では聞かなくなった携帯電話会社のロゴが刻まれている。
 そして、ベッカムは一気に失速した。息が切れる。歩きたい。否。無心になれ。すれば惰性で走れないこともない。惰性、惰性、無心、無心。心の中で唱えているうち、我に返れば足を引きずって歩いていた。
 朝靄もいつしか晴れ上がり青空が広がる。閑静な住宅街を真っ赤なユニフォームのおっさんが息を切らせてダラダラ歩く。不意に恥ずかしくなり、想定していた順路を逸れ、身を隠すように緑道の中へと入っていった。
 木々に囲まれた空間で幾分かリフレッシュ。息を整えながら歩いていると、ランニングスパッツで無駄のない肉体を晒す青年が颯爽と追い抜いていった。俺は多少の対抗意識を抱きながら再び駆けだす。それでも、また一気に加速するほど学習能力は欠落していない。電車は電車。俺は俺。
 早朝の緑道は如何にも健康的な空気に満ちている。既に遠くを走る若者。重たい体をサウナスーツに包んでウォーキングに励むおっさん。俺はまだ前者でありたいものだと幾分か加速する。おっさんを追い抜いたところで、向かいから犬をつれて歩いてきた老夫婦がにこやかに頭を垂れた。
 「おはようございます」
 俺は咄嗟に声が出ず、会釈でやり過ごす。背後からバリトンヴォイスの挨拶が響いた。
 続いて、ポニーテールを揺すりながらピンク色の可愛らしいウェアを纏った若者が駆けてきた。そこで、俺はまた幾分か加速。目の前には未明の雨でできた水たまり。俺は大きく膝を持ち上げて飛び上がりながら彼女とすれ違う。
 気持ちは確かに水たまりを飛び越えている。が、肝心の足がついてこない。俺は飛沫をあげて着水した。
 「うあ、ごめんなさい」
 反射的に水たまりで半回転、踵をそろえて背筋を伸ばす。そして、75度に頭をさげて、謝罪の気持ちを伝える7秒間。匠の技である。顔を上げると彼女はズボンの裾に小さなシミをつけたまま走り去っていた。どうやら耳がイヤホンで塞がれていたようだ。バリトンの朗らか笑い声を響かせながら、サウナスーツのおっさんが追いぬいていく。俺はうつむいてしばらく水たまりに立ち尽くした。
 靴がグショグショで気持ちが悪くなったなったところで、俺は水飛沫を上げながら三度地団駄を踏む。
 「オ・レ・ハ・」
 最後に大きく飛び上がり両足で着水。
 「オーレィ!」
 一番大きな飛沫をあげた。
 そして、おっさんの背中に向き直り、再び駆けだした。おっさんを突き飛ばすほどの力強さと、遠くを走る若者をも優に抜き去るスピードをイメージしながら、俺は一気に加速した。

宍戸ストロング・イナフ

 E=mc2について自分なりに考察をしてみたと宍戸は切り出した。
 「ほう」
 「結果から言えば、あいつの言っていることは正しいよ」
 「あいつというのは?」
 「おまえ、そんなことも知らないのか。アルベルト・アインシュタインだよ」
 まさかとは思ったが。俺はいい加減に二、三度頷いた。
 スキンヘッドにラウンド髭を生やした店長は、今夜も朗らかな表情で小鉢を差し出す。
 「店長の笑顔は今日もすばらしいね」
 宍戸は恒例のように両手をすりあわせてその恵比寿顔を拝む。店長は恒例の苦笑い。俺はジョッキを握りながら恒例の傍観だ。
 宍戸は小鉢のすじ肉をつまんでクチャクチャと音を立てる。そして、喉越し程良いタイミングでそいつを飲み込むと、カウンターに並ぶ俺に向き直った。
 「でも、おまえの無知を責めちゃいかんよな。俺だって生まれながらにアルベルトを知っていたわけではない。ある時点を境に知ったまでだ」
 いくら何でもあっかんべえしたファンキーな肖像写真とE=mc2くらいは結びつくが、あえて反論はしない。やたらヒトを肯定しようと努めているとき、あいつは決まって婆さんのことを思い返している(詳しくは既刊の「宍戸シング・プライゼス」をご覧いただきたい)。
 「でも、婆さんの肯定っぷりはマジで半端ないからな」
 案の定、何度も聞かされた話をはじめた。何を話しても「そうかい」と目を丸くした婆さん。記憶は薄れていく。置き換えられてゆく。だから、本当に大切なものは何度も繰り返さないといけない。のだそうだ。
 爺さんに先立たれた晩年の婆さんは施設暮らしだった。宍戸は面会の度、婆さんの手を取ってベッドから茶飲み場までを歩いた。
 「一番綺麗な笑顔を見せる瞬間なんだな」
 宍戸は一時の恋でも思い返すように目をうっとりとさせる。
 「その笑顔のためだけに通っていたようなもんだ」
 店長は口元に微笑みを蓄えながら、塩むすびを載せた皿を差し出した。黒々と体毛を生やした剛腕から繰り出される繊細な塩むすび。宍戸は綺麗な正三角形をしたそれを持ち上げ、照明に照らす。適度に握られた米の粒が煌めく。
 「おにぎりというよりおむすびって感じだよな」
 おむすびはおにぎりの女房言葉だという説がある。どちらも握り飯より丁寧だが、比較すればおむすびの方が優しいような気がする。煌めくおむすびに目を細めていると、いきなり口の中に突っ込まれた。
 俺は顰めっ面を宍戸に向けたままそれを咀嚼し、そして、飲み込む。
 「なんか言えよ」
 「うまいね」
 「おまえは本当に何も考えていないよな」
 どうもあいつは俺を肯定できないようだ。
 「おまえは俺の婆さんを気取っているのかもしれないが、婆さんは別に何も考えていなかったわけじゃないぞ」
 他人の婆さんを気取るヤツはそういない。勿論、俺だってそんな気はない。
 「婆さんは俺の話に耳を傾けて、全て納得の上で肯定していたのだ」
 「ちゃんと聞いてるよ。おまえの話は飽きないもんな。相槌すらしなくても話し続けてくれるから全く気が楽だよ。リラックスしているんだ。俺は」
 宍戸は何か腑に落ちない様子で眉間に皺を寄せる。

 「で、E=mc2についての考察はなんなのよ」
 俺は話を逸らすように問いかけた。宍戸は歯型のついたおむすびを皿に戻して話しはじめる。
 「例えば、月に一度の塩むすびが幸せの絶対基準とする」
 そして、手付かずの新たなおむすびを持ち上げた。
 「来月は何個かじれるだろうか。そんくらいシンプルに考えれば、何の迷いもなく生き方は決まってくるというものだ。塩むすび不変の原理とでも言おうか」
 俺は絶句するほか無い。
 「なんか言えよ」
 「無茶言うな」
 どうやら宍戸は何やら悩みを抱えているようだ。


爆音と満月

 音にまみれていないと生きた心地がしないんだ。すました顔で水たまりに浮かぶ満月を眺めるけれど、イヤホンから大量の爆音が注ぎ込まれているよ。
 正論に正論を重ねてまるで隙がない。世界は実に正しすぎる。俺を窮地に追い込む日常をクダラネエナと一蹴する気概もなく、ただただ爆音に耳を預ける。一滴たりとも外には漏れないようシリコン製の耳栓を取り付けた特製のイヤホン。そいつで耳を塞いで、俺はまったく善良なリスナーだ。他人様に迷惑をかけるつもりはないのだ。意志を持たない。衒わない。デカい音だけを追求した音楽を探している。そんなもの音楽ではないというのなら、レールを刻む地下鉄でもいい。油の切れたスクラップ工場でもいい。脳味噌が麻痺するほど鼓膜が震えるものなら、どんな音だって構わない。日常が吐き出す副産物としての爆音。アバンギャルドを衒った退屈な音楽より余程俺の脳味噌を刺激する。
 明日、誰にも見つからないようにそっと地下鉄に下りてみよう。この辺にスクラップ工場はみつからないから。地下鉄の奥深くに適当な安全地帯をみつけて身を丸くしていよう。それはとてもいい思いつきのような気がする。俺だけの安全地帯。できるだけ駅の光が届かない地下鉄の奥深くがいい。
 休日の予定が決まれば幾分か気が晴れた。俺は満月を踏みつけて歩き出す。光の粒が舞い上がり、直ぐに輝きをなくして夜のアスファルトに染み込んでいった。
 しかし、すぐに大きなため息をついて立ち止まる。そして、頭を振る。何が不安かって、きっと明日になればどうでもよくなってしまうことだ。朝日を浴びた俺は駅に向かおうなんて気になれない。地下鉄深くにうずくまるなんてありえないだろう。ならば、もっと素敵なことを考えればいい。河原に季節を探しに行きましょう。なんて。結局、俺は昼過ぎに起き出してテレビを付ける。PCを立ち上げる。一歩も外に出ないでひたすら情報を漁る。面白いことはないか。必要なことはないか。そこに面白いことはない。必要なことなど何もないのに。
 せめてこの夜をもっと満喫しよう。そして、俺は満月を浮かべた水たまりに向き直った。爆音に包まれた穏やかな夜だ。雲のない。風のない。ガラスの固まりのように安定した空気。
 俺は脳味噌に満たされたそいつを吐き出すように、水面に向けて三度声を張り上げた。ぼんやりと月が揺れる。それでは厭きたらず月に跪く。水たまりをまたぐように両手をついて水面に顔を寄せる。そして、もう一度、大声を張り上げる。しかし、そこに満月はいない。そりゃそうだ。水たまりに沈んでいるわけではない。満月は俺の背中に張り付いた。心なしかぼんやり暖かい。そのまま仰向けに転がって空を見上げた。喉は焼けた。満月が俺を見下ろしている。イヤホンを引き抜くと、遠くには消防車のサイレン。アスファルトを削るスケートボード。辺りは思いのほか静かではない。俺は満月に焦点を絞り込み、そこからできるだけ多くの情報を引き出す。俺の脳味噌が全て月光に置換されたなら、まだしばらく穏やかな気持ちでいられそうだ。

覚えがない

 休日のダイニングテーブル。俺は彼女と向き合ってコーヒーを啜る。
 「あんまり覚えてないや」
 口に付けたマグカップをテーブルに置いて、苦笑いを浮かべた。実際のところ全く覚えていないのだ。
 「欲がないのよ。君のいいところね」
 彼女は小さなため息の後、ほのかに微笑んだ。出会った頃はあまりに記憶力の無い俺に呆れていたが、最近ではもう諦めたようだ。そうか、欲がないのか。と、俺も開き直る。それでいて他人の失敗談なんかはよく覚えていてる。要するに性根が曲がっているのだ。
 「でも、なんで忘れるのかしら?あの時だって、君が行きたって言い出したんでしょう」
 あの時とはどの時か。昔の男と間違えているのではないかと訝るが、そうだと言い切れる確証はない。
 「ほら、どこだっけ。何かの跡地がバラ園になってたじゃない」
 かく言う彼女もうろ覚えなのだ。一向に話が進まない。
 「もう一度あそこに行ってみたいのよ。最近、妹の元気がないから、バラ好きなあの子を連れて行ってやりたいの」
 「素敵な兄弟愛だね。姉妹愛って言うのか?」
 是非とも思い出してあげたいところだが、いくら頭をひねっても何も出てきやしない。そもそもなんで俺がバラ園になんかに行きたがったのか。
 「バラ園で検索してみたら?」
 俺の無責任な発言にムッとしたのか、彼女は語気を強めた。
 「君と行ったあのバラ園がいいのよ」
 なんだかいい気分がした。
 そして、それはやはり俺が彼女と二人きりで行ったところなのだと確信する。
 「バラ園じゃなかったかもしれない。確か大使館だか領事館だかの跡地よ。バラの植えられた立派な庭があってね。戦争だか震災だかで廃墟になった洋館の一部が残されてるの。ちょっと感じがよかったのよ」
 彼女の言う風景を思い描いた。誰もいない洋館。色鮮やかなバラの庭園。それは確かに絵になる素敵な場所だろう。小高い丘の上。いくつもの階段を上り詰めたところにそれはある。庭園の隅には見晴らし台があって、ん?
 「ちょっと待てよ」
 「なんか思い出した?」
 彼女は前のめりになって期待のまなざしを向ける。俺は眉間に皺を寄せたままマグカップを持ち上げる。香ばしい湯気を吸い込みながら、苦いだけの汁を啜る。はじめは強がりで飲みだしたブラックコーヒー。やがて癖で飲み続けたブラックコーヒー。今ではカロリーを気にして飲むならブラックコーヒー。
 「あ」
 彼女の薄い唇が半開きになる。
 「ちょっと待って、私も思い出しそう。確か海の近くよ」
 「海の近くぅ?」
 見晴らし台から眼下に広がる大海原。俺は途端に混乱する。
 「海なんかあったのか。あとちょっとのところで分からなくなったぞ」
 「あ、ごめん。じゃあ、今の無し」
 「無しって、あったんだろう?」
 「分からないわよ。ふとそんな気がしただけ」
 本当にそれは実在する場所なのか。彼女の妄想に付き合わされているだけのような気もするが確信が持てない。嗚呼。己の健忘癖が忌々しい。
 その絵になる素敵な場所は、実際に絵だったのではないかとも考えられる。美術館で見た作品と記憶違いをしているのではないか。かつて、モネだのルノアールだの印象派の作品を集めた絵画展を見に行ったことがあった。その中にそんな一枚があってもおかしくない。
 「ルノアールとかの絵なんじゃないのか?」
 「なにそれ。喫茶店?」
 俺は途端に口を閉ざす。考えてみれば、彼女と印象派の絵画展など行くはずがない。なにせ座右の銘は「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」である。廃屋とバラならば廃屋を愛でるに違いないシュルレアリストだ。
 「あ」
 再び薄い唇が半開きになる。
 「思い出したわ。やっぱり海よ。誰もいない洋館。色鮮やかなバラの庭園。小高い丘の上。いくつもの階段を上り詰めたところにそれはあるの。庭園の隅には見晴らし台があってね。そこから港が見えるのよ。港って言うかガントリークレーンが並んだコンテナターミナルよね。コンテナターミナルが見える丘の公園よ」
 彼女は目をキラキラさせながら、両手を頭上に結んでしなやかに体を反らす。
 「嗚呼、スッキリ。週末、車出してくれるわよね」
 「あ、うん」
 俺はまるでスッキリとしない頭をかきむしりながら、曖昧に頷いた。
 その公園に行ったのは本当に俺なのか。
 一緒に絵画展へ行ったのは一体誰だったのか。
 とりあえず忘れてしまおうと、俺は話を逸らす。
 「ガントリークレーンって何?」


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