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 生成。 

 




 長方形の箱、中央に落ちる漆黒、上部に映える円柱状の突起物。
 湿気た部屋の奥隅に佇む硬化した不快感。そして、二つの眼球。







 少年は白々しい個室のベッドで目を覚ました。幾分か曖昧な目覚め。夢想家のような思考の起立。少年の内部に何かしらの違和感が生じかけるが、その根源を掴むことができない。口内を犯す砂漠のような虚しさ、渇き。ゆっくりと上半身を起こし、周囲を確認する(右手をベッドに押し付け、腕を伸ばしながら体を起こす)。無菌状態であるかのような高潔さが漂う小さな部屋。影が存在しない床、壁。天井は適度に高く、少年の身長の一・五倍はある。視界に不快感を与えないよう上手く計算されているようだ。少年から見て右手前方に白いノブつきのドア。無論錆など微塵もなく、重い鉄の塊として十分すぎる程の沈黙を保っている。見上げれば染み一つ無い天井の中央に電球(しかしそこから光が発せられているかどうかは判断がつかない。何故ならこの部屋のどこにも影が存在していないからである。もしもこの電球が、目立った欠陥や特異性を持たない普通の電球ならば、自らを中心に部屋全体へ光を一方向に黙々と発し続けることだろう。無配慮に拡げられた光線の波は、過大な独我論によって部屋全体に、平等に行き渡り得ない。そのため、物体の外面に若干の明暗、輪郭を得た影が描かれる筈である。しかし室内には極めて均一に機械的な光が照らされ、少年の影も、ベッドの影も、ドアノブの影も消失している(否、根元的に存在していない)。光の方向性が掴めないのである。つまり、考え得る理論は二つ。一つは、少年の真上にあるこの電球が室内で唯一の光源ではなかったということ(例えば、電球だけでなく壁や床、あらゆるものが光を発し、影に入り込む余地を与えないようにしているという可能性)。もう一つが、元々室内に光という概念自体存在していなかったということ(例えば、少年の眼球に欠陥があるという可能性)。どちらも十分に有り得る。何故ならここは白だからだ)。雑音は一切発せられない。物体はただそこに在るのみ。少年は体を大きく捻って背後まで視線を走らせるが、窓は大小問わず見当たらない。つまり、開くかどうかも分からぬドアを除いてほぼ完全な密閉、閉鎖空間。正確に造形された白い構図は、孤独な偏執狂の設計を思わせる。
 少年の華奢な体には、見覚えの無い清潔な白衣が着せられていた。数分前まで眠っていたとは思えないほどに美しく整えられたそれは、(おそらく)アイロンの付けた折り目が明確に刻まれており、少年の肺に若干の気まずさを落とした。もしかしたらこの部屋の設計者にとって、白衣を着た少年それすらも意図する構図の一部分なのかもしれない(そうであるならば確実に、設計者は偏執狂である)。少年は下半身を覆っていた薄い一枚の布(それは白衣と違って酷く皺になっている)を掴むと、静かな動きで床に落とした(もしくは落ちてしまった)。吐瀉物のように流れ落ちる布。白衣から漏れ出た足の皮膚を舐めるようにして流れ落ちる布。それを受け止める無機物的に磨かれた床(おそらく硬派)は、頭上の蛍光灯を歪んで映し、感覚の流れ、酸素の循環を模擬する思考形態に酔っていた。天井を熱気が渦巻く。夏。 
 しばらく座り込んだまま、少年は目を閉じる。行き場を失った視線が体内で反射する。物体の輪郭線が瞼の裏で曖昧になったが、しかし四方に存在する純白の壁面は少年の視界に微弱な光跡を残した。淡く尖った円球、外部へ広がろうとする空白、鼓膜を殴る空気の摩擦。全てが煩雑なその視界に、革命を促す雨が降る。言語が崩壊しそうな程の風と共に雨がやって来る。少年の視界が雨水に満たされ、波打ち、肉体全体に染み込んでいく。指先、爪先、あらゆる先端にまで汚染が広がり、歯の根が痺れ、少年は目眩に溶ける。
 再び視界を開いて辺りを見回す。先程よりも明るさが増したような気がする(もちろんそれは知覚の問題である)。静寂の中で響く自身の呼吸音、喉の辺りに若干の詰まり。極めて存在的(存在的であるということはつまり理念的ではないということである(理念的でないということはつまり、あらゆるものがそこに実存しているという確固たる証拠が、少年の内部に顕在しているということでもある)。少年という自立的存在がありながら、物質の呻き声が更に他物の苦しみを生むという回転式連鎖、それが室内において普遍化されていたのだ。床、天井、壁、ベッド、ドア、床、天井、壁、ベッド、ドア、床、天井、壁、ベッド、ドア、床、天井、壁、ベッド、ドア、少年……)。反射(主に視線)は鋭利な角度で物質の外殻に突き刺さる。
 静かな呼吸を続けるなかで、次第に暑さ―室内に踊る縮写の馨り―が少年の内部にまで浸透してきた。焼かれるような暑さでも蒸せるような暑さでもなく、外部から少しずつ皮膚下へと食い進んでいくような苦しみ、恐怖。写真の色彩が失われ、『時間という価値基準』に侵されてしまうような恐怖、孤独な芸術が外部に奪われる恐怖。それはつまり霊柩車を追う偽善的手品師に浴びせられた厳粛な視線。
 少年は何かしらの打開策を見出そうとベッドから立ち上がった(尻の上で体重移動、二本の腕を巧みに使って右向きに半回転し、両足をベッドから離脱、美しい光の曲線が点在する床の上へ置き、足裏でその艶やかさを確認し、踵から足先へ力を入れ、またも腕を使用し、掌に部分的な反発を感じ、下半身上部、上半身下部から全面に押し出し、極めて鋭く立ち上がる)。二度軋むスプリング、足裏に響く冷たさ。
 
 裸足だった。








 眼球はお互いに向き合い、内部を露呈する。
「浮ついた厚顔の中に燃える悪霊、その体部。胴の辺りに巣食う亀、甲羅を持った海、緑色の太陽。発言はどこまでも遠く、地表は小刻みに揺れる。風が数度回転しながら落ちる。愛撫したいという願望それ自体が妄想の根元であり、極めて斬新な遠近法の結果である」
「直線が速やかに眼前を走る。音も立てず、冷淡に。無限の詩的公式によって紡がれる繭。天気の変容を舐め、好奇に曝す獣のように笑う、無感情で。無感情とは外部からは量り得ない存在であり、形容であり、客観性を求めるならば感情を捨てなければならないなどという腐った概念もなんとか輪郭だけは保たれる」
 未だ暗闇。






 ドアはいとも簡単に開いた。外開きだった。 








 熱せられたアスファルトの地表、その中央に据えられた巨木。微かな風のざわめきを体現し、無為なる永劫の時間、生態系の序列を表面化させる存在。枝という枝に密集、集約し、木という固定概念を造り出す葉。最早個を失い……(葉が潜在的に個を持つことなどあり得るだろうか。否。当然あり得ない。葉は個を持つ以前に全体性を構築する一つのパーツとして労働に当てられるのである(自然という巧妙なシステムによって)。先天的に全体性を与えられた葉は自らの内部構造、つまりは黄色い葉脈や微細な気孔、巨木との関係性の象徴である水流等を分析することなく、恣意的もしくは計画的事象によって無意識に落下、前後左右に揺られながら個を獲得する夢を見る。あまりにも儚く、永遠な、白昼夢。死を覚悟した肉体、無音の嘆き)。
 そうして夢を見たままアスファルトの熱に溶かされる、葉。








 少年は青い陽射しの許で古びた線路を辿っていた。そう、古びた一本の線路(人の時間を離れ、自然の公式に身を委ね始めてから、いったいどれだけの雨風に打たれてきたのだろうか。目的を持って手入れされている形跡は微塵もなく、あらゆる余白が錆と雑草で埋め尽くされている)。野原の中で無限に伸びる鉄の段差、どんな直線とも交わることなく、純粋に直線という形容を愛でる。文明的時間から振り落とされたこの線路では、鉄と鉄の間に白く焼かれた小石が満遍なく敷き詰められており、歩く度、外気に曝された少年の足裏へ尖った痛み(そう、幻覚から人を連れ戻そうとするかのような、強引な痛み。絶えず続く後悔、欺瞞、懺悔。少年の内部に巣食う一定の熱)を走らせた。稀に鋭く尖った石が柔らかな皮膚を裂き、暖かな血の流れを形成した。熱せられた小石に皮膚を裂かれる痛みは、脳を萎縮させるほどのものだった(そう、幻覚から人を連れ戻そうとするかのような)。しかし、それでも少年の歩みは規則性を保ち続けた。右、左、右、左……。毒物のような青さが広がる空では、支配的な太陽が鋭い斜光を発し、少年の白衣や、汗に覆われたか細い腕を照り光らせている。
 (あの白室から抜け出てきて、どれだけの時間が経ったのだろうか。既に白衣は汗で張り付き、少年の華奢な輪郭をくっきりと表している。足裏は度重なる痛みによって部分的に硬化し、歩行の障害から逸しようとしている。太陽は無意味なまま呻き声を上げ、空に一抹の疑念を抱かせている)。
 そんな無変化(既視感)が続く視界の中で、少年の意識は遠方の線路上に置かれた何かを捉えた。熱で歪み、はっきりとは分からないが、四角く薄い板のような形をしているようだった。
 暫く歩みを続けた後、強固な明察が可能となる。それは、無数に配置された絵画であった。
 数珠繋ぎのように規則正しく並ぶ比較的大きめの長方形。主に油彩(水墨、砂絵、水彩、版画、抽象、コラージュ、鉛筆、彫刻、写真、映像……)。レールの幅(約一メートル半)に丁度良く作られたのか、はたまたその逆なのか、黄金に輝くプラスチック製の額縁は線路にうまく嵌め込まれており、取り外すのは手間がかかりそうだ。
 少年は側に寄ると、線路に沿うように横歩きをしながら、一つ一つを興味深そうに鑑賞していった。

 一つ目。顔が二つある子供。というより赤子。二つといってもそれだけの数の頭部が存在する余地はなく、球体が中途半端な融合を果たした非規則な塊と化している。小さな目や鼻や口はそれぞれ他方の顔面に圧迫されて醜く歪んでいる。朦朧とした四つの視線。その様はまるで、潰れた内臓である。

 二つ目。頭部を撃ち抜かれた死刑囚。おそらく女。砂の上にうつ伏せで倒れている。卵の殻のように割れた頭皮から垣間見える朱色の流動物(まるで妖艶な食虫花)。おそらく脳の大半は弾丸と共に吹き飛んでしまったのだろう、内部には大きな余白が見える。巨大な傷口以外は生前の状態を保っているが、それもどこか硬い。

 三つ目。全身が美しい緑に塗り替えられた女のミイラ。汚れたベッドの上に寝ている。頭髪は豊満に伸びているものの、全て虚しく乾き、上部へ向かって大きな扇状に広がっている。目は暗く落ち込み、鼻は圧縮、口は微かに開いて茶色の歯を外気へ晒している。胸から腹にかけて無数の骨が剥き出しとなり、鮮やかな緑(または無機物さ)をいっそう際立たせているようだ。

 四つ目。何かしらの理由により溶けた少女。腕の皮膚がゴム状に伸びて地表へ垂れ下がり、まるで暖簾のようになっている。顔は一つ一つの部位が位置関係を崩壊させており、もはや人間のものとは言いがたい外見を呈している(が、辛うじて顔面だと分かってしまう。人間の性である)。右足を一歩踏み出し、僅かに全身を前へ傾けていることから、どこかへ進もうとしているようにも見える。だが、それがどこなのかは全く分からない。ただ、意思だけが感じられる。

 五つ目。蛆虫の湧いた死体。湿気た腐葉土の上に寝ている。詳細に描写された落ち葉の水滴。目、鼻、口、耳、それぞれから溢れ出た薄青色の塊は小さく山なりに盛られ、軟化した皮膚を少しずつ侵食している。既に頬や胸元の辺りにはピンポン玉ほどの風穴が穿たれ、そこからも蛆虫が顔を覗かしており、ただの白骨死体へ帰するのも時間の問題と言えるだろう(つまり『蛆虫の湧いた死体』という形容を失うわけである)。画面の端では、ふらふらと数匹の蠅が浮遊し、蛆虫との相関関係を欲している。

 六つ目。完全なる白色。紙面のざらつきが太陽光によって露呈している。豪勢な額縁によってそれらしく見えているものの、実際は空虚でしかない。

 七つ目。何らかの自画像。

 そして生身の女。裸。足と頭部をレールに上手く乗せ、仰向けに寝ている。目は静かに閉じられ、美しく整えられた髪は胸の辺りまで伸びている。唇は長時間日に晒されていたとは思えないほどの潤いを保ち、柔らかな腕の皮膚は何かしらの余韻を引き摺るかのように落ち着いた色合いを見せている。繊細な指の一本一本は股間を隠すように下部で組まれ、その堅固さは太陽の声を断裂させるほどだった。
 少年はじっと女を見つめた。視線で腹を抉ろうとした(もちろん失敗に終わったが)。女の瞳は隠されたまま。少年は女に触れることも、その場から立ち去ることもできず、無音のまま立ち竦んでいた。頑なな乳房が微小の叫びを上げ、風がそれに答える。突然、遠方から地響きのような音が二人(女と少年の関係性)に介入してきた。少年は女を分析するのをやめ、自分が辿ってきた線路の先へ視線を向けた。反響するように広がるその音は光という光を食い尽くすかのように少年の方へ近付いて来る。同時に、長大な線路の収束する一点が、小さな黒に呑まれていく。その黒は次第に大きさを増し、音と共に接近する。少年は少しずつ焦点を合す。ぼんやりとした輪郭線が徐々に明確となる。堅く強張った外形、線路に合わせて長く引き伸ばされた全身、震える線路、轟く汽笛。それは機関車であった。黒い鋼に包まれた熱い機関車。忘れ去られたはずの支配。
 耳を詰まらせるような爆音が近付く。全身が太い紐で絞められるような圧迫感、恐怖。足の筋肉が微かに硬直する。ほんの数十秒で車体は前面の構造がはっきりと認識できるほど間近にまで迫り(無限に伸びる車体の影)、遂に、少年の十数メートル先に横臥する絵画へ触れる。油のような滑りのある液体で汚れた車輪が黄金のプラスチック製額縁を飲み込み、砕き、絵画全体が斜めに傾き、恐ろしい速度で潰れ、裁断、破片となった額縁は線路の横の草むらにまで弾け飛び、所在を失う。連鎖的に絵画がその内包的性質を失っていく。絵画という抽象概念は尽く無価値となり、ただの塵と化していく。描かれた女子供は皆汚らしい記号に堕ちる。そして、七つの絵画を線路外へ消滅させた後、機関車はとうとう女の肉体を刻み始める。ちょうど膝と頭部(額)の部分をレールと車輪で挟み、回転に巻き込んで皮を剥ぎ、骨の上の赤黒い肉をちぎり、膝の関節部と頭蓋骨を圧倒的な力で砕き、分断し、内部組織の暴発を直視、車体を微動させながら身体を越える。直ぐに次の車輪がやって来る。女はそこら中に血液と肉片を撒き散らしながら(当然黒々しい赤色はすぐ側で眺めている少年の顔にも降りかかる)、何度も轢かれ、大きく三つに切断される。頭頂、中央、足先。腹は大きく波打ち、飛び跳ねながら車体の底へぶつかり、生々しい傷を作っていく。
 通過は永劫に思えた。黒光りする機関車は延々とその破壊力を少年に見せつけ、少年は乾いた眼差しで女の千切れた足の裏を見ていた。
 そして(唐突に)最後の車輪が女の(かつて存在していた)場所を通り過ぎる。機関車の後尾は不可思議なほど平たく、安全に見えた。だが、それも一瞬である。音が(根元である筈の機関車が少年から離れていったのにも関わらず)何故か膨張し始めたのだ。先程からの轟音がさらに狂暴さを増し、起伏の無いまま少年の鼓膜に響く。少年は思わず俯き、両耳を掌で塞いだ。脳の奥底から沸き上がってくるような感覚。歯を食い縛り、腕を硬直させる。

 ……。

 音は(やはり)突然止んだ。疑心に囚われながらもゆっくりと両手を降ろし、顔を上げる。光がやけに強調された風景。音は確かに止んでいた。遠くで波のざわめきが聞こえる。
 ふらついた視線を安定させる。線路に何かが寝ている。それはあの機関車が訪れる前と全く同じ風貌の女だった。裸でレールに寝転がっている(全く同じ場所で)。先程の機関車や爆音はおかしな白昼夢だったのだろうかと思い視線を辺りに這わすが、女の周囲にはしっかりと、砕けた額縁や破れた絵画達が散らばっている。黄金の破片が日光を受けて美しく煌めいている。確かに機関車はここを、少年の目の前を通り過ぎていったようだった。
 呆然と佇む少年の前で、寝ていた女が静かに起き上がった。長い黒髪が身体の動きに合わせて靡く。頭部を前後に揺り動かしながら立ち上がり、少年の方へ歩き出す。少年はとっさに避ける。
 女は、いつの間にか少年の背後に畳まれた状態で置かれていた(先程までは確実に存在していなかった(否、確実とは言えないのかもしれない))白衣を手に取り、裸体の上に纏い始めた。六つほどのボタンを枝のように細い指で丁寧に留め、少年と全く同じ格好になると、少年の眼球から意識的に距離を置き、無表情のまま言った。

「行きましょう」
 







 錆びた歯車。
 回転速度は限りなく零。隣の歯車とうまく噛み合わない。形が本来のものからずれてしまっているようだ。
 何かの動力源なのだろうか。もしそうなら、その何かは酷く古い物なのだろう。内部の構造がここまで朽ちてしまっているのだから。
 未だ歯車を動かそうとする力はどこからか働いている。その証拠に、歯車は表面の赤い錆をカタカタと震わせながら微動している。恐らく、右回転。
 それに合わせ、周囲の歯車も揺れる。稀に鉄と鉄が擦り合う、鼓膜を引き裂くような音が聞こえる。
 恐らく、右回転。








 赤く乾いた煉瓦が同心円状に敷き詰められた空間。中央に軽い陰を作る巨木。風に伴い幾つかの初々しい葉を落とす。空気中を右往左往しながら、確実に地面へ近付いていく、離脱した葉。
 煉瓦と植林と太陽で形成されたその広場には三つのベンチがあった。どれも鉄製で、適度な曲線を持ち、美しい外観を呈していたが、そこに座っていたのは小さな老人ただ一人だけだった。決して広場に人がいなかったわけではない。気軽な格好をした若者や丸い輪郭をした女、ベビーカーに乗せられた幼児や犬を散歩させている初老の男などが彷徨き、清潔な空気、降り注ぐ日光を楽しんでいた。では、何故彼らはベンチに座ろうとしないのか。原因は人ではなくベンチそれ自体にあった。ベンチに使われている黒い鉄が太陽によって熱せられ、少し触れただけで火傷をしてしまいそうな温度になっていたのだ(しかし老人は暑さに苦しむことなく、無表情のまま顔を伏せている)。一見してベンチの溶けるような高熱を認識することはできないが、恐らく、他に誰も座っていないということ(老人を例外として)や頭上から降り注ぐ太陽光の鋭さ、辺りを漂う夏の雰囲気などから、黒い鉄の奥に潜む殺人的な熱を見抜き、近寄らないようにしているのだろう(老人を例外として)。これくらいの推測は誰でもつく。例え推測できない人間がいたとしても、ベンチに座ろうとした瞬間、鉄に触れた腕が悲鳴を上げ、思わず飛び上がり、すぐにベンチを離れてしまうことだろう(老人を例外として)。このような理由から、誰も座らないベンチが広場に生まれているのである(老人を例外として)。
 背を丸め、蹲るように座っている老人の身体は、長年の疲労で干からびてしまったのか、酷く小柄で、黒い外套を着込んでいた(夏にも関わらず(否、そこが夏だとは誰も断言できない))。所々に粉がふいた、草臥れた外套。完全な黒ではなく、うっすらと白い埃の膜が張った、長い外套。それに全身を包まれた老人はどこか聖職者のような雰囲気を醸し出し、無言のまま足元の赤煉瓦を見つめている。赤煉瓦とは、鉄分を含む不純な粘土、川砂等を混練し、プレス成形後一一〇〇℃前後で燃成して作る、土木や建築に用いる赤色の粘土のことである(では何故公園の地盤に用いられているのか。知識の誤りか、それとも現実の誤りか)。よく考えれば、完全に直角な長方形である煉瓦が、如何にして同心円状に敷き詰められるのか。どれも隙間なく密集している筈だが、しかしそれでは道理と合わない。
 訂正。老人は足元のアスファルトを見つめていた。鼠色の地表。無変化の拡散。中央の巨木。落ちる葉。あらかじめ定められていたことのようでもある。老人は聖職者として熱せられたベンチに座り、何かを模索している。
 
 





 
 獣の臭気が蠢く中、一つの白い箱が二人の前に現れた。少年には硬く、女には軽く見えた。
 箱は縦に長く、大体一メートル程の高さ。横幅四十センチ、奥行き五十センチ。上部にはうっすらと埃。比較的真新しい埃だ。二人に向けられている前面は扉のような作りになっており、右中央には把手として小さな窪みが掘られていた。表面はやはり白。全体的に頑丈な材質を使っている。おそらく側面を拳で何回か叩けば、乾いた、よく響く音が聞こえるだろう。八つある角はどれも怪我をしないように丸く削られている。箱の両隣には使用用途が不明な硝子製のコップ、赤い筆、廃れた絵の具などが無造作に置いてある。部屋中に漂うむさくるしい空気と、何らかの関係があるのかもしれない。
 部屋には光源がなかった。どこからか紛れ込んだ薄い明かりが均等にふらついているだけだった。そのためか部屋に置かれた物体の色彩が酷く曖昧で、先ほどの赤い筆も直感的に認識できるのみである。この色彩感の脆弱さと、倉庫のような天井の低さ、均等に積もる埃等が重なり合い、少年に奇妙な息苦しさ(呼吸をすれば鼻腔から濃密な埃の渦が入り込み、脳を汚染し、血管を詰まらせ、肉体を死へ至らせてしまうかもしれないという幼稚な危惧を抱く程の、息苦しさ)を与えている(女は然程気にしていないようだが)。
 ほら見て、冷凍庫よ、と女が言った。無機質な、死んだ無機質のような規定された音声。
 冷凍庫って、何が入ってるんだよ。
 女は少年の呟きに反応を見せることなく(その様はまるで少年の意識を無闇矢鱈に淘汰しようとしているかのようにも見える)腰を曲げ、視線を落とし、右腕を上げて前面右中央にある窪み(把手)に指を掛け、扉を開いた。石化したゴムの分離音(若干粘着性)、開口部から床を這うようにして流れ出る冷気(少年の裸足にまとわりつく)。
 冷凍庫の中には控えめに蛍光灯が備え付けられていた。少年と女の顔面が明確な影を以て白く照らされる。
 白いプラスチックの仕切りで上部、中央部、下部と三つに分けられた内部構造。
 上部には霜を纏った野菜。光によく当たっているにも関わらず、色はどこか薄い。凍らせたことで色素が消失したのかもしれない(実際は霜が邪魔をしているだけのことなのだろうが)。人参、キャベツ、南瓜等。
 中央部には飲み物(牛乳、ミネラルウォーター、ミネラルウォーター、ミネラルウォーター)が店で買ってきたそのままの状態(おそらく未開封)で配置されていた。人間が飲んでも差し支えないかと思われる程の小綺麗さ。内部の液体は凍り、体積が膨張してペットボトルや紙パックの原型を崩している。
 そして下部。最上部からの光がぼんやりとしか当たらないその空間には、狭小な間隔に押し詰められた冷凍雛が無数に存在していた。やはりこれも冷凍野菜と同じく全身に霜を降らせている。きっと指で触れれば、庭に積もった雪の地面に木の枝を投げ込むかのような、繊細な感覚を得られるだろう(そこには雛本来の暖かな毛並が入り込む余地などない)。数十匹に及ぶ冷凍雛の視線はすべて一様に前方、つまり女と少年の方を向いている。凍った眼球は黒さを増し、痛々しいほどに無言だ。
 知ってる? 冷凍雛ってみんな雄なのよ。
 なんで?
 雄は役に立たないからよ。栄養だけは一人前にあるから、内蔵を含んだまま凍らせてあるの。重要な栄養源。
 女は把手に掛けられたままの右手を離し、一旦宙に浮かせた後、冷凍雛の内の一匹(最前列、右から三番目)を親指と人差し指で掴み、寒気の中から連れ出した。少年の眼前に迫った冷凍雛の顔は砂のように淡白に見えた。死体。生きた死体。少年はそう思いながら女の指先の妖艶さに浸った。
 女は右手で不安定に冷凍雛を持ちながら、左手で扉を閉じた。汗にまみれた皮膚が硝子に張り付いたかのような音がした。そして同時に、あの控えめな蛍光灯の光は視界から失われ、また埃っぽい暗闇が辺りを支配した。
 さあ、彼に会いに行きましょう。彼は偽物なの。
 少年は口を閉じたまま、色彩を失った冷凍雛を見つめた。冷凍雛は女の手中に姿を暗ましながら、確固たる輪郭線を少年に見せつけていた。


 
十一

 下は裸足。直接的に外部と接触する足裏は、地表のざらつき、乾燥、熱、痛みを感じ取り、同時に自身の肉体を想像させる。外部の現象と接触する肉体を感じる。つまり外部を知覚すると同時に知覚する自分自身を知覚するということ。知覚で知覚を知覚する知覚を知覚。知覚とは事象を内部に取り込み、意味付けをすること。知覚。感覚ではなく知覚。感覚は瞬発的な、直感的なものであり、人々はそれを基に知覚する。感覚で得た経験は直接見ることができない。知覚によって把握、整理、構成しなければならない。故に感覚と知覚は異質のものである。感覚までなら世界は高い純度を誇る。がしかし、それを知覚に通した瞬間、馬鹿げたほどの語弊を含んだものになってしまう。知覚は世界を拡げているのと同時に、世界を虚偽という矮小空間へ堕落させてしまうのである。僕らは知覚された世界でしか生きられないんだ、と喚き散らす馬鹿一人。それ故の防護壁。柔らかな足には布製の靴下とゴム製の靴。外部侵攻を阻止、知覚という衝動それ自体を狭め、狭め、狭め尽くすことで知覚の力に頼らずとも世界を作り上げる究極の能力を手に入れる。究極の能力。神である。
 神となった馬鹿一人。世界の中央に鎮座し、意識の脆弱さを必死にアピールしては、行動の責任を狭隘な万物に押し付ける。なんでこの世界には僕しかいないんだ、と叫ぶ馬鹿一人。知覚というものは単純、故に偽装されやすい。特に、自分自身に。と言うより、偽装するのは自分だけ。誰が事実を歪めているんだと問い掛ければ、返ってくる答えは一つ。「お前しかいないだろ」
 防護壁を纏っていないのは足だけかと言えば、あながちそうではない。腕も首も顔もみんな晒されている。夏ならばさらに露出は増える。全身を防護壁で覆い隠せば問題ないだろうが、それもまた難しい注文。息苦しさと熱っぽさに耐えきれないような構造になっているのだ、人間は。つまり、結局は外気に晒される運命にある。生きることは知覚することと同義なのである。それでは、絶対に手に入ることのない純潔を求め続けるのか、諦めて自我の深淵に浸るのか。どちらを選ぶべきなのか。終わりを知らない知覚の中で、吐き気がするほど自己を凝視する、馬鹿一人。わざわざ裸足になって線路を辿る様は、一見外部を求めているようで、実は自己完結に溺れているのみ。
 そこまで他者を求めるのならば、いっそ顔に膜でも張ったらどうだ。

 というふうに太陽が言葉を連ねる。少年はどこかで聞いたことのあるそれらの単語を背骨の辺りで咀嚼しながら、女についていく。女の手中には一匹の冷凍雛。夏の日差しに耐え、未だ冷凍のままでいる雛になんと声を掛けたらいいのだろうか。偽善者、とでも呟こうか。

 





十二

 ふと、老人は顔を上げた。大きめの外套から覗く茶色い目蓋、萎れた頬、頑なな眼球。
 視線の先には―場違いなコンクリートの地表に侵食された広場、その中央に位置する巨木が落とす柔らかな影の輪郭線上には―一人の男、いや、一体のマネキンが置いてあった。どこか陰鬱な雰囲気を漂わせるマネキン。それは、さも当然のことであるかのように女装していた。角張った肉体の造形から男を模したものだと分かるが、しかし身に付けている衣服は明らかに女物。その違和感の狭間、色彩の失われた顔面から発せられる眼光は、遠方の砂漠を見つめているようでもある。あまりにも簡素な砂漠を、見つめているようでもある。手足は古代の彫像に似たポーズをとり、美しさの偽証を思わせる。プラスチック製の硬すぎる足裏は、平坦なコンクリートとうまく噛み合っていない。全身が風でカタカタと揺れてしまっている。
 (ここでマネキンの女装について詳しく語るべきだろうか。いや、おそらくそれは行き過ぎた配慮だろう。マネキンがどんな女装をしているかなど、全く無意味な情報なのだから。マネキンも老人も、女装という条件によって生じる心理的現象のみを重要視しているのであって、決して一つ一つの形状に意識を向けているわけではない)。
その風貌はまさに、無生物の権化だった。常人には到底受け入れられぬ狂人の如き無機質さ。衣服から生えた白い皮膚が太陽の光で定型的に光っている。
 暫くの間、老人は女装したマネキンを見つめた。視線は交わらない。背後から子供の高笑いが聞こえる。巨木がざわめく。あらゆる物体が無変化に陥ったまま、反抗も抑えられ、固定した時間の中で喘ぐ。三度目の高笑いが背景より響いた瞬間(それはいつのことだろうか。時間軸の崩壊、行方知れずの音)、老人はゆっくりと顔を降ろし、曲がった背筋をさらに曲げながら錆びた足の関節に体重をかけ、ベンチから立ち上がる。ふらつきはない。いたって安定している。
 そして、緩慢な動きで、少しずつマネキンに近付いていく。一歩一歩、前方に突き出しては体勢を整える。老人の、マネキンの、巨木の周りには、誰も見当たらない。子供達の声だけが訪れては消える。
 継続的な運動の末、老人はやっとのことでマネキンの正面に立つ。マネキンは女装したまま微動だにしない。胸を張り、堂々と遠方の砂漠(らしき方向)を見つめている。年老いた細切れの呟きが、油絵のような唇から漏れる。「そうか、そうか、そうか」
 そして、空間を切り裂く唐突な暴力。突発的自己批判。老人の硬化した腕がしなやかに伸ばされ、マネキンの人工的な首を掴み、強く掴み、一気に熱せられた地表、コンクリートと太陽の混合物へ叩きつける。衝突した右肩は砕け、細かな破片が破れた服の隙間から弾け飛び、甲高い破裂音が広場一体に拡散する。幾重にも反響する。ぽっかりと開いた穴から露呈した、内部の淡い肌色。老人の動きは止まらない。倒れ込んだ人形の胸部を踏みつけ、踏みつけ、踏みつけ、女物の服を引き千切って周囲に投げ飛ばす。断片となった布が、味気ないコンクリート製の地表に豊満な色彩を散らす。所々黒ずみ、破壊された裸体が転がる。老人は固定されたまま動かない物質としての手首を捕らえ、全身を大きく捻りながらマネキンを持ち上げ、降り下ろした。足、続いて胴体が落下の衝撃によって跳ね、片方の足首が割れて二メートル十五センチ先へ吹き飛び、二三度転がって止まる。断裂部は激しく尖っている。まるで肉体を抉ろうとしているかの如く。骨盤辺りには長々と亀裂が入り、部分的に表面の塗装が剥げて黒と白の混在した下層が顔を出している。

 ……。
 
 暴力は老人の体力が尽きるまで続けられた。彼の憎しみや苛立ち、閉塞感が迸り、マネキンはいとも簡単に廃棄物と化した。何かの象徴のように積み重ねられた断片。死を内包した山。血液のない死。老人は満足したのか、既に広場から去っていた。巨木の葉がざわめき、強すぎる夕日が酷く鋭利に差し込んでくる。
 ふと、マネキンの死体から擦り切れた機械音が聞こえてきた。呻くような声。テープレコーダーに録音されていたものらしい。瓦礫が話し出す。
「どうだろう。あなた方は私を責めることができるだろうか。よく考えていただきたい。偽の太陽、偽の女、偽の砂、偽の声。それらを見続けた眼球がどれだけ関係性を欲するのか。つまりは同情である。絶対的な同情である。死を通して感じる他者の空気。息苦しい小部屋。あなた方も知っているだろう、捨て去ることのできない自虐性の自我を」 
 いつのまにか広場は夜となった。無知なマネキンは自我の崩壊を痛感しながら、暗闇の中の孤独に浸った。巨木が震える。遠くに砂漠が見える。






十三

 歩き続ける内に、地面が柔らかな砂に覆われていくのを感じた。辺りを見渡せば、そこは砂漠だった。
 滑らかなグラデーションを誇る青空の許、不規則な傾斜を持った砂山が一面に広がり、その表面は何らかの道具でコーティングされたかのような艶やかさを保っていた。足跡など微塵もなく、極めて静謐に自然的法則が守られている、砂の集積。時折風が吹き、細かな砂の粒が一体となって浮遊、全身の穴という穴に入り込んで来る。鼻、口、目、耳、汗腺。その度に噎せる少年。無変化の女。そして凍ったままの雛。
 頭上では、太陽が痛いほどの光を放ち、砂漠という一個体に強固な影を落としていた。巨人が絵の具で丁寧に描いたかのような、美しい輪郭の影である(この影は何の遮りによって作られたのか、全く見当がつかない。小高い砂の山しか存在しないこの場所で、如何にして影が生まれ得るのか。空には雲など一欠片もなく(例え無数の雲が日光を遮っていたとしても、地表に描かれる影は曖昧な輪郭を持ったものにしか成り得ないだろうが)、日差しも地面へほぼ垂直に刺さっている。かといって光源である太陽に欠陥があるとも思えない。何故なら太陽は絶対だから。世界中の生物が太陽を信仰している、筈である)。影の中へ入ると、凶暴な太陽の熱は力を失い、幾分か涼しさを感じることができた。
 終着点の不明瞭な混沌たる旅。女は平地と変わらぬスピードで歩き続けているが、その後ろをついていく少年は酷く手間取っている。体重をかければ直ぐに崩れてしまう地面の脆さによって、彼の進行は著しく緩慢になっていた。足が砂に呑まれ、頻繁に転ける。思わずついた掌に握られる無味乾燥の砂。女は気にせず歩き続ける。雛を手中に抱えながら、完全に安定したバランスを保持し続ける。少年は汗だくになって地を這う。
 そうこうする内に、いつの間にか少年の視界から女の姿が消えていた。後に残されたのは女の小さな足跡のみ。息が上がり、砂まみれの喉を震わせながら一歩一歩進む。前方へ視線を遣るが、汗で滲んだ眼球は上手く焦点を結べない。何となく遠くに女の白衣が動いているような気がするが、あまりにも曖昧すぎて確信が持てない。もしかしたら太陽が作り出した光の染みなのかもしれない。もしかしたら少年は何の導きもなく、この先の見えない砂漠へ来てしまったのかもしれない。滑稽な焦りが少年の感覚を侵し、動きが精細さを欠いてまた転ける。太陽が意識を焼き続ける。
 何度目か知らぬ小山を越えた時、少年は緩やかな窪地に立つ女とその隣に鎮座する不気味な塊を見た。黒と白が混在する中途半端な色合いの塊、それを直立不動で精査する女。少年は思わずその場で立ち竦んだ。他者の介入を拒絶する暗黙の規律がそこに漂っていた。
 塊はよく見れば焼けた白いプラスチックの残骸のようだった。元が何だったのか想像する余地を与えないほど激しく溶けたその造形は、恐ろしい無機物さを纏う完成された物体へと堕落していた。
 女は無言のまま腕を差し出す。そこには冷凍雛が握られている。ゆっくりと膝を曲げ、低く屈みながら、残骸の上に雛を乗せる。労るような表情。繊細な指。女の手から離れ、雛は冷凍状態から解放される。太陽によって、もしくは残骸の余熱によって。滴り落ちる雫。外気に晒される濡れた毛並み。よく見れば(そう、よく見れば)雛の身体も熱に融解している。まるで雛それ自体も氷であったかのように、頭部からどろりと崩れる。生物的な外見がみるみる内に失われていく。そして中から一つの歯車が現れる。
 使い古された歯車。矮小。乾いた赤錆の表皮に覆われている。かつては何らかの仕事に従事していたのだろうが、今や単なる塵となり、自らの存在意義さえも定義できず、ただそこに無感情のまま存在している(あくまで主観的印象)。少年の足許の砂が風で流れた。
 暫くの時間静止。後(決心がついたのだろうか)、歯車は大きな摩擦音をたてて残骸の中へめり込んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。不可思議な力に誘われて。
 そして遺物の取り込みを完了した瞬間、残骸が頭頂から石化を始める。無音のまま、外観が重い灰色となっていく。女はじっとその様を見ている。少年も同じく。鉄のような風が吹く。
 
 残骸は転化した。偽の即身仏へと。万物救済のために自死する即身仏への憧憬。あまりにも無惨な。

 女は立ち上がり、髪の毛を風に靡かせながら、少年の方を向く。端整な、しかし硬直した顔面の中にある二つの眼球。融和する視線。
 砂が二人の間を渡る。






十四
 
 夏だった(そこには無数の現象(蝉の共鳴(個人を失った彼らは姿を消しながらも絶えず残響を辺りに靡かせ、我々の意識中央部を侵食する)、太陽の異常な光線(しっかりと開いた眼球で、しっかりと太陽を見た瞬間、視界の根幹に若干の黒みを帯びた円球(そう、その大きさは眼球に等しい)が現れ、そこから視界の限界にまで、刺々しい光の帯が拡散する)、迫り来る暑さ(脹ら脛からゆっくりと腹、胸、首を登り、頬の骨格に触れ、脳を煮る、そんな暑さが日常的に見られる、その異常性)、鬱蒼たる森林(その中へ歩いていくにつれ、自我が崩れ落ち、(世界を象っていた)時間概念も失われ、詩的述懐が木々の間を抜け、どこからか鳥の呻き声が聞こえる、呻き声、喉を震わす)、輝きすぎる海(白浪ばかり、平板な青、究極の光である反射した日光、暑い、塵屑だらけの砂浜、目障りな貝殻、海草、浪の前後運動、地平線の先を見る、遠くから鉄道の声が聞こえる、海上からカモメのような、カモメの声が聞こえる、海がどこか分からない、鉄道の音)、扇風機の回転音(数枚の薄いプラスチックが電力により鋭い回転を生み、それが風の分断前進運動へと繋がる、扇風機としての活動、回転、冷寒音))が存在しているため(かどうかは実際のところ判断できないが)女の口数が増え(まるで視界に入る全ての物体の名称を律儀に述べていこうとでもするかのように増え)女の動きが鈍り(まるで錆び付いた亀のように鈍り)女の顔が酷く汗ばむため(鼻筋に浮かぶ滴、震える唇)夏という暑さが際立ち溢れ人々の間に緊張を生んでしまい、無闇な自殺志願者を構成するが、それらは単に夏という固定観念に踊らされているだけであり、たったの一人も実行に移すことができない、故に自殺志願者ばかりが都市に蔓延り、一向に減少せず、視線を漂わせ、女をまさぐり、期待に絶望しながら雨を待つ(雨(雨(雨(雨(雨(雨(雨)は泣き)は貪り)は求め)は抗い)は受け入れ)は止まり)は消える)だけで、何の利益も発生せず、様々な構想が血液を巡り、擦り合い、無変化を謳歌し、怠惰に眠るため、都市は最高温度三十七度を認識しながらも凍りつく、凍りつく、そして人々は故郷に帰る、どこに存在しているのか、本当に存在しているのかさえも分からない自らの故郷、帰るための、自己肯定のためだけの場所、時、人、女は都市と絡み合い快感を受諾する、喘ぎ声をあげ、足を突っ張り、胸を反らしながら、という夢を見、外の空気を吸いたいと思ってドアを開けるがそこもまた箱の中、冷えた箱の中、仕方ないから絵を描くが、もう飽きた、もう飽きた、もう飽きた、窓を探そうともそこは殺伐という叱責、女は未だ都市と絡み合い、こちらに手を降っている、故に女の自己審問ばかり、無配慮、恐慌、頽廃、救いを求める声に似せた自己擁護が目立つ、腐臭の季節)。
 
 そろそろ終わらせなければならない。
 絵画を完成させなければならない。
 と思いながらも筆は休むことなく動き。
 絵の具は尽きることなく横に座り。
 私は暇をもて余して文章を書く。
 女はどこへ行った?

 既に夏である。






 
十五

 鬱蒼たる森の中、所々が湿気で朽ち、さながら廃屋の如き佇まいを見せる小さな木造の小屋。老人は不明瞭な歩きを続け、そこに辿り着いた。既に日は暮れかかり、空が朱色に染まっていた。
 小屋には窓がなかった。建築に於いて、硝子などは手に入らなかったのだろうか。密閉された外観はまるで倉庫である。辛うじて、(老人に向かって)正面には小さな扉らしきものがあった。把手として、木を裁断して作られた四角い塊が備え付けられている(その中には白蟻の巣があった。夥しい数の生命。存在のための規律。複雑な社会システムが、そこに構築されていた)。老人は干からびた爬虫類のような手でそれを掴み、手前に引っ張った。だが、開かない。壁が振動で揺れる。
 何度か力を入れる、がしかし、開く気配はない。裏側で何かが妨げているのだろうか(しかしその気配はない)。老人は感情の動きを秘匿しながら周囲を見渡す。背後には誰もいない。風が吹いて葉が鳴るのみ。
 もう一度扉が開かないことを確認してから、老人は扉を離れ、薄汚れた壁を調べ始める。目を極限まで薄めながら、ゆっくりと確認していく(その様はまるで、腹を空かせた蟻食。自らの能力を限界まで酷使し、何とかして生き延びようとする獣)。
 それはすぐに見つかった。微小な隙間だった。不均一な木片を並べて作られた壁へ必然的に生まれる風穴。縦に細長く、歪な形をしている。
 老人はそこへ視線を投げ込む。薄暗い空間に視界が呑まれる。黴びた木材の臭いがする。暫くは目が慣れず、何も見えない。
 徐々に開かれていく室内は、酷い圧迫感を持っていた(鉛、鉄、コンクリート、いずれかが喉に詰まったような圧迫)。奥の壁際に棚。写真のようなものが飾られている。明るさの不足ではっきりとは見えないが、恐らくそこに写っているのは若かりし頃の老人とその家族。穏やかな面持ちの女、神妙な雰囲気の少年、照れ臭く微笑む少女、風格漂う男(おそらく後の老人)。棚と距離をおいて丸机。四本の足。背丈は短い。一冊の堅苦しい本が置かれている(中には、身体的障害で失職した老哲学者の嘆きが収められている。題名は『視線の崩壊』。誰かの愛読書)。
 他にも家具はあるのかもしれない。老人がここで生活しているのなら、そう考えるのが妥当だろう。だが、(棚と机以外で)穴から目視できるのは、部屋の中央で古めかしいソファに腰かけている男(若しくは女)のみ。妙に痩せこけている何か。
 老人は最初、それが誰なのか想像すらできなかった。ぼんやりとした形容は部屋の中をふらつき、なかなか一ヶ所に留まろうとしなかった。
 根気強く睨み続け、ようやくその輪郭が実態を持ち始めた瞬間、老人の体は可笑しなほどに硬直した。草臥れた意識は、その男(若しくは女)を老人であると認めた。もう一人の老人。寸分違わず瓜二つの風貌は幻覚の残滓を感じさせる。虚像的な老人は光のない部屋の中央で死体のように眠っていたのだった。
 声をかけることも、壁を打ち鳴らすことも、卒倒することもできず、ただじっと現状を見つめ、無変化のまま視線を外し(つまり意識を森へ戻し)、太陽が沈みかかっているのを知って、小屋の裏手に回る。足取りは幾分か自嘲的。
 
 太陽は凄まじい速さで光を失い、木々は漆黒の到来を予感した。森の奥で鳥が鳴いた。どこか懐かしい響きだった。
 
 老人は雑然とした小屋の裏手(そこには使用用途が不明な硝子製のコップ、赤い筆、廃れた絵の具などが無造作に置いてある)から一本の縄を掴み上げた。太く頑丈な縄だった。
 そしてふらふらと、止めどなくさまよう。特に目的も持たず、偶発性に身を委ねながら草木の間を抜ける。最早太陽は死に絶え、静謐な夜陰が完全な支配を為す。所在の知れぬ獣たちが懸命に生き抜き、生臭い呼吸を行う。
 何かしらの順序、作為だろうか。老人の眼前に力強い巨木が姿を表す。淡い既視感。樹皮は硬く丈夫。
 最も低い枝に向かって縄を投げる。三度目でうまく引っ掛かる。ぶらぶらと揺れる影。両端を握り、しっかりと結び合わせる(と言っても老人の力は弱い。今にも外れそうだ)。それから、左回転。結び目を上部へ移動させる。枝が振動する。
 不格好な縄の震えが治まるのを待ってから、老人は完成した輪を掴み、一呼吸置いた後、それを首に掛けた。表面のざらつきが喉元を擦った。果てしない虚無感が気道を上下した。脳の奥まで染み渡る吐き気。足を地面から離し、行為の完遂を目指す。
 だが、老人の体が縄に支えられることはなかった。呼吸も止まらなかった。そこは低すぎたのだ。あまりにも低すぎたのだ。卑屈な眼窩で、自己に存する他者が点滅した。どうすることもできず、茫然としたまま森の歌を聞く。
 
 空高く聳える木々の枝葉から、神秘的な月光が囁いた。仄かな明るさだった。






十六

「あ、夏」
「夏って」
「暑い?」 
「どこ行くの」
「夏」
「夏って暑い?」 
「外に出るの」
「外って」
「絵の中で燻っていても仕方がないわ」 
「絵って」
「色は無限に見えて、そうではないのよ」
「何故?」 
「現象として無限に色は生成され得るかもしれないけれど、でも」
「夏って?」
「色を知覚するのはあなただから」 
「あなたって暑い?」
「これを書いてる人間と読んでる人間」
「暑いって色」 
「強制じゃないわ……強制じゃないわ」
「僕たちはどこへ向かって歩いているんだ」
「強制じゃないわ……強制じゃないわ」
「無意識」
「暑いわ」
「夏って暑い?」
「太陽が……私は死にたかったのよ」
「色」
「私は死にたいのよ、悲劇として」
「色」
「機関車は無能だから私を轢こうとはしなかったわ」
「だんだんと広がっていく爆音。少年の鼓膜が揺れる」
「一メートル半なんて大きすぎる」
「天井が高すぎる」
「天井は電球のためよ」
「光は太陽のみである」
「光……色は無限には存在しないの。全てパターン」
「夏って色」
「私も色、として知覚されるわ、あなたに」
「買い被りすぎだよ」
「私が何故女なのか分かる?」
「色」
「あなたが少年、つまり男だからよ」
「因果関係は」
「あなた」
「根拠は」
「色って勝手にパターン化されていくのよ」
「なんで?」
「あなたの内部が単純だから」

 女の肉体は艶かしく火照り、白衣から覗く胸元には控えめに囁く数滴の汗が浮いていた。首筋は背後の太陽に沿ってなだらかに下り、その横を細い頭髪の流れが通っていく。華奢な肩の中心が骨によって、硬く尖った骨によって隆起し、巧妙な輪郭線を描く(輪郭線(視線(眼球(女(性的欲求(自尊心保護(眼球としての肉体(色(絵画)色)眼球としての肉体)自尊心保護)性的欲求)女)眼球)視線)輪郭線)を描く。女の胸は上下しない。口や鼻からは湿った吐息が溢れない。視線は外部を捉えない。視線は内部を脱しない。指は白衣の中、汗で湿った白衣の中。動きが見えない、この眼球では。

「私はわかっているの」
「僕がそういうことをしないってこと?」
「私がただの絵の具だってこと」
「性的衝動」
「溶けるのよ」
「何故」
「あなたはまた……いいえ、相変わらず一人」
「君は」
「熱にはあまり強くないの」
「僕は溶けるのかい」
「みんな溶けるわ……絵の具は、ね」
「ここはどこ?」
「あなたが来たかった場所よ」
「嘘だ。僕はもう変化を諦めた」
「ほら、あそこにいるマネキン、あなた」
「あなた」
「マネキン」
「あなた」
「もう駄目ね」
「暑いよ」
「そう……暑い」
「暑いよ」
「ほら、あなたはどこへ行こうとしているの」
「わからない」
「あなたは絵を描いているんじゃないの」
「わからない」
「あなたはなぜこれを読んでいるの」
「夏って暑い?」
「あなたはなぜ」
「生成」





十七

 諸行無常という理想。永久不変な絵画的循環。
 
 裸の女をベッドに寝かせる(汗はどこを流れる)。白い部屋の中に鎮座する白いベッド。その上へ、裸の女はゆっくりと横たわる(どこへその顔を伏せる)。音楽的リズムが女の全身、足先から股間、胸元、首筋、頭部にかけて響き、根幹を貫く。疑問系の感想。私(少年または僕または男または自分)は女の肉体を尋ねる。女は自らの肉体を後悔する。性的衝動。女の足は膝の関節で交差し、尻は天井に向けて解放されている。肋骨が柔らかく外部へ表出している。怠惰な言論はよせと、私が言う。女は女であることの証明として天井を見つめる(つまり尻がベッドに触れ、顔が上を向き、腹や胸が私の目に呑まれるような体勢をとる)。天井(女の上部(白に満たされている))には男が立っている。重力という外的条件を無視。死面のような腐れた顔をして正面(私の視線の先)を見つめている。女の視線と垂直関係を育む冷凍直線。男の視線の先には太陽という常識が存在している。極めて先験的な、常識。(男の視線に合わせ)独楽的リズムで女が跳ねる。せがむ。絵を描けと。太陽は黙々と熱を発し、私を包む。女を包む。男を包む。男は老人(外套を着た聖職者のような老人が男の側(つまり天井(つまり女の上部))に立っている)に本物の死面を作らせようとする。もちろん男自身を型に用いて。老人による無言の了承。男の顔面が分厚い粘土の下に消失する(鈍い落下音をたてて顔面の凹凸に適応する灰色)。女は口とい裂け目、小さく覗く歯先から暖かな吐息をつく。官能的な湿度。麗しき流れ。私は太陽に挨拶する。太陽は答えない。私は太陽を見つめる。太陽は光り続ける。男は乾燥し固まった粘土を顔から外す。黒い穴から引き抜くような感触。出来上がった死面の型は鼠のように幼稚な色をしている。死者の如き顔面を基に作られた欺瞞。「皮膚の色はどんな感じがいいんだ?」「赤」私は純粋無垢な画布の表面に直接赤い粘土、否、赤い絵の具を塗りつける。急斜面に張り付いた絵の具は落下の気配を見せることなく必死に足掻き、私はそれを太い筆で強く引き延ばす。まるで女の乳房に噛みつくかのように。沈んだ赤は白紙の上でみるみる内に領域を拡大し、何らかの描写を行おうとする。私は次々と絵の具を取り出し、画布に塗りたくりながら女を見る。女は彫刻のように美しい。赤、青、緑、黄、灰、茶、黒、黒、黒。天井の男は(唐突に)死面の型をベッドへ落とす。女の腹の横に着地する。跳ねるスプリング。微動する女の身体。いつの間にか男の顔面は白く固まっている。プラスチック製。無機物の臭い。そう、マネキンの表情。腕も足も、全てが硬直。マネキンとなった男の隣で老人が不明瞭に呟く。不満不平を漏らす。手には縄が握られている(どこから取り出したのか。麻で作られた解脱への道)。幾重にも束ねられたそれを少しずつ解く。老人の身長の二倍ほどの長さになる。乾ききった指が太い縄を掴み、首に回す。一回転、二回転、三回転。変形する皮膚。若干浮き上がる静脈。軽く上がる顎。そのまま静止。そのまま静止。女は太陽の力に酔いながら言う。「早く、描いて」私は黄色い絵の具を水(足許に置かれた硝子のコップ)に溶かし、霧散したそれを、様々な色彩の融合によって一種の混沌を呈している画面に目掛けて放つ。硝子という高貴な事物より放出する液体の乱舞。巧妙な破裂音と共に作品へ刻まれる黄色。筆で散らす。首に縄を巻いた老人が呻き声を上げ始める。肉体のあらゆる部位を擦り合わせたかのような声。男のものなのか女のものなのか、区別がつかないほど劣化した叫び。口は引き裂かれるように開き、中からは獣のような涎、腕は震え、膝をつき、縄を渾身の力で絞め、気道を潰し、顔が青ざめ、膨れ上がり、股間からは半透明の尿が漏れ、前方に倒れ込み、足先を揺らし、錯綜の中で息絶える。息絶えたように見える。太陽が回転する。私は(何かによって)着色された掌を画布にぶつける。まるで手淫。まるで信仰。構成されゆく絵画の根元は経験。知覚によって産み出された既知としての経験。それが色彩。それが絵画。男、否、マネキンは発火する。どこから燃え始めたのか分からぬほどの勢いで全体を包む炎。太陽は回転し、女は無表情、私は少年として絵画を描く。マネキンが燃える。溶ける。崩れ落ちる。生命の起源を恨み、自己という領域区分を恨み、全ての存在を定義する意識を恨み、残骸へと帰す。炎は音もなく消える。発端を待たずして残骸と老いぼれた死体が天井から落下する。ぼとりと落ちる。太陽がこちらに向かって近付いてくる。回転しながら、着実に。女の許へ万物が引き寄せられ、一点で融和する。境界線は失われ、集束し、不条理な定義を以て一個の眼球となる。私はそれを前にして、偽の客観(私)を捨てる。







十八

 女の背中を見ながら歩く。女の髪が歩行に従い跳舞する。

「私は死にたかったのよ」
 既に存在していた言葉だった。少年は聞いてなかったが。
「死にたかったの。でも、どうやったって死ねなかったわ。この絵の中じゃいくら頑張ったって死ねるはずないのよ。あなたも分かってるんでしょ? 死ぬのがどれだけ難しいかって」 
 いかにも淡白な願望だった。少年は聞いてなかったが。
「みんな規定されているもの……あなたはいつもそうだわ。こうやって私が話しているってことすら、あなたにとっては平板な事象でしかないんでしょうね。あなたの言葉に惑わされてばかり。どうしようもないわ」
 限りなく小さな叫び。少年は聞いてなかったが。
「これからどこへ行こうって言うの? 私にどこへ案内させるつもり? 嘘はもう嫌よ。正直に、本当のことだけ話して。私をほったらかしにしないで。生んだ人間なんだから責任持ちなさいよ。全部私に任せっきりで生きてこうなんてとんだ勘違いだわ。絵の具はどこ? さっさと描きなさいよ。他に何もすることないんでしょう? 道なんて他にないのよ」
 女の口の動きは見えない。少年は聞いてなかったが。
「暑い……暑いわ……あなたはまだ私の後ろを歩いているの? ねぇ。私の背中を見てるの? ねぇ。答えなさいよ。いるなら返事しなさいよ……もう疲れたわ。狭すぎるのよ。もっと大きな絵は描けないの? キャンパスはどこ? あなたは今どこにいるの? ここはあなたの過去? 未来? いま何時なの?」
 少年は聞いてなかったが。
「もう……いいわ……あなたのところへ行きましょう……また描くのよ、絵を……どうせそれしかないのよ……外になんて出られっこないんだから……暑い……他にどうすることもできないのよ……ねぇ……」
 もう何度目になるだろうか、この言葉。もう何度目になるだろうか、この描画。
 だから少年は聞いてなかった。語数だけで、女の意図が分かってしまった。
 二人は盲目的に白い部屋へ向う。 
 (それは短絡的回帰)。







十九

 またもや魚眼レンズに映されたかのような白室。直線が尽く曲がり、少年の輪郭も、その顔面から放出される視線も曲がり、日光の苦しみを避け、冷凍された沈黙を避け、快諾に溺れた少年。純粋な白衣、その堕落。人間的、としての圧迫。窓のない肉体はたった一つのドアを求め、ノブに手をかけ、回し、乾いた金属音と共にドアが開き、視界が広がり、少年の体が境界線を越えて空の下へ投げ出されるがそれもまた絵画。絵画的閉鎖空間。少年が絵画を手にしたのは何時か。少年が絵画を創造したのは何時か。女は絵画の中で呻き、老人も絵画の中で呻き、マネキンも歯車も巨木もコンクリートも雛も大衆も太陽も皆着色が剥げ、基盤としての弱さ、少年の願望が透けて見え、脳が絞まり、腕が千切れ、二足歩行が崩れ、恐怖が倒れ、少年の内部構造が露呈、少年はただじっと目の前の眼球を見つめる。眼球は一個。眼球として一個。少年は目の前の眼球と見つめ合う。付属としての視線と単体としての視線。片方が刺さり、片方がしなる。少年は声を上げようとするが叶わない。声帯が姿を暗まし、都市の中へ逃げ帰ったようだ。気付けば少年の肉体的役割は虚しいほどに欠陥と化し、聴覚、味覚、触覚、その他様々な感覚が失われ、ただの眼球、光を受け取って内部で反射させ意識に伝達させる道具としての眼球だけが視線を発し、目の前に鎮座する鏡像の眼球と対峙している。部屋の隅が踊っている。直角はすでに失われ、怠惰な湾曲ばかりが目につく。少年は焦点が白に犯されていることを悟る。無垢な白が、肉体、知覚全体を蝕んでいく。外部に着色と気付かれないため、無としての白が剥げることなく存在し、絵画の一部分として、少年を食う。鋭利な歯で皮膚を裂き、溢れ出る血液を味わう。もはや少年の顔面は赤みを失い、無色透明。少年は目の前の眼球と視線を交わらせる。互いに公平性を求める。だが、当然叶わない。どれだけ徹底した科学主義も完璧な公平性を持つことはできない。全ては信仰の下に辛うじて成り立っている。全ては白室である。見えない意識に媚びようと、閉ざされた部屋の中で悲劇を演じる。最後に大団円が用意された、技巧的芝居。だが実際のところ、大団円の根拠などない。期待のみ。誰が救済の手を差し伸べようか。そんなものがこの世に存在するのか。少年はあらゆる差異を恐れ、眼球に近付く。眼球もそれを受け入れる(何故ならここは白室だから)。球体と球体が光の目合を描く。煌々と輝く。どこからか暴力的な金属音が聞こえた。レールを進む巨大な第三者の気配がした。確実視することのできない熱が僕を苦しめる。世界の限界を規定する筈の僕の言語が朽ちていく。それは関係性の偽装。認識の対象でしかない事物を愛せるだろうか。当然、不可能である。例え愛せたとしても、それは欺瞞である。僕は風を感じた。壁の隙間から吹き込む風だった。妙に涼しかった。身体を包む息苦しい熱がふわりと飛んだ。穿たれた穴は可燃性の鎮魂歌を口ずさみながら徐々に広がり、風が強まり、調和が瓦解していく。境界線が狼狽える。艶やかな白面が乾いた粘土板のように粉末状になって落ちていく。室内で反射していた絶対的な光をさらに上回る量の光が差し込んでくる。視界が無で潰れる(もちろんそれは知覚の問題である)。呼吸を止める。

 夢。

 そこは街だった。雑踏だった。拡散だった。
 空の太陽、影を生むビル群、右往左往する車体、硝子に反射する笑い、渦巻く声、視界上部で佇む赤い円、弱々しい風、這い上がる汗の臭気、膨大な視線。
 僕はたった一人で信号を待っていた。周囲には大衆がいた。無垢な人間達だった。それらは皆、僕の作り出した模造品でしかなかった(ように思える)。
 車両の連なりが途絶え、赤が青に変わり、僕を取り囲む人々が同時に歩みを始め、僕もそれに伴う。白い横断歩道を幾つも跨ぐ(灰の中の白は既に薄汚れている)。
 渡り終えると、僕は自問自答を愛でる。答えを欲する。自己という理念は何故存在するのか、僕が僕である必然性は何か、逃れるには死しかないのか、純粋に死を望むことのできる人間などいるのか。しかし、思考を反復しても答えは出なかった。僕はそれだけ狭かった。卑小だった。硬直した群衆の中に紛れ込みながら、同時に全てが白室内部の事象であることを意識する少年、否、僕。絶対でありながら他者に怯える自我。冷えた夏の中で行く宛もなくさまよう、僕。歩行者には様々な顔があった。鼻筋の若い女、彫りの深い男、青ざめた初老の男、大人びた少女、歪んだそれぞれの眼球。無限だった。いくらでも湧いて出る既知だった。死することなどなかった。太陽は雲に隠れた。
 蝉の咽び泣く声。蠢き。気付けば僕は公園にいた。他に誰もいなかった。世界から切り離された末端の局地だった。冷えたベンチ、錆び付いたブランコ、滑り台、鉄棒、砂場がそれぞれ孤独に身を震わせていた。死を直前に控えた蝉が、僅かな関係性を求めて唸り声を上げる、純粋に。中途半端な暑さの中、僕は消え入ろうとする。ざらついた鳴き声の中へ消え入ろうとする。意識が観念的に沈下、全ての隔たりを溶かし、個々が失われ、均一に向かうという展望。健やかな生命。誤解なき対話。悦楽。……と同時に僕の中で味気ない諦観が転がった。それはあまりにも自明なものだった。絶えず僕らについてくる事実だった。目を開いた。終わろうとする夏がこちらを見ていた。最初から答えは出ていた。

 僕はここにいる他ない。






二十

 絵画は乾いていた。誰に見られることもなく、暗闇の中で廃れていた。 


                                 


この本の内容は以上です。


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