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ロンサム ロンサム

 「名前は知らんが、顔が出て来んな」
 ハンドルを握りながらオッサンは呟いた。何を悩んでいるのか。何も分からないじゃないか。
 「でも、郵便番号は分かります」
  俺はおどけて言う。
 「おまえ何言ってんだ?」
 オッサンは自分の間違いに気付いていないようだった。盲目の天才バイオリニストが板に付いてきたせいか、随分と耳が鋭敏になっていた。それにしれも、オッサンはよく言い間違をした。
 俺たちは街道沿いに軽ワゴンを走らせ、一儲けした金でちょっとした中華料理屋に入った。円卓に並ぶ料理を前にオッサンは随分と機嫌がいい。
 「おい、このウケッコウのスープはうまいぞ」
 「ウコッケイ」
 すかさず訂正すれば、オッサンは人目を憚ることなく大口を開けて笑う。
 「結構!結構!」
 俺は満面の苦笑い。ただでさえ機嫌が悪かったところに追い打ちだ。
 「箸が進んでないじゃないか」
 「俺は天津飯が食いたいと言った」
 なんでも食わせると言っておいて、テーブルがグルグル回るややこしい中華料理屋に入るのが間違っているのだ。
 「あんなオムライスを雑炊にしたようなものの何がうまい?」
 オッサンが思い浮かべているのは、関東風のケチャップあん仕立ての天津飯だろう。あんな品の悪いものだったら俺だって望んじゃいない。透き通る出汁あんがかかった、あの芸術的な天津飯ならいくらだって食えるだろう。
 「中華丼のほうが栄養があるぞ。お前みたいに怒りっぽい奴はミネナルが足りんのだよ。雑炊オムライスなんざ餓鬼の食いもんだ」
 餓鬼を捕まえて餓鬼と言うな。俺は言い返す気力もなくウズラの卵を口の中で転がした。
 俺とオッサンの出会いは、ちょっと変わったものだった。
 一月ほど前のことだ。俺は地元の音楽家の名前を冠にしたコンクールで金賞を受賞し、バイオリンの神童と賞賛された。好きこそ物の上手なれと言うが、好きでもないのに受賞したのだから、ある意味では評価されてもいいだろう。競争意識だけで勝ち取った金賞。そんな奴が高みを望んだところで先が見えている。俺は見切りをつけて町を出た。それでも、バイオリンは持って行くことにした。旅をする上で金になると考えたからだ。
 はじめて親に無断で列車に乗り込んだ。最初はまわりの視線を気にして、しばらく車内に背を向けてドアにぴったりくっついていた。しかし、所詮は自意識過剰なローカルヒーローだ。誰も俺の存在を気にする様子はなかった。途端に恥ずかしくなり適当な駅で列車を降りた。
 その日の身銭を得るため、俺は駅前でバイオリンケースを広げてた。そして、百円玉を三枚転がして演奏をはじめる。一度、こういうことをやってみたかったのだ。手始めに少しピッチを上げたG線上のアリア。すぐに通行人は足を止め、俺の演奏に耳を傾けた。たまに百円玉投げ込むヒトもいた。とても気分が良かったけれど、長くは続かなかった。
 人垣が消えたかと思えば、目の前に婦人警官が立っていた。
 「ご両親は?」「おうちは?」「学校は?」
 いきなりの質問の嵐にウンザリすると、大きな声で名前を呼ぶ声がした。
 「おい、カツヲ!」
 俺はそんな名前ではない。にもかかわらず、眉間に皺を寄せたオッサンが勢いよく歩み寄り、いきなり俺の頭をひっぱたいた。続いて、頭を鷲掴みにして何度も上下させながら「スンマセン、スンマセン」と連呼する。最後にもう一発頭をひっぱたいた。
 突然の出来事に唖然とするうちに、婦人警官は去っていった。そして、オッサンは俺の顔をのぞき込む。
 「おまえ、カツヲじゃないよな」
 「なんなんだよ」
 「俺は警官になろうなどという女がもっとも好かんのだ」
 そして、オッサンは急に黙り込んで顎を撫でた。
 「おまえ見たことあるな」
 俺は慌てて目をそらす。すると、オッサンは胸に挿していたサングラスを差し出した。俺は何のことやらよく分からず、オッサンを見上げた。
 「気にすんな。万引きしたサングラスだ」
 そのどうにもだらしない風貌は新鮮だった。俺はサングラスを受け取り、自分にはじめて覆面をした。オッサンが笑いかける。
 「おい神童、おまえは今日から盲目のバイオリニストだ」
 それから俺とオッサンの付き合いははじまり、天津飯のない中華料理屋に至る。
 俺はウズラの卵を噛み砕いて、食いたくもない中華丼をかき込んだ。でも、演奏後の空きっ腹にはなんでも旨かった。オッサンは満足げに頷いた。
 「見てんなよ。食いにくいだろ」
 「中華丼のほうが旨いだろう」
 俺はいい加減に首を振る。
 「で、誰を探してんのよ?」
 オッサンは眉を持ち上げた。
 「さっき、顔が分かんないとか、名前が分かんないとか言ってたろ」
 「そんなこと言ったか?」
 俺は噛みきれないイカを飲み込みながら頷いた。
 「自分探しかな」
 「殴っていいか?」
 「怖い怖い」
 オッサンはそう言ったきり、かかってくることのない携帯電話と向き合った。
 「さっさと食いな。今日の移動は長いぞ」
 俺たちは、食事を済ませてワゴンに乗り込んだ。助手席にはシートベルトをしめたジャンベが置かれている。その特等席には誰も座ることはなく、俺は決まって後部座席だった。
 明日は海辺の老人ホームでの演奏が決まっていた。老人ホームの仕事は初めてではない。俺たちの噂が広まってきたのか、連日の演奏ははじめてだ。
 「老人ホームに顔があるといいぞ。近い将来、きっと保育園なんて比じゃないくらい倍率が高くなる」
 「まだ老人ホームって歳でもないでしょう?」
 個人に関する問いかけには、決まって返事がなかった。
 まずは海へ向かう。そこから真っ直ぐ北上すれば目的地だ。海に出るまで三時間。そこで一度ワゴンを止めた。オッサンはジャンベを抱えて運転席を下りる。俺はバイオリンを握って後に続く。適当な岩を見つけて腰掛けると、ジャンベを足で抱えてアフリカンビートを刻みはじめた。そこで、俺は知る限りのクラシックナンバーを重ねた。
 季節はずれの砂浜には、板を抱えてウェットスーツに身を包んだ青年が多数いた。遠巻きに俺たちを眺めては波を待つ。気にせず演奏を続けると、やがて海は夕焼けに染まってゆく。砂浜から人影が消えると、まるで自分たちが地球を回しているような錯覚に陥る。日が暮れれば、ワゴンの中でたっぷりと眠った。
 振動に目を覚ますと、ワゴンは光の中を走っていた。俺は体を起こして酷い空腹を手のひらで慰める。すると、運転席からメロンパンが飛んできた。
 「寝過ぎたな。このまま突っ走るぞ」
 そして、開演三〇分前に到着。俺は商売道具のサングラスをかけて、オッサンの袖を掴みながら、フラフラとエントランスを潜り抜ける。バレやしないかと、いつだって緊張する場面だ。不自然に首を傾けて、歩幅は小さく、俺の演技は日に日に磨かれていく。老人ホームのスタッフに笑顔で迎えられると、オッサンは決まって妙な注文をした。
 「演奏前にシャワーをお借りします」
 笑顔は怪訝な表情に一変する。
 演奏前にシャワーのジンクス。なんてモンじゃない。風呂代をケチりたいだけだ。もしかしたら、盲目のふりをする俺に注目が集まりすぎないための演出だったりもするかもしれない。
 演奏がはじまると怪訝な表情は直ぐに消える。俺たちには確かな音楽があった。オッサン
が刻むリズムに海岸の夕焼けを思い返しながら、四本のガット弦の上で弓を弾ませる。サングラス越しに爺さん婆さんの熱い視線が突き刺さった。
 演奏会が終わると、無理を言って現金で報酬を受け取った。去り際にまた怪訝な顔が並ぶ。礼なんかいらない。身銭を手に入れたら、さっさとワゴンに乗ってその場を離れるだけだ。
 「生涯に一度の出会いを大切にしろ。惜しまれながら去っていくなんて、そんな迷惑なことないぞ。一期一会だよ」
 オッサンは言った。なんか違う気もするが、そんなことより腹が減った。
 「なに食いたい?」
 「なんでもいいよ」
 「中華丼?」
 「以外」
 「オムライス?」
 「以外」
 結局、俺たちは中華料理が食えるファミリーレストランに入った。こういうところでいいんだよ。そして、念願の天津飯にたどり着く。化学調味料をふんだんに使った飴色のあんが輝く。こういうのでいいんだよ。
 「ここのコイホーローうまいな」
 オッサンはをそう言いながら、回鍋肉を大盛りご飯に豪快に盛りつける。
 「朝からメロンパン一個だけだったからな。腹減ったろ」
 俺は頷いて、無言で天津飯をかき込んだ。
 「育ち盛りにこんなんじゃいかんよな」
 オッサンはどうしても中華丼を食わせたいらしい。野菜と海産物を食っていればいいと思っているのだろう。
 「次の仕事は?」
 仕事の話題なのに返事がなかった。
 「また老人ホームか?」
 「そうだな」
 嘘だ。妙な空気に包まれ、レンゲが皿を打つ音だけがリズミカルに響いた。
 食事を終えてワゴンに乗り込むと、オッサンは運転席から振り返り、突然、携帯電話のシャッター音を鳴らせた。
 「写真?」
 「ああ、忘れないようにな」
 俺は薄々感づいていた。
 その夜、走り続けるワゴンの中でいつまで経っても寝つけなかった。
 でも、気付いたら朝だった。こんな時って、思った以上に眠れていたりする。それでも寝ていないと思いこんでいる俺は身体は、起こそうにも酷く重たかった。
 ワゴンが停車し、オッサンが運転席を降りる。小便にでも行くのかと思えば、後部座席のドアがスライドされた。
 「ゴールだ」
 よりによって、そこは俺がつまらない賞を取ったコンサートホールだった。
 「さぁ、帰りな」
 俺は体を起こして、背筋を反らせた。
 「なんだよそれ。結局、餓鬼扱いかよ」
 極力平然を装う。
 「俺の都合だよ。いつまでもこんなことが続けられる訳ないだろう」
 オッサンはコンサートホールに振り返った。
 「俺な、ここでおまえの演奏を聴いたんだよ」
 「だろうね。じゃなきゃ、あの時に俺が誰かなんて分からないだろう」
 「賢いね」
 「ついでにもう一つ教えてやるよ。あんた、こんなことするの俺がはじめてじゃないね」
 オッサンは俺に向き直って目を丸くした。
 「名前は知らないけど、顔が思い出せないって、前のヤツのことだろう。今度は忘れないように、俺の写真を撮ったわけだ」
 オッサンは泣きそうな笑顔を浮かべて「賢いね」と繰り返した。
 俺は奥歯を噛みしめながら震える声を絞り出す。
 「一期一会だろ」
 そう言って、後部座席から飛び降りた。手のひらを上に向けて差し出せば、オッサンは黙って携帯電話をのせた。俺はそれを握り、躊躇うことなく地面に叩きつけた。そして、粉々になるまで何度も何度も踏みつけた。

晴天の辟易

 太陽のバカやろう。
 声を大にして叫びたい。かろうじて残照があたりを案内する日暮れ時、何でおまえは夜になると隠れてしまうのだと憤る。夜は嫌いなんだよ。臆病で陰気臭い俺がますます際立つ。地球が回っているんでしょう。そんなこと分かっとるわい。地球のバカ野郎とはなかなか言えんだろう。
 阿呆なことを考えながら、夕暮れには人通りの少ない遊歩道を抜けていく。植木がガサガサと音を立て、一匹の餓鬼を吐き出した。不意をつかれて俺はのけぞる。
 「冒険中だよ」
 餓鬼は俺に微笑みかけた。いかにも大人ウケの良さそうな言葉を選びやがって。興が醒めるばかりだ。満面の笑みで餓鬼は駆けてゆく。俺は鼻を鳴らしてその背中に手を振った。

 

 抹茶オレが飲みたい

 

 同棲中の女からメールが入った。なにが抹茶オレだ。烏龍茶の出涸らしみたいな顔しやがって。駅前の茶店で買ってこいと言いたいのだろうが、俺はもう既に駅から随分と歩いてきたところだ。引き返すこともできるが、そこまでする義理はないだろう。
 しかし、俺は茶店まで引き返していた。抹茶オレはもともと俺の好物なのだ。女が余計な注文をするからこっち飲みたくなってしまった。
 随分とかわいらしい店員が丁寧に袋詰めする姿に見惚れていると、不意に顔を上げて俺に笑いかける。
 「手提げ袋はご入り用ですか?」
 「ご入り用、ないです」
 彼女は「ありがとうございました」と、紙袋を差し出した。 
 俺は、抹茶オレが二つ入った紙袋を摘み上げながら店を後にした。ご入り用ないです。なんだよそれ。ご入り用ないです。なんだよ俺。ご入り用ないです。外人かよ。たかが小娘一人に翻弄される己が忌々しい。続いて、怒りの矛先を同棲中の女に向ける。そもそも、おまえが抹茶オレを飲みたいなどと吐かすからこんなことになるのだ。わざわざ引き返して買いに行ってやったことをネチネチ言ってやろう。足を引きずりながら玄関にドアを叩き、ゼェゼェ息を切らせながら紙袋を突き出してやろう。
 「残業帰りにもかかわらず駅前まで戻って買ってきてやったぞ」
 しかし、袋の中にはしっかり自分の分まで入っている。まるで説得力がない。
 阿呆なことを考えながら、すっかり日の暮れたまるで人通りのない遊歩道を抜けていく。またしても植木がガサガサと音を立て、一匹の餓鬼を吐き出した。不意をつかれて俺はのけぞる。
 「冒険中だよ」
 餓鬼は俺に微笑みかけた。俺はぞっとした。肝が冷えるばかりだ。満面の笑みで餓鬼は駆けてゆく。俺はその背中を呆然と見送り、足早にアパートへ帰って行った。
 「おい、帰ったぞ」
 足を引きずりながら玄関のドアを叩き、ゼェゼェ息を切らせながら紙袋を突き出した。
 「子鬼がいた」 俺は声を絞り出す。
 「あ、抹茶ありがと」
 女は暢気に笑顔を浮かべる。俺の言葉など全く意に介さず、紙袋を受け取るなり、ペタペタとスリッパの音を立てながらダイニングへ引き返していった。
 「わけないよな」
 俺は玄関に座り込んだ。家の中には案の定カレーの臭いが充満していた。

 辛口カレーには甘過ぎるくらいの抹茶オレ。俺の流儀を心得て、女は律儀に実践する。あいつのいいところだ。シャワーを浴びてテーブルにつくと、ぬるくなった抹茶オレの隣に湯気の立つカレーが差し出された。
 先に食事を済ませていた女は、俺の前に腰を下ろし、チューチューとストローを吸う。俺はカレーを三口。そして、辛みを帯びた口内を抹茶オレで中和した。
 俺は不覚にも仄かな幸せを噛みしめていた。
 食事を終えて、残りの抹茶オレをチューチュー吸う。いつか見た本(電車の中吊りで表題を見ただけだ)の影響でグランデサイズを注文してしまったが、食事をとりながら飲み干す量ではない。
 話題はいつしか魚肉ソーセージ。カレーの具材になっていたからだろう。戦隊モノがパッケージになった魚肉ソーセージってあったよな。今でも売られているのかしら。当時は随分好んで食していた。すり身に合成色素をふんだんに練り込んで、明らかに健康を害す食品よね。成長期の子供にどうにかして魚を食わせたい親心と、子供のニーズが合致したんだろう。
 「ところで、なんで魚肉ソーセージの話なんてしてるんだっけ?」
 俺はゲップで応える。大盛りカレーとグランデサイズ抹茶オレですっかり胃が凭れた。眠い目をこすってまで議論する内容ではない。
 「寝るか」
 戸締まりやら、ガス栓やら、入念にチェックしないと眠れない質の女だ。俺は押入から布団を引きずり出して、一足先に倒れ込んだ。やがて消灯され、女の冷たい腕が俺の身体に巻き付く。俺は子供のように眠気で火照った身体を女に寄せた。


 そして、カーテンを開けば眩しいほどの朝。
 太陽のバカやろう。
 俺はまだ胃凭れのする腹を指先で摘みながらため息をつく。夜も嫌いだが、こんな晴天を望んだ覚えもない。ウンザリするほどの強制力を持つ青空には閉口させられる。醜い腹を晒しながらでリアルファー反対デモ行進などする以外、抵抗策が思い浮かばない。昨晩感じた仄かな幸せも、思い出すだけでおぞましい。
 そして、俺は家を出た。青空の下、また全てに悪態をつきながら駅までの遊歩道を闊歩する。


疾走する男児

 男児は走り続ける。「お友達」を求めて走り続ける。
 はじめに出会ったのはもっと小さな男児。ヨチヨチ歩く姿が愛おしくて思わず抱きしめた。すぐに大きな手が引き剥がした。「ダメ」と言う声に応答して男児はまた駆け出す。勢い余って少し大きな女児に激突した。「やめてぇ」と罵られる。金切り声に応答してまた駆け出す。下り道で加速。バランスの悪い身体はすぐに転倒。斜面であろうとそこに凹凸でもなければ涙は流れない。助けの手が無いことを認識して間もなく立ち上がる。下り坂の先に花壇を見つけた。これは好きだ。煉瓦づくりの縁によじ登る。フラフラ進んでポンッと飛び降りる。上手に着地ができると気持ちがいい。ここに新たな遊びフラフラ・ポンッを発見。男児は繰り返す。花壇の縁によじ登る。フラフラ進んでポンッ飛び降りる。フラフラ・ポンッ。フラフラ・ポンッ。これは好きだ。「お友達」探しをしばし忘れて。繰り返す。繰り返す。ふと見上げれば空高く雲を引く飛行機。とても高く飛ぶ小さなそれを指さし「飛行機」と言う。世界は魅力的で男児は忙しい。 
 そして「お友達」にたどり着く。背格好が同じくらいの男児だ。今度はいきなり抱きつかないように。はじめに思いつく限り「お友達」の名前を呼んでみる。残念ながら「お友達」の名前がそれと同じとは限らない。むしろ同じでないことのほうが多い。案の定「お友達」から応答はなかった。男児は「お友達」に駆け寄る。すると「お友達」は背中を向けて駆けだした。遊ぼうの合図。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きは合致して遊びがはじまる。男児は追いかける。「お友達」と呼び合いながら。喜びの表情を浮かべながら。階段を駆け上り。スロープを駆け下り。縁石を見つけてはフラフラ・ポンッ。風を切って二人は遊び続ける。
 男児のほうが少し元気が過ぎたようだ。「お友達」は息を切らせて座り込んだ。男児はその隣にしゃがみ込む。そして「お友達」抱きしめる。でも「お友達」は知り合って間もない男児に抱きしめられることが嫌い。途端に大人みたいな顔をした。怪訝な顔が大人みたい。「お友達」は立ち上がる。背中を向けて駆けだした。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きが合致すればすぐに笑顔が返ってくる。
 飽きることなく繰り返される遊び。やがて陽が傾く。大きな手が男児をすくい上げた。
 「帰ろう」
 男児はまだ遊びが足りない。無理矢理連れ去ろうとする大きな力の中で懸命にもがく。その力はとても大きくとても暖かい。「お友達」が遠く離れてしまうと男児はとても疲れていることに気付いた。小さな体には遊びが過ぎた。樹洞に眠る椋鳥。夢の中。遊びは続く。

失速するおっさん

 「一気に加速してあとは惰性で走ってください」
 それが電車の走り方らしい。某シミュレーションゲームで仕入れた知識だ。己にも通じるものがあるだろうと、俺は朝マラソンで実践してみる。食事制限で減量に成功して気をよくしていたところだ。
 タンスの奥に眠っていたマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームを引っ張り出し、そいつに袖を通して家を飛び出した。未明の雨もあがり、あたりはまっ白な朝靄に包まれている。俺は二、三度屈伸してから一気に加速した。気分はデイビッド・ロバート・ジョゼフ・ベッカム。一〇年も昔に外人の露天商から購入したユニフォームだ。サッカーに関する知識も古ければ、ユニフォームのデザインも古い。その真っ赤なシャツの胸元にはには日本では聞かなくなった携帯電話会社のロゴが刻まれている。
 そして、ベッカムは一気に失速した。息が切れる。歩きたい。否。無心になれ。すれば惰性で走れないこともない。惰性、惰性、無心、無心。心の中で唱えているうち、我に返れば足を引きずって歩いていた。
 朝靄もいつしか晴れ上がり青空が広がる。閑静な住宅街を真っ赤なユニフォームのおっさんが息を切らせてダラダラ歩く。不意に恥ずかしくなり、想定していた順路を逸れ、身を隠すように緑道の中へと入っていった。
 木々に囲まれた空間で幾分かリフレッシュ。息を整えながら歩いていると、ランニングスパッツで無駄のない肉体を晒す青年が颯爽と追い抜いていった。俺は多少の対抗意識を抱きながら再び駆けだす。それでも、また一気に加速するほど学習能力は欠落していない。電車は電車。俺は俺。
 早朝の緑道は如何にも健康的な空気に満ちている。既に遠くを走る若者。重たい体をサウナスーツに包んでウォーキングに励むおっさん。俺はまだ前者でありたいものだと幾分か加速する。おっさんを追い抜いたところで、向かいから犬をつれて歩いてきた老夫婦がにこやかに頭を垂れた。
 「おはようございます」
 俺は咄嗟に声が出ず、会釈でやり過ごす。背後からバリトンヴォイスの挨拶が響いた。
 続いて、ポニーテールを揺すりながらピンク色の可愛らしいウェアを纏った若者が駆けてきた。そこで、俺はまた幾分か加速。目の前には未明の雨でできた水たまり。俺は大きく膝を持ち上げて飛び上がりながら彼女とすれ違う。
 気持ちは確かに水たまりを飛び越えている。が、肝心の足がついてこない。俺は飛沫をあげて着水した。
 「うあ、ごめんなさい」
 反射的に水たまりで半回転、踵をそろえて背筋を伸ばす。そして、75度に頭をさげて、謝罪の気持ちを伝える7秒間。匠の技である。顔を上げると彼女はズボンの裾に小さなシミをつけたまま走り去っていた。どうやら耳がイヤホンで塞がれていたようだ。バリトンの朗らか笑い声を響かせながら、サウナスーツのおっさんが追いぬいていく。俺はうつむいてしばらく水たまりに立ち尽くした。
 靴がグショグショで気持ちが悪くなったなったところで、俺は水飛沫を上げながら三度地団駄を踏む。
 「オ・レ・ハ・」
 最後に大きく飛び上がり両足で着水。
 「オーレィ!」
 一番大きな飛沫をあげた。
 そして、おっさんの背中に向き直り、再び駆けだした。おっさんを突き飛ばすほどの力強さと、遠くを走る若者をも優に抜き去るスピードをイメージしながら、俺は一気に加速した。

宍戸ストロング・イナフ

 E=mc2について自分なりに考察をしてみたと宍戸は切り出した。
 「ほう」
 「結果から言えば、あいつの言っていることは正しいよ」
 「あいつというのは?」
 「おまえ、そんなことも知らないのか。アルベルト・アインシュタインだよ」
 まさかとは思ったが。俺はいい加減に二、三度頷いた。
 スキンヘッドにラウンド髭を生やした店長は、今夜も朗らかな表情で小鉢を差し出す。
 「店長の笑顔は今日もすばらしいね」
 宍戸は恒例のように両手をすりあわせてその恵比寿顔を拝む。店長は恒例の苦笑い。俺はジョッキを握りながら恒例の傍観だ。
 宍戸は小鉢のすじ肉をつまんでクチャクチャと音を立てる。そして、喉越し程良いタイミングでそいつを飲み込むと、カウンターに並ぶ俺に向き直った。
 「でも、おまえの無知を責めちゃいかんよな。俺だって生まれながらにアルベルトを知っていたわけではない。ある時点を境に知ったまでだ」
 いくら何でもあっかんべえしたファンキーな肖像写真とE=mc2くらいは結びつくが、あえて反論はしない。やたらヒトを肯定しようと努めているとき、あいつは決まって婆さんのことを思い返している(詳しくは既刊の「宍戸シング・プライゼス」をご覧いただきたい)。
 「でも、婆さんの肯定っぷりはマジで半端ないからな」
 案の定、何度も聞かされた話をはじめた。何を話しても「そうかい」と目を丸くした婆さん。記憶は薄れていく。置き換えられてゆく。だから、本当に大切なものは何度も繰り返さないといけない。のだそうだ。
 爺さんに先立たれた晩年の婆さんは施設暮らしだった。宍戸は面会の度、婆さんの手を取ってベッドから茶飲み場までを歩いた。
 「一番綺麗な笑顔を見せる瞬間なんだな」
 宍戸は一時の恋でも思い返すように目をうっとりとさせる。
 「その笑顔のためだけに通っていたようなもんだ」
 店長は口元に微笑みを蓄えながら、塩むすびを載せた皿を差し出した。黒々と体毛を生やした剛腕から繰り出される繊細な塩むすび。宍戸は綺麗な正三角形をしたそれを持ち上げ、照明に照らす。適度に握られた米の粒が煌めく。
 「おにぎりというよりおむすびって感じだよな」
 おむすびはおにぎりの女房言葉だという説がある。どちらも握り飯より丁寧だが、比較すればおむすびの方が優しいような気がする。煌めくおむすびに目を細めていると、いきなり口の中に突っ込まれた。
 俺は顰めっ面を宍戸に向けたままそれを咀嚼し、そして、飲み込む。
 「なんか言えよ」
 「うまいね」
 「おまえは本当に何も考えていないよな」
 どうもあいつは俺を肯定できないようだ。
 「おまえは俺の婆さんを気取っているのかもしれないが、婆さんは別に何も考えていなかったわけじゃないぞ」
 他人の婆さんを気取るヤツはそういない。勿論、俺だってそんな気はない。
 「婆さんは俺の話に耳を傾けて、全て納得の上で肯定していたのだ」
 「ちゃんと聞いてるよ。おまえの話は飽きないもんな。相槌すらしなくても話し続けてくれるから全く気が楽だよ。リラックスしているんだ。俺は」
 宍戸は何か腑に落ちない様子で眉間に皺を寄せる。

 「で、E=mc2についての考察はなんなのよ」
 俺は話を逸らすように問いかけた。宍戸は歯型のついたおむすびを皿に戻して話しはじめる。
 「例えば、月に一度の塩むすびが幸せの絶対基準とする」
 そして、手付かずの新たなおむすびを持ち上げた。
 「来月は何個かじれるだろうか。そんくらいシンプルに考えれば、何の迷いもなく生き方は決まってくるというものだ。塩むすび不変の原理とでも言おうか」
 俺は絶句するほか無い。
 「なんか言えよ」
 「無茶言うな」
 どうやら宍戸は何やら悩みを抱えているようだ。



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