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 彼女が首輪をつけて帰宅したのは夏の初め風が鋭い鉄の香りを伴って街路樹の葉々をざわめかすようになった蒸し暑い日の夕方だった。そのため彼女の「どう?」という軽くうわずった声を耳にして僕の身体は酷く汗ばみ無言のまま視線を空中に漂わせ曖昧な返事を脳内で反復し彼女の斜め後ろの窓から差し込む拡散した夕日を眼球の中枢に焼付けながら重い生唾を一息に飲み込むことくらいしかできなかった。あまりにも唐突かつ突飛なその行動は若干の戸惑いを生じさせるのに十分なほどの非日常性を持ちしかし彼女はそれがさも当然であるかのように振る舞っており怠惰な無変化に慣れきった僕の思考をいとも簡単に圧倒してしまったのだった。

 もしもその首輪が巷でよく見かける洒落たアクセサリーのようなものであったなら僕もそこまで返答に困る事など無かったのだろうがしかし彼女のそれは残念なことに沈んだ鉛色をしていた。ちょうど囚人にかけられる手錠のような質感であり見るからに硬そうでどう考えても普通の首飾りとは思えずどちらかといえば犬や猫にそれも苦痛を与える目的でつけられるような代物だった。文字、まして模様などはいっさい刻印されておらず鉄そのものの純潔を保ち彼女の細く淡い首にぴったりとまるで彼女がこの世界に現れたときからずっとそうであったかのような完璧さで食いついていた。

 何も言わない僕に対して彼女は身体を軽く一回転させて首輪の全形を見せつけいかに単純なしかしそうであるが故に首に嵌めようがないものであるかを主張した。おそらく彼女の意思だけではどうやっても外しようがないのだろう。首にぴったりと巻き付いた繋ぎ目のない鉄の輪をいったい誰が外せようか(それ以前にどうやって嵌められようか)。たとえ数人がかりで様々な道具を駆使したとしてもかなりの重労働になることは必至である。

だからと言えば何だが僕は彼女に対してそんな重そうなものをつけていて苦しくないかとか町を歩くにも世間の目があるだろうとかそもそもどうやってそんなものを首に嵌めたんだとかそういった類いの言葉を口にしないよう気をつけた。言っても無駄だと思ったしそれにも増して彼女に酷だと思った。

 そのときはまだ彼女と一緒に小さなアパートに住み始めてからあまり日が経っていなかったため僕は彼女の心理を上手く図りかねていた。一言のミスが平穏な時間や関係を壊し修復不可能な状態にしてしまうことを僕はよく知っていたしその分酷く神経質になっていたのだ。個人的な意見をなんの確証もなしに発することのないよう注意し極力必要最小限の言葉で意思疏通を紡いでいく、まるで言語能力という根元的宿命に束縛されているようなものである。彼女に首輪を見せられた瞬間においても僕はこの囚縛を強く意識し表面化しない程度の自己嫌悪を喉元の辺りに見い出していた。

 彼女はそんな僕の鬱屈を知ってか知らずかそのまま服を脱ぎ始めた。なんとも手馴れた動作だった。あっという間に床には乱雑に積み上げられた衣類の山ができた。そして彼女は僕に抱きつき耳元でまた呟く。「どう?」

だが僕はあまりそういう気分にはなれなかった。というより根本的になりようがなかった。僕は部分的な欠陥だったのだ、彼女に対してだけは。いくら行為を欲しようともそこにたどり着けぬ先天的かつ絶対的な、決して反抗を許さぬ事実が存在していたのである。

 ともあれ首輪をつけた彼女は魅惑的だった。服を脱ぎ全裸になっても未だ肉体に残り続ける異質な存在としての首輪がこぢんまりとした薄赤色の肩の上に大胆にも乗せられその人工的な輪郭線の上部から独特の凹凸を持った円筒状の首が伸び嘲笑にも見える表情を張り付けた顔面に至る。全身の中で首輪がある種の調和、非現実的でかつ卑猥な表象へ向けた調和を創造する偉大な一点となっていた。完全ともまた未完とも言えぬ彼女の実存はただそこにあるだけで周囲の物体――もちろん僕を含むあらゆる物体――の意義を変異させ得体の知れない理念化不可能な領域へと引きずり込んでいくのだった。

 彼女はしきりに首輪を示し僕はそれに応えようとおもむろに顔を寄せた。すると濃密な鉄の臭いと共に微かな汗の流れが感じられた。はるか昔から自分のすぐ側にあったかのような懐かしい臭気。鼻孔から眼球の奥、脳全体に行き渡りながら同時に歯の一本一本を痺れさせ、舌は硬直、顎が揺らぎ、喉の内壁を叩いては肺に繋がる微細な血管にこびりついて離れない。なぜか暖かく抱擁されているかのような安心感が頭の後側をよぎる。僕は彼女の生の痕跡を探すように何度も呼吸した。小さいがしかし確実な体臭がそこにはあった。

 そしてまた彼女は呟く。いや、ささやく。湿った息を吹き掛けるように。

「どう?」

 その日はそのまま眠りについた。

 

 

それから僕は毎日彼女を抱いた。おかしな意味ではなく語意そのままに裸の彼女を『抱いた』のだ。その度に彼女は甘えるような仕草で外れることのない首輪を主張し僕はそれに従順なまま鼻頭を鉄と首の隙間へ滑り込ませる。首輪の奥に隠された臭いは日に日に増していた。外気に触れぬ首輪の裏の皮膚が沸き上がる汗で蒸れ垢が溜まりどことなく愛着の湧く悪臭を強めていたのだった。このことがある意味で僕の意識を鈍らせた。ほんの数日間で僕は首輪に対しての疑念や忌避を根こそぎ焼失させられてしまっていた。逆に彼女への信頼や依存が以前にも増して明確になってきたほどだ。僕は決して自分から彼女に抱きつきはしなかった。いつも彼女が声をかけてくるのを待ち、それから事にうつった。だが心のなかではすぐにでも彼女にすがりつき首元つまりは首輪と肉体の境界線へとすべてを沈めたいという願望がくすぶり蠢いていた。理性の奥底、自我の本能的な部分で彼女の臭い、それも脳細胞が萎縮するかのような悪臭を強く欲しているのが自分でも分かった。それがかなり危うい状態であることは明らかだったがしかし僕は既に彼女の存在によってあの言語的な面での圧迫を感じなくなってきていた、つまりは面倒な言葉を発さずともその場に存在することが可能になりつつあった(あるいは認可されつつあった)のだった。これほど心地の好いものもあるまい。僕は自然と彼女の首輪を受け入れてしまったのである。

 思えばこのようにうまくはぐらかされてしまうのは彼女が僕の家に住み着き始めたときからずっとそうでそのときも大学の授業が終わってとぼとぼと帰宅し月額五万円ほどの安い玄関の扉を開き中へ入ると突然見知らぬ女が自分の部屋のソファに腰かけていたことに驚き唖然としてその場に突っ立っていると女はあら帰ったのとでも言うかのような平然とした面持ちで僕の方をちらと見つめそれから机の上に無造作に置かれた灰色のリモコンを手に取って時代遅れの古くさいテレビの電源を点けくだらないニュース番組の言葉に耳を傾けるのだった。それに対して僕はなんだか彼女の方が正しいような気がしてもしかしたら自分は馬鹿な考えを持ってしまっていたのかもしれないなどと思うようになりいつものように鞄を部屋の隅に置いてソファつまりは彼女の隣に座りぼんやりとした意識のまま液晶画面に視線をやる、あくびをする、彼女は何も言わずにそこへ座っており僕もまた同じく。そんな感じであれよあれよという間に時間が過ぎ気付けば彼女との同居関係が成立させられていたのであった。今から思えば道理に合わない話ではあるがしかしそのときの僕は目の前の現実とも虚構とも知れぬ女に対してどうすることもできず(夢への的確な対処を知る人間など存在するのだろうか)ただただ現状維持を選ぶほかなかったのである。

 

 

 そうやって日々の生活を彼女となんとかやり過ごしていたのだが夏の暑威が頂点に達し空気そのものが圧迫感を伴うようになったある日僕は必然とも言うべき事実に直面した。彼女の首が腐敗し始めたのである。

 その日も僕は夕方ごろに家に帰り部屋で何もせずに座っている彼女(彼女はいつも必要最低限のことしかしようとしなかった)へ軽く目を止めながらコンビニで買ってきた弁当をビニール袋から取り出しレンジで暖め彼女の隣でゆっくりと食べ(彼女はその間もじっと僕を観察していた)適度に腹が膨れると比較的多めの残飯を生ゴミ入れに押し込みそしてまた彼女の隣に座ると彼女がいつものように僕を誘い(服を滑らかに脱いでこちらを向き)それに従って僕が彼女を抱き左手を腰の辺りにまわし引き寄せ右手で首輪をつかみ少し下へずらしたとき、僕は黒く爛れた汚らしい皮膚の広がりを見た。圧迫された皮膚の表面へ無数に刻まれた横線が鉄の重みで擦れてできた大小の傷口によって寸断されまるで蟻に食い散らかされた昆虫の死体のようで平常と変わらぬ美しさを保ち続ける他の部位の皮膚を覆う薄い淡黄色と残酷な対比関係を生んでおり僕はあたかも自分が絶対に進んではいけない領域へと足を踏み入れてしまったかのような漠然とした後悔を覚えなぜ毎日これを見ていたにも関わらず今日のこの時まで気付かなかったのだろうなぜ今日に限ってこんなに衝撃を受けているのだろうと疑問に思いながら一瞬硬直ししかし同時多発的に沸々と全身から沸き上がるある種の好奇心(それは道端に何の前触れもなく落ちている犬の死体を気持ちが悪いと思いながらもまじまじと見入っしまうような気分に似ているのかもしれない)によって居ても立ってもいられなくなり無様な動揺を必死に隠しながらただ黙々といつもの動作つまりは首輪の奥の堕落へと顔面を近付ける作業に進んだ。彼女の表情をほんの一部分でもいいから確認しておきたかったがそれも極度の緊張のせいで叶わなかった。呼吸を取り敢えず止め目を開き鼓動の高まりを様々な箇所で感じながら首を前方へ押し出していく。肩の筋肉が強張り鼻の奥で窒息の予感がする。右手指先の力を強め首輪をさらにずらす。醜い細部がより一層はっきりと視界に映る。口内で踊る唾液を必死に舌で覆い隠しながら鼻を傷口に添える。焦点の合わない鼻の像を通して見えるうっすらとしたうぶ毛、首筋に現れた生気のない血管、ひたすらに無感情な鉄の塊、その裏で熟れた果実の如き凄惨さを見せる彼女の皮膚。僕は解放感を求めて息を吸った。喉のどこかで蓋のようなものがぽとりと落ちたような気がした。

 

 

 彼女は笑うように言う。

「どう?」

 僕は悦楽に身を震わせる。

 

 

 こうなれば早いもので腐敗は着々と進行していきあっという間に僕と彼女の生活を修正不可能なまでに断絶してしまった。彼女が消えたのはちょうど夏の終わりのころだった(つまり彼女が僕の前に居たのもたった一季節だけだったということである)。

 そのときもやはり夕食を食べ終え一息ついてから彼女が擦り寄ってきて僕は従順にそれを受け入れたのだがいつもと違ったことにはなんと抱きついた拍子に彼女の頭頂部が僕の目の前でするりするりと平行移動し小さな呻き声を上げる暇もなく僕の体をつたって首輪と共に床へ落ち重く柔らかい衝突音と鋭く尖った金属音を静まった室内に反響させながら少し転がって顔を伏せた状態で止まったのだった。首の腐敗が進んだ結果だというのは明らかだったが果たして本当にそんなことがあるのだろうか。僕は感覚の赴くままに断裂部を凝視した。丸く平板なそれは中央に白い同心円つまりは空虚な骨部を持ちその周縁に赤錆のような腐敗した肉を露呈しながらしかし一滴も血を流すことなく凝固しておりまるで冷凍処理された家畜の屍体のようだった。脱力した彼女の肉体は妙に重たくのしかかり気持ちが悪く僕は未知の危険物を取り扱うようにそっと彼女の腋に手を当て持ち上げ横に下ろし一旦立ち上がって少し離れたところから彼女の残骸を見た。三つの部位――頭部、首輪、それ以外――に分かれ異常なほど物質的な状態へと堕落しあらゆる現象をただ受け入れるのみとなった彼女はもはや朽ち果てたマネキン人形でしかなかった。

 気付けば僕の呼吸は酷く意識的なものになっていた。いつの間にか生来備わっていた身体的システムがことごとく破綻し無価値な物となりそのかわりに自分の意思で呼吸するという何か漠然とした償いのような行為を強制させられていたのだった。恐ろしい差異だと思った。目の前に(主に自決への面倒さを原因とした、淡い、あまりにも淡い)絶望感が浮き出ては消え浮き出ては消えを繰り返し脳が萎縮してすぐにでもその場に倒れ込みたい衝動に駆られたが部屋のなかで無意味に転がっている女の存在をどうにかしなければこれからまともに生活することもできない勿論それらをタンスへ押し込んでおけば何日かは支障なく暮らせるだろうがしばらく経てば女の全身に腐敗が行き渡りこちらの意識を狂わすほどの臭いを発するようになるだろうから取り敢えずは何らかの処置をとらなければならないと考え僕は一番簡単そうな首輪の廃棄に取りかかった。

 とはいえ家のゴミ箱に、残飯と一緒にして捨てるのは憚られる。過去の自分を徹底的に否定するようであまり気が進まない。仕方なく僕は首輪を拾い上げ、他には何も持たずに外へ出た。夕日の中の秋風が歩く度に頬の上を滑りいくらか心地よく感じられた。

 頭上の空は無数の電線の往来や遠近感覚の強調された灰色のビル群に圧倒され痛み苦しみながらも紅に染められた分厚い雲影を内包しなんとか膨張しようとしていた。太陽の姿は見えない。地平線上のあらゆる物体に吸収され硬化し扁平で異様な叫びの断片のようなものを小さく洩らしながら一時の休息に入ったのかもしれない。遠くから路面電車のブレーキ音、鉄を恐ろしい力で擦り合わせ錬成し生物の感覚機能を強引に犯すほどにまで鋭く高まった特徴的な鳴き声が響いてくる。果てしなく間延びした遺響。それに連なって聞こえる人々のざわめき。地下から緩慢な動作で這い上がり砂にまみれ乾燥し震えながらも自我の根底に介入する騒音。騒音。しかし人々の姿は見えない。どれだけ歩いても誰とも出会わない。どこかへ隠れたのだろうか。夜を嫌って帰途についたのだろうか。みな死に絶えたのだろうか。もはや自分以外の人間が存在していた確証すら失われてしまった。身勝手な感情によって記憶が不安定に陥り頽廃の底で乱舞する。逃避。逃避。逃避。

 足が痺れてきた。呼吸の荒さが目立つようになった。抑えようにも抑えられない。自分以外の誰かに歩行を強制されているような気がする。腕を必要以上に振る。表情を強張らせ歯を食いしばり視線を尖らせながら何かに従って歩く。向かうところなどない。どこにもない……

 ふと顔を上げればそこは橋だった。街の外れに流れる川へ架かったコンクリート製の比較的大きめな橋だった。美しく整備された表面には歩道だけでなく車道も設けられていたが自動車やバイクは一台も通る気配がなくただ弱々しく伸びる落日の残照が静かに広がっている。太陽が沈み完全な夜が訪れるのも時間の問題だった。

 僕は一日の終わりを感じると共に本来の目的を思い出し橋の下を覗き込んだ。薄暗い水面は絶えず揺れ動きながら微かな光を拠り所にして仄白く反射していた。何も言わず黙々と自分の為すべき行為の完遂に徹していた。

 その光景を見て僕はこの川へ首輪を投げ捨てるのが最適だと思った。盲目的に流れ続ける水の連鎖は首輪を跡形もなく消し去ってくれることだろう。考えてみれば当てのない彷徨のように感じられた道程も実はこの川を無意識のうちに目指していたのかもしれない。

そうと決まれば行動は瞬時、まるであらゆる束縛から解き放たれるかのような気持ちで首輪を投げようとする。だが突然の違和感。おかしなことに気付く。左手には首輪が握られていない。あのふてぶてしいまでに硬く重い女の首輪は左手の拘束から脱け出しどこかへ行ってしまっていた。道中で落としたのだろうかいやそんなはずはないたとえ地面に落下しても激しい衝突音が鳴り響きそれに気付くのは必至であるではいつどうやって。目的を失った左手は何をするでもなく無感情のまま拳を強く握りしめている……

 

 

 その後家へ帰って僕は女の肉体が部屋から完全に消失していることを知った。女の存在を考えれば特に驚くべきことでもなかった。夜になり漆黒が支配した室内にはただ孤独な、どこか乾いた血のようでもある鉄の臭気が悔いることなく漂い続けていた。

 


この本の内容は以上です。


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