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予言の顛末


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが予言者がその国に現われて恐るべき予言をおこなった時、翼を持つ噂はすぐさま四方へと飛び立った。そして知る者のなかった国は数日を経ずに知らぬ者のない国となり、多くの者は地図を開いて噂の土地の所在を確かめ、どこにもないのを知って眉をひそめた。そのために噂の国の存在もまた噂の範疇に属することとなったが、それによって噂が価値を失うことはなく、地理上の発見に関わる新たな噂に加勢されていよいよ遠くまで広まっていった。
 辺境の地で生まれた噂が速やかに、また広範に伝えられていったことには理由がある。与えられた予言が一人や一国の未来を語っていたからではなく、世界の未来について語っていたからである。予言は恐怖に満ちた世界の終末について語っていた。大陸の端まで伝わって後代まで語り継がれた噂によれば、予言者はある朝、森の奥から姿を現わし、森のはずれで農業を営む善良な一家に予言を与えた。
 善良な上に信仰に篤い一家であったと伝えられる。農夫とその妻は婚姻の後も純潔を守り、誘惑を遠ざけるために町を離れて辺鄙な土地に住みついた。一説によれば、地図にないその国がその国のために作った地図にも記されていない土地であったという。夫婦はそこで慎ましい小さな家に住み、一男一女の健康な二児をもうけて小さな畑を耕していた。いかにして子を作ったのかは、噂は何も伝えていない。純潔を失ったからだとする者もいるし、子は噂の尾鰭の部分であるとする者もいる。そうではなくて実は神秘が語られているのだとする者も中にはいるが、いずれにしても予言との直接の関わりはない。
 ある朝のこと、青空が広がった陽気な日であったとも、鉛色の雲が空に低く垂れ込めた陰気な日であったとも言われているが、一家は夜明けとともに起き出して総出で朝食の準備を整えていた。息子と娘が水汲みに出れば農夫は庇の下で炉に火をおこし、傍らでは農夫の妻が碾割の豆に粉を加えてパン種をこねる。炉にかけた薄手の石のまな板に種を延ばしてパンを焼き、焼き上がった最初の一枚を祈りの言葉とともに神に捧げた。供物はすぐに四つに裂かれて家族の一人ひとりが一片を取り、それぞれに祈りを呟きながら塩をかけずに口に入れた。二枚目のパンは農夫が取り、三枚目は息子が取り、四枚目は妻と娘が分けあった。塩をかけてパンを頬張り、水を含んで飲み下し、そうして朝食を進めているうちに家の中で物音を聞いた。
 家族は庇の下に揃っている。目でそれを確かめると、農夫は物も言わずに飛び込んでいった。息子は手近の棒を握って後に続き、女房が石の擂粉木を手に構えれば娘は壷を高々と掲げた。中で争う音がした。間もなく農夫と息子が戸口に現われて、一人の老人を家の外へ引きずり出した。
 農夫の妻が夫に顔を向けると、夫はただ首を横に振った。これは農夫も息子も無事であるという意味であった。
 農夫の妻が再び夫に顔を向けると、夫はまた首を横に振った。捕えた老人とは面識がないという意味であった。
 農夫の妻がもう一度夫に顔を向けると、夫は首を振りながら家の中を指差した。侵入は戸口からではなく、裏の壁に穿たれた穴からおこなわれたという意味であったが、家の中を覗き込むと、なるほど壁には穿たれて開いた穴があった。
 老人は白髪を乱してぼろをまとい、ねじれた木の枝を杖にしていた。
 息子が縄でくくろうとすると、農夫は首を横に振った。娘が壷で打ち据えようとすると、農夫は首を横に振った。老人が無実を叫んで抗議すると、農夫はそれにも首を振った。逃がさぬように力を込めて腕を掴み、天を仰いで祈りの言葉を呟き始めた。長い祈りの後で農夫は老人に顔を向け、おもむろに口を開いてこのように言った。
「罪」
 神に祈る言葉は知っていたが、ひとと語る言葉は多くを知らなかったのである。
「その手を放せ」と老人が言った。「手を放せばわしが何をしていたのか、それを話して聞かせよう」
 だが農夫は耳を貸さずに、戸口の奥を指差してこう言った。
「罪」
 老人が中で何をしていたのかはともかくとして、壁に穴を開けたのは罪だという意味であった。
「それならば」と老人が言った。「わしが何者であるかを聞かせよう」
「罪人」と農夫は言った。
「罪人ではない」
 老人は言葉を切って農夫を見上げ、家族にも目を走らせてからこのように告げた。
「わしは、予言をおこなう者である」
 すると農夫の妻と二人の子は息をのみ、農夫は物言わぬ目で老人を見つめた。息子が口を開いてこのように言った。
「どのように予言をおこなうのですか?」
 また娘も口を開いてこうたずねた。
「壁に穴を穿って未来を占うのですか?」
 農夫は目に怒りの色を浮かべて子らを見た。息子と娘は恐れを感じて身をすくませたが、老人は質問に答えてこのように言った。
「信仰篤き娘よ。驚いたぞ、そなたは見事に言い当てた。いかにもわしは壁に穴を穿ち、開いた穴の向こうに未来を見る」
 農夫の妻と二人の子はここで再び息をのみ、農夫もまた小さな驚きを目に浮かべて戸口の奥を覗き込んだ。腕を掴む力が緩み、老人はそこを逃さずに自由を掴んで農夫から数歩の距離を取った。握った杖を振り立てて目を爛々と輝かせ、善良な一家に顔を向けると声を厳かに響かせてこのように言った。
「信仰篤き者たちよ、心して聞くがよい。終末の時が近づいておるぞ。わしはその有様を壁の穴の向こうにはっきりと見た。やがて訪れるその日には風が吹き荒れて雷鳴が轟き、空には不吉な色の雲が幾重にも重なる。異形の空が地を覆い、陽は隠れて恵みを拒み、石をも貫く雨が注ぐ。雷の青白き舌は生け贄を求めて屋根を貫き、死は絶望を伴侶にして戸を叩き、地下からは腐敗と堕落が現われて地上を闊歩する。逃れることは最早かなわぬ。信仰薄き者には災いの日となるであろう。天空より降り注ぐ恐怖によって心を乱され、劣情の虜となってひとの姿を見失う。最後には不浄の屍となって大地を汚すことになるであろう。だが信仰篤き者たちよ、おまえたちは安んじているがよい。降り注ぐ恐怖から目を背け、触れることを厭えば決して心を乱されることはないであろう」
 白髪の老人がこのようにして予言を終えると、農夫の妻と二人の子はひざまずいて頭を垂れた。妻は信仰の高まりによって涙を流し、耳を赤くして老人の手を取った。娘も母親に倣って老人に手を伸ばし、息子は顔を上げてこのように言った。
「天空より降り注ぐ恐怖から目を背けよ、触れることを厭えとのありがたい教え、必ず守ります。しかし、その恐怖とはいかなる姿をしているのでしょうか。目を背け、触れることを厭おうとするならば、いかなる姿からそうすればよいのかを、まず知っておく必要があると思うのですが」
「信仰篤き若者よ。驚いたぞ、そなたはよく気づいたな。恐怖の姿を知らなければ、恐怖から目を背けているのかどうか、わからない。また恐怖の姿を知らなければ、手を触れてしまっても恐怖に触れたかどうか、わからない。いかにもそのとおりだ。そこでわしはそなたたちに恐怖の姿を教えよう。記憶にとどめ、もしほかに信仰篤き者があるならば、その者たちにも小声で伝えておくがよい。よいか、天空から降り注ぐ恐怖とは、女の肌着の姿をしている。いかに心を乱されようとも、見てはならぬ、触れてもならぬぞ」
 これを聞いた農夫の妻と二人の子は激しい恐怖に唇を震わせ、まず互いに抱きあってから老人の手を取って祈りの言葉を呟いた。
 さて、白髪の予言者は家族に祝福を与えて立ち去ろうとしたが、突然、農夫が襲いかかって荒々しく地面に組み敷いた。馬乗りになって自由を奪い、頭を押さえて身を屈めると手にした石の包丁で予言者の目玉をくりぬいた。老人は口から絶叫を放ち、農夫の手から解放されるとすぐに立ち上がって森の奥へと逃げ去った。息子と娘は驚愕に目を見開き、妻は夫に顔を向ける。すると農夫は首を振り、血の滴る目玉を地面に捨ててこのように言った。
「穢れ」
 とはいえ、この部分は噂では伝わっていない。噂の源となったのはこの農夫ではなくて、死ぬような思いで町まで逃げた予言者の方だったからである。



乱流の彼方


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国があった場所では大地が切り裂かれていくつもの深い溝となり、人々は底知れぬ深淵を見下ろす岩棚の上で風に吹かれて暮らしていた。見上げれば崖がそそり立って霞ににじむ空に連なり、空はよじれた短冊となってそびえる崖にはさみ込まれた。崖はあまりにも高く、底はあまりにも深く、ひとは大地の裂け目から抜け出る方法を知らなかった。だから岩の壁からはみ出た危うい場所に家を建て、木を植え、畑を作って種を播いた。そうした岩棚の数は一つではなく二つでもなく、形が異なれば大きさも異なり、高さもてんでに異なっていた。一つの棚には一つ以上の家族が暮らし、大きな棚には町とも見える家並みがあり、消え入りそうな小さな棚には孤独な隠者が一人で暮らした。最大の棚には王の城があったが、王は久しく不在であった。
 棚から棚へは縄が渡され、ひとは縄から吊るした籠に乗って棚から棚へと移動した。だが若者たちは飛ぶことを好んだ。幅広の凧を背負って踵には補助の翼をつけ、風を選って勢いよく棚から飛び出した。溝に風が途切れることはなく、若者はからだで風を覚え、重心のわずかな移動によって風の中を巧みに進んだ。目当ての場所を外すことは滅多になかった。外したとしても深淵に落ちることはまずなかった。吹き上げる風が凧を背負った若者を拾い上げ、どこかの棚へと送り届けた。
 若者たちは凧を使って空を飛び、歓喜の叫びとともに風に乗った。そうして棚から棚へと移動したが、溝から出ることはできなかった。溝と空の間には大気の激しい乱流があり、そこを流れる凶暴な風は読み解かれることを拒んで凧を砕いた。あるいは絡みあった流れの一つに凧とひとを放り込み、掴んで放そうとしなかった。
 王はそうした風の中にいた。風の解読に長けた王は溝からの脱出を試みて、風の虜となって空中をさまよっていた。水分を飛ばされたからだはすでに干涸び、恐怖と怒りに見開かれた目はとうに光を失っていたが、王の姿を保って岩棚に住む民を睥睨した。頭上に王の姿がある時には、岩棚の民はうつむいて祈りを呟き、屋根の下へと急いで走った。王の姿がない時には、風を見上げて恐怖を覚えた。民の多くは恐れることを知り、恐れることによって風に挑む無意味を学んだ。多くの民が、王は愚かであったと考えていた。だが愚か者は王一人ではない。その前にもいたし、後にもいた。
 ある時、一人の少年が乱流に挑んだ。溝から出ることを望んだのではなく、溝から出られることを明かそうと望んで、岩を蹴って風に乗った。風から風へと渡って上昇する気流を選び、乱流に飛び込んで瞬く間に凧を失った。少年は風から放り出されて木の枝に救われ、最初の挑戦は失敗に終わった。
 次の年にも少年は挑んだ。そして二度目の挑戦も失敗に終わり、偶然に救われて生還を果たした。その次の年も、そのまた次の年も、少年は風に挑戦した。挑戦し、失敗を繰り返して戻るうちに少年は若者の姿になっていった。まわりの者は何度となく諌めに集まって、すでに運を使い尽したと言って脅したが、若者は聞き入れようとしなかった。失敗するたびに風をにらみ、一年を費やして凧を作った。
 五度目の挑戦で風に飲まれた。風を読んで選んだつもりが、風の流れに掴まれたのである。若者は逃れようとして身をくねらせた。重たい風がまとわりつき、息は止まり、凧はからだに逆らって激しく軋んだ。猛烈な速さで溝の中を突進していた。左右の崖は黒い光の中に消え、中心では白い風が渦を巻いていた。やがてその中に黒い点が現われ、それは見る間に近づいて王となった。王は眼窩の奥に光を灯し、若者に向かって腕を伸ばすと耳をつんざく叫びを放った。
「連れてゆけ」
 王の手が若者の凧を掴み、曲がった爪が布を破った。破れ目に吹き込んだ風が凧を引き裂き、王は再び絶叫を上げ、凧を失った若者は風の手を逃れて落ちていった。他人の家の屋根を破り、背中を激しく打ちつけたが、若者は五度目の生還を果たした。
 それから二年の後に、若者は六度目に挑戦した。若者はすでにひとと語ることをやめ、ただ風だけを見つめて隠者のように暮らしていた。六度目は乱流を前にして棚に戻り、戻った後で凧を焼いた。その様子を見た者たちは、それで終わったのだと考えた。だが若者は一年を置いて、七度目に挑んだ。改良に改良を重ねた凧で乱流に飛び込み、目にも止まらぬ速さで風を読んで溝の上へ上へと昇っていった。間もなく若者の凧は空をにじませる霞に消え、戻ることは遂になかった。



理性の祭典


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが人間には美味を求めるという習性があったので、地理上の不在はたいした問題とはならなかった。その国に通じる道は古くから開かれ、多くの商人が馬を引いて訪れて、琥珀色の葡萄酒を持ち帰った。それは当時、極上とされた葡萄酒で、その美味たるや口にした者はただちに感涙にむせび、数日は言葉を失うほどであったという。批評の技術が発達する前の話なので、感動はただ感動として、いかなる抑制も加えられずに表現されたのである。味覚の点でもいくらか発達の余地があったようで、その証拠に商人の多くは葡萄酒を水で薄めて売っていたが、それによって不評をこうむることは一度もなかった。
 葡萄酒の商売は商人たちに莫大な利益をもたらしたが、産地では王も民も変わらずに質素な家で暮らしていた。決して質素を好んだからではなく、国を大きく富ませるほどの生産量がなかったからである。幸いなことにそれで不足を感じることもなかったので、名を上げるのは葡萄酒に任せて生活を変えようとはしなかった。
 誰もが勤勉に働き、季節ととも生活をめぐらせ、丹精を込めて葡萄を育てた。葡萄以外にもいくらかの作物があったようだが、格別の評価は残されていない。収穫の時期ともなれば国中が祭りのような騒ぎになり、総出で葡萄の実を摘み取った。集めた果実は婚姻前の男女が足で潰して果汁にしたが、これは子を産んだ女や兵役を終えた男が葡萄を踏むと、酒が酸っぱくなるとされていたからである。若者たちは葡萄を踏んで踊りを踊り、似合いの相手を探して果肉で足を滑らせた。多くの恋が育まれ、血を見るような争いも一度では済まない。そうしているうちに収穫の季節は終わりに近づき、出来上がった果汁は集めて素焼きの壺に注がれた。壺は口を残して地面に埋められ、果汁はそれから数年をかけて熟成し、やがて見事な葡萄酒となる。
 さて、ある時のこと、一人の農夫がいつもと同じように畑に出て働いていると、葡萄の樹と樹の間から二人の女が顔を出した。なぜか顔面を蒼白にして、ひどく興奮して喋っている。だが、どちらも相手の話に耳を傾けている様子はない。いささか異様な気配に驚いて、農夫は仕事の手を止めた。声をかけても返答はない。口の動きが素早くて、話の中身を聞き取ることもできなかった。女たちはなおも喋りながら畑を横切り、足早に歩いて樹と樹の間を抜けていった。話し声が次第に遠ざかり、やがて宙に消えてしまうと農夫は首をひねって仕事に戻った。いずれも見知った顔ではなかったが、着ていた服からすると土地の者に違いなかった。
 陽がたっぷりと傾くまで仕事をして、それから急がずに家路を辿った。一人の妻と二人の娘は農夫の帰宅を待ちながら、夕食の支度をしているはずであった。激しい空腹を感じて腹を鳴らし、家への道を急ぎ始めた。うつむき加減の顔をふと上げて、そこで妙なことに気がついた。道を歩いている者がほかに見当たらない。いつもどおりならばまわりに何人も隣人がいて、そろって腹を鳴らしていなければならなかった。記憶に昼間の女たちのことが蘇り、不吉な予感が胸に浮かんだ。農夫は家を目指して走り始めた。暮れなずむ空の下に質素な家が見えてくる。蹴り飛ばすようにして戸を開け放ち、家の中へ駆け込んだが、家族の姿はそこにはなかった。
 道に駆け出して妻と娘の姿を探し求めた。広がる畑へ分け入って、葡萄の樹と樹の間に声をかけたが返答はない。絶望し、疲れ果てて道に戻ると、男たちの一団と遭遇した。いずれも近在の者で、それぞれが松明を掲げて隊伍を整え、肩に農具をかけていた。農夫は救いを求めて声をかけた。だが男たちは振り向きもせずに、ただ目の前を通り過ぎていく。全員が炎の光を浴びて顔を赤く染め、興奮した様子で何かを喋っていたが、一つとして意味を聞き取ることはできなかった。農夫は家へ駆け戻り、わずかな荷物をまとめると男たちを追って道を走った。一団の行く先に家族がいると考えたのである。
 男たちの一団はやがてその国で唯一の町に到着した。農夫も町に入っていった。収穫の祭りにはまだ間があるというのに、そこには国中の人間が集まっていた。騒然としていたが、いつもの祭りとは雰囲気が違う。どうにも不穏で、不快なほどの緊張感が漂っていた。誰もが見境なしに喋り散らし、しかもその内容は農夫にとってことごとく意味不明だった。同じ言葉を喋っているにもかかわらず、意思の疎通ができなくなっていた。農夫はひとの助けをあきらめて一人で家族を探し始めた。話し声に閉口しながら人込みをかき分けて町中を歩き、やがて町のはずれで妻と娘を探し当てた。
 妻と二人の娘は斧を握り、そこで一本の葡萄の樹を倒そうとしていた。驚いた農夫は割って入って止めようとしたが、そうする前に樹は実をつけたまま倒された。それは素晴らしい葡萄の樹であった。激怒した農夫が手を振り上げると、妻も子もわけのわからないことを言い始めた。農夫にはもはやそれをする資格がないという。なぜならば妻は妻であることをやめ、娘は娘であることをやめていたからである。そしてもちろん農夫もまた夫や父親であることをやめていた。妻と娘はなぜそうなるのかを長々と説明したが、農夫にはまるで理解できなかった。
 農夫が知らない間に、どこからともなく最高理性が降臨していた。農夫には意味不明でも、妻や娘や隣人たちにはそれはどうやら素晴らしいもののようであった。この気の毒で寡黙な農夫にわかったのは、そこまででしかない。頭を抱える男の前で、妻であった女と娘であった女は喋り続けた。
 それは人間を一切の野蛮な呪縛から解放し、より高次の段階へと導こうとする。しかし同時に人間もまた自らを励まさなければならない。最高理性は導きの手を与えるが、そこに到達するのは人間だからだ。肉体の支配はすでに終わり、思弁による支配が始まっていた。だがそれが孤立した思念であってはならない。我々は弁証法を学んで互いを高めあわなければならないのだ。
 町の広場では最高理性の祭典が始まろうとしていた。停滞の象徴である葡萄の樹が続々と運ばれ、高く積み上げられて火を放たれた。演台が作られ、そのまわりには最高理性を称えるために花が飾られ、標語を記した看板が並び、建物からは勉強会の告知を記した垂れ幕が下がった。農夫は家族を諭して家へ連れ帰ろうと試みたが、妻も娘も帰宅を拒んで働く群衆の中へと消えていった。
 旧弊な概念の虜であった農夫は家族を失うことを何よりも恐れた。そこで自らも祭典の準備に加わったが、昼時になって意外なことから正体を暴かれた。ほかの全員が手弁当持参で来ていたのに、農夫だけが食事の支給を要求したからである。疑問を抱いてしたことではなく、ただ昔ながらの振る舞いを求めただけであった。それに前夜から何も口にしていなかったので、空腹が堪え難い段階に達していた。だが肉体の欲求への隷属は深刻な後退と見なされた。放置しておけば、次には給与を要求するかもしれない。残りの者が真似をすれば、個人の欲望が全体の理性に損害を与え、肉体の支配を蘇らせて祭典を破壊することになるであろう。手を打たねばならなかった。なにしろ最高理性は無一文で降臨したのだ。そこで農夫は火刑に処された。
 農夫とともに葡萄も焼かれ、葡萄の樹とともに葡萄酒も滅んだ。他国の商人たちは別の葡萄酒を求めて奔走し、その国の人々は飢えを感じた時に理性を捨てて国から逃れた。食べる物がもう残されていなかったからである。



留守の心得


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国に至る道は暗い森にはさまれて木の根にしだかれ、緑の苔に埋もれていた。森の先では水を豊かにたたえた泉が静謐の底に横たわり、道は泉を回りながら生い茂る草の中へ消えていった。泉を背にして奥深い木立を抜けていくと、川のせせらぎが聞こえてくる。木立の先には野原が広がり、野原の中央には壁に蔦を絡めた町があった。町にひとの気配はない。辺りには一つの人影もない。
 ある時、一人の旅人がふとした気まぐれから街道を離れて森へ踏み込み、泉の脇を通って木立をくぐり、町の前に立って門を叩いた。一夜の宿を求めるつもりであったのか、それとも単なる好奇心からそうしたのか、いずれであったのかは知られていない。何度叩いても返答がないので壁を伝って調べていくと、開いている通用門が見つかった。
 旅人は町の中へ入っていった。狭い石畳の道が縦横に走り、道の両脇には窓を並べた家が層を重ねる。だが路上に人影はなく、家の中にもひとが動く気配はない。息をひそめる者もない様子で、耳を澄ましても物音一つ聞こえない。料理の匂いもしなければ、汚物の臭いもしなかった。よくよく見れば傾いでいる看板があり、鎧戸ははずれかかって窓から下がり、いくつかの家ではたわんだ壁が傾いていた。町が住む者を失って久しいことは明らかであった。どの家もくすみ、荒廃の兆しの中で佇んでいた。いずれは朽ち果てて消える運命にあった。ところがさらによく見ると補修を受けた痕跡がある。縄を巻きつけて傾きを直した看板があり、板を打ちつけて窓に止めた鎧戸があり、真新しい丸太を斜めにあてがわれた壁があった。いかにも不器用ではあったが、ひとが手を入れた跡には違いなかった。旅人はいぶかり、それから一軒を選んで中へ入った。
 そこは商人の家であった。足を踏み入れると同時にすえたような臭気が顔を覆う。床には藁の残骸が散り、蜘蛛の巣が垂れ下がる棚には大きな樽が並んでいた。樽の一つに寄って栓を抜くと、中から琥珀色の液体が迸った。匂いに誘われて鼻を近づけ、舌を差し出して味を確かめた。葡萄酒はひどく枯れた味がした。栓を戻して、奥の部屋へ入っていった。壁に大きな炉が穿たれ、棚にはいくつもの壺が並び、部屋の中央にはがっしりとした食卓が置かれていた。壺の底では干涸びた種や干涸びた葉が見つかった。床には水甕が置かれていたが、中には一滴の水も残っていない。食卓の上は白い埃で覆われていた。
 旅人はさらに奥へと続く扉を開けた。扉の向こうには柱廊をめぐらした中庭があり、中庭の中央では水盤に水が貯えられていた。旅人は水盤の前に進んで顔を上げた。頭上には吹き抜けを囲んで鎧戸を下ろした窓が並ぶ。旅人はそこで初めて声を出した。
「誰か、いませんか?」
 だが返答はなく、辺りに動く物の影はない。もう一度呼びかけてから、柱廊の奥に見える両開きの扉に近づいていった。
 そこは主人の部屋であった。広くはないが多くの物が壁に並び、床にも木箱や小箱の山があった。どれもが埃をかぶり、小振りな机は蜘蛛の巣に覆われている。旅人は机に歩み寄り、蜘蛛の巣をはらって顔を近づけた。机の上に、蝋をこびりつかせた小さな燭台が転がっていた。旅人は燭台を手に取った。指の先でくすみを擦り、目の前に掲げてじっとにらんだ。そして燭台を素早く懐に隠し、振り返ったところで剣の切っ先と対面した。
 剣を握っていたのは白髪を乱した男であった。顔は白いひげに埋もれて目と鼻以外は見ることができない。吊り上がった目は血走り、尖った鼻はわずかに赤みを帯びていた。
「そいつを戻せ」
 そう言いながら、男は剣を突きつけた。
 旅人はうなずいて手を懐に差し入れた。
「ゆっくりとだ」
 旅人は再びうなずき、ゆっくりと燭台を取り出して男に差し出した。すると男は首を振り、剣の先で旅人の背後を指し示した。
「元へ戻すんだ」
 そこで旅人は男に背を向け、机の上に燭台を戻した。振り返って両手を上げたが、男は剣を下ろそうとしない。
「よし。ほかに盗んだ物は?」
「葡萄酒を少し」
「そいつは大目に見てやろう。そのほかには?」
「何も。着いたばかりだ」
「嘘だったらただじゃおかねえから、そう思え」
「本当だ。何も盗ってない」
「誓え」
「誓う」
 ようやく男は剣を下ろし、それから背後に顎をしゃくってこのように言った。
「町から出ていけ」
 だが旅人は拒んだ。男が身分を明かしていなかったからである。家の者には見えなかったし、下働きの者だとしてもいささか汚れ過ぎていた。まして役人とは見えず、むしろ泥棒のように見えてならなかった。泥棒だとすれば邪魔者を追い出した後で何を始めるかは明らかであり、そうであるとするならばただ引き下がって独占を認める理由がない。旅人は泥棒ではなかったが、機会を見過ごさない程度の柔軟さを備えていたのである。旅人が身分をたずねると、留守番であると男は答えた。
 町が無人となった事情については、男は何も知らなかった。男は自分の父親から仕事を継ぎ、父親もまたその父親から留守番の仕事を引き継いでいた。仕事のためには留守番の心得が残されていて、それによれば男は無人の町における法の執行者であり、資産の管理人であり、また同時に修繕も掃除もする用務員でもあった。無法者を追い払い、なくなる物がないように注意を払い、壊れたところがあればそこを直し、あるいはそれ以上壊れないように対策を講じる。掃除は嫌いだと溜め息をついた。一人ではとても手が回らないとうなだれた。仕事以外のことも、すべて一人でこなさなければならなかった。朝には水を汲み、昼には薪を割り、夕には火を焚いて食事を作った。その合間に仕事をこなし、畑の手入れにも気を配るので夜には疲れ果てているという。
「でもよ、食うには困らねえ。誇りだって感じてる」
 男はそう言いながら、旅人を門まで見送った。門の前で、旅人は足を止めた。そして男に歳をたずねた。よくわからない、と男は答えた。男の後は誰が仕事を継ぐのかとたずねると、息子が継ぐという返答がある。その息子はどこにいるのかとたずねると、男は笑みを浮かべて腹を叩いた。
「さあな。ここかもよ」
 それから真顔になって、町のことを口外しないようにと旅人に頼んだ。旅人が約束すると、礼だと言って小さな宝石を差し出した。町の資産の一部だが、経費として認められているという。旅人は留守番に挨拶を送り、留守番は旅人に挨拶を送って町の門を固く閉ざした。
 旅人は約束を守らなかった。国へ戻ると酒を飲んで宝石を見せ、手に入れた経緯をまわりの者に話して聞かせた。町に眠る財宝について、多少の尾鰭をつけたことは言うまでもない。盗賊どもは話を聞いてすぐに飛び出し、行動力で劣っていても残忍さでは負けない者は旅人を殺して宝石を奪った。旅人の死後も話は残ってひとの口から口へと伝えられ、やがて噂となって王の耳に届けられた。王は話に関心を抱き、兵を送って留守番の男を捕えさせた。町にはすでに盗賊どもによって火が放たれていた。男は焼け跡に立ち尽くしていたところをおとなしく捕まった。王は男に拷問を加えた。だが男が最後まで口を割ろうとしなかったので、男の腹から子を得る方法は明かされることなく闇に消えた。



冷気の感触


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。雪を抱いた険しい山の裾にあって住民の多数は農耕に励み、残りは杖を携えて羊の群れを導いた。豊かではなかったが、貧しくはなかった。水と光に恵まれて、生きるのに十分なだけの収穫を得た。それぞれの者はそれぞれの畑と家を持ち、家にはいくらかの貯えを置き、中には牛を飼う者もあった。羊飼いだけが共同の小屋で暮らしていた。多くを知ることも多くを望むこともなく、ある物によって足ることを知り、たまに訪れる行商人は総出で迎え、羊毛の代価として身を飾る小物を得るのを楽しみとしていた。
 その国を旅していると、不意に異様な感触を覚えることがあった。耳や首筋に冷たい手が触れるのを感じて、驚いて振り返っても誰もいない。寂しい道でも多くのひとが集まる場所でも、時には寝台の温もりの中でも、冷たい何かが現われて、からだのどこかに触れていった。昼の光の中で目を凝らしても、それを見ることはできなかった。土地の人々はそれを手と呼んでいた。誰の手かは知らないが、と言って皆で笑う。初めは誰もが驚いたが、二度三度と遭遇するうちに気にしなくなった。ただ触っていくだけで、ほかには何もしなかったからである。ひどく冷たいのが迷惑ではあったが、特に言うべき害はなかった。
 手は大昔からそこにいて、大昔からそうしていたという。昼夜の別なく現われて、かつては父祖のからだに触れ、今は子孫のからだに触れていた。だから手は父祖との絆だと言う者がいた。手は冬でも現われ、夏でも現われ、そしていつでも同じように冷えきっていた。陽が照っても雨が降っても、雪が降っても手の冷たさは変わることがない。だが不作の年には、手はいつもより冷たくなるのだと言う者もいた。
 その国の人々は手に親しみを抱いていた。いきなり触られて冷たさに驚いても、決して邪険にはしなかった。病の床にある時に、手が額に触れていったことを覚えている者がいた。憤って顔を赤くした時に、手が頬に触れたことを覚えている者がいた。多くの者が、手がいつ、どこに触れたかを覚えていた。だからその国の人々は、手は癒し慈しむのだと考えていた。
 ある時、その国を危機が襲った。北方から騎馬の民が押し寄せてきたのである。王を抱かぬその国には軍と言える軍がなく、呼集に応じた民兵団は一瞬で全滅した。馬にまたがり、使者となって話をつけに赴いた者は布の袋をぶら下げて戻った。馬上の使者には首がなかった。袋の中には使者の首が入っていた。騎馬の軍勢は家を焼き、畑を荒らし、羊を殺した。男も女も等しく首を刎ね、こどもと見れば足を掴んで手近の壁に叩きつけた。
 その晩も一軒の家が焼かれた。一組の夫婦が首を刎ねられ、多くの羊が焼き殺された。だが幼い娘は生き延びて、畑の中に逃げ込んだ。少女は蹄が土をえぐる音を聞きながら、畑の中を這って逃げた。松明の炎が頭上を駆け抜け、遠ざかってはまた近づいた。息を殺して唇を噛み、少女はただひたすらに逃げ続けた。やがて蹄の音は彼方に去り、松明の炎も見えなくなった。畑を抜け出して腰を上げ、間近に見える茂みの奥に飛び込んだ。途端に尖った枝がからだに刺さり、少女は血のにじんだ唇を噛み締めて大きな悲鳴を飲み込んだ。それから灌木の枝を押し分けて、隙間から家の様子をうかがった。家が燃えていた。燃え上がる炎を背にして多くの騎兵が行き交っていた。少女はからだを丸めて泣き始めた。
 火照った頬に冷たい手が触れるのを感じて、少女は顔を上げた。手は少女の頬を撫で、冷たい指先で涙を拭い、額に触れてそこで止まった。少女はなおも涙を流し、手が髪を撫でるのを感じながら間もなく眠りに落ちていった。
 馬の嘶きを聞いて目覚めた時には、まだ家が燃えていた。赤い炎に照らされて、騎馬の軍勢は大混乱に陥っていた。
 馬は棒立ちとなって騎兵を落とし、騎兵は見えない敵を探して剣や槍を振り回す。ただ闇雲に辺りを走り、誤って味方に傷を負わせ、あるいは誤って燃え上がる炎に飛び込んでいった。混乱の中で恐れを感じた一人が逃げ出すと別の一人が後に続き、さらに続こうとした多くの者が逃げるための馬を得ようと混乱に拍車をかけていく。味方同士で殺し合い、乗り手を失った馬を残し、生き延びた者は北へと去っていった。
 夜明けを迎えた後、少女は土地の者に救い出された。養い親に引き取られて健やかに育ち、時とともに多くのことを記憶の底ににじませていった。だがその時に手がどこに触れ、またどのように触れたのか、それを忘れることは決してなかった。




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