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鬱々の日々


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。地図上の点ですらないという冷酷な事実は、その小さな国の人々の気持ちをひどく滅入らせた。しかし、それ以上に心を暗くしたのは道を誤ってその国を訪れ、うっかり地図を広げたことでその国の人々に事実を伝えてしまった旅人であった。自分がその国にもたらした悲しみの大きさを見て激しく悔やみ、悔やむあまりに崖の上から身を投げた。このことは悲劇として伝えられているが、もし旅人がその国の習慣についての知識を持ち、その国の人々が何事につけても悲しげに顔を背けることを知っていたら、おそらく身を投げることはなかったであろう。
 その国で生まれた赤ん坊は産声を上げる代わりに憂いに満ちた吐息を漏らして、この世に生まれ出たことの悲しみを表わした。母親は我が子がこれから味わうであろう悲嘆の数々を思って涙を流し、父親は子を抱き上げて夕陽にかざし、陽が沈む先にあの世があることを子に教えた。来世にわずかな希望を託して、人生を深い悲しみの淵に沈めたのである。悲しみの深さに耐え切れずに、夕陽を追って走り出す者も少なくなかった。涙に霞む夕陽を追って夜を迎え、疲労の果てに横たわって悲しみとともに朝を迎えた。悲嘆に暮れる者の数ではいかなる大国をも凌駕したが、自殺に成功した者はなかったという。
 その国の王は暴君であった。土地は残らず王に属し、国民は王のために畑を耕した。王は過酷な年貢を課していたので、収穫の時季には悲しみが一層深まった。収穫の大きな山から年貢の分が取り去られ、荷車に積まれて運ばれていく。残った山の小ささを見て人々は悲しんだ。隣人の肩を抱いて涙を流し、腹を空かせて泣く子を叩いて涙を流した。王の城には収穫の大半が積み上げられ、打ちひしがれた人々はその前に佇んで悲しげに顔を背ける。そうして待っているとやがて王が姿を現わし、こちらも悲しげに顔を背ける。王は常に暴君であったが世襲ではなかった。もっとも感じやすい心の持ち主が王に選ばれるしきたりとなっていたのである。王は王位にあることで悲しみを味わい、残りの者はひとを王位へと追いやったことで悲しみを味わった。王の悲しみの方がやや格上であったと伝えられている。
 悲しみがなければ陽も暮れない毎日で、悲しみを味わうためなら間違いも犯した。収穫の量はごまかされたし、用水路の流れは夜のあいだに変更された。多くの者が盗みを働き、進んで良心の呵責に苛まれた。罪人は身を投げ出して許しを請い、善人は正義の不在を嘆いて突っ伏した。そして翌日には善人が盗みを働き、罪人が正義の不在を嘆き、世の悪に終わりがないことを知ってともに長々と悲嘆に暮れた。恋はつねに間違った者同士を結びつけ、親はそれを引き離し、不幸な結婚は不倫の種を振り撒いた。不倫は堕落ではなく悲しみを生み、悲しみは子を産み落とし、産婆は産み落とされた子を間違える。兄弟がいれば、どちらかには必ず異なった血が流れていた。産婆は死の床で苦しみとともに真実を明かし、新たな悲劇の原因を残す。悲劇はいつでも三代に及んで果てのない分岐を繰り返し、やがて国を覆って悲嘆の底に民を沈めた。
 さて、ある時のこと、その国が隣国からの侵略を受けた。防衛のために軍隊が招集されたが、戦闘に先立って戦争の悲惨に耽溺したので戦うことなく敗北を喫した。国土は瞬時に占領され、感じやすい王は悲しみのうちに廃位となり、隣国の軍勢は暴虐を尽して大いなる苦しみを人々に与えた。苦難の時代がしばらく続き、人々は飽かずに悲しみを味わい、それから最後に暴動を起こした。隣国の王もまた暴君であったが、この王は自らの暴政の成果を目にしてもまるで悲しもうとしなかったからである。これはしきたりに反していた。暴動を鎮圧するために残酷な王の残酷な軍隊が出動した。男は皆殺しにされ、女とこどもは奴隷に売られ、残った土地は外の者に奪われた。というわけでその国は消滅し、今ではふつうの人々がふつうの悲しみとともに暮らしている。



海老の収獲


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。個人的に記されたいくつかの旅行記には若干の記述があるという噂もないことはないが、それが事実だとしても記載の量が全部で数行を越えることはないだろう。なにしろその国にはわずかばかりの家屋とそこに住む面白みのない住人、そして面白みのない住人を従えた面白みのない王がいただけで、旅行者が外国に求めるような滑稽な人物や滑稽な習慣、美しい自然や見慣れない料理といった特筆すべき要素をことごとく欠いていたからである。すべてを確認した上で結論を下しているわけではないのだが、一見したところでは明らかにそうであったし、すでに滅んでいるという決定的な理由があって、調べ直すことはできないのである。
 街道沿いに並んだ家々はどれもみすぼらしかったし、男も女も愛想がなかった。少なくとも旅行者にはそのように感じられた。西は山に、東は海に面していて、狭い領土はどこもかしこも西から東に傾いていて、だから平らな場所というものがない。どの家もこの家も傾いた地面に半ばまでめり込んでいた。産業と呼べるものは漁業しかなくて、だからその国では男も女も砂浜に出て網を引く。網を引くと海老がかかってくるので、それを鍋に放り込んで煮る。その国では男も女も海老を食べた。街道から山へと連なる斜面には小さな城がへばりつくように建っていて、そこに住んでいた国王も海老を食べた。
 ほかに食べる物がなかったからである。そのせいなのかどうなのか、住人の顔はどことなく海老に似ていた。赤みがかっていて目がくっついていて、前に向かって造作が詰まったような具合になっていた。愛想がないように見えたのは、全体に余裕を欠いたこの造作のせいであった。そして愛想がないのは、おそらくは海老の呪いのせいであった。住人の多くは、呪いは顔にかけられていると考えていた。なにかしらほかの食べ物を生活に取り込むことができれば、この呪いは解けるのではないかと考えた者もいた。だが、ほかの食べ物が何なのかを説明できる者はいなかったし、仮に何かがあるとして、どうすればそれが手に入るのかを説明できる者もいなかった。
 もちろん、その国の人々が愚か者ばかりだったということではない。常識も普通の知恵も備えていたので、獲れた海老を輸出して、とにかく何かほかの食べ物を輸入しようと試みたことがある。そのための代表を王が指名して国外に派遣した。代表は食品業者を探して交渉にかかり、それから国に舞い戻ると王に計画の中止を進言した。巨額の保険契約だの細かい字で書かれた付帯条項だの、あるいは根拠の怪しい変動相場だのといった新手の呪いを抱え込むよりは、このままおとなしく海老の呪いを抱え込んでいた方がよいと言ったのである。王もそれが賢明であると認めて計画を中止し、代わりに国の南北両端、街道沿いの二ヶ所に通行税の徴収所を設置することにした。ここから何がしかの現金収入を得ようという目論みであったが、国を通過する者の数がそもそも少なかったので、一度だけ支払う通行税はしばらくしてから二度支払う入国税と出国税に変更された。ところが一方の徴収所からは、もう一方の徴収所を彼方に見ることができたのである。たいていの旅行者はばからしさを理由に出国税の支払いを拒み、国境で徴税請負人と悶着を起こした。
 さて、ある時、年若い王がその国に立ち、建国以来の懸案を整理して問題を最終的に解決しようと考えた。早い話が、海老にうんざりしていたのである。母乳は海老の臭いがしたし、離乳食はほぐした海老の肉だった。両親はどちらも海老のような臭いをさせていたし、当然、自分のからだも同じような臭いをさせている。気にしなければ気になることもなかったはずだが、一度でも気にし始めると後はとどまるところを知らなかった。いずれはめとることになる后も、必ずや海老の臭いをさせているであろう。王ともなれば国を離れるわけにもいかず、そうなると死ぬまで海老にまみれて海老の臭いを嗅ぎながら海老を食べ続けることになる。見るのも嗅ぐのも、考えるのもいやだった。なんでもいいから、海老以外の何かが食べたかった。世界はもっと多様であってもよいはずだった。国民もそう望んでいると考えていたし、そう望んでいない国民にも海老以外の何かを食べさせたかった。実を言えば、まだ少数ではあったが、海老以外の何かを食べれば罰があたると主張する一派が存在した。幾世代にわたる諦観を糧に居直りを強固な信仰に発展させていて、その国の人間は最後には全員が海老になるのだという奇怪な終末予言を撒き散らして国内に不安と恐怖の影を投げかけていた。国民に海老以外の食品を味あわせて未来に希望を与えることが、国家としての急務であった。
「もはや、一刻の猶予もない」と王は言った。
「畏れながら、陛下」と大臣が言った。「王家代々の取り組みはことごとく失敗に終わっております。この上まだ何か秘策があろうとは、残念ながら思えませぬ」
「最後の手段が残されている」
 それだけを言うと王は城を後にして斜面を下り、街道を渡って砂浜へ進むとそのまま海へ足を踏み入れた。胴を水に浸して波を分け、顔をうつむけると鋭い目つきで左右を見まわす。不意に腰を屈めて素早い動作で腕を繰り出し、海面を破ってすぐ引き抜くと、その手には一尾の見事な海老が握られていた。王は掴んだ海老に顔を向け、憎しみを込めてこのように言った。
「海老の王よ、聞くがいい。おまえたちの居場所は我が領土の内にある。我が領土の内において、おまえたちは繁栄を極め、専横をほしいままにしているのだ。十分な代価も払わずにな。だが時代は変わった。これまでどおりにことが運ぶとは思わないでもらいたい。すぐさまここを立ち退いて、場所をほかの魚に明け渡すのだ。なぜならばほかの魚にもここに住まう権利があり、ほかの魚の方がこの場所により相応しいと考えるからだ。これはすでに決まったことで、だから否も応もない。海は広いし適当な土地はいくらでもあろう。さっさとここから出ていくがよい」
 これを聞くと海老の王はその堅固な殻を怒りによって真っ赤に染めた。
「ひとの王よ、これはまたたいそうな言い分だ。今のがそちらの言い分ならば、こちらにはこちらの言い分がある。つまり、おまえたちの居場所こそが、我が領土の内にあるということだ。そしておまえたちは我が領土の内において我が一族を好きなように胃の腑に収め、それだけでは飽き足らずに今度は領土を明け渡せと言う。ならばこちらにも考えがあるぞ。すぐさま立ち退いて、場所をほかの人間に明け渡すのだ。なぜならばほかの人間にもここに住まう権利があり、ほかの人間の方がこの場所により相応しいと考えるからだ。これはすでに決まったことで、だから否も応もない。陸は広いし適当な土地はいくらでもあろう。さっさと出ていくがよい」
 そのように言ってひげを振り、鋭利な先端で年若き王の目を狙った。またはさみを使って王の腕に傷を与えた。握る手の力はたちまち緩み、海老は尾鰭で跳ねて海に逃れ、王は悲鳴を上げて砂浜に逃れた。
 年若き王は血の滴る傷を手で押さえて浜を走り、心は復讐に走らせて男たちを呼び集めた。王の叫びに応えて男たちは網を運び、女たちは鍋を運んで浜に火をおこした。一方、海老の王もまたそのひげによって一族郎党を呼び集め、すぐさま戦の準備にかからせた。母海老たちは子海老を抱えて岩陰に隠れ、力に覚えのある海老たちが続々と隊伍を組んで海岸へ進む。戦端はただちに開かれた。人間と海老が激突し、肉が裂かれ、殻が砕かれ、血が飛び、白身が千切れ、浜には骸が幾重にも重なる。数では海老が勝っていたが、力の点で勝機は人間の側にあった。戦場が陸地となったことも、海老の側には決定的な不利となった。
 年若き王は勝利をすでに確信して哄笑を放ち、海老の王の姿を求めて群がる甲殻類を蹴り散らす。一方、間近に敗北を感じた海老の王はひそかに戦場を離れ、街道を渡り、城の建つ斜面へと足を進め、立ち止まって尾鰭を下にして身を起こすと、そびえる山に向かってこのように言った。
「山の王よ、どうか海老の王の願いを聞き届けていただきたい。卑劣なる人間どもはその巨体をよいことに我が一族を滅亡の淵に追いやろうとしている。そこで山の王よ、我らを哀れに思うなら、その身に収めた岩や土をいくらかなりとも転げ落とし、邪悪なる人間どもを押し潰してもらいたい。我が一族にも多少の犠牲が出ることになろうが、それは仕方がないと思ってあきらめよう。もし我らに手を貸してくれたなら、我らは礼としてそなたの身に葡萄の木を植えるつもりだ。怠らずに苗に水をやり、実をつけるまで必ず面倒を見ると約束しよう。それでは足りないと言うならば、さらに野苺を植えてもよい」
 海老の願いに対して山がどのような判断を下したのかは永遠の謎である。聞き届けることにしたのか、それとも何か別のことを考えたのか。聞き届けたのだとしたら、おそらくは実行の段階で若干の手違いが発生した。この直後に山は大噴火を起こし、流れ出た溶岩は一瞬で王国を埋め、海老も人間も滅ぼした。噴火がおさまった後には冷えた溶岩が街道を覆い、現在もなお通行の障害となっている。



王子の問題


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。街道からはずれ、歴史とその喧騒から遠く離れ、静謐に沈んで聞こえてくるのは虫の音くらいという国であったが、民は平和を尊んでよく働き、畑はよく手入れされて稔りをもたらし、森には実をよく稔らせた木々が立ち並び、牛はよく乳を出し豚はよく子を産み、どの家の煙突からも調理の煙が日に二度は上がった。王がよく治めていたのである。
 若くして即位した王は長らく独り身を通していたが、ある時、隣国から王妃を迎えた。王は王妃と森で出会い、死んだように眠っている王妃を接吻で目覚めさせたのだという。王妃は快活な性格と親しみやすい美貌の持ち主で、たちまちのうちにその国の民を魅了した。盛大な結婚式がおこなわれ、国に住むすべての者を招いて宴会が開かれ、それから一年の後には玉のような男の子が誕生した。王と王妃は幸福を味わい、民は王と王妃に祝福を与えた。またしても宴会が開かれ、国に住むすべての者が招かれたが、その宴会の席上で恐ろしい予言がおこなわれた。
 王の城の大広間で王と王妃は椅子を並べ、王は王妃の肩を抱き、王妃は腕に王子を抱いて、祝福に訪れる領民の一人ひとりにねぎらいの言葉をかけていた。同じ広間には長大な食卓が端から端まで列を作り、そのどれもがはみ出すほどに酒と料理を載せていた。食卓の一つひとつは好みに応じて酒や料理がよく吟味され、一つは酒飲みのために、また一つは甘党の大食漢のために、別の一つは菜食主義者のためにという具合に見事に整えられていたが、これは誰もが宴会を楽しめるようにという王と王妃の心遣いであった。祝福を終えた者は好みの場所に席を見つけて飲食に励んだ。会話がにぎやかに交わされ、楽士たちが音楽を披露し、芸人たちは絶妙の技を互いに競い、冗談と笑いの合間には多くの者が玉座に向かって杯を掲げ、さらなる幸福を祈って乾杯を叫んだ。王と王妃と王子を称える即席の歌が作られ、皆で声をあわせて歌を歌い、中には踊り始める者もいて、誰もが宴会を楽しんで満足しない者は一人もない。
 ところが宴たけなわという頃、地の底から響くような轟音が城を揺るがせ、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。女たちの悲鳴が上がった。激しい風は広間を舞って酔漢たちから杯を奪い、すでに不覚となっていた者を床に転がした。すべての視線が入り口に集まり、そこへ溢れるような黒い影をまとって現われたのは森の奥に住む魔女であった。魔女は黒い頭巾の下に顔を隠し、醜い鼻を王に向けてこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の十六歳の誕生日には、せいぜい紡ぎ車に気をつけるがよい」
 魔女が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。ところが再び城を揺るがす音が轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。舞い込んできた風で杯がひっくり返ることはなかったが、不覚となっていた者はそのまま床を転がった。すべての視線が入り口に集まり、そこへ硫黄の臭いとともに現われたのは洞窟に棲む竜であった。竜は鼻から煙を吐き出しながら、王に向かってこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の八歳の誕生日には、せいぜい鞭に気をつけるがよい」
 竜が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。するとまたしても城を揺るがす音が轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入り口に集まり、そこへさらなる風を巻き起こして現われたのは谷底に棲む怪鳥であった。怪鳥は褐色のくちばしを王に向けて、このように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の四歳の誕生日には、せいぜい壁に気をつけるがよい」
 怪鳥が呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。それと同時に大音響が辺りに轟き、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入り口に集まり、そこへ思わず顔を背けるような悪臭とともに現われた影は、一つではなく二つでもなく、徒党を組んだ屍肉喰らいの集団であった。そのうちの一人が醜い顔を王に向け、尖った牙を隠しもしないでこのように言った。
「結婚式の時には何かの手違いであろうと思ったが、一度が二度となればもはや疑問の余地はない。祝いの品を用意して、招かれるのを待っていたというものを。だが今となっては手遅れだ。王子の二歳の誕生日には、せいぜい上げ蓋に気をつけるがよい」
 屍肉喰らいどもが呪いをかけて立ち去ると、王は兵士に命じて扉を閉めさせ、領民たちには安んじて宴会を続けるようにと合図を送った。だがまたしても大音響が城を揺らし、大広間の大扉が突風とともに押し開けられた。すべての視線が入り口に集まり、そこへ床を爪で蹴って現われたのは翼を持つ黒い犬であった。黒い犬は濡れた鼻を王に向けて何かをしきりと吠え立てたが、あいにくと人間の言葉ではなかったので誰にも理解することができなかった。
 黒い犬が立ち去ると宴会はそのままお開きになり、領民たちは蒼白となった顔を並べてそれぞれの家へ帰っていった。王と王妃は王子を連れて寝室に戻り、そこで夜が明けるまで非難の応酬を繰り返した。一説によれば王は意図して魔女と竜と怪鳥と屍肉喰らいと黒い犬を招待からはずし、王妃はそのことで事前の警告をしていたという。それからというもの王と王妃は不仲になり、王子の方はいずれ呪いを受けてどうにかなるという理屈から両親の愛を失った。
 王子は一歳になるまで四つ足で過ごした。二歳になった時には歩くことを覚えていたが、見守る者もないまま城の中をさまよって上げ蓋の隙間から転落した。四歳でようやく話すことを覚えたが、そのことに誰も気づかなかったのは王子が壁に向かって喋ってばかりいたからである。八歳になった時には家庭教師が遠方から雇われた。この家庭教師は選んだように意地悪な男で何かと言えば鞭をふるい、王子の孤独な世界に暗い影を刻んでいった。十六歳の誕生日を迎えた日、王子は城の塔に一人で登り、その一室に入って古い紡ぎ車をじっと見つめた。それからゆっくり手を差し出して、指先で紡ぎ車の針に触れた。そして痛みを感じると同時に、王子は巨大なアオガエルになっていた。
 王子は目を閉じて喉を鳴らした。しばらくしてから窓を開け、外へ出ると巧みに吸盤を使って壁伝いに下りていった。中庭へ降りてきたところで女たちの悲鳴を聞いた。厨房から飛び出してきた若者が王子の背中にリンゴをぶつけた。王子は再び喉を鳴らし、着実な跳躍を続けて城を後にした。左右に悲鳴を聞きながら町を抜け、やがて川辺に達すると川の流れに身を躍らせた。以来、王子の姿を目にした者はないという。
 王子が失踪した後も、王と王妃の仲は戻らなかった。どちらもひどく心を澱ませて民を思う気持ちを失ったので、やがて国は傾いて地上から消えた。



観察の作法


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。
 それというのも当時は有象無象の国々が次から次へと現われたり消えたりしていたからで、地図製作者も旅行記作者もよほどのことがない限り小国のためには腰を上げようとしなかったのである。噂を頼りに苦労して訪ねてみればもうなくなっていた、などということはよくあったし、まだあったとしてもまともとは言えないことが多かった。住民が一丸となって追い剥ぎ稼業に精を出していた、などというのはまだよい方で、悪くすれば殺されたし、うっかりすれば食べられてしまった。奇怪な風習を盾に婿入りを強要されて戻れなくなる者も中にはいたし、呪いのついた花嫁を押しつけられて送り返されてくる者もいた。もちろん小さな国の全部が全部そうだったわけではない。善良な人々が真面目に働いているまともな国もあったのだが、決して多くはなかったし、少ないという見解の方が多かった。というわけで、その国のことについてもあまりよい話は残されていない。
 ある時、一人の旅人が街道の分岐点で選択を誤り、次の分岐でも間違えて森の奥へと曲がりくねる寂しい道へ入っていった。左右には鬱蒼と樹木が繁り、頭上には葉が幾重にも重なって太陽の光を遮っていた。薄暗い森の中には動きと呼べる動きはなく、風がわずかにそよぐ音と、鳥のさえずる声がたまに聞こえる。
 旅人は道を間違えたことに気がつかぬまま歩みを続け、かなりの距離を進んだところで休憩を取ることにした。ちょうど昼食の時刻であった。木の根元に腰を下ろして水筒の水で喉を湿し、背嚢を下ろして中から弁当を取り出した。格別の感動もない様子で食べ物を黙々と口に運び、そうしながら前夜の宿の女将のことを頭の中で反芻していた。何をどのように反芻していたのかは定かではないが、ここはこう書くことになっているのである。
 さて、食べる以外にはすることがなかったので、目は自然と森の中へさまよっていった。どこというわけでもなく、ここというわけでもなく、ただ漫然と視線を漂わせていたのだが、そろそろ弁当を食べ終えようという頃、妙な気配を不意に感じた。見張られているような気がしたのである。危険を感じて、すばやく左右の様子をうかがった。そうしながら弁当の残りを背嚢にしまい、背嚢の背負い紐を肩にかけた。そして立ち上がろうとしたところで、怪しい気配の源を見つけた。すぐ目と鼻の先に灌木の茂みがある。その茂みの痩せた枝と枝の間から、望遠鏡の筒先が飛び出していたのだ。
 レンズは旅人を凝視していた。旅人はレンズをにらんだまま、腰を落とした。望遠鏡の先端が旅人の動作を追って静かに揺れた。指先で地面を探って大粒の石を拾い、それを手の中に隠してまた立ち上がった。レンズを見据えて相手の出方を待ったが動きがない。石を投げた。石が放物線を描いて茂みの中へ飛び込んでいった。と同時に痛みを叫ぶ声が聞こえた。望遠鏡が引っ込んで、代わって茂みの陰から一人の男が立ち上がった。薄茶の長い外套に身を包み、小さなひさしのついた薄茶色の帽子をかぶっている。男はこめかみのあたりを手で押さえ、旅人に背を向けると森の奥へと走り去った。
 旅人はいぶかりながら先を急いだ。追い剥ぎでも人殺しでもなさそうだったが、何者であったにしてもとにかく気味が悪かった。森から出ようという一心で曲がりくねった道をたどり、陽が暮れかかった頃に森を抜けた。道に沿ってさらに進むと先に小さな町があり、救われた思いで近づいていったが、すぐに不安を感じて足を止めた。
 路上には住民の姿があり、そのどれもが薄茶色の外套を身にまとい、薄茶色の帽子をかぶっていた。多くは望遠鏡を携えていて、中には旅人に気づいて筒先を向ける者がいる。旅人に与えられた道はわずかに一本であり、森で夜を迎えるという選択は論外であった。少なくとも害意はなさそうに見える。旅人はそう判断して町へ入った。住民は旅人に道を譲り、道の端まで退いて望遠鏡を旅人に向けた。窓の隅では夕陽を受けてレンズが光り、開いた扉の隙間には上から下へとレンズが並んだ。誰もが旅人の挙動を監視していた。
 宿屋とおぼしき店を見つけた。一階が食堂になっていて、旅人はその一角に席を見つけて腰を下ろした。頼んでもいないのに次々と料理が運ばれてくる。値段のことが気になって主人とおぼしき男に声をかけたが、相手はまるで取りあわない。単音節だけで構成された鳥の鳴き声のような言葉に手真似を加え、食べるようにと促すだけだった。そこで旅人は食べ始めたが、まわりの様子が気になってどうにも食が進まない。薄茶色の外套を着た男女が壁に沿ってずらりと並び、望遠鏡の筒先をずらりと並べて旅人を観察していたからである。旅人は食べるのをやめたが、それでも料理が運ばれてきた。旅人は置かれた皿を押しやって、一夜の宿を求めるために主人とおぼしき男に声をかけた。またしても鳥のさえずりが返ってくるので、旅人の方でも音を真似て声を出してみた。囁きがせわしく壁沿いに走った。立ち並んでいる連中が嬉しそうに顔を見合わせ、小声で言葉を交わしている。ところが交わされている言葉は鳥の鳴き声とはまるで異なっていた。それは旅人に覚えのある言葉で、ただしかなりの訛りが加わっている。記憶を頼りにその言葉を使ってみると、意味不明のさえずりが返ってくる。言葉で意思を通じあうつもりがないらしい。二階を指差して、眠りたいのだと手真似で訴えた。すると主人は特大の望遠鏡を持ち出してきて、まわりの者に由来を説明しながらその筒先を旅人に向けた。
 旅人は選択を迫られていた。憮然として立ち上がり、町を出て野宿するか、憮然として立ち上がり、勝手に二階の部屋を使うか。後者を選んで立ち上がり、荷物を肩に階段を上った。止めようとする者はいない。振り向きはしなかったが、無数の望遠鏡が狙っているのは見なくてもわかった。
 適当な部屋を選んで中へ入った。扉には椅子の背をあてがって入り口を塞ぎ、鎧戸を閉めて窓を塞いだ。理由はわからなくてもやり口はわかっていたので、まず壁を調べた。見つけた穴をぼろ切れで塞ぎ、次に這いつくばって床を調べた。床にも二三の穴があり、その大きさは住民の望遠鏡にぴったりであった。寝台の下も調べて心安らかに床に就き、朝を迎えてから天井を調べていなかったことに気がついた。見上げるとそこにも大きな穴が開いていて、穴の向こうでは望遠鏡を構えた者たちが互いを肩で押しあっていた。
 旅人は荷物をまとめて部屋を出た。一階に下りて観察されながら朝食を摂り、支払いをしようと声をかけるとまた鳥の鳴き声を聞かされた。宿屋から出ると路上には望遠鏡の列があった。前へ進むと望遠鏡の列が一斉に下がった。旅人は町を後にした。町を出て、しばらくしてから足を止めた。振り返って町を見ると、そこには光の洪水があった。無数のレンズが朝日を浴びてきらめいていたのだ。
 あまりのまぶしさに旅人は顔を背けた。再び道を前に進み、苦労の末に正しい道を探りあてた。それから仕事を終えて故郷に戻り、奇妙な体験を隣人に伝えた。旅人が再びこの地を訪れることはなかったが、晩年になってある噂を耳にした。同様に道を誤った者がその国を訪れ、腕や脚を掴まれてひどく手痛く観察されたという。
「そんなことは、わたしの時には一度もなかった」
 老人はそう言ったと伝えられている。



禁断の惑星


 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。それでも道は通じていたので旅人の往来があり、旅人はその国での見聞を自分の国へ持ち帰った。そうして伝えられた知識によれば、その国を治めた代々の王には、いつも何かしらの問題があった。暗愚、妄動、猜疑、愛欲などである。代々の王はそれぞれの問題によって心を悩ませ、ただし問題そのものには決して自覚を持つことがなかったとも伝えられている。
 さて、その国の王が猜疑によって心を悩ませていた時代のこと、王妃の腹から王子が生まれた。そこで王はまず王子の種について疑いを抱き、次に王子の未来について疑った。どのような疑いであったかは知る由もないが、どちらかと言えば疑いを深める意図で予言者が招かれ、招かれた予言者は香を焚いたり骨を投げたりした上で、一つの確約と一つの予言を王に与えた。すなわち第一の疑いには間違いないという確約が渡され、第二の疑いには王は王子の手で王位を追われるという恐るべき予言をおこなった。
 王はまず確約に対して疑いを抱き、それはいかなる意味かと予言者にたずねた。王は予言者の口から、後世の解釈を待たれよという返答を得た。次に王は予言に対して確信を抱き、自らの手を汚さずに王子を亡き者とする最良の方法を求めて思案を始めた。猜疑に心を悩ませる者は、猜疑によって時を費やす。思案をしている間にも王子は着実に成長を続け、ようやく王が結論に達した時にはすでに立派な若者となっていた。そして王は王子を傍らに呼び、危険な使命を与えたのである。
 それは禁断の惑星を訪れて、失われた古代文明の遺物を持ち帰るという使命であった。王子はまず名高い船大工を呼んで船を造らせ、次に競技会を開いて屈強の者たちを乗り組みに選んだ。間もなく最高の船が完成すると、王子は配下とともに乗り込んで禁断の惑星へと旅立っていった。
 禁断の惑星では、王子とその一行を一人の娘がにこやかに迎えた。無人の地と聞かされていた王子は美しい娘の姿に驚きかつ喜び、娘の話を聞いてまた驚いた。娘には博士の父親がいて、博士はその地で失われた古代文明の研究に取り組んでいた。遺物についても詳しいという。住んでいるのは二人だけかとたずねると、娘は即座にうなずいた。従僕を数に数える習慣はまだなかったからである。
 王子とその一行は娘の案内で博士を訪ねた。博士は愛想よく一行を迎え、それから失われた古代文明の偉大を称えた。続いて現代文明の貧困をけなしながら、古代文明の遺物をいくつか披露した。高度に発達した文明の奇跡の数々に、驚嘆しない者は一人もない。博士は一行に食事をふるまい、食事の後で王子とその一行は船に戻った。戻る道を娘が送り、王子は娘に感情を抱いた。
 やがて夜の帳が船を覆い、王子とその一行は不寝番を残してそれぞれの寝床に横たわった。夜半が過ぎた頃に不寝番が絶叫を放ち、皆は一斉に飛び起きて得物を掴んで走り始めた。松明を灯して不寝番の姿を探し求め、いくらもしないで無残な姿を探し当てた。ねじれた遺骸のまわりには、いくつものおぞましい足跡が残されていた。
 王子は夜明けを待って博士を訪ね、怪物の襲来を報告した。博士はただ首を横に振りながら、すぐにも旅立つようにと王子に勧めた。王子が同行を求めると、博士はまたしても首を振った。博士と娘は安全であるという。怪物の正体をたずねると、自分は何も知らないという返答があった。王子は博士に不審の念を抱いて船に戻り、戻る道を娘が送ると王子は娘に感情を抱いた。
 再び夜の帳が船を覆い、王子とその一行は全員が不寝番となってまだ見ぬ敵の襲来に備えた。そして夜半が過ぎた頃、それは現われた。
 子細は省くが、それは見えない怪物であった。見ることはできなかったが実体はあり、点々と足跡を残しながら下働きの者から屠っていった。王子は博士の不在を狙って古代文明の遺跡を調べ、難なく怪物の正体を解き明かす。博士は文明の遺物を利用して、その歪んだ心を実体化させていたのであった。
 恐れを感じた王子は博士から娘を奪って船を出し、国へ戻って王を弑した。猜疑に取り憑かれた王が、王子に新たな使命を与えようとしたからである。王子は王となって博士の娘を妃としたが、妃が二児をもうけた後は夫婦の寝室を顧みようとしなくなった。王子は王となることで愛欲の虜となり、新たな妃を他国に求めた。妃は嫉妬のほむらを燃やし、その腹から産み落とした二児を炎に与えた。それから見えない何かにまたがって空の彼方へと去っていったが、古代文明が残したその奇跡の技に驚嘆しない者は一人もなかったと伝えられる。




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