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 初めに逆さまの、火照った部屋がある。限りなく正方形に近付けられた床、壁、天井。それらは怠惰な理想を描き、窓から靡く子供たちの呻き声に視線を向ける。視線。凍った視線。というのもつまり部屋は部屋である。視線は視線である。窓には硬いカーテンが幾重にも引かれ、光は届きにくい。いや、届かない。故に室内の色彩も失われる。何故? 視線。暗闇の中で輪郭は崩壊を繰り返し、繰り返し、その無意味さに飽き、必死に呼吸する、輪郭。丸く尖った嫌悪感が室内を彷徨き、壁に当たり、朽ちる。朽ちたそれは粉末状に砕かれ、風に舞う、という願望を室内という絶対的条件によって果たせない、らしい。朽ちたそれは床に転がったまま生きる、嫌悪感として。その隣で小さな、ごく小さな机が笑っている、頬を弾ませながら、目蓋を塞ぎながら笑っている。机の角は、二十四個すべて、尖っている、もしくは笑っている。あたかも朽る前の嫌悪感を模倣したかのように。二十四個の内訳は、上面に計八つ、控えめに備え付けられた四本の足と床の接触面に四つずつ計十六個、合わせて二十四。机はそんなことにもめげず、ただひたすらに笑いかける、何かに。それは視線を意識したせいでもある、のかもしれない。視線。微笑む視線。笑う机の上には一冊の本が、虚しくも置かれ、その背表紙は遠く離れた墓地の木々、そこから伸びる一本の枝と平行である、がしかし本はそんなことを知らない。知る由もない。本は極めて安易な自意識のために平行という相関関係を築こうと欲し、それは一方通行的に果たされた、と見るのが妥当、と朽ちた嫌悪感がなじる、ということもなく本はただ本であり続ける。それは全面的な死者との和解、協力であり、かつ、妥協でもある。死者は死者の死者としての立場を愛で、誰にも譲らない。理解者の拓いた領域、逆ピラミッド状の容器の中にも入ろうとしない。というのも、少女を待っているのだ。それは循環する性的衝動。少女の声を鼓膜に焼き付けたい、嫌悪感の朽ちる音を聞きたい、狭義の関係を脱したい、という無謀な判決は到底受け入れられず、死者は死者のまま死者として、ではなく、ただの生きた人間として腐り果て、同情ではなく忌避を以て地中に帰る、と本には書かれてある。表紙には一言。『視線とは何か』。ページ数は三桁、厚みは掌を超え、八つの角はやはり、肉体を抉るため尖らせてある。本は何故机の上に乗るのか? それはつまり視線である。錯綜する視線である。部屋の中で本と対極する位置にある、床の上の鏡、の中で映える眼球から発せられる視線もまた同じ。鏡は人間の顔面と大きさを一致させ、少しでも人間に、いや、生物に、いや、有機物に近付こうと身体のパーツを拾い集めているようで、実際はそうではない、と本に書かれてある、と窓の外の子供の声から判断できる、らしい。子供の声に少女の肉体が混在していないことだけは確か。鏡は薄暗い、いや、完全に光を失った室内でどうにかして自分の役割を果たせないものかと考えた末、鏡という存在であることを辞め、極めて理念的な壁画と化したのだった。それ故の眼球。つまり絵画的な、平面的な眼球からも視線が発せられるというわけで、これはソファに座る、部屋の中央の、あらゆる事象の中央の、完璧な中央の、黒く、豊満なソファに腰掛ける一人の男にとってあまりにも痛々しい事実だった。何故ならそれは外部性の形骸化、希望の陳腐化。自らの内部に潜む偽造少女の、実質的な無力化だったからだ。視線は、男の視線は、漆黒の室内を無限に反射し、行き場のない他者への欲求が満たされず、外部の声に耳を傾ける、がしかし、そこに本物の少女の痕跡は見当たらず、ただの無価値な情報が溢れに溢れ、男の根幹に燻る。男の干からびた腕はソファの腕掛けにそっと乗せられ、あまりにも細すぎる足は辛うじて床に触れている。顔は、顔だけは、暗闇によって見えない。輪郭すら把握できない。もしかしたらそこに顔が、輪郭が存在すると考えること自体おかしいのかもしれない、と死者は叫び、本は語り、嫌悪感はなじり、鏡は反射する。男は固く閉ざされた窓に向かって座っている。その姿はまるで、性的衝動を失い、盲目的に光を求めるようになった、老人。微動だにせず、無変化の中へ自分を貶めている、悲しき性。その足元には一枚の紙が、いや、手紙が、いや、遺書が、落とされている。故意に落とされたものなのか、もともと男の手中に収められていたものが不意に落ちてしまったのか、明確な判断はつかないが、しかし、鉛筆で几帳面に書かれた文章を読むことはできる。我々は意識の残滓を読み取ることができる。この沈んだ部屋の、あらゆる物体がそれを承認している。「万物の死の予感が私の内部で肥大化し始めて何年になるだろうか、時計を直視することができなくなった今、もはや時間という概念は崩れ去ったかのようにも思える。遠い昔、私は本来備わっていた先天的な時間だけでなく、悪評判の絶えない、基準値としての後天的な時間さえも、どこか意識の端、視認することもままならないような極東の地へ捨て去ってしまった。そして、捨て去っただけで回収は行わず、今も部屋に隠って思考を張り巡らせている。故に私の中には限りなく不変的な、かつ曖昧な前後関係ばかりが蠢いている。時間という概念を失ったことで、空間すら想像できなくなってしまったのだ。圧倒的な類推の欠如。理論の不完全化。この文章を書くという行為すら、誰が、何に、どんな内容を書こうとしているのか、はっきりと認識できない。最早すべての思考が役に立たなくなってきている。世界は新たに更新されることなく、今までの人生で得た無数の経験のみで構成され続けている。徹底的な既視感が周囲を漂っているのが分かる。まるで幼稚な色彩で塗りたくられたかのようだ。恐らく、時間の消失によるこれらの不信感が、あらゆる物体の死を意識させているのだろう。ただ、それが不幸かと言われれば、然程でもない。私は自ら、このような現実を迎え入れたのだから。時間の消失に対し、抗おうと思えばいくらでも抗えただろう。まだ無抵抗を強制されるほど老いてはいなかった。だが、私には抗おうという気など微塵もなかった。私の中には、記憶の奥底に眠る少女への期待感ばかりが渦巻いていたのだ。彼女の擁護の視線が自分だけに注がれるという、甘い期待。下らない自惚れ。私は、自分が大きなハンディキャップを背負えば、彼女が私を同情の目で見つめてくれると信じていた。だからこそ、このような姿へ落ちぶれた、いや、落ちぶれてみた。だが現実はどうだ。うまく落ちぶれることなどできず中途半端なままの自分、こちらを一瞥することなく去った少女、無変化の状態で残された冷凍世界。これをどうしろというのか。自ら傷つけた世界を、誰に押し付けることもできず抱え込み、あたふたとするばかり。不可逆性の行為はそこに鎮座し続ける。錯乱と狂気の連鎖だ。あれから、私の精神はいっそう病んでしまったように思うが、やはり彼女は何処かへ消えたままだ。もう帰ってくることもあるまい。私のことなど、いつまでも見せかけの自虐に浸っている私のことなど、完全に忘れ去ってしまっただろう。それでも私は、このうまく動かなくなった世界で彼女を待ち続けている。既に自分の生死も判別できなくなった。今この文章を書いているのが私の代理人、腐った私を発見し、現場の状況から勝手な空想を膨らましている若者であっても、特に驚かない。逆に、それこそが妥当な理論だとも思える。こんな風にまで廃れた私の肉体が、筆記具を持ち、思考を走らせ、用紙に文章を書き連ねているなどということは、本当に馬鹿げている。そう、本当に……」窓の外から子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。水上を跳ねるような笑い声、叫び、友人の名を呼ぶ。しかしそれも室内に設置されたスピーカーから流れる機械音なのかもしれない。男が苦し紛れに生んだ言い訳なのかもしれない。本にも鏡にも床にも壁にも天井にも、真相が何であるのか見当がつかない。いや、と言うより、誰一人として真理というものが何であるか説明できない。イメージすら持てない。真理という言葉を控えめに捏ねくり返しているだけだ。墓地では死者が眠りにつこうとしている。がしかし眠気など起こらない。よく見れば窓の外にあるかと思われていた墓地が、逆さまになった部屋の奥底に存在している。死者は嫌悪感や机や本や鏡やソファやカーテンや窓や偶に聞こえる子供の声や壁や床や天井や男と同じ空気を吸っていた、が故に睡眠などできるはずもなく。変化など不要、と言わんばかりの硬直で以てそこにあり続けている。この部屋にあり続けている。時間の失われた部屋は、ドアを失った部屋は、視線を反射し続ける。鋭角、鈍角、鋭角、また鈍角。勢いは衰えることなく、根元はやはり男である。すべての事象は男から生まれ、男に還っていく。何故。何故だ。男は制止したままである。部屋の中では一人の人間の自意識が、他者を排除し閉鎖的空間を死に物狂いで造り上げた自意識が、強く光っている。光り続けている。明るさのないその光は、外から見つめる少女に届くはずもなく、室内で、ただ、蹲っている。

この本の内容は以上です。


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