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 そうして今日も、ひとは生きていく。
 空と海を切り取るその真ん中で、無様に這いずり回りながらでも。


 小学生の頃、私は奇跡を見た。
 その時の感動は、十年経った今でも覚えている。
 厚く雲に覆われた空。
 風に切り裂かれた灰。
 そこから光のヴェールが地に降り注ぐ、その瞬間。
 あの時は知らなかったその現象の名前を、今では知っている。

 それは、天使の梯子というらしい。

 実は他にも色々と名称があるのだが、そんなロマンの欠片も無い名前よりは、私はこう呼ぶ事にしている。
 まだ何も知らなかった幼い子供が見た、小さな小さな奇跡。
 光の羅紗。
 私は、大型の本屋の中、置かれた椅子に座って、買ってもいない写真集を読んでいた。
 写真集は、躊躇わず買うには学生には少々敷居が高い。
 まぁ、他にお金を使わなければ良いだけの話なのだけれど。
「そうはいかないのが、人間ってものよね」
 訳知り顔で偉そうな事を言いながら、私はページを捲る。
 周囲の喧噪は、耳に遠い。
 その写真が、眼に入ったのは偶然だった。
 小さな頃、あの三階の音楽室の窓から見た、私だけしか知らない出来事。
 思わず笑う。
 いつだったか読んだ本の中で、誰かが言っていた。

 奇跡なんて見たくない。

 私はその意見に、大いに同意したい。なにしろあの一瞬は単なる気象現象であって、そんなご大層なものではなかったのだから。
 奇跡なんて見たくない。
 そんなものを見た日には、矮小な人間の眼など残らず潰れて仕舞うだろう。
 だって人間なんて、思わずびっくりして仕舞う程弱々しいのだから。
 耐えられない。
 耐えられる筈、無い。
 奇跡は決して、求めるべきものではない。
 そう、私は奇跡なんて見たくない。ただ、それを信じていたいだけなのであって。
 時刻は夕方だ。
 大きな窓に眼を向ける。恐らく夕陽が存在しているのであろう場所は、生憎、高いビルに阻まれて見えなかった。
「あぁ……」
 私は思わず嘆息した。
 今、この瞬間、落ちていく夕陽が見えない、その事が残念でならなかったのだ。
 諦めて、私は写真集に視線を戻す。それから、少しだけ微笑んだ。


 海さえ見えない、空の下。
 今日も私達は、無様にのた打ち回りながら、陸の上を、生まれたての赤ん坊のように、四つん這いで歩くのだ。

この本の内容は以上です。


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