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 講義の抜き書きをまとめ終わると既に日が落ちる頃であった。適当に片付けていると、弟のラインがひょっこりと顔を出す。日に焼けた頬が眩しく赤い。今までを外で剣の稽古にしていたのだろう。
「どうだった、少しは上達した、ライン?」
 そんなことを聞いてやると弟は肩をすくめる。魔導士に勝つことのできる子供などいるはずがないからリュースは淡く笑って弟に待っているように言った。これから夕食の時間になる。
 リュースは半ば辟易したような吐息が自分の唇から零れたことに気付き、苦笑になった。また両親からのしつこい追及の時間なのだ。
 そしてその予感はやはり正しい。皇子に向かって両親は宥めたりすかしたり、とにかくマルエスを使って何をしているのかを聞きたがった。リュースはそれに適当に返事をしながら皿の中の料理をフォークでつつき回している。昼食会の時のことが蓋になったように、殆ど入らない。
 それをようやく見咎めたのは母で、どうしたの、と怪訝な面もちで聞いた。
「さっきから全然食べないのね、リュース? 食欲がないと身体も出来ないわよ」
 リュースはまあ、と曖昧なことを言った。ラインの前でこんな生臭い話はしたいとは思わなかった。弟はまだ正真正銘の子供で、皇太子の候補からも外されている。いたずらに騒がれても困惑するし、何よりも心配をかけたくない。
 その場の言い訳のようなことを口にして夕食を終えると、父帝はラインに簡単な書取を言いつけてリュースを夜の庭へ誘った。母妃も一緒だ。これは何の話だろうとリュースは思い、また人捜しの話だろうかと思うと胸の内で苦笑と溜息が同時に聞こえた。
 庭は薔薇の終わりの甘い香りが漂っている。白い薔薇が月の光に輝くような美しさだ。庭園の噴水の縁に腰掛けて、父帝が彼の頬をそっと撫でた。
「お前に少し話しておきたいことがあってね。ゆっくり呼吸をして、落ち着いて聞きなさい、いいね」
 父はゆったりと、そして心底から穏やかに微笑んでいる。リュースは同じように唇をほころばせると、ええ、と頷いた。そっと彼の背に母が座り、肩を抱く。自分の頭上で両親が視線で何事かを会話している気配がした。
 リュース、と呼ばれて素直に返答をする。父は彼を愛おしく見つめた後、ゆっくりと区切るように言った。
「来週に口頭試問に私が列席することになっているのは知っているね?」
 リュースは頷いた。学問所の簡単な試験ではあるが、次世代の帝位の行方を占うという意味で皇帝本人の列席が義務となっている。口を挟まずに同じ場所に座っているだけではあるが、形式というのはそんなものだ。それがどうしたのだろうかと思っていると、父は彼の聡明な額に触れて優しく、ごくゆっくりと言った。
「その時に、立太子の候補から降りたいと、私に申し出るように、いいね」
 リュースは数度瞬きをした。父の言葉が胸に理解として落ちてくるまでに、少しかかったのだ。
「何故……」
 呻いた時、上手く唇が動かない。やがて呼吸自体が出来ていないことに気付く。それを打破するために強く何故と呟くと、それはまるで悲鳴のような声になった。
「何故──何故です、父上! 私は、ずっと、……どうしてですか、理由は何ですか、父上、私は、」
 言い募りながらリュースは自分の胸あたりを掴む。そうしていないと身体から魂がふらふらと彷徨い出ていってしまいそうな気がしてたまらなかった。
 たまらない、と思った瞬間に怒りとも悲しみとも、疲労ともつかぬものがどっとこみ上げてくる。自分が今まで努力し、たゆまずに続けてきた全てが父の一言で撤回しなくてはいけないとしたら、どれだけの徒労で無駄だったのだろうか。
 そんな馬鹿な、とリュースは呟き、父上と言いかけた。
 と、不意に背からリュースは強く抱かれた。母が彼をぎゅっと抱きしめて、ごめんねと呻くように言ったのが聞こえた。母上、とリュースはそれを無理矢理もぎ離し、父にまっすぐな視線を当てる。
「納得できません。理由を……理由は何ですか、父上、私は自分の出来ることはしてきました、今までだってずっとしてきました、これからも! これからもやるべきことは努力します、わ、私は、別に、性格だって、それに──」
 意味のないことを連ねて口走りながら、リュースは眩暈を耐える。何故です、と呟いた声が自分で悲鳴のようだとリュースは思った。
 何故ですかともう一度繰り返すと、父帝が辛そうに目を伏せ、しかしはっきりした声音で言った。
「お前はどうしても身体が弱い。帝位につけばそれだけでまっとうできないのではないかと私もイリーナも心配しているのだ、リュース。……分かるね」
「いやです」
「リュース、聞き分けなさい。お前のことを私たちは思って言っているんだよ」
「いやです! いや、いや、それは、嫌です、嫌だ嫌だ……」
 駄々をこねるような幼い拒否を呻いてリュースは顔を上げる。その途端に涙が頬を流れ落ちていったのが分かった。泣いているのだと思った瞬間に、更に溢れてくる。
「昼食会の時のことは、あれは違います、父上、私の皿に毒が──」
 と、その禍言に父帝が息を呑んだ。リュースは毒です、と強く言った。父が狼狽えるように視線を彷徨わせる。毒、と母が呻いた声にリュースは振り返り、そうですと強い口調で言った。
「あれは私の食事に毒が、だからあんな、父上、あれはだから違うんです」
 言い募るリュースに父帝は頷き、確かかねと低い声を出した。それでようやく事の重大さを悟ったような気持ちになって、リュースは震えながら頷く。
「私の護衛魔導士が、そう。致死量ではないとか、そんなことも言っていましたが、しばらく用心するようにと言われました」
 父は頷きアウィスと呟いた。父の背後にふわりと魔導士の影が現れる。調査を、という言葉に魔導士が頷いて消えると、それでやっと我に返ったのか母の悲鳴が聞こえた。
 それに却って冷静な部分が戻ってきたようにリュースは母の手を握りしめ、大丈夫ですと強く言った。イリーナはそれには返答せず、彼の細い身体を強く抱きしめて、震えだした。
 父がリュース、と彼の身体に触れる。リュースはそれを振り払い、父を睨み上げた。
「だから父上、私は降りません。そんなのは……そんなのは嫌です。私は絶対に嫌だ。今降りたらそんな卑劣なことに負けたことになります」
 父は半ば哀しげな表情で首を振り、彼の肩を掴んでゆっくりさすった。
「リュース、私たちはお前のことをいつも考えている。お前が元からあまり丈夫でないことも今まで見てきた。お前は頭のいい、賢い子だ。優しくてとてもいい子だよ──けれどお前のような賢くて繊細な子には、私は帝位を継がせるべきでないと考えている……リュース、お前が即位したら沢山の現実を見なくてはいけない。お前にはそれはとても辛いことだと思う。なまじ聡明過ぎると、知らなくていいことも分かってしまう……」
 父の言葉は淡い苦みに彩られていて、リュースは僅かに怯んだ。この言葉には父の見てきた苦いうつつが全て滲んでいるように思われたのだ。
 何かを言おうとしてリュースは沈黙した。父の経験とそれ故のいたわりに太刀打ちできるものを見つけられない。だが、素直に受け入れるには足らないものが多い。リュースは父上、と絞られるような声を出した。
「私は、きちんと、今までちゃんとやってきました! 不安だというならもっと試してくださって結構です、だから、降りろと言うのは撤回してください! 父上、私は嫌です! 身体のことだって、では何故最初からそう仰らなかったんです、今更、今更そんなことを言われても、私は納得しません」
 リュースは言いながら首を振った。リュース、と彼を母が抱いてごめんねと言った。
「ごめんね、私が諦められなかったから。でも、お前のために一番いい方法を私たちで話し合ったのよ、信じて頂戴、リュース。お前がこれまでちゃんとやってきた事は良く知っています。でもね、お前を失うことの方がずっとずっと怖いのよ……!」
「私が私をどうするか、未来をどうしたいかは、私が自分で決めます」
 リュースは母を叱りつけるように言った。はっと顔を上げた母妃の菫色の瞳に瞬く間に涙があがってくる。母上とリュースは強い声になった。
「太子候補にではラインをあげるのですか? 母上は昔から、私よりラインの方がずっと可愛いんでしょう? 私が何をしても母上はラインばかり」
 すらすらと自分の唇が吐き出す言葉にリュースは目をきつく瞑った。自分の中にこんなに醜い部分があったのだと思った時、彼の名が呼ばれ、咄嗟に頬が打たれたのが分かった。
 リュースは僅かによろめき、喉で呻いた。ずるずると座り込む。打ったのは父であった。彼をもう一度平手で打って、叱りつける。
「リュース、二度とそんなことを言うんじゃない! それは母への侮辱だ、いいな、そんな馬鹿なことがあるはずがない、イリーナがお前をいつ邪険にしたというんだ!」
「──薔薇園で!」
 リュースは凄まじい早さで顔を上げ、父に怒鳴り返した。
「母上は私にもう会いたくないと、顔など見たくないからくるなと、そう、そう言って、そう言って」
 言葉にするとそれがどれだけ自分を傷つけていたかが初めて分かった気がした。リュースは喘ぐように言葉を紡ぎながら、拳でぐいぐい涙を払った。
「だから、私は、悪いことを聞いてしまったと、そう思って、でもマリアという女性のことは、同情しますが、母上が、彼女と何があったか知りませんが、私が……」
 そこまで夢中で口走ってリュースはふと声を潜めた。父は目を瞠り、微かに震えていた。驚愕と茫然の為に、やがて静かに青ざめていく。リュースと呻いた父の声音は今まで聞いたどれよりも強張り、重たかった。
 リュースは一瞬目をしばたく。父上、とそっと声をかけようとした時、マリアという呻きが背後からした。はっと振り返ると母妃が蒼白というべき顔色で口元を押さえ、おこりのように震え出すところだった。
 この名が母にとって重大な罪の意識をかき起こすことは知っていたはずだった。リュースはしまったと顔を歪めて母親を宥めるために手を伸ばした。
 だがそれは届かなかった。母はさっと立ち上がり、マリアともう一度呟くと許して頂戴と喘いだ。
「ごめんね、ごめんね……マリア、私が悪いのよ。いけなかったのよ。お前にもあの人にも沢山の罪を負わせて、追い出してしまった! 許して……」
 それだけを呟いて、母は耐えられないと言うように身を翻し、駆け去っていく。それではっと我に返った父がイリーナと叫んで数歩追いかけ、そしてリュースを振り返った。
「──先に館へ戻りなさい、リュース。……マリアのことを、お前は知っているのか」
 厳しい口調にリュースは父を見つめ、やがて力無く首を振った。ただ母上がそんなことを、と言いかける先を、父が言い訳はいいとぴしゃりと撥ねた。
「リュース、確信もない事を引き合いに出すのは止めなさい。いいね」
 その言葉に頷くと、父は厳しい表情のまま母を追って駆けてゆく。リュースは混乱を払うように首を振り、とぼとぼと歩き出した。
 夜の夏薔薇庭園は静寂の中で、月光だけが明るい。自分の影を見つめながら歩いていると、ふとその横に新しい影が出来た。マルエスだろうかと皇子は振り返り、
 ──何かの凄まじい予感に咄嗟に背後へ跳躍した。自分の残像を銀色の線が横断するのがくっきりと、劇的に遅く見えた。
 はっとした瞬間、後先を考えずに飛んだ身体が薔薇の茂みにぶつかり、植え込みを潰すように皇子はその中へくずおれた。人影がはっきりと手を振り上げる。その手に銀にぎらつく光がある。
 何かを考える前に皇子は叫んだ。
「マルエス! マルエス!」
 その視界にふっと尾を引く銀の線が現れる。
 リュースは身をよじる。彼の身体への決定的な傷を負わせるに至らない、しかしかすった痛みを首筋に覚えてリュースは呻いた。
 次の一撃を振り上げた影が、横へはじき飛ばされる。魔導士の長衣と背格好でマルエスだと知って、皇子は薔薇の植え込みにだらりともたれた。
 マルエスが人には在らざる早さで人影の腕を取り、簡単に押さえ込む。骨の折れる軽い音がして、リュースはびくりと身をすくめた。相手の身動きを封じ、マルエスが自分に駆け寄ってくる。大丈夫ですかと助け起こされて、リュースは異変に気付いた。
 世界が揺らいでいる。身体が痺れたように動かない。
 何かを言おうとした唇が重くてぴくりともする気配がなかった。殿下と叫ぶマルエスの声は聞こえるのに、それに返答しようとしても何も出来ないのだ。脳幹が痺れ、末端から感覚が無くなっていく。喉が何かを呻こうとして、呼吸がふと止まった。
 息が出来ない。弛緩した身体に力が戻ってこない。
 あ、と小さく喉を鳴らすと、マルエスが毒、と唸って不意にリュースの瞼を手で閉じた。僅かな時間をおいて、傷になったらしい場所に温かな吐息がかかった。くすぐったいような感覚が首筋を撫でて、リュースは身体を痙攣させた。柔らかいものがそこに押し当てられ、きつく吸っては離れるのを繰り返している。
 それを四度まで数えた時蓋が開いたように空気が喉を通り、それで深い呼吸を長く長く吸いながら、リュースは痺れるような無意識の中へ転がり落ちた。
 赤い格子の向こう側は、いつもと同じ雑踏だった。興味本位で覗き込んでくる男たち、からかうための言葉だけを投げつける男たち、みないつもと同じだ。そして自分がまったく不変の頑なさの中にいることも。
 リィザは格子のきわの腰台に所在なく座り、ぼんやりと通りを眺めやっている。誰かを誘うでも睨み据えるでもない弱い視線は誰の気も惹くことがない。それが楽なのだろう。何度叱られても叱られても、気付くと同じ事をしているのだ。
 自分は芯まで冷たいのだろうかとリィザは時折恐ろしくなる。ディーへ深い罪の意識を覚えてもそれは彼にまったく心が開かなかった言い訳で、彼がリィザの元に訪れなくなったことをどこかで安堵しているようなのだ。
 ディーは自分に十分優しかった。癇性で暴力の多い男に巡り会うリィザの性分には過ぎた相手ではあった。けれど、優しいことが辛い時もある。そして二人ともがそれを乗り越えてお互いを理解し合おうと思っていなかったことだけが分かる。だから駄目になってしまったのだということは分かるのに、これからどうしたらいいのかということは全く見えない。
 リィザは外を眺めながら、ディーと過ごしてきた百には足りない夜のことを思い出そうとする。酒は少し薄めの薄荷入り。煙草は吸わない。義手は重たくて目はまろく鈍い青。彼の性癖や口癖なども思い出せるのに、その一瞬一瞬切り取られた記憶の中に、自分の感情がまるで進入してこない。
 それを思うと自分の頑なで鉄のような心にうっすらとした絶望さえ抱く。その時は確かにディーを嫌いではなかったはずなのに、覚えていないというのはやはり薄情な証拠なのだ。
 リィザはそっと溜息になる。ディーを含めてチェイン地区の何人かを知っているが、その殆どは若い者特有の性急な粗野であった。ディーのように血の臭いを消し去る男は珍しい。
 まして女に丁寧に接するなど妓楼ではまさしく貴重な種類であったはずだ。
 けれど、結局は条件ではない。それを分かっていたからこそ、ディーは離れていった。チェイン王ライアンの宴席とやらがまたあるのなら、その時に一言謝らなくてはいけない。心を開けなかったことではなく、あれほど心をかけて貰ったのに、彼に何かを残してやることが出来なかったことを。
 謝ることではないかもしれないが、何かを残しておきたい気がしてたまらない。恐らく、彼が来なくなる以前よりもずっと彼のことを考えている。
 リィザはその矛盾にそっと苦笑し、また格子の向こうへ視線を漂わせた。ディーにあれだけ酷い仕打ちをしておいて、という自嘲をリィザは胸に聞いているが、それに構っている余裕はなかった。
 もう一度会わなくてはという信念に近い思いだけが、リィザを苦手であった腰台にずっと座らせている。
 ──初めて出会った時、自分は傷ついていた。
 酔った客に無理に抱き寄せられて、衣装の裾から潜り込ませた手が自分を勝手にまさぐり始めるのに恐怖さえ覚えて震えていた。止めて欲しいと何度も口にしたのに聞いて貰えなかった。惑乱と羞恥で泣き出してしまったことを責められて、済みませんとしか言えなかった。
 自分の謝罪は他人の心に届かないらしい。余りに豊かにありふれて流れてくるために、全く真実味が薄いようなのだ。平手で思い切り打たれ、喉を絞められて、一瞬これで死ねると思ったことを今この瞬間のことのように思い出す。
 死にたかったのかもしれない。客とのことはあまりに辛く、自分を取り巻く世界はあまりに冷ややかだった。
 あのまま虐め殺されたら自由になれるかもしれないとそんなことを思っていた。死に解放と救いを求めてはいけないと神様は言うらしいけれど、それを思わなくては生きていけない辛さはどうしたらいいのだろうか。
 けれど辛い辛いと呟くことは出来ない。この格子の町はみな、似たような境遇の女たちで溢れている。貴族荘園から引き離されたことをリィザはずっと悲しみ、未練を手放すのに長くかかってしまったが、そんなことはごく普通のことで、もっとひどいことを幾らでも聞くことが出来た。
 自分よりも哀れな人も沢山いる。例えばミアは家族が食い詰めて、冬を一家が乗り越える食料のためにここへ来た。シアナは娼婦だった母親が同棲していた男に追いやられて運河に身を投げた後、アパートの家賃の片に売られた。母親の遺産というべき金や宝石は同じ娼婦仲間が洗いざらい持っていってしまったのだという。
 だからあなたは恵まれているのだ、ということは誰も言わなかった。少しづつ不幸の根と種類は違うが、結局この妓楼にいるところで全ての帳尻はあうようになっている。この妓楼はタリアの中堅どころというあたりだが、女将がもっと格式高いところへあげたいらしく、日の売上のために無理な注文を取るということは殆ど無い。
 ──問題はリィザの頑迷な心なのだ。今でも自分の身に起こったことを理不尽だとなじり、悲鳴を上げ続けている。ディーもそれで失ってしまった。
 リィザはゆるく首を振る。ディーだけではなく、他の常連客にもリィザは顔向けできないことをしている自覚はあった。勤勉で怠慢な娼婦だと思ったことがあった。その感慨は強くなっても聞こえなくなることはない。いつもいつも、リィザの近くにいてリィザを非難し続けている。
 そんな中で、彼と出会った。あれは確かに何かの劇的な瞬間だった。
 彼は客に打たれた時に髪から落ちた造花を拾ってくれた。多分自分を見て哀れんだのだろう、そんな声を出していたはずだ。
 けれど格子の向こう側に彼を見つけた瞬間に、僅かな負い目は吹き飛んでしまったようだった。
 彼は美しかった。目を奪われるという意味を初めて知った気がする。
 彼は何かを口走るように喘いでいた。リィザは声も出せなかった。ただ、何かの予感か雷鳴のようなひらめきに撲たれて茫然と、目の前の奇跡に見入っていたのだ。
 あの時、確かに何かが起こっていた。自分も彼も震えていた。格子という籠のあちらとこちらでお互いを引き合うように凝視めあっていたのだ。
 それは天啓とよく似ていて、例えば農園にいた頃に小糠雨を見つめてやがて空が明るくなってくると、リィザはじっと予感をまっていた。何か美しいものに出逢うかもしれないと思うと胸が膨らむような期待があった。虹や蝶やそんなものでも嬉しかったのに、彼の面差しに溢れてくるような存在感が眩しかった。
 だから、二度目に逢った時、彼に何かが起こったことははっきりと分かった。夏の初めにリィザを見つめていた瞳の色は同じなのに、そこにあった零れるような命の火が揺らぎ明滅していて、全く力無い、ただあるだけのようなものになっていたからだ。
 魂が抜けてしまったようなぼんやりした、殆ど無気力というべき表情が胸に鋭く突き刺すように痛かった。顔立ちはあの時と変わらないはずなのに、そこに激しく強い光がないだけでまるで別人のようだ。
 礼を言わなくてはとリィザは思っていた。造花はあの時、ディーから貰った大切なものだった。その彼ももう自分の所には来ないと言ったきり、その言葉を守り通しているけれど、あの瞬間にはリィザにとって、数少ない安心して身にまとうことの出来るものだったのは真実だったから。
 けれど、礼だとか彼の名前を知りたいとか、そんなことは吹き飛んで、ただ傷ついた顔つきで不機嫌に部屋にいた彼を、自分はどうしたら良かったのだろう。話せと言われても咄嗟に思いつかない愚かさが自分で苛立たしかったが、彼の方はそれで更に機嫌を損ねてリィザに構わず一人だけの世界に籠もってしまった。
 悲しいと思い、今謝りたいと思うのはそのことだ。彼が何かによってひどく打ちのめされて傷から血を流しながらのたうち回っているのは分かる。それは既に理屈などで納得するようなことではないのだ。
 だから尚更悲しい。彼が一人で自分を慰撫しようとしたこと、自分の中の世界とその幻想の中に引きこもり、その幻想に現実を無理矢理合わせようとしたこと。何よりも、彼がリィザを側に置きながら孤独に易々と身を委ねてしまったことが、とてつもなく悲しいのだ。
 一人でいる孤独よりも、他人を側に置いた孤独の方が、数段悲しく、辛く、切なく苦しい。
 それは誰にも頼るよすがが無いということだ。外で傷ついた身体を癒すようにして女に依存して一時の安息を得ることをリィザは決して否定しない。誰かのために自分が頼りない糸のようなものにでもなれるなら、肉体的な苦痛はじっと甘受しながらでもいいと思う。
 けれど彼はそれさえしなかった。何か話せ、という言葉が自分と世界を切り離そうとする言葉で、もういいと苛々と呟いたのはリィザのことをその場所にさえ認めなかったという意味だ。
 あるいは、彼が寝転がっているときにふと手を伸ばした、あの指先を掴まえれば良かったのかもしれない。その仕草が何かを必死で探しているように見えて、余りに痛々しくて動けなかった。
 その後の急な衝動も、乱暴で唐突な手管も、ただ辛い。俺を見ろと言った時、彼の表情があまりにも静かで何も浮かんでいなかったことが。ひどく辛くて辛くて死にそうだというような目をしているのに、表情は凍ったように薄かったことが。
 その辛さが彼を見つめる仕草で自分の中に雪崩れ込んできそうだったから少しでも何かに触れればと手を伸ばしたリィザを振り払ったことが。──彼の美しく華やかな光を放っていたような面差しが、無惨なまでに輝きを失っていることが。
 彼に何をしてあげたら良かっただろうとリィザは考えている。少なくとも、単純な性的接触でないことははっきりしている。彼が欲しがっているのはもっと違うものだ。
 何を求め探していたのか、宙を攪拌するように伸ばしていた手が遂に何も掴めないのだと彼が知ってしまう前に、あの指を掴まれば良かった。私がここにいますと言ってあげれば良かった。怪我をした獣は慣れないと知っていても、強く胸に抱いて大丈夫と言ってあげれば良かった。
 大丈夫。大丈夫。
 今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ──と。
 リィザは視線を格子の町の外へ流し、そして待っていた機会に近いものを見つけて声を上げた。彼の名前は知らない。けれど、確かに彼はこの妓楼の常連といえたから、顔は知っていた。
「待って、待ってお願いです! お願い、待って!」
 大きな声を出すことなど滅多になくて、それだけで心臓が破裂しそうだ。雑踏の人々が一瞬何事かと足を止める。その中にその少年の姿もある。一所懸命にそちらへ視線をやってどうにかかち合わせると、少年が意外そうな表情で俺? と自分を指した。
 リィザが頷くと、少し首を傾げたままで格子の前に立つ。彼はすらりと背が高く、手足がほっそり長い。笑顔がほどよく明るくて、嫌味がなかった。
 どうしたの、と聞かれてリィザは彼の袖を掴み、私、と言った。
「この前の……あの、……」
 リィザは言いかけながら、「彼」の名前を知らないことに気付く。あの人が、と言ったきり言いよどんでいると、少年の方が先に承知したらしい。ああ、と軽く声を上げて頷いた。
「奴ね、うん、奴がどうかしたの」
「この前……私、何も出来なくて、謝りたくて、それで」
 少年はゆるく笑った。気にしないでいいよ、となだらかに言われてリィザは首を振る。最初の時、ただ見つめるだけで言葉さえ殆どかわさなかった。そして次の時には彼の言葉に一筋も触れられなかった。  
「お願い、私が謝りたいと言っていると、伝えて欲しいんです。──お礼なら、何でもしますから……」
「何でもする、なんて簡単に言っちゃ駄目だよ」
 少年は苦笑し、奴のことは気にしないでよ、と付け加えた。
「あいつはちょっと苛々している。君に当たったなら済まなかったというのはこっちの方だと思うよ……色々あってね、今ちょっと荒れてるから」
 少年は肩をすくめる。でも、とリィザは強く言い募った。
「お願いです。この前は何一つ言えなかったから、今度はきちんとしたいんです。お願いします、お願い、あの人にもう一度会わせてください、お願い……」
 彼の袖を掴んだまま、リィザは項垂れるようにする。少年は困ったように溜息をついた。何かを思案しているのだろう、亜麻色の髪に手を入れてひたすらかき回しながら宙を睨んでいたが、やがて頷いた。
「一応伝えるだけ伝えておくけど、保障はしないよ。それでいいだろ? ……ねぇ、それともし、奴と話が出来たら……そうしたら彼に優しくしてやってくれないか。女の子が気にかけてくれたらもうちょっとましだと……」
 そこまできて少年はふと口をつぐみ、照れ笑いになった。そんな事を他人に頼む愚かしさを思い出したらしい。リィザはそれでも分かりましたと頷いた。優しくしてやって欲しいという言葉にちりばめられた、少年の気世話が良く分かったのだ。
 リィザの生真面目な態度に少年は少し顔をほころばせ、頼むよ、と今度は小さく呟いた。
「……あんた、奴がこの前別れたばかりの女とちょっと似てるのさ。だからってわけじゃないんだけど、なるべく親切にしてやって欲しいんだよ……俺が頼むのも変な話だけどさ、奴が来たらそうしてやって。金は奴に持たせておくから、頼むよ」
 少年は念を押して雑踏に消えた。リィザはほっと溜息になって格子から離れる。
 ともかく賽は投げた。これがどんな目を出すかはまだ分からないが、彼は……来るだろうか。そんなことをちらりと思い、リィザはじっと床を見つめ、深く頷いた。
 来る、という確信に近いものがひたひたとわき起こってくる。あの少年もそのつもりがあるのだろう。保障はしないといいながら、揚げ代の話まで口にした。
 リィザは待合いから離れ、裏階段から自室へ戻った。大抵部屋の中は片づいている……というよりは乱雑にしておく程の広さもないのだが、それを一度ざっと点検して髪を丁寧にとかした。そっと鏡台の引き出しを開ける。
 中にはいつか大切な人から貰った硝子の小鳥があった。若様、と呟いてそれに触れる。硝子の透明でさやかな質感が指にくる。若主人を恋していた頃、彼を思うだけで幸福だった。
 あの気持ちがあってよかった。リィザは微笑む。恋があって、その薄い悲観があって、それでも歓びがあって絶望があって、最後に希望があった。その形がまだはっきりしないことが自分にも辛かったし、それで見失ってしまったような思いもあったけれど、希望の光感を知っていればそれを思い出すことが出来るはずだから。
 じっと鏡の中の自分と向き合っていると、不意に表廊下の扉が叩かれた。小間使いの少女が客の来訪を告げている。
 リィザはゆっくりと扉に歩み寄って内側に開いた。静かにあらわになる面輪は彼だった。リィザと目線さえ合わせないで、ただむっつりと押し黙って立ちつくしている。その腕をそっと取ろうとすると、やはり拒絶だった。乱暴に振り払い、何だよ、とかすれた声を出す。
 リィザは中へ、と身体をずらす。仕方なさそうに部屋に踏み込んでくる彼の背後で扉を閉めて、リィザはありがとうございますと小さく言った。
 少年は振り返り、やはり目は合わせないまま、だから何だよ、と低い声を出した。
 リィザは少しだけ笑う。こんな声を知っている。いつか怪我をした狐が農場に紛れ込んだ時にこんな声で鳴いていた。自分に近付くものは敵だという威嚇、痛みがあって血を流しているからこそ、全身で抗う空気。
 だからこんな時にどうしたらいいのかは知っていた。リィザは微笑み、彼の方に迷いなく近付いていく。怯えたように彼が後じさる。じりじりと微妙な距離を残して彼が部屋の中へ後退するのをリィザは脅かさないように歩みよっていく。
「──やめろ」
 彼が不意に唸った。
「何の用だ、さっさと言えよ。俺は奴が約束をしたって言うから、それだけで」
「私、この前言い忘れたことがあって」
 リィザはじっと彼の目を見る。彼がリィザの視線から逃れるように目を閉じて在らぬ方向を向いた。
 それがやはり、痛々しくて胸に響く。可哀想だという声が耳の奥から、脳の底から、身体に流れる全ての記憶からわき上がってくる。
 何だよ、と彼が喘ぐように言った。リィザはそうっと手を伸ばし、彼の手を取ろうとした。少年がそれを振り払い、触るな、と怒鳴る。リィザはもう一度同じ事をする。再び少年がそれを叩き返す。更に同じ事をする。
 彼はぴくりと指先を痙攣させただけで、もう打ち返そうとはしなかった。
 リィザは彼の手を取り、あの晩出来なかったことを償うようにゆっくり、強く、柔らかく握りしめた。
 やめ……と言いかけて、彼が黙り込む。リィザを見なかった瞳がようやく正面に来て、ああやはり彼は美しいのだと感じる。
 リィザはじっと彼の目を覗き込むようにする。彼が微かに震えながら目を合わせてくる。
 最初の晩のように何の負荷も気負いもない目線ではない。あれから彼に何か決定的なことがあったのは本当だろう。けれど今、あの晩と同じようにリィザを見ている。最前の全く触れられなかった夜のようでなく、まっすぐにではないけれど、リィザを見ようとしている。
 リィザは瞳をそらさないままで彼の手に指を絡め、もう片方の手で彼の頬を撫でた。びくりと彼が反応する。震えが来ている。だからリィザはそっと笑い、目を合わせたままで大丈夫よ、と言った。
 ──不意に彼が呻いた。顔が歪む。
 それまで投げやりで虚脱したような気配が残っていた表情からそれが波引いていく。
 彼は微かに何かを呟き、首を振った。
「違う、俺は……お前は、彼女じゃない」
 リィザは頷き、違います、とはっきり言った。
「でも、私はここにいます。あなたの近くに。そして私はあなたの敵じゃありません。ただ、あなたに謝らなくてはいけないと思ったんです。この前、あなたに大丈夫だって言ってあげられなかったから」
 それを言うと、彼は首を振った。その仕草は否定ではなく、否定を偽装したもっと、という欲求であることは分かった気がしたから、リィザは更に強く言った。
「大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり息をして、ゆっくり眠れば、いつか朝が来るみたいに希望が戻ってくるから」
 彼が何かを喘いで首を振り、そして希望、と唇をそよがせた。そう、とリィザは深く頷いて、彼の頬を両手で挟むようにしてゆっくり愛撫する。
 大丈夫、と言いながら撫でてやると、不意に彼がリィザの肩に触れ、一瞬迷って抱きしめた。それは殆ど縋り付くような形であった。
 微かに耳の側で震える吐息が聞こえる。泣いているのだ。
 リィザは彼の男にしては華奢な肩を抱き、ゆっくりと背中を撫でながら、大丈夫よ、と繰り返した。
「大丈夫、大丈夫。今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ……」
 リィザが呟く言葉に彼が呻き、やがてずるずると跪いた。
 床に座り込んでリィザの肩に額を押しつけ、彼が泣いている。それをいたわるために彼の頭を抱きしめてやると、丁度リィザの胸の辺りに彼が頬を押しつけるようになった。
 母性というのはこういう気持ちなのかもしれないとリィザは肩を震わせて泣いている彼を胸に抱きながら思う。彼はしきりとエミリアと呟いていて、それがきっと彼が失ってしまった恋の名前なのだろうと悟った。
 むせび泣く彼の声に紛れて、遠く鐘が聞こえた。リィザは視線を上げる。もうタリアの日が落ちる時間だ。ふっと周囲が闇へ戻っていくのに彼も気付いたのか、怪訝に顔を上げる。リィザは火を消す時間なんです、と告げてこの部屋の明かりも落とした。
 その途端、世界は青い闇に沈んだ。こんな光景は初めてなのだろう、彼が不思議そうに天窓を見上げ、お前、と不意に言った。
「──この前は、済まなかった」
 声は涙の余韻で震えていたが、落ち着いて静かだった。リィザはじっと月明かりの中で彼を見る。彼もリィザを見ている。彼がリィザを抱いて寝台に倒れ込んだ。
 その瞬間、リィザは再び息が止まりそうになる。どんなに感情があったとしても、やはり身体が反射的に強張るのだ。本当は彼を抱きしめなくてはいけないと思うのに、いつもの苦役、ひどい苦痛の記憶が悪夢として目裏に蘇ってきてどうにもならない。
 リィザは喘ぎ、ぎゅっと目を閉じた。相手が誰でも苦痛であるならば、これにはもう期待は抱かないと胸に呟いた時、彼が手を、と言った。
「……手を、握ってて……離さないで、そのままにしておいて……」
 リィザは言われた通りにする。彼はそれで安堵したような吐息を漏らし、リィザに身を寄せて静かに目を閉じた。彼が自分を今抱く気がないことを知り、リィザは悲しくなるほど安堵を覚える。遊女としてはまったく有能でないことを彼に教えたいとは思わなかった。
 リィザも彼と同じように身を寄せ合い、目を閉じる。月の下で眠りに落ちていこうとするその間際、彼の呟きがありがとうといったのが聞こえた気がした。
 リュースはうんざりしながら唇を開いた。
「彼は私を助けてくれたのです。守護が遅れたのは私が両親と話があるために彼を遠ざけていたからで、彼が不首尾だったわけではない──同じ話を何度すれば彼を解放してくださるんです。彼は、私の大切な……」
 言いかけた先を、少し離れた高い位置に座っている魔導士が手を挙げて制した。リュースはむっと黙り込む。彼は他人に制御されることになれていなかった。
「殿下のご主張は最前からよくよく承知しておりますとも」
 話す魔導士の衣は通常の黒または暗灰色ではなく、長老会の一員であることを示すための鼠色だ。銀の仮面の額には魔導士たちの最高位を示す人面鳥の型どりがある。
「しかし、魔導士としての規範は必ず優先されるべきものです。殿下は彼の顔を見ていないと仰るが、それを我々がどう信じるかは別の話です」
「私が嘘をついていると言うのですか?」
 リュースは次第に不機嫌になるのを隠せない。苛立ちばかりが募る。
「私は本当に動けなかった。彼が私の瞼を閉じたらもう自分で開けることは出来なかったのです、毒性の判別にいつまでかけるつもりなのですか」
 つい強い口調になったことをリュースはすぐに自分で恥じ、俯いた。長老会の魔導士たちがゆるやかな吐息を漏らす。
「ともかくも殿下。彼が殿下をお守り申し上げるのは彼の義務です。絶対の服務です。なるほど刺客は取り押さえましたが殿下に構っている間に自決を許してしまった、それに殿下は見ておられなかったと仰いますが自室でない場所で仮面を外している。これは審議に値する重大なことなのです」
 そうですが、とリュースは頬を厳しくして溜息になった。
 薔薇の庭園で襲われた。刺客は一人であったようだが、よく覚えていない。首筋をかすった刃に何かが塗りつけてあったらしく、それでリュースは危うく命を落とすところだったのだ。
 マルエスの不首尾だ、という長老会の主張には理もある。マルエスが咄嗟に自決を阻止する手段をとらず、リュースの怪我に手を取られている間に呆気なくそれを許してしまった。
 何よりも高位の魔導士達が言うように、仮面を外すことは重要な違反だ。見られていたかどうかは考慮には入るが重要な項目ではない。マルエスが仮面を外したのは自分の首筋につけられた痕跡からの毒を吸い出すためで、その感触がうっすらそこにあったような記憶はある。確か四度までは数えたはずだ。けれど、それは重要では無いというのが長老会の見解であった。
 それに彼はリュースの護衛魔導士であったから、護衛が義務という言葉は正しい。本来は主人に退去を命じられても隠遁して同行するのだという内部服務はこの一件で初めて聞いたのだが、ではこれまでマルエスが下がってくれていたのはリュースの心を考慮してくれたという逆の証明であった。
 けれどマルエスがいないとどうにもならないことが多い。「彼」の捜索もそのうちの一つだが、日常や学問の全てに置いて、彼は良き相談者であった。実際の所殆どをリュースが一人で語っているのを聞かせている形ではあるが、それがいないのとはまるで違うのだ。
 服務規令違反であるという長老会の主張は間違ってはいない。けれどリュースにはマルエスが必要だったし、結局事なきを得たのも彼の功績であるのは本当だった。
 治癒の魔導は解毒であるならまず、その毒の種類から判定し、それによって化学式を書いた後に魔導言語に直してゆかなくてはいけない。つまり、その場では最も原始的な、傷口から吸い出すという行為がもっとも有効であった。
 マルエスは今すぐに処置をしないと間に合わないと踏んだ。事実リュースは身体の麻痺で呼吸さえ出来なくなりかけていたのだ。マルエスとて仮面のことを考えなかったとは思わない。けれど、それを捨てても自分を救おうとしてくれたことがリュースの心象の大きい部分を占めていた。
 ……と長老会には何度もマルエスの身柄を戻すように申請しているのだが、一向に許可が下りない。魔導士の審議には時間がかかると言われているが、半月も一人でいるのにはさすがに滅入りそうだった。
 毒物の判定が出来ればリュースの身体が動かなかった、という証言にも裏付けが出来る。マルエスの拘束はなるべく早く解きたかった。
 この事件のことは父が非公開に指定したから既に解決の糸口は断たれている。非公開にしたのはリュースへ刺客の手が伸びたことで、もう一人の皇太子候補であるカルアへ意味のない侮蔑が向くのを怖れたためだ。それはリュースも構わない。
 随従の魔導士が頻繁に立ち替わる中、それが自分との適正の試験であることは察していた。だがマルエスほどに馴染めそうな者はいない。彼とは長いな、とリュースは改めて思った。
「では、審議はいつ頃終わるのです。私はあのことでそう打撃を受けなかった。これはマルエスがいたからこそだと考えています。今後の安全のためにもう一人か二人申請を出しますが、私のことは彼が一番良く知っている」
「無論、存じております、殿下」
 言葉だけでかわされてリュースは苛々としている。毒素の抜けたあとの反動で微熱が続く体調をおして魔導の塔にまで出向いてきたというのに、結局面会さえ許されないのだ。
 マルエスは必ず返してください、とリュースは強く言った。「彼」の捜索のこともあって、やはり彼でなくてはならないことが多いのだ。考慮いたしましょうと魔導士達が言って、席を立とうとした。リュースはそれを呼び止め、もう一つと切り出す。
 マルエスを最終的に取り戻すのは別にして、長老会に要請することがあったのだった。
「それと、新しい魔導士の申請なのですが、一人希望があります」
 魔導士たちが頷き、席に座り直した。
 誰をご所望ですかと促されてリュースはカノンを、と言った。それが長老会の議場にほわんと反射して消えた瞬間、高位の魔導士たちが一斉に何かに撲たれたように身を固め、そして身構えたのが分かった。
 リュースはその空気に僅かに眉根を寄せる。カノン、と呟いている長老会の魔導士たちは一様にひどく狼狽えているらしいのだ。
「カノンで不都合がありましょうか」
 長老会の仕業にすでに倦んでいたリュースは自分の声が尖っているのを自覚したがあまり訂正する気にもならなかった。魔導士たちが机の下でリュースから見えないように手の無音会話を行っている気配がする。リュースがその時間に再び焦れてくる頃に、ようやく一人が口を開いた。
「了解いたしました、殿下。では後日、魔導斑紋の判定を卜占版にて行いますので結果をふまえて回答をいたします」
 リュースはじっと魔導士たちを見る。この至極当然の回答がでるまでの時間の早さには何かが潜んでいるような気配だった。だからお待ちなさい、と声をあげる。
「卜占版の斑紋判定なら済んでいます──マルエスにさせました。非常によい結果が出ております、問題はありません」
 事実、斑紋の合致はマルエスよりもよく揃ったのだ。魔導士たちが微かに唸ったのが聞こえた。これは何か特別のことらしいとリュースは気付き、上段の魔導士たちを見据えた。
「魔導士カノンを私の護衛魔導士に申請します。本人と話も済んでおりますので、長老会の追認を頂ければそれで発効します」
 魔導士たちが困惑のうなりを発した。マルエスのことを散々引き延ばされてきたことの溜飲を僅かばかり下げ、リュースはよろしくどうぞと姿勢を正した。
 と、中央にいた最高位の魔導士が分かりました、と低く言った。
「ではこれより同志カノンの転任について長老会で決を採りましょう──同志レガデラからどうぞ」
 リュースははっとする。この先が読めたのだ。レガデラという魔導士が否、と言うのが聞こえた。つまり五人全員の総意をもって否決の結論に至るということになる。その通りに五回の否が聞こえた後、長老会の結論は否決ですので申請は却下いたしますという決まり文句が振った。
 何故、とリュースは声を荒げた。途端にまだ万全でない体調が眩暈を訴えてくる。それを押し殺してリュースは何故ですかと問い直した。
「魔導士カノンはとても優秀な若手の魔導士である旨を聞いております。事実論文も良く書けておりましたし、術式も構成も非常に才能豊かです。私は私の今後の魔導学の研鑽のためにも彼を側に置いて相談を……」
「殿下、魔導士は殿下の玩具でも、魔導学の顧問でも、実験台でもありません」
 リュースはそれは、と言ったきり絶句した。最後の一言は魔導士たちの彼に対する怒りの代弁なのかもしれなかった。
 ──時間生成理論。あの「彼」がひねり出した新機軸の魔導理論。
 理屈としては確かに面白かった。最初にそれを懸賞論文として王宮内で読んだ時にはそれを書いた少女の指先と想念が作り出す、新しい世界の姿を見た気がしたのだ。
 けれどそれはまさに机上論であった。それに気付かずに「彼」も自分も、まったく危機感などなくそれと戯れていた。紙の上でならどんな想像も体系化できるのだということに気付かなかったのだ。
 リュースは項垂れ、あれは本当に申し訳ないことをしました、と呟いた。実験の失敗はそれが新理論の検証実験である時には起こりやすい。元々最後に発動の起爆を置く構成が多いために、失敗した時には通常何も起こらない。
 だが、時間生成理論は違っていた。魔導理論に他からいじりまわした数字を入れて一見意味のある数値にすることなど、何故しようと思ったのかさえ、今となっては分かりたくない。
 生成理論の実験は失敗した。引き歪んだ空間に実験に参加した魔導士を飲み込み、引き裂いてまったく違う場所へそれぞれ放り出したのだ。死体の回収には結局二ヶ月を要し、まだどこへ行ってしまったのか分からない部分が多い。結局それは人の身体では負担に耐えられないということだけが示された。
 あの実験に従事してくれた魔導士は長老会の予備要員を務めていた優秀な者であったと後で聞いた。今現在の長老会にもしかしたら入っていたかもしれない。
 魔導士は人ではありませんので生命に関してはお気になさらないでくださいと彼らは口を揃えて言ったが、それが本心だと思ったことはなかった。そしてそれは今証明されたような形になる。
 実験が停止され、理論の発展が凍結扱いになってもリュースはその論文を書いていた。致命的な欠点が何であったのかを解明すれば再びそれは新理論としての輝きを取り戻すはずで、そうなった時にまるで初期から考察が進んでいないことなど耐えられなかったのだ。
 同じ事を考えるのはやはり研究者で、魔導学の研鑽を積んだものは一様にこの新理論に興味を示した。実験の何がいけなかったのか、原因は何だったのか、そしてその他の予備事項の小さな実験からの開始。それがいつか重大な部分が解明されていく過程で役に立つはずだと信じている。
 けれどそれに対する非難は曖昧に提示された。リュースは分かりました、と顔を上げて長老会の魔導士たちを見つめた。
「魔導士カノンの申請と、私の護衛魔導士マルエスをお返し下さるなら、時間生成理論についての追求は私個人として放棄します」
 この理論の旗手が今や自分であることは承知している。つまり理論の発展の頓挫だ。けれどこれは新しく誰かがこれからも書くだろう論文を眺めることで宥めてゆくことも出来る。魔導学と縁を切るわけでもない。
 それよりもマルエスの返還とカノンの着任が優先だ。刺客などということも護衛魔導士が複数つくことで殆ど無に近いところまで可能性を下げることになる。両親の意向で皇太子の候補を降りるかどうかはともかく、将来にはこの国を支えるための要人となることは決まっているのだ。
 魔導士たちは彼にゆるゆると首を振り、多少哀れむような声を出した。
「残念ながら殿下、同志カノンの件についてはそれでも承認いたしかねます。何故か、ということについては我々の禁忌に触れるためお答えできません」
「……禁忌」
 リュースは呟いた。魔導士の禁忌は三つしかない。個人情報の秘匿、主命への絶対服従、長老会決定への絶対服従。主命と長老会決定の服従の内容が相反する時には長老会が優先される。これ皆全て、魔導の塔という特殊な組織が誕生した時から受け継がれている規則である。
 主命とは関係がないはずだ。彼は今変声期の預かりで魔導の塔へ多く身を置いているが、タリア王の元への出向になにか禁忌が絡むなど考えにくい。では個人情報と長老会決定のどちらかにカノンの何かが抵触するということだ。長老会決定はこの代だけでなく、大綱を練る意味での判例法のような使われ方もすることがある。その内容が極秘であるためにリュースでも見ることが出来ない。これを閲覧のために差し出せといえるのは、この国の皇帝だけであった。
 リュースが俯いているのに魔導士たちは殿下と言った。
「しかし、時間生成のことを諦めてくださると仰ることに我々は深く感銘いたしました。ゆえに殿下のそのお優しい御心に免じ、同志マルエスにはなるべく早い時期に殿下の安寧を保つ役割に戻すことをお約束いたしましょう、それでよろしいですね」
 取引にリュースは頷き、なるべく早く、と言った。
 外へ出ると夕方近い時間であった。長い間長老会の面々と話していたことになる。道理で疲労が濃いのだとリュースは溜息をつき、魔導の塔の正門まで歩き出した。そこからは近衛のついた馬車が用意されている。
 それに乗り込もうとした時、殿下という声が背後にうずくまったのを聞いた。リュースは振り返り、済まない、となるべく穏やかな声音で言った。
「お前の申請は撥ねられてしまった、済まないね、カノン。私にもっと力があれば良かったが……」
 リュースは言いながら苦い顔になった。皇子であるという身分は魔導士の組織の前、そして刺客の向ける現実の刃の前にひどく無力であった。私はもっと大人にならなくてはいけない、とリュースは強く思う。
 例えばマルエスを取り戻すのに取引にまでしなくてはならなかったり、カノンのことを命じる根拠が自分には何もなかったり、そんなことは一度経験すれば十分だ。
 聞こえておりました、とカノンは淡々と言った。それから何かを一瞬思案したような沈黙の後、実は、と申し訳なさそうな声を出した。
「私は何度か申請を長老会に出し、全てを却下されて参りました。ライン殿下のお相手役も、身長が一番近いという理由で選ばれはしましたが、待機期間での限定だと最初から申し渡されてもおります。私は恐らく、何かのために早く死んで欲しい者なのだと思われます」
「──そう。……でも、生きなくてはね。せめて自分が納得するほどまでには」
 リュースはカノンの手を取ってやる。カノンがありがたいことです、と彼の手を押し包むようにし、膝をついて叩頭した。
「いつか殿下に時機が参りましたら、私を呼んで頂きたいのです。長老会の決定に優先されるのは最後には皇帝陛下のご意志のみです。どうか殿下、お約束は結構ですが、これを私が申し上げたことをどうか、どうかお心の隅に置いていただけたら望外の幸福です」
 リュースは自分の足下に額をつける、少年魔導士を痛ましく見やった。彼は恐らく、自分とあまり年齢が変わらないはずだ。自分にも力が無く思い知ることばかりだが、彼の方が自分よりも沢山の制約がある中で生きている。魔導士の禁忌は破れば即ち死であることが多い。
 リュースはそれを慎重に避けながら懇願する少年に胸の痛むような憐憫を覚えた。これはいつか「彼」に感じた憐れみと同じ種類であるように思われた。
 カノンには才能があり、可能性がある。それが何らかの理由のために全てねじ曲げてゆかなければならないとしたら辛かったし、それを本人が辛いと思っているならば切なかった。
 ──彼は今、どうしているだろう。不意にリュースはそれを思い、カノンを見つめた。彼がカノンということはないはずだ……恐らく。けれど境遇や環境が似ている。彼に手を伸べるのと同じ気持ちで皇子はカノンを助けたかった。
 皇子は分かったよ、と優しく言った。カノンが殿下、と深く頭を下げた。
「論文、読んで下さってありがとうございました」
 リュースは曖昧に笑い、カノンの手を握った。
「また、その日に。それまで君も強くながらえておくれ」
 はい、とカノンの声が微かに潤む。
 リュースは遠い約束の為に微笑むと、近衛騎士が促すままに馬車に乗り込んだ。

奥付



水泡の夢 / Part1.赤い格子の町 / 上


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著者 : 名嘉つぐみ
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