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目覚めたときはもう明るくなっていた。
いつの間に車に戻ったのだろう。僕はリクライニングされた助手席にいた。
頭が痛い。胃のあたりにも何とも言えない不快感があった。
「お目覚め?」
運転席のほうから声がした。
木畑さんが笑顔で僕を見ていた。
顔が朝陽に照らされ、明るいオレンジ色に染まっている。
「残念だったわね。とてもきれいな朝陽だったのに。声をかけても全然起きないんだもの」
直視できないほど光っている海面のかなり上に、既に太陽は昇っていた。
「気分は?」
「最悪ですね」
「やっぱり……。私も最初はそうだったわ。三十回くらいやると全然平気になるんだけれどね。やっぱり初心者に一本はきつかったかな」
そう言いながら、木畑さんはエンジンキーをひねった。
「守谷まで私が運転していくわ。あなたはもう少しそこで寝てなさい」
「僕、どうなってたんですか? 何も記憶がないんですよ」
本当は多少は覚えていたのだが、敢えてそう言った。
「さあ、トリップの最中のことは、またトリップしたときにしか思い出さないのよ。だからいいんじゃない?」
車をゆっくりUターンさせながら、木畑さんは言った。僕もそれ以上は訊かなかった。
下り線のサービスエリアに彼女の車を置いてきてしまったため、帰りは柏インターと谷和原インターの間を一往復半するはめになった。こんなことならばどこかのインターのそばに乗り捨てればよかったと彼女は笑ったが、学者でもそういう計算は苦手らしい。
別れ際、彼女はDATテープが何本か入った紙袋をくれた。
なるべく音楽的な鳴き声で、背後に余計な音が入っていないものを選んでコピーしたという。僕は深々と頭を下げて礼を言った。
彼女と別々の車になった後、僕はそのテープを聴きながら東京へ向かった。シャチの声やトドの唸り声など、どれも見事な音質で録音されていたが、何時間か前に夢うつつで聞いていた声のように、何かを訴えかけてくるような響きは、もう何も感じられなかった。

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それから暫くの間、僕はテープに収められた動物たちの声をサンプラーにサンプリングしたり、リーダーの注文にしたがってイコライジングしたりピッチを変えたりする作業に追われた。
トドの声を細かく刻んでループ状に編集し、アナログ・シンセサイザーの音のように「加工」したりするそのたびに、僕はこれがどんな意味があるのかと疑問に思ったが、その音を聴いて喜ぶリーダーの顔を見ていると、結局何も言えなかった。
リーダーは大満足だった。
おかげで、月末から始まるコンサートツアーでは、何曲かの中で僕も短いながらソロを取らせてもらえることになった。
新しいアルバムの制作も順調に進んでいた。僕はリーダーのリクエストに答えて、木畑さんから貰ったテープを編集し、加工し続けた。
そんなわけで、木畑さんとは連絡がないまま一カ月余りが過ぎた。
あの怪しげな薬をもう一度試してみたいという気持ちもあったが、トリップから覚めたときの頭痛と気分の悪さを思い出すと同時に、これ以上彼女の世界に深入りするのは危ないのではないかという自制心も湧いてくる。それでも、彼女のほうから誘いを受ければ、スケジュールをやりくりしてでも駆けつけたかもしれない。
彼女から連絡はなかった。
そして僕のほうからも連絡をすることはなかった。
そんな自分の「運命任せ」の姿勢がたまらなく嫌だった。
もしかしたら僕は、奇跡に近いような特別な人生を選び取れるチャンスを、みすみす逃しているのかもしれない。「もう一つ」の世界の入口は、すぐそこにあるのかもしれない。
そう思うと同時に、いや、これはただのオカルトかぶれの危ない女に惑わされているだけなのだという声が心の奥で囁く。
そして困ったことに、「もう一つの世界」を覗くために一歩踏み出すことも、「この世界」に留まったまま死んでいくことも、同じくらいに恐ろしく、かつ空しいことのような気がした。

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コンサートツアーは札幌を皮切りに南下して、最後は沖縄で打ち上げというスケジュールだ。その四番目に「オルカ・ジョイ」でのライブステージも組まれている。ほとんどの会場は公民館やコンサートホールなどの屋内施設で、野外ステージはここと沖縄の二か所だけだった。
札幌公演は観客もほぼ満員で成功したが、次の弘前公演は客の入りが悪く、今一つ盛り上がらなかった。
それでも「オルカ・ジョイ」のプールサイドで緊張感のないステージをもう一度やることを思えば、客が少なくても室内でやれるだけいい。
木畑さんから貰ったテープを加工した音源は、このコンサートツアーでもかなり活用されていた。以前の曲用にプリセットされたカモメの声なども、すべて木畑さんのテープからの音源に入れ替えた。音質がはるかによかったからだ。
ステージでこれらの音源を使う度に、僕はひと月前の不思議なデートのことを思い出した。
今となっては現実だったのかどうかもあやふやな気さえするが、実際に僕はあのデートの後で数十種類の動物の声を録音したテープを手に入れ、こうしてステージで使っているのだ。
札幌以上に大盛況だった仙台公演の後、せめて木畑さんにコンサートのチケットでも送ればよかったと気がついた。東京公演は翌々日に迫っていたから、もう無理だった。なぜもっと早く気がつかなかったのだろうと、自分が情けなくなった。
その夜は、なぜかなかなか寝つかれなかった。
身体は疲れきっているのに、盛り上がったステージの興奮と緊張がさめず、脳が眠ろうとしないのだ。
僕は水割り用の氷を取りにいくため、廊下に出た。ベースの塚田さんが、やはり氷を入れたペールを抱えて戻ってくるのにぶつかった。
「収ちゃん、見た? ニュース」
ツンさんは僕の顔を見るなりそう言った。
足元が少しふらついている。既に相当酔っているようだ。
「ニュース? いいえ」
「明日の会場になっている『オルカ・ジョイ』でさ、酔っぱらいがトドに食われちゃったんだってよ。夜中に入り込んで、トドのプールに落ちたらしいよ」
「本当ですか?」
「うん、さっきもポンさんが、明日の公演に変更はないのかって電話してたよ。大丈夫らしいけどね」
ツンさんはそれだけ言うと、僕の隣の部屋に戻っていった。ドアを開けた途端、中から若い女の声が聞こえた。札幌から始まって、これで三夜連続で違う女性を連れ込んでいる。凄い才能とエネルギーだ。
ペールに氷を入れて部屋に戻ると、僕はサービスで置いてある地方新聞の夕刊を初めて広げた。
見出しよりも先に、見覚えのある顔が目に留まった。縦二センチほどの長円形の写真は、まぎれもなく木畑さんの顔写真だった。
[生物学者、深夜、水族館で変死]
あまりのショックに、なかなか記事を読み始められなかった。
木畑さんが死んだ? あの「オルカ・ジョイ」で……。
記事の内容を把握するのには時間がかかった。
何度読み直しても、途中で混乱してしまうのだ。
ようやく大意を把握することができるまでに、少なくとも五回は読んだのではなかろうか。
今日の早朝、警備員が「オルカ・ジョイ」内のトドの飼育プールに女性の死体が浮いているのを見つけた。死体は両足をトドに食いちぎられていて、既に死後数時間は経っていた。女性は生物化学研究所で生物の音声によるコミュニケーションを研究している生物学者・木畑地歩実主任研究員(三六)で、以前から研究のために時折この施設内の水族館を訪れていたが、昨日は誰も見かけておらず、夜中に無断で施設内に入り込んだらしい。そばにウイスキーのボトルも残されていたことから、酔っていたのではないかとも見られている。木畑さんがなぜ深夜に無断で施設内に入ったのかは不明。
直接の死因が溺死か、それともトドに襲われてのショック死、失血死かは現在検死解剖をして調べている。施設側は、管理上の落ち度はなかったとして、今日も平常営業をした。
……これが記事のあらましだ。
僕は放心状態で、ペールの中の氷をいつまでも見つめていた。
もう、水割りを作って呑む気にはなれなかった。
脳裡に、なぜか宇宙の果てを目指して飛んでいくボイジャーが浮かんだ。ボイジャーがどんな形をしているのかなど知らないのに……。

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翌日、僕はハイエースの運転を、ポンさんことマネジャーの本多さんに代わってもらった。一睡もしていなかったのだ。
リーダーは心配して、演奏にさしつかえるから少しでも寝ておけと言ってくれたが、やはり眠ることはできなかった。
[ようこそオルカ・ジョイへ。直進あと二キロ]
国道沿いに、シャチのマスコットが笑いかける看板が目立ち始めた。頭が重い。少しでも寝られたらいいのに……。
「オルカ・ジョイ」は、何事もなかったように観光客で賑わっていた。ただ、トドのプールだけは閉鎖されていた。
何もいないプールを、ニュースを知っている客たちが好奇の目で覗き込んでは去っていった。
僕はステージのセッティングを済ませると、一人で正門を出て、いつか木畑さんと一緒に「トリップ」した場所に行ってみた。
シャチのプールを囲んだ金属製の外塀は昼間の太陽を浴び、きらきらと光っている。足元の砂も熱くなっていて、ところどころに生えている雑草も萎れていた。
僕は塀に沿ってゆっくりと歩いてみた。
二人で一緒に座っていたあたりに、何か光るものが落ちていた。
ドリンク剤の瓶が二本と、プラスチックのシガレットケース。拾い上げてみると、ケースには見覚えのある深緑の丸薬が五粒入っていた。ドリンク剤の瓶も、一本は中身が入ったままだ。
蓋を開けて匂いを嗅いでみる。ハーブティーのような、うがい薬のような匂い……間違いなくあの「薬」だった。
中身が入っているということは、あの夜、残したものではない。おとといの夜、木畑さんはこの場所で、一人で「トリップ」していたのだろうか?
僕は丸薬のケースと「薬」の瓶をポケットに入れた後、思い立って、丸薬のほうは二粒ほど口に放り込んだ。
前に呑んだときよりも強烈な後味が残った。
突然、猛烈な眠気が襲ってきた。
僕はあの夜と同じように、塀を背にしてその場に座り込んだ。
塀の熱が背中に伝わってくる。
目を閉じて、耳を澄ます。
潮騒やプールの水が揺れる音よりも、園内からの客の歓声やBGMのほうが大きかった。
やがて、僕は浅い眠りに落ちていった。
周囲の雰囲気は把握しているのに、身体が動かない。一種の金縛りのような状態だ。
塀越しに、誰かが押し殺したような声で話しているのが聞こえてくる。
「とにかくシャチじゃあまずいからね」
「そりゃあそうでしょう。ここのマスコット・キャラクターですもんね」
「濡れ衣を着せられたトドはいい迷惑だろうが、まあ、このままなんとかごまかせそうですよ」
「でも、なんでシャチのプールになんか入り込んだんでしょうね」
「さあねえ。あの学者センセイ、結構変人だったから。それにしても、結婚もせずにシャチに食われて死んじまうなんて、どういう人生なのかねえ……」

ο
PAスピーカーから波の音が流れ始めた。
僕はほっとため息をつく。
照りつける太陽のせいで、キーボードの液晶表示がほとんど見えない。
鍵盤上にはいくつかのサンプリング音がセットされている。波の音、カモメの鳴き声、イルカの笑い声、ザトウクジラの歌声……。
ステージの前にはドーナツ型の巨大なプールがあり、その中央部分は人工砂浜になっている。色とりどりの水着を着てその砂浜の上に寝そべっていた男女が、「お、ようやく始まったか」という顔で、一斉に僕らのほうを見る。
鍵盤が熱い。熱でデジタル・キーボードの中の回路が誤作動してしまいそうなほどだ。
そんなことにはお構いなしに、プールに浮かんだシャチの人形が笑っている。
波の音に乗せて、僕はカモメの鳴き声を使った簡単なフレーズを弾く。レ・ミ・ドという三音だけの単純な繰り返し。しかし、カモメの声の微妙なグリッサンド効果のせいで、なんとも不安定な音階に聞こえる。
もう、眠気は感じない。
指先は、演奏に合わせて勝手に動いている。まるでプログラムされた機械のようだ。
観客はいつかのときよりもずっとノリがよく、リズムに合わせて身体を左右に揺すっている。
僕の心は、ステージに上がる直前に呑んだあの薬のせいで、別の場所を求めて漂っている。
別の場所?
そう、もう一つの世界……。
テトラポッドが隔てた海の彼方に重なる、別の世界。僕が今、ここで演奏していられる贅沢を支えてくれている、もう一つの世界を捜して、僕の心はさまよっている。
そんなものは見つからないさと嘲笑うかのように、客席の向こうから巨大なシャチの人形が僕を見つめている。
「でも、なんでシャチのプールになんか入り込んだんでしょうね」
頭の中で、留守録音しておいたテープが突然再生されるように、さっき夢うつつで聞いていた何者かの会話の記憶が甦った。
「さあねえ。あの学者センセイ、結構変人だったから。それにしても、結婚もせずにシャチに食われて死んじまうなんて、どういう人生なのかねえ」
「まあ、そういう人もたまにはいるってことでしょう。しかしよかったじゃないですか。警察もうまく丸め込んだんでしょう?」
「そう。今さらこんな形で計画を失敗させるわけにはいかんもの。なにしろ元手がかかってるんだ。それにあのセンセイは、あまりにも見てはいけないものを見すぎてしまった。深入りは命取りですよ、なにごともね」
「ええ。それは僕も十分心得ているつもりなんですが……」
「いやあ、先生は大丈夫。あなたはきちんとわきまえていらっしゃる。それより、冬のほうもよろしくお願いしますよ、先生」
「冬? ああ、今度オープンするスキー場でのライブですね。相当凄いのが完成したらしいじゃないですか」
「ええ。素晴らしいものができましたよ。つぎ込んだ金の額が今までとは一桁違いますからね。お楽しみに……」
頭の中で再生されているそんな会話の記憶とは無関係に、僕の指先はキーボードの上を正確に動き回り、シャチの遠吠えを再生する。
隣の飼育プールにいるはずのシャチたちに、この音は届くのだろうか?
そもそもこの音の元は、シャチの会話なのか、歌なのか?
それを確かめようにも、木畑さんはもういない。
彼女は、掴もうとしていた「あと少し」の秘密にたどり着いてから死んだのだろうか? シャチよ、おまえたちは、彼女を「処刑」したのか? だとしたらなぜだ? おまえたちには彼女の言葉が届かなかったのか?
キーボードをたぐる指先に、行き場のない怒りが不自然な力となって加わって、僕のプレイがほんの少し揺らいだ。
陽射しが後頭部のあたりを直撃している。身体中が燃えるように熱いのに、なぜか皮膚の内側がすべて透明になったような浮揚感が満ちている。
ミイー。
クウーン。
キュルルルル……。
頭の中で、様々な「言葉」が渦巻いている。
客席の向こうで、海が一瞬、真っ白に光り輝いた。
木畑さんは、今頃「もう一つ別の世界」の入口に立っているのかもしれない。ふと、そう思えた。
俺も……。
俺も、今そこへ……。
心の奥から突き上げてくるものを、シンバルの音がかき消した。
エンディングの合図だった。
音程をつけて、ゆっくりとリフレインするシャチの遠吠えに合わせて、ピックアップを取りつけた尺八がかぶさってくる。尺八特有のかすれた音色に、エフェクターを通した電子的な処理が加わり、不思議な効果をあげる。
観客の視線がリーダー・昭元ガイアに集まる。
いつもながら、惚れ惚れするプレイだ。
尺八をこんなふうに使いこなすアーティストを、僕は他に知らない。

(音楽小説三部作『グレイの鍵盤』 第一部 『オルカのため息』 了)



★1995年4月 翔泳社より出版された『グレイの鍵盤』というハードカバー小説単行本に収録されている一編です。

この本の内容は以上です。


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