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 どうしたの、と聞かれてリィザは彼の袖を掴み、私、と言った。
「この前の……あの、……」
 リィザは言いかけながら、「彼」の名前を知らないことに気付く。あの人が、と言ったきり言いよどんでいると、少年の方が先に承知したらしい。ああ、と軽く声を上げて頷いた。
「奴ね、うん、奴がどうかしたの」
「この前……私、何も出来なくて、謝りたくて、それで」
 少年はゆるく笑った。気にしないでいいよ、となだらかに言われてリィザは首を振る。最初の時、ただ見つめるだけで言葉さえ殆どかわさなかった。そして次の時には彼の言葉に一筋も触れられなかった。  
「お願い、私が謝りたいと言っていると、伝えて欲しいんです。──お礼なら、何でもしますから……」
「何でもする、なんて簡単に言っちゃ駄目だよ」
 少年は苦笑し、奴のことは気にしないでよ、と付け加えた。
「あいつはちょっと苛々している。君に当たったなら済まなかったというのはこっちの方だと思うよ……色々あってね、今ちょっと荒れてるから」
 少年は肩をすくめる。でも、とリィザは強く言い募った。
「お願いです。この前は何一つ言えなかったから、今度はきちんとしたいんです。お願いします、お願い、あの人にもう一度会わせてください、お願い……」
 彼の袖を掴んだまま、リィザは項垂れるようにする。少年は困ったように溜息をついた。何かを思案しているのだろう、亜麻色の髪に手を入れてひたすらかき回しながら宙を睨んでいたが、やがて頷いた。
「一応伝えるだけ伝えておくけど、保障はしないよ。それでいいだろ? ……ねぇ、それともし、奴と話が出来たら……そうしたら彼に優しくしてやってくれないか。女の子が気にかけてくれたらもうちょっとましだと……」
 そこまできて少年はふと口をつぐみ、照れ笑いになった。そんな事を他人に頼む愚かしさを思い出したらしい。リィザはそれでも分かりましたと頷いた。優しくしてやって欲しいという言葉にちりばめられた、少年の気世話が良く分かったのだ。
 リィザの生真面目な態度に少年は少し顔をほころばせ、頼むよ、と今度は小さく呟いた。
「……あんた、奴がこの前別れたばかりの女とちょっと似てるのさ。だからってわけじゃないんだけど、なるべく親切にしてやって欲しいんだよ……俺が頼むのも変な話だけどさ、奴が来たらそうしてやって。金は奴に持たせておくから、頼むよ」
 少年は念を押して雑踏に消えた。リィザはほっと溜息になって格子から離れる。
 ともかく賽は投げた。これがどんな目を出すかはまだ分からないが、彼は……来るだろうか。そんなことをちらりと思い、リィザはじっと床を見つめ、深く頷いた。
 来る、という確信に近いものがひたひたとわき起こってくる。あの少年もそのつもりがあるのだろう。保障はしないといいながら、揚げ代の話まで口にした。
 リィザは待合いから離れ、裏階段から自室へ戻った。大抵部屋の中は片づいている……というよりは乱雑にしておく程の広さもないのだが、それを一度ざっと点検して髪を丁寧にとかした。そっと鏡台の引き出しを開ける。
 中にはいつか大切な人から貰った硝子の小鳥があった。若様、と呟いてそれに触れる。硝子の透明でさやかな質感が指にくる。若主人を恋していた頃、彼を思うだけで幸福だった。
 あの気持ちがあってよかった。リィザは微笑む。恋があって、その薄い悲観があって、それでも歓びがあって絶望があって、最後に希望があった。その形がまだはっきりしないことが自分にも辛かったし、それで見失ってしまったような思いもあったけれど、希望の光感を知っていればそれを思い出すことが出来るはずだから。
 じっと鏡の中の自分と向き合っていると、不意に表廊下の扉が叩かれた。小間使いの少女が客の来訪を告げている。
 リィザはゆっくりと扉に歩み寄って内側に開いた。静かにあらわになる面輪は彼だった。リィザと目線さえ合わせないで、ただむっつりと押し黙って立ちつくしている。その腕をそっと取ろうとすると、やはり拒絶だった。乱暴に振り払い、何だよ、とかすれた声を出す。
 リィザは中へ、と身体をずらす。仕方なさそうに部屋に踏み込んでくる彼の背後で扉を閉めて、リィザはありがとうございますと小さく言った。
 少年は振り返り、やはり目は合わせないまま、だから何だよ、と低い声を出した。
 リィザは少しだけ笑う。こんな声を知っている。いつか怪我をした狐が農場に紛れ込んだ時にこんな声で鳴いていた。自分に近付くものは敵だという威嚇、痛みがあって血を流しているからこそ、全身で抗う空気。
 だからこんな時にどうしたらいいのかは知っていた。リィザは微笑み、彼の方に迷いなく近付いていく。怯えたように彼が後じさる。じりじりと微妙な距離を残して彼が部屋の中へ後退するのをリィザは脅かさないように歩みよっていく。
「──やめろ」
 彼が不意に唸った。
「何の用だ、さっさと言えよ。俺は奴が約束をしたって言うから、それだけで」
「私、この前言い忘れたことがあって」
 リィザはじっと彼の目を見る。彼がリィザの視線から逃れるように目を閉じて在らぬ方向を向いた。
 それがやはり、痛々しくて胸に響く。可哀想だという声が耳の奥から、脳の底から、身体に流れる全ての記憶からわき上がってくる。
 何だよ、と彼が喘ぐように言った。リィザはそうっと手を伸ばし、彼の手を取ろうとした。少年がそれを振り払い、触るな、と怒鳴る。リィザはもう一度同じ事をする。再び少年がそれを叩き返す。更に同じ事をする。
 彼はぴくりと指先を痙攣させただけで、もう打ち返そうとはしなかった。
 リィザは彼の手を取り、あの晩出来なかったことを償うようにゆっくり、強く、柔らかく握りしめた。
 やめ……と言いかけて、彼が黙り込む。リィザを見なかった瞳がようやく正面に来て、ああやはり彼は美しいのだと感じる。
 リィザはじっと彼の目を覗き込むようにする。彼が微かに震えながら目を合わせてくる。
 最初の晩のように何の負荷も気負いもない目線ではない。あれから彼に何か決定的なことがあったのは本当だろう。けれど今、あの晩と同じようにリィザを見ている。最前の全く触れられなかった夜のようでなく、まっすぐにではないけれど、リィザを見ようとしている。
 リィザは瞳をそらさないままで彼の手に指を絡め、もう片方の手で彼の頬を撫でた。びくりと彼が反応する。震えが来ている。だからリィザはそっと笑い、目を合わせたままで大丈夫よ、と言った。
 ──不意に彼が呻いた。顔が歪む。
 それまで投げやりで虚脱したような気配が残っていた表情からそれが波引いていく。
 彼は微かに何かを呟き、首を振った。
「違う、俺は……お前は、彼女じゃない」
 リィザは頷き、違います、とはっきり言った。
「でも、私はここにいます。あなたの近くに。そして私はあなたの敵じゃありません。ただ、あなたに謝らなくてはいけないと思ったんです。この前、あなたに大丈夫だって言ってあげられなかったから」
 それを言うと、彼は首を振った。その仕草は否定ではなく、否定を偽装したもっと、という欲求であることは分かった気がしたから、リィザは更に強く言った。
「大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり息をして、ゆっくり眠れば、いつか朝が来るみたいに希望が戻ってくるから」
 彼が何かを喘いで首を振り、そして希望、と唇をそよがせた。そう、とリィザは深く頷いて、彼の頬を両手で挟むようにしてゆっくり愛撫する。
 大丈夫、と言いながら撫でてやると、不意に彼がリィザの肩に触れ、一瞬迷って抱きしめた。それは殆ど縋り付くような形であった。
 微かに耳の側で震える吐息が聞こえる。泣いているのだ。
 リィザは彼の男にしては華奢な肩を抱き、ゆっくりと背中を撫でながら、大丈夫よ、と繰り返した。
「大丈夫、大丈夫。今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ……」
 リィザが呟く言葉に彼が呻き、やがてずるずると跪いた。
 床に座り込んでリィザの肩に額を押しつけ、彼が泣いている。それをいたわるために彼の頭を抱きしめてやると、丁度リィザの胸の辺りに彼が頬を押しつけるようになった。
 母性というのはこういう気持ちなのかもしれないとリィザは肩を震わせて泣いている彼を胸に抱きながら思う。彼はしきりとエミリアと呟いていて、それがきっと彼が失ってしまった恋の名前なのだろうと悟った。
 むせび泣く彼の声に紛れて、遠く鐘が聞こえた。リィザは視線を上げる。もうタリアの日が落ちる時間だ。ふっと周囲が闇へ戻っていくのに彼も気付いたのか、怪訝に顔を上げる。リィザは火を消す時間なんです、と告げてこの部屋の明かりも落とした。
 その途端、世界は青い闇に沈んだ。こんな光景は初めてなのだろう、彼が不思議そうに天窓を見上げ、お前、と不意に言った。
「──この前は、済まなかった」
 声は涙の余韻で震えていたが、落ち着いて静かだった。リィザはじっと月明かりの中で彼を見る。彼もリィザを見ている。彼がリィザを抱いて寝台に倒れ込んだ。
 その瞬間、リィザは再び息が止まりそうになる。どんなに感情があったとしても、やはり身体が反射的に強張るのだ。本当は彼を抱きしめなくてはいけないと思うのに、いつもの苦役、ひどい苦痛の記憶が悪夢として目裏に蘇ってきてどうにもならない。
 リィザは喘ぎ、ぎゅっと目を閉じた。相手が誰でも苦痛であるならば、これにはもう期待は抱かないと胸に呟いた時、彼が手を、と言った。
「……手を、握ってて……離さないで、そのままにしておいて……」
 リィザは言われた通りにする。彼はそれで安堵したような吐息を漏らし、リィザに身を寄せて静かに目を閉じた。彼が自分を今抱く気がないことを知り、リィザは悲しくなるほど安堵を覚える。遊女としてはまったく有能でないことを彼に教えたいとは思わなかった。
 リィザも彼と同じように身を寄せ合い、目を閉じる。月の下で眠りに落ちていこうとするその間際、彼の呟きがありがとうといったのが聞こえた気がした。
 リュースはうんざりしながら唇を開いた。
「彼は私を助けてくれたのです。守護が遅れたのは私が両親と話があるために彼を遠ざけていたからで、彼が不首尾だったわけではない──同じ話を何度すれば彼を解放してくださるんです。彼は、私の大切な……」
 言いかけた先を、少し離れた高い位置に座っている魔導士が手を挙げて制した。リュースはむっと黙り込む。彼は他人に制御されることになれていなかった。
「殿下のご主張は最前からよくよく承知しておりますとも」
 話す魔導士の衣は通常の黒または暗灰色ではなく、長老会の一員であることを示すための鼠色だ。銀の仮面の額には魔導士たちの最高位を示す人面鳥の型どりがある。
「しかし、魔導士としての規範は必ず優先されるべきものです。殿下は彼の顔を見ていないと仰るが、それを我々がどう信じるかは別の話です」
「私が嘘をついていると言うのですか?」
 リュースは次第に不機嫌になるのを隠せない。苛立ちばかりが募る。
「私は本当に動けなかった。彼が私の瞼を閉じたらもう自分で開けることは出来なかったのです、毒性の判別にいつまでかけるつもりなのですか」
 つい強い口調になったことをリュースはすぐに自分で恥じ、俯いた。長老会の魔導士たちがゆるやかな吐息を漏らす。
「ともかくも殿下。彼が殿下をお守り申し上げるのは彼の義務です。絶対の服務です。なるほど刺客は取り押さえましたが殿下に構っている間に自決を許してしまった、それに殿下は見ておられなかったと仰いますが自室でない場所で仮面を外している。これは審議に値する重大なことなのです」
 そうですが、とリュースは頬を厳しくして溜息になった。
 薔薇の庭園で襲われた。刺客は一人であったようだが、よく覚えていない。首筋をかすった刃に何かが塗りつけてあったらしく、それでリュースは危うく命を落とすところだったのだ。
 マルエスの不首尾だ、という長老会の主張には理もある。マルエスが咄嗟に自決を阻止する手段をとらず、リュースの怪我に手を取られている間に呆気なくそれを許してしまった。
 何よりも高位の魔導士達が言うように、仮面を外すことは重要な違反だ。見られていたかどうかは考慮には入るが重要な項目ではない。マルエスが仮面を外したのは自分の首筋につけられた痕跡からの毒を吸い出すためで、その感触がうっすらそこにあったような記憶はある。確か四度までは数えたはずだ。けれど、それは重要では無いというのが長老会の見解であった。
 それに彼はリュースの護衛魔導士であったから、護衛が義務という言葉は正しい。本来は主人に退去を命じられても隠遁して同行するのだという内部服務はこの一件で初めて聞いたのだが、ではこれまでマルエスが下がってくれていたのはリュースの心を考慮してくれたという逆の証明であった。
 けれどマルエスがいないとどうにもならないことが多い。「彼」の捜索もそのうちの一つだが、日常や学問の全てに置いて、彼は良き相談者であった。実際の所殆どをリュースが一人で語っているのを聞かせている形ではあるが、それがいないのとはまるで違うのだ。
 服務規令違反であるという長老会の主張は間違ってはいない。けれどリュースにはマルエスが必要だったし、結局事なきを得たのも彼の功績であるのは本当だった。
 治癒の魔導は解毒であるならまず、その毒の種類から判定し、それによって化学式を書いた後に魔導言語に直してゆかなくてはいけない。つまり、その場では最も原始的な、傷口から吸い出すという行為がもっとも有効であった。
 マルエスは今すぐに処置をしないと間に合わないと踏んだ。事実リュースは身体の麻痺で呼吸さえ出来なくなりかけていたのだ。マルエスとて仮面のことを考えなかったとは思わない。けれど、それを捨てても自分を救おうとしてくれたことがリュースの心象の大きい部分を占めていた。
 ……と長老会には何度もマルエスの身柄を戻すように申請しているのだが、一向に許可が下りない。魔導士の審議には時間がかかると言われているが、半月も一人でいるのにはさすがに滅入りそうだった。
 毒物の判定が出来ればリュースの身体が動かなかった、という証言にも裏付けが出来る。マルエスの拘束はなるべく早く解きたかった。
 この事件のことは父が非公開に指定したから既に解決の糸口は断たれている。非公開にしたのはリュースへ刺客の手が伸びたことで、もう一人の皇太子候補であるカルアへ意味のない侮蔑が向くのを怖れたためだ。それはリュースも構わない。
 随従の魔導士が頻繁に立ち替わる中、それが自分との適正の試験であることは察していた。だがマルエスほどに馴染めそうな者はいない。彼とは長いな、とリュースは改めて思った。
「では、審議はいつ頃終わるのです。私はあのことでそう打撃を受けなかった。これはマルエスがいたからこそだと考えています。今後の安全のためにもう一人か二人申請を出しますが、私のことは彼が一番良く知っている」
「無論、存じております、殿下」
 言葉だけでかわされてリュースは苛々としている。毒素の抜けたあとの反動で微熱が続く体調をおして魔導の塔にまで出向いてきたというのに、結局面会さえ許されないのだ。
 マルエスは必ず返してください、とリュースは強く言った。「彼」の捜索のこともあって、やはり彼でなくてはならないことが多いのだ。考慮いたしましょうと魔導士達が言って、席を立とうとした。リュースはそれを呼び止め、もう一つと切り出す。
 マルエスを最終的に取り戻すのは別にして、長老会に要請することがあったのだった。
「それと、新しい魔導士の申請なのですが、一人希望があります」
 魔導士たちが頷き、席に座り直した。
 誰をご所望ですかと促されてリュースはカノンを、と言った。それが長老会の議場にほわんと反射して消えた瞬間、高位の魔導士たちが一斉に何かに撲たれたように身を固め、そして身構えたのが分かった。
 リュースはその空気に僅かに眉根を寄せる。カノン、と呟いている長老会の魔導士たちは一様にひどく狼狽えているらしいのだ。
「カノンで不都合がありましょうか」
 長老会の仕業にすでに倦んでいたリュースは自分の声が尖っているのを自覚したがあまり訂正する気にもならなかった。魔導士たちが机の下でリュースから見えないように手の無音会話を行っている気配がする。リュースがその時間に再び焦れてくる頃に、ようやく一人が口を開いた。
「了解いたしました、殿下。では後日、魔導斑紋の判定を卜占版にて行いますので結果をふまえて回答をいたします」
 リュースはじっと魔導士たちを見る。この至極当然の回答がでるまでの時間の早さには何かが潜んでいるような気配だった。だからお待ちなさい、と声をあげる。
「卜占版の斑紋判定なら済んでいます──マルエスにさせました。非常によい結果が出ております、問題はありません」
 事実、斑紋の合致はマルエスよりもよく揃ったのだ。魔導士たちが微かに唸ったのが聞こえた。これは何か特別のことらしいとリュースは気付き、上段の魔導士たちを見据えた。
「魔導士カノンを私の護衛魔導士に申請します。本人と話も済んでおりますので、長老会の追認を頂ければそれで発効します」
 魔導士たちが困惑のうなりを発した。マルエスのことを散々引き延ばされてきたことの溜飲を僅かばかり下げ、リュースはよろしくどうぞと姿勢を正した。
 と、中央にいた最高位の魔導士が分かりました、と低く言った。
「ではこれより同志カノンの転任について長老会で決を採りましょう──同志レガデラからどうぞ」
 リュースははっとする。この先が読めたのだ。レガデラという魔導士が否、と言うのが聞こえた。つまり五人全員の総意をもって否決の結論に至るということになる。その通りに五回の否が聞こえた後、長老会の結論は否決ですので申請は却下いたしますという決まり文句が振った。
 何故、とリュースは声を荒げた。途端にまだ万全でない体調が眩暈を訴えてくる。それを押し殺してリュースは何故ですかと問い直した。
「魔導士カノンはとても優秀な若手の魔導士である旨を聞いております。事実論文も良く書けておりましたし、術式も構成も非常に才能豊かです。私は私の今後の魔導学の研鑽のためにも彼を側に置いて相談を……」
「殿下、魔導士は殿下の玩具でも、魔導学の顧問でも、実験台でもありません」
 リュースはそれは、と言ったきり絶句した。最後の一言は魔導士たちの彼に対する怒りの代弁なのかもしれなかった。
 ──時間生成理論。あの「彼」がひねり出した新機軸の魔導理論。
 理屈としては確かに面白かった。最初にそれを懸賞論文として王宮内で読んだ時にはそれを書いた少女の指先と想念が作り出す、新しい世界の姿を見た気がしたのだ。
 けれどそれはまさに机上論であった。それに気付かずに「彼」も自分も、まったく危機感などなくそれと戯れていた。紙の上でならどんな想像も体系化できるのだということに気付かなかったのだ。
 リュースは項垂れ、あれは本当に申し訳ないことをしました、と呟いた。実験の失敗はそれが新理論の検証実験である時には起こりやすい。元々最後に発動の起爆を置く構成が多いために、失敗した時には通常何も起こらない。
 だが、時間生成理論は違っていた。魔導理論に他からいじりまわした数字を入れて一見意味のある数値にすることなど、何故しようと思ったのかさえ、今となっては分かりたくない。
 生成理論の実験は失敗した。引き歪んだ空間に実験に参加した魔導士を飲み込み、引き裂いてまったく違う場所へそれぞれ放り出したのだ。死体の回収には結局二ヶ月を要し、まだどこへ行ってしまったのか分からない部分が多い。結局それは人の身体では負担に耐えられないということだけが示された。
 あの実験に従事してくれた魔導士は長老会の予備要員を務めていた優秀な者であったと後で聞いた。今現在の長老会にもしかしたら入っていたかもしれない。
 魔導士は人ではありませんので生命に関してはお気になさらないでくださいと彼らは口を揃えて言ったが、それが本心だと思ったことはなかった。そしてそれは今証明されたような形になる。
 実験が停止され、理論の発展が凍結扱いになってもリュースはその論文を書いていた。致命的な欠点が何であったのかを解明すれば再びそれは新理論としての輝きを取り戻すはずで、そうなった時にまるで初期から考察が進んでいないことなど耐えられなかったのだ。
 同じ事を考えるのはやはり研究者で、魔導学の研鑽を積んだものは一様にこの新理論に興味を示した。実験の何がいけなかったのか、原因は何だったのか、そしてその他の予備事項の小さな実験からの開始。それがいつか重大な部分が解明されていく過程で役に立つはずだと信じている。
 けれどそれに対する非難は曖昧に提示された。リュースは分かりました、と顔を上げて長老会の魔導士たちを見つめた。
「魔導士カノンの申請と、私の護衛魔導士マルエスをお返し下さるなら、時間生成理論についての追求は私個人として放棄します」
 この理論の旗手が今や自分であることは承知している。つまり理論の発展の頓挫だ。けれどこれは新しく誰かがこれからも書くだろう論文を眺めることで宥めてゆくことも出来る。魔導学と縁を切るわけでもない。
 それよりもマルエスの返還とカノンの着任が優先だ。刺客などということも護衛魔導士が複数つくことで殆ど無に近いところまで可能性を下げることになる。両親の意向で皇太子の候補を降りるかどうかはともかく、将来にはこの国を支えるための要人となることは決まっているのだ。
 魔導士たちは彼にゆるゆると首を振り、多少哀れむような声を出した。
「残念ながら殿下、同志カノンの件についてはそれでも承認いたしかねます。何故か、ということについては我々の禁忌に触れるためお答えできません」
「……禁忌」
 リュースは呟いた。魔導士の禁忌は三つしかない。個人情報の秘匿、主命への絶対服従、長老会決定への絶対服従。主命と長老会決定の服従の内容が相反する時には長老会が優先される。これ皆全て、魔導の塔という特殊な組織が誕生した時から受け継がれている規則である。
 主命とは関係がないはずだ。彼は今変声期の預かりで魔導の塔へ多く身を置いているが、タリア王の元への出向になにか禁忌が絡むなど考えにくい。では個人情報と長老会決定のどちらかにカノンの何かが抵触するということだ。長老会決定はこの代だけでなく、大綱を練る意味での判例法のような使われ方もすることがある。その内容が極秘であるためにリュースでも見ることが出来ない。これを閲覧のために差し出せといえるのは、この国の皇帝だけであった。
 リュースが俯いているのに魔導士たちは殿下と言った。
「しかし、時間生成のことを諦めてくださると仰ることに我々は深く感銘いたしました。ゆえに殿下のそのお優しい御心に免じ、同志マルエスにはなるべく早い時期に殿下の安寧を保つ役割に戻すことをお約束いたしましょう、それでよろしいですね」
 取引にリュースは頷き、なるべく早く、と言った。
 外へ出ると夕方近い時間であった。長い間長老会の面々と話していたことになる。道理で疲労が濃いのだとリュースは溜息をつき、魔導の塔の正門まで歩き出した。そこからは近衛のついた馬車が用意されている。
 それに乗り込もうとした時、殿下という声が背後にうずくまったのを聞いた。リュースは振り返り、済まない、となるべく穏やかな声音で言った。
「お前の申請は撥ねられてしまった、済まないね、カノン。私にもっと力があれば良かったが……」
 リュースは言いながら苦い顔になった。皇子であるという身分は魔導士の組織の前、そして刺客の向ける現実の刃の前にひどく無力であった。私はもっと大人にならなくてはいけない、とリュースは強く思う。
 例えばマルエスを取り戻すのに取引にまでしなくてはならなかったり、カノンのことを命じる根拠が自分には何もなかったり、そんなことは一度経験すれば十分だ。
 聞こえておりました、とカノンは淡々と言った。それから何かを一瞬思案したような沈黙の後、実は、と申し訳なさそうな声を出した。
「私は何度か申請を長老会に出し、全てを却下されて参りました。ライン殿下のお相手役も、身長が一番近いという理由で選ばれはしましたが、待機期間での限定だと最初から申し渡されてもおります。私は恐らく、何かのために早く死んで欲しい者なのだと思われます」
「──そう。……でも、生きなくてはね。せめて自分が納得するほどまでには」
 リュースはカノンの手を取ってやる。カノンがありがたいことです、と彼の手を押し包むようにし、膝をついて叩頭した。
「いつか殿下に時機が参りましたら、私を呼んで頂きたいのです。長老会の決定に優先されるのは最後には皇帝陛下のご意志のみです。どうか殿下、お約束は結構ですが、これを私が申し上げたことをどうか、どうかお心の隅に置いていただけたら望外の幸福です」
 リュースは自分の足下に額をつける、少年魔導士を痛ましく見やった。彼は恐らく、自分とあまり年齢が変わらないはずだ。自分にも力が無く思い知ることばかりだが、彼の方が自分よりも沢山の制約がある中で生きている。魔導士の禁忌は破れば即ち死であることが多い。
 リュースはそれを慎重に避けながら懇願する少年に胸の痛むような憐憫を覚えた。これはいつか「彼」に感じた憐れみと同じ種類であるように思われた。
 カノンには才能があり、可能性がある。それが何らかの理由のために全てねじ曲げてゆかなければならないとしたら辛かったし、それを本人が辛いと思っているならば切なかった。
 ──彼は今、どうしているだろう。不意にリュースはそれを思い、カノンを見つめた。彼がカノンということはないはずだ……恐らく。けれど境遇や環境が似ている。彼に手を伸べるのと同じ気持ちで皇子はカノンを助けたかった。
 皇子は分かったよ、と優しく言った。カノンが殿下、と深く頭を下げた。
「論文、読んで下さってありがとうございました」
 リュースは曖昧に笑い、カノンの手を握った。
「また、その日に。それまで君も強くながらえておくれ」
 はい、とカノンの声が微かに潤む。
 リュースは遠い約束の為に微笑むと、近衛騎士が促すままに馬車に乗り込んだ。

奥付



水泡の夢 / Part1.赤い格子の町 / 上


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著者 : 名嘉つぐみ
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