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宍戸パーフェクト・デイ

 宍戸は拳を突き上げて大声で叫んだ。
 そして、ギターを振り回して大の字に倒れ込む。随分と派手なパフォーマンスの後、音が止んでまばらな拍手が響く。そして、終演。俺はステージから退場する度、首筋に嫌な汗をかいた。
 そんなあいつも今では随分落ち着いた。歳をとったせいだろうか。二浪して三流大学卒とはいえ、俺とそう違いないのだが。
 昔話を思い出したのは、定例の呑み会で宍戸が妙な話をはじめたからだ。
 「いきなり小学生くらいの女の子にボールぶつけられたよ」
 宍戸はカウンターに突っ伏したまま、好物の牛すじ煮込みにも箸が進まない。
 「随分落ち込んでるな」
 「その後だよ。なんて言われたと思う?」
 俺は首を傾げる。
 「ガラクタ」
 酒の勢いに任せて、俺は遠慮のない笑い声を響かせた。
 「ガラクタだぞ」
 宍戸は顔をしかめて繰り返す。恵比寿顔の店長も笑いをこらえきれなかったようで、背中を向けて肩を震わせた。
 「見た目は可愛い女の子だったからな。油断したよ。俺が絶句してる間に笑って逃げていきやがった。悪気はないのだろうが、なきゃいいってもんでもないだろう」
 小鉢に箸を突き立てて、宍戸は続けた。
 「大声で怒鳴りつけてやればよかったよ」
 最近、宍戸の大声を聞いていない。なかなかそんなシチュエーションはないが、昔はそうでもなかった。昼間のキャンパス。夜の商店街。早朝のプラットホーム。あいつはステージに限らず、どこだって拳を突き上げて大声で叫んだ。何に対してそんなに声を枯らす必要があったのか。
 時折、その叫びは俺にも向けられた。
 「引いてんじゃねぇよ。もっと来いよ」
 ライブの打ち上げで呑めもしない酒を舐めると、本音がこぼれた。俺たち(正確には、ドラムを叩く気のいい後輩を除いた俺と宍戸)は、決して優れたプレイヤーではなかった。宍戸のパフォーマンスと雄叫びで煙に巻いていたことは否めない。歌詞を間違えればポゴダンス。誰にも気付かれないムーンウォーク。それでも飽きたらず、ギターを放棄して、できもしないコサックダンス。もはや駄々をこねた餓鬼にしか見えない。そんなもんを俺に求められても困る。あれは宍戸だから赦されるのだ。語如語如言い返しているうち、あいつは眠りに落ちた。
 よっぽど「ガラクタ」に傷ついたのか、あいつは俺のジョッキを引き寄せて琥珀色の液体を見つめた。
 「心から完璧だと思える一日があったら、死んでもいいな」
 突然、何を言う。
 「ご長寿世界一が夢だったんじゃないのか?」
 「死んでもいいくらい完璧だったら死んでもいいだろ」
 「そりゃ、おまえの夢が叶った時じゃないのか?」
 「世界一の年寄りになった日か」
 「だな」
 「そりゃ、死んでもいいわな」
 宍戸の目尻にしわが刻まれる。やっぱ老けたな。

 あいつは以前こんなことを俺に語った。
 誰よりも年寄りになって、皺だらけの気色悪い顔で笑ってやる。長生き以外に取り柄のない男が、世界中を見下ろして言うんだ。
 「儂が全部許してやろう」
 皺だらけの宍戸が拳を突き上げて大声で叫ぶ。俺はそんな姿を想像した。
 そして、杖でも振り回して大の字に倒れ込む。随分と派手なパフォーマンスの後、まばらな拍手が響く。そして、終焉。
 不意に、少女の「ガラクタ」発言を思い返して鼻が鳴る。身も蓋もない。
 宍戸は俺のジョッキを持ち上げてビールを呷った。
 「あ」
 俺と店長の声が重なる。ため息をついて目を合わせると、変わらぬ恵比寿顔が小さく頷いた。

そのすてきなワンピースを僕にください

 ワンピースをください。もし、よろしければ、そのすてきなワンピースを僕にください。
 暖かな日差しに包まれた川辺。君は日傘のようにくるりと一回転。きっと、君が見ている世界は、僕が見ているものより何倍も鮮やかなんだろうね。
 大切なヒトにそのワンピースをプレゼントしたいな。そんな風に思ったら、なんて声をかけたらいいだろう。
 「そのすてきなワンピースを僕にください」
 案の定、君は怪訝な顔をした。でも、すてきなワンピースを着ていた君のせいでしょう。
 「ワンピースなんてどうするの?」
 僕が着るとでも思ったんだろう。いきなりそんなことを言われたら、きっと誰だってそう思うよ。僕は慌てて首を振った。君は首を傾げた。
 「そのすてきなワンピースを着せてあげたいヒトがいるんだよ」
 君が言うには、そのワンピースは自分で仕立てたものなんだって。だから、二つと同じものはないんだって。そんなことを言われたら、ますます欲しくなっちゃうじゃない。
 「今日、誕生日なんだよ」
 「じゃあ、ますますダメね。同じものを作ってあげる時間もないじゃない」
 「そうでもないよ」
 「そうなの?」
 「今日、生まれるんだから」
 君は目を丸くして、それから両膝に手をついてまっすぐに僕を見た。
 「お兄ちゃんになるんだ」
 「きっとかわいい女の子だよ」
 「ワンピースか。一歳の誕生日には着られるかしら」
 「一年後か。随分と先だね」
 「あっという間よ」
 「なんでそう思う?」
 君は曖昧に微笑んだ。割といい加減だね。今日はそのワンピースをよく見させてもらうよ。そして、すてきなワンピースの物語を聞かせてあげるんだ。

 

 あっという間に二〇年が過ぎた。俺はあの日のことを思い出しながら川辺に足を運ぶ。西日の照り返す川面に目を細めながら君を思い返す。まだ俺はガキだったから、一年後と言っておけば、すぐに忘れると思ったのだろう。まったくその通りだった。一年後にどうやってワンピースを受け取るつもりだったのか。そんな約束すらしなかった。ロマンチックで詰めのあまいガキだった。
 しかし、結果的にそれでよかったのだ。予定日から一日遅れで生まれたのは可愛くもない野郎だったのだから。
 一〇歳下の弟だ。勿論はじめのうちは可愛かったよ。でも、ある日、一〇年の間君臨していた王座が奪われていることに気がついた。指をくわえて見ていれば、あいつはすくすく生意気なガキに育っていった。

 「よう」
 俺は無愛想に手を挙げる。
 目の前には、間もなく二〇歳を迎える、可愛くもない弟がいる。
 「元気ぃ?」
 あいつは屈託ない笑顔を浮かべた。容姿端麗。おふくろが憧れるほど白い肌が橙色に染まる。どうしたらいつまで経ってもそんな笑顔でいられるのか。まったく不思議でならない。
 「一〇代最後の日を兄貴と過ごすことになるとはな」
 俺を兄貴だなんて呼んでいたろうか。
 「二〇歳の誕生日よりは都合がつくだろう」
 「明日だって暇だよ」
 変に気を使われた気がして俺は苦笑いを浮かべた。こっちだっておまえが来るとは思わなかったよ。不意に二〇年前のことを思い出してメールをしたのだ。でも、来るよな。俺だって弟に呼び出されたら何事かと気を揉むに違いない。
 「突然、悪かったな。大学は楽しんでるか?」
 すると、不意に子供じみた笑みを浮かべた。
 「興味ないくせに」
 「んなこたねぇよ」 
 俺は狼狽気味に声を荒らげる。
 「二〇年前、ここでさぁ 」勢いに任せて言いかけた言葉をすぐに飲んだ。「 おまえ、今日産まれる予定だったんだよ」
 「それ、聞いたことあるな。女の子の予定だったんだろ」
 「よく知ってるな。見えるべきもんが隠れてたんだってよ。男の子を女の子と間違えることは割とあるらしいな」
 「で、ここで何?」
 俺は口元を歪めた。いざ口にしてみようと思っても、三〇過ぎのオッサンが野郎に向かってすてきに語れるような話ではない。あいつは真っ直ぐな視線で俺の言葉を待っている。何よりあいつを可愛がるおふくろの気持ちが分からないでもない。
 「要するに、たまにはおふくろに顔を見せてやんなって話しだ」
 「なんだそりゃ?」
 実際、弟を家に連れて帰ることも大きな目的だった。
 「おまえ妙に薄情なところあるよな。こっちから連絡しないと、家出たっきりじゃねぇか」
 「なんだよ。説教かよ」
 弟はむくれて眉をひそめた。
 「兄貴の特権だ」
 俺も歳をとったのか。
 また、あいつが可愛いやつに思えることがある。
 ちょっとだけ。
 ちょっとだけだよ。


ロンサム ロンサム

 「名前は知らんが、顔が出て来んな」
 ハンドルを握りながらオッサンは呟いた。何を悩んでいるのか。何も分からないじゃないか。
 「でも、郵便番号は分かります」
  俺はおどけて言う。
 「おまえ何言ってんだ?」
 オッサンは自分の間違いに気付いていないようだった。盲目の天才バイオリニストが板に付いてきたせいか、随分と耳が鋭敏になっていた。それにしれも、オッサンはよく言い間違をした。
 俺たちは街道沿いに軽ワゴンを走らせ、一儲けした金でちょっとした中華料理屋に入った。円卓に並ぶ料理を前にオッサンは随分と機嫌がいい。
 「おい、このウケッコウのスープはうまいぞ」
 「ウコッケイ」
 すかさず訂正すれば、オッサンは人目を憚ることなく大口を開けて笑う。
 「結構!結構!」
 俺は満面の苦笑い。ただでさえ機嫌が悪かったところに追い打ちだ。
 「箸が進んでないじゃないか」
 「俺は天津飯が食いたいと言った」
 なんでも食わせると言っておいて、テーブルがグルグル回るややこしい中華料理屋に入るのが間違っているのだ。
 「あんなオムライスを雑炊にしたようなものの何がうまい?」
 オッサンが思い浮かべているのは、関東風のケチャップあん仕立ての天津飯だろう。あんな品の悪いものだったら俺だって望んじゃいない。透き通る出汁あんがかかった、あの芸術的な天津飯ならいくらだって食えるだろう。
 「中華丼のほうが栄養があるぞ。お前みたいに怒りっぽい奴はミネナルが足りんのだよ。雑炊オムライスなんざ餓鬼の食いもんだ」
 餓鬼を捕まえて餓鬼と言うな。俺は言い返す気力もなくウズラの卵を口の中で転がした。
 俺とオッサンの出会いは、ちょっと変わったものだった。
 一月ほど前のことだ。俺は地元の音楽家の名前を冠にしたコンクールで金賞を受賞し、バイオリンの神童と賞賛された。好きこそ物の上手なれと言うが、好きでもないのに受賞したのだから、ある意味では評価されてもいいだろう。競争意識だけで勝ち取った金賞。そんな奴が高みを望んだところで先が見えている。俺は見切りをつけて町を出た。それでも、バイオリンは持って行くことにした。旅をする上で金になると考えたからだ。
 はじめて親に無断で列車に乗り込んだ。最初はまわりの視線を気にして、しばらく車内に背を向けてドアにぴったりくっついていた。しかし、所詮は自意識過剰なローカルヒーローだ。誰も俺の存在を気にする様子はなかった。途端に恥ずかしくなり適当な駅で列車を降りた。
 その日の身銭を得るため、俺は駅前でバイオリンケースを広げてた。そして、百円玉を三枚転がして演奏をはじめる。一度、こういうことをやってみたかったのだ。手始めに少しピッチを上げたG線上のアリア。すぐに通行人は足を止め、俺の演奏に耳を傾けた。たまに百円玉投げ込むヒトもいた。とても気分が良かったけれど、長くは続かなかった。
 人垣が消えたかと思えば、目の前に婦人警官が立っていた。
 「ご両親は?」「おうちは?」「学校は?」
 いきなりの質問の嵐にウンザリすると、大きな声で名前を呼ぶ声がした。
 「おい、カツヲ!」
 俺はそんな名前ではない。にもかかわらず、眉間に皺を寄せたオッサンが勢いよく歩み寄り、いきなり俺の頭をひっぱたいた。続いて、頭を鷲掴みにして何度も上下させながら「スンマセン、スンマセン」と連呼する。最後にもう一発頭をひっぱたいた。
 突然の出来事に唖然とするうちに、婦人警官は去っていった。そして、オッサンは俺の顔をのぞき込む。
 「おまえ、カツヲじゃないよな」
 「なんなんだよ」
 「俺は警官になろうなどという女がもっとも好かんのだ」
 そして、オッサンは急に黙り込んで顎を撫でた。
 「おまえ見たことあるな」
 俺は慌てて目をそらす。すると、オッサンは胸に挿していたサングラスを差し出した。俺は何のことやらよく分からず、オッサンを見上げた。
 「気にすんな。万引きしたサングラスだ」
 そのどうにもだらしない風貌は新鮮だった。俺はサングラスを受け取り、自分にはじめて覆面をした。オッサンが笑いかける。
 「おい神童、おまえは今日から盲目のバイオリニストだ」
 それから俺とオッサンの付き合いははじまり、天津飯のない中華料理屋に至る。
 俺はウズラの卵を噛み砕いて、食いたくもない中華丼をかき込んだ。でも、演奏後の空きっ腹にはなんでも旨かった。オッサンは満足げに頷いた。
 「見てんなよ。食いにくいだろ」
 「中華丼のほうが旨いだろう」
 俺はいい加減に首を振る。
 「で、誰を探してんのよ?」
 オッサンは眉を持ち上げた。
 「さっき、顔が分かんないとか、名前が分かんないとか言ってたろ」
 「そんなこと言ったか?」
 俺は噛みきれないイカを飲み込みながら頷いた。
 「自分探しかな」
 「殴っていいか?」
 「怖い怖い」
 オッサンはそう言ったきり、かかってくることのない携帯電話と向き合った。
 「さっさと食いな。今日の移動は長いぞ」
 俺たちは、食事を済ませてワゴンに乗り込んだ。助手席にはシートベルトをしめたジャンベが置かれている。その特等席には誰も座ることはなく、俺は決まって後部座席だった。
 明日は海辺の老人ホームでの演奏が決まっていた。老人ホームの仕事は初めてではない。俺たちの噂が広まってきたのか、連日の演奏ははじめてだ。
 「老人ホームに顔があるといいぞ。近い将来、きっと保育園なんて比じゃないくらい倍率が高くなる」
 「まだ老人ホームって歳でもないでしょう?」
 個人に関する問いかけには、決まって返事がなかった。
 まずは海へ向かう。そこから真っ直ぐ北上すれば目的地だ。海に出るまで三時間。そこで一度ワゴンを止めた。オッサンはジャンベを抱えて運転席を下りる。俺はバイオリンを握って後に続く。適当な岩を見つけて腰掛けると、ジャンベを足で抱えてアフリカンビートを刻みはじめた。そこで、俺は知る限りのクラシックナンバーを重ねた。
 季節はずれの砂浜には、板を抱えてウェットスーツに身を包んだ青年が多数いた。遠巻きに俺たちを眺めては波を待つ。気にせず演奏を続けると、やがて海は夕焼けに染まってゆく。砂浜から人影が消えると、まるで自分たちが地球を回しているような錯覚に陥る。日が暮れれば、ワゴンの中でたっぷりと眠った。
 振動に目を覚ますと、ワゴンは光の中を走っていた。俺は体を起こして酷い空腹を手のひらで慰める。すると、運転席からメロンパンが飛んできた。
 「寝過ぎたな。このまま突っ走るぞ」
 そして、開演三〇分前に到着。俺は商売道具のサングラスをかけて、オッサンの袖を掴みながら、フラフラとエントランスを潜り抜ける。バレやしないかと、いつだって緊張する場面だ。不自然に首を傾けて、歩幅は小さく、俺の演技は日に日に磨かれていく。老人ホームのスタッフに笑顔で迎えられると、オッサンは決まって妙な注文をした。
 「演奏前にシャワーをお借りします」
 笑顔は怪訝な表情に一変する。
 演奏前にシャワーのジンクス。なんてモンじゃない。風呂代をケチりたいだけだ。もしかしたら、盲目のふりをする俺に注目が集まりすぎないための演出だったりもするかもしれない。
 演奏がはじまると怪訝な表情は直ぐに消える。俺たちには確かな音楽があった。オッサン
が刻むリズムに海岸の夕焼けを思い返しながら、四本のガット弦の上で弓を弾ませる。サングラス越しに爺さん婆さんの熱い視線が突き刺さった。
 演奏会が終わると、無理を言って現金で報酬を受け取った。去り際にまた怪訝な顔が並ぶ。礼なんかいらない。身銭を手に入れたら、さっさとワゴンに乗ってその場を離れるだけだ。
 「生涯に一度の出会いを大切にしろ。惜しまれながら去っていくなんて、そんな迷惑なことないぞ。一期一会だよ」
 オッサンは言った。なんか違う気もするが、そんなことより腹が減った。
 「なに食いたい?」
 「なんでもいいよ」
 「中華丼?」
 「以外」
 「オムライス?」
 「以外」
 結局、俺たちは中華料理が食えるファミリーレストランに入った。こういうところでいいんだよ。そして、念願の天津飯にたどり着く。化学調味料をふんだんに使った飴色のあんが輝く。こういうのでいいんだよ。
 「ここのコイホーローうまいな」
 オッサンはをそう言いながら、回鍋肉を大盛りご飯に豪快に盛りつける。
 「朝からメロンパン一個だけだったからな。腹減ったろ」
 俺は頷いて、無言で天津飯をかき込んだ。
 「育ち盛りにこんなんじゃいかんよな」
 オッサンはどうしても中華丼を食わせたいらしい。野菜と海産物を食っていればいいと思っているのだろう。
 「次の仕事は?」
 仕事の話題なのに返事がなかった。
 「また老人ホームか?」
 「そうだな」
 嘘だ。妙な空気に包まれ、レンゲが皿を打つ音だけがリズミカルに響いた。
 食事を終えてワゴンに乗り込むと、オッサンは運転席から振り返り、突然、携帯電話のシャッター音を鳴らせた。
 「写真?」
 「ああ、忘れないようにな」
 俺は薄々感づいていた。
 その夜、走り続けるワゴンの中でいつまで経っても寝つけなかった。
 でも、気付いたら朝だった。こんな時って、思った以上に眠れていたりする。それでも寝ていないと思いこんでいる俺は身体は、起こそうにも酷く重たかった。
 ワゴンが停車し、オッサンが運転席を降りる。小便にでも行くのかと思えば、後部座席のドアがスライドされた。
 「ゴールだ」
 よりによって、そこは俺がつまらない賞を取ったコンサートホールだった。
 「さぁ、帰りな」
 俺は体を起こして、背筋を反らせた。
 「なんだよそれ。結局、餓鬼扱いかよ」
 極力平然を装う。
 「俺の都合だよ。いつまでもこんなことが続けられる訳ないだろう」
 オッサンはコンサートホールに振り返った。
 「俺な、ここでおまえの演奏を聴いたんだよ」
 「だろうね。じゃなきゃ、あの時に俺が誰かなんて分からないだろう」
 「賢いね」
 「ついでにもう一つ教えてやるよ。あんた、こんなことするの俺がはじめてじゃないね」
 オッサンは俺に向き直って目を丸くした。
 「名前は知らないけど、顔が思い出せないって、前のヤツのことだろう。今度は忘れないように、俺の写真を撮ったわけだ」
 オッサンは泣きそうな笑顔を浮かべて「賢いね」と繰り返した。
 俺は奥歯を噛みしめながら震える声を絞り出す。
 「一期一会だろ」
 そう言って、後部座席から飛び降りた。手のひらを上に向けて差し出せば、オッサンは黙って携帯電話をのせた。俺はそれを握り、躊躇うことなく地面に叩きつけた。そして、粉々になるまで何度も何度も踏みつけた。

晴天の辟易

 太陽のバカやろう。
 声を大にして叫びたい。かろうじて残照があたりを案内する日暮れ時、何でおまえは夜になると隠れてしまうのだと憤る。夜は嫌いなんだよ。臆病で陰気臭い俺がますます際立つ。地球が回っているんでしょう。そんなこと分かっとるわい。地球のバカ野郎とはなかなか言えんだろう。
 阿呆なことを考えながら、夕暮れには人通りの少ない遊歩道を抜けていく。植木がガサガサと音を立て、一匹の餓鬼を吐き出した。不意をつかれて俺はのけぞる。
 「冒険中だよ」
 餓鬼は俺に微笑みかけた。いかにも大人ウケの良さそうな言葉を選びやがって。興が醒めるばかりだ。満面の笑みで餓鬼は駆けてゆく。俺は鼻を鳴らしてその背中に手を振った。

 

 抹茶オレが飲みたい

 

 同棲中の女からメールが入った。なにが抹茶オレだ。烏龍茶の出涸らしみたいな顔しやがって。駅前の茶店で買ってこいと言いたいのだろうが、俺はもう既に駅から随分と歩いてきたところだ。引き返すこともできるが、そこまでする義理はないだろう。
 しかし、俺は茶店まで引き返していた。抹茶オレはもともと俺の好物なのだ。女が余計な注文をするからこっち飲みたくなってしまった。
 随分とかわいらしい店員が丁寧に袋詰めする姿に見惚れていると、不意に顔を上げて俺に笑いかける。
 「手提げ袋はご入り用ですか?」
 「ご入り用、ないです」
 彼女は「ありがとうございました」と、紙袋を差し出した。 
 俺は、抹茶オレが二つ入った紙袋を摘み上げながら店を後にした。ご入り用ないです。なんだよそれ。ご入り用ないです。なんだよ俺。ご入り用ないです。外人かよ。たかが小娘一人に翻弄される己が忌々しい。続いて、怒りの矛先を同棲中の女に向ける。そもそも、おまえが抹茶オレを飲みたいなどと吐かすからこんなことになるのだ。わざわざ引き返して買いに行ってやったことをネチネチ言ってやろう。足を引きずりながら玄関にドアを叩き、ゼェゼェ息を切らせながら紙袋を突き出してやろう。
 「残業帰りにもかかわらず駅前まで戻って買ってきてやったぞ」
 しかし、袋の中にはしっかり自分の分まで入っている。まるで説得力がない。
 阿呆なことを考えながら、すっかり日の暮れたまるで人通りのない遊歩道を抜けていく。またしても植木がガサガサと音を立て、一匹の餓鬼を吐き出した。不意をつかれて俺はのけぞる。
 「冒険中だよ」
 餓鬼は俺に微笑みかけた。俺はぞっとした。肝が冷えるばかりだ。満面の笑みで餓鬼は駆けてゆく。俺はその背中を呆然と見送り、足早にアパートへ帰って行った。
 「おい、帰ったぞ」
 足を引きずりながら玄関のドアを叩き、ゼェゼェ息を切らせながら紙袋を突き出した。
 「子鬼がいた」 俺は声を絞り出す。
 「あ、抹茶ありがと」
 女は暢気に笑顔を浮かべる。俺の言葉など全く意に介さず、紙袋を受け取るなり、ペタペタとスリッパの音を立てながらダイニングへ引き返していった。
 「わけないよな」
 俺は玄関に座り込んだ。家の中には案の定カレーの臭いが充満していた。

 辛口カレーには甘過ぎるくらいの抹茶オレ。俺の流儀を心得て、女は律儀に実践する。あいつのいいところだ。シャワーを浴びてテーブルにつくと、ぬるくなった抹茶オレの隣に湯気の立つカレーが差し出された。
 先に食事を済ませていた女は、俺の前に腰を下ろし、チューチューとストローを吸う。俺はカレーを三口。そして、辛みを帯びた口内を抹茶オレで中和した。
 俺は不覚にも仄かな幸せを噛みしめていた。
 食事を終えて、残りの抹茶オレをチューチュー吸う。いつか見た本(電車の中吊りで表題を見ただけだ)の影響でグランデサイズを注文してしまったが、食事をとりながら飲み干す量ではない。
 話題はいつしか魚肉ソーセージ。カレーの具材になっていたからだろう。戦隊モノがパッケージになった魚肉ソーセージってあったよな。今でも売られているのかしら。当時は随分好んで食していた。すり身に合成色素をふんだんに練り込んで、明らかに健康を害す食品よね。成長期の子供にどうにかして魚を食わせたい親心と、子供のニーズが合致したんだろう。
 「ところで、なんで魚肉ソーセージの話なんてしてるんだっけ?」
 俺はゲップで応える。大盛りカレーとグランデサイズ抹茶オレですっかり胃が凭れた。眠い目をこすってまで議論する内容ではない。
 「寝るか」
 戸締まりやら、ガス栓やら、入念にチェックしないと眠れない質の女だ。俺は押入から布団を引きずり出して、一足先に倒れ込んだ。やがて消灯され、女の冷たい腕が俺の身体に巻き付く。俺は子供のように眠気で火照った身体を女に寄せた。


 そして、カーテンを開けば眩しいほどの朝。
 太陽のバカやろう。
 俺はまだ胃凭れのする腹を指先で摘みながらため息をつく。夜も嫌いだが、こんな晴天を望んだ覚えもない。ウンザリするほどの強制力を持つ青空には閉口させられる。醜い腹を晒しながらでリアルファー反対デモ行進などする以外、抵抗策が思い浮かばない。昨晩感じた仄かな幸せも、思い出すだけでおぞましい。
 そして、俺は家を出た。青空の下、また全てに悪態をつきながら駅までの遊歩道を闊歩する。


疾走する男児

 男児は走り続ける。「お友達」を求めて走り続ける。
 はじめに出会ったのはもっと小さな男児。ヨチヨチ歩く姿が愛おしくて思わず抱きしめた。すぐに大きな手が引き剥がした。「ダメ」と言う声に応答して男児はまた駆け出す。勢い余って少し大きな女児に激突した。「やめてぇ」と罵られる。金切り声に応答してまた駆け出す。下り道で加速。バランスの悪い身体はすぐに転倒。斜面であろうとそこに凹凸でもなければ涙は流れない。助けの手が無いことを認識して間もなく立ち上がる。下り坂の先に花壇を見つけた。これは好きだ。煉瓦づくりの縁によじ登る。フラフラ進んでポンッと飛び降りる。上手に着地ができると気持ちがいい。ここに新たな遊びフラフラ・ポンッを発見。男児は繰り返す。花壇の縁によじ登る。フラフラ進んでポンッ飛び降りる。フラフラ・ポンッ。フラフラ・ポンッ。これは好きだ。「お友達」探しをしばし忘れて。繰り返す。繰り返す。ふと見上げれば空高く雲を引く飛行機。とても高く飛ぶ小さなそれを指さし「飛行機」と言う。世界は魅力的で男児は忙しい。 
 そして「お友達」にたどり着く。背格好が同じくらいの男児だ。今度はいきなり抱きつかないように。はじめに思いつく限り「お友達」の名前を呼んでみる。残念ながら「お友達」の名前がそれと同じとは限らない。むしろ同じでないことのほうが多い。案の定「お友達」から応答はなかった。男児は「お友達」に駆け寄る。すると「お友達」は背中を向けて駆けだした。遊ぼうの合図。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きは合致して遊びがはじまる。男児は追いかける。「お友達」と呼び合いながら。喜びの表情を浮かべながら。階段を駆け上り。スロープを駆け下り。縁石を見つけてはフラフラ・ポンッ。風を切って二人は遊び続ける。
 男児のほうが少し元気が過ぎたようだ。「お友達」は息を切らせて座り込んだ。男児はその隣にしゃがみ込む。そして「お友達」抱きしめる。でも「お友達」は知り合って間もない男児に抱きしめられることが嫌い。途端に大人みたいな顔をした。怪訝な顔が大人みたい。「お友達」は立ち上がる。背中を向けて駆けだした。「お友達」は逃げることが好き。男児は走ることが好き。二人の好きが合致すればすぐに笑顔が返ってくる。
 飽きることなく繰り返される遊び。やがて陽が傾く。大きな手が男児をすくい上げた。
 「帰ろう」
 男児はまだ遊びが足りない。無理矢理連れ去ろうとする大きな力の中で懸命にもがく。その力はとても大きくとても暖かい。「お友達」が遠く離れてしまうと男児はとても疲れていることに気付いた。小さな体には遊びが過ぎた。樹洞に眠る椋鳥。夢の中。遊びは続く。


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