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4パンクス

 俺たちは黙り込んで缶コーヒーを啜る。彼奴は俺たちを呼び出しておいて一体どれだけ待たせるのだ。誰がリーダーと言うこともないが、アガリがいないとどうもまとまりがない。というより、間が持たない。

  「おい、彼奴はいつになったら来るんだよ」

 ビッグスクーターに跨がったサルが俺に視線をぶつける。アガリが何かやらかすと、一番付き合いの長い俺に矛先がが向けられる。そのため、俺も何となくNo.2を気取っているが、彼奴のように気の利いた話題を持ち出すことができない。 壁にもたれたマンボウが、文庫本から顔を上げて妙なことを言いだした。

 「アガリが来ないのは俺のせいかもしれないよ」

 「何かしたのかよ」

 サルは眉間に皺を寄せて、マンボウへ首を捻る。

 「昨日、アガリから電話があったんだけど、俺、出なかったんだよね。留守電に集合の連絡が入っていたのは分かってたんだけど、面倒くさくなっちゃって折り返さなかったし」

 「なんだよ。おまえには電話があったのか。俺にはメールだけだぜ」

 サルに電話すると長くなるからな。俺は内心呟いた。彼奴を庇うつもりはないが、マンボウの言うことのも納得いかないね。俺の知る限り彼奴はそんな小さなことに拘る男ではない。

 俺は一週間も前から今日のことを聞かされていた。その日は、やはりこの男4人でミナトミライへ繰り出していた。ジェットコースターがゆっくりと登り詰める間、俺の隣でアガリは言った。

 「来週、またみんなで集まろう」

 アガリはいつもの通り、一点の曇りも無い微笑みを浮かべていた。

 「誰も欠けちゃなんないよ。この4人がいいんだ」

 コースターが降下をはじめ、空に溶けるようなアガリの声は、途端、猟奇じみた絶叫へ変わった。

 「アガリは来るよ」

 俺は確信を持って言った。

 「そりゃ、彼奴のことだから来るだろうけどよ。でも、どんだけ待ちゃいいんだよ」

 サルが不満そうに缶コーヒーを啜りあげる。

 それから、またしばらくの沈黙が続いた。秋風が落ち葉を鳴らす。俺は空っぽになったコーヒー缶に口を付ける。こんな時、タバコを吸う奴は便利だと思う。さり気なく立ち上がって、みんなと少し距離を置いたところで火を付ければいい。でも、俺はタバコはやらない。考えてみれば、アガリ以外に誰も吸わない。

 マンボウは再び文庫本に目を落とし、時折、腹の肉を摘んでは引っ張る。サルはイライラした様子で、両膝をドラムに見立ててリズムを刻む。彼奴が音楽をやっているなんてことは聞いたことがないけれど。俺は耳にイヤホンを突っ込んで、メランコリーなナンバーにでも浸っていたいところだが、みんなで過ごす時間に耳を塞ぐことは阻まれる。

 マンボウの文庫本はどうなのよ。でも、彼奴はそんなキャタラクターとして認知されているから、色々なことが許される。何が悪いでもないのだが、彼奴は何か許されているような気がする。何をしても、何もしなくても。何を言っても、何も言わなくても。

 サルだってそうだ。彼奴は気の短い男としてキャラクターが成り立っている。シートから飛び降りた彼奴は、飲み干したコーヒー缶を足下に立てて、勢いよく踏みつぶす。うまく潰れず、舌打ちを一つ。そして、空き缶を空へ蹴り上げた。

 俺はどうだ?

 自意識過剰で、気が弱くて、No.2を気取っている。そんなキャラクターとして認知されているのだろうか。そんなことなら認知されなくて結構だ。理解しがたい奴で構わない。それでも、きっと俺がみんなを理解している程度に、みんなは俺を理解しているのだろう。

 理解した上で認め合う。なんだ、お互い様じゃないか。

 携帯電話が震えた。フリップを開けばアガリのメールだ。

 

  お台場には、自由の女神がいるらしい。

 

  「アガリか?」

 携帯電話に向かって眉を顰める俺に、サルが尋ねた。俺はうなずく。

 「なんだって?」

 マンボウが問いかけに、俺はメールを読み上げる。

 「そんなこたねぇだろ」

 サルが即座に否定し、マンボウは「へぇ」と口を尖らせる。

 わりと有名な話だと思うのだが、水を差すようなことを言わないでおく。

 「なんで、お台場にそんなもんがあるんだよ?」

 なんでと言われても知るわけがない。続いて、マンボウは自由の女神がなんたるかを語り始める。

 「そもそも自由の女神ってのはさ、1886年にアメリカ独立100年を記念してフランスから送られたものなんだよな」

 だからお台場にあるはずがない。そう言いたいわけでもなさそうだ。単に蘊蓄を披露したかったのだろう。

 「お台場は日本からの独立を企んでいるわけか」

 サルは顎に手を添えて阿呆なことを言う。

 やがて、聞き慣れたマフラー音が近づいてきた。

 「悪い悪い、ちょっとガススタで女神様話しに盛り上がっちゃてな」

 アガリは大して悪がる様子もなく、目の前にバイクを横付けする。俺が後ろに跨がると、サルの後ろにマンボウが跨がる。

 アガリとサルのマフラーが互い違いに唸る。行き先はお台場。アガリの本来の目的は何だったのか。あえて尋ねるつもりはない。少なくとも女神様より大したことではない訳だ。

 「行こか」

 アガリが振り返る。それは、いつもの通り、一点の曇りも無い微笑みだった。


戸袋に引き込まれないように

 小さな息子を抱えて列車の扉にもたれる。行き先は決めていない。あいつが電車に乗りたいとせがむから、何も考えずに乗り込んだのだ。この休日は何処だってあいつが行きたいことに連れて行ってやろうと決めていた。先週、無理矢理携帯ショップに付き合わせた挙げ句、嫌がるあいつの坊主頭をひっぱたいてしまったから。

 息子は窓の外を眺めながら、時折、行き過ぎる対向列車に歓声を上げる。俺は機種変更したばかりの携帯電話をいじりながら眉間にしわを寄せる。

 隣駅に到着すると勢いよくドアが開き、寄りかかっていた身体を慌てて起こした。ドアは戸袋へ収まる。すると、息子は小さな指でそいつを摘み出そうとした。完全に開ききったドアだから引き込まれることは無かろうが、戸袋に指を差し込む行為には不安を覚える。やがて発車のベルが鳴り、俺は身体を捻って小さな手を戸袋から引き離した。

 再び列車が走り出すと、たくさんの車両が集まる操作場に差し掛かった。息子は興奮のあまり全身をバタバタさせながら「電車、電車」と騒ぎ出す。俺はあいつを落としそうになり、両腕に力を込めた。小さな両手は無尽蔵に振り回され、俺の頭をひっぱたき、新品の携帯電話を叩き落とした。

 「のあ!」

 思わず大きな声が漏れ、顔を隠すようにその場のしゃがみ込む。いったん息子を下ろして携帯電話を拾い上げると、何故下ろすのだ?電車が見えないではないか。と、悲嘆の表情で訴えた。思わず手が伸び、坊主頭に一発。そして、ため息をもらして再び息子を抱え上げた。

 対向列車が走れば、拳骨のことなどすぐに忘れて声を上げる。列車が通り過ぎると車窓から操作場は消えていた。俺は携帯電話に傷が付いていないかどうかを確かめ、我ながら小さい男だと自己嫌悪する。

 「ごめんな」

 一言呟いて坊主頭をなでると、無垢な瞳が俺を射した。何故撫でてくれた?と、尋ねているようだ。寛大というか、間が抜けているというか。

 あまりに寛大な男が間抜けと紙一重に思えることがある。そんな男に憧れもする。表面的には大らかなようでいて必死に己を殺す。結局、押さえきれずに愛すべき坊主頭をひっぱたく。昔からそんな風にして生きてきたように思うのだ。

 坊主頭をもう一度撫でる。あいつは車窓に食い入ったまま、期待した間抜け面は返ってこなかった。

 次の駅に到着すると、息子はまた戸袋のドアを引っ張り出そうとした。俺は好きにさせてやれと、黙ってその指先を眺めた。すると、優先席から老婦人がヒラヒラと手を振りながら声を上げた。

 「ほらほら、危ないよ」

 ドアが閉まると同時に俺は身体を捻り、戸袋から小さな指を引き出した。あいつは不満げな声を上げ、再び列車は走り出した。

 戸袋に突っ込まれた指は真っ黒だ。

 「あぁあ」

 俺はその指をあいつのTシャツの裾で拭い、優先席へ小さく頭を下げた。顔を上げれば同じ顔した老人が並んでいる。ギョッとした。老婦人、老紳士が皆一様に優しい笑みを浮かべながらこちらを見つめているのだ。寛大で間の抜けたような顔。それはまるで俺が求める末の姿だった。思わず息子を抱き寄せた。いつまでも優しい気持ちでいられるように、あいつを強く抱きしめた。


くまのもりさん

  ある日 森の中 熊さんに 出会った♪

  昭和から時が止まったような百貨店。俺はその屋上遊園地でBGMにあわせてキュートに振る舞う。演劇サークルの先輩の勧めではじめた熊のバイトは、大学を辞めてからも続け、気付けば15年が経つ。

 華やかなキャンパスライフへの期待も束の間、どうにも性に合わず堕落した。先輩を恨んではいない。熊として生きることには仄かな喜びを感じている。

 絶えず笑顔を浮かべる熊の中には、うまく笑えない俺がいる。それでも、少女は俺に笑顔をくれる。白い貝殻の小さなイヤリング♪

 子供相手の商売だから、仕事は17時きっかりに終了する。

 「森さん、いつもお世話様。ありがとね」

 屋上遊園地の園長は目尻にしわを浮かべて俺をねぎらう。彼女とのつきあいも15年になる。どことなく母の面影がある彼女のくたびれた笑顔を見ると、涙があふれそうになる。

 お世話様です。

 それは、タクシーを降りる時に母が決まって使う言葉だった。

 「御世話様」は、広辞苑にも載っている。自分のために尽力してくれた人に、ねぎらいや感謝の意を表して言う語である。幼い時分、母をまねて口にしていたが、青い時分、それは古くさくて恥ずかしい言葉だった。今では、母のイメージと重なって美しい言葉として記憶されているが、とても口にすることができない。

 俺は礼儀として熊の頭を脱ぎ、不格好な笑みを浮かべて小さく頭を下げた。

 「また明日」

 そう言い続け15年、毎日、俺は律儀にここへやってくる。

 繰り返される日々の中、ある日、心境の変化が訪れた。きっかけは熊が新調されたことだった。

 「記念にこれもらって帰るかい?」

 園長は目尻にしわを浮かべて笑んだ。そんなことを言われるとは思ってもいなかったが、考えてみれば人生の1/3以上をともにした俺の分身だ。その無機質な笑顔と目が合うと、処分されるのを見過ごすわけにもいかない。

 「もらって帰ります」

 俺にしては珍しく強い意思表示だった。園長に笑顔があふれた。そして、俺は熊をゴミ袋に突っ込んで自転車の荷台に乗せると、そいつを片手で押さえながら走って帰った。

 ひょっとしたら園長は俺の貧窮した生活を知っていて、暖をとるために熊を持たせたのかもしれない。もしくは、単に粗大ゴミのコストを気にしただけか。いずれにしろ、すっかり俺の臭いが染み着いたその熊は、冷える夜に心地よかった。

 ある夜、無性にタバコが欲しくなって自販機へ向かうことにした。いつもなら熊を脱いで出かけるところだが、着たまま行ったらどうだろうと思い立つ。この辺なら深夜にそれほど人通りはない。なにより、この格好は暖かく心地よかった。

 もちろん頭は被らず出かけた。途中、何人かとすれ違ったが、さほど気にかける様子もなかった。頭を被って出かけても平気だったかもしれない。

 日中はいつものように屋上遊園地でキュートに振る舞う。内心、新調された熊は馴染みが悪く、新品特有の臭いとともに不愉快だった。そして、少女がいない。いつも遠目に微笑みながら俺を眺めるお嬢さんがいないのだ。辺りを見回せば、誰も俺を気にかけていないこと気付く。不意に不安を覚えた。

 アパートに帰ればすぐに俺の熊に着替えた。テレビをつけて缶ビールを呷る。もう随分ベテランの域に達した芸人が、半裸で氷水に突き落とされた。ちっとも気が紛れずテレビを消す。そして、熊の頭に手を伸ばした。そいつを被って姿見に映せば、いつもの笑顔。俺は両脇を締めてキュートに両手を振る。馴染んだ肌触りと臭いに安心感を覚えた。そのまま横になって時を待つ。

 今夜、本来の姿で真夜中を彷徨しよう。

 お嬢さんお待ちなさい♪

 そんな一節を口にすると、張り付いた笑顔の中でいくらか笑えた。


宍戸パーフェクト・デイ

 宍戸は拳を突き上げて大声で叫んだ。
 そして、ギターを振り回して大の字に倒れ込む。随分と派手なパフォーマンスの後、音が止んでまばらな拍手が響く。そして、終演。俺はステージから退場する度、首筋に嫌な汗をかいた。
 そんなあいつも今では随分落ち着いた。歳をとったせいだろうか。二浪して三流大学卒とはいえ、俺とそう違いないのだが。
 昔話を思い出したのは、定例の呑み会で宍戸が妙な話をはじめたからだ。
 「いきなり小学生くらいの女の子にボールぶつけられたよ」
 宍戸はカウンターに突っ伏したまま、好物の牛すじ煮込みにも箸が進まない。
 「随分落ち込んでるな」
 「その後だよ。なんて言われたと思う?」
 俺は首を傾げる。
 「ガラクタ」
 酒の勢いに任せて、俺は遠慮のない笑い声を響かせた。
 「ガラクタだぞ」
 宍戸は顔をしかめて繰り返す。恵比寿顔の店長も笑いをこらえきれなかったようで、背中を向けて肩を震わせた。
 「見た目は可愛い女の子だったからな。油断したよ。俺が絶句してる間に笑って逃げていきやがった。悪気はないのだろうが、なきゃいいってもんでもないだろう」
 小鉢に箸を突き立てて、宍戸は続けた。
 「大声で怒鳴りつけてやればよかったよ」
 最近、宍戸の大声を聞いていない。なかなかそんなシチュエーションはないが、昔はそうでもなかった。昼間のキャンパス。夜の商店街。早朝のプラットホーム。あいつはステージに限らず、どこだって拳を突き上げて大声で叫んだ。何に対してそんなに声を枯らす必要があったのか。
 時折、その叫びは俺にも向けられた。
 「引いてんじゃねぇよ。もっと来いよ」
 ライブの打ち上げで呑めもしない酒を舐めると、本音がこぼれた。俺たち(正確には、ドラムを叩く気のいい後輩を除いた俺と宍戸)は、決して優れたプレイヤーではなかった。宍戸のパフォーマンスと雄叫びで煙に巻いていたことは否めない。歌詞を間違えればポゴダンス。誰にも気付かれないムーンウォーク。それでも飽きたらず、ギターを放棄して、できもしないコサックダンス。もはや駄々をこねた餓鬼にしか見えない。そんなもんを俺に求められても困る。あれは宍戸だから赦されるのだ。語如語如言い返しているうち、あいつは眠りに落ちた。
 よっぽど「ガラクタ」に傷ついたのか、あいつは俺のジョッキを引き寄せて琥珀色の液体を見つめた。
 「心から完璧だと思える一日があったら、死んでもいいな」
 突然、何を言う。
 「ご長寿世界一が夢だったんじゃないのか?」
 「死んでもいいくらい完璧だったら死んでもいいだろ」
 「そりゃ、おまえの夢が叶った時じゃないのか?」
 「世界一の年寄りになった日か」
 「だな」
 「そりゃ、死んでもいいわな」
 宍戸の目尻にしわが刻まれる。やっぱ老けたな。

 あいつは以前こんなことを俺に語った。
 誰よりも年寄りになって、皺だらけの気色悪い顔で笑ってやる。長生き以外に取り柄のない男が、世界中を見下ろして言うんだ。
 「儂が全部許してやろう」
 皺だらけの宍戸が拳を突き上げて大声で叫ぶ。俺はそんな姿を想像した。
 そして、杖でも振り回して大の字に倒れ込む。随分と派手なパフォーマンスの後、まばらな拍手が響く。そして、終焉。
 不意に、少女の「ガラクタ」発言を思い返して鼻が鳴る。身も蓋もない。
 宍戸は俺のジョッキを持ち上げてビールを呷った。
 「あ」
 俺と店長の声が重なる。ため息をついて目を合わせると、変わらぬ恵比寿顔が小さく頷いた。

そのすてきなワンピースを僕にください

 ワンピースをください。もし、よろしければ、そのすてきなワンピースを僕にください。
 暖かな日差しに包まれた川辺。君は日傘のようにくるりと一回転。きっと、君が見ている世界は、僕が見ているものより何倍も鮮やかなんだろうね。
 大切なヒトにそのワンピースをプレゼントしたいな。そんな風に思ったら、なんて声をかけたらいいだろう。
 「そのすてきなワンピースを僕にください」
 案の定、君は怪訝な顔をした。でも、すてきなワンピースを着ていた君のせいでしょう。
 「ワンピースなんてどうするの?」
 僕が着るとでも思ったんだろう。いきなりそんなことを言われたら、きっと誰だってそう思うよ。僕は慌てて首を振った。君は首を傾げた。
 「そのすてきなワンピースを着せてあげたいヒトがいるんだよ」
 君が言うには、そのワンピースは自分で仕立てたものなんだって。だから、二つと同じものはないんだって。そんなことを言われたら、ますます欲しくなっちゃうじゃない。
 「今日、誕生日なんだよ」
 「じゃあ、ますますダメね。同じものを作ってあげる時間もないじゃない」
 「そうでもないよ」
 「そうなの?」
 「今日、生まれるんだから」
 君は目を丸くして、それから両膝に手をついてまっすぐに僕を見た。
 「お兄ちゃんになるんだ」
 「きっとかわいい女の子だよ」
 「ワンピースか。一歳の誕生日には着られるかしら」
 「一年後か。随分と先だね」
 「あっという間よ」
 「なんでそう思う?」
 君は曖昧に微笑んだ。割といい加減だね。今日はそのワンピースをよく見させてもらうよ。そして、すてきなワンピースの物語を聞かせてあげるんだ。

 

 あっという間に二〇年が過ぎた。俺はあの日のことを思い出しながら川辺に足を運ぶ。西日の照り返す川面に目を細めながら君を思い返す。まだ俺はガキだったから、一年後と言っておけば、すぐに忘れると思ったのだろう。まったくその通りだった。一年後にどうやってワンピースを受け取るつもりだったのか。そんな約束すらしなかった。ロマンチックで詰めのあまいガキだった。
 しかし、結果的にそれでよかったのだ。予定日から一日遅れで生まれたのは可愛くもない野郎だったのだから。
 一〇歳下の弟だ。勿論はじめのうちは可愛かったよ。でも、ある日、一〇年の間君臨していた王座が奪われていることに気がついた。指をくわえて見ていれば、あいつはすくすく生意気なガキに育っていった。

 「よう」
 俺は無愛想に手を挙げる。
 目の前には、間もなく二〇歳を迎える、可愛くもない弟がいる。
 「元気ぃ?」
 あいつは屈託ない笑顔を浮かべた。容姿端麗。おふくろが憧れるほど白い肌が橙色に染まる。どうしたらいつまで経ってもそんな笑顔でいられるのか。まったく不思議でならない。
 「一〇代最後の日を兄貴と過ごすことになるとはな」
 俺を兄貴だなんて呼んでいたろうか。
 「二〇歳の誕生日よりは都合がつくだろう」
 「明日だって暇だよ」
 変に気を使われた気がして俺は苦笑いを浮かべた。こっちだっておまえが来るとは思わなかったよ。不意に二〇年前のことを思い出してメールをしたのだ。でも、来るよな。俺だって弟に呼び出されたら何事かと気を揉むに違いない。
 「突然、悪かったな。大学は楽しんでるか?」
 すると、不意に子供じみた笑みを浮かべた。
 「興味ないくせに」
 「んなこたねぇよ」 
 俺は狼狽気味に声を荒らげる。
 「二〇年前、ここでさぁ 」勢いに任せて言いかけた言葉をすぐに飲んだ。「 おまえ、今日産まれる予定だったんだよ」
 「それ、聞いたことあるな。女の子の予定だったんだろ」
 「よく知ってるな。見えるべきもんが隠れてたんだってよ。男の子を女の子と間違えることは割とあるらしいな」
 「で、ここで何?」
 俺は口元を歪めた。いざ口にしてみようと思っても、三〇過ぎのオッサンが野郎に向かってすてきに語れるような話ではない。あいつは真っ直ぐな視線で俺の言葉を待っている。何よりあいつを可愛がるおふくろの気持ちが分からないでもない。
 「要するに、たまにはおふくろに顔を見せてやんなって話しだ」
 「なんだそりゃ?」
 実際、弟を家に連れて帰ることも大きな目的だった。
 「おまえ妙に薄情なところあるよな。こっちから連絡しないと、家出たっきりじゃねぇか」
 「なんだよ。説教かよ」
 弟はむくれて眉をひそめた。
 「兄貴の特権だ」
 俺も歳をとったのか。
 また、あいつが可愛いやつに思えることがある。
 ちょっとだけ。
 ちょっとだけだよ。



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