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利雄とひつじ

 例えば、一昔前なら、対策も対応も真っ当なことしかできなかった。

 それはつまり、解決するかしないか、一か八かの賭けに出るようなものだった。

 なぜなら、人が人をいじめていた証拠など、そう簡単に記録することができなかったから。例えば骨が折れるほど殴られたり、教師の前でのあからさまなものでなければ誰も追及することができなかった。教師の前では「ふざけていました」という言い訳がいとも簡単に通るのだ。

 でも、今は違う。

 今ならば、きっと。

 

 利雄はひつじを連れて公園を散歩していた。例のごとく、妻と娘は買い物に出かけていたので、二人である。まだひつじは家に来てひと月ほどしか経っていなかった。だいぶ体は大きくなったが、まだ子猫といえる大きさだった。

いろんなものをみせてやりたくてドライブがてら家から少し離れた公園へとやってきた。

「ひつじ。みずでも飲もうか」

「みゃー」

 秋の風が涼しい。残暑は厳しいが、木陰に居るととても気持ちが良かった。うつらうつらといつの間にか利雄は夢の中にいた。ひつじも利雄の腹の上でくつろいでいた。

 殴る手。

 蹴る足。

 跳ね返す自分の腹。

 止まない攻撃。

 嘲笑。

 諦め。

 希望は卒業だけだったあの頃。

 

 目が覚めたとき、ひつじの姿は無かった。腹を殴っていたのも蹴っていたのもひつじではなかった。夢の中の出来事だった。木陰は涼しいのにびっしょりと汗をかいていた。おそらく利雄はうなされていたのだろう。それでひつじは逃げてしまった。それほど遠くへは言っていないはずだ。腕時計を確認して、利雄は立ちあがった。

「ひつじー。おーい。ひつじー。おやつあげるから帰ってきてよ」

 あたりを探していると、一人の少年がひつじを抱えてぽつんと立っていた。飼い主を探している。利雄は太った体を揺らしながら、少年に駆け寄った。

 小学生くらいだろうか。理乃と同い年くらいの少年だった。儚げな雰囲気が漂う。

「ああ。ありがとう」

「何、礼などいらん」

「……」

「ん? 拙者の顔に何かついてござるか?」

「いや、何でもない。ありがとう」

 利雄はひつじを受け取るとその場から立ち去ろうとした。ちょっと変な子だなとは思ったが、うちの良子も十分変だから、今時の子はそんなもんかと無理やり納得した。そのときぶわっと強い風が吹いた。Tシャツがバタバタと音を立てる。少年は緩めのTシャツを着ていたのでちらりと、腹が見えた。利雄の目に留まったのは、少年の腹についた痣だった。それも尋常じゃない色だ。

……虐待? それで公園に逃げてきた? それにしては落ちついている。

 利雄は少年をお茶に誘った。お茶といってもひつじがいるので公園の隅にある売店でコーヒーとジュースを買ってベンチで話すのだが。

「はい」

「かたじけない」

「徹底してるね。武士なの」

「いえ、侍です」

 名前を聞くのもどうなんだろうと思い、利雄はそのまま呼ぶことにした。

「そう。ところで、侍くんは、おうちの人は今日はいないの?」

「家の者は、家におります」

「侍君? 家の人は優しい?」

「それは、とても」

 そう言った少年の顔は優しさにあふれている。

虐待ではない? じゃあ……。

「言いたくないならいいんだけど、いじめ?」

 侍はジュースを片手に黙りこんだ。返事がなくともわかる。彼の雰囲気がすべてを物語っている。一分ほど経過して、侍は言う。

「……否」

 嘘だと利雄は分かった。けれどもわかったところで、どうすることもできない。否、利雄はどうにかすることしかできない。なぜなら、彼もまた。

「そうか。学校はどこ? 何年生?」

「拙者、隣の町の星空小学校、六年四組に在籍つかまつる」


娘の理乃と同じ年で同じ学校だった。クラスは違った。

「そう。じゃあ、来週あたり楽しみに待っていてよ。今月はまだお小遣いに余裕があるから。理乃に頼んで渡してもらうよ。秋野理乃を知ってる? 娘なんだ。六年四組に渡しに」

「それはやめてくださいっ」

 触れると斬れそうな鋭い声で言った。初めて少年が言葉を崩した。

「おれなんかと関わると、その人にまで迷惑がかかります。だから、やめてください」

 これまでのぼんやりとした態度が嘘のように必死だった。

「え? 無理。もう決めちゃったもんね。会うのが駄目なら、靴箱にでも入れとくよ」

 ふるふると少年は首を振った。利雄は、君には関係のないことだけど、と前置きをして話を始めた。利雄はよく自己チューと非難されることがある。

「僕は、昔からこの体型でそれはもうみんなのサンドバックだったんだ。ものごころついたころから。そして、僕はそれが当然だって思ってた。ずっとそうだったから。でもね、やっぱり年をとるにつれてどこかおかしいって思い始めた。中学生になったころかな。みんな身体が大きくなって、パンチもキックも重くなってきた。いくら僕がこの体型だからと言ってもね。限度ってものがあるんだよ。でも、結局僕が抵抗することはなかった。抵抗すれば面白がってエスカレートするから。最終的に僕には心強い味方ができて、なんとかなったんだけど。まぁ、その心強い味方というのは、今の僕の妻なのだけどね。そのときも僕は誰にも言い返すことも止めてということさえできなかった。ただ僕にできたのは、守ってもらうこととそのあとに自分を少しずつ変えていくことだけだった。手段も少なかったし。学校では、先生も味方にはなってくれなかったし。でも、今ならば、ほかにもっといろいろやりようがあったと思うんだ」

 だから、それをその方法を君に託したいんだ。

「もしよかったらでいい。嫌だったら、別に捨ててくれてもかまわない。今の君の状況を打開するツールと知識を理乃に頼むから」

「もう勝手にしてください。あと靴箱なら、一目でわかりますから」

 少年はジュースありがとうございましたというと、走り去った。

 

 利雄は一度ひつじを家において、貯金箱を覗いた。今月はまだ余裕がある。三万円を掴み、再び車を出した。近くの家電量販店へ向かった。利雄は、ICレコーダー、デジタルカメラの売り場を物色した。一万円分ずつ、十分なスペックのものを購入することができた。どちらも利雄が中学生の頃にはなかったものだ。そして残りの一万円でスパイショップへ行き、超小型カメラ内蔵のボールペンをひとつ、ボタンに化ける超小型カメラをもう一つ買った。ボールペン型のほうは三時間は連続録画できる優れものである。ボタンの方も一時間ほど録画可能である。

家に帰ると、利雄はパソコンを立ち上げた。そして法律についておさらいする。特に刑法について良く調べ、ワードで簡単にまとめてプリントした。振り仮名を打つことも忘れない。今ならば、インターネットで検索ボタン一つで調べられるということを知っている。そうでなくとも、図書館に行って六法全書を引けばいいことも知っている。けれど、中学生の利雄は知らなかった。

 百円均一によって買ったファイルに、ICレコーダーとボールペン型カメラ、ボタン型カメラ、数枚のプリントを入れた。無駄にならないことを祈った。

「あとは、これを理乃に持っていってもらって。デジカメは理乃に渡しておくか」

 万が一、理乃に飛び火がかからないことを願って、利雄はデジカメも買っておいた。

 


侍君

 抵抗するだけ無駄だった。最初は、「止めろ」とも「ただで済むとでも思ってんのか」とも「絶対後悔させてやる」とも言えた。最初は。けれど、時間が経つにつれて、人が増えるにつれて、俺は、一体、誰と戦っているんだろうと思うようになった。どれだけ抵抗しても無意味で、抵抗すればするほど、奴らは喜んだ。

 

鳳秋也が侍のまねをするようになったのは確か、小学五年生のころだった。テレビで見た時代劇のヒーローに憧れて、口調を真似るようになったのだ。

「参上。拙者、名乗るほどのものでもござらん。悪党どもめ、成敗致す」

 そうすると、自分も少し強くなれたような気がした。もちろんそれは気のせいであって秋也が大勢にひとりで勝つことはなかった。

 

 大勢は、陰湿で悪質な考えを持っていた。夏は半そでを着るので、奴らは必ず、足か腹を狙った。教師が来ても「優等生スマイル」というものでごまかした。微塵も気づかせなかった。ひとつひとつ秋也は希望を失っていった。

 

 ある日、遊ぶ友達もいないので、ジョギングをしていると白いふわふわの猫を見つけた。首輪が付いているから飼い猫だろうが、あたりを見渡しても飼い主はいなかった。その場をうろうろしていると、でっぷりと太った中年のおじさんが秋也に近づいてきた。

「ああ、ひつじだっ。ありがとう、少年」

 そのあと、腹の痣に感づかれて、お茶を飲み、要らぬお節介を焼かれた。部外者が何を言っても同じことだと秋也は思う。けれど、おじさんの娘が、同じ学年にいるということを聞いて、秋也は狼狽した。駄目だ。絶対に駄目だ。学校でおれと関わったら、どんなことになるか。それなのにおじさんは秋也の話などてんで気にせず、娘に頼むと言った。頼むって一体何を頼むって言うんだ? 女の子に助けさせる? そんな馬鹿な。自分の娘だぞ。巻き込まれる可能性だってあるんだ。

 

 月曜日。

 一週間の中で、一番嫌な曜日。一番嫌な朝。

 あと、五日間も授業があるなど、今すぐ家に引き返したい衝動に駆られる。

 それでも何とか秋也は学校についた。秋也が学校へ行くのは、始業ぎりぎりである。早く学校へついたからといって何ひとついいことなど無い。

 昨日の帰りにすべて捨てたはずの靴箱には、ゴミがいっぱい詰まっていた。毎朝の事であるので何の感慨もない。いつからか悲しくもなくなった。上履きは何足も無くなった。十足目で、下校時に持ち帰って登校時に持っていくことにした。実質、下履きを入れるくらいしか靴箱は使っていないのだが、一応ゴミをゴミ箱に移して教室へはいる。と、同時にチャイムが鳴った。そういうふうに計算して、家を出ていた。

 ゴミ箱は、靴箱だけではなかった。秋也の教室のロッカーも机の中もゴミ箱だった。特にロッカーなどは、鍵が付いているのにもかかわらず、ゴミ箱にされた。新学期の最初の日、皆ロッカーの鍵をかけて帰った。翌日秋也が登校すると、ほうきの先で鍵の隣に穴を開けられて、鍵がこじ開けられ中身はぶちまけられていたのだった。扉が閉まるだけましだと思った。

 一時間目と二時間目の間、二時間目と三時間目の間、三時間目と四時間目の間、四時間目後のお昼休み、五時間目と六時間目の間。たまにある、ホームルームの自由時間。自習の時間。体育のチーム戦。

 すべてが、鬱だった。

 

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