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十一

 下は裸足。直接的に外部と接触する足裏は、地表のざらつき、乾燥、熱、痛みを感じ取り、同時に自身の肉体を想像させる。外部の現象と接触する肉体を感じる。つまり外部を知覚すると同時に知覚する自分自身を知覚するということ。知覚で知覚を知覚する知覚を知覚。知覚とは事象を内部に取り込み、意味付けをすること。知覚。感覚ではなく知覚。感覚は瞬発的な、直感的なものであり、人々はそれを基に知覚する。感覚で得た経験は直接見ることができない。知覚によって把握、整理、構成しなければならない。故に感覚と知覚は異質のものである。感覚までなら世界は高い純度を誇る。がしかし、それを知覚に通した瞬間、馬鹿げたほどの語弊を含んだものになってしまう。知覚は世界を拡げているのと同時に、世界を虚偽という矮小空間へ堕落させてしまうのである。僕らは知覚された世界でしか生きられないんだ、と喚き散らす馬鹿一人。それ故の防護壁。柔らかな足には布製の靴下とゴム製の靴。外部侵攻を阻止、知覚という衝動それ自体を狭め、狭め、狭め尽くすことで知覚の力に頼らずとも世界を作り上げる究極の能力を手に入れる。究極の能力。神である。
 神となった馬鹿一人。世界の中央に鎮座し、意識の脆弱さを必死にアピールしては、行動の責任を狭隘な万物に押し付ける。なんでこの世界には僕しかいないんだ、と叫ぶ馬鹿一人。知覚というものは単純、故に偽装されやすい。特に、自分自身に。と言うより、偽装するのは自分だけ。誰が事実を歪めているんだと問い掛ければ、返ってくる答えは一つ。「お前しかいないだろ」
 防護壁を纏っていないのは足だけかと言えば、あながちそうではない。腕も首も顔もみんな晒されている。夏ならばさらに露出は増える。全身を防護壁で覆い隠せば問題ないだろうが、それもまた難しい注文。息苦しさと熱っぽさに耐えきれないような構造になっているのだ、人間は。つまり、結局は外気に晒される運命にある。生きることは知覚することと同義なのである。それでは、絶対に手に入ることのない純潔を求め続けるのか、諦めて自我の深淵に浸るのか。どちらを選ぶべきなのか。終わりを知らない知覚の中で、吐き気がするほど自己を凝視する、馬鹿一人。わざわざ裸足になって線路を辿る様は、一見外部を求めているようで、実は自己完結に溺れているのみ。
 そこまで他者を求めるのならば、いっそ顔に膜でも張ったらどうだ。

 というふうに太陽が言葉を連ねる。少年はどこかで聞いたことのあるそれらの単語を背骨の辺りで咀嚼しながら、女についていく。女の手中には一匹の冷凍雛。夏の日差しに耐え、未だ冷凍のままでいる雛になんと声を掛けたらいいのだろうか。偽善者、とでも呟こうか。

 





十二

 ふと、老人は顔を上げた。大きめの外套から覗く茶色い目蓋、萎れた頬、頑なな眼球。
 視線の先には―場違いなコンクリートの地表に侵食された広場、その中央に位置する巨木が落とす柔らかな影の輪郭線上には―一人の男、いや、一体のマネキンが置いてあった。どこか陰鬱な雰囲気を漂わせるマネキン。それは、さも当然のことであるかのように女装していた。角張った肉体の造形から男を模したものだと分かるが、しかし身に付けている衣服は明らかに女物。その違和感の狭間、色彩の失われた顔面から発せられる眼光は、遠方の砂漠を見つめているようでもある。あまりにも簡素な砂漠を、見つめているようでもある。手足は古代の彫像に似たポーズをとり、美しさの偽証を思わせる。プラスチック製の硬すぎる足裏は、平坦なコンクリートとうまく噛み合っていない。全身が風でカタカタと揺れてしまっている。
 (ここでマネキンの女装について詳しく語るべきだろうか。いや、おそらくそれは行き過ぎた配慮だろう。マネキンがどんな女装をしているかなど、全く無意味な情報なのだから。マネキンも老人も、女装という条件によって生じる心理的現象のみを重要視しているのであって、決して一つ一つの形状に意識を向けているわけではない)。
その風貌はまさに、無生物の権化だった。常人には到底受け入れられぬ狂人の如き無機質さ。衣服から生えた白い皮膚が太陽の光で定型的に光っている。
 暫くの間、老人は女装したマネキンを見つめた。視線は交わらない。背後から子供の高笑いが聞こえる。巨木がざわめく。あらゆる物体が無変化に陥ったまま、反抗も抑えられ、固定した時間の中で喘ぐ。三度目の高笑いが背景より響いた瞬間(それはいつのことだろうか。時間軸の崩壊、行方知れずの音)、老人はゆっくりと顔を降ろし、曲がった背筋をさらに曲げながら錆びた足の関節に体重をかけ、ベンチから立ち上がる。ふらつきはない。いたって安定している。
 そして、緩慢な動きで、少しずつマネキンに近付いていく。一歩一歩、前方に突き出しては体勢を整える。老人の、マネキンの、巨木の周りには、誰も見当たらない。子供達の声だけが訪れては消える。
 継続的な運動の末、老人はやっとのことでマネキンの正面に立つ。マネキンは女装したまま微動だにしない。胸を張り、堂々と遠方の砂漠(らしき方向)を見つめている。年老いた細切れの呟きが、油絵のような唇から漏れる。「そうか、そうか、そうか」
 そして、空間を切り裂く唐突な暴力。突発的自己批判。老人の硬化した腕がしなやかに伸ばされ、マネキンの人工的な首を掴み、強く掴み、一気に熱せられた地表、コンクリートと太陽の混合物へ叩きつける。衝突した右肩は砕け、細かな破片が破れた服の隙間から弾け飛び、甲高い破裂音が広場一体に拡散する。幾重にも反響する。ぽっかりと開いた穴から露呈した、内部の淡い肌色。老人の動きは止まらない。倒れ込んだ人形の胸部を踏みつけ、踏みつけ、踏みつけ、女物の服を引き千切って周囲に投げ飛ばす。断片となった布が、味気ないコンクリート製の地表に豊満な色彩を散らす。所々黒ずみ、破壊された裸体が転がる。老人は固定されたまま動かない物質としての手首を捕らえ、全身を大きく捻りながらマネキンを持ち上げ、降り下ろした。足、続いて胴体が落下の衝撃によって跳ね、片方の足首が割れて二メートル十五センチ先へ吹き飛び、二三度転がって止まる。断裂部は激しく尖っている。まるで肉体を抉ろうとしているかの如く。骨盤辺りには長々と亀裂が入り、部分的に表面の塗装が剥げて黒と白の混在した下層が顔を出している。

 ……。
 
 暴力は老人の体力が尽きるまで続けられた。彼の憎しみや苛立ち、閉塞感が迸り、マネキンはいとも簡単に廃棄物と化した。何かの象徴のように積み重ねられた断片。死を内包した山。血液のない死。老人は満足したのか、既に広場から去っていた。巨木の葉がざわめき、強すぎる夕日が酷く鋭利に差し込んでくる。
 ふと、マネキンの死体から擦り切れた機械音が聞こえてきた。呻くような声。テープレコーダーに録音されていたものらしい。瓦礫が話し出す。
「どうだろう。あなた方は私を責めることができるだろうか。よく考えていただきたい。偽の太陽、偽の女、偽の砂、偽の声。それらを見続けた眼球がどれだけ関係性を欲するのか。つまりは同情である。絶対的な同情である。死を通して感じる他者の空気。息苦しい小部屋。あなた方も知っているだろう、捨て去ることのできない自虐性の自我を」 
 いつのまにか広場は夜となった。無知なマネキンは自我の崩壊を痛感しながら、暗闇の中の孤独に浸った。巨木が震える。遠くに砂漠が見える。






十三

 歩き続ける内に、地面が柔らかな砂に覆われていくのを感じた。辺りを見渡せば、そこは砂漠だった。
 滑らかなグラデーションを誇る青空の許、不規則な傾斜を持った砂山が一面に広がり、その表面は何らかの道具でコーティングされたかのような艶やかさを保っていた。足跡など微塵もなく、極めて静謐に自然的法則が守られている、砂の集積。時折風が吹き、細かな砂の粒が一体となって浮遊、全身の穴という穴に入り込んで来る。鼻、口、目、耳、汗腺。その度に噎せる少年。無変化の女。そして凍ったままの雛。
 頭上では、太陽が痛いほどの光を放ち、砂漠という一個体に強固な影を落としていた。巨人が絵の具で丁寧に描いたかのような、美しい輪郭の影である(この影は何の遮りによって作られたのか、全く見当がつかない。小高い砂の山しか存在しないこの場所で、如何にして影が生まれ得るのか。空には雲など一欠片もなく(例え無数の雲が日光を遮っていたとしても、地表に描かれる影は曖昧な輪郭を持ったものにしか成り得ないだろうが)、日差しも地面へほぼ垂直に刺さっている。かといって光源である太陽に欠陥があるとも思えない。何故なら太陽は絶対だから。世界中の生物が太陽を信仰している、筈である)。影の中へ入ると、凶暴な太陽の熱は力を失い、幾分か涼しさを感じることができた。
 終着点の不明瞭な混沌たる旅。女は平地と変わらぬスピードで歩き続けているが、その後ろをついていく少年は酷く手間取っている。体重をかければ直ぐに崩れてしまう地面の脆さによって、彼の進行は著しく緩慢になっていた。足が砂に呑まれ、頻繁に転ける。思わずついた掌に握られる無味乾燥の砂。女は気にせず歩き続ける。雛を手中に抱えながら、完全に安定したバランスを保持し続ける。少年は汗だくになって地を這う。
 そうこうする内に、いつの間にか少年の視界から女の姿が消えていた。後に残されたのは女の小さな足跡のみ。息が上がり、砂まみれの喉を震わせながら一歩一歩進む。前方へ視線を遣るが、汗で滲んだ眼球は上手く焦点を結べない。何となく遠くに女の白衣が動いているような気がするが、あまりにも曖昧すぎて確信が持てない。もしかしたら太陽が作り出した光の染みなのかもしれない。もしかしたら少年は何の導きもなく、この先の見えない砂漠へ来てしまったのかもしれない。滑稽な焦りが少年の感覚を侵し、動きが精細さを欠いてまた転ける。太陽が意識を焼き続ける。
 何度目か知らぬ小山を越えた時、少年は緩やかな窪地に立つ女とその隣に鎮座する不気味な塊を見た。黒と白が混在する中途半端な色合いの塊、それを直立不動で精査する女。少年は思わずその場で立ち竦んだ。他者の介入を拒絶する暗黙の規律がそこに漂っていた。
 塊はよく見れば焼けた白いプラスチックの残骸のようだった。元が何だったのか想像する余地を与えないほど激しく溶けたその造形は、恐ろしい無機物さを纏う完成された物体へと堕落していた。
 女は無言のまま腕を差し出す。そこには冷凍雛が握られている。ゆっくりと膝を曲げ、低く屈みながら、残骸の上に雛を乗せる。労るような表情。繊細な指。女の手から離れ、雛は冷凍状態から解放される。太陽によって、もしくは残骸の余熱によって。滴り落ちる雫。外気に晒される濡れた毛並み。よく見れば(そう、よく見れば)雛の身体も熱に融解している。まるで雛それ自体も氷であったかのように、頭部からどろりと崩れる。生物的な外見がみるみる内に失われていく。そして中から一つの歯車が現れる。
 使い古された歯車。矮小。乾いた赤錆の表皮に覆われている。かつては何らかの仕事に従事していたのだろうが、今や単なる塵となり、自らの存在意義さえも定義できず、ただそこに無感情のまま存在している(あくまで主観的印象)。少年の足許の砂が風で流れた。
 暫くの時間静止。後(決心がついたのだろうか)、歯車は大きな摩擦音をたてて残骸の中へめり込んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。不可思議な力に誘われて。
 そして遺物の取り込みを完了した瞬間、残骸が頭頂から石化を始める。無音のまま、外観が重い灰色となっていく。女はじっとその様を見ている。少年も同じく。鉄のような風が吹く。
 
 残骸は転化した。偽の即身仏へと。万物救済のために自死する即身仏への憧憬。あまりにも無惨な。

 女は立ち上がり、髪の毛を風に靡かせながら、少年の方を向く。端整な、しかし硬直した顔面の中にある二つの眼球。融和する視線。
 砂が二人の間を渡る。






十四
 
 夏だった(そこには無数の現象(蝉の共鳴(個人を失った彼らは姿を消しながらも絶えず残響を辺りに靡かせ、我々の意識中央部を侵食する)、太陽の異常な光線(しっかりと開いた眼球で、しっかりと太陽を見た瞬間、視界の根幹に若干の黒みを帯びた円球(そう、その大きさは眼球に等しい)が現れ、そこから視界の限界にまで、刺々しい光の帯が拡散する)、迫り来る暑さ(脹ら脛からゆっくりと腹、胸、首を登り、頬の骨格に触れ、脳を煮る、そんな暑さが日常的に見られる、その異常性)、鬱蒼たる森林(その中へ歩いていくにつれ、自我が崩れ落ち、(世界を象っていた)時間概念も失われ、詩的述懐が木々の間を抜け、どこからか鳥の呻き声が聞こえる、呻き声、喉を震わす)、輝きすぎる海(白浪ばかり、平板な青、究極の光である反射した日光、暑い、塵屑だらけの砂浜、目障りな貝殻、海草、浪の前後運動、地平線の先を見る、遠くから鉄道の声が聞こえる、海上からカモメのような、カモメの声が聞こえる、海がどこか分からない、鉄道の音)、扇風機の回転音(数枚の薄いプラスチックが電力により鋭い回転を生み、それが風の分断前進運動へと繋がる、扇風機としての活動、回転、冷寒音))が存在しているため(かどうかは実際のところ判断できないが)女の口数が増え(まるで視界に入る全ての物体の名称を律儀に述べていこうとでもするかのように増え)女の動きが鈍り(まるで錆び付いた亀のように鈍り)女の顔が酷く汗ばむため(鼻筋に浮かぶ滴、震える唇)夏という暑さが際立ち溢れ人々の間に緊張を生んでしまい、無闇な自殺志願者を構成するが、それらは単に夏という固定観念に踊らされているだけであり、たったの一人も実行に移すことができない、故に自殺志願者ばかりが都市に蔓延り、一向に減少せず、視線を漂わせ、女をまさぐり、期待に絶望しながら雨を待つ(雨(雨(雨(雨(雨(雨(雨)は泣き)は貪り)は求め)は抗い)は受け入れ)は止まり)は消える)だけで、何の利益も発生せず、様々な構想が血液を巡り、擦り合い、無変化を謳歌し、怠惰に眠るため、都市は最高温度三十七度を認識しながらも凍りつく、凍りつく、そして人々は故郷に帰る、どこに存在しているのか、本当に存在しているのかさえも分からない自らの故郷、帰るための、自己肯定のためだけの場所、時、人、女は都市と絡み合い快感を受諾する、喘ぎ声をあげ、足を突っ張り、胸を反らしながら、という夢を見、外の空気を吸いたいと思ってドアを開けるがそこもまた箱の中、冷えた箱の中、仕方ないから絵を描くが、もう飽きた、もう飽きた、もう飽きた、窓を探そうともそこは殺伐という叱責、女は未だ都市と絡み合い、こちらに手を降っている、故に女の自己審問ばかり、無配慮、恐慌、頽廃、救いを求める声に似せた自己擁護が目立つ、腐臭の季節)。
 
 そろそろ終わらせなければならない。
 絵画を完成させなければならない。
 と思いながらも筆は休むことなく動き。
 絵の具は尽きることなく横に座り。
 私は暇をもて余して文章を書く。
 女はどこへ行った?

 既に夏である。






 
十五

 鬱蒼たる森の中、所々が湿気で朽ち、さながら廃屋の如き佇まいを見せる小さな木造の小屋。老人は不明瞭な歩きを続け、そこに辿り着いた。既に日は暮れかかり、空が朱色に染まっていた。
 小屋には窓がなかった。建築に於いて、硝子などは手に入らなかったのだろうか。密閉された外観はまるで倉庫である。辛うじて、(老人に向かって)正面には小さな扉らしきものがあった。把手として、木を裁断して作られた四角い塊が備え付けられている(その中には白蟻の巣があった。夥しい数の生命。存在のための規律。複雑な社会システムが、そこに構築されていた)。老人は干からびた爬虫類のような手でそれを掴み、手前に引っ張った。だが、開かない。壁が振動で揺れる。
 何度か力を入れる、がしかし、開く気配はない。裏側で何かが妨げているのだろうか(しかしその気配はない)。老人は感情の動きを秘匿しながら周囲を見渡す。背後には誰もいない。風が吹いて葉が鳴るのみ。
 もう一度扉が開かないことを確認してから、老人は扉を離れ、薄汚れた壁を調べ始める。目を極限まで薄めながら、ゆっくりと確認していく(その様はまるで、腹を空かせた蟻食。自らの能力を限界まで酷使し、何とかして生き延びようとする獣)。
 それはすぐに見つかった。微小な隙間だった。不均一な木片を並べて作られた壁へ必然的に生まれる風穴。縦に細長く、歪な形をしている。
 老人はそこへ視線を投げ込む。薄暗い空間に視界が呑まれる。黴びた木材の臭いがする。暫くは目が慣れず、何も見えない。
 徐々に開かれていく室内は、酷い圧迫感を持っていた(鉛、鉄、コンクリート、いずれかが喉に詰まったような圧迫)。奥の壁際に棚。写真のようなものが飾られている。明るさの不足ではっきりとは見えないが、恐らくそこに写っているのは若かりし頃の老人とその家族。穏やかな面持ちの女、神妙な雰囲気の少年、照れ臭く微笑む少女、風格漂う男(おそらく後の老人)。棚と距離をおいて丸机。四本の足。背丈は短い。一冊の堅苦しい本が置かれている(中には、身体的障害で失職した老哲学者の嘆きが収められている。題名は『視線の崩壊』。誰かの愛読書)。
 他にも家具はあるのかもしれない。老人がここで生活しているのなら、そう考えるのが妥当だろう。だが、(棚と机以外で)穴から目視できるのは、部屋の中央で古めかしいソファに腰かけている男(若しくは女)のみ。妙に痩せこけている何か。
 老人は最初、それが誰なのか想像すらできなかった。ぼんやりとした形容は部屋の中をふらつき、なかなか一ヶ所に留まろうとしなかった。
 根気強く睨み続け、ようやくその輪郭が実態を持ち始めた瞬間、老人の体は可笑しなほどに硬直した。草臥れた意識は、その男(若しくは女)を老人であると認めた。もう一人の老人。寸分違わず瓜二つの風貌は幻覚の残滓を感じさせる。虚像的な老人は光のない部屋の中央で死体のように眠っていたのだった。
 声をかけることも、壁を打ち鳴らすことも、卒倒することもできず、ただじっと現状を見つめ、無変化のまま視線を外し(つまり意識を森へ戻し)、太陽が沈みかかっているのを知って、小屋の裏手に回る。足取りは幾分か自嘲的。
 
 太陽は凄まじい速さで光を失い、木々は漆黒の到来を予感した。森の奥で鳥が鳴いた。どこか懐かしい響きだった。
 
 老人は雑然とした小屋の裏手(そこには使用用途が不明な硝子製のコップ、赤い筆、廃れた絵の具などが無造作に置いてある)から一本の縄を掴み上げた。太く頑丈な縄だった。
 そしてふらふらと、止めどなくさまよう。特に目的も持たず、偶発性に身を委ねながら草木の間を抜ける。最早太陽は死に絶え、静謐な夜陰が完全な支配を為す。所在の知れぬ獣たちが懸命に生き抜き、生臭い呼吸を行う。
 何かしらの順序、作為だろうか。老人の眼前に力強い巨木が姿を表す。淡い既視感。樹皮は硬く丈夫。
 最も低い枝に向かって縄を投げる。三度目でうまく引っ掛かる。ぶらぶらと揺れる影。両端を握り、しっかりと結び合わせる(と言っても老人の力は弱い。今にも外れそうだ)。それから、左回転。結び目を上部へ移動させる。枝が振動する。
 不格好な縄の震えが治まるのを待ってから、老人は完成した輪を掴み、一呼吸置いた後、それを首に掛けた。表面のざらつきが喉元を擦った。果てしない虚無感が気道を上下した。脳の奥まで染み渡る吐き気。足を地面から離し、行為の完遂を目指す。
 だが、老人の体が縄に支えられることはなかった。呼吸も止まらなかった。そこは低すぎたのだ。あまりにも低すぎたのだ。卑屈な眼窩で、自己に存する他者が点滅した。どうすることもできず、茫然としたまま森の歌を聞く。
 
 空高く聳える木々の枝葉から、神秘的な月光が囁いた。仄かな明るさだった。






十六

「あ、夏」
「夏って」
「暑い?」 
「どこ行くの」
「夏」
「夏って暑い?」 
「外に出るの」
「外って」
「絵の中で燻っていても仕方がないわ」 
「絵って」
「色は無限に見えて、そうではないのよ」
「何故?」 
「現象として無限に色は生成され得るかもしれないけれど、でも」
「夏って?」
「色を知覚するのはあなただから」 
「あなたって暑い?」
「これを書いてる人間と読んでる人間」
「暑いって色」 
「強制じゃないわ……強制じゃないわ」
「僕たちはどこへ向かって歩いているんだ」
「強制じゃないわ……強制じゃないわ」
「無意識」
「暑いわ」
「夏って暑い?」
「太陽が……私は死にたかったのよ」
「色」
「私は死にたいのよ、悲劇として」
「色」
「機関車は無能だから私を轢こうとはしなかったわ」
「だんだんと広がっていく爆音。少年の鼓膜が揺れる」
「一メートル半なんて大きすぎる」
「天井が高すぎる」
「天井は電球のためよ」
「光は太陽のみである」
「光……色は無限には存在しないの。全てパターン」
「夏って色」
「私も色、として知覚されるわ、あなたに」
「買い被りすぎだよ」
「私が何故女なのか分かる?」
「色」
「あなたが少年、つまり男だからよ」
「因果関係は」
「あなた」
「根拠は」
「色って勝手にパターン化されていくのよ」
「なんで?」
「あなたの内部が単純だから」

 女の肉体は艶かしく火照り、白衣から覗く胸元には控えめに囁く数滴の汗が浮いていた。首筋は背後の太陽に沿ってなだらかに下り、その横を細い頭髪の流れが通っていく。華奢な肩の中心が骨によって、硬く尖った骨によって隆起し、巧妙な輪郭線を描く(輪郭線(視線(眼球(女(性的欲求(自尊心保護(眼球としての肉体(色(絵画)色)眼球としての肉体)自尊心保護)性的欲求)女)眼球)視線)輪郭線)を描く。女の胸は上下しない。口や鼻からは湿った吐息が溢れない。視線は外部を捉えない。視線は内部を脱しない。指は白衣の中、汗で湿った白衣の中。動きが見えない、この眼球では。

「私はわかっているの」
「僕がそういうことをしないってこと?」
「私がただの絵の具だってこと」
「性的衝動」
「溶けるのよ」
「何故」
「あなたはまた……いいえ、相変わらず一人」
「君は」
「熱にはあまり強くないの」
「僕は溶けるのかい」
「みんな溶けるわ……絵の具は、ね」
「ここはどこ?」
「あなたが来たかった場所よ」
「嘘だ。僕はもう変化を諦めた」
「ほら、あそこにいるマネキン、あなた」
「あなた」
「マネキン」
「あなた」
「もう駄目ね」
「暑いよ」
「そう……暑い」
「暑いよ」
「ほら、あなたはどこへ行こうとしているの」
「わからない」
「あなたは絵を描いているんじゃないの」
「わからない」
「あなたはなぜこれを読んでいるの」
「夏って暑い?」
「あなたはなぜ」
「生成」





十七

 諸行無常という理想。永久不変な絵画的循環。
 
 裸の女をベッドに寝かせる(汗はどこを流れる)。白い部屋の中に鎮座する白いベッド。その上へ、裸の女はゆっくりと横たわる(どこへその顔を伏せる)。音楽的リズムが女の全身、足先から股間、胸元、首筋、頭部にかけて響き、根幹を貫く。疑問系の感想。私(少年または僕または男または自分)は女の肉体を尋ねる。女は自らの肉体を後悔する。性的衝動。女の足は膝の関節で交差し、尻は天井に向けて解放されている。肋骨が柔らかく外部へ表出している。怠惰な言論はよせと、私が言う。女は女であることの証明として天井を見つめる(つまり尻がベッドに触れ、顔が上を向き、腹や胸が私の目に呑まれるような体勢をとる)。天井(女の上部(白に満たされている))には男が立っている。重力という外的条件を無視。死面のような腐れた顔をして正面(私の視線の先)を見つめている。女の視線と垂直関係を育む冷凍直線。男の視線の先には太陽という常識が存在している。極めて先験的な、常識。(男の視線に合わせ)独楽的リズムで女が跳ねる。せがむ。絵を描けと。太陽は黙々と熱を発し、私を包む。女を包む。男を包む。男は老人(外套を着た聖職者のような老人が男の側(つまり天井(つまり女の上部))に立っている)に本物の死面を作らせようとする。もちろん男自身を型に用いて。老人による無言の了承。男の顔面が分厚い粘土の下に消失する(鈍い落下音をたてて顔面の凹凸に適応する灰色)。女は口とい裂け目、小さく覗く歯先から暖かな吐息をつく。官能的な湿度。麗しき流れ。私は太陽に挨拶する。太陽は答えない。私は太陽を見つめる。太陽は光り続ける。男は乾燥し固まった粘土を顔から外す。黒い穴から引き抜くような感触。出来上がった死面の型は鼠のように幼稚な色をしている。死者の如き顔面を基に作られた欺瞞。「皮膚の色はどんな感じがいいんだ?」「赤」私は純粋無垢な画布の表面に直接赤い粘土、否、赤い絵の具を塗りつける。急斜面に張り付いた絵の具は落下の気配を見せることなく必死に足掻き、私はそれを太い筆で強く引き延ばす。まるで女の乳房に噛みつくかのように。沈んだ赤は白紙の上でみるみる内に領域を拡大し、何らかの描写を行おうとする。私は次々と絵の具を取り出し、画布に塗りたくりながら女を見る。女は彫刻のように美しい。赤、青、緑、黄、灰、茶、黒、黒、黒。天井の男は(唐突に)死面の型をベッドへ落とす。女の腹の横に着地する。跳ねるスプリング。微動する女の身体。いつの間にか男の顔面は白く固まっている。プラスチック製。無機物の臭い。そう、マネキンの表情。腕も足も、全てが硬直。マネキンとなった男の隣で老人が不明瞭に呟く。不満不平を漏らす。手には縄が握られている(どこから取り出したのか。麻で作られた解脱への道)。幾重にも束ねられたそれを少しずつ解く。老人の身長の二倍ほどの長さになる。乾ききった指が太い縄を掴み、首に回す。一回転、二回転、三回転。変形する皮膚。若干浮き上がる静脈。軽く上がる顎。そのまま静止。そのまま静止。女は太陽の力に酔いながら言う。「早く、描いて」私は黄色い絵の具を水(足許に置かれた硝子のコップ)に溶かし、霧散したそれを、様々な色彩の融合によって一種の混沌を呈している画面に目掛けて放つ。硝子という高貴な事物より放出する液体の乱舞。巧妙な破裂音と共に作品へ刻まれる黄色。筆で散らす。首に縄を巻いた老人が呻き声を上げ始める。肉体のあらゆる部位を擦り合わせたかのような声。男のものなのか女のものなのか、区別がつかないほど劣化した叫び。口は引き裂かれるように開き、中からは獣のような涎、腕は震え、膝をつき、縄を渾身の力で絞め、気道を潰し、顔が青ざめ、膨れ上がり、股間からは半透明の尿が漏れ、前方に倒れ込み、足先を揺らし、錯綜の中で息絶える。息絶えたように見える。太陽が回転する。私は(何かによって)着色された掌を画布にぶつける。まるで手淫。まるで信仰。構成されゆく絵画の根元は経験。知覚によって産み出された既知としての経験。それが色彩。それが絵画。男、否、マネキンは発火する。どこから燃え始めたのか分からぬほどの勢いで全体を包む炎。太陽は回転し、女は無表情、私は少年として絵画を描く。マネキンが燃える。溶ける。崩れ落ちる。生命の起源を恨み、自己という領域区分を恨み、全ての存在を定義する意識を恨み、残骸へと帰す。炎は音もなく消える。発端を待たずして残骸と老いぼれた死体が天井から落下する。ぼとりと落ちる。太陽がこちらに向かって近付いてくる。回転しながら、着実に。女の許へ万物が引き寄せられ、一点で融和する。境界線は失われ、集束し、不条理な定義を以て一個の眼球となる。私はそれを前にして、偽の客観(私)を捨てる。







十八

 女の背中を見ながら歩く。女の髪が歩行に従い跳舞する。

「私は死にたかったのよ」
 既に存在していた言葉だった。少年は聞いてなかったが。
「死にたかったの。でも、どうやったって死ねなかったわ。この絵の中じゃいくら頑張ったって死ねるはずないのよ。あなたも分かってるんでしょ? 死ぬのがどれだけ難しいかって」 
 いかにも淡白な願望だった。少年は聞いてなかったが。
「みんな規定されているもの……あなたはいつもそうだわ。こうやって私が話しているってことすら、あなたにとっては平板な事象でしかないんでしょうね。あなたの言葉に惑わされてばかり。どうしようもないわ」
 限りなく小さな叫び。少年は聞いてなかったが。
「これからどこへ行こうって言うの? 私にどこへ案内させるつもり? 嘘はもう嫌よ。正直に、本当のことだけ話して。私をほったらかしにしないで。生んだ人間なんだから責任持ちなさいよ。全部私に任せっきりで生きてこうなんてとんだ勘違いだわ。絵の具はどこ? さっさと描きなさいよ。他に何もすることないんでしょう? 道なんて他にないのよ」
 女の口の動きは見えない。少年は聞いてなかったが。
「暑い……暑いわ……あなたはまだ私の後ろを歩いているの? ねぇ。私の背中を見てるの? ねぇ。答えなさいよ。いるなら返事しなさいよ……もう疲れたわ。狭すぎるのよ。もっと大きな絵は描けないの? キャンパスはどこ? あなたは今どこにいるの? ここはあなたの過去? 未来? いま何時なの?」
 少年は聞いてなかったが。
「もう……いいわ……あなたのところへ行きましょう……また描くのよ、絵を……どうせそれしかないのよ……外になんて出られっこないんだから……暑い……他にどうすることもできないのよ……ねぇ……」
 もう何度目になるだろうか、この言葉。もう何度目になるだろうか、この描画。
 だから少年は聞いてなかった。語数だけで、女の意図が分かってしまった。
 二人は盲目的に白い部屋へ向う。 
 (それは短絡的回帰)。







十九

 またもや魚眼レンズに映されたかのような白室。直線が尽く曲がり、少年の輪郭も、その顔面から放出される視線も曲がり、日光の苦しみを避け、冷凍された沈黙を避け、快諾に溺れた少年。純粋な白衣、その堕落。人間的、としての圧迫。窓のない肉体はたった一つのドアを求め、ノブに手をかけ、回し、乾いた金属音と共にドアが開き、視界が広がり、少年の体が境界線を越えて空の下へ投げ出されるがそれもまた絵画。絵画的閉鎖空間。少年が絵画を手にしたのは何時か。少年が絵画を創造したのは何時か。女は絵画の中で呻き、老人も絵画の中で呻き、マネキンも歯車も巨木もコンクリートも雛も大衆も太陽も皆着色が剥げ、基盤としての弱さ、少年の願望が透けて見え、脳が絞まり、腕が千切れ、二足歩行が崩れ、恐怖が倒れ、少年の内部構造が露呈、少年はただじっと目の前の眼球を見つめる。眼球は一個。眼球として一個。少年は目の前の眼球と見つめ合う。付属としての視線と単体としての視線。片方が刺さり、片方がしなる。少年は声を上げようとするが叶わない。声帯が姿を暗まし、都市の中へ逃げ帰ったようだ。気付けば少年の肉体的役割は虚しいほどに欠陥と化し、聴覚、味覚、触覚、その他様々な感覚が失われ、ただの眼球、光を受け取って内部で反射させ意識に伝達させる道具としての眼球だけが視線を発し、目の前に鎮座する鏡像の眼球と対峙している。部屋の隅が踊っている。直角はすでに失われ、怠惰な湾曲ばかりが目につく。少年は焦点が白に犯されていることを悟る。無垢な白が、肉体、知覚全体を蝕んでいく。外部に着色と気付かれないため、無としての白が剥げることなく存在し、絵画の一部分として、少年を食う。鋭利な歯で皮膚を裂き、溢れ出る血液を味わう。もはや少年の顔面は赤みを失い、無色透明。少年は目の前の眼球と視線を交わらせる。互いに公平性を求める。だが、当然叶わない。どれだけ徹底した科学主義も完璧な公平性を持つことはできない。全ては信仰の下に辛うじて成り立っている。全ては白室である。見えない意識に媚びようと、閉ざされた部屋の中で悲劇を演じる。最後に大団円が用意された、技巧的芝居。だが実際のところ、大団円の根拠などない。期待のみ。誰が救済の手を差し伸べようか。そんなものがこの世に存在するのか。少年はあらゆる差異を恐れ、眼球に近付く。眼球もそれを受け入れる(何故ならここは白室だから)。球体と球体が光の目合を描く。煌々と輝く。どこからか暴力的な金属音が聞こえた。レールを進む巨大な第三者の気配がした。確実視することのできない熱が僕を苦しめる。世界の限界を規定する筈の僕の言語が朽ちていく。それは関係性の偽装。認識の対象でしかない事物を愛せるだろうか。当然、不可能である。例え愛せたとしても、それは欺瞞である。僕は風を感じた。壁の隙間から吹き込む風だった。妙に涼しかった。身体を包む息苦しい熱がふわりと飛んだ。穿たれた穴は可燃性の鎮魂歌を口ずさみながら徐々に広がり、風が強まり、調和が瓦解していく。境界線が狼狽える。艶やかな白面が乾いた粘土板のように粉末状になって落ちていく。室内で反射していた絶対的な光をさらに上回る量の光が差し込んでくる。視界が無で潰れる(もちろんそれは知覚の問題である)。呼吸を止める。

 夢。

 そこは街だった。雑踏だった。拡散だった。
 空の太陽、影を生むビル群、右往左往する車体、硝子に反射する笑い、渦巻く声、視界上部で佇む赤い円、弱々しい風、這い上がる汗の臭気、膨大な視線。
 僕はたった一人で信号を待っていた。周囲には大衆がいた。無垢な人間達だった。それらは皆、僕の作り出した模造品でしかなかった(ように思える)。
 車両の連なりが途絶え、赤が青に変わり、僕を取り囲む人々が同時に歩みを始め、僕もそれに伴う。白い横断歩道を幾つも跨ぐ(灰の中の白は既に薄汚れている)。
 渡り終えると、僕は自問自答を愛でる。答えを欲する。自己という理念は何故存在するのか、僕が僕である必然性は何か、逃れるには死しかないのか、純粋に死を望むことのできる人間などいるのか。しかし、思考を反復しても答えは出なかった。僕はそれだけ狭かった。卑小だった。硬直した群衆の中に紛れ込みながら、同時に全てが白室内部の事象であることを意識する少年、否、僕。絶対でありながら他者に怯える自我。冷えた夏の中で行く宛もなくさまよう、僕。歩行者には様々な顔があった。鼻筋の若い女、彫りの深い男、青ざめた初老の男、大人びた少女、歪んだそれぞれの眼球。無限だった。いくらでも湧いて出る既知だった。死することなどなかった。太陽は雲に隠れた。
 蝉の咽び泣く声。蠢き。気付けば僕は公園にいた。他に誰もいなかった。世界から切り離された末端の局地だった。冷えたベンチ、錆び付いたブランコ、滑り台、鉄棒、砂場がそれぞれ孤独に身を震わせていた。死を直前に控えた蝉が、僅かな関係性を求めて唸り声を上げる、純粋に。中途半端な暑さの中、僕は消え入ろうとする。ざらついた鳴き声の中へ消え入ろうとする。意識が観念的に沈下、全ての隔たりを溶かし、個々が失われ、均一に向かうという展望。健やかな生命。誤解なき対話。悦楽。……と同時に僕の中で味気ない諦観が転がった。それはあまりにも自明なものだった。絶えず僕らについてくる事実だった。目を開いた。終わろうとする夏がこちらを見ていた。最初から答えは出ていた。

 僕はここにいる他ない。






二十

 絵画は乾いていた。誰に見られることもなく、暗闇の中で廃れていた。 


                                 


この本の内容は以上です。


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