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音楽小説三部作  グレイの鍵盤

第一部 オルカのため息




あなたが今、この「世界」に生きられる幸せを、「もう一つの世界」が支えている。しかし、たとえ人間が鯨の歌を理解できる日が来たとしても、「もう一つの世界」の入口に立ち、闇を見通す日は、永遠に来ないかもしれない。
(アンドリュー・F・ランドマーク~海洋生物学者)



PAスピーカーから波の音が流れ始めた。
僕はほっとため息をつく。
照りつける太陽のせいで、キーボードの液晶表示がほとんど見えない。
鍵盤上にはいくつかのサンプリング音がセットされている。波の音、カモメの鳴き声、イルカの笑い声、ザトウクジラの歌声……。間違えてとんでもない音を出してしまうのではないかと、ステージが始まる前から僕は緊張しっぱなしだったのだ。
ステージの前にはドーナツ型の巨大なプールがあり、その中央部分は人工砂浜になっている。色とりどりの水着を着てその砂浜の上に寝そべっていた男女が、「お、ようやく始まったか」という顔で、一斉に僕らのほうを見る。
鍵盤が熱い。熱でデジタル・キーボードの中の回路が誤作動してしまうのではないかという心配もあった。そんな僕の心を見透かすかのように、プールに浮かんだシャチの人形が笑っている。
波の音に乗せて、僕はカモメの鳴き声を使った簡単なフレーズを弾く。レ・ミ・ドという三音だけの単純な繰り返し。しかし、カモメの声の微妙なグリッサンド効果のせいで、なんとも不安定な音階に聞こえる。
それに合わせて、ピックアップを取りつけた尺八がかぶさってくる。尺八特有のかすれた音色に、エフェクターを通した電子的な処理が加わり、不思議な効果をあげる。
フュージョン・ミュージックの世界では、胴をくり抜いた骸骨のようなバイオリンとか、肩から担ぐ電子ドラムセットなんてものもあるから、少々のことでは驚かないが、尺八をこんなふうに使うミュージシャンを、僕は彼以外にまだ知らない。
彼の名前は昭元(あきもと)ガイア。今売り出し中のフュージョン・グループ「ガイア・コンソート」のリーダーだ。
そして僕は彼のボウヤ……いや、先月からただの弟子兼荷物運びから昇格し、このバンドのセカンド・キーボーディストをやらせてもらえるようになった。
僕の担当は主に効果音的なキーボードで、まだ華々しいソロなどはやらせてもらえない。それでも尊敬する師匠と同じステージに立てるという喜びは、とても言葉では表せないほど大きい。たとえこんなひどい興行的ステージであろうともだ。
夏休みの開始に合わせ、先週開業したばかりのこのレジャーランドでは、連日のように何かしらのイベントをやっている。そして今日のメイン・イベントが、僕ら「ガイア・コンソート」の野外ライブというわけだ。
ネイチャースピリッツワールド「オルカ・ジョイ」というのが、このレジャーランドの正式名称だという。太平洋に臨む土地を利用した巨大リゾート施設。
かつて、遊園地が造られたことがあったが、人が入らずすぐにつぶれてしまった。その後は荒れ果てた空き地のままになっていたが、高速道路が延長され、近くにインターができたのをきっかけに、大手資本が入って大規模再開発をしたそうだ。
海に面し、周囲には小さな海水浴場もあるのだが、なぜか人工砂浜と「海が見えるプール」が売り物になっている。
オルカ……つまりシャチがマスコット・キャラクターになっていて、園内のいたるところにシャチの人形やら看板やらがある。ミッキーマウスとミニーマウスのようにオスとメスがいて、オスはジョニー、メスはジョイスというのだそうだ。
園内にはイルカやアシカのショーを見せる水族館もある。マスコット・キャラクターになっているシャチも飼われているのだが、シャチのショーだけはまだ調教中で「近日公開」ということだ。
そのシャチのプールの隣にある「海が見えるプール」に作られた野外ステージの上に、今、僕たちはいる。
野外で、しかも海風も強いから、音響は最悪だった。それに裸で寝そべったり泳いだりしている観客が相手では、緊張感もない。ドラムとベースが入ってきて、ようやく何人かの若者が控え目に身体を揺すり始めたが、ほとんどの客はただのBGMとして聞き流しているようだった。
それでも我らがリーダーは手抜きをせず、いつも通りのほれぼれとしたソロを吹く。その毅然とした姿勢を見て、僕も改めて緊張感を高めようと、演奏に神経を集中させた。
一曲目が終わった。
拍手はまばらだった。予想していたことだからそれほど落胆はしない。ただ、これだけのひどい環境の中で行った演奏にしてはそう悪くないものだっただけに、少し悔しかった。
リーダーは気落ちした様子もなく、すぐに二曲目の始まり部分のオーボエ・ソロを吹き始めていた。
そのオーボエ・ソロに混じって、客席から若い女の嬌声が聞こえてきた。声のほうを見ると、客席の後ろで、真っ黒に日焼けした若い男が二人、スタイルのいい女の子に水鉄砲を向けて追い回している。
僕は見えにくい液晶表示に目を凝らしながら、二曲目の演奏の準備にかかった。

ο
譲島(じょうじま)君、後でちょっと相談があるんだけれどね」
ステージの後片づけをしていた僕に、リーダーがそう声をかけてきた。僕は分かりましたと返事をして、楽器の片づけを続けた。
彼は僕が弟子入りを志願したときから一貫して、僕のことを「譲島君」と呼ぶ。
僕は高校中退の十九歳。バンドの末席に加えてもらっているだけでもありがたいわけで、君付けで呼ばれることに無論文句などあろうはずはない。しかし、他のメンバーがみな、タッチャンとかオトヤンなど、愛称で呼ばれているのに、僕だけが本名の君付けというのは寂しい。一度だけ「収 って呼び捨てにしてくれたほうがいいんですけれど」と申し出たことがあるのだが、リーダーは「そう?」と答えただけで、その後も変わらず「譲島君」を通している。
僕のほうは彼のことを「昭元さん」と呼ぶ。「昭元さん」と「譲島君」。なんだか会社の上司と部下みたいで、やっぱり気になる。
昭元ガイア。
ユダヤ系アメリカ人の父と、沖縄生まれの日本人の母との間に生まれた彼は、少年時代から天才的尺八奏者として名を馳せた。
尺八の他に、オーボエとソプラノサックスもこなす。
彼が弱冠十九歳のときに出した最初のリーダーアルバム『ガイア伝説』は、日本よりも先にアメリカで高い評価を受けたという。僕がそのアルバムを聴いたのは、高校二年生のときだった。受験をするかどうかで悩んでいた僕は、高校を中退する覚悟で彼の事務所に押しかけ、強引にボウヤにしてもらった。
ボウヤというのは楽器運びなどの雑用をこなす弟子のことだ。給料などというものはほとんどない。師匠のステージ活動をサポートする以外の時間はバイトに明け暮れる。ツアーなどがあるとバイトも休むことになるから、おのずとバイトの種類も限られる。睡眠時間などもめちゃくちゃだ。
幸い、やる気が認められてからは、安い給料ながら、事務所の雑用係に雇ってもらえることになった。電話番、運転手、荷物運びといった仕事が中心だ。まあ、テレビ局の制作現場でいえば、アシスタント・ディレクターのようなものだろうか。そして楽器の管理を任されるうちに、演奏の腕と電子楽器の知識も認められ、晴れてバンドの一員として迎えられたわけだ。
「ガイア・コンソート」は僕を入れて七人編成である。
リーダーが尺八・オーボエ・サックスの持ち替え。ベースとチェロが一人ずつ。そしてパーカッションとキーボードが二人ずつというかなり変則的な構成だ。パーカッションとキーボードが二人ずついるのは、バンドが民族楽器や自然界の音などを多用した「エコロジー・ミュージック」を売り物にしているからだ。
僕はもともとキーボーディストというわけでもなかった。中学生の頃はギター小僧だった。キーボードをやるようになったのは高校に入ってからだ。「ガイア・コンソート」ではセカンド・キーボードということになっているが、曲目によってはシタールなどの民族楽器や生ギターなども弾く。
僕らのステージには、様々な民族楽器が並ぶ。それでも本物を用意できない部分を、僕のキーボードが補う。僕のキーボードはサンプラーと呼ばれる電子楽器に接続されていて、どんな音でも記憶して、自由に呼び出して演奏することができる。サンプラーの中には世界中の民族楽器と自然音がサンプリングされている。左手で波の音を再生しながら、右手ではカモメの声でメロディーを演奏するなどということも自在にできる。確かに便利だが、ステージではあまり見映えがしない。
「エコロジー・ミュージック路線」というのは、リーダーが一年ほど前から意識して始めたもので、世の中のエコロジー・ブームに乗って、最近ではかなりメジャーな仕事も入ってくるようになった。
今日のステージは決して「メジャー」な仕事とはいえないが、ギャラが異常に高かったらしい。「自然との調和」を売り物にしている施設としては、世界的な環境保護運動キャンペーンなどにも参加しているガイア・コンソートはどうしても招聘したいバンドだったのだろう。
僕としては、本当のことを言えば、いかにもエコロジー・ブームを意識したような彼の最近の作品作りに多少疑問を抱いている。音楽としての質が落ちたとは思わないが、なぜ、そこに波の音やカモメの鳴き声が入る必然性があるのか、今一つしっくりこない。
しかし、リーダーはこの手法をすっかり気に入っているようで、相談というのもそのことだった。
「次のアルバムでは、海洋生物の声を多用しようと思うんだ。クジラ、シャチ、イルカ、アザラシ、トド、セイウチ、ペンギン……。今でもイルカの声とかはサンプリングしてあるけれど、音質がイマイチだし、種類も少ないだろ。だから新しくそういう音源が欲しいんだよ。特にシャチの声が欲しいな。あれは使えそうだよ」
リーダーは肩まで伸ばした髪の先をいじりながらそう言った。
「でも、まさかマイクとテレコ持って、今から北極海に録音しに行くってわけにもいかないですよね」
僕は言った。
「まあ、そういうこったな。とりあえず、ここの水族館の館長に話をつけておいたから、シャチとかイルカとか、まあ、クジラ以外の動物はここで録音できると思うんだ。やってもらえるかな。録音ってことになると、譲島君のほうが僕よりもずっとよく分かっているから」
本当は、なぜ動物の声にそれほどこだわる必要があるのかという根本的な部分で疑問をぶつけたかったが、やはり言えなかった。ボウヤからようやくバンドの末席へ入れてもらえた身としての遠慮ということもあるが、それを言うことは自分で自分の首を絞めることにもなるからだった。
今ステージで使っているイルカやカモメの声は、僕が既製のCDなどからこっそり無断サンプリングして編集したものが多かった。
もともとバンドのメンバー入りを果たせたのも、キーボード奏者としての実力より、そうした技術屋的才能を買われたふしがある。バンドがそうした要素を捨ててしまうということになれば、僕の存在意義は限りなく希薄になる。メイン・キーボーディストのオトヤンは、日本でも十指に入ると言われるAクラスのプレーヤーだ。僕がキーボードの実力で彼を追い落とすなどということは永遠にありえないだろう。逆に、ここでリーダーの期待に応えて、新たなサンプリング音源を手に入れられれば、バンド内における僕の存在価値をアピールできるだろう。
水族館の協力で、海洋生物の声を録音し、サンプリングする……想像するだけでやっかいで難しそうな作業だが、引き受けないわけにはいかなかった。
それにしても、どうやればうまく録音できるのだろう。水中マイクなども必要だろうか。
僕は途方にくれながらも、「やってみます」と明るく答えた。

━━━━━━━━━●━━━━━━━━━
野外コンサートの三日後、僕は一人で再び「オルカ・ジョイ」を訪ねた。
水中マイクは、買うととんでもない値段だということが分かった。借りることを考え、楽器やPAシステムのレンタル屋に問い合わせてみたが、どこにもなかった。仕方なく、愛用のポータブルDATデッキと普通のマイクを数本持っていった。
館長はまだ四十代の、精力的な男だった。大手の水族館の飼育係主任をしていたところを引き抜かれたのだという。給料も相当上がったに違いない。
「今ちょうどシャチのトレーニングをしているところですよ。トレーナーの振る指揮棒に合わせて歌を歌うという芸もありますから、うまくすれば録音できるかもしれませんよ」
そう言われて、僕はさっそく、まだ未公開のシャチのプールへ案内してもらった。
シャチのプールは二つあった。一つはショーのための観客席付きの大きなもので、もう一つはその楽屋とでもいうか、ショー以外の時間にシャチが待機しているためのものらしかった。
観客席の一部はまだ工事中で、作業員が客席の取りつけ工事をしている最中だった。僕はそれに隣接した、客席なしのプールのほうに案内された。
プールは高さ二メートルほどの塀で囲まれていて、すぐ向こうは太平洋だった。既に陽が傾き、海は輝きを失いつつあった。
男女のトレーナーが一人ずつ、二頭のシャチを相手に芸を教えている。折しもシャチに声を出させるという芸のトレーニング中で、水面から首を高く突き出したシャチが二頭並んで、トレーナーが振るタクトに合わせて甲高い声を上げていた。
他に飼育係らしき人が三人、それを見守っている。
その中の一人、中年の女性が、僕と同じDATデッキを持って、シャチの声を録音していた。しかしよく見ると、彼女だけ制服を着ていない。
「あの方は?」
僕は案内してくれた館長に訊いた。
「ああ、今日も来ている。熱心だなあ。あの人は木畑先生といって、生物学の先生ですよ。生物音声学とか生物言語学とかいう研究をしているそうなんですがね。ここ三日ばかり泊まり込みで通ってきていましてね。そうだ、譲島さん、木畑先生にお願いしてみたらどうです? 先生の研究室には、世界中のありとあらゆる動物の鳴き声を録音したテープがあるそうですよ」
まさしく渡りに舟だ。しかし、学術研究者が、エンターテインメントへの使用を目的としたテープの貸し出し要請に首を縦に振るだろうか。
僕はとりあえず彼女から少し離れた場所に立ち、用意したデッキとマイクでシャチの声を録音し始めた。
しかし、隣のプールで工事している音や、園内の客たちの声などが入って、シャチの声を単独できれいに録ることは難しいということがすぐに分かった。これでは音楽作品の中では使えない。
僕は五分もしないうちに録音を諦めてしまった。
やがてトレーニングのほうも終わったようで、生物学者だという女性も録音機材をバッグの中にしまい始めた。
そばで改めてよく見ると、中年と呼ぶのは失礼で、意外と若いようにも見えた。三十前後だろうか。サマーセーターにジーンズといういでたちで、化粧はほとんどしていない。肩までストレートに伸ばした髪も油っけがなく、なるほど学者と言われればそんな気もする。
声をかけるきっかけを捜していると、向こうから近づいてきた。
「あなたもシャチの声の録音? うまく録音できて?」
「いいえ。周囲の雑音がいろいろあったから」
「でも、シャチの言葉が聞き取れないほどの雑音じゃないでしょ」
彼女はシャチの声ではなく、「言葉」と言った。
僕が返答に困っていると、館長が間に入って紹介してくれた。
「こちら、譲島収さん。ガイア・コンソートのメンバーで、シャチの声を音楽に取り入れたいということで見えられたんですよ」
彼女は黙って僕の目を見つめた。何かいかがわしい商品を扱うセールスマンを見るような目だった。
「こちら、木畑(こばた)先生。生物化学研究所でご活躍なさっている……」
「{傍点 }ご活躍{/傍点}はしておりませんのよ、残念ながら。なにしろ実用性が低い道楽と見られている研究なので、研究費も雀の涙でして……」
そこまで言いかけて、木畑センセイはふっとニヒルな笑顔を見せ、口をつぐんだ。
「もしよろしければ、少しお話を伺わせてもらえませんか?」
僕はとにかく突破口を開こうと、ストレートにそう申し出た。
「あの、食事はまだでしょう? ここのレストランででも、ご一緒にどうですか?」
今までどんな女性にでも、こんなふうに強引に攻めたことはない。しかし、これも仕事だと思うと必死にならざるをえない。営業マンという人たちは、毎日こんな気持ちになっているのだろうか、などと、ふっと思った。
彼女はあんまり気乗りしていないようだったが、僕が二度三度と頼み込むと、仕方なさそうに承知してくれた。館長は「私の名前を出してくれれば、あのレストランはただですから」と言って、館長室に戻っていった。

ο
夏休みではあったが平日の夕方だったから、レストランは比較的空いていた。
壁面が一部回遊水槽になっていて、カツオや海亀が泳ぐ姿を見ながら食事ができるようになっている。
「本当はこういうのって好きじゃないのよ」
その水槽を見ながら、木畑センセイは言った。
席に着くなりこう切り出されては立つ瀬がない。それに、何が嫌いだというのか。こういうレストランが嫌いだというのか、それともこんなふうに男に誘われて一緒に食事をすることが嫌いだというのか。
「魚が嫌いなんですか?」
そう訊いた後で、ひどく間の抜けた質問だと思ったが、後の祭りだった。
「どういう意味?」
案の定、彼女は苦笑しながらそう問い返した。しかし、それはこっちの台詞ではないか。
いささかむっとしながらも、僕はできるだけ笑顔を絶やさないように意識しながら言った。
「いえ、女性の中にはたまーにいるでしょう? 食べ物としての魚じゃなくて、魚という存在そのものを気持ち悪いと感じる人が。そういう人だったら、こういう場所では食欲も出ないかなと思って。でも、先生は生物学者ですもんね。それはないですよね」
「センセイはやめてよ」
そう言いながら、彼女は思い出したようにバッグの中から名刺を出して僕に差し出した。
[生物化学研究所 主任研究員 木畑地歩実]
名刺にはそう書いてあった。
「チホミと読むんですか?」
「そう。発音しにくい名前でしょ。大学のとき、言語学の教授に叱られたわよ。『あんたの名前は日本語の歴史の重さを無視しとる。こんな音の並び方は日本語の歴史の中ではとっくに淘汰されてきたものだよ。チホミ|チオミ|チヨミ|チョウミというようにね。親はどういうつもりで付けたのかね』って。そんなこと言われても、私の責任じゃないものねえ」
「でもいいお名前じゃないですか。一歩一歩、地に足をつけて進み、実りある人生を全 うする……ってことですかね」
「そうね。親もそう言っていたわ。確かにその意味は私も好きなのよね。でもなにせ音がね。あなたは……」
「すみません。僕は名刺を持っていないんです。譲島収っていいます。譲るって字に、島国ニッポンの島。オサムは収穫の収っていう字です」
「島を譲って事を収めたわけね。なんだか縄文人の敗北の歴史を表したような、悲しい名前ね」
どうやらとことん口が悪いセンセイらしい。
「そうそう、さっき、こういうのが嫌いって言ったのはね、生き物が人工的な囲いの中に閉じ込められているのを見るのが嫌いだって意味よ。だから、大きい声じゃ言えないけど、動物園って大嫌いなのよ。ペットショップも嫌い。最悪なのは、よく観光地なんかで狭い檻にクマとかサルとかが閉じ込められているでしょ。排泄物がこびりついたコンクリートの床とか鉄のスノコの上で。ああいうのに行き当たると目眩がするわ」
「すみません。じゃあ、他の場所にすればよかった」
「いいのよ。それにここって、一歩外に出たらレストランも喫茶店も何もないわよ」
確かにその通りだった。あるのは発電所とテトラポッドが積み上げられた海岸だけだ。
「でも、生物学者で動物園が嫌いというのはきついですね」
ようやく僕らの存在に気がついたウェイトレスに手を挙げて合図を送りながら、僕は言った。
「そう。仕事を間違えたわ」
ウェイトレスが水とおしぼりとメニューを持ってきた。
メニューを見ながら、センセイ……いや、木畑サンは言った。
「学生時代、ウサギが殺せなくてね」
若いウェイトレスがぎょっとしたような顔で木畑さんを見た。
「ウサギはこうやって抱えて、耳を開いて、注射器で血管に空気を入れて殺すんだなんて目の前でやられて……あ、私、ハンバーグ。ライスとスープも付けてね」
どうやら菜食主義者というわけではないようだ。
「じゃあ、僕も同じで……」
ウェイトレスは蚊の鳴くような声で「ハイ」と言って下がっていった。気張った声で復唱したりしないのは、店長の教育がいいからか、それとも最初から何も教えていないのか……。
「それで、音声学とか言語学のほうに回り道して、最後に生物言語学ってのを提唱してみたわけ。生物の声によるコミュニケーションを研究する分には、殺さなくていいでしょ?」
「はあ……」
「それにね、これはもしかしたら人類の存亡がかかっているかもしれない大変な研究なのよ」
そう言うと、木畑さんは両手で顎を支え、挑戦的な眼差しで僕を見つめた。
よく喋ってくれるのはありがたいが、これではどこから話を切り出していいのか分からない。僕はシャチやイルカがどんな話をしているかということよりも、彼らの声をクリアに録音したテープが欲しいのだ。
「研究室には海洋生物の声を録音したテープがたくさんあるそうですね」
僕は話題の軌道修正を試みた。
「海洋生物だけじゃなくて、声を出す生物のものは大抵あるわ。最近は植物の体内電流なんかもデータとして研究しているのよ。電位差を音で表してみたりしてね。これが結構面白いのよね……」
「クジラとかシャチとかアザラシとかもありますか?」
話が再び逸れないうちに、僕はそう訊いた。
「もちろん。海洋生物はほとんどあるわね。クジラの歌なんて、全部聴いていたら丸一日かかるくらいの量のテープがあるわ」
「それって、貸し出しとか、コピーとかはできないんでしょうね」
「音楽に使うわけ?」
「ええ……」
僕は正直に望んでいることの概要を説明した。
彼女は暫 くの間、黙って僕の説明を聞いていたが、すぐにこう質問してきた。
「なぜ人間の音楽に、クジラやシャチの歌声を取り入れなければいけないわけ?」
自分でも疑問に思っていることだけに、きちんと説明することはできなかった。しかし、ここで引っ込むわけにはいかない。
僕は少し考えた後、自分の立場を正直に告白することにした。
僕がいかにリーダーの昭元ガイアを尊敬しているか。彼のバンドで演奏できるということが、僕にとってどれだけ大変なことか。そして、僕としては最近の彼の「エコロジー・ミュージック路線」に少し疑問を抱いているのだが、立場上、面と向かって異議を唱えることなど到底できないということを。
この説明は結構長い時間を要した。途中で、注文したハンバーグが運ばれてきた。木畑さんはハンバーグが来てからはほとんど一言も喋らず、黙々と料理を口に運びながら僕の話を聞いていた。
おかげで、彼女がすっかり食べ終わっても、僕の皿は半分以上手がついていなかった。
「あなたはなかなか魅力的な人だわ」
紙ナプキンで口を拭いながら、彼女は唐突にそう言った。
「はあ?」
「はあ、じゃないでしょ。誉めているのよ。もっともこんなオバサンに好かれても嬉しくないかもしれないけれど、人から好意を持たれるってことは悪いことじゃないわよ。そもそも私ね、興味のない人の場合、センセイって呼ばれようが君付けで呼ばれようが無視しているの。さっき、センセイと呼ばないでって思わず言ってしまったとき、ああ、私はこの青年に好意を持っているんだなあって気がついたのよ。その気持ちが、なんとなく今のあなたの話で固まったわ」
「はあ……どうも……」
僕は返答に困って、目の前のハンバーグを片づけ始めた。
なんだか妙なことになってきた。
 敵国の女性官僚に取り入る秘密諜報員のように、この少しアブナイ女性研究者を色仕掛けで落とさなければならないのだろうか?
困惑したままハンバーグを食べ続けている僕に向かって、木畑さんはこう追いうちをかけてきた。
「私、あなたともっといろいろな交流を深めてみたいわ。一度、私の研究室に遊びにいらっしゃいよ。テープだって、聴かせるだけならタダだしね」
僕はハンバーグを口に入れたまま、こっくりと頷いた。

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生物化学研究所は、東京の北端、埼玉県との県境に近いのんびりとした場所にあった。付近には畑と新興住宅地、そしてゴルフ場が点在している。
研究所の裏手にはテニスコートと畑があって、まだ昼前だというのに白髪の男性二人がテニスに興じていた。遠目から見てもインテリ風の風貌だし、ここの研究者に違いない。
隣接した畑に一人黙々と鍬を入れている老人も、もしかしたら偉い学者センセイなのかもしれない。一体どういう研究所なのだろう。
都心の住民が見たらため息が出そうな広々とした駐車場に、事務所のハイエースを入れる。荷物室にはドラムセットとキーボード類を積んだままだ。なんだかひどく場違いな気はする。
受付係の老人は、温和な顔立ちのわりにはかなり厳しいチェックぶりで、運転免許証の提示まで求めてきた。
生物化学兵器の研究でもしているのだろうか。盗まれるとヤバイ細菌とか種子などがあるのかもしれない……などと考えているところに、木畑さんが現れた。
「いらっしゃい。待ってたわよ」
僕は彼女の後について研究所に入った。
正面の階段を彼女はすたすたと上っていく。ぴっちりとしたジーンズのヒップラインが、なかなかカッコイイ。少なくともこうして後ろから見ている限りは、なかなかのスタイルだということに気がついた。
どこまで上っていくのだろうと思っているうちに、とうとう最上階の五階まで上ってしまった。すぐ脇にエレベーターがあったのに使わないのは故障中なのだろうか。いや、きっとこれが彼女の健康法なのだろう。
研究室は廊下のいちばん奥だった。
「この研究所いちばんの窓際族、ゴクツブシだからね、私は。だからいちばん陽当たりの悪いこの部屋なのよ。でも、研究室を一つ独立して与えられているだけでも大変な贅沢なのよ。主任研究員と名が付く研究者の中では私がいちばん若いしね。もっとも、助手も所属研究員も一人もいないから、主任は名ばかりだけど。所長とできているからわがままを許されているんだ、なんて噂もあるらしいわ」
部屋に入るなり、何も訊きもしないうちから、彼女は初対面のときと同じ調子でそんなことを一方的に喋り始めた。
研究室には録音機器やオーディオ装置が置かれていた。窓際にセットされた巨大なスピーカーは手作りで、塗装もされていないラワン合板に、スピーカーユニットがむき出しで取りつけられている。
「じゃあ、お茶を入れる間、オーソドックスにザトウクジラの歌でも聴いていてちょうだい」
そう言うと、彼女は据え置き型のDATデッキにテープをセットして再生し始めた。
ここではザトウクジラの歌がスタンダード・ナンバーらしい。
「いいでしょ。これは一九九○年に流行していた歌なのよ。ザトウクジラの歌の世界にも流行があってね。これは結構ヒットしたほうじゃないかな」
「はあ……」
腹に響くような超低音が部屋中に響き渡る。音を聴くというよりは空気の揺れに身体が共振するという感じだ。
そこから一気に数オクターブ上の高音域に飛び移る。こんな広い音域をカバーできるのは、楽器ではパイプオルガンくらいだろう。
クジラの声の迫力や歌のテクニックもさることながら、再生装置の優秀さにも驚かされた。手作りの無骨なスピーカーがこんな超低音を再生するとは。
「凄いですね。一○○ヘルツ以下の音が出ているのかな」
僕は感心して訊いた。
「一○○ヘルツ以下の音を中高音と同じレベルで再生したら大変なことになるわよ。もちろん数十ヘルツの音も出ているけれど、それは身体に感じるかどうかという程度で、スペアナで測定すれば微々たるレベルだと思うわ。それでも市販のオーディオ・スピーカーじゃ、なかなかこういう超低音は再生できないのよね。これは母校の工学部の学生を口説いて作らせたの。アンプもその子の手作りよ。まあ、予算がないからってこともあるけれどね」
ザトウクジラの歌はノイズもなく、音質も申し分なかった。これならばそのまま音楽に使えるだろう。この調子だと、他のテープもなかなか期待できそうだ。僕は彼女のペースに巻き込まれないうちに、テープをコピーさせてもらうための説得を始めた。
「うちのリーダーの音楽、聴いたことありますか?」
音楽に共感してもらえれば、見通しはずっと明るくなる。僕はガイア・コンソートのCDを何枚か持参していた。
「ガイア・コンソートか……。傲慢な名前よね。ガイアってどういう意味だか知っている?」
「ええ、『生きている地球』っていう意味だと……」
「もともとはギリシャ神話の大地の女神のことよ。でも、『生きている地球』っていうことの本当の意味を分かっていたら、とても恥ずかしくて自分の名前になんか使えないと思うわよ。クジラの声と勝手にデュエットして、『生きている地球』を表現する音楽をやっているような気になるっていう程度のことでしょう、どうせ」
それは確かに僕も多少感じていたことだった。しかし、いきなりこんなふうに決めつけられると反発したくなる。
「あくまでも、人間が創り出した音楽として評価してほしいんですよ。まあ、音楽なんて感性の世界のものだから、趣味が合わなければ何の説得力もないけれど……。よかったら聴いてみてください」
僕はショルダーバッグの中から『WAVES & SONGS』というタイトルのCDを取り出して言った。
「いいわよ。じゃあ、いちばんのお勧めを聴かせて」
僕は彼女に三曲目の『オルカのため息』という曲を指定して、CDを渡した。
彼女は流れているザトウクジラの歌のテープを止めて、CDプレーヤーに僕が渡したCDをセットした。
やがてスピーカーから波の音とシャチの鳴き声が流れてきた。それにかぶさるようにオーボエが入ってくる。最初はメロディーともいえないような頼りなさそうなフレーズだが、次第にはっきりとしたソロに変わっていく。やがてチャンゴという朝鮮の太鼓とガムランというインドネシアの民族楽器が加わる。オーバーダビングした尺八が、低音部で、ゆったりとした潮流を思わせるメロディーを奏でる。
四分ほどのその曲を、彼女は黙って聴いていたが、曲が終わるとCDを止め、「勘違いをしているのよ」と言った。
「勘違いって……?」
 僕は問い返した。
「この冒頭に入っているのはシャチの歌じゃなくてお喋りなの。ドレミファで構成されるメロディーとは関係ないのよ。シャチはね、一つの鳴き声の最初と最後の音の高さの差、そして一声の長さと音程の変化するカーブの形で何十通りの表現をしているの。それを分からないで、こんなふうに耳に聞こえたちょっとした印象で似たようなメロディーを楽器でかぶせるなんていうのは、シャチにしてみれば勘違いもはなはだしいわけ。例えばあなたが道で会った人に、『こんにちは。駅へ行く道を教えてもらえませんか?』って言ったとき、相手があなたの言葉に合わせて鼻歌を歌い出したらどう思う?」
「そんな……。学術的にはどういう説明ができるのか知りませんけれど、そんなロマンのないこと言わないでくださいよ。そんなこと言い出したら、音楽なんて……」
彼女は僕の言葉を制して、さらに続けた。
「私はね、別にシャチには音楽を解する能力がないとか、そういうことを言っているんじゃないのよ。シャチは音楽を楽しむ能力も持っているの。これを聴いてみて」
そう言うと彼女はラックから別のDATテープを取り出し、デッキにセットした。
やがてスピーカーからシャチの甲高い声が流れてきた。ノイズのない、きれいな録音だった。これならそのままサンプリングして音楽に使えると、僕は素早く計算していた。
「これがシャチの歌よ」
暫くして彼女はそう言った。
しかし、僕にはその言葉の意味がすぐには分からなかった。
「これに楽器をかぶせるというのなら、まだ勘違いは半分で済んでいたのよ。でも、さっきの『オルカのため息』という曲の冒頭に入っているシャチの声は、歌じゃなくてお喋りなの。分かる?」
「え?」
僕には同じような「シャチの鳴き声」としか聞こえなかった。
「さっきのCDに入っているのは会話で、こっちは歌なんですか? 僕には同じように聞こえるけれど……」
「それはあなたがまだシャチの音楽規則をマスターしていないからよ。音楽っていうと、どうしてもドレミファ……のメロディーにとらわれてしまうのね。でも、十二音階というのは、人間の脳に心地よく響くよう、都合よく考案された規則にすぎないのよ。シャチにはシャチの音楽規則があるの。人間の可聴範囲を超えた周波数や音の変化も、彼らの音楽にとっては重要な要素になっているの。たとえシャチの歌に人間が楽器を組み合わせたとしても、やっぱり半分は勘違いしているっていうのはそういう意味。別の音楽規則のものを、無理やり自分たちの都合のいいように利用しているわけよね」
僕はどう返事をしていいのか分からなかった。
さんざん考えた末に、こう訊いてみた。
「シャチの音楽を理解しないで、彼らの声や歌を単純に素材として人間の音楽に導入するというのはいけないことなんですか? つまり……シャチに対して失礼というか……」
木畑さんは笑いながら答えた。
「さあ、それはどうかしら。例えば人間のオナラの音を聞いて最高の音楽だと感じる生物がいたとしても、別に人間が文句を言えることではないでしょうしね。勘違いではあっても、失礼かどうか、いけないことかどうかってことは、私には言えないわね」
なんだか一種の禅問答のようになってきている気がした。
僕は「説得」を諦め、改めて正面からぶつかってみた。
「ここにあるテープの一部をコピーして使わせてもらうわけにはいきませんか? きっと物凄い苦労と費用をかけて集めた音だろうから、簡単に使わせてくださいなんて言うことが図々しいのは十分承知しているんですけれど……」
木畑さんは暫く黙っていたが、やがて椅子から立ち上がり、窓から外を見ながらこう言った。
「本当は簡単にOKしてもいいんだけれど、一つだけリクエストしてもいいかしら」
「ええ。何ですか?」
彼女に承諾してもらうのはかなり難しいと思っていた僕は、見通しが明るくなってきて、思わず上ずった声を出していた。
「明日の夜、私とデートしてくれない? あの『オルカ・ジョイ』のそばの海辺で。あなたを見ていたら、だんだん欲が出てきてしまったの。別に強姦したりはしないから……」
思いもかけない「条件提示」に戸惑ったが、沈黙の長さは相手への失礼にあたるかもしれないと気づき、僕はとりあえず答えた。
「夜のドライブの目的地としてはちょっと遠い気もするけれど……いいですよ」


2/3

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翌日は昼間に練習があった。来月末から始まるコンサート・ツアーに向けてのリハーサルだ。秋に発表するニューアルバムの中の曲も何曲か演奏するので、結構念入りな練習になった。
それが終わると夜の八時近くになっていた。
メンバーと別れて、僕は木畑さんと約束した待ち合わせ場所である常磐道の守谷サービスエリアに向かった。
彼女は約束の夜十時を五分過ぎてから、まるで消防署の車と間違えそうな赤いライトバンを運転して現れた。
「よかった。来てくれたのね」
彼女はそう言うとライトバンをそこに置き、大きなショルダーバッグを担いで、僕が乗ってきたハイエースの助手席に乗り換えた。
目指す『オルカ・ジョイ』はここからさらに二時間以上かかる。もちろん夜中に着いても閉まっている。どういう理由であそこに向かわなければならないのか分からなかったが、目的地が遠いことを除けば、彼女と夜中のドライブをすること自体は少しも迷惑ではなかった。
彼女は女としても決して魅力がないわけではない。歳は訊いていないし、結婚しているかどうかも知らないが、雰囲気次第では……ということも考えないわけではなかった。
しかし、彼女は寂しさを紛らわせるために、十は年下であろう僕を単に遊び相手として選んだのだろうか。もしそうだとしたら、こんな面倒臭いデートの仕方をするだろうか。わざわざ夜中に「オルカ・ジョイ」に行くというからには、何か特別な理由があるのではないか?
走り始めてすぐ、僕はその疑問を口にした。
「あなたに惚れたからよ。欲が出たって言ったでしょう?」
彼女はそう言った。
全然意味が通じない。
「惚れたっていうのはどういう意味です? 欲っていうのは、どういう欲ですか?」
僕は追及した。
「私は孤独なのよ。自分の研究に、私自身はかなり自信を持っているの。前にも言ったでしょ。この研究こそ、人類の存亡を決めるかもしれない重要なものなんだって。誰に説明しても本気にしてくれないんだけれどね」
「でも、ちゃんと研究を続けていられるじゃないですか」
彼女は少し沈黙した後、こう続けた。
「所長の女だって噂されてるって言ったでしょ。噂じゃなくて、本当なの。そうでなければあんな研究、とても続けられないわ。でも所長はおよそ私の研究の内容を理解できるような人じゃない。どうやって国から研究費をだまし取るかってことと、アカデミズムの世界で自分がどれだけのステイタスを得られるかってことにしか興味がない、ただの凡庸な御用学者よ。そんなくだらない男の女王様遊びの相手をしながらも私が続けている研究のことを、もしかしたらあなたは分かってくれるかもしれないって思ったの」
運転しながら彼女の告白を聞いていて、僕は次第に気が重くなった。科学者たちのそんなどろどろとした世界のことなど、僕には何の関係もない。
ただ、僕は「孤独」という言葉に弱かった。
しかも、女性から「孤独」という言葉をストレートにぶつけられたのも初めてだった。
どこまで彼女の期待に応えられるかはまったく自信がなかったが、今夜のこの風変わりなデートに僕がつき合うことで、彼女が少しでも幸福感を味わえるならばそれでいいと思った。ただ、それがあのテープをコピーさせてもらえる代償だと考えると、まるでホストクラブのホストになったみたいで、たちまち嫌な気分になったが……。
「あなた、お酒は強いほう?」
突然木畑さんが話題を変えてきた。
「まあ、普通ですね」
「そう。それならば平気ね。夜は長いから、これ、眠気ざまし」
彼女は深緑色の丸薬を二粒、僕の目の前にぬっと差し出した。
「何ですか、これ」
「ウサギのうんち」
「……」
「嘘よ。眠気ざまし。居眠り運転の防止。これで呑んで」
そう言うと、彼女はバッグの中から缶コーヒーを出して、さっさとプルトップを起こした。随分用意がいい。
僕は薬というものをそもそも好きではないのだが、断るのも面倒なので、言われるままにその丸薬を缶コーヒーで飲み下した。
舌の奥に、何とも言えない苦みが残った。
僕が飲み下すのを確かめると、彼女も同じ薬を口に放り込んだ。横目で盗み見ると、量は僕の二倍の四粒だった。
「まさか、怪しい薬じゃないでしょうね」
僕は急に不安なものを感じて訊いた。他人から貰った薬は絶対に呑んではいけないと誰かが言っていたのを思い出して後悔したが、もう遅い。
「大丈夫」
説明の多い彼女にしては、簡潔すぎる返事がかえって不気味だった。不安が膨らみ、さらに訊こうとする僕の機先を制して、彼女はまた話題を変えた。
「ボイジャーって知っている?」
「宇宙船の名前か何か?」
「そう。アメリカが打ち上げた惑星探査機。今頃は太陽系の外に向かって千二百万年続く旅の途中ってことになっているわ。あれにザトウクジラの歌が積まれているのを知っている?」
「クジラの歌が?」
「そうよ。金メッキをした銅板のレコードにね、国連事務総長やアメリカの大統領の挨拶とか、バッハの宗教音楽とかと一緒に録音されているの」
「夢のある話ですね」
「そうかしら」
木畑さんはそう言うと、缶コーヒーの残りを飲み干した。
「私は小賢しい演出だと思うわ。『宇宙開発』という名の陰謀を美化するためのね。でも、もしもあの惑星探査機が本当に今の人類よりも理知的な生物に発見されたら、その知的生命体は、ザトウクジラの歌によってのみ本当の地球を知るかもしれない。私はそう思っているの。地球の歴史の真実が、クジラの歌に隠されているから」
どうも彼女は科学者というよりは宗教家にでもなったほうがよかったのではなかろうか。それとも学者という人種の中には、往々にしてこういうタイプが紛れ込んでいるのだろうか。
僕は何か言おうとしたが、うまい言葉が見つからなかった。
彼女は一人で喋り続けた。
「アイヌのユーカラのように、文字を持たない種族が自分たちの子孫に何かを伝えていこうとする場合、歌に託すという方法があるわけね。クジラの歌もそうなの。人間に聞こえている部分以外でも、クジラたちは太古からの種族の記憶を歌に託して子孫に伝えているのよ。ほんの数秒の短いフレーズの中に、実は高度に記号化された膨大な量の情報が隠されているの。ほら、長い文書も、モデムを通して音声信号に変換すればほんの数秒の信号に置き換えられるでしょ。ピー、ガーっていう。あれと同じね。ただ、人間はその記号を読み出すだけの力がないのよ。変換方法を知らない人には、あの信号がただのピー、ガーというノイズにしか聞こえないのと同じように、人間にはクジラの歌の中身が読みとれないのよ。私はそれを読み出そうと研究しているの」
話としては実にユニークで面白い。信じる信じないは別として、僕はこの際とことん彼女の御伽噺につき合ってみようと思った。
「それで、解読には成功したんですか?」
「少しだけね。まだイメージの段階というか、細かい部分は全然理解できないのよ。でもね、大筋は分かりかけているの」
「どういうふうにですか?」
「一つはね、太古の地球上に、進んだ文明というのは二回あって、二回滅んだのね。一つはナメクジのような生物が築いていた精神文明。テレパシーによる精神世界を高度に発達させたんだけれど、物としては何も残さなかったの。ラジカセも高層ビルも、自分たちの肉体の化石すらもね」
「だから今となってはその文明が存在したという証明はまったくできないわけですね」
「そう。形が何も残らないって、素敵なことね。で、次は植物を使った物質文明。かつて、加工すると石油以上のエネルギーを生む植物があったの。それを利用して今の人類に近い種族が高度な物質文明を築いたのね。これがゴミを出す文明の第一号だったの」
「ゴミを出す文明?」
「そう。今の人間と他の生物の根本的な違いの一つは、ゴミを出すか出さないかということよ。人間以外の生物は、生態系が処理できないような量や質のゴミは出さないもの。死んだ後も、ガイアの中に取り込まれて、新しい生命のための養分になる……これが『ガイア』という言葉の本当の意味よ。生きている地球っていうのは、そういう意味なの」
「なるほど」
その話には素直に頷けた。
人間は、ガイアの中で完結できない化け物にいつの間にか変化してしまったのだろう。
でも、それは仕方のないことではないか。
クジラがどれほど高度な精神世界を持っていても、彼らの音楽を僕らは理解できない。僕はクジラの歌声よりも、昭元ガイアの電子尺八が奏でるメロディーのほうを信じるだけだ。
黒いフェラーリが、とんでもないスピードで、僕らを乗せたハイエースを追い抜いていった。暫くして、赤色警告灯を点滅させたパトカーが後に続いた。
「ボイジャーには、金メッキのレコードの他に、秘密の荷物が積まれていたと思うの。何だか分かる?」
木畑さんが言った。
「さあ……」
僕は深く考える前に答えた。
「凍結受精卵。もちろん人間の。宇宙開発というのは、今の文明の滅亡を知っている人たちが考えた逃避なのよ。宇宙の果てに向けた探査機にレコードをのせて、凍結受精卵をのせていないはずはないわ」
その発想のユニークさと鋭さに感心はしたものの、もちろん僕は本気にはしなかった。
最終のインターを降りるまで、黒いフェラーリも追いかけていたパトカーも見ることはなかった。

ο
「オルカ・ジョイ」は、照明もほとんど消え、殺伐とした海岸沿いの土地の中で巨大な黒い砦のように眠っていた。
インターを降りてから運転を代わった木畑さんは、フェンス沿いの道のない荒れ地に乗り込み、海岸近くの空き地で車を停めた。
すぐ隣は例のシャチのプール、目の前はテトラポッドに隔てられた暗い海だった。
木畑さんは車を降りると、大きなショルダーバッグを担いで、シャチのプールを囲んでいる金属製の塀に向かって歩き始めた。
僕も黙って後に続いた。
塀を背に、僕たちは地面の上に腰を下ろした。
地面は砂地で、ところどころに背の低い雑草が生えている。砂が適度なクッションになるため、それほど尻が痛まずに済む。
目の前の海から聞こえる潮騒に混じって、頭の後ろからはシャチのプールのかすかな水音が聞こえる。シャチは今もこの塀の中でゆっくりと旋回し続けているのだろうか。
「じゃあ、トリップしようか」
木畑さんはそう言うと、バッグの中からドリンク剤の瓶を二本取り出して、僕に見せた。
「トリップ?」
僕はぎょっとして彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。法律に触れるようなものじゃないから。私が、ある植物から抽出した傑作発明品よ。まだ世の中には知られていないから、規制する法律もないの」
「やばそうだなあ。副作用でショック死したりして……」
「多分大丈夫」
「多分?」
「うーん、『多分』で駄目なら、『ほとんど』大丈夫。なにしろまだ私以外にはほとんど実験していないから、安全性のデータは確立していないのよ。でも、私はもう百回くらい試しているけれど、今のところ死んでいないし、中毒性もなさそうよ」
「百回もやっているってことは、十分中毒しているんじゃないですか?」
「そんなことないわよ。禁断症状はないもの」
僕はドリンク剤の瓶に入った得体の知れない液体をじっと見つめた。
暗いから色などは何も分からない。液体であるということだけが分かる。
「もしかして、さっきくれた妙な薬も……」
「あれはね、この薬が効くようにするための下準備。あの薬と組み合わせないと効果がないの。あれを呑んで二時間から五時間くらいの間にこれを飲むわけね。それで初めて効果があるの。どっちも単独で呑んだら効かないし、混ぜ合わせても駄目なの。時間をあけて順番に服用して初めて効くわけ。もっとも、丸薬のほうは、単体で呑むと二日酔いや寝不足のときに気分がよくなる効果があるみたい」
「結構面倒臭いんですね」
「そう。でも、だからこそ今まで誰にも発見されないでいたのよ。まあ、無理にとは言わないけど、音楽家ならあの至福感を味わわないって手はないと思うけどな。これを呑むと、シャチの言葉も分かるかもしれないわよ」
そう言うなり、木畑さんは自分の分を飲み干してしまった。
「私以外には製法を知らないし、これ、細かいことは秘密だけど、作るのに結構手間暇かかるのよ。特に材料はね。天狗しか知らないような貴重品なんだから……」
そう言う木畑さんの目が、心なしか潤み始めている気がする。
僕は瓶の蓋を取り、匂いを嗅いでみた。
ハーブティーのような、うがい薬のような匂いだった。
音楽家なら……という言葉が、僕の心の中の何かをくすぐった。
彼女が百回試しているのだから、間違っても死ぬようなことはないだろう。
僕は思いきって一口含んでみた。
匂いから察した通り、ハーブティーのような、うがい薬のような味だった。あるいは、ちょっと高価な栄養ドリンクのような感じだ。
覚悟を決めて飲み下す。
独特の後味をかみしめていると、どこかから、ミイーという、かすかな鳴き声が聞こえてきた。
アザラシか、イルカか、それとも極彩色の羽に包まれた南国の鳥か……。なにしろこの「オルカ・ジョイ」の中には、世界中の動物たちが押し込められている。
そのミイーという声に呼応するかのように、背後のプールでクイーンという声が上がった。
これは間違いなくシャチだ。
「このひと声の中に、世界の秘密が隠れているのよ」
木畑さんが言った。
「もう少しで分かるのに……」
「もう少しで?」
僕は瓶の中に残った液体を全部、一気に飲み込んだ。
「この目の前の海と、背中の後ろにあるプールと、世界が二つに区切られているように、この世界は二重構造になっているの」
木畑さんの声のトーンが妙に色っぽく聞こえる。薬が効いてきているのだろうか。
「大昔は、世界は一つしかなかったわ。そのたった一つの世界の中に、恋も音楽も哲学も食欲も性欲も……みんなあったの。クジラもゾウもペンギンも、みんなその一つの世界の中で生きていくことに何の疑問も抱かなかった。でも、人間はどうしてもそれに満足できずに、このプールのような世界を作り始めてしまった。今ではプールの中のことのほうが本物のような錯覚をしてね。それを支えている海を忘れてしまったのね」
「随分説教臭い話だな。この薬って、そういうふうな効き方をするわけ?」
僕は彼女の肩に手を回しながら言った。
なるほど、なにがしかの効き目があることは確かなようだ。普段だったら理性に邪魔されて絶対にできないような行動を、今の僕は平気でしている。
彼女は僕の太腿の上に頭を乗せ、僕の膝頭のあたりを指先でそっと撫で始めた。ぞくっとするような快感が頭のてっぺんまで走って、僕は言葉を失った。
「もう一つの世界があるのよ。今、目の前に見えているこの海の中に、私たちが見ようとしないから見えない別の海があるの。そこで営まれる精神の呼吸が生む心の酸素が、私たち人間も含めて、あらゆる生物を支えている。魂の世界なんていう人もいるけれど、イメージとしては間違っているわ。霊界という言葉で表現してもいいけれど、それはこの海の中、地の上に存在しているのよ」
「分かるような分からないような……」
「まあ、少しずつ……ね」
気がつくと、僕のコットンパンツのベルトが外され、ジッパーが引き下げられていた。
何か言おうとしたが、身体が動かなかった。まるで動かないことがいちばん自然なことであるかのように。
僕は目を閉じた。
体の中心部が、生暖かい感触に包まれていく。
「ボイジャーに積まれた凍結受精卵に未来がないことを祈りましょう。あがいたって、二度目のノアの方舟は船出できないわ……」
僕の肉体の突起部が彼女の舌の温もりを感じ取っているのに、同時に彼女の言葉も聞こえてくる。そんなことはありえないはずなのに……目を開けて事態を確認する勇気がない。
僕は今、どうなっているのか?
「もう一つの世界が、人間の傲慢を支えているの。もう一つの世界を知っている住民たちにひどいことをし続けている人間を、彼らが支えているの。恨みよりも大きな力で支えているの。なぜって、それがガイアそのものだから……」
言葉はどこから伝わってくるのだろう。
もはやこれは鼓膜を通しての音声伝達ではない気がする。
彼女が口にくわえた僕の身体の一部を通して、熱伝導のように伝わってくるのだろうか。
ミイー……。
クウーン……。
キュルルルル……。
頭の中で、様々な「言葉」が渦巻いている。
声は少しずつ違っているが、彼らが言っていることはみんな同じだった。そう、同じだということが、少なくとも今の僕には分かる。これもあの薬の効果なのだろうか?
こんなことならば、もっと飲めばよかった。あと一本飲めば、彼らの言葉を理解できたかもしれない。
僕は何かを求めて、両手を差し出した。
その手の中に、やがて柔らかいものが入ってきた。
心地よい重さと、温もりと、弾力と……。
今、目を開ければ、僕は別の世界の入口に立っているのだろうか?
「少しずつね」
耳元で、囁く声がしたような気がした。


3/3

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目覚めたときはもう明るくなっていた。
いつの間に車に戻ったのだろう。僕はリクライニングされた助手席にいた。
頭が痛い。胃のあたりにも何とも言えない不快感があった。
「お目覚め?」
運転席のほうから声がした。
木畑さんが笑顔で僕を見ていた。
顔が朝陽に照らされ、明るいオレンジ色に染まっている。
「残念だったわね。とてもきれいな朝陽だったのに。声をかけても全然起きないんだもの」
直視できないほど光っている海面のかなり上に、既に太陽は昇っていた。
「気分は?」
「最悪ですね」
「やっぱり……。私も最初はそうだったわ。三十回くらいやると全然平気になるんだけれどね。やっぱり初心者に一本はきつかったかな」
そう言いながら、木畑さんはエンジンキーをひねった。
「守谷まで私が運転していくわ。あなたはもう少しそこで寝てなさい」
「僕、どうなってたんですか? 何も記憶がないんですよ」
本当は多少は覚えていたのだが、敢えてそう言った。
「さあ、トリップの最中のことは、またトリップしたときにしか思い出さないのよ。だからいいんじゃない?」
車をゆっくりUターンさせながら、木畑さんは言った。僕もそれ以上は訊かなかった。
下り線のサービスエリアに彼女の車を置いてきてしまったため、帰りは柏インターと谷和原インターの間を一往復半するはめになった。こんなことならばどこかのインターのそばに乗り捨てればよかったと彼女は笑ったが、学者でもそういう計算は苦手らしい。
別れ際、彼女はDATテープが何本か入った紙袋をくれた。
なるべく音楽的な鳴き声で、背後に余計な音が入っていないものを選んでコピーしたという。僕は深々と頭を下げて礼を言った。
彼女と別々の車になった後、僕はそのテープを聴きながら東京へ向かった。シャチの声やトドの唸り声など、どれも見事な音質で録音されていたが、何時間か前に夢うつつで聞いていた声のように、何かを訴えかけてくるような響きは、もう何も感じられなかった。

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それから暫くの間、僕はテープに収められた動物たちの声をサンプラーにサンプリングしたり、リーダーの注文にしたがってイコライジングしたりピッチを変えたりする作業に追われた。
トドの声を細かく刻んでループ状に編集し、アナログ・シンセサイザーの音のように「加工」したりするそのたびに、僕はこれがどんな意味があるのかと疑問に思ったが、その音を聴いて喜ぶリーダーの顔を見ていると、結局何も言えなかった。
リーダーは大満足だった。
おかげで、月末から始まるコンサートツアーでは、何曲かの中で僕も短いながらソロを取らせてもらえることになった。
新しいアルバムの制作も順調に進んでいた。僕はリーダーのリクエストに答えて、木畑さんから貰ったテープを編集し、加工し続けた。
そんなわけで、木畑さんとは連絡がないまま一カ月余りが過ぎた。
あの怪しげな薬をもう一度試してみたいという気持ちもあったが、トリップから覚めたときの頭痛と気分の悪さを思い出すと同時に、これ以上彼女の世界に深入りするのは危ないのではないかという自制心も湧いてくる。それでも、彼女のほうから誘いを受ければ、スケジュールをやりくりしてでも駆けつけたかもしれない。
彼女から連絡はなかった。
そして僕のほうからも連絡をすることはなかった。
そんな自分の「運命任せ」の姿勢がたまらなく嫌だった。
もしかしたら僕は、奇跡に近いような特別な人生を選び取れるチャンスを、みすみす逃しているのかもしれない。「もう一つ」の世界の入口は、すぐそこにあるのかもしれない。
そう思うと同時に、いや、これはただのオカルトかぶれの危ない女に惑わされているだけなのだという声が心の奥で囁く。
そして困ったことに、「もう一つの世界」を覗くために一歩踏み出すことも、「この世界」に留まったまま死んでいくことも、同じくらいに恐ろしく、かつ空しいことのような気がした。

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コンサートツアーは札幌を皮切りに南下して、最後は沖縄で打ち上げというスケジュールだ。その四番目に「オルカ・ジョイ」でのライブステージも組まれている。ほとんどの会場は公民館やコンサートホールなどの屋内施設で、野外ステージはここと沖縄の二か所だけだった。
札幌公演は観客もほぼ満員で成功したが、次の弘前公演は客の入りが悪く、今一つ盛り上がらなかった。
それでも「オルカ・ジョイ」のプールサイドで緊張感のないステージをもう一度やることを思えば、客が少なくても室内でやれるだけいい。
木畑さんから貰ったテープを加工した音源は、このコンサートツアーでもかなり活用されていた。以前の曲用にプリセットされたカモメの声なども、すべて木畑さんのテープからの音源に入れ替えた。音質がはるかによかったからだ。
ステージでこれらの音源を使う度に、僕はひと月前の不思議なデートのことを思い出した。
今となっては現実だったのかどうかもあやふやな気さえするが、実際に僕はあのデートの後で数十種類の動物の声を録音したテープを手に入れ、こうしてステージで使っているのだ。
札幌以上に大盛況だった仙台公演の後、せめて木畑さんにコンサートのチケットでも送ればよかったと気がついた。東京公演は翌々日に迫っていたから、もう無理だった。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうと、自分が情けなくなった。
その夜は、なぜかなかなか寝つかれなかった。
身体は疲れきっているのに、盛り上がったステージの興奮と緊張がさめず、脳が眠ろうとしないのだ。
僕は水割り用の氷を取りにいくため、廊下に出た。ベースの塚田さんが、やはり氷を入れたペールを抱えて戻ってくるのにぶつかった。
「収ちゃん、見た? ニュース」
ツンさんは僕の顔を見るなりそう言った。
足元が少しふらついている。既に相当酔っているようだ。
「ニュース? いいえ」
「明日の会場になっている『オルカ・ジョイ』でさ、酔っぱらいがトドに食われちゃったんだってよ。夜中に入り込んで、トドのプールに落ちたらしいよ」
「本当ですか?」
「うん、さっきもポンさんが、明日の公演に変更はないのかって電話してたよ。大丈夫らしいけどね」
ツンさんはそれだけ言うと、僕の隣の部屋に戻っていった。ドアを開けた途端、中から若い女の声が聞こえた。札幌から始まって、これで三夜連続で違う女性を連れ込んでいる。凄い才能とエネルギーだ。
ペールに氷を入れて部屋に戻ると、僕はサービスで置いてある地方新聞の夕刊を初めて広げた。
見出しよりも先に、見覚えのある顔が目に留まった。縦二センチほどの長円形の写真は、まぎれもなく木畑さんの顔写真だった。
[生物学者、深夜、水族館で変死]
あまりのショックに、なかなか記事を読み始められなかった。
木畑さんが死んだ? あの「オルカ・ジョイ」で……。
記事の内容を把握するのには時間がかかった。
何度読み直しても、途中で混乱してしまうのだ。
ようやく大意を把握することができるまでに、少なくとも五回は読んだのではなかろうか。
今日の早朝、警備員が「オルカ・ジョイ」内のトドの飼育プールに女性の死体が浮いているのを見つけた。死体は両足をトドに食いちぎられていて、既に死後数時間は経っていた。女性は生物化学研究所で生物の音声によるコミュニケーションを研究している生物学者・木畑地歩実主任研究員(三六)で、以前から研究のために時折この施設内の水族館を訪れていたが、昨日は誰も見かけておらず、夜中に無断で施設内に入り込んだらしい。そばにウイスキーのボトルも残されていたことから、酔っていたのではないかとも見られている。木畑さんがなぜ深夜に無断で施設内に入ったのかは不明。
直接の死因が溺死か、それともトドに襲われてのショック死、失血死かは現在検死解剖をして調べている。施設側は、管理上の落ち度はなかったとして、今日も平常営業をした。
……これが記事のあらましだ。
僕は放心状態で、ペールの中の氷をいつまでも見つめていた。
もう、水割りを作って呑む気にはなれなかった。
脳裡に、なぜか宇宙の果てを目指して飛んでいくボイジャーが浮かんだ。ボイジャーがどんな形をしているのかなど知らないのに……。

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翌日、僕はハイエースの運転を、ポンさんことマネジャーの本多さんに代わってもらった。一睡もしていなかったのだ。
リーダーは心配して、演奏にさしつかえるから少しでも寝ておけと言ってくれたが、やはり眠ることはできなかった。
[ようこそオルカ・ジョイへ。直進あと二キロ]
国道沿いに、シャチのマスコットが笑いかける看板が目立ち始めた。頭が重い。少しでも寝られたらいいのに……。
「オルカ・ジョイ」は、何事もなかったように観光客で賑わっていた。ただ、トドのプールだけは閉鎖されていた。
何もいないプールを、ニュースを知っている客たちが好奇の目で覗き込んでは去っていった。
僕はステージのセッティングを済ませると、一人で正門を出て、いつか木畑さんと一緒に「トリップ」した場所に行ってみた。
シャチのプールを囲んだ金属製の外塀は昼間の太陽を浴び、きらきらと光っている。足元の砂も熱くなっていて、ところどころに生えている雑草も萎れていた。
僕は塀に沿ってゆっくりと歩いてみた。
二人で一緒に座っていたあたりに、何か光るものが落ちていた。
ドリンク剤の瓶が二本と、プラスチックのシガレットケース。拾い上げてみると、ケースには見覚えのある深緑の丸薬が五粒入っていた。ドリンク剤の瓶も、一本は中身が入ったままだ。
蓋を開けて匂いを嗅いでみる。ハーブティーのような、うがい薬のような匂い……間違いなくあの「薬」だった。
中身が入っているということは、あの夜、残したものではない。おとといの夜、木畑さんはこの場所で、一人で「トリップ」していたのだろうか?
僕は丸薬のケースと「薬」の瓶をポケットに入れた後、思い立って、丸薬のほうは二粒ほど口に放り込んだ。
前に呑んだときよりも強烈な後味が残った。
突然、猛烈な眠気が襲ってきた。
僕はあの夜と同じように、塀を背にしてその場に座り込んだ。
塀の熱が背中に伝わってくる。
目を閉じて、耳を澄ます。
潮騒やプールの水が揺れる音よりも、園内からの客の歓声やBGMのほうが大きかった。
やがて、僕は浅い眠りに落ちていった。
周囲の雰囲気は把握しているのに、身体が動かない。一種の金縛りのような状態だ。
塀越しに、誰かが押し殺したような声で話しているのが聞こえてくる。
「とにかくシャチじゃあまずいからね」
「そりゃあそうでしょう。ここのマスコット・キャラクターですもんね」
「濡れ衣を着せられたトドはいい迷惑だろうが、まあ、このままなんとかごまかせそうですよ」
「でも、なんでシャチのプールになんか入り込んだんでしょうね」
「さあねえ。あの学者センセイ、結構変人だったから。それにしても、結婚もせずにシャチに食われて死んじまうなんて、どういう人生なのかねえ……」

ο
PAスピーカーから波の音が流れ始めた。
僕はほっとため息をつく。
照りつける太陽のせいで、キーボードの液晶表示がほとんど見えない。
鍵盤上にはいくつかのサンプリング音がセットされている。波の音、カモメの鳴き声、イルカの笑い声、ザトウクジラの歌声……。
ステージの前にはドーナツ型の巨大なプールがあり、その中央部分は人工砂浜になっている。色とりどりの水着を着てその砂浜の上に寝そべっていた男女が、「お、ようやく始まったか」という顔で、一斉に僕らのほうを見る。
鍵盤が熱い。熱でデジタル・キーボードの中の回路が誤作動してしまいそうなほどだ。
そんなことにはお構いなしに、プールに浮かんだシャチの人形が笑っている。
波の音に乗せて、僕はカモメの鳴き声を使った簡単なフレーズを弾く。レ・ミ・ドという三音だけの単純な繰り返し。しかし、カモメの声の微妙なグリッサンド効果のせいで、なんとも不安定な音階に聞こえる。
もう、眠気は感じない。
指先は、演奏に合わせて勝手に動いている。まるでプログラムされた機械のようだ。
観客はいつかのときよりもずっとノリがよく、リズムに合わせて身体を左右に揺すっている。
僕の心は、ステージに上がる直前に呑んだあの薬のせいで、別の場所を求めて漂っている。
別の場所?
そう、もう一つの世界……。
テトラポッドが隔てた海の彼方に重なる、別の世界。僕が今、ここで演奏していられる贅沢を支えてくれている、もう一つの世界を捜して、僕の心はさまよっている。
そんなものは見つからないさと嘲笑うかのように、客席の向こうから巨大なシャチの人形が僕を見つめている。
「でも、なんでシャチのプールになんか入り込んだんでしょうね」
頭の中で、留守録音しておいたテープが突然再生されるように、さっき夢うつつで聞いていた何者かの会話の記憶が甦った。
「さあねえ。あの学者センセイ、結構変人だったから。それにしても、結婚もせずにシャチに食われて死んじまうなんて、どういう人生なのかねえ」
「まあ、そういう人もたまにはいるってことでしょう。しかしよかったじゃないですか。警察もうまく丸め込んだんでしょう?」
「そう。今さらこんな形で計画を失敗させるわけにはいかんもの。なにしろ元手がかかってるんだ。それにあのセンセイは、あまりにも見てはいけないものを見すぎてしまった。深入りは命取りですよ、なにごともね」
「ええ。それは僕も十分心得ているつもりなんですが……」
「いやあ、先生は大丈夫。あなたはきちんとわきまえていらっしゃる。それより、冬のほうもよろしくお願いしますよ、先生」
「冬? ああ、今度オープンするスキー場でのライブですね。相当凄いのが完成したらしいじゃないですか」
「ええ。素晴らしいものができましたよ。つぎ込んだ金の額が今までとは一桁違いますからね。お楽しみに……」
頭の中で再生されているそんな会話の記憶とは無関係に、僕の指先はキーボードの上を正確に動き回り、シャチの遠吠えを再生する。
隣の飼育プールにいるはずのシャチたちに、この音は届くのだろうか?
そもそもこの音の元は、シャチの会話なのか、歌なのか?
それを確かめようにも、木畑さんはもういない。
彼女は、掴もうとしていた「あと少し」の秘密にたどり着いてから死んだのだろうか? シャチよ、おまえたちは、彼女を「処刑」したのか? だとしたらなぜだ? おまえたちには彼女の言葉が届かなかったのか?
キーボードをたぐる指先に、行き場のない怒りが不自然な力となって加わって、僕のプレイがほんの少し揺らいだ。
陽射しが後頭部のあたりを直撃している。身体中が燃えるように熱いのに、なぜか皮膚の内側がすべて透明になったような浮揚感が満ちている。
ミイー。
クウーン。
キュルルルル……。
頭の中で、様々な「言葉」が渦巻いている。
客席の向こうで、海が一瞬、真っ白に光り輝いた。
木畑さんは、今頃「もう一つ別の世界」の入口に立っているのかもしれない。ふと、そう思えた。
俺も……。
俺も、今そこへ……。
心の奥から突き上げてくるものを、シンバルの音がかき消した。
エンディングの合図だった。
音程をつけて、ゆっくりとリフレインするシャチの遠吠えに合わせて、ピックアップを取りつけた尺八がかぶさってくる。尺八特有のかすれた音色に、エフェクターを通した電子的な処理が加わり、不思議な効果をあげる。
観客の視線がリーダー・昭元ガイアに集まる。
いつもながら、惚れ惚れするプレイだ。
尺八をこんなふうに使いこなすアーティストを、僕は他に知らない。

(音楽小説三部作『グレイの鍵盤』 第一部 『オルカのため息』 了)



★1995年4月 翔泳社より出版された『グレイの鍵盤』というハードカバー小説単行本に収録されている一編です。

この本の内容は以上です。


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