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はじめに

 密室で行われている容疑者の取り調べ……

 取り調べ全面可視化の必要性を自認するベテラン刑事係長の秋山晴彦は、殺人事件の犯人として自首して来た男の取り調べを担当することになる。

 取り調べを続けて行く中で、男の自供内容に疑問を持つようになった秋山は、真相解明に向けた追及を続けるが、調べ室での光景が、警察が新しく取り入れた、「取り調べの監督官制度」に規定する監督対象行為に当たると誤解され、取り調べ担当から外される。

 担当を外された秋山は、新任の川部刑事に刑事のあるべき姿を教えながら、事件の真相に迫って行く……

 捜査の過程で、公園の片隅に植えられている「槿の花」に、犯罪被害者の悲しみの真実が隠されていることを知る。 

 警察の容疑者取り調べをテーマに、プロットを立てた小説である。


自首 1

 休日明けの月曜日、金沢中央警察署刑事一課第一係長の秋山晴彦は、普段通りに職場へ出勤した。

 刑事一課の部屋には刑事が1人もおらず、無線のモニターからパトカー無線の開閉局の通話が流れているだけであった。

 1人だけ仲間外れになったような気持ちで自分のデスクに座り、部屋の正面壁に掲げられている書の額をぼんやり見ていた。

 額には「鬼手仏心」と書かれている。

 秋山は、課員1人1人の顔を思い浮かべながら呟いた。

「もしかしたら、「鬼面仏心」を間違えたのでは?」

 刑事一課長が足早に部屋の中に入って来て、自席の電話の受話器を取りながら、秋山の姿を見て言った、

「秋さんには連絡しなかったが、金曜日に殺しがあって帳場を立ち上げた。今朝方犯人が自首して来たので、岡部係長に自首調書を巻いてもらっている。記録のまとめも岡部係長に頼んであるが、被疑者の調べを秋さんにお願いします。帳場は3階の小会議室です」

 刑事一課長は、一方的に言いたい事を言って、卓上の警察電話で何処かへ電話をしていた。

「え…… 殺しがあったのですか?」

 秋山は、一瞬複雑な思いで返事を返していた。

 なぜなら、県外にいる叔母の葬儀出席を理由として、金曜日に年休を取り、金・土・日と県外へ行っていた事については、上司に虚偽の旅行届けを出していたのだ。

 管内に凶悪事件が発生したにも係わらず、身内に不幸があった事を気遣って、担当の係長に一言も連絡を入れなかったのは、課長の心遣いである事が秋山には痛いほど分かっていた。

 五十路に手が届くようになった秋山は、27年刑事の飯を食った御蔭で、担当する部署において凶悪事件が発生したときは、何をおいても駆けつける習性が身に付いており、管内に殺人事件が発生した事を知ったなら、「来なくていい」と言われても、県外から飛んで帰って来る性格だ。

 秋山の上司である刑事一課長は、秋山より一回り年が若くて刑事経験も少ないが、秋山の性格は良く知っており、刑事としての秋山の実力に敬意を払うとともに、日頃から尊敬の念を持って接してくれていた。

 その証として、刑事一課長が課員を呼ぶときは、名字に階級や係を付けて、岡部係長などと呼んでいるのであるが、秋山にだけは「秋さん」とニックネームで呼んでいた。

 金曜日の年休は、以前取り調べを担当した泥棒玉の面会に、県外の刑務所まで行って来たのだ。

 以前取り調べた男の面会に、県外の刑務所へ行く必要があると言って公務申請すれば、公務出張が認められたのであるが、面会の結果を上司に報告出来ない事が予想されたので、秋山個人の私用として刑務所へ行って来た。

 世間では、休みを取る口実として、身内のだれかに死んでもらい、最終的に死んでもらう身内が1人もいなくなったなどとの笑い話を聞いた事があるが、秋山はその方法を取った。

 勤続31年目に、身内を殺してまで昔取り調べた男に会いに行ったのは、取り調べの結果に責任を持つとの信念が、秋山にそのような行動を取らせた。

 県外の刑務所へ行って面会をして来た男については、7年前に空き巣犯人として秋山が取り調べを担当した男で、全国行脚をしながら繰り返した空き巣の余罪200件位を自供させ、懲役3年の実刑判決で刑務所に服役した男だ。

 秋山の元へは、取り調べた被疑者が拘置所へ移ってからの手紙が良く送られて来るが、1週間前に県外の刑務所から送られて来た手紙は、これまで送られて来る手紙とは意味合いが違っていた。

 手紙には、親愛なる秋山さんへ…… との書き出しで、角ばったペン字で書かれていた。

 刑務所などに入っている者は、時間を持て余している事から、手紙を書くときに辞書を見ながら1字1字丁寧に書く者が多くいる。

 この男の手紙についても、上手い字とは言えないが、丁寧に書いている事は分かった。

 

――秋山さんの調べを受けた事で、心を入れ替えて服役し、出所した後真面目に生活するつもりでいたが、世間の風は思っていた以上に冷たく、心の弱さから再度空き巣を繰り返して全国行脚するようになった。

 県外で空き巣を働いたところ、帰宅した家人に見つかって現行犯逮捕された。

 今回取り調べを受けた刑事には、余罪を話す気持ちになれず、逮捕された事実だけを認めて事件を終わらせ、拘置所で未決囚として裁判を待っている。

 立件された事実は1件だが、常習累犯窃盗で起訴されている事から、最低でも3年の実刑判決を覚悟している。

 あるところで、秋山さんの仲間が書いた極秘文書を偶然手に入れたので、世話になった秋山さんに渡したい。

 9月10日に判決の言い渡しがあり、それ以降は懲役に入るので面会は出来なくなる――

 

 手紙の余白には、刑務所の担当官が検閲をしたときに押す、小さな星マークの青色スタンプが押されており、書かれている内容についても、検閲に配慮した内容で書かれていた。

 刑務所では、刑の執行に入っている既決囚、つまり服役している囚人については、家族しか面会する事が出来ないのであるが、未決囚として拘置所に入っている間は、家族以外の者も面会出来る事になっている。

 既決囚とは、裁判が確定して刑の執行を受けている者を言い、未決囚は裁判を受ける被告人として拘禁されている者を言う。

 このような事から、判決が言い渡される前に会いたいと言って来たのだ。

 県外まで行って話を聞く価値があるかどうかは、手紙の内容から分からなかったが、取り調べで心が通じた相手を信用するのが秋山の性分であり、秋山個人の私用と割り切って休みを取って面会に行って来た。

 拘置所の面会室では、立ち会いの警務官がいた為、謎掛けを言っているような話し方で男は話した。

「秋山係長に渡したい書類を母親に預けてある。書類を見たら驚くと思う。書類は金沢駅付近の豪邸の前で拾った。母親には、書類を秋山刑事に渡すように連絡してある。書類は勝手に処分してもらえばいい」

 男は、立ち会いの警務官に話の内容が悟られないように、意図的に分かりにくく話していたのであるが、男と半年調べ室で付き合った秋山には、〈秋山が興味を示す書類を、金沢駅近くの豪邸から盗んで、母親に預けてあるのでもらって欲しい〉と言っている事が理解出来た。

 刑務所で男と面会をした後、本人の実家を訪ねて、男の母親に事情を説明して書類をもらって来た。

 受け取って来た書類は、県警の捜査二課で作成された、贈収賄事件の構図を一覧表にしたチャート紙で、極秘の印が押してあるが、書かれている内容から16年前のものと認められた。

 書かれている内容があまりにも古く、書類そのものに価値はなかったが、その書類を発見した場所に問題が隠されていた。

 贈収賄事件とは、公務員の職務に関しての不正な金品のやり取りを罰する犯罪の事だ。

 秋山が手に入れた書類は、警察が事件捜査に着手する前の捜査検討会で配布した資料である事は分かったが、過去にこのような事件を県警が検挙したとの話を聞いた記憶はなかった。

 拘置所の面会室での聞き取りでは、書類を盗んで来た豪邸の詳しい場所まで特定出来なかったが、その場所はJR金沢駅の近くに間違いないと思われた。

 受け取った書類については、事実関係を明らかにするまでだれにも言わず、私的に調べて見ようと思いながら帰りの列車に飛び乗った。

 このような理由から、月曜日に出勤するまで、管内で殺人事件が発生している事を知らなかった。

 課長から「帳場は3階の小会議室」と聞いた事から、廊下へ出て3階へ駆け上がった。

 小会議室入り口ドアの右側壁に、「犀川河川敷における男性ライター殺人事件捜査本部」と書かれた戒名が貼られていた。

 貼られている戒名は、真っ白な紙に書かれており、達筆な文字で墨汁の臭いが感じられる真新しいものであった。

 このような値打ちのある筆字を書けるのは、生活安全課の御局と言われている山下女史しかいないはずと思い、山下女史が戒名を書いている姿が目に浮かんだ。

 秋山も、山下女史に頼んで会議の式次第を書いてもらった事があり、山下女史の書体を覚えていた。

 戒名とは、捜査本部を立ち上げた際、捜査本部に付けられる個別の呼び名である。

 一般的に捜査本部事件で一番多いのが殺人事件であり、殺人事件の被害者である死者に戒名が付けられるように、捜査本部にも個別の事件名を付けているのだ。

 また、戒名が付けられている捜査本部事件の現場拠点を、一般的に帳場と言っている。

 捜査員全員が土日を休まずに仕事をしているのに、自分だけ休んで旅行をして来た事に気が引ける思いでドアを開けた。

 帳場として使っている会議室は、80平方メートル位の広さで、右手の方にひな壇と称する捜査指揮官が座る長机が2脚置かれ、その長机を前にして捜査班別に島分けした机が置かれていた。

 帳場に必要な電話機、コピー機、黒板なども全て設置され、黒板には事件の発生日時や場所の略図、被害者の名前などが色分けしたチョークで書かれていた。

 黒板に書かれている文字を読んで、事件は「金曜日から土曜日の朝に掛けて、犀川の河川敷で、42歳のフリーライターが何者かに刺殺された殺人事件」である事が分かった。

 ひな壇にはだれも座っていなかったが、各島の机を囲むようにして刑事連中が座って、それぞれ談笑していた。

 中には、ノートパソコンのキーボードを打っている者や、電話をしている者もおり、これまで見慣れている捜査本部の帳場の光景であった。

 帳場の雰囲気にも色々な雰囲気があり、このときの帳場は、犯人が自首して来た直後である事からか、捜査員のだれもが嬉しくてたまらないような顔をしていた。

 どのような捜査本部事件でも、捜査本部を立ち上げた最初のころは、捜査員の表情に気迫が漂っており、活発な意見が飛び交うような光景もあるのであるが、捜査が長引けば長引くほど、表情も暗くお通やのような雰囲気になって行くのが一般的だ。

 雑談している同僚から「秋さん、どこ行っていた? 犯人が自首して来たので待機が掛かっている」などと声を掛けられながら、空いていた椅子に座った。

 秋山は室内を見渡し、雑巾を持って机を拭いて回っている、部下の川部忍刑事を見付けて呼び寄せた。

 川部刑事は、25歳の新進気鋭の見習い刑事で、今年の春から秋山の部下になったもので、真面目さと一生懸命に仕事を覚えようとしているひたむきな姿勢が、秋山の刑事見習い時代と重なって見え、刑事として大成して欲しいと期待していた。

 駆け寄って来た川部刑事に、秋山から「川部君は、現場の状況など分かるか?」と聞いたところ、「分かります」との返事が返って来た。

「それでは、今から現場を見に行くから、捜査車の運転と案内を頼む」と言って、川部刑事に現場を案内するよう命じた。

 川部刑事に現場の案内を命じた後、川部刑事の指導員となっている山形主任のところへ行き、「今日から当分の間、川部君を自分の補助者として使うから、そのつもりで」と了解を求めた。

 刑事第一係の普段の捜査活動については、巡査部長のデカ長と巡査の刑事をペアにして、捜査活動をさせている。

 山形主任は「係長の補助なら、川部も勉強になるので喜ぶと思います」と言って、快く了解してくれた。

 掃除道具の片付けを終わった川部刑事は、「車を正面玄関に回します」と言って、帳場から走って出て行ったので、秋山も署の玄関車寄せまで行き、川部刑事の運転する車を待った。


自首 2

 警察署地下駐車場から、セダン型の捜査車が出て来て玄関先に止まり、川部刑事が運転席から降りて助手席のドアを開けたので、秋山は助手席に乗り込んだ。

 腕時計を見たところ午前9時5分であった。

 秋山は、シートベルトを装着しながら、「川部君は、恵まれているな」と言った。

 川部刑事は、車を発進させながら、「何故ですか?」と聞いて来た。

「1ケ月前に刑事になって、捜査本部事件を経験出来るのはラッキーや。自分も49になるまで刑事の仕事を27年しているが、捜査本部事件は10件位しか経験していない。都会と違って田舎の警察には、捜査本部事件がそう多くある訳でなく、経験したくても出来ないのが現実や」

「そうですか」

 川部刑事は、捜査本部の一員になっている事が嬉しくて堪らないようだった。

「ところで、犯人は今朝方自首して来たとの事だが、川部君は被疑者の顔を見ているか?」

「昨日は当直勤務で、今日の朝方午前8時ころに、署の一階事務所にいたところ、60歳位の男が1人で署の玄関から入って来て、『犀川の殺人事件の犯人は私です』と小声で言ったので、びっくりして刑事当直班長の岡部係長がいる刑事一課へ連れて行きました」

「そうか、川部君が一番初めに対応したのか。川部君は事件の内容について、どれだけの事を知っている?」

「事件現場は、現場鑑識が終わった後に山形主任と一緒に見て来ました。事件の詳しい内容ついては、日曜日の午後8時から捜査本部の全体会議があり、それぞれの担当者から、現場の状況や死体の状況、それに鑑識の状況などの説明があったので、そのときに聞いた事については覚えています」

「そうか、川部君の知っている事については、現場へ行ってから説明してもらうから頼むぞ。それと、自首して来た被疑者の取り調べを担当する事になったから、川部君に取り調べの立ち会いをしてもらう事になる」

「喜んで立ち会いさせてもらいます」と、大きな声が返って来た。

 川部刑事が、前を走る車の動きを目で追いながら言った。

「被疑者の取り調べと言えば、先日山形主任から聞いたのですが、『秋山係長は、県下でも五本の指に入る名刑事で、特に調べに関しては県警のエキスパートと言われている』と言っていました」

「山形がそんな事を…… 人はどのように言っているかは知らないが、刑事の仕事で一番やりがいのあるのは、被疑者の取り調べだと思っている」

「何故ですか?」

「我々の取り調べには、人間の生き方を左右するだけの影響力があり、道を踏み外した人間が、心を入れ替えて真っ当な人間になった姿を見たとき、刑事としてのやりがいを感じる」

「そんなもんですか?」

「川部君も、その内分かるようになると思うよ」

 車は片町の繁華街を過ぎて、犀川沿いの道路を下流の方へ50メートル位走り、道路左端の街路樹に幅寄せするようにして止まった。

 犀川は、金沢市内中心部を流れる2級河川で、別名「男川」とも言われている。

 金沢市の北側には、別名「女川」と言われている浅野川が流れている。

 秋山には、常に腕時計を見る癖があり、車を降りるとき腕時計を見たところ午前9時40分であった。

 車を止めた道路の右手は住宅街で、古い家並みが並んでいる。

 左手は幅1メートル位の街路樹を植えた花壇と、高さ1メートル位のコンクリートの堤防となっている。

 道路に立って川の方を見ても、手前の河川敷は堤防の陰になって見えず、川面の半分と反対側の河川敷が見えるだけであった。

 コンクリートで高くなった堤防には、河川敷へ下りる幅1メートル位のコンクリートの階段が設置されている。

 コンクリートの階段は、道路側から5段堤防の上へ上がるようになっており、河川敷側へは、堤防の上から10段下がるようになっている。

 河川敷は、芝生の原っぱが20メートル位の巾で続いており、川の淵1メートル位がコンクリートの舗装となっている。

 先に河川敷へ駈け降りて行った川部刑事が、「係長ここです」と大きな声で言いながら、地面の一点を指差していた。

 その場所を確認したところ、鑑識が足跡を採取する為に石膏を起こしたと思われる、楕円形に土が捲れた痕が数カ所あった。

 付近に、石膏の粉も少し落ちていた。

 秋山は、土が捲れている付近を静かに歩いてみたところ、芝生の生えているところでは、靴の裏の紋様が付かなかったが、芝生の生えていないところでは、靴の裏の紋様が立体的にくっきり残った。

 秋山は、川部刑事に聞いた。

「被害者は、どのような状態で発見されたの?」

「土曜日の午前6時ころ、河川敷を散歩していた老人が、芝生の上で人が寝ているのかと思って近づいて見たところ、胸のあたりが血で染まっていたので、携帯電話で消防へ119番したとの事です。救急隊員が現着して確認したところ、死亡していたので救急搬送をせずに、そのままの状態で警察へ連絡したと聞いています」

「被害者の状態は、どうなっていたの?」

「この場所で、川の方を頭にして仰向けで倒れていたとの事です。刺し傷は胸に3ケ所あり、1ケ所の刺し傷が心臓を突き刺しており、即死状態と聞いています。何れも服の上からの刺し傷だと言っていました」

「犯行時間は?」

「直接犯行を見ている者がいない為、はっきりした時間は分からないらしいのですが、死体の解剖所見などでは、金曜日の午後11時ころから翌日の午前5時ころまでの間との事です」

「6時間の幅か…… 法医の先生は、死亡推定時間をどうしても長く取るからな。本当はもう少し絞れるはずや」

「解剖の先生は、推定時間をなぜ長く取るのですか?」

「それは、条件によって人間の死体現象に違いがある事と、幅を狭く言って外れたら恥をかき、法医学者としての権威が失墜するからや」

「そんなもんですか?」

「ところで、凶器は?」

「解剖の結果、3ケ所の刺し傷は、同じ凶器によるものと認められ、先の尖った片刃の切り出しナイフ様の刃物で、刃の長さは10センチ位であると、科捜研の係官が言っていました。その刃物は、現在のところ発見されていないとの事です」

「凶器が見つかっていない…… ゲソは?」

 ゲソとは、警察が隠語として使っている足こん跡の事で、素足こん、靴下こん、履物こんなど。

「被害者や第一発見者、救急隊員の履物以外の足跡として、波型模様のズック靴と思われるのがあると、鑑識さんが発表していました。他にもう一種類違った足跡があるようにも思えるが、断定までは出来ないとの鑑識さんの話です」

「共犯者の存在が考えられると言う事か?」

「そうかもしれません」

「共犯関係について、朝方自首して来た男は何か言っていなかったか?」

「犯人は私ですとしか言っておらず、共犯者がいるなどとは言っていませんでした」

「被害者は何者だ?」

「沼田義弘と言う名の42歳の独身男で、幸町のアパートに1人で住んでいるとの事です。被害者の身辺を捜査した捜査員の報告によると、著名人の暴露記事を出版社へ売り込んで金にしているライターらしく、被害者を良く言う者はだれもいないと言っていました」

「殺される理由があった訳か……」

 秋山は、50メートル位上流に掛かっている犀川大橋を見ながら聞いた。

「あの橋は、人どおりが多いはずだが、だれか目撃している者はいなかったの?」

「あの橋からではないのですが、夜中の12時ころに、犀川大橋から堤防沿いの道を歩いていたスナックのホステスが、先ほど下りて来た堤防の階段を、河川敷から駆け上がって来て、犀川大橋方向へ走って行った男を目撃したと言う話が、捜査会議で出ていました。ホステスが目撃した男については、面割りが効くと言っていました」

 面割りの面とは顔を意味しており、目撃者がいるときにそれらしい者が浮上した際、その者の顔や写真を見てもらって、同一人物かどうかの識別をしてもらう事を面割りと言っている。

「今のところ、犯人に関係する情報は、これ1件と聞いています」

「そうか、目撃された男が、自首してきた男になると言う事か?」

「その点は、自首して来た男の面割りの為に、ホステスに連絡した事までしか聞いていないので、何とも言えません」

「被害者の着衣や所持品は?」

「上は長袖のピンク色カラーシャツの上に灰色のブレザー、下は黒色ブリーフの上に紺色のズボン、黒の革ベルト、左手に腕時計、革靴履きで、財布と現金はあったと聞いています。被害者の身長は168センチで、痩せ形の男であると言っていました」

「物取りではないのか…… 携帯電話を持っていなかったの?」

「今の時代、携帯電話を持っていない人はいないと思うのですが、鑑識さんの話では、現場にはなかったとの話です。死体の近くに、四つ折りにたたまれた柄物のハンカチが1枚落ちていたらしいのですが、被害者の物かどうか捜査中との事でした」

「もしかしたら、ハンカチが犯人の遺留品になる可能性があると言う事か?」

「そう言う事になるかも知れません」

 秋山は、川沿いの道路に30メートル位の間隔で街灯が立っているのを見ながら聞いた。

「夜間の見通しについて、何か言っていなかったか?」

「鑑識さんの話では、土曜日の夜中12時に、現場の視認状況を実験した結果、10メートル離れても顔の識別が出来る程度の明かりがあると言っていました」

「日曜日の捜査会議で、他に何か変わった話が出ていなかったか?」

「自分には、鑑識さんの言っている意味が分からなかったのですが、現場のゲソを石膏で起こした中に、ロッカーの鍵のような物を踏んだと思われる痕があり、その痕に血液反応があったと言っていました」

「鑑識は、鍵の現物はあったと言っていたか?」

「そんな事は言っておらず、鍵の痕があったと言っていました。ただ鍵に刻印されていると思われる、319の3つの数字が読み取れるとも言っていました」

「川部君、それは血液が流れ落ちているところに鍵を落とし、その鍵を履物で踏んだ者がおり、鑑識がゲソを採取したときには、その鍵がなかったと言う意味だと思うよ」

「犯人が落とした鍵を持ち去ったと言う事ですか?」

「犯人が持ち去ったかどうかまでは分からないが、鑑識が現場を調べる前に、鍵を拾った者がいると言う事だと思うよ」

「現場から、毛髪も何本か採集していると言っていました。被害者以外のものとしてA型とO型の血液型の毛髪があり、DNA鑑定が出来るように保存してあるとも言っていました」

 DNA鑑定とは、足利事件で有名になった個人識別の方法で、DNAの一致により人と物のつながりを証明する科学捜査の一つだ。

「犯人と争っておれば、犯人の毛髪も抜け落ちている可能性もあるな?」

 秋山は、付近を歩きながら自問自答した。

 なぜこの場所が犯行場所になった?

 走り去ったのは1人だけ?

 分からない足跡が2種類?

 害者の携帯電話がない?

 鍵を持って行ったのはだれ?

 執拗に3回刺すほどの恨み?

 なぜ凶器を持ち去った?

 なぜ3日経ってから自首して来た?

などと。

 秋山は、脳の思考回路をフル回転させながら、コンクリートで舗装された川の淵まで歩いて行った。

 川幅は、20メートル位で、急流とは言えないまでも流れがあり、川の底が見えない事から50センチ以上の水深があると思った。

 秋山は、近くに落ちていた木の枝の切れ端を拾って、川の流れに投げ入れた。

 投げ入れた枝の切れ端は、人が早足に歩く速度で流れて行った。

 秋山は、枝の切れ端が流れて行く状態を見ながら呟いた。

「木製の柄が付いた切り出しナイフであれば、この川へ捨てれば流れて行く可能性があるな。今ごろは日本海か?」

 秋山の呟きを聞いていた川部刑事が質問した。

「犯人は、凶器を川へ捨てたんでしょうか?」

「川へ捨てたかどうかは分からないが、とにかく疑問点については、自首して来た男に聞けば、全て明らかになるはずだ。あまり深く考えないようにするか…… ひとまず休憩だ」

 秋山は、コンクリート舗装の上に、足を投げ出し両手で腰を支えるようにして座った。

 川部刑事も、同じようにしてその場に座った。


自首 3

 秋山は、キラキラ輝いている川面を薄目で見ながら、自分なりの犯人像を頭の中で描いて見た。

 物盗りでなければ、痴情、怨恨か?

 場所的には、面識犯の可能性が高い。

 明らかに、殺意を持って刺している。

 他、どのような事が考えられるだろうか?

などと。

「秋山係長、飛行機雲が見えます」

 川部刑事の言葉で秋山は我に返り、青空に白線を引いているような空を見ながら言った。

「飛行機雲か…… 我々は、真実の解明に向かって突き進む必要があり、真実に目を瞑って前へ進む事は許されない。自首して来た事件であろうと、こちらから捜し当てた事件であろうと、先入観を持つことなく、客観的事実に基づいて真実を追求していかなければならない」

「真実を求めなければ、墜落すると言う事ですか?」

「川部君も、顔に似合わず上手い事を言うな」

「飛行機雲を見ていたら、何となく思い浮かびました」

「まさに、刑事には真実を見極める目が必要で、捜査に予断や偏見を持つことは許されない」

「分かりました」

「午後から、自首して来た男の取り調べに入るが、取り調べの立ち会いで何をしなければならないか、分かっているか?」

「……被疑者が、変わった動きをしないか見ていると言う答えでは駄目ですか?」

「その程度の認識では、立ち会いをしてもらう意味がないな。被疑者によっては、調べ室で自供しても公判廷で否認に転じる場合がある。そのようなとき、取り調べの任意性などが問題になり、公判廷で証言しなければならない場合も出てくる。立会人の立場で、取り調べ状況を記録整理して、後に備えておく必要がある」

「分かりました」

「川部君は、身柄を逮捕した事件は、どのような流れで裁判まで行くか説明出来るか」

 川部刑事は、これまで勉強した事を面接試験で答弁しているような口調で、一言一言考えながら説明した。

 被疑者を逮捕してから48時間以内に、検察庁へ事件記録と一緒に勾留意見を付けて身柄付きで送致する。

 送致を受けた検察庁では、24時間以内に勾留して取り調べを継続する必要があるかを判断して、裁判所へ勾留請求をする。

 勾留請求を受けた裁判所では、被疑者の尋問をして、検察官が請求した勾留が必要かどうかを検討する。

 勾留の必要があると認められれば、勾留状を発布して10日間警察の留置施設か拘置所に勾留する。

 勾留の期間に、警察・検察ともに事件に関する取り調べを実施し、10日間の勾留で起訴出来なかった場合には、更に最長で10日間の勾留を延長して取り調べを継続する。

 法的に認められた逮捕から延長勾留が切れるまでの最長23日間、捜査を尽くして検察官が裁判所へ起訴状を提出して起訴する。

 期間内に起訴出来なければ釈放する。

 検察官が起訴する事によって、被疑者は被告人の立場になり、引き続き2カ月間勾留される。

 更に必要があれば1ケ月単位で勾留の延長更新がされ、その間に裁判が行われる。

 今回の場合は、殺人事件である為、裁判員裁判の対象事件になり、公判前整理手続きも行われる。

 川部刑事の説明を聞いて、秋山は言った。

「一般的に、事件を検察庁へ送る事を送致と言っているが、自首・告訴・告発事件を送るときは、送致とは言わずに送付と言っている。今のところそれだけ知っておれば十分だな。それでは、今朝方自首して来た男については、どのような手続きを踏んで逮捕留置する?」

 川部刑事は、秋山の質問が続くのが嬉しくて堪らないような顔で説明した。

 まず被疑者の自首調書を作成する。

 自首調書を含めて、罪を犯したと疑うに相当の理由があると認められる証拠資料が揃えば、殺人の事実で逮捕状の請求を裁判所にする。

 裁判官から逮捕状が発布され次第、被疑者に逮捕状を提示して通常逮捕する。

 被疑者を通常逮捕した後、逮捕事実に対する被疑者の弁解や弁護人の選任をどうするか確認して弁解録取書を作成する。

 弁録を作成した後、留置管理課に身柄留置の依頼をして留置する。

 秋山は、川部刑事に更に質問した。

「被疑者の取り調べをする場合には、供述拒否権つまり、自分の意思に反して話さなくていい事を告げなければならない事になっているが、自首調書を作成する場合も供述拒否権を告げる必要があるの?」

「分かりません」

 秋山は、川部刑事に1つ1つ教えるように丁寧に説明した。

 自首は、犯人がだれか分からない段階で、自分が犯人である事を申告する事であり、その申告を聞き取るのに、供述拒否権を告げる必要はない。

 自首調書に書く内容は、犯人の申告内容をそのまま書く必要があり、申告内容の矛盾点を追及する場合は、取り調べの範疇に入る事から、供述拒否権を告げて被疑者供述調書を作成しなければならない。

 警察の方で、犯人として捜査をしている状態のときに、犯人であると名乗り出ても自首にはあたらない。

 自首は刑を言い渡すときの減刑理由になる事から、自首に該当するかどうかが重要なポイントになる。

 今回の場合は完全な自首になる。

 このような事を話しながら、腕時計を見たところ午後0時になっていた。

「もうこんな時間や…… 帰るぞ」

 秋山の言葉で川部刑事もその後に続き、2人は車を止めてある場所へ戻り、川部刑事が運転する車で警察署へ向かった。


自首 4

 金沢中央警察署は、県庁所在地である金沢市の中心部にあり、署員300名位の規模で、地下1階地上5階建ての庁舎だ。

 警察署の近くには、岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで、日本三名園と言われる兼六園がある。

 警察署から兼六園まで、歩いて3分位の距離にある事から、天下の名園が、署員の休憩時間の散歩コースにもなっている。

 秋山と川部刑事の2人は、署の地下駐車場に捜査車を止めて、エレベーターで3階へ上がり、帳場へ顔を出した。

 岡部係長が、2人の顔を見るなり近付いて来て言った。

「逮捕状が出たので、午前11時5分に逮捕状を執行して、医者の検診を受けさせて留置したので、後はよろしくお願いします。逮捕状の請求に合わせて、アパートと車のガサ札を取ったので、午後ガサに行って来ます。記録は書類箱の中にまとめてあります」

 ガサとは、警察が犯罪の証拠品などを発見する為に、必要な場所を捜す事を言い、「さがす」のさがを逆読みして言っている隠語で、ガサ札は、裁判官から出してもらう捜索差押許可状のこと。

 岡部係長は、階級は秋山と同じであるが、年は一回り若く刑事経験も少ない事から、秋山には敬語で話しかけて来る。

 秋山自身、岡部係長の性格を、出世欲が強く負けず嫌いで、警察幹部に良くいるタイプと見ていた。

 秋山は、必要な手続きを済ませてくれた岡部係長に礼を言って、川部刑事を誘って警察署内の3階食堂へ行った。

 食堂へ行ったところ、食事を終えて食器を片付けている署長と出会った。

 署長が秋山の顔を見て、声を掛けて来た。

「秋山君、自首して来た男はどうだ?」

「まだ被疑者と顔を合わせていませんが、現場を見て来た限り釈然としない点もあります」

 署長は、その言葉が気に食わなかったのか、一瞬ムッとしたような表情で言った。

「釈然としない。秋山流の勘か? 犯人から進んで自首して来たことを忘れるなよ……」

 署長の言葉は、秋山に対する嫌味であることが、秋山には分かっていた。

 なぜなら5年前、署長が本部捜査一課長として仕切った捜査本部事件で、秋山が捜査本部の方針に逆らった捜査を展開して事件を解決させ、当時の捜査幹部の鼻を明かした過去がある。

 それ以来、事件に携わった幹部の秋山に接する態度が明らかに変わり、事あるごとに嫌味を言うようになったのを肌で感じていた。

 階級組織である警察社会で、良くある話だ……

 秋山は、川部刑事とテーブルに向かい合って座り、食事をしながら言った。

「署長は簡単に考えているようだが、この事件はすんなりと行かないような気がする」

「何故ですか?」

「理由は、今のところ言えないが、長年培って来た勘とでも言っておこう」

 秋山には、犯人として捜査線上にも挙がっていなかった男が、発生から3日後に自首して来た事が、妙に心に引っ掛かっていた。

 発生直後の自首なら分かるが、3日間と言う時間は、自首を決断するには、中途半端で微妙な時間になるとの思いが、秋山にはあった。

「午後は記録を確認して、3時ころから調べに入る。今日の調べは、送付に必要な身上の調書と事実関係の簡単な調書を相手の言うままに巻くだけや。川部君の方で検察庁へ事件連絡をしておいてくれ」

「事件連絡って何ですか?」

「事件連絡とは、検察庁へ身柄付きで事件を送る事についての事前連絡で、被疑者の人定や逮捕時間などをファックス送信して、送致時間などの打ち合わせをする事だ。分からなかったら刑事総務の送致係に聞けばいい。逮捕状請求書の写しについては、既に検察庁へ行っているはずだ」

「分かりました」

「検察庁の回答を待たなければ、はっきりとは言えないが、送致時間はおそらく明日の午後1時になると思うので、記録は今日中にまとめて、明日の朝一番に決裁に出せるようにしておく必要がある」

「そうですね」

 送致時間について刑事訴訟法は、逮捕から48時間以内となっている。

 今回の逮捕時間は午前11時5分で、その時間を基準に考えれば、明後日の午前11時5分まで警察の持ち時間があるように思われる。

 実務上は逮捕行為がなくても、被疑者を警察官の看視の元においた時間を身柄拘束の起算点としており、自首して来た時間が午前8時である事から、明後日の午前8時までに送付する必要がある。

 事件の送致は、特別な事情がない限り、午前中であれば午前9時、午後であれば午後1時と言うように、検察庁と警察との暗黙の申し合わせのようなものがあり、必然的に明日の午後1時が妥当と考えられる。

 食事を終えた2人は、被疑者桜井寛の送付前取り調べの準備に入った。



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