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未来の僕へ

 人の心は転生する。
 こんな言葉が珍しくなくなった。テレビや本でいろんな事例が紹介される。
 少し前にも、太平洋戦争当時、硫黄島の近海で撃墜されたアメリカ軍パイロットの心が、一人の少年となって転生した。そんな話がテレビで紹介され話題となった。
 少年は、物心がつくようになると、毎夜炎に包まれて飛行機とともに海へ落ちていく夢にうなされるようになる。そればかりか両親に、自分が乗っていた飛行機の機種や所属していた部隊の名前まで話し、自分は硫黄島近くで撃墜されたと、転生前の名前や住んでいた場所まで語る。半信半疑だった父親も、その話にあまりにもリアリティがあるためか、とうとう事実関係を調べ始める。すると彼の家族は実在し、彼の戦友も実在し、彼が語った飛行機の特徴や欠点までが合致し、彼が撃墜された場所までがハッキリしてくる。
 父と子は、やがて硫黄島近海の彼が撃墜されたという海域へと旅立った。その地点に達した二人は、用意した花束をそっと、その海へ流した。
 「君を忘れないよ……。」
 そう語った少年の目から涙が流れた。
 以来、少年はこの話を口にしなくなったという。
  
 冒頭、こんな話を紹介したからといって、転生をテーマに語ろうというのではない。
 ただこの本の語り手である私自身は「転生を信じている」──そのことを知ってほしかったに過ぎない。
 二十数年前の私は、転生などということは、はなから信じていなかった。転生とか来世とかいうのは錯覚か、今がうまくいかない人間が「あってほしい」と願うだけの架空の世界だと思っていた。「今しかない」と思うからこそ、「精一杯に生きられる」、そう信じて疑わなかった。
 ところが、そうはいかなくなってきた。
 人生の中で、誰にだって大きな転機があるはずだ。自分の場合は、一人の人物と出会ったことだ。出会った頃、その人は大阪府下の公立高校の校長先生をしていた。
 土曜や日曜ごとに、ある時は喫茶店で、ある時は知人の家で、「人間は意識です」「永遠に存在する意識こそが本当の自分の姿です」と、その人は語っていた。
 その人は、やがて校長職も捨て、セミナーという形で、そのことを二十年以上も無報酬で語り続けてきた。
 詳しい話は後に譲るが、僕は、今では自分が転生することを信じている。自分という肉体が転生するのではなく、「意識」というエネルギーが転生するのだと思っている。
 この本は、将来転生してくるであろう未来の自分に向けて書いている。
 僕の人生に大きな転機を与えた人物、その人が、自分の後半生をかけて何を言おうとしたのか。何を伝えようとしたのか。僕たちが、その人から何を学ぼうとしてきたのかを、未来の自分に伝えておきたい。
 無論、無事転生してきた意識が、そのことを覚えているかどうかも分からない。この本と出会える確率といったら、ほんのわずかなものでしかないと思うし、第一、この本自体が残っているものかどうか、出会えたとして日本語が分かるのかどうかさえ定かではない。
 それでもなお思う。未来の自分を念頭に置き、「僕たちが何を学んできたか、今世も来世も何を目指して生きていこうとしているのか、自分がその人と関わった二十数年の変遷をたどりながら、ぜひ、そのことを書き残しておきたい」──ただそう思って筆を執っている。
  
 この本を手にしたあなた、それは未来の私であるかもしれない、そうでないかもしれない。でも、この本を手にしたうえは、仮に未来の僕、未来の私であるとして、過去からのつぶやきに耳を傾けてほしい。

1.

 君は、今どこに生きているのだろう。アジアのどこかの国なのか? ヨーロッパ? アメリカ? それとも、また日本なのか?
 でも、君の時代にも、まだ日本という国は存在するのだろうか? 
 返事がないのは分かっているが聞かずにはおれない。
 僕の生まれた国、僕が生きた国、そして大切な人たちと出会った国だ。
 僕は今、日本という国に生きている。
 この地で大事な人と出会い、大事なことを伝えられた。
 「人間は意識だ」ということ、「永遠に存在し続ける意識こそが本当の自分の姿だ」ということ。このことを心で分かり、「肉体」を中心とした生き方を、「意識」を中心に据えた生き方に換えていかない限り、何も変わらないということ。その転換をするためにこそ与えられた人生だということ……。
 本当のところを言うと、僕はまだ何も分かっていない。頭では確かにそうだと思うんだが、目で見られるもの、耳で聞けるもの、肌で感じられるこの世界の実感が大きくて、どうしても、そこを中心に動いてしまう。
 ある時、「違ってきた」「間違ってきた」ということが、理屈じゃなく、心から湧き上がってくることがある。その時は、もう何もいらないと思うし、心からフツフツと湧き上がってくる喜びに、いつまでもこうしていたいと思うのだが、そこへ生活や仕事という現実の問題が起こると、たちまち心で感じた思いは雲散霧消してしまうありさまだ。
 まったく自分という人間のお粗末さがイヤになる。
 かといって、生活や仕事にまみれて、何も分からず死んでいくのはもっとイヤだ。
 僕の生きた時代に「アンパンマン」というアニメが幼児の間で爆発的にヒットした。僕も孫がいるせいで、テレビやDVDでよく観ることがあるが、この主題歌がたまらない。
  
 ♪ そうだ うれしいんだ 生きる喜び たとえ 胸の傷がいたんでも
 ♪ 何が君の幸せ 何をして喜ぶ 分からないまま終わる そんなのはイヤだ……
  
 この主題歌が流れてくると、胸が熱くなり、何も分からない自分が見えてきてソワソワし始め、「仕事、仕事」と言っている場合じゃないなどと焦り出し、あわてて『意識の流れ』のホームページ(心を見る仲間たちが拠り所としているウェブサイトhttp://www13.ocn.ne.jp/~utamate/)を開くありさまだ。
 僕は、この時代、こんな漫画のような生活を繰り返しながらも、やっぱり本当のことに出会いたくて、ズボラはズボラなりに自分と向き合おうとしている。
 こうして未来の君に、自分が出会った人たち、自分がしてきたことを、語りかけるのも、そうすることで自分と向き合う時間を持とうとしているのかもしれない。

2.

 僕の勤める会社は大阪の西区というところにあるのだが、その得意先に柳々堂書店という建築専門の本屋さんがある。明治二十六(一八九三)年創業というから、今年(二〇〇七年)で一一四年になる。書店としては老舗中の老舗だ。創業当時は、龍角散の創業者とも縁があって、「ゴホンといえば龍角散」をもじって「御本と言えば柳々堂」のキャッチフレーズで一般書を扱う書店だった。それが三代目から、設計事務所が多いという西船場特有の立地条件を活かし建築専門書を扱うようになった。
 この柳々堂書店の現会長松原さんは、その人、田池留吉氏の中学時代の教え子だった。そして、この田池という人が、先ほどから言っている「肉」から「意識」への転回を説いている元府立高校の校長先生だという訳だ。
 ところで松原さんは、七十を過ぎた今も目鼻立ちがハッキリし、若い頃はどんなすごい美人だったろうと思わせる方だが、その松原さんから、ある日、ご自身の若い頃の思い出話を聞かせていただく機会を得た。
 少し、その思い出話に付き合ってほしい。
  
 昭和二十(一九四五)年十一月というから日本がアメリカとの戦争に敗れて直後のことだ。戦後生まれの僕にとっても、随分昔のことになるのだから、君にとっては大昔の話になるのだろうが、その頃、日本という国は、アメリカや中国をはじめとして世界の国々を相手に戦っていた。その戦いも昭和二十年を迎えて、いよいよ大詰めとなった。
 この年の二月には硫黄島へ米軍が上陸し、四月には沖縄上陸。四月五日にはソ連という国が日ソ中立条約の破棄を通告し、八月六日には広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下された。これと相前後して八月八日にはソ連が宣戦布告し、北部満州、朝鮮、カラフトで一斉進撃を開始し、かくして八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾、九月二日にはアメリカ太平洋艦隊旗艦ミズーリ号で降伏調印が行われた。



 終戦時、松原さん一家は、四国の讃岐に疎開していたのだが、そんな松原さん一家に「そろそろ関西へ帰ってきたらどうだ」と、古くから付き合いのあった大手建設会社から声がかかった。新しい日本の再建に向け、日本のあちらこちらで建築工事の槌音が聞こえ始めた頃だ。
 兵庫県の仁川というところでも大規模な建設工事が開始され、松原さんのお母さんは、その建設現場の寮母として求められたのだという。かくして松原さん一家も、昭和二十年十一月、疎開先の四国からこの仁川へと移り住むことになった。
 松原さんは、この学区にある某小学校に転入したが、当時、この小学校には同和地区の子供や韓国人の子供らも多く在籍しており、その二つのグループが対立ししのぎを削っていた。松原さんは在校中、クラスの級長をしていたが、なぜかこの両グループの女番長にも人気があり、二つのグループが松原さんを互いの陣営に取り込もうと喧嘩になることもしばしばだったという。
 特に同和地区の女の子は独特の美人が多く、その番長に気に入られたのか、解体した豚肉を塊で盛んに自宅へ持ってきてくれた。
 だが、その女の子は決して家へは入ろうとせず、玄関先に立って大声で「肉、持ってきたで」と来意を告げ、最後にこう言ったという。
 「腐りかけがうまいんや、つるしとけや。」
 松原さんの人柄や、番長と言われた女の子のやさしさが感じられて面白いエピソードだが、敗戦の混乱の中で、人のバイタリティやあたたかさを感じさせる時代でもあった。
  
 昭和二十二年になって、松原さん一家はやっと大阪へと戻り、書店を再開するべく今の京町堀にバラックを建てた。しかし売る本とてなく、古物商の鑑札を取り古本屋としてのスタートだったという。
 この年、教育制度も旧制国民学校から六・三・三制へと移行し、松原さんは九条の千代崎にある新制西中学校へ、その三期生として入学した。
 そして二年生の時だ。その人、田池氏が、この西中学へと赴任してきた。
 その人は、大正十五(一九二六)年、大阪市港区に生まれた。この年十二月二十五日、大正天皇が崩御し昭和元年となった。当時言われていた皇室の始まりから数える習わしでは、皇紀二五八六年になるという。
 この年、韓国では六月十日に日本からの独立を目指す運動が大弾圧を受けるという、いわゆる万歳事件が起こった。日本では一月十五日、京都学連事件ではじめて治安維持法が適用された。五月二十四日には北海道で十勝岳が大噴火し、死者一四四名を出した。
 かわったところでは、五月十四日に兵庫県宝塚市に「宝塚ホテル」が、阪神間初の郊外型ホテルとして誕生している。
 このホテルは、戦後には一時連合軍に接収されたこともあるが、僕たちが「心の勉強」の会場として何度か使わせていただいた懐かしい場所でもある。
 こんな時代環境の中で、その人は成長していった。小さな頃から「本当のことを知りたい」という欲求が強く、そのことに対し一途でもあった。ご両親は、その人のことを「どへんくつ」(頑固者)と呼んだ。
 お父さんは高松の出身だが、大阪へ出てきて「大津組」のもとで「田池組」を興し、荷役業に従事していたようだ。いわゆる任侠の人であった。ただ子供の教育には熱心ではなかった。自分自身は字が読めなかったため、小学校低学年のその人に新聞を読んでもらっていた。好きな野球の試合について知りたかったのだという。
 知りたかったのは、勝敗の予想についてなのだが、もちろん小学校低学年で新聞が全部読める訳ではない。分かる文字を拾いながら推測して読んでいくのだが、この予想が不思議に当たる。お父さんにしてみれば鼻高々、息子は小学校の低学年にもかかわらず字が読める。字が読めるのに勉強する必要などないと考えていたようだ。
 このため、その人は学業は良くできたが、教科書一つ買ってもらうにしても、入学時に買い与えられるだけで、遅れて入荷した教科書などは「必要なものは、みんな最初に買ってある」と追加購入してもらうのも大変な状態だったという。
 大阪市立吾妻尋常小学校を卒業したその人は、大阪府立市岡中学校へと進学した。当初、その人の資質を知る恩師は、大阪きっての名門校である北野中学への進学を助言していた。それを聞いたお父さん、学校へ出かけていくや「うちの子は電車で通うような学校へは行かせない」と、旧制市岡中学校への進学が決まったという。
 電車賃を払って通わせるような余裕はなく、それより野球の強い市岡へ行かせたいというのが、お父さんの本音だったようだ。
 そのお父さんが、中学四年の時に亡くなった。食道ガンを患い、その手術後、肺炎を病んでの最期だった。亡くなる前は、よく咳き込んでいたという。
 学年主任の先生や担任の先生は、何とかその人に勉学を続けさせたいと案じていたのだろう。「自分が学費を出してやるから進学しろ」とまで言ってくれた。
 また、ある企業が、学費を負担するので、市岡中学校からも一名を選ぶよう言ってきており、それにその人を選ぼうともした。
 「人に金を出してもらってまで勉強したくない」と、その人は両案ともに断った。
 一計を案じた学年主任は、「海軍兵学校」「陸軍予科士官学校」「高等商船学校」へ願書を提出したうえで、受験に行くよう、その人に指示したという。
 ここなら授業料もいらず、学業が続けられるとの配慮からであったろう。
 しかし海軍兵学校の入試では、選考試験の最終段階で、「おまえの父親は国賊である」と言われたそうだ。お父さんが任侠に生きた人だからだろうか。
 その話をした時、お母さんが「悪かった」という顔をされたのが忘れられないという。
 海軍に比べ、陸軍ではこのようなことがなく、あくまで成績重視であった。
 結果、陸軍予科士官学校と商船学校の二つに合格した。
 どちらにするか迷ったという。当時の高等商船学校は、どちらかというと海軍の予備将校の養成機関的な色彩が強い。要するに「陸軍」を選ぶか「海軍」を選ぶかという選択である。
 その人は言う、「兄貴が海軍に行っていたので陸軍にすることにした」と。
 かくして一人のどへんくつな陸軍将校生徒が誕生するに至った。
  
 さて、君に陸軍予科士官学校といってもどういうものか分かってもらうのは難しいだろう。戦後生まれの僕もよく分かっていない。ここで陸士のなんたるかを説いても意味のないことなのだろうが、僕が、君にこの本を書き残そうとの思いの中には、「心の学び」のことだけではなく、僕たちが生きた時代、僕たちが生きた日本のことをも知ってもらいたいという思いが厳然としてある。
 したがって話が本筋から脱線するところは多々あると思うが、堪《こら》えてほしい。
  
 陸軍予科士官学校というのは、昭和十二(一九三七)年、陸軍士官学校予科が分離独立して創設されたものだ。入学資格者は、陸軍幼年学校卒業者と旧制中学四年の学力を有する者、修学年限はおおむね二年、士官候補生となるべき生徒を育成するという目的を持ち、従来は市ヶ谷台にあったが、生徒数の増加に伴い、昭和十六年、埼玉県朝霞《あさか》町に移転し、やがて十八年には「振武台」と命名されるに至った。
 さて当時の日本は、今の戦争放棄をした日本ではなく、軍国日本である。そして「軍の強弱は士官の精否による」という建軍以来の精神に基づき、質の高い士官の養成が最重要課題とされてきた。このため陸軍予科士官学校も、近視眼的な教育ではなく、社会のすべてに通ずる高い視野を持ち、深い同胞愛、広い人類愛に根ざした教育を目標としており、今の若い人たちが考えるような、非人間的な側面はなかったと言える。ただ、それだけに生徒に求めるものも大きかった。
 そこで、当時の入学者を選抜する方法を見てみよう。
 まず、身体検査と学科試験とに合格した者をもって入学候補者とする。学科試験は、当時の旧制高校の入試試験と大差なかったが、作文が重視されたようだ。他の国漢・数学・外国語・地歴・物理化学の配点が、それぞれ一〇〇点満点なのに対し、作文には別に四十点を配していたようだ。
 それは、一般的には志願者の思想的傾向を知るためだと言われるが、戦場における迅速な状況判断力を養成するためだとも言われる。陸予士校の『生徒心得』にも「将校の言語・文章は質直簡明にして要を得、明快荘重にして礼儀に欠くる所なきを要す。ゆえに生徒は常時これが修得に努め自己の意志を的確に発表通達する術に熟し、いやしくも柔弱・野卑・虚飾・誇大の言辞は厳にこれを戒むるを要す」とある。
 決して、虚飾・誇大の言辞を弄《ろう》さず、一途に真理を探求していく「その人」の姿勢は、この陸予士時代に更に拍車がかけられたことであろう。



 陸予士での教育期間は二年間だが、「常在戦場」の教育方針の元、午前中四時間は一般教科学習、午後は教練と体操、夜は自習で十時には就寝という毎日である。
 教授はラッパとともに講堂(教室)に入るが、この時点で、全生徒が席に着いていなければならない。一三〇万坪の大キャンパスである。十分間の休憩時間で教室を移動しなければならないこともあり、ほぼ駆け足で教室へ集まるというのが常となった。
 教授が教壇に立つと、取締生徒(学級委員)が「起立」「礼」の命令を出し、その後、「第何中隊第何区隊、総員四十名、事故何名、現在員何名」と報告し、授業が開始され、時間終了のラッパが鳴るまで続くことになる。
 一教科は五十分授業で一日四時間授業、二カ年で一六七五時間となるが、これは当時の高校三カ年に匹敵する授業時間であり、かなりハードなスケジュールだったと言えよう。
 こうして陸士六〇期として陸軍予科士官学校を卒業した「その人」は、埼玉県入間(いるま)郡にある陸軍航空士官学校に配属された。ちなみに陸軍航空士官学校は六〇期をもって敗戦により終了している訳だから、最後の入校生となる。
 その人は、「陸軍の中枢にありながら空襲の驚異に曝されることが少なかった」と言う。日本本土を空襲するようになったアメリカ軍は、東京を空襲する際、まず富士山を目標に飛行し、富士山上空で方向を予科士官学校へと転換する。さらに予科士官学校上空で、再び東京市街へと方向転換することになる。つまり予科士官学校は、アメリカ空軍が東京を空襲する際の通り道になっていた。
 こんなエピソードがある。朝霞の陸予士時代、米軍機が飛来すると蛸壺《たこつぼ》に避難するのだが、実際に爆弾を落とされることはなかった。それが航空士官学校に配属され、入間へ移るなり、その一週間後、自分たちが避難に使っていた朝霞の蛸壺に一トン爆弾が落とされたというのだ。
 僅差《きんさ》のズレで空襲から逃れ、命拾いをしたという。
 また訓練中に心臓の不調から病棟に入院させられるという事態が起こった。軍医は「ゆっくりしていけ」というが、出席日数が足りなくなると卒業ができない。あわてて、「回復したので退院したい」と言っても、「貴様は優柔不断である」と認められない。
 おそらく戦局を考慮しての軍医の配慮だったのだろうが、何より卒業できない、卒業が遅れるということが耐え難く、何度も「回復した」旨を訴えた。
 事情を察した軍医がやっと退院を認めてくれた。ただし練兵休ということで訓練には出ず通院することになった。
 そんな折り、米軍機が襲ってきた。練兵休で寝ている兵舎で、米軍機が機銃掃射しながら真っすぐに自分に向かってくるのが感じられる。
 その時、逃げようという気が起こらなかった。死を覚悟し、そのまま寝台に寝ていたという。そして米軍機が、自分の真上を通り過ぎていった。
 後で分かったことだが、米軍機が狙っていたのは、兵舎の向こうに作られた爆撃機の実物大模型だったらしい。
 しかし、あの時、間違いなく「死」を覚悟したという。
 もう一つ不思議なのは、航空士官学校の生徒でありながら飛行機に乗ることがなかったということだ。
 普通、航空士官学校の生徒は、在校期間中に約一五〇時間の飛行時間を消化する。それが戦局の悪化に伴い、関東地区での飛行訓練はできなくなった。昭和二十年に入り、第五十九期生からは満州に移り操縦訓練に当たることになったが、この年八月、ソ連軍の侵攻で満州での演習計画も潰れた。


3.

 「とにかく変わった人やった。」
 松原さんが、その人、田池氏について話した第一声だ。
 「最初から普通とは違う、何か変わった雰囲気を持った先生やった。教科書なんかあってないようなもんや。数学の授業は、そら高度なもんやった。けど気むずかしいとこもあったな。何が気にいらんのか、一時間、ほとんど何にもしゃべれへんことかてあった。そんな時は、藁半紙一枚配っといて、『自分の人生観を書け!』それだけや。」


  
 敗戦ですべてが変わった。
 皇国日本の現人神であった天皇が、「人間宣言」を行い、神から人間になった。その皇国日本を救うため、「お国のため、陛下のため」と一命をなげうって戦ったのは何のためだったのだろう。「鬼畜米英」と叫んだその口が、今や欧米文化をもてはやす。
 価値観が一八〇度転換してしまった。人間の価値観など、いくら大上段に構えたところで、所詮、その程度のものなのだろう。その人、田池氏がそう思ったかどうかは分からない。ただ終戦間際、特攻として死ぬべく、自分と真向かいになり「死生観」を培ったのは紛れもない事実だ。
 だが、その人が特攻機に乗るより、終戦になるのが早かった。
 その人は、生きて復員した。そして家庭教師をしたり、亜鉛工場でアルバイトをしたりしながら、旧制大阪高等学校(現大阪大学)を卒業した。
 理数系を専攻したその人は、卒業後は、教師を志した。曰く、「生物は解剖があるから嫌い」「理科は実験があるから危険」。そこで目指したのが数学教師だったという。
 最初は、大阪市立西中学で補欠要員として「数学」や「英語」を教えたりもしていたが、職業軍人だった教師が、軍属の公職追放で辞め、二年C組の担任がいなくなった。そのクラスを引き継いだのが、その人、田池先生だった。
 「三年E組……」
 松原さんが、何かを思い出したように口を開いた。
 その人が、二年C組の後、受け持ったクラスだという。
 そのクラスの黒板の上に、一枚の紙が貼られていた。
 そこには「自然に従い 真実を愛し 純粋な魂の命ずるままに 自己及び自己以外の人々への愛を尽くさん」という言葉が掲げられていた。
 その人は、「あの頃は何も分かっていなかった」「言葉はきれいだが、中身は空っぽだった」と、その頃を恥じるように話されたことがある。
 しかし、三年E組は和気あいあいとしていた。松原さんは「そら、高度な授業でしたで」と当時を懐かしむように話される。
 「できない子も、率先して数学の問題のガリ刷りをしてましたなあ」とも言う。
 その人が宿直当番の夜は、生徒たちが毛布を宿直室へ持ち込んで、分からないところを教えてもらったりして一緒に泊まり込んだ。
 その時、みんなで安いキャベツを食べたりしたので「カエル学級」と言うそうだ。その人は、金のない学生時代、新世界の串カツ屋でよくキャベツを食べた。キャベツはいくら食べても只《ただ》なので、串カツは二本と決め、後は、ひたすらキャベツを食べたという。串カツ屋の親父も、良くしたもので、見て見ぬ振りをした。
 私自身、若い頃、PR映画の制作部にいたが、その事務所が天王寺にあり、撮影部の助手連中とよく近くの新世界の串カツ屋に飲みに行った。多分、同じところではないかと思うのだが(時代的には二十年以上も後のことだが)、やはりキャベツが自由に食べられた。三センチ大に四角く切られたキャベツが何ヶ所かのバットに山のように盛られており、これを串カツのタレにつけてビールのあてにする。
 映画を観て面白かったと言っては、映画論をぶちながら飲む。仕事が上がったと言っては「お疲れさん」とばかりに飲む。撮影部の助手や照明部の助手たちのこととて金はない。ビールと串カツを大事そうに楽しみ、後は、ひたすらキャベツと映画への情熱をあてに、ビールか安酒を飲む。この頃も、親父さんは何も言わず、ただ黙って見ているだけで、いつまで座っていても追い出されることはなかった。
 いい親父さんだった。また、人情のあるいい時代でもあった。
 閑話休題。
 その頃の思い出からか、その人は、宿直室へ毛布を持って押し掛けた子供らに、「キャベツは、カエルの食い物や」と、よくキャベツを振る舞った。
 それで「カエル学級」というらしいのだが、なぜ、キャベツがカエルの食い物なのかが分からない。一度、訊いてみたいと思いながら、そのまま忘れて今に至っている。
 おそらく、この先も訊くことはないだろうが……。
 また、こんなエピソードもある。
 その人は、クラスのみんなを率い、ハイキングやら研修やらと、よく、いろんなところへと出かけたが、クラスの生徒たちとともに六甲山を歩いた時のことだ。
 ……道に迷ってしまった。
 軍隊時代の経験を活かし、星の位置から方向を定め、やっと下山して出てきたのが、進駐軍の駐留する「宝塚ホテル」。
 何ごとかと質問してくるMPを相手に、その人は流暢な?英語でやりとりをした。
 背後で「オーッ」と、生徒たちの感嘆する声があがった。
 以来、その人には、数学だけではなく、英語にも優れた先生という評判が生まれた。
 ちなみに、この宝塚ホテルは、その人と同じ大正十五年生まれ。米軍の管轄下にあったとはいえ、二十代半ば、青春の真っ只中にあった。
 こうして、その人は、生徒たちから「変わった人や」と慕われながら、西中学校から、大阪市立高津中学校、夕陽丘中学校、更には大阪府立市岡高等学校、西成高等学校と教諭を続け、大阪府立登美丘高等学校では教頭として、大阪府立東百舌高等学校では校長として四十年近くを教育畑で歩み、定年まで一年を残し依願退職された。
  
 松原さんは最後に、その人、田池先生から「行き当たりばったりはダメ」、きっちりプランを立てて行動するようにしつけられたと言い、「未だにその習慣は抜けていません」と胸を張られた。
 西中学時代に、田池先生を中心に作られた「零クラブ」は、今も「零クラブ同窓会」として続いている。

4.

 これ以降、その人のたどった長い学校生活を追いかけることはできない。紙数も情報も足りない。たとえ知り得たとしても、それだけで優に一冊の本になるだろうし、また、それを綴って君に伝えることが、この本の目的でもないと考える。
 ここでは、その人が、幼い頃から抱えている疑問 ──「人間はなぜ生まれてくるのか」「自分とはいったい何者なのか」── にいかに対処し、いかなる答えを出していったのか、また四十年近く勤めてきた教職を、なぜ定年を待たずに依願退職したのか、そこにポイントを絞って君に伝えておきたいと思う。
  
 二、三年前のことになるが、仕事の関係で「町歩きの会」が主催する「九条・川口・市岡を歩く」という催しに参加したことがある。
 僕の生まれたのが西区の本田一丁目、その後、大正区へと引っ越したが、懐かしさも手伝って、会の面々と一緒に、自分の生まれた町を歩き回った。
 そのコースの終点が市岡高等学校であった。
 「市岡高校は、明治三十四(一九〇一)年二月大阪府立第七中学校として創設され、六月十二日大阪府立市岡中学校と改称されました。校地は創立以来ずっと変わっていません。その当時は、辺りは一面のスイカ畑。市岡高校となった今では当時の面影を偲ぶよすがもありませんが、校訓としての『自彊《じきょう》の精神』が一世紀にわたり脈々と受け継がれ、朝に夕に鳴り渡る『自彊の鐘』が生徒たちに『市岡の心』を語っています。」
 そんな案内人の解説を聞きながら、「ここが田池先生のいた学校か」と、漠然とその人のことを思っていた。
 ……と、唐突に「間違ってきた」という思いが込み上がってきた。
 「みんな間違ってきた。」「根本からすべて間違っていた。」
 そんな思いに突き動かされ、口からは嗚咽《おえつ》さえ漏れそうになり、大あわてで校舎の影に身を隠し、声を殺して泣いた。
 でも、いったい何を間違ってきたというのだろう? 
 小さかった頃、市電の電車道を一人で歩きながらよく思った。「死んだらどうなるんだろう?」答えの出ない思いに不安を感じた頃が、この場所にいると、なぜかよみがえってくる。そんな思いに終止符を打つ方法は「まだ先のことだ。今は楽しいことを考えよう」と、その思考を中止させることだった。
 町歩きは、この市岡高校で終点らしいが、「何が間違っているのか」、答えは出ないまま。またぞろ思い出した「死んだらどうなるのか」、その答も思考停止のままだ。
 これから後は案内人はいない。自分の内へつながる道は、自分で歩いていくしかないようだ。ただ道しるべとして、その人の存在があった。
 真実に至る道は「自分を見ていくしかないよ」と、その人は道を示していた。



  
 その人が子供の頃から思っていた疑問、本当のことを知りたいとの切実な思いは、戦争中、特攻として死ぬかもしれないという状況の中で、更に拍車がかけられた。
 戦争は終ったが、抱えている疑問は解決されないまま残った。
 「人はなぜ生まれてくるのか?」「自分とはいったい何者なのか?」
 その人は思った。
 (自分は数学教師だ。自分が子供に問題を出す時は、必ずその設問が解けるようヒントを与えている。だから、自分が抱えている問題だって、必ず、誰かしらがヒントを与えてくれているはずだ)と……。
 しかし、いくら自分の周りを見渡しても、そんなヒントを暗示してくれるような「人」はいそうもなかった。
 それが昭和四十九年のことだ。「おまえの説いてきた愛は偽物だ」と、自分の中から響いてくる思いがある。人から言われたことではない。自分の胸奥から響いてくるのだから認めざるを得ない。
 更に、その翌年のこと。
 当時は、西成高校で教鞭をとっていたのだが、問題が山積みしており疲労困憊(ひろうこんぱい)して家路に着くということが多くあった。我が家にたどり着くと、疲れて何をする気もなくボーっとテレビを観ていることもある。テレビドラマで「銭形平次」という番組があるが、いつも同じパターンで安心して観ていられる。そんな理由から、その人も毎回、観るともなく、その番組を観るようになっていた。
 ところが番組の終わり頃になると、ドラマの筋とは関係なく、なぜか母親のことが思い出され、目頭に涙が滲むようになった。それが何度も続く。
 まさかと思った。
 お母さんは何の取り柄もない人だった。文字も知らず、教養もない。
 活動写真(映画)が好きで、赤ん坊であったその人を、「危ないから」と、柱に長い紐をつけて括り付け映画を観にいくような人だった。
 だからと言って、お母さんを見下す気持ちはない。こんな両親のもとに生まれて不幸せだとか、惨めだったとか、そんな思いもない。
 ただ地区の町会長などは、長い間、その人とこのゑさん(お母さんの名前)が親子だということが分からずにいた。陸軍士官学校へ行くような秀才と、信号を無視して小走りに道を渡っていくこのゑさんが、どうしても結びつかなかったのだという。
 そんなお母さんが、自分の長年の疑問にヒントを与えてくれている。
 そこでお母さんの反省をしてみた。部屋に閉じこもり、母親が自分にしてくれたこと、逆に自分が母親にどんな思いを使ったのかを大学ノートに書き始めた。
 涙が止まらなくなったという。特別に慈悲深いとか、何か特別なことがある訳でもない。その母親が、言葉ではなく大切なことを自分に伝えてくれていた。
 申し訳ない思いと、うれしい思いで、畳が、涙でグショグショになったという。
 そんな折り、学校の春休みに滋賀県の草津高校へ視察旅行に行くことになった。昭和五十一年三月のことだという。視察旅行を終え、その人は、他の先生と別れ山中温泉へと足を延ばした。旅行の目的は、母親の反省をすることだった。そして「北陸荘」に宿を取り、思うまま、感じるままに母親への思いを書き始めた。「北陸荘」から帰ってからも、春休み中、母親の反省を続け、書き出した大学ノートは七冊になったという。
 もう間違いはなかった。お母さんこそ、大きなヒントを与えてくれている人だ。母親の思いが分からなければ、本当のことなど分かるはずがない。本当のことが分かるために、人間は肉体を持って生まれてくるのだということ、そのためにお母さんとなる人に産んでもらってきたのだということ、そのことが確信となっていった。
 自分は何者か、何のために生まれてくるのか……その答えはすべて自分の中にある。自分を見ていけばいい、自分の中を探っていけばいい。
 しかし、自分を見るというのはどういうことだろうか。瞑想をすれば、座禅を組めば、教典を読めば、それで、自分が見えるとでもいうのか。そんな訳はない。
 自分に一番近い存在は、お母さんだ。お母さんがいない人は存在しない。その母親に、自分がどんな思いを出してきたか。またお母さんは、あなたにどんなことをしてくれたのか、どんなことをしてくれなかったのか、思い出せる限りを書いていく。
 肉体はその時代に戻れなくとも、思いは、いつの時代へでも自由に向けることができる。そうしていく中で、今まで見過ごしてきた汚い自分が見えてくるかもしれない。見たくない自分が顔を出してくるかもしれない。許せない自分が現れてくるかもしれない。そんな自分を許し受け入れていくことから、少しずつ、自分の本質に近づいていけるのでは。
 人間は生まれ、その環境の中で生きていくうちに、肉体を自分と思い、数々の心癖や汚れを付けてくる。自分を見ることで、その心の闇に気付き、それを排除するのではなく受け入れ認めていく。
 その汚れは、今だけのものではなく、長い転生の中で培われてきた闇や心癖もある。それに気付いていくこと、それこそが肉体を持つ目的ではないだろうか。
 その自分と対面するために母親という存在がある。そのためにこそ、母親は自分を産んでくれたのではないだろうか。
 それらのことが、「母親の反省」を通して確信になった。
 以来、多くの人が、その人の話を聞くようになっていった。学校の休みの日に、喫茶店で、また有志の家で、いろんな形で、いろんな機会に、その人は、自分の気付いたことを無償で多くの人に伝えようとした。
 耳を傾けようとしたのは、子供の問題を抱える主婦、仕事のことで悩むサラリーマンや経営者、人の身体を治す治療師、心の問題を扱う心理療法士、インチキ宗教団体にだまされた人、超能力を求め心をゆがめてしまった人……そして、本当のことを知りたいと思うたくさんの人たち。
    
 とても、学校の休みを利用してできる範囲のことではなくなってきた。しかも校長職として学校に勤めている限り、思うように休暇をとることはできない。
 その人は、定年を翌年に控えて、これからは命がけで本当のことを伝えていこう。本当のことを知りたいと思う人の手助けをしていこうと、校長職を依願退職した。
 やがて、心を見るセミナーがスタートする。



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