閉じる


試し読みできます

 

 

 

絵本の春(えほんのはる) 現代語訳

 

※以下の各電子書籍ストアなどでは、縦書き版をご提供しています。

Amazon Kindleストア

楽天ブックス(kobo)

BOOK☆WALKER

紀伊国屋ウェブストア

Sony Reader Store


試し読みできます

絵本の春[1/5]

 昔の屋敷町やしきまちの、荒れ果てた土塀が今もそのままになっている。…そこは、雪が消えてまだ間もない、あたりが乾いたばかりの―山国で―石のごつごつ転がっている狭い小路こうじが一筋、霞みながら煙のように、ぼっと黄昏たそがれてゆく。
 そこでは弥生やよい三月の末から、ちょっとずつ遅い速いの違いはあっても、花は一時いっときに咲くので、その一ならびの塀の内に、桃、紅梅、椿つばきも桜も、あるいは満開に、あるいは開いたばかりの初々しい花に、色と香りを湛えている。石垣に生えた草の中には、ふきとうも芽を出しているだろう。私が特に桃の花を真っ先に挙げたのは、昔この一画は『桃の組』という組屋敷だった、と聞くからである。その桃の名木も、まだあちこちに残っていて、それらがうららかに咲いた様子が…こう目に見えるようで、それがまたいかにも寂しい。
 なぜなら、美しい女のしいたげられた―旧藩の頃にはどこでもめずらしくないものだが―伝説が、二つも重なっているからである。
 そこは通り道というわけでもなく、花を見るにしてもこの近所に名所さえあるから、わざわざこんな裏小路うらこうじを探り歩く者はない。日中もほとんど人通りはない。それゆえ、ここで年頃の若い娘の姿でも見ようものなら、たとえ白昼であっても、それは崩れた土塀から現れた影ではないかと、人を驚かすであろう。
 それにもかかわらず、妙な事には、いま頃の季節の日暮時は、その花の名所の山へぞろぞろとつらなって花見や遊山ゆさんに出掛けた者たちが、この表通りの、優しい大川に架かった小橋を渡って、またぞろぞろと帰って来るのだ。男は上半身裸になって、手をぐったりと垂らし、女が友禅染ゆうぜんぞめの裾を色っぽく端折はしょり、くわ楊枝ようじをした酔っ払いも混じった、浮かれに浮かれた大勢が、前後に切れ目なく、この小路をぞろぞろ通るように思われる…さらにその上、小橋を渡る足音が、左右の土塀へ、まるでそこを踏むように、とろとろと響き、それが手に取るように聞こえるのである。
 ―このお話をすると、いまでも私は、まざまざとその景色が目に浮かぶのだ。―
 ところで、いま言った古小路は、私の家から十町あまりも離れていて、縁側から眺めても、二階の窓から伸び上がっても、それに…田舎の事だから、板葺いたぶき屋根へ上って見回しても、実は建て連なった多くの町家まちやに隔てられて、その方角には、橋はもちろんの事、川の流れも見えないし、小路などは、たとえ見えたとしても、松や杉の立木一本にもかくれてしまう。…そもそも見えそうな位置でもないのに―始めに言った黄昏時たそがれどきには、いつも、窓にも縁にも一杯に広がっている、川の向こうの山だけではなく、町も、我が家の門も、欄干も、ふすまも、私のいる畳も、そうそう自分の影も、朦朧もうろうと見えなくなって、国中、町中でただ一筋ひとすじ、その桃の古小路だけが、広々として波の静かなあおい海に引かれた船の航跡のように、私には見えるのだ。見えるとともに、楽しそうな花見帰りの人々が、ぞろぞろと橋を渡る乱れた足音が、例によってまた、とととと、どど、ごろごろとそこへ響いてくる。…さらに女らしいかすかな人声でも―ほほほ、と聞こえると、緋桃ひももの花の色がぱっと乱れて、夕暮れの桜もはらはらと散りかかる。…

 ところが、実際にふらりとそこへ行き、小路へ入ると、寂しくなり、気味が悪くなってしまう。誰も通らないし、もちろん人影もなかった。
 気配はするものの、…橋を渡る音も、離れていて、聞こえはしない。…


試し読みできます

絵本の春[2/5]

 桃も桜も、真紅の椿も濃いかすみに包まれた、暗いといっていいほどぼんやりかすんだ土塀の一ヶ所に、石垣をじ登ろうとするかのようにくっ付いて、…つつじ、藤の咲くにはまだ早い、―荒れた庭の中をのぞいている―かすり模様の筒袖を着た、頭の円い小柄な十歳くらいの小僧がぽつんと見える。
 そいつは、…私だ。
 夢中でぽかんとしているから、すでにとっぷりと日が暮れて、塀の向こうの花のこずえに、朧月おぼろづきがやや斜めに、まるで湯上がりのように薄くほんのりと見えていることにも、そいつは気付いていないらしい。
 ちょうど風に吹き倒された雨戸を一枚、拾って立て掛けたような破れた木戸が、裂け目だらけの状態で閉ざしてある。そこを小僧は覗いているのだが、枝ごし葉ごしに射す月の光が、ぼうっと木戸に映って白い紙のように見え、その肩のところに、「かしほん」と、かなで染め書かれた文字がほのかに読める―しかし、紙が樹の隙間すきまを通り抜けた月の光なら、字もただ花とつぼみをつけた、桃の一枝ひとえだの影であるかもしれないのである。
 そこへ…小路の奥の、森の広がった中から、樹の葉をざわざわと鳴らすほど脊の高い、色の真っ白な、大柄な女が、横町にある湯の帰りと見えて、…化粧道具と、絞った手拭てぬぐいを手にして、こんな陽気でもあるし、のぼせもした上、…ほろいも加わって、ふらふらと花を見回しながら近づいた。
 巣から落ちた木菟みみずくひなのような小僧に対して、女はいわば巨大な怪鳥けちょうである。その大女の、無雑作むぞうさに束ねくしに巻きつけて留めた房々とした黒髪のつややかな色と、肌の白さとの対比は実に見事だ。
「おやおや…新坊じゃないか。」
 と呼びかけられても、小僧はやっぱり夢中でいた。
「おい、新坊。」
 と、女は小僧のっぺたを、手拭でつるりとでる。
「あッ。」
 と小僧はひどく驚いて、
「まあ、小母おばさん。」
 そして泣き出しそうになり、女の顔を見て、
「御免なさい。御免なさい。おとっさんに言いつけちゃいやだよ。」
 と、あわれみを乞いながら言った。
 そこが不気味ですごい魔の小路だというのに、女が一人で、湯帰りの近道に使ったことをあやしんではいけない。…実はこの小母さんだから通ったのである。
 このすぐ近く、『乙』の字のように曲がりくねった小路の、大川へ出る所の小さな二階家に独りで住んで、門に『うらない』の看板を出している、その小母さん自身が既に魔者に近いのだ。女でありながら占いをするのが怪しいのではない。小僧は、もの心ついた四つ五つの頃から、親たちに聞いて知っている。大女の小母さんは、娘の時に一度死んだが、その三日目の真夜中によみがえったのだ。小母さんはすでにその頃から酒を飲んでいたので、きっと彼女自身は酔って転寝うたたねでもした気でいたのだろう。力があって棺桶かんおけをめりめりと鳴らした上、頭は花嫁の結う高島田だったというから一層すごいというものだ。『地獄も見て来たよ』―という小母さんにとって、極楽は簡単に行けるところだし、占いなどは思いのままである。さらに小母さんは、寺子屋で学んで本が読める。五経ごきょう文選もんぜんはすらすらと読みこなし、その書がまたいい。一度あの世を彷徨さまよってからは、仏教にしたしんで座禅もしたそうだ。―この小母さんは、寺子屋に通っていた頃から小僧の父親とは学友で、そう度々たびたびでもないが、いまでも時々は往き来ゆききをする。小僧も何かの用事で使いにやられて、向こうで煎餅せんべいもらったこともあるし、小母さんが占いをする、七星を刺繍ししゅうした黒い幕を張った部屋も知っている。その行き帰りの際に、偶然このかくれた小路も知ったのだった。
 この魔者のような小母さんが小路の出口に住んでいるので、たとえあやしいものや恐ろしいものが現れても、それは小母さんのお仲間のような気がして何となく安心で、小僧はいつの間にか、子どもの癖にこの場所をそれほど怖がらなくなっていたのである。だが、学校を怠けて、不思議な木戸に「かしほん」と書かれた庭を覗いているのを、父親の知り合いに見つかったのは、天狗てんぐったほど恐ろしい。
「うちへ寄っていきな。…さあ、一緒に。」
 こう言って小母さんは優しく背中を押したのだけれども、小僧は襟首えりくびまんで引っ立てられる気がして、手足をすくめて、宙に浮いているような感じで歩いた。
ふとっていても、湯ざめがするよ。―もう春なのにねえ、夜はまだ寒い。」
 と、家に着くと小母さんは納戸で上着を着て、朱色の長煙管ながぎせるを片手に、
「新坊、―あんなところで、一人で何をしていたんだい?…小母さんが占って見てあげよう。二階へおいで。」
 月と星を描いた幕が左右に掛かり、詩経、史記、二十一史、十三経注疏ちゅうそなどの入った本箱がずらりと並んだ部屋で、祭壇を背にして、小母さんは手習机てならいづくえを前にずしりと座蒲団ざぶとん一杯に座り、おおいのかかった火桶を引き寄せ、小僧の顔を見てふとった頬でニタニタと笑いながら、ゆったりと煙草たばこを吸ったあとで、肉付きのいい白いひじを机につき、人相見が使うあの天眼鏡てんがんきょうというのを手に取った。それをぴたりと額に当てられた時、小僧はぞっとして震え上がった。
 外では、大川の瀬の音がさっと聞こえて、その片側にある町の、岸の松並木に風が吹き渡った。


試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格32円(税込)

読者登録

白水銀雪さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について