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死後の評判


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。ところが世の中には地図の裏や案内書の行間を読む技術に長けたひとがいて、そうしたひとは誰にも知られていない国の場所を目敏く見つけて、いつの間にかその地を訪れているのである。
 それは不明の場所にある無名の国であったが、外界においてもそうであるのと同様に、その国の人々にとってもまた不明の場所にある無名の国なのであった。他国との交流を持つことがなかったので地理上の位置関係を気にかける必要がなかったし、同じ理由から国に名前を与えたり、国の名前や国土に精神的な意味を与えて国威を発揚する必要も感じなかった。そうした余計な気苦労から解放されていたので、その国の人々は余った力を個人の評判に振り向けることができた。実際のところ、自分の評判が気になってならなかったし、他人がいかなる評判を得るかも心を悩ます問題となった。自分の評判は上げなければならなかったし、他人の評判は下げなければならなかった。そうしなければならなかったのは相対主義が蔓延していたからであり、だから評判の総量は決められていて、それをいかに配分するかが最大の懸案なのであった。
 もっとも多くの評判を勝ち得た者は、評判持ちと呼ばれた。そして多くの評判持ちは評判を得た人間の常として評判の不滅を望み、自らの評判を死後の世界に持ち去ろうと考えた。そのために巨大な墓所を造り、そこに保有する評判の量を記したのである。一方、残された者は手段を選ばずに死者から評判を奪おうとした。評判の総量は定められていたからであり、一部があの世に持ち去られれば、必然的にこの世の評判は減ることになったからである。
 葬儀そのものはしめやかにおこなわれたが、後にはいつも見苦しい光景が展開した。葬儀に参列した遺族や故人の友人知人、さらにはたまたま近くを通りかかった者までが口々に故人を罵り、その評判を貶めたからである。いかに墓所が巨大であっても、そこに記された評判の量が膨大であっても、現世における現状が優先されるとの原則があった。この原則によって死者の評判は速やかに落とされ、地上に残された者たちは評判を上げた。これが千年も続いてきた習慣であった。変わることは決してないと信じられていたが、ある時、恐るべき事件が起こってその国の人々を震撼させた。
 とある評判持ちが死に、例によって葬儀の後には評判落としの儀式がおこなわれた。これによって故人の評判は地に墮ちたものと、誰もが信じた。ところがいくらもしないで、故人の評判がまったく変わっていないことに気がついたのである。遺族や友人知人、そしてたまたま通りかかった者たちは事実を知って慌てふためいた。それでは残された者の評判はどうなるのか。地上の評判はあの世に持ち去られてしまったのか。慌てているうちに新たな事実も判明した。なぜだかわからないものの、故人の評判が生前よりも上がっているようなのであった。それと同時に遺族や友人知人、たまたま通りかかった者たちの評判は、どうやら下がっているようなのであった。だが全員が同じように下がっていたのではなく、ひどく下がった者もいれば少し下がった者もいたし、中にはまったく下がっていない者もいた。残された者の間に疑心がはびこり、競って互いを罵ったので、まったく下がっていなかった者も次第に評判を落としていった。
 さて、遺族の中には一人の賢明な青年がいて、墓所を見張っていれば何かしらの真相を掴めるのではないかと考えた。そして考えたとおりに見張っていると、案の定、現われたのである。夜半を過ぎた頃、墓所から亡霊が姿を現わした。左右の様子をしきりとうかがいながら顔を出し、物音を聞くと物陰に隠れ、ひとの目を忍んで評判をかばい、物陰から物陰へと伝って町の中へ入っていった。青年もまた左右の様子をうかがいながら後を追った。亡霊は一軒の家にもぐり込み、そこは故人の知人の家であったが、間もなくまた姿を現わすと別の家へ近づいていった。そこは青年の家であった。亡霊が家にもぐり込んでいくので、青年は後を追って家に入った。中では家族がそろって床に就いている。亡霊は青年の父親の上に身を屈めていた。首筋に口を近づけ、尖った牙を剥き出しにしていた。これを見て青年は理解した。なんと亡霊は、方法こそは定かではないが、遺族や友人知人、そしてたまたま通りかかった者たちから評判を吸い取っていたのであった。青年は大声を出して家族を起こし、全員で取り囲んで亡霊を罵った。亡霊は罵倒に負けて評判を落とし、残された者は朝を待って墓所の入り口を封印した。出入り口以外の場所から出入りすれば、評判を落とすのは必定とされていたからである。
 亡霊が落とした評判は青年が拾い、その後も賢明さによって多大の評判を獲得すると、死に先立って大きな墓所を建立した。



彗星の季節


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。国の名前すらも伝わっていないが、多くの者が遠くから見て知っていた。
 その国は高い山の上にあった。針のように尖った山の頂きのすぐ下に、まるで小石を積むようにして小さな家々を積み上げていた。空中にはみ出している家もいくらかあって、いつ崩れ落ちても不思議がないような危うさを感じさせたが、日々の観察を続けた者は、崩れたことは一度もないと伝えている。天気がよくて空気がよく澄んだ日には、山上で動き回るひとの姿を見ることができた。先を針のように尖らせたつばひろの帽子をかぶった人影が、白い壁を伝い、黒い屋根を伝い、曲芸のようにあちらからこちらへと飛び跳ねる様子には誰もが驚嘆したという。
 多くの者が見て知っていたが、そこまで訪ねていった者は一人もなかった。道が通じていなかったからである。仮にあったとしてほとんど垂直の道になったし、切り立った山肌はところどころでえぐれていた。だから多くの者が、山を見上げて疑問を抱いた。
 あそこにいるあの人々は、どのようにしてあそこに行き着いたのか?
 またどのようにして家を建て、いったい何を糧に暮らしているのか?
 山に暮らす人々が、地上に降りてきたことは一度もない。疑問はいつまでも疑問にとどまり、たまに膨らむ空想だけが疑問にわずかな手がかりを与えた。
 魔法使いの国だと言う者がいた。空からやってきた人々だと言う者もいた。雲を食べているのだと考えた者もいたし、見下ろすことが好きなのだと考えた者もいた。だが見上げて観察している限りでは、山の人々はいつも忙しそうに働いていて、地上を見ている暇などありそうもなかった。
 わかっていることは一つしかない。
 年に一度、月のない五月の晩に、小さな彗星が群れをなして現われた。きらめく光のしずくを後にしたがえ、光の帯を幾重にも重ね、数えきれないほどの彗星が空を横切り、山を目指して飛んでいった。群れが近づくにつれて山の上は昼のように明るくなり、つばひろの帽子をかぶった人々は夜を背にして影を並べ、尖った山の頂きに登った。そして針のような場所に鈴なりとなって、腕を大きく広げて彗星を迎えた。光を散らす小天体は輝く弧を描いて山をまわり、自在に駆けめぐっていくつもの弧を重ね合わせた。時にはひとの姿を背に乗せて、空をめぐってまた戻った。山の頂きは光に埋もれ、光の影がまばゆく輝く大きな玉を空に描いた。風があれば、山の人々の喜びが声となってかすかに聞こえた。小彗星は明け方近くまで山をめぐり、やがて空の彼方へと飛び去っていった。最後の彗星が夜空に去ると山の上には闇が戻り、山の人々の姿を包み隠した。
 彗星の群れが現われる晩には、多くの者が山を見上げた。そうするものだと親が子に伝え、子はその子に伝えて多くの者が世代を重ねた。五月の晩の彗星は、永遠不変だと多くの者が信じていた。
 だがある年、彗星が姿を現わさなかった。そしてその翌年も、その次の年も、彗星はやってこなかった。遠目に見る山の人々の生活に、格別の変化を見た者はない。続く年にも彗星の来訪はなく、地上で暮らす人々は五月の晩のことを忘れ始めた。彗星が消えて四年目になり、目のよい者が空気の澄んだよく晴れた日に、山の人々が腕組みをしてうなだれているのを目撃した。
 そして五年目が訪れ、月のない五月の晩がやってきた。多くの者は家に残り、わずかな者が山を見上げていた。そのうちに空の一点に光が現われた。光はすぐに大きくなり、たった一つの巨大な彗星となり、長大な尾を引いて山を目指して進んでいった。彗星の光が山を照らし、頂きに群がる山の人々の姿を浮き上がらせた。見上げていた者たちは恐怖を覚えた。彗星はあまりにも大きかった。まばゆい光は凶暴に見えた。山に激突するのではないかと考えた。山の上ではつばひろ帽子の人々が、腕を大きく広げて彗星を迎えた。
 彗星は山にぶつからなかった。わずかにかすめるようにして、一直線に飛び去っていった。山をめぐることもしなければ、山の頂きを光で包むこともしなかった。
 陽が昇った後、目のよい者が山を見上げた。よく晴れた日で、空気は澄みきっていた。針のように尖った山の頂きのすぐ下では、小さな家々が積み上げた小石のように重なっていた。いつもどおりならば小さな家から小さな家へと、白い壁を伝い黒い屋根を伝い、針のように先を尖らせたつばひろの帽子の人々が曲芸師のように飛び跳ねていくのが見えるはずだった。ところが見える人影は一つもない。日を改めて見上げても、山の人々の姿はどこにもなかった。首を傾げてまた日を改め、晴れの日を待って見上げることを繰り返したが、山の人々の姿を再び見ることは遂になかった。見上げていた者たちは疑問を抱いた。
 あそこにいたあの人々はどこへ消えてしまったのか?
 何があったのか? 人々はいつかは戻ってくるのか?
 答えを与える者はどこにもない。疑問はいつまでも疑問にとどまり、たまに膨らむ空想だけが疑問にわずかな手がかりを与えた。



絶対の危機


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。実際のところ、その国の存在が一般に知られた時には、すでに滅んでから久しかった。
 その国は肥沃な土地に恵まれていて、多くの者が農業をおこなった。人々は労を惜しまずに働いたので収穫にも恵まれ、また牧畜をおこなう者もいたことから、多様な食品を得ることができた。外部との連絡は乏しくてほとんど孤立の状態にあったが、国内は常に平和で住民はよく食べてよく太り、すこぶる満ちたりた状態にあったのである。
 ある朝、一人の太った農夫が犬を供に森へ入っていった。実は前の晩に、農夫は自宅の窓から空を斜めに横切る怪しい光を目撃していた。その光は最後に森へ落ちたので、正体を確かめようと考えたのであった。
 森へ分け入ってみると、そこでは大木が右や左に傾いで煙を放ち、枝に炎をまとわせていた。地表は黒く焼けただれ、鋭くえぐり取られたような深い溝が森のさらに奥へと延びていた。農夫は尋常ならざる気配を感じ、犬は不安に鼻を鳴らした。それでも農夫は尻尾を丸める犬を急かし、溝に沿って森の奥へと足を進めた。溝が終わる場所では地面に大きな穴が開き、そのまわりには跳ね飛ばされた土が高く盛り上がっていた。農夫は犬を手近の木につなぎ、一人で穴の中を覗き込んだ。その底では真っ赤に焼けた球形の物体が地面に半ば埋もれていた。その大きさは農夫の頭ほどもない。農夫は顔に、球体から放たれる熱を感じた。そして鼻に、得体の知れない悪臭を感じた。
 見ることはしたし嗅ぐこともしたので、次は触ってみようと農夫は考えた。そこで枯れ枝を一本手に取ると、その先端を前に差し出して球形の物体を軽く突いた。意外なほどに重いと感じた。二度三度と突くと、球形の物体の一部が割れた。そして中から粘性を持った泥のような物体がこぼれ出てきてどろりと広がった。それも真っ赤な色をしていた。農夫は手順を変えて、臭いを嗅ぐのに先立ってその物体を棒でつついた。するとそれはすがるように動いて枝の先端を粘膜で覆い、唐突に動いて枝の半ばまでを一瞬で包んだ。農夫は危険を感じたが、枝から手を放す前にそれはもう腕を飲み込んでいた。
 農夫は悲鳴を上げて、その場から逃れようとした。飼い主の最後の義務として吠え続ける犬を木から解き、よろめく足で家を目指して歩き始めた。そうする間にも粘り付く真っ赤な物体は腕を白骨に変えて肩に登り、胴を狙って短い触手を繰り出していた。
 子細は省くが農夫は途中で力尽きて道に倒れ、逢引の最中であった十代の男女に救われる。若者たちは農夫を医師の元へ運び込むが、農夫は全身を食われてすでに息絶えていた。物体は急激に成長して医師を食らい、逃げる男女を追って町へ出る。阿鼻叫喚の騒ぎが起こり、人々はてんでに逃げ惑った。だが怪物の触手は人間よりも早く動き、いかなる標的も素早く捕えた。老若男女を選ばずに襲って半透明の胃の腑に収め、間もなく家ほどの大きさに成長した。平和な国のささやかな軍隊が出動したが、これも片端から食われて消えた。そのまま放置しておけば国が滅びるのは明らかであった。しかしこの時、農夫を救った若者が妙案を思いついて皆に告げた。水に近い物体なのだから、凍りつくまで冷やせばよいと言ったのである。だが季節は夏であり、この時代には冷凍装置などという便利な物は存在しない。妙案ではあったが役には立たず、最後には全員が空しく化け物の餌食となり果てた。家畜も食われ、倉庫に貯め込まれた食料も食われ、怪物は山ほどの大きさに育って国を覆った。そして遂に食べる物が何もなくなった後、飢えて死んで干涸びた。その残骸は今もそこにあり、旅行者の通行の障害となっている。



蒼白の怪人


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国の人々はいささか奇怪な習慣に染まっていたとされているが、それがいかなる習慣であったかは知られていない。僻遠の地にあって四周を険しい山に囲まれ、不埒な天然の要害が観察者の訪問を阻んでいたからである。
 その国の住民が国外に出ることは滅多になかった。山国特有の排他的で陰気な気性が、自国での充足を促したのであろう。それならば勝手に充足していればよいものを、不思議なことにある時、外国への移住を試みた者がいる。これは例外的な向上心の発露であると見なされているが、もし移住に成功していれば、観察者は素晴らしい機会を得ることができたであろう。奇怪な習慣の正体が明かされ、有益な論文が発表されたに違いない。残念ながら、この試みは失敗に終わった。
 移住を決意したその人物は、住み着く先として名高い大国の首都を選んだ。まず物件情報を調べる必要があると考え、不動産屋に宛てて手紙を送った。田舎者扱いされないように、高価な物件を要求したことは言うまでもない。するといかなる忍耐で山を越えたのか、不動産屋当人が資料を携えて到着し、いくつもの魅惑的な物件を紹介した。だがその国のその人物の目には、物件よりも不動産屋の方が遥かに魅惑的に見えたようだ。不思議な手管を弄して堕落させた。移住を決意したところまではよかったが、この人物には結果を考えずに行動する傾向があった。合法性への関心も欠いていて、不動産屋を堕落させて契約をないがしろにし、旅券も持たずに国を出て、密入国を果たすと無人の屋敷を不法に占拠した。近所へ挨拶回りをするでもない。それどころか夜陰に乗じて他人の屋敷に侵入し、未婚の女性に襲いかかった。これでは同国人であっても、とうてい許しは得られない。外国人ともなればなおさらである。奇跡の生還を果たした不動産屋とその婚約者、襲われた女性の求婚者たちが一斉に復讐に立ち上がり、この人物を故郷の国へ追い詰めて無法の所業に終止符を打った。
 さて、それからかなりの年月を経て、一人の男が危険を冒して山を越え、地図にないその国を訪れた。山の端にかかる夕陽を浴びて道を下り、黄昏のはかない光の中で彼方に横たわる町を眺めた。いびつに階を重ねる家々が肩を並べて谷底の土地に密集する。陽が落ちると同時に町の姿は闇に沈んだ。見られまいとでもするかのように、暗がりの底に身を隠した。男もまた漆黒の闇に包まれて視界を奪われ、そこから先は手探りで進んだ。土くれに手を汚して這うように進み、指先で石畳に触れて町に着いたことに気がついた。町にひとの住む気配はない。探りあてた扉はどれも固く閉ざされていた。明かりの漏れる窓はどこにもない。男は暗闇の中で吐息を漏らした。
 しばらくすると月が昇った。月の光が歪んだ建物を青白く照らし、町の気配をいよいよ彼岸へと押しやっていく。男は扉の一つひとつを改めながら、道を奥へと進んでいった。居酒屋の看板を目敏く見つけて、閉ざされた扉に耳を押しつけた。ざわめくひとの声が聞こえてきた。それは居酒屋の喧騒であった。そこで扉を開けようとすると、扉の方がひとりでに動いて男を中へ招き入れた。
 扉越しに聞いた喧騒に反して、中には一人の客しかいなかった。小さな卓に頬杖を突き、空のグラスを見下ろしていた。振り返ると、扉が勝手に閉まるのが見えた。
 あんただけなのかい?
 男は客に話しかけた。
 さっきまでは皆いたんだが。
 そう言ってたった一人の客が顔を上げた。その顔面は蒼白であった。それは死人の顔であった。唇までが蒼ざめ、目は灰色に塗り潰されていた。若者の顔の形をしていたが、命の気配はどこにもなかった。
 顔色がすぐれないようだが、飲み過ぎかな?
 だとしたら、飲み過ぎかもしれないな。
 客は顔をうつむけて、空のグラスを握り締めた。男は店の中を見回して、妙なことに気がついた。店の者がいないのである。
 店の主人は、いないのかな?
 すると客がまた顔を上げた。男を見てから奥を見やり、それから腰を上げてこのように言った。
 いないようだ。呼んでくるとしよう。
 客は店の奥へ姿を消した。代わって前掛けをつけた店の主人が現われたが、その姿形は客と寸分違わない。服が異なっていただけであった。
 今のやつは、どうしたんだ?
 今の、というと?
 あんたを呼びにいったやつだよ。
 いや、そんなひとは来なかったね。
 そうかい。だったら気にしないでくれ。一杯飲めればそれでいい。
 済まないが、酒は切らしている。
 なるほどね。それでみんな帰ったっていうわけだ。
 そういうことだ。
 この町で、ほかに飲めるところはないのかい?
 この先にある宿屋なら、飲めるかもしれないね。
 わかった。ありがとよ。そっちへ行って飲ませてもらうさ。
 済まないね。
 いいって。気にするこたあない。
 今度は自分で扉を開けて、男は居酒屋の外へ出た。通りの先へ進んでいくと、たしかに宿屋がそこにあった。近づいて扉を開けようとすると、扉の方がひとりでに動いて男を中へ招き入れた。
 いらっしゃいませ。
 そう言って男を迎え入れたのは宿の主人であったが、その姿形は居酒屋の主人と寸分違わない。服が異なっていただけであった。
 泊まれるかな?
 お部屋はございます。
 酒はあるかな?
 お部屋にお持ちいたしますか?
 そうしてもらえると、助かるね。
 では、ご案内いたします。お荷物は、その銛だけですか?
 そう、この銛だけだ。自分で運ぶから大丈夫だよ。
 部屋へ通されると、男は靴を脱ぎ捨ててくつろいだ。そこへ宿の主人が酒瓶を持って現われ、男に向かってこのように言った。
 ほかに何か、御用はございませんか?
 なにしろ長旅でこの有様だ。風呂に入りたい。ひげも剃りたいね。
 用意いたします。ほかには何か?
 それと、あとは女だ。部屋に呼べる女はいるかい?
 ご要望とあれば、手配します。
 ほう、気に入ったね。いい宿だ。
 ありがとうございます。
 宿の主人は一礼して下がり、しばらくしてから風呂桶を運んで戻ってきた。湯を満たした風呂桶を一人で軽々と持ち上げて、部屋の中央に置いたのである。
 こいつはありがたい。
 ひげ剃りの用意はこちらに。
 ありがたいね。こんなにいい石鹸は久しぶりだ。
 男は鏡と剃刀を手に取って、早速ひげを剃り始めた。そして剃っているうちに妙なことに気がついた。真後ろに立っている宿の主人が、鏡に映っていないのである。振り返ろうとして手元を狂わせ、剃刀で頬を切り裂いた。血に汚れた剃刀を洗面台の脇に置き、慌ててタオルで頬を拭った。鏡で傷口の様子を確かめて、ふと横を見ると宿の主人が剃刀を手にしている。剃刀の血がきれいに拭われていた。宿の主人は男に剃刀を手渡して、代わりにタオルを受け取った。血で汚れたタオルを愛おしむようにして胸に抱き、そそくさと部屋から出ていった。
 ひげ剃りの後、男は服を脱いで湯に浸かった。からだの汚れを洗い落とし、心もくつろがせて湯から出ると濡れたからだをタオルで拭いた。拭き終えた頃に宿の主人がまた現われ、風呂桶を持ち上げながらこのように言った。
 女は、いかがいたしましょうか?
 こっちは準備完了だ。呼んでくれ。
 だが男には一抹の不安があった。ここまでの経過から判断すれば、女というのは女の衣装を身に着けた宿の主人かもしれなかった。
 まあ、そうなったら、と男は呟く。それまでよ。
 戸を叩く音がした。入ってきたのは本物の女であった。しかも一人ではなく三人いた。男が寝台に寝ころぶと女たちがしなだれかかり、男がのしかかっていくと女たちは歓喜に震えた。ところがことに及ぼうとしたところで、宿の主人がやってきた。戸を蹴破るようにして入ってくると、女たちに罵声を浴びせた。女たちは一斉にすくみ、のたうつようにして床へ飛び降り、這うようにして部屋から出ていった。
 申し訳ありません。
 宿の主人が頭を下げると、今度は男が罵声を浴びせた。
 くそ、なんだってんだ、これからって時によ。
 よく言い聞かせてはおいたのですが、手違いがございまして。
 もういい。その気がなくなった。酒を飲んで寝る。
 男が寝台に身を投げると、宿の主人は一礼して去っていった。男は酒瓶からじかに酒を飲み、瓶をすっかり空にして目を閉じた。すぐにまぶたが重くなり、男は寝返りを打って心地よい眠りに身を任せた。気配を感じて目覚めた時には蝋燭の炎が消えかけていた。
 近づいてくる気配はあったが、足音は聞こえない。薄目を開けても、黄色い炎がかすかに見えるだけだった。鼻がどこからか腐臭を嗅ぎつけた。臭いの主は背後から接近し、静かに身を屈めて顔を男の首筋に近づけていた。研ぎ澄まされた男の耳は、顎を動かす筋肉の音を聞き分けた。瞬時に身を翻すと寝台から飛び出して銛を握り、相手の心臓のわずか下を狙って鉄製の鉤を繰り出した。
 狙った場所に格別の意味はない。男はいつでもそこを狙った。そうして多くの者を殺し、銛打ちの異名を取った希代の悪人だったのである。だが銛打ちも驚いた。銛で串刺しにされた宿の主人が見ている前で灰になり、そのまま崩れ落ちていった時には驚きを隠すことができなかった。驚いた自分に怒りを覚えた。だから灰に唾を吐きかけて蹴散らした。宿の部屋を端から調べて三人の女の居場所を見つけ出し、同じ方法で地獄に送った。見つけた金品は余さずに奪い、夜明けを待って町を出た。
 いかなる悔恨も残さない。かくて悪は世に栄えた。



大佐の報告


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国があったと推定される位置を当時の地図で調べてみると、ただ海が広がっている。そして同じ時代の旅行案内書には、そこは人跡未踏の地であって魚しか棲んでいないと記されている。土地の存在すら怪しいとなれば、訪れる者のあるはずがない。仮に魚がいるのだとしても、漁をして採算を合わせるには遠すぎた。事実から言えばそこには土地があり、ひとが住んでいたのだが、怠惰と妥協の産物である地図と案内書の呪いによって、長らく関心の対象から外されていたのである。その国についていくらかのことが知られるようになったのは、一人の先駆者の存在と、その功績があったからにほかならない。
 大佐と呼ばれたその人物は名を知られた大国の軍人で、少人数の探検隊を組織すると船を仕立てて冒険の旅に出発した。そして未知の世界を訪れて、驚嘆すべき報告を持ち帰った。
 大佐は沿岸に沿って船を進め、上陸と補給を繰り返しながら次第に未踏の地へと近づいていった。陸地にひとの姿を見ることがなくなり、文明の痕跡も遥か後方に消え去ると、前方に巨大な山脈が姿を現わした。切り立った山が尾根を重ねて壁を作り、鋭く尖った岩を海に浸して近づく者を阻もうとする。大佐は船を沖へ進め、岩礁を避けて前進を続けた。そこはすでに人跡未踏の世界であった。群青の海が大きくうねり、彼方には未知の大陸が青く霞む。大佐は近代的な才覚の持ち主であったので、この時の気持ちを感動的な筆致で報告書に書き記している。だが、それはここでは再録しない。長過ぎるし退屈だからである。
 やがて大佐は船を陸に向け、部下は上陸の準備に取りかかった。慌ただしくなった甲板に向かって、見張り台にいた者が大声を上げた。町が見えるという。わずかではあるが、動き回る人影もあるという。大佐は驚愕を隠せなかった。
「よもやこの人跡未踏の地で、人間を見出すことになろうとは、わたしは予想だにしていなかった。果たしてこれは幸運な出会いとなるのであろうか」
 船が陸地に近づくにつれて、甲板の者にも町の様子が見えてきた。戦いの準備をしている気配はない。鉛色をした低い建物が軒を並べ、その前ではひどくずんぐりとした姿の住人が重そうに足を進めている。大佐は上陸を決意し、数人の部下とともにボートに乗り込んだ。
「わたしはひどく緊張していた。相手がいかなる種類の人間ともわからなかったからである。遠目には野蛮な人々とは見えなかったが、経験によって外見が信用の材料とならないことを知っていた。念のために武器を準備しておくように部下に命じた」
 幸いなことに武器を使う必要はなかった。大佐の一行は上陸して町へ入ったが、住民は一人として関心を示そうとしなかった。この段階で多くの住民を目撃したわけではなかったが、大佐の印象はすでに好ましいものではなくなっている。
「この土地の人間は皆一様に肥満していて、いかにも大儀そうに歩行する。一歩ごとに聞こえる音から判断すると、肥満の原因は脂質の過剰ではなく水分の過剰であるように思える。はっきりと水音が聞こえるのだ。察するに柔弱な気風が蔓延していて、住民は不摂生に対して抵抗を失っているのであろう。堕落は服装にも認めることができる。全員が修道僧のような服を着て、頭を頭巾ですっぽりと覆っているのだ。外からは顔すらも見ることができない。これは自我の喪失を表わしている。彼らはこの格好で外出し、おそらくそのままの格好で床に就くに違いない」
 一通りの観察の後、大佐は意思の疎通を試みたが、あらゆる言語での問いかけにも住民は応えようとしなかった。やってきて、そのまま通り過ぎていく。言葉が通じないということよりも、無視されているということに大佐は少なからぬ苛立ちを覚えた。
「わたしは多くの土地を旅してきたが、どのような野蛮人からもこれほどの無礼は受けたことがない。この土地の人間は我々があたかも存在しないかのように振る舞っている。初めは恐れによってそうしているのだと考えたが、それは誤りであった。彼らは単に無視しているのだ」
 町を端から端まで歩いてみたが、住民同士が会話をしている現場を押さえることもできなかった。家の戸口に耳を近づけることもしてみたが、会話はもちろん、物音すらも聞こえない。そのうちに陽が暮れてきたので、大佐は海岸に野営の支度を整えさせた。
「第一日が終わった。我々は明日も調査を続けるだろう。住民は驚くほど好奇心に欠け、同胞の中にあっても寡黙だが、こちらには十分な忍耐がある」
 夜半が過ぎた頃、隊員の一人が大佐を起こした。住民が松明を手にして町の中心部に集結しているという。大佐は全員を起こし、武装するように命じてから部下を率いて出発した。前方では炎の列が道を進み、見ている前で新たな炎が戸口から現われ、重たげに動いて列に加わった。町の広場に近づいていくと、そこには巨大な篝火が焚かれ、到着した住民が次々と松明を投げ込んでいた。雲を散らした夜空を黒煙が焦がし、住民たちは篝火を背にして重たいからだを海に向ける。大佐とその一行は物陰に隠れて成り行きを見守った。
 最後の一団が松明を炎の中に投げ込むと、雲が割れて月の明かりが広場を青く照らし出した。住民は無言のまま一斉に頭を下げ、頭巾を取って顔をさらした。
「驚くべきことに、彼らは人間ではなかった。魚の顔を持った怪物だったのである。しかも邪教を拝み、魚が腐ったような恐るべき臭気を放っていたので、それ以上その場にとどまるのは難しかった」
 顔はともかくとして、臭いは上陸した段階で気がついていてもよさそうなものである。ここまで遅れた理由があるとすれば、それはおそらく大佐が長らく洋上にあって、入浴の機会を失っていたからであろう。大佐はただちに撤収を命じ、船に戻って朝を待った。そして夜明けと同時に砲撃を加え、町を完全に破壊した。破壊の後には武装した上陸班を送り込み、住民をことごとく殺害して死体は残らず海に捨てた。大佐は雑婚とその震撼すべき結果について警鐘を鳴らし、最後に人類がいかに勝利したかを感動的な筆致で綴っているが、長過ぎるし退屈なのでここには再録しない。




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