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翡翠の乙女


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが一説によれば地図にも旅行案内書にもなかったのはその国が小さかったからではなく、実は巧みに施された隠蔽工作の成果であったという。
 伝えられるところによれば、内陸に位置していたその国は国土の大半が山であった。別の伝聞によれば、国土の全部が山であった。高さや大きさの点で特筆に値するような山は一つとしてなかったが、いずれも意地悪く裾を立てて峰を並べ、山以外の場所の大半を谷底にしていた。そして谷底にはおびただしい水の流れがあったので、人間が暮らしのために使える場所はそそり立つ山肌以外になかったのである。町はどれも崖に貼りつき、上下に延びて収入の格差を示していた。家と家の間は梯子で結ばれ、移動は水平よりも垂直におこなわれることの方が多かった。
 崖を覆うようにして縦横に広がる町というのは、もしかしたら旅行者の目にはいくらか魅力的に見えたかもしれない。だがそこで生活を送っていた人々にしてみれば、愉快でもなかったし、安全でもなかった。移動の途中で足を踏み外して川に落ちる者は後を絶たなかった。家具の配置替えをしたせいで、重心を崩した家が崖から剥がれ落ちるという事故も珍しくはなかった。構造的に下水道の整備に困難があったため、排泄物の処理に関わる問題は常に騒動の中心に位置していた。というわけで垂直方向への発展を嫌って、時には水平方向への挑戦がおこなわれたと伝えられている。
 剥き出しの岩肌があれば誰でもそうするように、まず洞窟の掘削が試みられた。掘削そのものは順調に進んだが、なにしろ平地が乏しいので掘り出した土砂を処理する場所がない。眼下の川に捨てるということもおこなわれたが、水が濁る、流れが変わる、塞き止められて漁場が潰れるといった漁師たちの苦情にあって中止された。漁業がその国の主要産業だったからである。代わりに絶壁に沿って山頂まで運び上げるという大胆な解決法を考案した者がいたが、よくよく考えてみれば山頂はひどく切り立っていて、土砂を捨てる場所などどこにもない。この案はただちに却下された。その後も解決のための努力が続けられたが、当の洞窟に捨てればよいという煮詰まった案が提示された段階で、洞窟の掘削自体が王令によって禁止された。王は掘るという行為に対して説明できない種類の猥褻さを感じたのである。
 洞窟の掘削が禁止されたことを受けて、橋の建造計画が立案された。川をまたいで崖と崖の間に数本の橋を渡し、その橋の上に住居を造ろうという考えである。資材となる木材は山頂から豊富に供給されたし、崖と崖の間の距離は決して大きくはなかったので、技術的な問題もそう多くはないのではないかと思われた。事実から言えば技術的な問題は速やかに解決され、最初の橋は予定よりも早く完成した。ところがそこへまた王が現われ、いきなり橋の建造を禁止したのである。王は川をまたぐ橋に対して、説明できない種類の猥褻さを感じたのであった。重なる王の禁令によって水平方向への挑戦は中断され、人々は変わらずに崖にへばりついて暮らしを続けた。
 さて、ある時一人の旅人がその国を訪れ、梯子で足を滑らせて川に落ちた。幸いにも春先の増水はすでに終わっていたので、ひどく流されはしたものの怪我もなく救い上げられた。通常、このような目にあった旅行者は自分が味わった不運を嘆き、不運の原因を用意した旅先の土地に恨みの心を抱くものだが、この旅人はこれは誰の責任でもないと明言し、また来ると告げると予定を切り上げて旅立っていった。ただし旅立ちに先立ってとある漁師の家を訪問し、川で獲るのは魚だけかと確かめたという。漁師がうなずくと、旅人は喜びを押し殺した。やがて旅人は予告どおりに舞い戻ったが、その時にはいささか怪しい風体をした数人の男をともなっていた。到着したその日から船を雇い、地元の者をはずして旅人自らが櫓を握った。同行の男たちは交代で川に潜り、そのたびに川底から何かを持ち帰った。
 この様子が王の目に入った。王には日頃から、心を乱すものを求めて国内を徘徊する習慣があったのである。川に浮かんだ船を怪しみ、必要があれば捕縛せよと命じて配下の者を差し向けた。これは捕縛せよという意味であったので、王の忠臣たちは数艘の船に分乗して旅人の船を囲み、船上にあった全員の身柄を拘束するとともにすべての荷を押収した。旅人は説明を拒んだが、荷は雄弁に真実を語った。川の底には無数の宝石が沈んでいたのである。真実の後には弁明があった。旅人はこれを国外に持ち出し、売却して利益を得ようと考えていたが、成功の暁には王にいくらかを支払う予定だった。
 王は熟慮の上で、旅人の供回りの者を残らず川に沈めた。それから交渉に取りかかった。建設的な意見が交わされ、王が利益の九割を得る代わりに潜水夫を派遣し、王に九割を捧げる代わりに旅人は一割を得るということで最終的に落ち着いた。
 旅人は牢から出され、潜水夫と船を与えられた。潜水夫が川底から持ち帰った宝石は、端から王の元へと運ばれた。旅人と潜水夫たちは休みなく働き、王が用意した宝箱は一つまた一つと一杯になっていった。王はその様子を見て説明できない種類の猥褻さを感じたが、この時はまだやめようとはしなかった。
 採取が始まってから一月ほどが経った頃、旅人が王に面会を申し入れた。理由を質すと、信じがたい物を発見したという返答がある。王は許可を与え、旅人は床に引かれた線にしたがって王の前に姿を現わし、興奮した口調で現地での視察を要請した。新たに発見した物体は、その重量によって王宮の安定を著しく損なう可能性があるという。そこで王は旅人を先に進ませ、梯子をどこまでもどこまでも降りていった。
 川の流れを間近に見下ろす船着き場は、すでに人払いされていた。問題の物体は船着き場の中央に置かれ、正体は白い布で隠されている。卵を立てたような形状をしていたが、その大きさは大人の男を遥かに凌いだ。王が前に立つのを待ってから、旅人が布を取り去った。王は驚愕に口を開き、王の忠臣たちは溜め息を洩らした。
 それは巨大な翡翠であった。表面は滑らかで傷一つなく、入念に研磨が施されていた。だが王が驚いたのは目の前の物体が大きいからでも美しいからでもない。中心部に全裸の少女が閉じ込められていたからであった。少女は目を閉じていた。あどけなさの残る顔をわずかにうつむけ、緑に輝く石の中に長い髪を泳がせていた。胸には豊かな膨らみがあり、見事な曲線は腰を描いて脚に続く。手の一方は腿に沿い、もう一方は申し訳のように下腹を覆っていた。
「これは」と退きながら王がたずねた。「死んでいるのか?」
「死んでいると、考えるべきでしょう」と旅人が答えた。
「まるで生きているように見える」
「いかにも、そのように見えます」
「で、これをどうするつもりか?」
「お許しがあれば、このまま運び出したいと考えております」
「売ろうというのか?」
「間違いなく、とてつもない値がつくことになりましょう」
 王は口を閉じて翡翠を見つめた。翡翠の内部に目を凝らした。それから旅人に顔を向けてこのように言った。
「なぜ、このような物体が存在するのか?」
「これこそ自然の驚異と申すべきでしょう」
「なぜ、あの娘はあのように脚を開いているのか?」
「自然の営みによってあのようになったと考えます」
「あの様子には、心をひどく乱す何かを感じる」
「運び出してしまえば、陛下のお心を乱すことはございません」
「説明できない種類の猥褻さを感じる」
 すると旅人は説明できない種類の危険を感じて、このように言った。
「いえ、これは芸術でございましょう」
 これを聞いた王は目を怒らせ、忠臣たちに命じて再び旅人を捕えさせた。
「芸術かどうかは、余が決めることだ」
 旅人は縄でくくられ、同じ縄の一方の端は巨大な翡翠に結ばれた。そうしてから翡翠は川に戻された。王宮に貯め込まれた宝箱の宝石もすべて処分された。出所が同じなので猥褻性に連座している可能性があったのである。
 王は川に潜ることも、川に落ちることも禁止した。どちらにも厳罰を約束した王令を出し、さらに得体の知れない旅行者がよからぬ考えを抱いて王の心を乱すことがないように、あらゆる地図から国の場所を消し去った。だからその国がどこにあったのか、それからどうなったのかは、誰も知らない。



不明の理由


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。
 ところがある種の趣味の持ち主にはその国の風俗がはなはだ魅力的に感じられたようで、不明の場所にある不明の国としては意外に思えるほどの訪問者数を誇っていた。しかも訪問者たちは一度訪れてそれで満足するのではなく、二度三度と再訪を果たして感涙にむせびながら自国に戻り、時には旅先での経験と自分が味わった感動とを文章に記して残していた。残してはいたが、不明の理由から一度として公表されたことがない。趣味がよくなかったからに違いないとか、公序良俗に反していたからに違いないとか、本人はともかくとしても家族や遺族が公表を嫌ったからだとか、理由を推定するのは簡単だが、そのせいで趣味の正体もその国やその国の風俗のことも、まるでわからないままになっているのである。これは、損失であると言わざるを得ない。
 実を言うと一度だけ、旅行者の文書が公表されたことがあるらしい。はっきりとしない記録によれば、公表された文書に記されていたのはわずかに数語であったという。察するに感動が極まって、極まるあまりに常識を超えて言葉が圧縮されたせいであろうが、何事によらず言葉を尽くすことが肝心であると信じる我々にとって、そのような圧縮を達成する過程には想像を絶するものがある。だいたい、それでは何事も伝えることはできないと考えるのだが、この場合、それ以上に問題なのは、公表されたその数語がどこにも記録されていないという事実の方であろう。趣味の問題とか感極まってとか言うよりも、我々はこうした状況に重大な怠慢を感じるのである。
 もちろんすべての文書がそうであるとは限らない。立派な文章で書かれた物があるかもしれないし、そうした文書がどこかにまだ残されている可能性もないではない。希望がないわけではないのである。とはいえ、それが好ましい状態で保存されているとは限らないし、もう捨てられてしまって、どこかで紙屑になっていないとも限らない。もしかしたらこの瞬間にも、魚屋の店先でニシンを包むのに使われているかもしれないし、肉屋でレバーを包むのに使われているかもしれない。散々に曲折を経てから油染みをつけた古紙となり、どこかで再生される日を待っているということもあるだろう。本当にそうなっていたら、紙屑の巨大な山の中から目当ての一枚を探し出すのは不可能であろう。希望がないわけではないけれど、ないも同然の状態である。
 以上のような事情からある種の趣味がいかなる種類の趣味であったかは、まだ今のところは明らかにされていない。



辺境の神々


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。あらゆる街道から遠く離れて旅人を拒み、石を転がす荒れ地に囲まれ、男たちは乾いた畑に日を費やし、女たちはたった一つの井戸から水を汲んだ。日干し煉瓦で作られた町は陽の光を浴びて地にうずくまり、褐色の壁に穿たれた黒い戸口の奥では白い目が並んで外の様子をうかがっていた。どの家の奥にも母がいたが、どこを探しても父はいない。家族という考えはどこかにあったが夫婦という考えはなく、男女の契りは過ちと見なされて厳しい罰が与えられた。
 それでもその国にはこどもがいた。母の腹から生まれた子らが日陰で乳を与えられ、育てば畑を耕す鍬を持ち、あるいは水を運ぶ甕を抱えた。母には語るべき言葉がなく、互いに交わすべき言葉も少なく、文字を持たなかったので胸の内に浮かんだ言葉も残されていない。
 その国のはずれには大きな岩の山があった。そそり立つ岩の壁には岩から削り出された柱が並び、柱の奥には大きな石窟が穿たれていた。そこは神殿と呼ばれていたが、壁にはいかなる装飾もなく、いかなる偶像も飾られてはいなかった。会衆が集うべき場所は道と呼ばれ、祭壇があるべき場所では一枚の平らな岩戸が灯明の火に照らされていた。ただし道に会衆が集うことはなく、暗い岩戸を拝む者もない。神殿にはわずかな数の神官が暮らして灯明の火を守り、岩戸に近づく者を遠ざけていた。
 神殿の奥の岩の戸は、年に一度、夏至の晩にだけ開かれた。夜を迎えて陽が落ちると、神官たちは岩戸の前に並んで待つ。しばらくすると向こう側から戸を叩く音がする。ゆっくりと三度叩くので、神官の一人が岩戸に寄って耳を近づけてこうたずねる。
「何人いる?」
 戸の向こうからはなかなか返答がない。唸るような声や喉を鳴らすような音が続いた後で、ようやく言葉を探し当ててこう答える。
「一人」
「ならば一つ」
 神官の一人がそのように言うと、残りの神官が戸に走り寄る。神官たちは岩に埋め込まれた鉄の輪を掴み、一斉に引いてわずかな隙間を戸に与える。すると隙間から大きな青白い手が現われる。指の先に鋭利な爪を伸ばしているが、その形は人間の手と何も変わらない。手は一つの塊を床に落とす。塊は重い音を立てて床に転がり、灯明の光を浴びて金色に輝く。神官がすかさずそれを拾い上げ、秤にかけて許しを与えた。
 神官たちがさらに戸を引くと、そこから顔が現われる。毛は一本もない。白くにごった大きな目に灯明の揺れる炎を映し、くぼんだ鼻の二つの穴は外気の臭いを嗅いで痙攣する。鼻の下ではすぼんだ口が何かを求めるようにうごめいていた。頭は長大な首に続き、長大な首の後には長くて細い胴が続いた。全身が青白く濡れて燐光を放ち、ただ腕と脚だけが並みと言える大きさと形を備えていた。それは戸の隙間から泳ぐように走り出て、固い爪で床を蹴って神殿の外へ飛び出していく。その背後で神官たちは戸を閉ざし、次の者が戸を叩くのを待ち受けた。
 戸を叩く者は胴長と呼ばれていた。夏至の晩に外へ出ていく胴長の数は、年によって異なっていた。五人であることもあれば三人であることもあり、時には十人を越えることもあったようだ。一人しか来ない年は不作とされ、七人を越える年は豊作とされた。戸は常に一つの金塊によって一人のために開かれ、一度開かれた戸の隙間から同時に二人が出ることはない。一つの金塊で二人が出ようとすれば、二人目の胴長が槍で刺された。二つの金塊であっても一度に二人が出ようとすれば、二人目の胴長が槍で刺された。神官たちは岩戸からひとを遠ざけ、胴長たちに偽りを禁じる。
 だが神殿から一歩出れば、胴長たちは神であった。徴を迎えたすべての女が子種を求めて脚を開き、男たちは家の奥へ逃れて息をひそめた。胴長たちは夏の短い夜を町で過ごし、陽が昇る前に岩戸の奥へ去っていった。ひととの間にいかなる契約が交わされていたのか、今となっては知る者はない。無法者の一団が彼方から匂いを嗅ぎつけて金塊を奪い、その国を滅ぼして立ち去ったからである。



冒険の精神


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。小さな王城を囲む小さな町が一つあり、その外側には単調な緑色に染め上げられた退屈な田園風景が広がっていた。近隣に並ぶ小国と比べても特徴と言える特徴はなく、一見したところでは生彩を欠き、活気も欠いていたので市はにぎわいを知らなかった。慢性的に不景気であったという説もある。住民は全体に退屈で、どこかしら鬱屈した気配を漂わせていたと言われているが、いつも不景気であったとすればそのせいであろう。それにもかかわらずいかなる対策も取られることがなかったのは、歴代の王が卓越した理想主義者であったからだとされている。遥か未来における理想の社会を考えるのに忙しくて、手元のことには関心がなかったのである。王は未来に希望をつなぎ、民は現在に苛まれて不満を貯えていた。
 さて、ある時のこと、代々の王の中でも特筆すべき理想主義者であった王が死の床に就き、外国で学業の途上にあった王子が呼び戻された。王子は父王の死を受けてただちに王位を継承し、そして側近たちを驚かせたことには、合理主義の導入を宣言した。
「秋の夜長の暇潰しのように長々と理想を弁じる時代はもう終わった。これからは一切を合理的に判断し、合理的に解決していく。理想主義の名による停滞には終止符が打たれた。我が国は冒険の精神を携えて、未来へと大きく飛躍するのだ」
 同じ演説を王城のテラスでも繰り返したので、民は熱狂して王を迎えた。もちろん全員が熱狂したわけではなくて、実務経験のない新王に不安を抱いた者がいくらかいたし、王が言う冒険の意味を量りかねて心配を始める者もいくらかいた。しかし停滞に倦み疲れた圧倒的多数は変化の兆しを歓迎し、若き王に忠誠を誓ったのである。
 王は手始めに大法官を始めとする側近の大半を解任した。いずれも伝統的な理想主義者で、合理主義を掲げる王にとっては間違いなく無用の長物であった。代わりに民の中から人材を募り、合理的な発想の持ち主を身分を問わずに採用した。それでも足りない部分には外国から学業仲間を呼んで任にあて、妥協を排した合理的な組織を結成した。そこで働いていたのはどれも若く、どれも聡明で、どれも合理的な精神の持ち主であった。
 組織の整備を終えた王は、すぐさま外交問題に取り組んだ。国家安全保障会議と称する会議を招集し、若き重鎮を並べて周辺諸国の状況をつぶさに検討した。
 東の隣国にはいかなる怪しい動きもなかったが、今のところはという話であって危険な行動を起こさないという保証はどこにもない。南の隣国には王位継承権の問題から内紛の兆しがあり、西の隣国にはその内紛に便乗して何かしらの権益を確保しようとする野望が見える。しかし最大限の注意を要するのは北の隣国で、いわゆる南下政策が隔世遺伝でもしているのか一代置いては蘇る。現在はまさにその時期にあり、敵は南方への野心をこれまで巧みに隠してきたが、だからこそ、いつ侵略を受けても不思議はなかった。
 若き王は父祖である王たちの名を罵った。周辺にこれだけの問題を抱えながら、先王たちが放置していたことを知ったからである。だが王の罵倒が長く続くことはない。手短に切り上げて対策にかかった。
 まず東の隣国を監視しておく必要があった。ただし最小限にとどめ、必要な場合には強化できるように手配しておく。南の隣国にはただちに全権公使を送って可能な範囲での干渉をおこない、同時に西の隣国の野望を適度な宣伝によって告発する。だが北の隣国は問題だった。これは明らかに頂上会談を必要としていた。北の王は経験を積んだ老人であり、こちらを若造と思って舐めているに違いなかった。だとすれば一刻も早く頂上会談をおこなって、こちらには気概も腕力もあることを見せなければならなかった。日程の調整を始めよう。だが大使を通せば丸めにかかって時間を稼ごうとするだろうから、ここは遠慮をしない特使を使う必要がある。
 これだけのことを速やかに決めると、ただちに実行に取りかかった。すると間もなく東の隣国から苦情が届いた。王の軍隊が暗黙の国境線を越えて威力偵察を繰り返しているという。南の隣国からも苦情が届いた。王位継承の問題はすでに決着済みであり、友好国からの干渉は必要としていないという。西の隣国からは特使が訪れて威嚇的な警告をおこなった。これ以上根拠のない悪評を流せば、しかるべき制裁を考えるという。
「考えるということは」と王は言った。「まだ考えていないということだ。つまり我々の行動はまだ限度内にあるということであり、裏返せば敵への威嚇はまだ十分におこなわれていないということだ」
 安全保障会議の面々がうなずき、西の隣国への告発を強化するように指示が出された。そうしている間に北の隣国との頂上会談の日程が定まり、二人の王は暗黙の国境線の上で言葉を交わした。
「ありゃなんじゃい、あんたがよこしたくそ生意気な特使の小僧は」
「両国の平和のために、わたしは貴国に理性ある態度を要求します」
「くそったれが。口のきき方も知らんような奴にようやらせるわい」
「そちらの野蛮な意図を、こちらが了解していることをお忘れなく」
 二人の王は話しあったが、話は最初から最後まで平行線を描いて終わった。若き王は王城に戻って隣国の王を激しく罵り、国家安全保障会議を招集すると軍の動員を指令した。話が噛みあわずに終わったということは、隣国の老獪な王が意図してそうしたことであって、したがって敵はすでに侵略の準備を整えていると判断したからである。
 王の軍勢は暗黙の国境に進出し、北の隣国はその一部が領土を侵犯したと判断した。特使が抗議状を携えてやってきたが、国家安全保障会議の若者たちは侵犯はないと判断し、若き王はその判断を支持して特使を冷たく追い返した。特使はそれからも軍の撤収を求めて再三現われ、そのたびに王の謁見を求めたが、王は執務室にこもって会うことを拒んだ。実は展開中の軍隊からの報告が王を苛立たせていたのである。北の隣国には目立った動きが何もなかった。王の合理的な精神からすれば、敵軍はすでに展開を終え、侵略を始めていなければならなかった。善良を装った特使の行動は展開のための時間稼ぎなのか、それとも別種の謀略がどこかで用意されているのか。だとすれば東西の隣国が怪しかった。密約が交わされているのだ。間違いない。軍が北に集結している隙に、側面を攻撃してくる可能性がある。
 王は軍に増員の指示を出し、農民から徴兵する許可を与えた。即席の民兵団が東西の国境に配置され、その一部がどうやら暗黙の国境線を侵犯した。脅えた東西の隣国が軍隊を動かし、報せを聞いた北と南の隣国もそれぞれの国境線に兵を送った。周辺諸国は若き王がどこかへ一撃を加えてくるものと待ち受けたが、そうしてくる気配はいっこうにない。若き王の方でもどこかが一撃を加えてくるのを待っていたからである。合理的な精神が後々に関わる歴史的な正義を要求していた。
 それからは国から国へと特使が飛び、会談が開かれ、交渉が繰り返された。だが状況にはいかなる進展もなく、どの国も軍を引こうとはしなかった。短い飛躍の時代が終わって再び停滞の時代が始まり、二年の後に若き王が暗殺されても諸国間のすくみあいはなお十年続いた。その間に景気はひどく後退したと伝えられる。



魔王の機械


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが、まったく未知のままに捨て置かれていたわけでもなくて、ある種の文献には記載があったし、そうした文献に知識を求める人々は、そこに書かれた内容を読んでその国の存在を知ったのである。
 その国には魔王の機械があると言われていた。言われていたというだけで、実際に見た者は一人もなかった。どの本を調べても、それがいかなる機械なのかを説明している部分は一行もない。信じられていたところによれば、それは地獄から呼び出された魔王が地上に現われ、まさに現われた証拠として地上に置いていった物であった。だが単なる存在証明であれば機械である必要はまったくない。まがまがしい彫像や不気味な紋章のような物であっても全然構わなかったはずである。機械であるからには、必ず何かしらの機能を備えているはずだと多くの者が考えた。地獄の門を開く仕組みかもしれないし、そうではなくて空に暗雲を浮かべる仕組みかもしれない。門を開くのだとすれば鍵はどこにあるのか、暗雲を浮かべるのだとすれば、浮かべた後には何が起こるのか。その国の誰かが魔王と契約を交わした証しだという説も有力視されていた。
 正体を確かめようと考えて旅立った者は少なくない。だが戻った者は一人もなかった。その国へと至る道にはいくつかの難所が控えていたとされているので、そのうちのどれかで命を落としたのであろう。そしてそうして行方を絶ったのは一般にいかがわしいと思われていた人々だったので、不幸を知って悲しむ者の数は少なかった。悲しむ代わりにさもありなんとうなずく者はたくさんいたと伝えられる。
 さて、ある時のこと、一人の裕福な若者がいささかいかがわしい種類の野望を胸に抱き、魔王の機械の正体を確かめようと考えた。道中の難所についての情報を集め、武勇を誇る男たちを護衛にしたがえて出発した。最初の難所は溶岩によって塞がれた海辺の場所で、ここを越えると道は大きく内陸へまわる。その先には誘拐を生業とする人々が住む国があり、その先には追い剥ぎを生業とする人々が住む国があった。森を抜けて川を渡り、そそり立つ山をいくつも越え、崖にへばりついて暮らす人々の町に入って王に追われ、あるはずの国がない場所を抜けて大きな山を一つ越える。そこからさらに山を五つほど越えていくと、山裾に広がる盆地の中にその国はあった。
 道の終端に城壁を備えた町があり、町の中にはひなびた風情の建物が並んでいた。建物は異国風ではあったが創意に乏しくて感興に欠け、道を歩く人々の姿もまた異国風ではあったが珍しさよりも鈍重さをより多く感じさせた。空には暗雲もなかったし、立ち並んだ樹木が怪しい闇の光を放つこともない。歩き回って探してみたが、恐ろしい彫像も気味の悪い紋章も見当たらない。住民は黙々として生活に励み、広場には大きな市が立ち、隅の方ではこどもたちが立ち小便で飛距離を競う。魔王が降り立った場所には見えなかった。
 それでもどこかに魔王の機械があるはずだった。察するところ、それはどこかの秘密の場所に隠されているのに違いなかった。若者は酒場をまわり、聞き耳をたてて日を費やした。それらしきことを口にする者がいれば金を払って情報を掴み、次第に断片を積み上げていった。まともそうに見える者は概して口が固かった。口の軽い者は多くの嘘で多くの金を得ようとたくらんだ。無数の断片が集まってきたが、どうしても一枚の絵にはなりそうもない。そのうちに物も言わずに金を奪おうとする者も出現し、揚げ句の暴力沙汰が二度三度と繰り返された。いくつかの店では出入り禁止を言い渡され、当局からは威嚇的な呼び出しを受け、無視していると尾行がついた。
 その土地で得たわずかな友人たちは口をそろえて国外への脱出を勧めたが、若者はなおも魔王の機械に執着し、それから間もなく逮捕された。よくわからないまま取り調べを受け、起訴され、法廷の中央に引きずり出されて判決を受けた。外国の優越を宣伝した罪で懲役五年と財産の没収。金は奪われ、武勇を誇る男たちは奴隷に売られ、若者は監獄にぶち込まれた。そして魔王の機械とそこで出会った。
 監獄には魔王の機械のために働く一団が存在したのである。囚人の有志からなる人々で、魔王の機械のために一生を捧げるという誓いをしていた。看守から話を聞いて若者は興奮し、ただちに志願してその一員となった。技師長と呼ばれるひどく陰気な人物が現われ、若者を監獄の地下深くへと案内した。魔王の機械はそこにあった。高さがひとの背丈ほどある立方体で、表面はなめらかで凹凸がない。悪魔的な意匠も、目に見えるような怪しい仕掛けも見当たらなかった。若者は失望を覚えたが、それでもすぐに気を取り直した。仕事が始まれば、魔王の機械の正体も解明されることになるからである。
 若者は机をあてがわれた。技師長はその机の上に分厚い資料を投げ出して、読んでおくようにと言い渡した。表紙に並んだ文字を読んで、若者は再び興奮した。それは魔界の全貌を記した本であった。目を輝かせて読み始めた。食事も寝る間も惜しんで読み続けたが、そこに書かれていたのは魔物を呼び出す呪文でも牛乳に酸味を与える方法でもなく、魔王を頂点とする魔界の行政機構とその運用に関わる諸々の手続きなのであった。後半は文字通りの法令集になり、別冊には申請や報告に用いる書類の各種様式が収められていた。それでも若者はすべてを読み上げ、その旨を技師長に報告した。すると技師長は別の資料を投げてよこした。表紙には基本設計書という文字があり、中には丸や四角を矢印でつないだ複雑な図形が層をなしていた。まるで意味不明の資料だったが、机に戻って身を屈め、書かれていることの意味を推し量ろうと頑張った。そして頬の下に骨が浮き出すまで頑張って、遂に意味を突き止めた。その資料は魔界の運用手続きを図や線を用いて抽象的に表現したものだったのである。技師長に読み終えた旨を報告すると、翌日からは会議に出席するようにと言い渡された。
 連日の会議がやがて全貌を明らかにした。その国の誰かが、やはり魔王と契約を交わしていた。その事実に間違いはなかったが、それは地上における魔王の復権を認める契約でも、魂の代償として七つの願い事を得る契約でもない。魔界の合理化についての契約だったのである。魔王、すなわち当事者甲はその恐るべき魔力を使って魔王の機械と呼ばれる謎の装置を地上に運び、当事者乙はその機械に魔界で使用される一連の手続きを入力して合理化と省力化を実現することになっていた。
 計画完遂の暁には小悪魔たちはもう報告に紙を使う必要がなくなり、連絡は電子的に緊密かつ速やかにおこなわれるので魔王はいながらにしてすべての状況を掌握できるようになる。そうして魔界事業は効率化に向かって大きく前進するはずであったが、肝心の計画が大幅に遅れるという事態が出現した。技師長は設計を担当した技術者たちの未熟と無能を最大の原因とし、一方、現場の技術者たちはひとの話を聞かない技師長の性格こそが最大の原因であると反論した。おそらくは、いずれも最大の原因なのであった。傲慢と未熟が不手際を生み、そこへ小悪魔たちが無理解と無関心によって災いをふりかけた。予算は無駄に消化され、入力作業は足踏みを始め、怒った魔王は空に暗雲を飛ばして損害賠償請求をちらつかせた。双方の歩み寄りによって訴訟沙汰は回避されたが、人間の側は進捗管理における瑕疵を認め、乏しい予算で計画を継続しなければならなくなったのである。設計と入力作業を担当していた下請け業者はとうの昔に逃げ出していたので、当事者乙は国と交渉して原価の安い囚人労働力を手に入れた。
 すべてを知った若者は不満を隠すことができなかった。苦労した揚げ句が他人の失敗の尻拭いであることが許せなかった。魔王の機械はもっと無意味でまがまがしい機能を備えていなければならなかった。そこで先に立てた誓いを撤回し、一団からの離脱を申請した。これは認められなかったが、連日の長時間労働に体調を損ない、病気施療を余儀なくされて結果としての離脱を果たした。普通の労役に就いて刑期を終え、苦難の末に帰国した。痩せこけて骨と皮になり、髪は残らず白くなっていたと伝えられる。すぐさま昔のいかがわしい仲間が家を訪ね、若者の変貌に驚きながらも魔王の機械について問い質した。若者は首を振って、自分の口を指差した。帰国の途上で誘拐を生業とする人々の手に落ちて、舌を切り取られていたのである。いかがわしい趣味の人々はこれを魔王の呪いであると考え、そうとは考えなかった若者はいかがわしい種類の本を焼き捨てて、それからは釣りを趣味とした。




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