目次
プロローグ
作者パク・ユンブの思い
第一章 パク・ユンブと「旧朝鮮総督府庁舎」
キョンボッグン(景福宮) 
民俗博物館にて ペク・ジュオン教授
「旧朝鮮総督府庁舎」 中央博物館カン・チャバン美術部長
パク・ユンブの修復修業
英国留学
第二章 絵画修復家ホン・グァンオンとの出会い
ホン・グァンオン大先生
ホン・グァンオンの青春
第三章 近現代美術館
ホンの上司ソク・イルブ
フランスで得た ホン・グァンオンの天職
第四章 失意のホン・グァンオン
修復家? 美術史家?
ライバル カン・ジョンモク
第五章 独立を目指して
画商ヤン・ヨンフム
インサドンから自前のアトリエに
第六章 成功者 絵画修復家ホン・グァンオン
美術館退職
成功者ホン・グァンオンの仕事
第七章 ホンの行き詰まり
手伝い人ジョン・ソンポク
ホンの再留学
第八章 大学教授ホン・グァンオン
ホリョ・デハッキョ(虎禮大学校)文化財学科
三男ジョンオムの入試
第九章 ホン・グァンオンの思考回路
大学新生活の始まり
不毛な会議 将軍閣下シン・リホ教授
第十章 推薦試験
娘スンオクの入試 「パルパンソンオ」ソン・デジョン助教授
ホンの見識 のしイカになったルオーの絵
第十一章 トッケビにされたパク・ユンブ
トッケビ? ケンチァナヨ
ホン家の大学貢献
第十二章 文化財保存修復学会 大会開催
学会運営委員会
ジョン・カジョン助手の学会準備
学会閉会 立ちつくす「パルパンソンオ」
第十三章 ホン先生の大計画
大先生が喰う夢
ホン絵画修復研究所の建設 「旧朝鮮総督府庁舎」の解体
第十四章 スルメキリスト
大学院創設
ホン教授の解任
文化財研究所カン・デサム修復室長の怒り
第十五章 自己破産
私パク・ユンブへの借金の申し込み
幻影とのシルム(相撲)
第十六章 ソウル 歴史の修復
再び キョンボッグン(景福宮)にて
エピローグ
電話
奥付
奥付

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作者パク・ユンブの思い

 私、パク・ユンブが これから書く話は、私のみならず多数の知人に莫大な借金を申し込み、好意で貸したその金を、厚顔にも踏み倒し破産した、ある男の栄光から破滅までの物語である。


 この話をウリナラ(我国=韓国)でなく、イルボン(日本)で出版しようと思い立ったのは、国内では差し障りがあり、この先しばらく不可能と考えたからである。

 私がこんなことを書こうと思うに至ったのは、それほど親しかったわけでもない彼に、自分にとって少なからぬ金額であったにもかかわらず、何の抵抗もなく貸し与えた、本当の理由を自分自身で確認したいが故である。

 そのためには、私には到底理解出来ない、その男の生き方を冷静に分析する必要があり、いわば私と彼の正史を記すことにより、彼との関係を清算し、新しい世界を開きたいと考えているからだ。

 また、彼のやってきた絵画の修復という仕事は、最近若者の間で人気のある職業となり、憧れをもつ人達も増えている。

 分野は異なるが一修復家である私としては、若い彼らに美術作品修復という仕事の本質を考えてもらい、安易なあこがれだけでこの世界に入ることがないよう、反面教師としての彼を示すことで警鐘を鳴らしておきたい、という老婆心もある。

 もちろん、この本を出版することで、自分の被った損害を多少なりとも取り戻したい、というささやかな期待もある。

 

 手当りしだいに無心し、三十億ウォン(約三億円)という、個人の借金としては信じられない金額を借り集め、挙げ句の果て自己破産した男。

 

 本人には、当然そうなることが分かっていた時点でも、彼がまだ金を借り集め続けていたことに対し、詐欺罪で訴えた債権者は何人もいたわけだが、裁判所の判断では何故かお咎めなしとなった。

 私も用立ててやったその日から、ひと月も経たぬ内に、見知らぬ弁護士事務所から、彼が私に借りた金額の確認書と、本人が自己破産手続きの準備中であり、当人と勝手に連絡をとらぬように、との通知が来た。

 

 ソウルを光豊かに流れる河、ハンガン(漢江)。我々の心を支える偉大な河。

 その蕩々たる流れが突如洪水を起こし、光を失った荒れ狂う濁流となり、見る者全ての言葉をも飲み込んだかのごとく。

 美術品修復の世界では先駆者として、我々の誰からもその才能に一目置かれていた男は、虹色に輝いていたその栄光を自ら汚し、終焉を迎えた。


  この狂言話の主人公の名を、仮にホン・グァンオン(洪光言)としておこう。


 私が、以前からその名前だけは良く知っていたホン・グァンオンを、修復家として強く意識するきっかけとなったのは、自分の指導教授の勧めで、美術作品修復の仕事に関わり始めることになったその日、たまたま読んだある新聞の記事からであった。

 実際に本人と初めて会い、言葉を交したのはそれから十年も後のことになる。

 それは、今から十二.三年前、私が現在席を置く、忠清北道のチョンジュ(清州)市にある私立大学校が、芸術大学(=芸術学部)に新しい学科を創ることになり、就任予定の教員を集め、ソウルで開いた会議の席上だった。

 ホン・グァンオンは、その当時すでにウリナラにおける西洋絵画修復のパイオニアとして、世界的にも著名な人物であり、この大学は彼の生まれ故郷の近くにあり、彼は地元出身の成功者として、文化財保存学科という新しい分野の学科長格で招かれていた。

 

 その会議にお声のかかった私はといえば、英国で3年半の彫刻修復の勉強を終えて帰国し、結婚した直後であり、あちこちの美術館からの依頼に飛び回り、あまりお金にはならない実績づくりのための修復作業を、ひとつづつ着実にこなしていた。生活の半ば以上は、テキスタイルをやっている妻に支えてもらいながら、何とか暮らしていた頃である。

 

 さっきから電話がなっているが、始めたばかりで筆の勢いを止めたくないので、このまま話をすすめたい。

 

 言い添えておくが、私がこのように頼まれもしないホン・グァンオンの半生を書くことは、義憤に名を借りた、他人のプライバシーに対する暴露的な悪趣味と捕らえる向きもあるであろうが、そうではない。

 彼の言い方をまねるならば、私には誰から何と言われようと、彼に対し支払った授業料が、適正なものであったことを確認し、納得する権利がある。

 それができるのは、この文章を世に送りだし社会の評価を受けた時である、と確信しているからである。

 ホン・グァンオン本人から苦情がくることについては、全く心配はしていない。何しろこれは一言一句すべてが事実なのだから。

 

 長い物語をこれから書き始める。


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最終更新日 : 2012-09-15 18:15:27

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キョンボッグン(景福宮) 

 トングム(通禁=夜間通行禁止令)が解除された次の年、一九八三年の三一記念節(独立宣言記念日)も終った三月十日のことだった。

 ようやくソウルも日中は少し暖かくなりはじめていた。

 

 私は大学院で自分を指導してくれた、ペク・ジュウォン(白寿元)教授から大事な話があると呼び出され、久しぶりにキョンボッグン(景福宮)内にある民俗博物館に出かけた。

 

 いつも通り、景福宮の東側にあるコンチュンムン(建春門)から広大な敷地に入る。

 目の前に巨大な石造りの建物の側面が見える。

 イルチェ(日帝)時代に造られた、「旧朝鮮総督府庁舎」である。

 朝の鮮やかな光を受けて、鈍く輝いているドームは、昔この地の全ての人々を閉じ込めた大きな金属の蓋のようであり、その上にそそり立つ尖塔は天をも恐れず、何かを一箇所に集約しているように見える。

 約束の時間にはまだ、少し早い。

 庁舎と光化門の間にある広場の日だまりで、時間つぶしをしようかと足を向けた。が、前を歩くイルボニン(日本人)の中年男と、その腕にぶら下がっているアガシ(娘・韓国女性)達の集団が、前夜の思い出に庁舎の前で記念写真でも撮るためか、ゾロゾロと広場に向うのを見て、嫌な気分になり道を右に折れた。

 

 民俗博物館に続く小道の右に「天下大将軍」と「地下女将軍」の大きな魔除けの木像が、のしかかるように黒々と立っている。

 反対側の池の前にベンチがあり、三人連れの家族が休んでいた。

 二才くらいの女の子が自分の背丈よりも高い、古びた赤色のリュックのそばに立ち、ぶら下がっているカール(大韓航空)のタグを引っぱりながら、恐そうに像を見あげている。

 イルボン・サラム(日本人)の親子らしいが、こんな小さな子を連れて旅行でもしているのだろうか。

 イルボンといえば、キーセンパーティの女目当てか、さもなければインサドン(仁寺洞)で骨董品あさりをする観光客と相場が決まっている。小金を持った中年男の団体ばかりが目立つ景福宮では、貧乏じみたイルボン・サラムの子供連れを見るのは珍しい光景である。

 そんなことを思いながら、見るともなく彼らの方に近づいて行った。

 女の子がこちらを向く。広い額をしている。

顔のまん中に二つ並んだ、はっきりした黒い瞳が今度は私を見つめ、微笑んだ。

「アガヤー(お嬢ちゃん)」

 私は思わず手を差しのべ、呼び掛けた。

 

 ちょうどその時、回転翼のたたき付けるような轟音が近づき、我々を黒い影が覆った。突然、濃い迷彩色の国軍ヘリコプターが数機、頭上に現れたのである。

 そのまま、景福宮の北裏にあるチョンガデ(青瓦台=大統領府)の方に急降下していく。

 娘の父親は、物珍し気に見上げるとミノルタの一眼レフカメラを目の前に構え、上空に向けシャッターを切った。

 重々しいシャッター音を聞いた瞬間、私は自分でも顔色が変わったのを感じた。

「イ・ウェノム(この倭奴)」

思わず悪態が口をつく。

 ウリナラに来る以上、軍施設や関連物の撮影が禁止されていることくらい聞いているだろうに。スパイだと疑われても文句はいえない。

 娘を可愛いと思った直後であっただけに、男に対し妙に憎々しい気持ちがむらむらと沸き起こった。

 睨みつけている私に気付いた父親は、むっとしたようにカメラを胸に、身構えた。

 少しの間、我々は無言で向き合っていた。

 よっぽどカメラをひったくりフィルムを抜いてやろうかと思った、私の気持ちが伝わったのか。緊張した雰囲気に女の子は母親の陰に隠れ、上目遣いに私を見た。

 私と同年輩に見える父親は、妻子の前で胸を張り、悪気はなかったのだ、とでもいうように穏やかに会釈した。母と娘はじっと私を見つめている。

 私は目をそらすとその場を離れ、だまって通り過ぎた。

 そろそろ時間が迫っていたのである。

 

 


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民俗博物館にて ペク・ジュオン教授

 約束場所に指定されていた民俗博物館の前で、チュンアン・パンムルガン中央博物館)の方に向って巡回している、二人連れの私服警官とすれ違った。

 二人とも同じ型にはめ込んで造ったような、少し猫背の引き締まった体つきに鍛え上げられ、頭髪を短く刈り込み、精悍な目つきをしている若者達である。

 耳に連絡用無線のイヤホーンをつけ、油断なくあたりに目配りしながら歩いている彼らに、私はその父親のことを告げなかった。

 

 民俗博物館は、伝統的な住居をそのまま大きくしたような形の建物である。

 受付で聞くとペク・ジュオン教授はまだ来ておらず、館長室で待っているようにと、誰もいない部屋に通された。

 茶色の皮張りがあちこち白く擦り切れかけたソファに座り、私はテーブルの上のチョソン・イルボ(朝鮮日報)を取り上げた。

 故郷の大学校で散々学生運動にかかわり、大事な友人を失い、半ば挫折してソウルに出てきた私は、政治的な話には興味を失っていた。

 政治経済欄を読み飛ばしページをめくると、人物往来の欄にかなり大きく取り上げられた記事があった。

「ウリナラが生んだ偉大な西洋絵画修復家、ホン・グァンオン先生がフランスに三ヶ月間の予定で遊学に出かける。先生は二度目の渡仏であり、今回の目的は云々」

以前から名前を知っていた人物が、いかにも注文どおりといったおおげさな作業ポーズの写真入り記事で出ていた。 

 それを読み終えた時、にこやかな表情で、ごま塩頭に黒縁の眼鏡を掛けたペク・ジュオン教授があらわれた。

 

 私は故郷の大学校の大学院で美術史学を修了した後、研究室で助手をしたが、「美術工芸品保存と修復の歴史」という自分の研究テーマを追求しているうちに、作品の制作そのものを経験する必要にせまられた。

 作ることと無縁であった私は、助手の任期が切れると同時に、それ以上故郷に居たくないいくつかの事情もあり、上京することにした。

 ソウルに出た私は、その足で歴史ある大学校の美術大学、産業デザイン学科で教えている木漆工芸の大家、ペク・ジュオン教授を訪ねた。ペク先生の木製作品が好きで、何度か手紙を出していたのである。

 気さくな教授はあまり愛嬌があるともいえない私を気に入ってくれ、希望どおり彼の元で再び大学院生として木材工芸の制作を二年間学ぶことができた。

 今年二度目の大学院を修了したばかりであったが、しばらくの間はペク教授の元で手伝いをすることになっていた。

 

 向い合せに座ったペク・ジュオン教授は、いつも通り、どんな相手でも元気にさせるような、張りのある大きな声で早口に話し始めた。

 自分が昔、ソウル市内のホテルに造った巨大な寄木造りの木彫レリーフ作品がある、と切り出した。

「それがね、冷房や暖房のせいで乾燥がひどく、あちこち傷んできているんだよ」

 私も何度も見て良く知っているが、何しろエスカレーターに乗った客が、一階から二階に上がる間に間近で鑑賞できるよう、吹き抜けの壁一面に作られた大きな作品である。

 そのホテルのシンボルでもあり、良く見える場所にあるため、支配人からなんとか直して欲しいと言われている。自分にはとてもそんな時間はないので、ついては

「君にその修復する仕事をまかせたいのだが」

 思いもかけなかった面白そうな仕事だ、と胸を膨らませて身を乗り出す私に、教授は満足気にうなずいた。

 

 ひとしきり打ち合わせを済ませ、帰るために展示室を通り抜けようとしたら、さっきのイルボンの親子連れがいた。

 父親はあの重そうな赤いリュックを背おっている。受付にでも預ければ良いのに、よほど気の利かない男である。母親の方は、眠っている女の子の頭が、自分の肩に乗っかるほど高く背中に背負っている。珍しいおぶい方だが、イルボンシク(日本式)なのだろうか。

 夫婦は私に気付くこともなく、うなずき合いながら熱心に李朝時代の「華角飾り函」を見ていた。男の方はハングルを読めるようで、作品の題箋を見ながら、妻の方を見てなにやら説明していた。

 

 ペク・ジュオン教授から引き受けた修復の仕事は、私には全く経験のない作業ではあったが、いろいろな人の助言を受けて、苦労の末なんとか無事にその大役を終えることができた。

 

 これがきっかけとなり、私はもう少し立体物の修復を勉強してみたいと思い始めたのである。

 相談にのってくれたペク先生も、私がこの先、造形作家や美術史家の道へ進むよりは、ウリナラでは未知の世界であり、あまり専門家のいない、修復の世界を開拓した方が、私の才能と経歴を活かすことが出来て面白いのではないか、と二つ返事で賛成してくれた。

 日常は教授の助手として大学で手伝いをしながら、さらに木工の制作技術を学び、時おり依頼されて立体作品の修復に携わっていた。

 研究室での助手の任期が切れた年、ペク先生は中央博物館の所蔵品修復室で手伝いをする仕事を見つけてきてくれた。


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「旧朝鮮総督府庁舎」 中央博物館カン・チャバン美術部長

 当時、中央博物館は、景福宮の同じ敷地内で、昔イルボンが造ったあのドームの上に尖塔のついている、「旧朝鮮総督府庁舎」の建物に移転したばかりであった。

 その地下に所蔵品修復室があったのだが、そこで作業手伝いのできる若い人間を探していたのだった。

 

 日帝時代、十年の歳月をかけ、多数の同胞の流した血と汗によって造られた、このネオ・ルネッサンス様式の建物は、光復(併合開放)以後ユギオー事変(六二五事変=朝鮮戦争)での、北韓との激しい争奪を経た後も否応無しに、ウリナラ近代史の舞台として使用され続けていた。 

 

 一時期は、中央政庁としてもその役目を果たしたが、幾重にも恥辱を塗り固めたような分厚い壁の遺物は、あまりに頑丈に造られているため、解体に莫大な費用がかかることと、また年輩者の間には、妙ななじみを覚えている者もいるため、現代風に言えば負の遺産として、政治的には鬼門として、その当時、取り壊すこともできぬまま、さまざまな活用方法が模索されていた。

 結局、最終的に、同じ景福宮内にあり、手狭になった中央博物館をここに移転する案が認められ、それ相当の費用をかけ、必要な改装を受けて開館されていたのである。

 寺の境内のように、五重塔と本堂が棟屋に立っている元の建物は、その後民俗博物館に明け渡された。

 

 私は「旧朝鮮総督府庁舎」が造られた当時のソウル市街を撮影した、古い写真を目にしたことがある。

 まだ城壁の残る藁葺きや瓦葺きの町並みの中に、クァンファムン光化門)や李朝王宮の一部を取り壊し、正殿を自分の陰に隠し、異様な形で景福宮にそそり立つ総督府のドームと尖塔は、背後の北岳山すら凌駕するほどの大きさに見え、ウリナラが主権を奪われたことを示す象徴そのものであった。

 しかし、私がソウルで生活するため上京した頃の旧総督府庁舎は、元の位置に復原された光化門の後ろに、今度は自分が半ば隠されていたうえ、さらに真正面の通り「セジョンノ(世宗路)」のど真ん中には、イ・スンシン李舜臣)将軍の像が高々と立ちはだかっていた。

 この精神的な二重の防御に加え、セジョンノの両側には、一帯の開発で高層ビル群が立ち並び始め、その間から見えるこの建物は、もはや物理的にもそれ程目立つ存在ではなくなっていた。

 私は景福宮に入った折り、何度か間近を通ったものの、自分に関わりのある建物ではないため、それほど気にして眺めたことはなかった。

 

 ペク・ジュウォン先生に連れられ、私は新しく中央博物館となった旧総督府庁舎の正面階段を初めて上がり、重々しい扉から吹き抜けの玄関ホールに入った。 

 白や濃い肌色の大理石の輝きが美しいモザイクの床に立って、吸い上げられるように高い天井ドーム内側の白亜の壁を見上げた。

 完成したばかりの、この堅く冷たい石の床の上で、髷を結った頭をのけ反らせ、自分達の頭上を押し包む、異質なドームの内側を見上げた同胞達。

 白いハンボク(韓服)姿のハラボジ(おじいさん)やハルモニ(おばあさん)。

 李朝の時代を懐かしむ、彼らの胸の内はどのようだっただろうか。

 さまざまな思いを抱きながら、私はしばらく首をめぐらした。

 

 良く見れば、ちょうど私が生まれた年のユギオー事変で受けた、銃痕だらけの傷を補修したところが目につくものの、内部は博物館としてきれいに整備されていた。

 年輩者の話や教科書で教わった知識により、さまざまな感慨が去来したが、所詮、イルチェ(日帝)時代を実体験したことのない私にとっては、生まれて初めてソウル駅に降り立ち、その建物の重厚さに打たれたときと同様、歴史的な建造物の味のある雰囲気に、むしろごく素直に妙な懐かしさすら感じた、というのが率直な感想だった。

 

 受付のアガシに案内され、観覧者向けに「立入禁止」と書かれた大きな扉から職員専用の廊下に入った。ピラミッド内部の迷路を歩くように、真っ白に塗られた壁伝いに人気のない通路を延々と進み、広い階段を上がって一室に通される。

 そこでペク先生から著名な美術史家、カン・チャバン(姜左房)美術部長を紹介された。

 物静かなカン・チャバン部長からは、全く威圧的なものを感じさせられなかったため、私は何の遠慮もなく、自分の経歴と修復に対する抱負などを縷々述べた。

 部長は、自分が専門とする仏像彫刻のことを例にとりながら、

「この国で伝統的な美術の技法を解明し、修復の方法論を確立するのは、これから相当な年月と努力が必要でしょう」

と失われた時を惜しむかのように穏やかな語り口で話し、

「あなたのような若い人の活躍に期待していますよ」

ときわめて好意的におっしゃり、励ましてくれた。

 私との話が一段落すると、同窓生だった二人は、近頃の美術界の動向について熱っぽく語り始めた。時折、私が全く理解出来ない単語が飛び交っていたが、気がつくと二人の話はほとんどイルボン・マル(日本語)だけで行なわれていた。

 

 自分は北韓の出身で、牛よりも豚の方が好きだというペク先生は、いつも猛烈な勢いでサムギョップサル(豚の三枚肉の焼肉)を焼き、次々に口にほおばると、ろくに噛みもしないで、盃についだ鎮露で流し込む。先生は一人でも平気で青い瓶の鎮露を二・三本は空けるので、大抵私の方が先に酔いがまわってしまう。

 さらに飲んだ後は、インサドンにある、まともに屋根がなくて雨の漏りそうなテントが客席を覆っている、平壌式冷麺の店に行くのを無上の楽しみにしていた。そこまでは付き合わないと、機嫌が悪くなり、決して帰してはもらえないのである。

 その日も、日本大使館裏の小さなスルチブ(飲み屋)に、

「就職の前祝だ」

 私を連れて行ってくれた。

 落書きだらけの壁にもたれかかり、盃の鎮露をひと口に飲み干すと、いつもどおり腹の底からたき火を吹き消すようなため息を吐き出した。

 飲み干した盃の雫を振り落とし、私に渡してくれる。

 そうして、何度も聞かされた、いつ戻れることになるのか分からない故郷のことや、学生時代の昔話をひとしきりなつかしそうに語るのだった。

 

 そのうち、先程のカン部長とのやり取りについて、私が奇異な顔をしていたことを思い出したのか、

「複雑な話になると、いまだにイロ(日語=日本語)の方が、言葉が出やすくてね。それがちょっと悲しいね」

と恥ずかしそうにおっしゃった。

 手洗いに立ちながら私は、言葉も姓名も奪われたこの世代の複雑な心情を改めて実感した。

 昼間、内部に入って以来、これから自分の職場になる旧総督府の建物自体への興味と愛着が、なぜか胸の内で次第に大きくなってきていた。

 私は、先生の昔話を聞きながら、その理由を頭の片隅でボンヤリと考え続けていたことを申訳なく感じ、自分の思いを打ち消すため、酔いを覚ますように何度も頭を振った。

 そうして、紙や汚物が床まで溢れ、何処が便器だか分からないトイレのまん中あたりにねらいを付け、はねを避けながら勢いよく放尿した。

 

 


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パク・ユンブの修復修業

 カン・チャバン部長からの話が通り、すぐに正式な許可を得て、中央博物館の修復室に見習いとして通い始めた。

 しかし、そこでは扱うものの大半が、私にはあまり興味のない発掘品や青磁の器ばかりだったし、特に修復に必要な設備が整っているわけでもなく、作業の方法自体も古臭く見えた。望んでいた近代的な修復の方法論を勉強できる場とは懸け離れており、あまり自分の役には立たないことも分かってきた。

 この部屋の主任は、考古学畑の出身で、年齢的に発掘の現場を退く歳になったが、特に大きな実績も上げられず、気難しい人間だったため、どの大学からも声がかからぬまま周りから押し付けられ、何のプランもなく仕方なくこの仕事に付いている、五十絡みの男だった。

 古い建築だけに壁の厚みに比べ窓が小さく、掘り割りに面して開けられた地下室の窓から入る外光はいつも弱々しかった。

 重苦しい雰囲気ではあったが、数々の歴史を見て来たその中で働くこと自体、私には好もしいことであり決して嫌ではなかった。  

 しかし、誰にとっても忌わしいはずのその建物の厚い壁を、権威の象徴のように背負っている彼と仕事を続けることが、自分の将来を袋小路に追い込むような気がして、日に日に苦痛になってきた。

 

 そんなわけで、彼が出掛けたときは、こっそり持ち込んだラジカセで好きな音楽を聞き、気をまぎらわしながら作業をすることにしていた。

 ある日、イ・ソンヒ(李成姫)の心の隅々にまで染み込むような声に励まされ、いくつもある同じようなプンチョン(粉青)の皿の、単調な図面描きを片付けていたら、予定よりも早く彼が戻って来た。

 昔気質の彼には、音楽を聞きながら作業をすること自体許し難いうえ、聞いていた甲高い歌声も早いリズムも気に入らなかったらしく、ぼそりとひとこと

「イ・ヨウ(このキツネ)」

と芝居がかった調子でいうと、いきなりラジカセのコンセントを引き抜いてしまった。

 

 それでも一年近く彼のもとで仕事をしたが、一区切りついたのを潮にペク先生の了解を得、別の場を探すこととした。

 

 カン・チャバン部長は私の考えをよく理解してくれていた。

 ちょうどその頃、時々中央博物館に金属器の保存専門家、イ・ゥワンスン(李王淳)が訪ねて来ていた。カン部長から紹介されていたので、彼に事情を話し相談した。

 面倒見の良いイ・ゥワンスンは、その場で自分がチーフをしている民間の美術品修復施設を訪ねて来るよう誘ってくれた。

 

 その修復センターは、財閥が持っている美術館の付属施設で、ソウルの南方、バスで一時間半ほどのところにあった。

 

 そこでは、自分達の美術館が所蔵する作品を自らの手で修復するというシステムを、きわめて近代的な思考で構築しつつあり、精力的に稼動し始めていた。

 東洋絵画や西洋絵画、金属器や陶磁器など幾つかの修復分野と作品保存のための科学的分野を抱え、イルボンをはじめとした海外で留学したり、研修を受けた保存修復の専門家が多数そろっていた。

 修復に必要とされる、大がかりなX線透過装置や蛍光X線分析器など、科学的な調査や分析のための機器も取り揃えられ、幅広いジャンルの美術作品の修復を手掛けていたのである。

 一年ほどそこに通っている間、私は人手の足りないセクションの手伝いをし、国外で学んで来た研究者や技術者たちから、さまざまな修復分野について、外国で行っている最新の知見を勉強することができた。

 

 やがて、周囲の勧めもあり、自分の仕事として本格的に立体物の修復をやっていくためには、一度体系的に保存修復について学ぶ必要があると思い始めた。

 幸いにも、その財閥の関連財団が奨学金をだしてくれることになり、二年ほどの予定で海外に修行に出ることにした。

 ちょうどパルパルオリンピック(一九八八年ソウルオリンピック)の年で、町中がシンボル・キャラクターの「ホドリ(虎の子)」であふれかえっていた時期である。

 それとは逆に、ソウルの繁華街では、当局のお達しにより、オリンピックにやってくる外国人客をはばかって、表通りからポシンタン(保身湯=犬鍋)の店が消えていた。

 夏場の食の伝統を奪われ、「カムルチー(雷魚)」だけでは精がつかないと信じている男達は、裏通りの店で暗号のように「タン」とだけ書かれた看板を捜しまわっていた。

「虎の子は犬を駆逐する。か」

イ・ゥワンスンは、こう言いながら他のスタッフとともに私の送別会を催してくれ、二次会には

「君が今度帰って来た時には、もう食えなくなっているかも知れないからな」

と「タン」の店に連れていってくれた。

 

 彫刻の修復を学ぶためには、隣の国イルボンもひとつの候補であったが、イルボンでは彫刻の修復は仏像を中心とした木彫が主体である。 

 石や金属といった素材を主体としたウリナラの、特に屋外に置かれている彫刻の事情を考え、また、言葉の点で負担の少ない英国を留学先として選んだ。


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