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真っ白けっけ

 360度真っ白な世界。
 さて、ここからどうやって再スタートを切るか。どうしたらいいものか見当もつかない。呑み会の席で迷い無くいつまでも喋り続けるおまえ。心から尊敬するよ。でも、そのスキルを求むわけではなく、本当はSF漫画で見たように、等調液に浸かってブクブク培養されていたい。好きな音楽でも聞きながらブクブク。朝から続く奥歯の違和感も気にせずブクブク。
 反面、存在は示したいだろう。米国的ロマンティシズム、飛行機雲でMarry Me!なんて、他人様から祝福ありきの感動。やりすぎだろ。でも、気づかれないのは寂しいな。全く面倒な男。博物館にでも展示してもらえないだろうか。
 「誰かいますか?」
 俺の声がこだまする。
 「俺がいますよ」
 こだまに答える。
 目の前には扉があって、その先には日常がある。
 ここに入ったら一からスタート。俺が決めたルール。
 壁も、床も、天井も、扉も、ドアノブも真っ白な世界。床は元々深緑色だったけれどペンキで塗り替えた。ついでにドアノブも白にした。残されたのはTOTOの文字くらい。ここは便所だから。
 胃袋と膀胱に溜まっていたものは粗方排泄した。それでも既に吸収されてしまった豚肉やらが、未だに俺の満腹中枢を刺激している。アルコールに浸った脳味噌がタプンタプンと音を立てる。
 便器に突っ込んでいた頭を持ち上げ、俺は服を脱ぎ捨てた。
 「嗚呼」
 声を漏らして、便座に腰を下ろす。背筋を伸ばして両耳に両手。そのまま真っ直ぐ上に腕を伸ばし頂点でつなぐ。頭を垂らせば目の前には醜く膨らんだ腹。大きく息を吸ってさらに膨らませる。
 「一輪挿しっ」
 俺の声がこだまする。阿呆らしくて笑えた。自然と涙が溜まる。続いて、俺は両膝を抱え込んで丸くなる。鳩尾と太股の間に腹の肉が挟まる。
 「角煮割包(カーパオ)っ」
 涙が溢れた。言っておくが、笑えたせいだよ。
 体が重い。等調液に浮かんでいたい。ブクブク培養されながら博物館の展示物にでもなってしまいたい。誰にお願いすればいいのだろう。常設展『全く面倒な男』。
 朝から続く奥歯の違和感。朝食の冷飯が未だ奥歯に詰まっているような。冷蔵庫の中で逆行してパッサパサになった飯。そのパッサパサ具合を確認せずに納豆をかけてしまったら、もうレンジには突っ込めない。熱々のご飯に納豆はいいが、熱々の納豆はいただけないだろう。仕方なくパッサパサになった飯を奥歯で噛み砕く。納豆の滑りと米粉のハーモニー。今日一日の敗北感はここに起因するのかもしれない。
 奥歯の違和感、腹の異物感、脳味噌の浮遊感を押し殺し、俺はこの白い部屋を抜け出す。ひとまず眠ろう。ごめんなさい。今夜は節電できません。キンキンに冷やした部屋の中、布団にくるまって眠りたい。いくらか快適な睡眠がとれたなら、明日もまた行けるだろう。何も考えず、満員電車に乗り込むことができるだろう。


いいやつら

 虫は殺さない。特にカゲロウ。成虫は口が退化していると知ったのは国語の授業だった。幼虫時代の罪を成虫になって贖うような潔さ。でも、意外と活発に逃げ回る。家に飛び込んできたカゲロウを追い出すのは、まったく一苦労だった。
 平日は程良く社会と向き合い、週末は惰眠。そして、俺は佐藤からの電話で目を覚ました。
 「なぁ、今夜、暇か?」
 「暇だけど」
 何より暇を愛している。それなのに、「暇」=「都合がつく」と勘違いしているヤツが多い。
 「じゃあ、『田村さ来』集合な」
 「それより、いつになったらパンダ持って帰るんだよ」
 「わりぃ、今ちょっと立て込んでっから」
 ツーツーツー。空しい音が耳を打つ。
 「なんなんだよ」
 俺は呟いて、携帯を閉じた。
 部屋の隅には、巨大なパンダのぬいぐるみがだらしなく寝そべっている。その姿に思わず笑えた。
 「おまえから電話したんだろ」
 俺は、そいつに携帯電話を投げつけた。
 パンダが好きな彼女のために佐藤が用意したプレゼントだった。しかし、生憎、誕生日には別な男の先約があったそうだ。そして、お楽しみの惰眠中に、馬鹿でかいパンダを抱えて男泣きするあいつが現れた。どう対処したらいいものか悩まされ、ひとまず、アパートに迎え入れたのが運の尽き。それ以来、パンダが住み着いてしまった。
 ほぼ等身大のパンダだ。愛くるしい瞳、佐藤の思い出、廃棄料、なにより等身大。捨てようにも捨てにくい理由がいくらもある。一度思い切って粗大ゴミに出したところ、その夜に牙をむいたパンダがアパートを叩き壊しにやってきた。そんな夢を見た。どうやら俺の一番の懸念は、そんなSFじみた恐怖のようだった。
 『田村さ来』にパンダを持っていってやろうか。
 集合だなんて言っても、沙希とあいつしかいないのだ。金がないのに酒が呑みたくなると、俺たちは小銭を持って沙希の家に押し掛けた。彼女は一皿50円程度の料理を拵えて100円で提供する。甲類焼酎のペットボトルをキープしているから、500円もあれば十分に呑み喰いできるのだ。俺たちは沙希のアパートを某大衆居酒屋に因んで『田村さ来』と呼んでいる。
 安酒が呑める以外にも、定期的に『田村さ来』へ足を運ぶには理由があった。それは、引きこもりがちな沙希の様子を見に行くためだ。
 「あいつ顔がいいからな。もっと幸せになってもいいと思うんだ」
 その発言はどうかと思うが。
 「じゃぁ、おまえが付き合えよ」
 「あいつ暗いからなぁ」
 佐藤は思ったことを口にしないと気が済まない質だ。
 俺たちは沙希を通じて知り合った仲だった。あの頃、俺は新商品アンケートを勧誘するアルバイトをしていた。
 「缶コーヒーを飲んで、簡単なアンケートにお答え頂くだけで、商品券を差し上げています」
 俺が懸命に誘い込んでいる間、沙希は終始困った表情でそれを拒んでいた。そして、彼女が逃げるように駆け出したところ、「パンダ」にぶつかった。正確に言えば、「パンダのキャラクターが描かれたTシャツを着た佐藤」にぶつかった。
 「痛いっ」
 沙希はその場でしゃがみ込んだ。佐藤は何を思ったのか、俺に睨みつけてから彼女に手を差し伸べた。途端、佐藤は表情を変えた。
 「田村沙希っ!?」

 二人は中学校の一年間を同じクラスを過ごした間柄だった。特に親しい仲ではなかったが、佐藤は覚えていた。やはり、当時から「顔はいいけれど暗い女」だったからだろう。手を取ろうとしない沙希の腕を掴んで、佐藤は彼女を引っぱり上げた。
 彼女はさらに困惑した様子で目を泳がせる。半分は佐藤のせいだろうに、あいつは再び俺に睨みを利かせた。
 「あんた、田村沙希に何したのよ?」
 想定外の展開に困惑したあげく、俺の口から型通りの台詞がこぼれた。
 「缶コーヒーを飲んで、簡単なアンケートにお答え頂くだけで、商品券を差し上げています」
 佐藤はヒトを小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
 「はぁ?」
 それは希に見る腹立たしいもので、俺は柄にもなく語気をあげた。
 「アンケートに答えるだけで3000円も貰えるんだよ。俺も以前こんな風に捕まったんだけどね。でも、本当に簡単なことで3000円が貰えたんだよ。それってとてもいいことだろ。そんな顔すんなよ。こっちは胸張って勧誘してんだよ」
 佐藤は俺の勢いの気圧され苦笑い。沙希の目なんかもうバタフライ。そして、あいつは溜息一つついてから、思わぬことを言い出した。
 「分かったよ。じゃぁ、俺がそのアンケートに答えりゃいいよな」
 途端、俺は阿呆みたいに畏まる。
 「ありがと、ございます」
 小さく頭を下げ、佐藤をビルの一室へ案内した。
 そして、あいつは缶コーヒーを飲んで、簡単なアンケートに答えるだけで、商品券を受け取ったのだ。
 会場から出てきた佐藤はご機嫌だった。
 「本当に3000円もらえたな」
 「だからそう言ったじゃないですか」
 エレベーターを降りて、ビルの外まで佐藤を見送ると、そこには沙希がいた。もう落ち着いた様子で、真っ直ぐにこちらを見ている。そして、俺たちを見つけるなり頭を下げた。
 「ごめんなさい」
 なんで謝るのだろう。そんな疑問よりも先に、きれいな子だな。そう思った。
 『田村さ来』に集まると、よくその日のことを思い返す。
 「沙希は、なんであの時いきなり謝ったんだ?」
 「なんだか、二人ともいいヒトだっかから」
 沙希にそう言われると、とても気分がいい。そして、俺たちはついついいいヤツになってしまう。
 「その後の佐藤の発言もよかったよな」
 「なんて言ったっけ?」
 とても良かったと俺は思うんだ。
 「この出会いを大事にしたくなってきたぞ」
 その一言で俺たちの付き合いがはじまったのだから。
 結局、等身大パンダはアパートに置いてきた。
 あのパンダは、きっと、俺の家にある方が都合いいのだ。


4パンクス

 俺たちは黙り込んで缶コーヒーを啜る。彼奴は俺たちを呼び出しておいて一体どれだけ待たせるのだ。誰がリーダーと言うこともないが、アガリがいないとどうもまとまりがない。というより、間が持たない。

  「おい、彼奴はいつになったら来るんだよ」

 ビッグスクーターに跨がったサルが俺に視線をぶつける。アガリが何かやらかすと、一番付き合いの長い俺に矛先がが向けられる。そのため、俺も何となくNo.2を気取っているが、彼奴のように気の利いた話題を持ち出すことができない。 壁にもたれたマンボウが、文庫本から顔を上げて妙なことを言いだした。

 「アガリが来ないのは俺のせいかもしれないよ」

 「何かしたのかよ」

 サルは眉間に皺を寄せて、マンボウへ首を捻る。

 「昨日、アガリから電話があったんだけど、俺、出なかったんだよね。留守電に集合の連絡が入っていたのは分かってたんだけど、面倒くさくなっちゃって折り返さなかったし」

 「なんだよ。おまえには電話があったのか。俺にはメールだけだぜ」

 サルに電話すると長くなるからな。俺は内心呟いた。彼奴を庇うつもりはないが、マンボウの言うことのも納得いかないね。俺の知る限り彼奴はそんな小さなことに拘る男ではない。

 俺は一週間も前から今日のことを聞かされていた。その日は、やはりこの男4人でミナトミライへ繰り出していた。ジェットコースターがゆっくりと登り詰める間、俺の隣でアガリは言った。

 「来週、またみんなで集まろう」

 アガリはいつもの通り、一点の曇りも無い微笑みを浮かべていた。

 「誰も欠けちゃなんないよ。この4人がいいんだ」

 コースターが降下をはじめ、空に溶けるようなアガリの声は、途端、猟奇じみた絶叫へ変わった。

 「アガリは来るよ」

 俺は確信を持って言った。

 「そりゃ、彼奴のことだから来るだろうけどよ。でも、どんだけ待ちゃいいんだよ」

 サルが不満そうに缶コーヒーを啜りあげる。

 それから、またしばらくの沈黙が続いた。秋風が落ち葉を鳴らす。俺は空っぽになったコーヒー缶に口を付ける。こんな時、タバコを吸う奴は便利だと思う。さり気なく立ち上がって、みんなと少し距離を置いたところで火を付ければいい。でも、俺はタバコはやらない。考えてみれば、アガリ以外に誰も吸わない。

 マンボウは再び文庫本に目を落とし、時折、腹の肉を摘んでは引っ張る。サルはイライラした様子で、両膝をドラムに見立ててリズムを刻む。彼奴が音楽をやっているなんてことは聞いたことがないけれど。俺は耳にイヤホンを突っ込んで、メランコリーなナンバーにでも浸っていたいところだが、みんなで過ごす時間に耳を塞ぐことは阻まれる。

 マンボウの文庫本はどうなのよ。でも、彼奴はそんなキャタラクターとして認知されているから、色々なことが許される。何が悪いでもないのだが、彼奴は何か許されているような気がする。何をしても、何もしなくても。何を言っても、何も言わなくても。

 サルだってそうだ。彼奴は気の短い男としてキャラクターが成り立っている。シートから飛び降りた彼奴は、飲み干したコーヒー缶を足下に立てて、勢いよく踏みつぶす。うまく潰れず、舌打ちを一つ。そして、空き缶を空へ蹴り上げた。

 俺はどうだ?

 自意識過剰で、気が弱くて、No.2を気取っている。そんなキャラクターとして認知されているのだろうか。そんなことなら認知されなくて結構だ。理解しがたい奴で構わない。それでも、きっと俺がみんなを理解している程度に、みんなは俺を理解しているのだろう。

 理解した上で認め合う。なんだ、お互い様じゃないか。

 携帯電話が震えた。フリップを開けばアガリのメールだ。

 

  お台場には、自由の女神がいるらしい。

 

  「アガリか?」

 携帯電話に向かって眉を顰める俺に、サルが尋ねた。俺はうなずく。

 「なんだって?」

 マンボウが問いかけに、俺はメールを読み上げる。

 「そんなこたねぇだろ」

 サルが即座に否定し、マンボウは「へぇ」と口を尖らせる。

 わりと有名な話だと思うのだが、水を差すようなことを言わないでおく。

 「なんで、お台場にそんなもんがあるんだよ?」

 なんでと言われても知るわけがない。続いて、マンボウは自由の女神がなんたるかを語り始める。

 「そもそも自由の女神ってのはさ、1886年にアメリカ独立100年を記念してフランスから送られたものなんだよな」

 だからお台場にあるはずがない。そう言いたいわけでもなさそうだ。単に蘊蓄を披露したかったのだろう。

 「お台場は日本からの独立を企んでいるわけか」

 サルは顎に手を添えて阿呆なことを言う。

 やがて、聞き慣れたマフラー音が近づいてきた。

 「悪い悪い、ちょっとガススタで女神様話しに盛り上がっちゃてな」

 アガリは大して悪がる様子もなく、目の前にバイクを横付けする。俺が後ろに跨がると、サルの後ろにマンボウが跨がる。

 アガリとサルのマフラーが互い違いに唸る。行き先はお台場。アガリの本来の目的は何だったのか。あえて尋ねるつもりはない。少なくとも女神様より大したことではない訳だ。

 「行こか」

 アガリが振り返る。それは、いつもの通り、一点の曇りも無い微笑みだった。


戸袋に引き込まれないように

 小さな息子を抱えて列車の扉にもたれる。行き先は決めていない。あいつが電車に乗りたいとせがむから、何も考えずに乗り込んだのだ。この休日は何処だってあいつが行きたいことに連れて行ってやろうと決めていた。先週、無理矢理携帯ショップに付き合わせた挙げ句、嫌がるあいつの坊主頭をひっぱたいてしまったから。

 息子は窓の外を眺めながら、時折、行き過ぎる対向列車に歓声を上げる。俺は機種変更したばかりの携帯電話をいじりながら眉間にしわを寄せる。

 隣駅に到着すると勢いよくドアが開き、寄りかかっていた身体を慌てて起こした。ドアは戸袋へ収まる。すると、息子は小さな指でそいつを摘み出そうとした。完全に開ききったドアだから引き込まれることは無かろうが、戸袋に指を差し込む行為には不安を覚える。やがて発車のベルが鳴り、俺は身体を捻って小さな手を戸袋から引き離した。

 再び列車が走り出すと、たくさんの車両が集まる操作場に差し掛かった。息子は興奮のあまり全身をバタバタさせながら「電車、電車」と騒ぎ出す。俺はあいつを落としそうになり、両腕に力を込めた。小さな両手は無尽蔵に振り回され、俺の頭をひっぱたき、新品の携帯電話を叩き落とした。

 「のあ!」

 思わず大きな声が漏れ、顔を隠すようにその場のしゃがみ込む。いったん息子を下ろして携帯電話を拾い上げると、何故下ろすのだ?電車が見えないではないか。と、悲嘆の表情で訴えた。思わず手が伸び、坊主頭に一発。そして、ため息をもらして再び息子を抱え上げた。

 対向列車が走れば、拳骨のことなどすぐに忘れて声を上げる。列車が通り過ぎると車窓から操作場は消えていた。俺は携帯電話に傷が付いていないかどうかを確かめ、我ながら小さい男だと自己嫌悪する。

 「ごめんな」

 一言呟いて坊主頭をなでると、無垢な瞳が俺を射した。何故撫でてくれた?と、尋ねているようだ。寛大というか、間が抜けているというか。

 あまりに寛大な男が間抜けと紙一重に思えることがある。そんな男に憧れもする。表面的には大らかなようでいて必死に己を殺す。結局、押さえきれずに愛すべき坊主頭をひっぱたく。昔からそんな風にして生きてきたように思うのだ。

 坊主頭をもう一度撫でる。あいつは車窓に食い入ったまま、期待した間抜け面は返ってこなかった。

 次の駅に到着すると、息子はまた戸袋のドアを引っ張り出そうとした。俺は好きにさせてやれと、黙ってその指先を眺めた。すると、優先席から老婦人がヒラヒラと手を振りながら声を上げた。

 「ほらほら、危ないよ」

 ドアが閉まると同時に俺は身体を捻り、戸袋から小さな指を引き出した。あいつは不満げな声を上げ、再び列車は走り出した。

 戸袋に突っ込まれた指は真っ黒だ。

 「あぁあ」

 俺はその指をあいつのTシャツの裾で拭い、優先席へ小さく頭を下げた。顔を上げれば同じ顔した老人が並んでいる。ギョッとした。老婦人、老紳士が皆一様に優しい笑みを浮かべながらこちらを見つめているのだ。寛大で間の抜けたような顔。それはまるで俺が求める末の姿だった。思わず息子を抱き寄せた。いつまでも優しい気持ちでいられるように、あいつを強く抱きしめた。


くまのもりさん

  ある日 森の中 熊さんに 出会った♪

  昭和から時が止まったような百貨店。俺はその屋上遊園地でBGMにあわせてキュートに振る舞う。演劇サークルの先輩の勧めではじめた熊のバイトは、大学を辞めてからも続け、気付けば15年が経つ。

 華やかなキャンパスライフへの期待も束の間、どうにも性に合わず堕落した。先輩を恨んではいない。熊として生きることには仄かな喜びを感じている。

 絶えず笑顔を浮かべる熊の中には、うまく笑えない俺がいる。それでも、少女は俺に笑顔をくれる。白い貝殻の小さなイヤリング♪

 子供相手の商売だから、仕事は17時きっかりに終了する。

 「森さん、いつもお世話様。ありがとね」

 屋上遊園地の園長は目尻にしわを浮かべて俺をねぎらう。彼女とのつきあいも15年になる。どことなく母の面影がある彼女のくたびれた笑顔を見ると、涙があふれそうになる。

 お世話様です。

 それは、タクシーを降りる時に母が決まって使う言葉だった。

 「御世話様」は、広辞苑にも載っている。自分のために尽力してくれた人に、ねぎらいや感謝の意を表して言う語である。幼い時分、母をまねて口にしていたが、青い時分、それは古くさくて恥ずかしい言葉だった。今では、母のイメージと重なって美しい言葉として記憶されているが、とても口にすることができない。

 俺は礼儀として熊の頭を脱ぎ、不格好な笑みを浮かべて小さく頭を下げた。

 「また明日」

 そう言い続け15年、毎日、俺は律儀にここへやってくる。

 繰り返される日々の中、ある日、心境の変化が訪れた。きっかけは熊が新調されたことだった。

 「記念にこれもらって帰るかい?」

 園長は目尻にしわを浮かべて笑んだ。そんなことを言われるとは思ってもいなかったが、考えてみれば人生の1/3以上をともにした俺の分身だ。その無機質な笑顔と目が合うと、処分されるのを見過ごすわけにもいかない。

 「もらって帰ります」

 俺にしては珍しく強い意思表示だった。園長に笑顔があふれた。そして、俺は熊をゴミ袋に突っ込んで自転車の荷台に乗せると、そいつを片手で押さえながら走って帰った。

 ひょっとしたら園長は俺の貧窮した生活を知っていて、暖をとるために熊を持たせたのかもしれない。もしくは、単に粗大ゴミのコストを気にしただけか。いずれにしろ、すっかり俺の臭いが染み着いたその熊は、冷える夜に心地よかった。

 ある夜、無性にタバコが欲しくなって自販機へ向かうことにした。いつもなら熊を脱いで出かけるところだが、着たまま行ったらどうだろうと思い立つ。この辺なら深夜にそれほど人通りはない。なにより、この格好は暖かく心地よかった。

 もちろん頭は被らず出かけた。途中、何人かとすれ違ったが、さほど気にかける様子もなかった。頭を被って出かけても平気だったかもしれない。

 日中はいつものように屋上遊園地でキュートに振る舞う。内心、新調された熊は馴染みが悪く、新品特有の臭いとともに不愉快だった。そして、少女がいない。いつも遠目に微笑みながら俺を眺めるお嬢さんがいないのだ。辺りを見回せば、誰も俺を気にかけていないこと気付く。不意に不安を覚えた。

 アパートに帰ればすぐに俺の熊に着替えた。テレビをつけて缶ビールを呷る。もう随分ベテランの域に達した芸人が、半裸で氷水に突き落とされた。ちっとも気が紛れずテレビを消す。そして、熊の頭に手を伸ばした。そいつを被って姿見に映せば、いつもの笑顔。俺は両脇を締めてキュートに両手を振る。馴染んだ肌触りと臭いに安心感を覚えた。そのまま横になって時を待つ。

 今夜、本来の姿で真夜中を彷徨しよう。

 お嬢さんお待ちなさい♪

 そんな一節を口にすると、張り付いた笑顔の中でいくらか笑えた。



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