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通行の障害


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。小さな領土は南北に延びる古い街道にまたがり、北に置かれた国の門から南に置かれた国の門を見ることができた。南に置かれた国の門から北に置かれた国の門が見えたことは言うまでもない。西は山に、東は海に面していて、南に置かれた門を抜けて街道を進むと、その先には海老を食べる人々の国があった。
 その国の人々が何を生業とし、何を糧に生きていたのかはあまり知られていない。今のところは漁民であったとする説が有力で、午後に船を仕立てて沖を南下し、隣国の漁場で夜陰に乗じて海老を獲っていたのだとされている。収穫された海老はそのまま船で北へ運ばれ、北で獲れた魚類と交換された。漁場荒らしの証拠を隠滅するためである。経済は全体に未発達で、交換は主に現物でおこなわれていた。南の隣国では現金収入の不足を補うために旅行者から通行税を徴収していたが、その国では通行は無料で、代わりに禁制品などの摘発をおこなって若干の罰金を科すにとどめていた。通行税のせいで南の隣国が悪評を得ていたことを知っていたからであろう。現金収入の乏しい小国にとって、旅行者の評判は常に重要な意味を持つ。無法な通行税を課す国よりも、無法を摘発する国の方がよい評判を得るのは当然であった。
 さて、ある時、一人の旅人が遥か南に位置する大国を目指して街道を下り、その国の北の門に近づいていった。通過するだけの軽い気持ちであったが、門を守る二人の兵士がすぐさま飛び出してきて行く手を阻んだ。兵士のうちの一人が門の脇にある小屋を指差し、そちらへ行けと身振りで示した。旅人は争いを好まない種類の人間だったので、おとなしく指示にしたがって小屋の方へ進んでいった。入り口の横には各国語で出入国管理事務所と記されていた。
 戸口をくぐって中に入ると机の向こうに太った男が一人いて、横柄な身振りで旅人に旅券の提示を要求した。旅人が静かに差し出すと、男は乱暴に奪い取った。中を開いてつぶさに調べ、卑しく見えるほどの疑念を顔に浮かべて机の引き出しにしまい込んだ。次に男は身振りで示して、旅人に鞄を開けるように要求した。旅人が鞄をかばって首を振ると、男は声を出して兵士を呼んだ。門にいた兵士の一人が駆け込んできて、旅人を背後から羽交い締めにした。男は旅人の鞄を机の上に置いて口を開き、中の物を一つひとつ出していった。大半は旅の必需品であったが、土産に選んだ二つ三つの品物がある。旅人が見ている前で、男はそのうちの一つを取って引き出しにしまった。それから不意に顔を上げて肩をすくめ、大きな笑みを浮かべると兵士に命じて拘束を解かせた。
「その標語、見る」
 男が旅人の国の言葉でそう言いながら壁の一隅を指差すので、見るとそこには各国語で法執行強化週間と記されていた。男は旅人の旅券を取り出して、入国の承認印を押した。旅人は旅券を受け取り、大急ぎで荷物を鞄に詰め込んだ。膨らんだ鞄を肩にかけ、小屋から出ようとしたところで男が握手を求めて手を差し出した。
「いい旅」
 旅人の国の言葉でそう言うので、旅人は相手の指先を軽く握って小屋を出た。兵士の間を通って門をくぐり、みすぼらしい家を両側に並べた街道を進んだ。路上にひとの気配はなかった。西には禿げた山が見え、東には荒涼とした浜が見えた。前方には南の門が見える。その国のどこかで立ち止まるつもりはまったくなかった。そもそも予定になかったし、味わったばかりの不快な体験が胸に恐怖を浮き上がらせて、自然と足を急がせた。南の門が近づいてきた。
 ふと海岸の方へ顔を向けると、北の事務所にいた男が南の門を目指して走っているのが目に入った。南の門に視線を戻すと、その脇には北の門と同様に事務所とおぼしき小屋が見える。旅人も走り始めた。男よりも先に門に着けば、状況がいくらかでもましになるのではないかと考えた。旅人は街道をひた走り、男は浜辺をひた走った。太った男は実に見事な走り手であった。旅人は荷物を抱えていたので分が悪かった。旅人が門に着いた時には、男はもう小屋へ走り込んでいた。
 門には二人の兵士がいた。これは北の門とは異なる二人組であったが、そのうちの一人が小屋の方を指差すので、旅人はおとなしく指示にしたがった。
 戸口をくぐって中に入ると、机の向こうでは太った男が呼吸を整えていた。鼻と口で同時に息をしながら、それでも横柄な態度は保って手を差し出した。旅人が旅券を渡すとひったくって中を開き、つぶさに調べて充血した目に疑念を浮かべる。旅券を引き出しにしまい込んでから、身振りで鞄を開けるように要求した。
「さっき調べたばかりでしょう」
 旅人が抗議すると、男は喘ぐように口を開けた。卒倒でもしかけたのか、机の端を掴んで背中を丸め、しばらく目を閉じてじっとしていた。それからいきなりからだを起こすと、声を出して兵士を呼んだ。門にいた兵士の一人が駆け込んできて、旅人を背後から羽交い締めにした。男は旅人の鞄を机の上に置いて口を開き、中の物を一つひとつ出していった。大半は旅の必需品であったが、土産に選んだ一つ二つの品物がある。男はそのうちの一つを鷲掴みにすると、旅人の鼻先に突き出した。
「これ、なんですか?」
 男が旅人の国の言葉でそうたずねるので、旅人は答えてこのように言った。
「それはただの土産物です」
「違います。これ、禁制品」
「でも、さっき調べたじゃありませんか?」
「こんなものは、さっきは、なかったです」
「嘘を言うな。さっき向こうで見ただろう」
「これ、持ち出し禁止の品。あなた、罪を犯しました。逮捕します」
「そんなばかな」
「皆さん、ばれるとそう言います」
 旅人は兵士によって連行され、その国の牢に放り込まれた。暗くてひどく湿った場所で身の不運を嘆いていると、国選弁護人と名乗る男がやってきた。無罪の主張は難しいと言う。ならばどうすればよいのかとたずねると、有罪を認めて司法取引に持ち込むべきだと助言された。そこでそのとおりにすると、有罪だけが認められて司法取引は拒まれた。判決は二十年の刑と財産の没収。
「わたしたち、法がある。あなたがた、忘れてはならない」
 旅人の国の言葉で、裁判長はそのように言った。



帝国の逆襲


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国は残虐な統治で知られた帝国の版図の辺境にあり、全土が砂にまみれて潤いに乏しく、ひとは皆貧しくてしばしば暴力によって命を落とした。意固地な農民たちは砂地を耕して飽くことを知らなかったが、そうして空しく仕事に励む農民の中には、冒険を夢に描いて胸をときめかせる一人の若者の姿があったと言われている。
 さて、ある時、帝国の統治に対する反乱が起こり、名のある国の姫君が反乱勢の命運を担って長い旅に出発した。ところがその途上で帝国の軍勢の待ち伏せに遭い、供の者は皆殺しにされ姫君は捕われの身となった。姫君は捕われる寸前に急使を仕立て、救援を求めて送り出した。ところがその急使というのが驚くほどの無能者で、多くを偶然の手に委ねて自ら道を拓こうとしなかった。砂まみれの土地に迷い込み、盗賊の手に落ちて奴隷となり、売り飛ばされてとある農家の持ち物となった。ところがその家には冒険を求める若者がいて、奴隷が携えていた密書の中身を偶然によって垣間見る。すでに偶然の行き詰まりを感じていた奴隷がやけくそのように密書の宛先を告げるので、奴隷を伴ってその人物を家に訪ねた。それは山に住む変わり者の老人であった。
 仔細は省くが変わり者で知られていたこの老人こそ、広く名を知られた修道騎士の隠遁の姿にほかならない。老人は密書の全文を読んで事態の急を知り、出立の準備に取りかかった。たまたま出会った若者が山の老人を知らなければこの展開はなかったわけで、急使の綱渡りはかなり危うい。というよりも偶然に身を委ねていたのは急使ではなく、実は物語の展開そのものであったということになる。そのことは続く状況に照らしても明らかで、老人は若者と急使を連れて山を降りると、砂漠を抜け出すための乗り物を求めて奔走するのである。運良く密輸業者の乗り物が見つからなければ、救援を求める急使は偶然の袋小路で立ち往生をしていたに違いない。
 一方、帝国の軍勢は捕えた姫君に拷問を加え、反乱勢の所在を突き止めようとしていた。姫君は頑なに口を閉ざしたので、帝国の軍勢は最後の手段として姫君の母国に最終兵器を近づけた。口を割らなければ民もろともに祖国を滅ぼすと脅したのである。姫君は遂に口を割ったが、非情で知られた帝国の軍勢は非情の笑みを浮かべて約束を違え、姫君の故郷に対して最終兵器を使用した。それは球形をした巨大な大岩であった。無数の兵士が引いたり押したりしながら大岩を小高い山の頂きに運び、そこから一気に転げ落とすと姫君の故郷は一撃で滅んだ。岩がよほどに大きかったか、あるいは姫君の故国がよほどに小さかったのであろう。
 密輸業者の乗り物に乗って姫君の後を追っていた一行は、遥か彼方で上がった滅びゆく民の絶叫を聞いた。声がした方角へ進んでいくと、帝国の軍勢の陣屋が見えてくる。早速近づいて姫君の居場所を探したが、見つけるよりも先に見つかってしまった。帝国の兵士たちは鉤のついた縄を放って一行を乗り物ごと捕まえた。ところが帝国の兵士たちが調べても、一行は乗り物の中に見つからない。荷台の藁の下に隠れていたからである。隙をついて脱出し、若者と密輸業者は帝国の陣屋に乗り込んで捕われの姫君を救出した。だが、そこへ恐るべき敵が出現する。
 子細は省くが、それは黒い兜と黒い仮面の騎士であった。胴衣も黒ければマントもブーツも真っ黒で、黒くないところはどこにもない。伝えられている噂によれば黒兜の騎士は帝国の皇帝の腹心で、帝国内に市が立つ日には皇帝とともに肩で風を切ってのし歩き、八百屋の店先では必ず足を止めてリンゴを握り潰して見せたという。その黒騎士に山の老人が剣を抜いて立ち向かい、若者たちに脱出のための時間を与えた。老人が倒れた時の最後の叫びは、以来、若者の耳にこびりつき、ことあるごとにけたたましい空耳となって響いたという。
 若者と姫君は密輸業者の乗り物に乗り込み、追跡を振り払って反乱勢の陣屋へ逃げ込んだ。帝国の軍勢はそのまま後を追ってくるので、結果からすれば味方の居場所を明かしたということになるであろう。帝国の軍勢は最終兵器をごろごろと転がしながら接近し、手頃な場所の手頃な小山を探し始めた。そして適当な山を見つけて必殺の大岩を持ち上げにかかるので、反乱勢の命運はすでに尽きたも同然となる。
 だが姫君は最終兵器の弱点を知っていた。無敵の大岩ではあったが、その一点には中心に達する穴があり、そこへ槍を差し込めば岩は粉々に砕けるという。それを聞いた反乱勢の勇者たちは槍を手に手に出撃し、密輸業者は報償を手に立ち去っていく。姫君を助けた若者は叛徒の槍を与えられて反撃の波に加わった。
 戦いは熾烈をきわめた。反乱勢の兵士たちは帝国の兵士たちと剣を交え、防御線を突破した勇者たちは転がってくる大岩の前へ飛び出していった。回転する一点を狙って槍を構え、もう少しだの一言を最後に次々と潰されていく。やがて残るのは若者と、その背後を守る数人となった。若者は勇気を奮って転がる岩の前へ飛び出し、槍を上げて一点を狙う。そこへ黒騎士が突進する。黒騎士が若者の首を刎ねようとした時、太陽を背にして立ち現れた密輸業者が黒騎士を彼方へ弾き飛ばした。若者は握った槍を大きく構え、目を閉じると勘を頼りに一点を突く。ここまでも偶然に多くを頼ってきたわけだから、これは当然の展開であろう。国をも潰す大岩は弱点を打たれて見事に砕け、飛び散った破片は帝国の軍勢をなぎ倒した。
 子細は省くがこの後で帝国は逆襲に乗り出し、反乱勢を本拠に捉えて壊滅的な打撃を与える。密輸業者は姫君と恋に落ちるが賞金稼ぎの手にも落ちて汚穢の底に固められ、姫君はまたしても捕われの身となって憐れにも奴隷に身を落とす。若者は再び登場した黒騎士から新事実を告げられて心に大きな痛手を負い、多くの者の運命を散らかしたまま結末は続編に持ち込まれる。



動員の原理


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。同じ理由で歴史からも黙殺を受け、足跡を残す機会を失って時の流れの彼方に置き去りにされた。地図製作者たちや案内書の執筆者たちの怠慢はともかくとしても、歴史学者たちの不見識は犯罪として糾弾されるべきであろう。なぜならばその国で、人類は最初の市民革命を経験していたからである。
 今となっては名も知られていないその国は、古来より一人の王によって統治されていた。歴代の王はいずれも輝くばかり美貌を誇り、国民は王の美貌に目がくらんで理性の光を見失った。言われるままに税を支払い、時には過酷な労役に服し、戦となれば兵士となって王のために命を捧げた。王は国民の父であったし母でもあった。夫でもあったし妻でもあった。加えて息子や娘であることもあったが、何よりも国民の恋人であり、道徳を超越した姦通の神なのであった。王族がそのまま美貌の血統を保っていたならば、この野蛮な熱狂に終わりがくることもなかったであろう。
 最後の王は美貌ではなかった。醜いというわけでもなかったようだが、いささか好みの分かれるところであったのは間違いない。
 王が即位すると同時に国民は二手に分かれて争いを始めた。少数の一派は王に対して忠誠を誓い、多数を占める一派は夢から覚めたように自由を叫んで王制の廃止を要求した。少数派が武器を集めて王宮にこもれば多数派は数を頼みに王宮を取り巻く。すっかり取り巻いてもなお余ったので、多数派の残余は憲法制定会議を開いて人権の確立を急ごうとした。蘇った理性の光が自然の状態に置かれた人間の姿を照らし出し、万民の平等を告げたのである。会議の場では激しい議論が戦わされ、議論の結果に基づいて速やかに世論が形成されていった。新聞が発行され、識字率向上のための教育問題が討議され、茶を出す店が町に並んだ。裏切り者が告発されて死刑に処され、早くも外国の陰謀が囁かれる。主権はすでに国民に移り、会議場に集まった多数派は全会一致で過去の遺物の清算を決めた。国民義勇軍は王宮に向かって進撃を開始し、理性に見放された少数派はたちまちのうちに算を乱して逃走する。王はわずかな手勢とともに隣国へ逃れ、隣国の王を動かして報復しようとたくらんだ。疫病のような力を持った悪しき理性が蔓延すれば、いずれここも無事ではなくなる。そのように言って脅したので、隣国の王は心を動かされて腰を上げた。
 警鐘が全国で鳴り響いた。隣国からの侵略に備えて、各地で義勇軍の募集が始まった。装備はないに等しく烏合の衆も同然であったが、士気だけは高い。祖国という言葉が発明され、祖国を守るために隣国へ攻め込むことにした。そしてまさにそうすると敵軍は予期しない攻撃に驚いて潰走し、味方は歌声も高らかに凱旋を果たす。我が祖国は無敵であると、誰もが確信した。王の反撃は失敗に終わった。理性の共和国が誕生した。選挙がおこなわれて議員が選ばれ、議会が開かれて新しい閣僚が選ばれた。そして政府は次なる王の反撃に備えてすぐさま準備に取りかかった。
 ところが反撃の第二弾はなかったのである。隣国に逃れた王はそこで不遇のまま生涯を終えた。隣国は敗北の屈辱を晴らそうと度々侵略をくわだてたが、敗北の記憶が枷となって実際に国境を越えることは一度もなかった。しかしながら隣国の威嚇的な行動は、無敵の共和国の国民を怒らせるのに十分であった。世論に押されて招集された議会は宣戦布告の決議をおこない、ただし理性が曇っていない証拠として、これは侵略ではなく予防的な措置であるとの説明を加えた。
 政府はただちに動員令を発動した。これこそが王の反撃に備えて整えた準備の成果にほかならない。万民平等の原則に基づいて、大胆な国家総動員体制を整備していたのである。当初の計画では兵役該当者の三分の一に動員をかけ、国境線に沿って展開を進めながら威力偵察を繰り返して隣国の反応を見るということになっていた。
 ところがいつまで待っても動員が終わったという報告がない。不安を覚えて調べてみると、計画された動員はすでに完了していることが判明した。続く三分の一も間もなく完了する予定であり、残る三分の一も速やかに動員されつつあった。平等の原則が限定された動員を拒んだのである。
 一方、隣国は共和国側の動員状況をただちに察知し、同じように動員令を発令した。市民革命にはまだ遠い段階にあったが、祖国という単語と動員体制は都合よく輸入していたのであった。周辺諸国にも声をかけて同盟を結び、共和国を撃退すべくそろって強固な防衛線を整えた。
 やがて戦端が開かれ、共和国の兵士たちは平等の原則にしたがって死んでいった。勝利はどこにも見えなかったが、共和国は惜しまずに兵士を投入していった。王の時代に魂は財であったが、理性の時代にあっては一枚の書類に過ぎなかったからである。兵役該当者が拡大され、老人やこどもが動員の対象となっていった。男たちが死に絶えると、女たちが戦場へ向かった。そして女たちが死に絶えた後、共和国には閣僚と議員だけが残された。残された者は議会に集って理性の敗北を宣言し、王たちの連合は軍勢を進めて光を失ったその国を荒野に変えた。歴史はこの事実を記していないので、多くの者が学ぶ機会を逸して革命の後に悲劇を演ずる。



内戦の惨禍


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。知られることの少ないその国では古くに内戦が起こり、国を二分した争いは数世代にわたって続けられたという。ことの起こりは定かではないが、もっぱらの噂によるならば民族間の対立に原因があった。
 その国の北半分には、白首族と呼ばれる人々が暮らしていた。そして南半分には、赤首族と呼ばれる人々が暮らしていた。
 白首族は平和を愛する人々で、小さな家を花で飾り、家の戸口は色付きの玉を使ったすだれで飾り、緩やかな衣服を身にまとって部屋には香を焚き込めていた。自足を目指して昼の間はのんびりと働き、夜には草を燃やして煙を吸った。平和を愛してはいたが男女の交わりには慎みがなく、ただし生まれてきた子には分け隔てなく愛を与えた。皆で野原に集まって、鳩を空へ逃がすということもよくやった。逃がすための鳩はあらかじめ赤首族の猟師から買っておく。そうすれば手を汚さずに済んだからである。
 赤首族は飲酒を愛する人々で、小さな家で酒を造り、家の戸口は近づく余所者を拒んで頑固に固め、汚れた衣服を身にまとって部屋には悪臭をこもらせていた。自足を目指して昼の間はのんびりと働き、夜には集まって大酒を喰らった。酒を愛してはいたが、一方では高度なガラス製造技術を備え、工房では大量のガラスの瓶が作られていた。輸出していれば莫大な収入をもたらしたことは間違いないが、赤首族はガラスの瓶に酒を詰め、酒を飲み干してしまうと空き瓶を木に投げつけて割って喜んでいた。
 白首族と赤首族の対立がどのようにして始まったのかは知られていない。白首族は煙を吸い込むと記憶の大半を失ってしまうし、赤首族は酒浸りなのでそもそも何も覚えていない。それでも双方の部族に残されていたわずかな記憶を総合すると、先に手を出したのは赤首族の方であった。
 ある時、白首族の遠縁にあたる二人の若者が奇妙な格好の動物にまたがり、この動物は鹿であったとされているが、遠国からその国を訪れると近道をするために赤首族の居住地を通り抜けようとした。赤首族は見慣れぬ動物に恐怖を感じ、二人の若者にも不信感を抱いたので、襲いかかって殺してしまった。そしてそれで勢いをつけた赤首族は白首族の居住地に攻撃を加え、長く続く因縁の発端を作ったという。
 争いは数世代にわたったが、主導権は常に赤首族の側にあった。戦いの火蓋は赤首族の酔った勢いによって切られていたからである。勝利も常に赤首族の側にあった。赤首族が得物を手に手に襲いかかると、白首族は一輪の花を手にして立ち向かったからである。にもかかわらず決着がつくことがなかったのは、戦いの途中で赤首族の男たちが次々に戦線を離脱し、家に帰って寝てしまったからだとされている。だが、いずれにしても白首族に分がないのは明らかであった。
 さて、内戦の末期のことである。白首族の族長が病に倒れ、青痣という名の若者が新しい族長に選ばれた。それまでの族長は歩く時に左へ左へと傾ぐ傾向があったが、青痣に限っては不思議なことに右へ右へと傾く傾向があったという。青痣は族長となるや否や、それまでの赤首族への対応を敗北主義と呼んで糾弾し、これからは新しい方法を導入すると宣言した。早速、力の強い者を三人選んで赤首族の居住地に送り、一方では残った者たちに戦いの方法を伝授した。送り出された三人が赤首族の一人を捕えて戻ると、青痣は皆を集めて実験を始めた。
 白首族の者たちは男も女も肩を並べて車座となり、手首を縛られた赤首族の男は車座の中心となる広い円の中へ放り込まれた。赤首族の男は赤い目を剥いて唸りを上げる。そこへ青痣は足早に近づき、男に向かってこのように言った。
「話せ」
 赤首族の男は唾液を飛ばし、青痣を口汚く罵った。青痣は素早く退き、それと同時に白首族の男や女が赤首族の男に小石や腐った食べ物を投げつけた。
「話せ」
 青痣が再び命じると、まわりの者たちも声をあわせた。
「話せ」
「畜生めが」
 罵りを返した赤首族の男のからだに、またしても石や食べ物が降り注いだ。
「包み隠さずに言ってしまえ」
 青痣がそう叫んで詰め寄ると、いくつかの小石が四方から飛んだ。そのうちの一つが赤首族の男の額に命中し、切れた皮膚の下から血が滴った。赤首族の男は血を見て脅え、身を縮めながらこのように言った。
「わかった」
 だがそこへも小石の雨が降り注ぐ。
「わかったって言ってんだろ」
 小石の代わりに罵声が飛んだ。白首族は男も女も口を開いて、赤首族の男に罵りの言葉を浴びせかけた。赤首族の男はいよいよ脅え、青痣にすがるような目を向けてこのように言った。
「だから話す。話すってば」
 ところが青痣は赤首族の男に背を向けた。
「こいつに話ができると思うか?」
 一族の者にそうたずねると、一族の者は声をあわせてこう答えた。
「できるもんか」
 それからまた罵声を浴びせかけたので、赤首族の男は降伏した。
「わかった。降参だ」
 すると青痣は赤首族の男の胸倉を掴み、荒々しく揺さぶりながら顔を近づけてこのように言った。
「そうなのか? 降参なのか? おまえはそれでおしまいなのか? それでおまえは満足なのか? おまえには言うべきことがあるはずだ。胸に秘め隠している魂の叫びがあるはずだ。我々が聞きたいのはおまえの魂の叫びなんだ。話すのはおまえじゃない。おまえの心なんだよ。心を開け。内なる叫びをその間抜けな半開きの口から出してみろ」
 一気に言って、赤首族の男を激しく地面に打ち据えた。
「わからねえ」
 赤首族の男がそう呟くと、青痣はまた胸倉を掴んでこう続けた。
「大酒飲みのうすのろめ。これはおまえの問題なんだ。おまえの魂の問題なんだ。目を閉じて自分の心に触れてみろ。できないなんてはずはない。できないならおまえはとんだ屑野郎だ。見下げ果てた屑野郎だ。どうだ、言われるままで悔しくはないのか。悔しいだろう。涙なんか流すんじゃない。悔しいならやってみろ、やってみるんだ、屑野郎」
 青痣が言葉を切ると、赤首族の男はふらふらと立ち上がった。なんとかして逃げ出そうと試みるが、密集する敵の間に退路はない。円陣の中を右へ左へと闇雲に走り、その後を青痣が追って心を開けと拳を上げる。逃げる先では男や女が赤い口を開いて思いつく限りの罵声を浴びせた。
 実験は日暮れに始まり、夜を徹して続けられた。東の空が白む頃には赤首族の男は半狂乱の有様となり、わけのわからぬ叫びを放つと遂に地面に突っ伏した。倒れたところへ青痣が寄り、助け起こすとこのように言った。
「もう大丈夫だ。君はよく頑張った」
「みんなが俺を苛めるんだ」
「そんなことはない。ほら、この拍手を聞いてごらん」
 頭を上げて耳を澄ますと、まわりから大きな拍手の音が聞こえてきた。歓声も聞こえた。白首族の男や女が笑みを浮かべ、手を叩いて赤首族の男を称えていた。青痣は赤首族の男を抱き締めて、優しい声でこのように言った。
「よくやった。本当によくやった」
 赤首族の男は目に涙を浮かべて、青痣の腕にしがみついた。
「離さないでくれ。俺を離さないでくれ」
「大丈夫だ。わたしはずっとここにいる」
「俺も、俺も、ここにずっといたい」
「君はずっとここにいていいんだよ」
 青痣はこの方法を使って赤首族の一人ひとりを懐柔し、白首族を勝利に導くつもりであったとされている。右に振れて敗北主義からの脱皮を目指したものの、平和主義の一線を越えることはできなかったのであろう。危険を察知した赤首族は早朝の時間帯を選んでしらふの者を駆り集め、白首族の村を急襲した。その最後の戦いで内戦は終わり、白首族は国に居場所を失った。ただ白首族の村は今も残り、無人となった家の戸口に下がる壊れたすだれが内戦の惨禍を伝えている。



人間の運命


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。仮に誰かが載せるつもりになったとしても、その国は名前を持たなかった。不明の時代であっただけに名のない国は珍しくはなかったが、その国の場合は国に名がなかっただけではなく、住民の一人ひとりもそれぞれの名前を持たなかった。国を示す時にはただ国と言い、ひとを示す時にはただひとと言い、互いを呼ぶ時にはあなたと言っていた。自分を示す時に人差指の先を唇にあてたが、これは元来、空腹を意味する仕草であった。
 食べ物はいつでも不足していた。国土は砂に覆われていて、層を重ねる砂の山は太陽の光に焼かれていた。人々は光と熱を嫌って地下に逃れ、穴を穴でつないで暮らしていた。昼の間はからだを丸めてひたすらに眠り、夜になると起き出してきて、食べ物を求めて地上をさまよった。砂漠には砂漠の営みがあり、注意深く探していれば虫や獣にまれに出会った。ある者は一人で虫を探し、ある者は仲間とともに獣を探した。大きな獲物を得るために、いくらかの者は遠くへ足を運んだ。獲物は穴をくぐって国の奥へと運ばれていく。新鮮な獲物は狩人の口には入らなかった。夜明けを前に穴へ戻ると、わずかな食物の配給があった。配られた食物からはいつも悪臭が漂ったが、狩人たちは貪るように口に入れ、自分の寝穴へ戻ってからだを丸めた。
 一つの寝穴は一人のために作られていた。幼い頃に与えられた小さな穴を、成長にあわせて自分で大きくしていった。生涯の眠りをそこで費やし、死を迎えると穴は土で埋め戻された。遺体は国の奥へと運ばれていく。死とは空腹の終わりであり、死にはいかなる悲しみもない。悲しみは人生の内にあった。
 名を持たない人々には家族がなかった。男や女という考えもなかった。全土が地底の闇に飲まれていたので、何事につけ見分けるということが難しかった。ひとはひとではあったが、他者という以上の意味はなかった。自分が自分であるためには、ただ唇に指をあてればことが足りた。自分の存在と自分の欲望はたったそれだけで説明できた。不幸なことに、ほかに説明すべきことが何もなかった。欲望を縛られていたので愛について知ることもなかった。世界に関心を抱くこともなく、生まれ落ちてきたその日には、幼い指で自分の寝穴を広げていた。そしてある時、そうして広げられた寝穴の一つで一人が目覚め、悲しみとともに闇を見つめた。
 その一人は男でもあり、女でもあった。幼子ではなかったが、老人でもなかった。その者は狩人であった。一夜を費やして一匹の獲物を捕えていたが、一夜を無為に終わらせた者と同じだけの食べ物を受け取っていた。全員が同じ量を得るのは弱い者をかばうためではない。見分けることができなかったからである。
 狩人は一匹の獲物を得るために、砂漠を歩き回らなければならなかった。獣を見つけた後は、走らなければならなかった。どうにか捕えた後には、また穴まで戻らなければならなかった。それだけの仕事に対して、与えられた食料はあまりにも少なかった。狩人は養分の補給を必要としていた。激しい空腹を感じて目を覚まし、悲しみとともに闇を見つめた。見つめている間に空腹が欲望を突き動かし、狩人はからだを起こして穴を出た。
 国の奥には食料の貯えがあるはずだった。そこへ行けば、自分を満たすことができるかもしれない。そう考えて、闇の中を歩き始めた。穴の壁を手で探り、隠された目印を探しながら国の奥へと進んでいった。そうしながら狩人は心を奮わせていた。思いついたばかりの自分を満たすという考えに、恐怖と期待を感じていた。満たされない者が自分なら、満たされた自分は何者なのか。その者もまた自分なのか、それとも違う者なのか。違うとすれば、自分はいったいどうなるのか。
 それまで、時の流れは闇の底に沈んでいた。起点に小さな穴があり、終点には埋め戻された穴があることは知っていたが、その間には満たされぬ思いが淡々と並んでいるだけだった。そのどれがどれなのか、どれが前で、どれが後なのか、闇の底にいた狩人には区別をつけることができなかった。だがたった一つの考えを抱いただけで、狩人の前にいきなり未来が広がった。泡立つ時間の流れに手を差し入れて、手応えをはっきりと感じていた。そしてその感触に恐怖を味わい、人生の選択という未知の行為に激しく胸を高鳴らせた。なぜ今まで考えなかったのか、なぜ今までそうしなかったのか。疑問が浮かんでは恐怖に洗われ、渦巻く恐怖は未知への期待に飲み込まれた。狩人は道を選んで闇の中をなおも進み、次第に国の奥へと近づいていった。
 食べ物の悪臭が漂ってきた。空気は湿り気を増し、地面は水を吸っていた。前へ出ると食べ物の臭いが濃厚になった。気配を探して鼻を動かし、ひざまずいて手で探った。空気のかすかな流れが、道の続きを狩人に教えた。湿った地面を踏みながら、足音を忍ばせて奥へ進んだ。壁は濡れ、天井からは水が滴り落ちていた。
 やがて音が聞こえてきた。それは食べ物を咀嚼する音だった。別の音も聞こえてきた。それは水の跳ねる音だった。狩人は壁から手を離し、鼻を動かしながら闇の奥へ進んでいった。手が何かに触れた。暖かくて、粘りのある液体に包まれていた。狩人は液体の臭いを嗅いだ。食べ物の臭いがした。舌で舐め取った。食べ物の味がした。力強い咀嚼の音が続いていた。口は唾液で満たされ、胸はたまらない気持ちで一杯になって、狩人はその場に座り込んで手を伸ばした。最初に触れた物をまず転がした。それは小さかった。持ち上げて臭いを嗅ぎ、食べ物の臭いであることを確かめてから顎を開いて歯を立てた。口の中に血が溢れた。それは悲鳴を上げていた。狩人は血を吸い、肉をしゃぶった。一つを平らげ、また一つに手を伸ばした。それは大きかった。転がそうとしても動かなかった。だから狩人は爪を立てて皮を破ろうとした。すると聞こえていた咀嚼の音が消え、代わって恐ろしい絶叫が上がった。狩人は手を止めた。
 叫んでいたのはひとであった。狩人は立ち上がった。背後の道に足音が響き、振り返ると光の影が踊るのが見える。間もなく数人が松明を手にして現われて、狩人を囲むようにして近づきながら揺れ動く炎で闇を照らした。
 叫んでいたのは大きなひとであった。見上げるほどの巨体を地に横たえて、いくつもの子宮を腹からぶら下げていた。その半透明の膜の下にはひとの子がいて、どれもがからだを丸めて眠っていた。一つが動いて、膜の中を落ちていった。子宮からつながる管を通って産み落とされ、粘る液体にまみれて湿った地面に転がった。大きなひとは叫ぶのをやめて、獣の肉にしゃぶりついた。痛みのことはもう覚えていない。
 松明を持つ者が、狩人の足元を指差していた。狩人の足元には残骸があった。別の者が狩人を指差し、罪を問うた。狩人は自分を指差し、人差指を唇にあてたが、その意味するところは最早わからなくなっていた。




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