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老人の偉大


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。荒涼とした高原の彼方にあって青い霞をまとって横たわり、その国を目指す旅人は道標の代わりに星を見つめた。乾いた風を押し切って石のごろつく荒れ野を渡り、苦労の末に辿り着くとそこには清涼な泉があり、実を稔らせた木々があった。だが土地の者は貧しく、楽しみを知らず、ただ生きるために日々を費やした。隊商が訪れることは珍しく、他国との交渉を知らなかった。
 そこは隔絶した場所で、そこで生まれた者の多くは、そのままそこで生涯を終えた。歩くことを覚えたこどもは親を手伝って水を運び、やがて力を備えると父親の隣で鋤を引いた。若者となれば鍬を振るい、あるいは汗を拭って鎌を振るい、やがて収穫の分け前を得るようになると速やかに所帯を構えて子をもうけた。仕事に明け暮れて年を稼ぎ、子を導いて人生の盛りの時期を迎え、子が肩を並べたことに気づいて人生の盛りの時期を終えた。人生の盛りの時期を終えると、心に風が吹き始める。心に風が吹き始めた者は気鬱を感じて、働くのをやめ、食べるのをやめた。そのうちに風は心を満たして外に溢れ、からだをめぐって臓腑の隙間に入り込み、頭や手足の先へ流れていく。
 老いの時期を迎えた者は、内側の風に吹かれて大きくなった。風になじめばなじむほど、からだは大きく、そして希薄になっていった。子の顔を再び見下ろすようになり、かざした掌の向こうに孫の顔を見るようになると、老人は家から出ていった。希薄なからだは壊れやすかった。家に残れば天井で頭を打つかもしれなかったし、孫がぶつかってくるかもしれなかった。仮に家に残っても、できることは何もなかった。家族の声は蚊の囁きのように聞こえたし、自分の声は家族の耳に届かなかった。懸命に喉を震わせても、音となって口から出ることはなくなっていた。物を持ち上げることもできなかった。希薄なからだは食べ物も水も受けつけなかった。だから老人は黙って家を出た。家族は静かに見送った。
 外へ出れば、老人は一人ではない。通行人に注意して通りを歩き、町のはずれまで進んでいけば、そこにはほかの老人がいた。様々な大きさの巨人が荒れ野に佇み、ある者はまだ小さくて色を保ち、ある者は大きくて背後の風景と混ざりあい、またある者は巨大となって大気の中に薄められ、わずかにかつての輪郭を保つ。老人たちは希薄の度合いに応じて仲間を作った。仲間同士であれば言葉を交わすことができたからである。
「どうかね?」
「まあまあだ」
 風がからだを満たしているので飢えを感じることはない。気鬱の病はすでに去り、不思議なほどに心は軽い。思い出話に花を咲かせ、笑いで希薄な喉を震わせた。時には家族が老人たちの居場所を訪れ、家のことや畑のことを報告する。老人たちに聞くことはできなかったが、それでも聞くふりをしてうなずいた。すべきことはもう何もない。
 時間の経過にしたがって、希薄の度合いが増していく。風に希釈されて、どこまでも大きく広がっていく。輪郭だけを残した者が、その輪郭すらも失って消えていくのを見ることがある。一人が消えると、残された者たちは夜空に瞬く星を見上げた。
「あれは、消えたのではない」と一人が言う。
「そう、広がっていったのだ」と一人がうなずく。
 そして残された者は眠りに就き、新たな日を数えて空へ空へと広がっていく。



惑星の壊滅


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。理由は簡単で、その国は絶海の孤島にあったからである。もちろん海図にも載っていなかったので、大洋を渡ってこの島を訪れた船はわずかに一隻を数えるのみであった。
 その船には三人の男性優位主義者が乗り込んでいた。祖国の女たちから豚野郎めとの罵りを受け、世をはかなんで国を後にしたのである。折り重なる波をいくつも越えて大海原をどこまでも進み、イルカと並んで船を走らせ、海で暮らす様々な生物に散々に卑猥な言葉を浴びせながら、楽園を求めて旅を続けた。上陸しては失望とともに船に戻り、凪にはまって渇きに苦しみ、あるいは嵐にもまれて死ぬ思いを味わった。
 そうしながら一年が経ち二年が経ち、そして三年目の終わりにさしかった時、壮絶な嵐に遭遇した。たちまちのうちに帆を奪われ、帆桁を飛ばされ、帆柱は倒れて索具とともに海中に消えた。男たちは叫びを上げて斧を手にして甲板を走るが、その甲板は波に洗われて泡の下に姿を隠す。最後の抵抗のつもりで錨を下ろせば、ただちに怒濤が押し寄せてきて軽々と持ち去った。気がついた時には船は完全に自由を奪われていた。船体が軋んで不気味に叫び、船底には無量の水が溜まり、船首楼では恐怖に脅えた山羊がいななく。男たちは決死の思いで戦った。ポンプを動かして水を汲み出し、補助の帆を張って船首を風上に向けようとした。からだを舵輪に固く結んで目を見張り、嵐に向かって雄叫びを上げた。戦いながら夜を迎え、夜を徹して戦いを続け、やがて払暁を見た時に男たちは勝利を宣言した。風はまだ吹き荒び、波は大きくうねっていたが、すでに危機は脱していたのだ。だが、かなり流されていた。どこにいるのかわからなかった。夜明けを待って一人が天測をおこなった。そこは海図に記されていない未知の海域であった。そして船は修理を必要としていた。嵐には勝ったが、船は航行能力を失っていたのである。
 男たちは漂流していた。七日目に水が尽き、九日目には食料が尽きた。十日目に空を舞う鳥を見て、その翌日に島影を見つけた。男たちは島に上陸した。
 驚くべきことに、そこは女ばかりの島であった。女たちは皆若くて美しかった。三年にわたる航海の結果としてそう見えたのではなく、事実としてそうであったと伝えられる。しかも着ている服はからだをわずかに覆うばかり、足には踵の高いサンダルを履いていたのではなはだしく扇情的な姿に見えた。軍隊に属する女たちは、同じ服装で装飾的な槍を携えていた。船を出迎えたのは槍を持った女兵士で、海岸のその場所がたまたま岩場であったことから踵の高いサンダルが災いとなり、兵士たちは次々と滑って傷を負った。
 男たちは耳慣れぬ言葉を話す女たちに捕えられ、その国の宮殿に連行された。やがて女王が姿を現わしたが、これは絶世の美女であった。ただし仮面をかぶっていたと伝えられている。不思議なことに女王は男たちの言葉を流暢に話した。すると残りの女たちも男たちの言葉を話すようになった。時間を節約するためであろう。女王は男たちに滞在を許し、船の修理に要する資材の提供を約束した。
 さて、男たちが船の修理に励んでいると、女たちが好奇の視線もあらわに近づいてきた。聞けば島の女たちは男を見たことがないという。男性優位主義者たちはこれに勝る機会はないと考え、女たちの教育を始めた。いかなる教育がおこなわれたのかは定かではないが、教育と称して何も知らない女性に接吻を強要したり、あるいは肉体的な接触を求めたりした模様である。三人の男は教育の成果としてもっとも従順な女を三人選び、それぞれの妻とした。だがこのことはやがて女王の耳に入り、怒りを覚えた女王は男たちを捕えさせた。三人の男性優位主義者は抗議とともに説明を求め、女王は応えてその国の秘められた歴史を遂に明かした。その国では男たちがすべてをほしいままにしたので、女たちの怒りを買って滅ぼされたというのである。三人の男の運命もまた明らかであった。
 わずらわしいので子細は省くが、男たちが危機一髪という時、突然火山の爆発が島を襲った。恐ろしい傷を仮面で隠していた女王は燃え盛る溶岩に飲み込まれて死に、男たちはそれぞれの妻を伴って島から逃れた。海を渡って祖国に戻り、そこで島の女たちは自分の夫がいずれも男性優位主義者であるという事実を知らされた。そしてもちろんその事実を補強する事実を経験によって知っていたので、ただちに祖国の女たちに与すると自分の夫を豚野郎と罵った。島は七割までが海中に没し、航路が開拓された現在では船舶の通行の障害となっている。



ンダギの民


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国の民は、自分たちをンダギの民と呼んでいた。ならばンダギとは国の名かとたずねると、そうではないと言う。国の名は別にあって、それは秘密にされていた。異邦人にはもちろんのこと、相手がンダギの民であっても国の名は絶対に口にしてはならなかった。そして口にした者は例外なく罪に問われ、罪に対して与えられる罰は例外なく死刑と定められていた。
 ンダギの民の間では死刑はちょっとした見せ物で、いつでも大勢の見物人が集まった。執行には妙に華やいだ気分がつきまとい、歌の名人が歌を歌えば笛や太鼓が音をあわせ、見物人が一斉に踊った。死刑囚も首切り台の上で踊ったし、首切り役人も負けずに踊った。首切り役人が下手に踊るとやじが飛んだ。だから首切り役人は踊りのうまい者から選ばれていた。やじが飛ぶと、首切り役人のみならず法の威厳もまた損なわれたからである。ちなみに死罪となるのは国の名を口にした者だけで、盗みを働いた者は手を、姦淫を犯した者は鼻を切られた。すべては定められていて、疑問が入る余地はない。
 ンダギの民はそれで満足していたが、異邦人の中には余計な疑問を抱く者がいた。ンダギの民がンダギの民に対して国の名を教えることができないのなら、実際に国の名を知る者は一人もいないのではないかと考えた。知らない者が知らないことを口にできるはずはない。だとすれば死刑に処された者たちは、偽りの上に偽りを重ねて殺されたのではあるまいか。
 そのようなことはない、とンダギの民は請け合った。罪を犯した者だけが、大法官の前に身を投げ出して罪を告白したからである。ンダギの民がンダギの民を疑いに基づいて捕えることは決してなかった。だとすれば、と異邦人はさらに余計な疑問を抱く。死刑に処された者たちは、実は偽りの上に偽りを重ねて自殺をしたということになるのではあるまいか。
 そのようなこともない、とンダギの民は請け合った。まずンダギの民は自殺しない。死刑に処された者は数多いが、自殺をした者は過去に一人もないという。それにンダギの民は自分の国の名を知っている。知っているはずがないと言われても、知っているのだから知っている。もし知らないということになれば、それは国の名を口にした以上の大罪を犯すことになる。したがって偽りの上に偽りを重ねているということもない。
 国の名を口にした以上の大罪。そう聞いて異邦人は耳を立てる。国の名を口にした者が死刑となる国で、それ以上の罪にはいかなる罰を与えられるのか。それは死刑なのか、それとも死刑よりも恐ろしい罰なのか。
 死刑ではない、とンダギの民は言う。国の名を知らないと告白して大法官の前に身を投げた者は、踵を切り落とされるのである。
 ここで異邦人は罰の意味について考える。盗みを働いた者が手を切り落とされるというのはよくあることで、罰の意味にも疑問はない。姦淫を犯した者が鼻を切り落とされるというのも、なんとなくわかるような気がしないでもない。ほかのところでなくて幸いだ。国の名を口にした者が死刑になるというのは、いかにも辺境じみてはいるが、それはそういうものだと受け入れられないこともない。だがそれを上回る罪を犯して、なぜ踵が切り落とされることになるのだろうか。
 それは言えない、とンダギの民は顔を背ける。
 法によって禁じられていたからではない。踵の問題に触れることに、どこかやましさを感じていたからである。
 実を言うと、ンダギの民にはいささか特殊な嗜好があった。人間の踵の皮を、最上の美味と考えていたのである。もちろんどの踵の皮でもよいというわけではない。美味の中でももっとも美味とされたのは、春に二人目の子を生んだ女の踵から、晩秋の時期に取れた皮であった。よく脂が乗っていて、心地よい歯応えがあるのだという。
 ンダギの民は幼い頃から踵の皮を惜しむようにして与えられ、長じるにしたがってその美味の虜となっていった。美味に焦がれて自分の踵の皮を食べる者も中にはいたが、それは最低の行為とされていた。美味を味わう以上はしかるべき儀式にのっとって皆で食べ、皆で感想を述べあわなければならなかった。趣味を心得たンダギの民なら、誰の踵の皮がうまいかをよく知っていた。踵の皮がうまいとされた者は社交界の寵児となり、酒を酌み交わす集まりには必ず招かれ、多くの者がその足元にひれ伏した。ただしそうした集まりに異邦人が招かれることは決してない。ンダギの民は野蛮とそしられることを恐れたからである。つまりどこかしらに、自分たちの嗜好を恥じるような気持ちがあったのである。
 恥じてはいない、とンダギの民は言う。異邦人を招かないのは恥ずかしいからではなく、異邦人が新たな美味の存在を知って強欲に駆られるのを恐れたからにほかならない。
 そんなことはしない、と異邦人は主張する。踵の皮がうまいわけがない。
 喜びを知らない者よ、とンダギの民は言う。他人の趣味に鼻を突っ込む暇があるならば、国へ帰って他人の女房の脚の間に鼻を突っ込め。
 ンダギの民は決して友好的な民族ではなかった。そもそも愛想のよい方ではなかったし、しつこく質問を続ければ怒りをあらわにすることもあった。怒りの度を越せば槍を手にして挑んできたし、その槍には鋭利な穂先がついていた。穂先に毒が塗ってあることもあった。怒りに走りやすい一方で、冷めるのも早かった。だからすぐに許しを乞えば、危険は確実に回避できた。だが威嚇に対して威嚇を返せば命を落とした。人数や武器で優勢であっても、ほぼ間違いなく命を落とした。ンダギの民は勇猛で、誇り高いことで知られていた。全員が優れた戦士だった。しかも死を恐れていなかった。死んだ者は必ず天国に導かれると信じていた。ンダギの民の天国では、足の踏み場もないほどに足で地面が満たされている。
 そこでは踵の皮が食べ放題だ。
 それが異境の民の天国であった。



奥付



アニシカ王


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著者 : 佐藤哲也
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