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 渇いている、とライアンには言われた。そうかも知れないとクインは思う。エミリアとのことが幻になってしまったことで自分を責め、ライアンを非難し、けれど彼からの贖罪を受け取ってしまえば最後に向き合うのは自分の中の罪でしかない。
 だからそれは受け取らない。狂気なのかそのふりをしているのか、自分でも境界は曖昧だったが、世界への怒りとライアンへの鈍い憤りが今の自分を辛うじて支えている。
 昼の柔らかで温かな日射し、明るい日常の光の中にいると自分が場違いなところに座らされているようでどうしていいのか分からない。そして夜の青い孤独の中にいればただ淋しくて身を切られるほど辛い。
 ライアンはあれから時間を割いて回してくれているようだが、月に三度ほどだった会話が週に二度になったことが劇的な変化だとは思えなかった。
 一人の夜は淋しいし、ライアンがいてもなお淋しい。ライアンに徹底的に自分を痛めつけるようにし向けているのは彼の心に悪意と痛みをばらまくにはそれがいいと思ったからで、どうやら成功しているようであったが、一体こんな事をしてなんになるのだろうという声がどこからか聞こえてくるのだ。
 ──意識を取り戻した夜、ライアンに現実に巻き戻されるようにして彼と寝た。殆ど力づくでライアンは自分を取り戻そうとしたのだ。快楽かどうかという以前に自分の中の空虚と胸裂けるような悲しみがぐるぐると回って、あの晩は喉嗄れるまで泣いたはずだ。
 ライアンの身体が自分を押し潰さないように気を使うのが苛立たしくてたまらなかったし、エミリアのことを失い、全てを放擲したことで初めてライアンが自分をその意志で巻き込んだことが許せなかった。
 けれど、それはエミリアの温かな腕に巻かれる以前、自分が望んでいたことではなかっただろうか。知ってしまえば他のものは要らない。ライアンが彼に与えようとするエミリアの身体の熱と似たものでは、既に満ちてゆかないのだ。
 エミル。クインはじっと遊女の部屋の床にはられた、美しい組木模様を睨み据える。チアロが自分を勝手にこんな所へ押し込んでいったのは、今怯えたような目で彼を遠くなく近くない場所で見つめる彼女がエミリアと似ているからだ。
 順序としては逆で、最初エミリアを見た瞬間には、それ以前に行き会ったこの遊女と似ていると思ったはずであった。けれどその位置は決定的に逆転している。
 エミリアは彼の中に明るい光が差し込むための窓をつけてくれた。いつか翼を広げてそこから飛ぶことが出来るわと言ってくれた。彼女といるだけで穏やかになる気がしたし、手を触れていれば嬉しく、頬を寄せていればなお嬉しかった。
 終わることだ、というのは分かっていた。いずれ離れて行かなくてはいけないとはっきり自覚していた。だからこそミシュアへ向かう旅路やその過程が美しく貴重なものになるだろうと思ったのに、それはほんの僅か手前で道を逸れ、息苦しい迷路へと紛れ込んでしまったのだ。
 エミリアはどうしているだろう。見に行くことさえ怖い。自分が彼女に接触したら次はないとチアロも言った。だから行かない方がいい。行ってはいけない。あの優しくて暖かな色をした女に二度と会えないことが現実だった。
 そしてクインは顔を上げて自分をひたすら見つめる遊女に視線をくれた。それははっきりとした敵意のような眼差しだったらしい。遊女が怯えたように肩を震わせたのが分かった。
「……お前……何か喋れよ」
 クインは低い声で命じた。チアロといると楽なのは、彼が勝手にいつまでも口を動かしてくれる部分が大きいのだろう。自分がどんな状態でも、彼なりにクインの気持ちを引き上げようとする。
 遊女は済みません、と呟いた。
「あの、何のお話を、したらいいでしょう……?」
 怖々とクインの機嫌を伺おうとする瞳が大きい。あの晩に一瞬、捕らえられたような気持ちになったそれは、今はもう何の感情も呼び起こさない。彼女の面輪にエミリアの幻だけを見ている。
 なるほどライアンは下らない、とクインはふと鼻で笑った。彼がしているのはこれと同じ事だ。彼のことを思い出すと尚更不機嫌になる。クインは遊女の問いに返答しないまま、座り込んだ椅子に身をゆっくり埋めるような姿勢を取り、長い溜息になった。
 ──つまりチアロは俺がライアンと同じくらい下らないと思ってるんだな。クインは口元を思い切り歪める。チアロはエミリアの顔を知っている。彼女がエミリアと似ていることも、では分かったのだろう。
 気を使おうとしてくれることを有り難くは思っても、これが嬉しいかどうかは良く分からなかった。それに、とクインは困ったように俯いてしまっている遊女を横目で見やる。
 彼女にはエミリアの持っていた嫌味ない明るさが足りなかった。もっとうち解ければ違うのかも知れないが、クインの発散する不穏な空気に気圧されているのか口数も少なくおどおどとこちらを窺うばかりだ。
 クインが溜息になった時、あの、という小さな声が聞こえた。
「何だよ」
 切り捨てるように言うと、ごめんなさいという反射的な言葉がもれた。クインは苛立つ。自分がせっかちで気忙しい部分があることを承知しながらも、この女は俺の機嫌を取らなくてはいけないはずだという認識がひどく素っ気なくて乱暴な言葉や態度にしかならないのだった。
「ごめんって、何が」
 底意地の悪いことを聞いている、とクインは顔を歪めた。遊女は困ったようにますます身を縮め、ひたすら済みませんと呟いている。それがいい加減に癇に障り始めてクインはお前、と吐き捨てるように言った。
「お前、同じ事しか言えないならもう黙ってろ」
 ──彼女はエミリアではない。失ってしまったものは、もう戻ってこない。
「俺は別にお前のくどくどした謝罪なんか聞きたくねぇよ」
 ──エミリアではない。彼女の持っていた全てと遠く隔たった、別人だ。
 そんなことは分かっていたけれど、何を期待していたのだろうと思うと尚更かあっと胸の底が熱くなるようだ。クインは言いたいことだけを言って長椅子の方に移って寝転がり、天井を見上げた。天窓から地上の赤い光に揺らめく月が見える。
 クインは手を伸ばした。エミリアの声が、自分の中に蘇ってくる気がしたのだ。ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春。胸に描く幻想を、温かな理想を、そっと囁く声が優しかった。彼女のおおらかな気持ちに抱かれていたかった。エミル。
 エミル、好きだったのに。これがどんな種類の愛でも欲しかったのは本当だのに、どうしてあんな風に突然、何の予告もなく精算しなくてはいけなかったのだろう。
 現実は進んでいくのに、心の方はそれに追い付かない。自分がせかせかと時間を早めていく性質であるのに、肝心の己がついてこられないなどといういうことが、また苛立ちになった。
 クインは自分の顔を片手で覆い、長い溜息になった。何も考えずにいたかった。忘れろとライアンが言うのは正しいのだろう。ただ、自分が意地でもそんなことはしてやるものかと思っているだけだ。
 忘れない。絶対に。それがライアンへの復讐の方法であったし、自分の中に美しい幻影が眠っていたことの証明でもある。そしてクインは不意に身を起こした。
 結局この女がエミリアに似ているかどうかなんて、どうでもいいことじゃないか。自分に優しく微笑んでくれた彼女は一人しかいない。ならば、誰でもいい。もうどうでもいいし誰でも構わない。一瞬でも、ほんの束の間でも肌の熱と吐息で溶けてしまえるなら、もうどうだって構わないじゃないか……
 そんなことを口の中で呟き、クインは所在なく彼の横に座っていた遊女の腕を掴んだ。はっとしたように彼女が目をみはる。大きな瞳が怯えたように潤んでいるのを見た瞬間に、罪悪感のようなものが胸をかすった。それに自分で動揺する。
 何がいけないんだとクインは強く顔を歪めた。
 自分は客で、この女は遊女だ。俺を好きなように玩ぶあの客連中と同じ扱いをしていい相手だ。クインの表面だけを丁寧に愛でて好き放題に彼を扱う連中に覚えた憎しみが、形を変えて戻ってくる。
 抱いていいはずだったし、滅茶苦茶にしていいはずだった。ライアンが彼の胸を切り刻んだように、誰かを傷つけることで均衡を取っている。
 自分は荒れ狂いたいのだろう。本当に狂ってしまえたらどんなに楽だろうか。けれど、母のことがある限り生きて行かなくてはいけないし、あの商売だって辞めるわけには行かない。ライアンとの自虐ともいうべき関係も、エミリアとの思い出も、何もかも、放り出すものか。
 それら全てを放擲しない重みを、どこかに吐き出さなくては潰されてしまう。その捌け口が女でどうしていけない!
 クインは無理やり彼女を長椅子に引き上げると、着ていた木綿の赤い花襟の紐をほどいた。余りに性急で乱暴な仕草に彼女が驚いたような声を上げた。うるさい、とクインは強い言葉を捨てた。彼女はびくりと肩を震わせるとクインがもどかしく剥がそうとする服を手伝うつもりなのか、一つ二つ釦を外そうとした。
 クインはその白い手を払いのけ、服の前袷を掴んで思い切り引き破った。勢いで釦がぱちぱちと飛ぶ。遊女の視線がそれを追ったのが気に食わなくて、お前、と喉元を掴んで呻くように言った。
「俺を見てろ。他の所に目をやるな。いいか、ずっと俺を見てろ」
 遊女の喉を離すと、彼女は怯えたままで頷いた。クインは彼女の服に目を戻す。それは彼の粗野な行動のせいで既に半分ほどが引き裂かれ、下からはっとするほど白い肌が覗いていた。
 体つきは少し幼い。胸の隆起もあまりないし、腰まわりもほっそりとしていて、さほど肉感的な魅力を放つ少女ではなかった。クインの視線が身体を眺めているのに気付いたのか、少女が恥じらうように手で胸を覆った。クインはそれを乱暴に振り払う。羞恥なのか少女がふわりと頬を赤らめて、どうしようかと迷った末に手をクインの肩に回そうとした。
 その瞬間、クインは喘いでその手を叩き返した。似ている、と呻きかけてそれをどうにか飲み込む。最初の印象が似ていた通り、ふとした仕草や頬の影がぎょっとするほど重なったのだ。
 けれど──似ている。どうしようもなく下らない、全く意味のないことだと分かっているのに振り払えない。エミリアの身代わりなのか、彼女は。頭がおかしくなりそうだとクインは喘ぎながら、ぽろりと名前を呼んだ。
「……エミル……」
 その声に遊女がえ、と聞き返した。クインははっとした。今自分の身体の下で怯えたような不安な目つきで、しかし命じた通りに彼を見つめる女は決して彼女ではなかった。
 こんな時にエミリアならどうしただろうか。大丈夫よと笑ってゆったり抱き寄せてくれたろうか。それとも、優しいキスを、エミリア? あなたならどうしたろうか。俺を慰めてくれたのか、それとも抱き包んでくれたろうか。
 いずれにしても、それをこの少女が代行することはあり得なかった。
 急速にきたものが急速に冷えていく。クインは少女を突き飛ばし、立ち上がった。眩暈がする。ライアンがしていることをせせら笑っていたはずなのに、気付けば自分まで同じ事をしようとしていたのは何故なのだろう。
 淋しいという気持ちが何でもさせるなら、ライアンに縋ればいいのだ。そのほうがよほどましだ。少なくとも、ライアンとエミリアを混同するほど馬鹿ではない。
 だが、似た印象の女に依存しようとすること自体が、汚い。ライアンに向かって俺はリァンの幻影ではないのだとほえついたことが霞んでいきそうになる。クインはよろよろと少女から離れ、喉で意味のないことを呻きながら扉に背をつけた。
 少女が急いで服の前をかき合わせ、駆け寄ってくる。
「──あの、ごめんなさい、私、何か、あの……」
 クインの機嫌を損ねたのかと見上げてくる視線が大きくて、あの晩に出会った時のように美しく潤んでいる。
 けれどこれはエミリアではない。こんな贋の代用品で間に合わせようとした自分も許せないし、おどおどとクインを窺おうとするこの女にも腹が立った。
「俺はお前なんか欲しくない。あいつが勝手に放り込んだんだ──もういい、俺に構うな……泣くな、馬鹿っ」
 ついというように涙をこぼした遊女に心底うんざりしてクインは怒鳴りつけた。
 渇いている、とライアンは自分を指して言った。自分の中では涸れてつきてしまった涙をこんな下らないことでぼろぼろこぼしてみせられると、いっそ当てつけなのかと勘ぐりたくなる。
「泣くなって言ってんだろ、いい加減にしろ、知らない、帰る!」
 クインは少女を突き飛ばし、扉を乱暴に開けて足早にそこを出た。待ってと少女が叫んでいるのが聞こえたが、それには構わない。来た階段を駆け下りていくと、女将がぎょっとしたようにどうしたの、と聞いた。それに返答をせず、先ほどはチアロが開けた格子戸から出ていく。何かを女将が言いかけた気配がしたが、戻る気にはならなかった。
 駆け戻ったアパートは人の気配がない、しんと冷たい闇の中であった。クインはまっすぐに寝室へ入る。遊女の身体からついたのか、ふわんと甘い香りがする。
 こんなもの、と滅茶苦茶に自分の肌をかきむしり、それでも足りなくて意味のない悲鳴を上げながら服を脱ぎ捨てて暖炉に放り込んだ。
 灰が舞い立つ。
 月明かりの中で画帳の最後の角の形が崩れたのをクインは見、そしてぺたんとその場に座り込んだ。エミリアの残した全てがたった今、最後のものさえ潰え去ってしまった。
 それを思うと後から後から何かがこみ上げてくる。獣のようなうなり声を上げてクインは暖炉の前へひれ伏すが、涙はやはり出てこなかった。
「エミリア、ごめん」
 呻いた言葉にクインは自分で首を振る。画帳はエミリアが自分へ渡したかった希望の形であった。背中が良くなったと誉め、翼が見えるのよと笑い、よい未来を彼に教え、そしてそれを教えたことを忘れないでというつもりでチアロに画帳を預けたのに決まっているのに、それを自分は為す術なく燃えるのを見ているしかしなかったのだ。
「エミル、ごめん、ごめんよ……」
 呟き続ける声に混じってくるのは大量の、自分でも制御できない量の後悔だった。それが苦く鋭く自分の背中を打ち続けている。エミリアがここに、と描いた位置が痛い。
 いつかクインを描けたらその絵をくれるとエミリアは約束をしてくれた。この画帳はそのための引き替えの切符だった。それを大切にしてやれなかった、ただライアンが画帳を燃やすのを、ぼんやりと見ていた。
 腕も胸も、痛むのはこれは罰だとクインは思う。
 罰だ、罰が下ったんだ。二度とエミリアには会えない。彼女の託してくれた希望が他人の手で蹂躙されるのをぼんやり見ていた。だから泣くことさえ出来ない、これが罰なのだ。
 クインはほんの僅かに形が分かる灰へ手を伸ばし、おそるおそるすくい上げた。灰は既に冷めていて、たださらさらと細かく指の隙間からこぼれていこうとする。
 それを阻止するようにクインは灰を握りしめた。
 自分の手の中にある、一握の灰。自分の体温にぬくまっていくそれは、エミリアとの全ての思い出の遺灰であった。
 クインは喉で呻いた。涙の気配は、やはりどこからもなかった。
 皇子が論文の綴りをめくり終わるのと同時に、卜占版の上に線が浮かんだ。それを見つめていたマルエスがそっと笑い、隣で固唾を呑んでそれを見守っていた少年魔導士の肩を叩く。ありがとうございますと呟いた少年期特有のかすれた声に耳を止め、皇子は微笑み立ち上がった。
「終わったようだね。どう、マルエス」
 皇子は魔導士二人が真剣に斑紋をいじっていた卜占版を覗き込む。そこに浮き現れた赤黒い線の紋様を見つめ、柔らかに笑った。魔導を知らぬものが見ればただの絡み合った線であったが、これは正式な卜占だ。皇子の魔導斑紋と、カノンの斑紋の相似判定である。
 魔導には使う個人によって特有の斑紋が出る。これは誰一人同じ斑紋を持たない完全なる固有であった。声の質などによって魔導呪文にも個人で得手不得手があるし、声が一人づつ違うものであるのと同じように、斑紋にもそれがあった。
 そして魔導が声を媒介とする超自然である以上、斑紋の傾向が似ているかどうかは同じ術を合同で行うためには重要で重大なことである。
「大体が一致しているね。これはとてもいい、マルエス、分かった──カノンといったね、今度の移動時期に申請を出しておこう……論文も良かった、面白かったよ」
 皇子はカノンの手による綴りをちらりと見やって笑ってみせる。アイリュス公が魔導士を使って誰を捜しているのだと指摘したことで、リュースはマルエス以外の魔導士を申請するという案にようやく本腰になった。魔導士には魔導斑紋が顕著に現れるから、マルエス一人に探索を任せて置いたことが知られる要因であったのだろう。
 皇子自身が魔導には通じており、研究などの為にマルエスとの合同詠唱なども経験している。そこに更に一人加えるとなると、魔導斑紋のかなり高い一致がないと難しい。要するに、魔導における相性の問題だ。
 線で描かれるカノンの資質、マルエスの資質、そしてリュース自身の資質を示す線には大きなずれはなく、どれかというならばカノンと自分の一致率が高い。ならば今までのようにマルエスに頼りながら、カノンもきっと使えるはずであった。
 それに、とリュースは論文の内容に深く頷く。治癒系の魔導は身体の代謝を無理矢理高める効果によるものだが、これに例の時間生成論を練り込んだ論文は論理が確立できれば医療魔導の大きな質的転換をもたらすだろう。今はまだ机上論に過ぎないが、面白い理論の組み立て方をする。年若くても優秀ですとマルエスが強く推す理由も分かった。なるほど、この少年は見つけたのかもしれない。
 「彼」の時間生成理論は実験が失敗して後に頓挫という形になっているが、いずれ皇子自身が深く踏み込んでみたいと願う領域でもある。一人ではどうしても検証実験の詠唱にまる二日ほどかかるから、複数による合同詠唱が必要だ。それにもいずれ関わってもらうことが出来るだろう。
 ありがとうございます、とカノンが深々と腰を折った。いいや、とリュースは穏やかに言った。
「私も丁度、マルエス一人では手が足りなくなってきたところでね。色々と頼むことが多いとは思うけど、よろしく頼むよ、カノン」
「はい、一所懸命務めさせて頂きます……ありがとうございます、本当に……」
 カノンの声は弾んで明るい。現在はタリアへの出向だと聞いているから、魔導の塔も勿体ない人の使い方をするものだとリュースは思う。
 カノンの実地魔導も見せて貰ったが、声が現在の変声期で安定しないのはともかく、詠唱の正確さと構成の的確さは見事だった。いずれ高等学院の魔導学の講義でも聴講させるよう、長老会に申し出てやらなくては。
 自分の周辺に魔導士が数多くいることにアルカナの叔父はあまりよい顔をしないが、学問としての魔導の追求はリュースの大きな目的であり歓びだ。詠唱の実地はマルエスに頼ることも多かったが、これで彼の負担を軽減してやることも出来る。
 そしてリュースは窓の外を見た。初秋へと向かう濃い緑の中を、こちらへ走ってくる人影に気付いたのだ。菫色の目に鮮やかな髪は弟だ。カノンがここにいることを誰かから聞いたのだろう。
「カノン、ラインが来ている」
 リュースがそう言うと、少年魔導士は一礼した。ラインの剣術の稽古相手にとカノンは選ばれて登城したのが最初であった。
 魔導士の身ごなしは特殊だ。そのもの慣れぬ感覚が珍しいのだろう、ラインはカノンに良く懐いている──もっとも、ラインが懐かない相手など殆ど知らなかったけれど。ラインの相手にとカノンが下がると、リュースは深く頷いてカノンの論文をめくり直した。
「何かお気に障ることでも、殿下」
 マルエスがリュースにそっと問うのに首を振る。
「いや、彼は本当に優秀だ……年齢は多分私と変わらないくらいだろうけれど、いずれ私が公職に就く頃には彼が長老会に入っているとやりやすい」
 それにはあと十数年はあるだろう。公職、と曖昧にした部分にだろうかマルエスは小さく笑い、カノンは若いけれどよく心得た同志です、と言った。それにもリュースは頷く。
 アイリュス公の発言以来、両親共に誰を捜しているのかとひどく執拗に彼に聞いた。
 母方の叔父であるアルカナ大公もちらちらと探るような聞き方をする。それには全て知りません勘違いでしょうと返答しているが、この反応は明らかに異様といえるものであった。
 一体自分が誰を捜していると上手くないのだろうか。
 マルエスの推論を否定する理由が無いために、「彼」のことを現在はラウール大公キエスだと仮定しているが、もしかしたらそれも間違いなのかも知れないと皇子は考え始めている。
 但し、だとしたら誰なのかということについては白紙に戻ってしまう。「彼」の魔導斑紋を拾うことは最早不可能だ。中等では口をきけないということになっていて一度も詠唱を行ったことがないし、それ以前の上級学校や初等学校での斑紋痕跡など、どれが彼のものであるのかを一体どうして判別できるだろうか。
 魔導斑紋には声質が深く関わる。声質、つまり遺伝要素だ。斑紋を拾ってもどの家系との一致が知りたいかということでしかなく、斑紋が分かったから血筋がすぐさま探せるということでもなかった。「彼」がキエス=ラウールでなければ全く別の仮定から始めなくてはいけない。
 中等学院に残っていた「彼」の戸籍には母と娘、とあった。彼を連れていたのは母親を偽装した誰かであろう。戸籍の出所はどうやらタリアらしく、あの赤い格子の町の暗部に隠れ紛れてそれ以上の追求は諦めなくてはいけなかった。いずれにしろ、マルエス一人に任せきるには次第に全てが重くなりつつあった。
 いずれ皇太子と決まればもう一人か二人は護身や連絡のために魔導の塔へ申請を出さなくてはならない。魔導士の管理を行う魔導の塔は皇族を頂点とする国政機関とは別の傾倒の組織で、内部の上級魔導士たちで構成する長老会の決定が皇帝の勅命以外の全てに優先されることになっている。申請するときに勝手にこちらで相手を選ぶことは出来ないのだが、今回のように先に斑紋の卜占を行っていれば、まずは希望が通るはずであった。
「マルエス、彼の件の申請が通ったらすぐに捜索に加えておくれ。……どうやら急がなくてはいけないな。父上も母上も、少し……何というのか、おかしい」
 父の休日に呼び出されて午後一杯を言い抜けに費やした記憶が新しいが、そうでなくても夕食の時に母も同じ事を繰り返し聞いた。ラインがきょとんとしているのが救いだが、両親が一体何を怖れているのか、全く見当がつかない。
 怖れている、という言葉を思いつき、リュースは自分で深く頷いた。そう、二人とも何かを怖れている。執拗というべき回数、リュースに誰を捜しているのかと聞き、穏やかに微笑みながら魔導士を貸しても良いのだと提案する。
 その異様さが却って怯みと用心を呼んでいて、リュースはいつも誤魔化すか適当に言い逃れることくらいしか出来ていなかった。だが、何かがあるという感触は大きくなっていく。
 それが一体何であるのかはまるで見えないのだが、両親が何かに怯えていることと、リュースの捜し人が一致すると思っているのだ……何故。
 あまり時間をおくとマルエスの捜索にあちらの魔導士が追い付く可能性がある。あちら、とリュースはまるで敵のような呼び方が浮かんだことに自分で苦笑するが、しかし両親がこのことを快く承知していることはなさそうなのだ。
「どの辺りまで行きついたかな」
 リュースの質問に、マルエスは幾つかシタルキア北部の都市をあげた。既にキエスと思われる痕跡は判別が済み、それを時代順に追っているところであった。
「とにかく徹底的に転々としておりまして。追われる身であることが大きいのでしょうが、一カ所に三ヶ月と居りません。他国へも足を伸ばす気配がありますので、同志カノンの申請をお早め下されば有り難いことです」
 マルエスの言葉にリュースは頷き、そうしようと言った。お願いいたしますと深く例をしたマルエスがところで、と切り出したのは別の話であった。
「それと殿下、お体の方は如何でしょう。あれ以来、体調など何か変わったことはございませんでしょうか」
 リュースはああ、と軽く頷く。これはあの昼食会の時に嘔吐して以来、どの医者にも何度も言われていることであった。何もないよと簡単に答えてカノンの論文を自分の書斎にしまい込もうとしているとマルエスがそっと近寄って皇子の肩を押さえ、低く小さな声で囁いた。
「よろしいですか、殿下。母宮とここの侍従たちがお持ちするもの以外はなるべくお口になさるのはお控え下さい。もしそれ以外に何かを召し上がる時は、必ず先にわたくしをお呼びいただくように、お心得を」
「──マルエス」
 リュースは不意に表情を変えた。
 毒、と喉の奥で呻き、ごくりと飲んだ呼吸が胃に落ちた瞬間に、やっとそれが実感になった気がした。リュースは眩暈を覚えて背後に立つマルエスに一瞬背を預ける。
 誰かが自分を殺そうとした──
 その現実味の無さと事実自分が嘔吐した時のことを思い合わせてリュースは青ざめる。マルエスを振り返り、リュースは毒、と呻いた。マルエスは小さく、しかしはっきりとした仕草で頷いた。
 リュースは喘ぎ、額を押さえた。マルエスが彼の腕を取り、書斎の椅子に座らせる。ずっしりと重たいものを抱え込んだような茫然にリュースはゆるく首を振り、毒、と三度目を呻いた。
 しっかりとマルエスに膝を揺すられて上の空で頷く始末だ。殺される、というこの言葉の何と現実味のないことだろう。だが、誰かがリュースを邪魔に思い、短絡に決着をつけようとしたのは事実なのだ。しかし、とリュースが喘いだ時、殿下と魔導士が低く言ったのが聞こえた。
「どうかお気をしっかりお持ち下さい。いいですか、確かにそれは毒ですが、致死量ではありえませんでした。せいぜいあの場でそうでしたように、嘔吐するくらいのもので。しかし混入されていたのは事実です、殿下、つまり」
「なるほど」
 リュースはやや落ち着いてきた呼吸を均しながら呟いた。
「つまり、私が立太子されるとまずいのだな……」
 学問所の様子を見るに、リュースの方がカルアよりも資質が豊かだという結論になるのは当然のことであろう。何分カルア本人にさほどやる気がない。学問所のことだけで全てが決することはあり得ないが、材料の一つではある。リュースが皇太子として至らない点として健康問題を印象に残しておきたいのだ。
 ならばあの場が選ばれたことにも意味があった。両親とアルカナ・アイリュスの両大公が揃っていたのだから、彼らの前にリュースの身体の弱さを喧伝したい者がいるということになる。
 リュースは唇を引き締め、下らない、と呟いた。皇帝の実権などとうに貴族閥と官吏に渡って久しい。普通に即位したところで、実権をすぐさま奪い返せるなどという夢は見たことがなかった。試してみたいことはあるが、それも両大公の意志を汲みながらの修正と無縁ではいられないだろう。何よりそんな形で皇太子への道を妨害しようとするなど迂遠だし、卑屈というしかない方法だ。
 リュースは次第に最初の恐怖が怒りに変わるのを感じながら分かったと言った。
「では気をつけておこう──カノンの申請も早めなくてはね。どうやらこれから先、人手が今まで以上に要りそうだし……お前にも負担が大きいね、いつも済まない、マルエス」
 いいえと魔導士は仮面の下でひっそりと笑ったようだった。
 魔導斑紋などの資質の相性と当人同士の気質の相性も噛み合わせて派遣されてきたマルエスは、確かに彼とはよくそりがあったといえた。そもそもあまり他人に馴染まないリュースであるが、マルエスとはそうささくれだった関係には至っていない。ごく普通の主従という空気が流れている。そこにカノンを加えるとまた空気も変わろうが、マルエス本人がカノンを高く評価していた。
 リュースはもういいよ、とマルエスに魔導の塔へ戻るように促した。マルエスは治癒以外にも幾つかの魔導の研究会に名を連ねている。魔導士としては彼はごく普通の能力に属し、何事もそつなくやり遂げる程度には出来上がっていた。カノンのように長老会へ入るかも知れないという期待は酷かもしれなかったが、リュースの道楽ともいえる人捜しにもきちんと意見を述べてくれる年上の友人として、リュースは彼を頼りにしていたし、信頼してもいた。だからマルエスが研究会に顔を出すことを優先してもいいとしてきたし、それはこれからも変更するつもりはなかった。
 マルエスが下がるとリュースは学問所の講義をまとめ直し始めた。来週には口頭試問がある。カルアに多少の知識と体裁をつけてやらなくては、弟があまりに可哀想になるのだった。
 講義の抜き書きをまとめ終わると既に日が落ちる頃であった。適当に片付けていると、弟のラインがひょっこりと顔を出す。日に焼けた頬が眩しく赤い。今までを外で剣の稽古にしていたのだろう。
「どうだった、少しは上達した、ライン?」
 そんなことを聞いてやると弟は肩をすくめる。魔導士に勝つことのできる子供などいるはずがないからリュースは淡く笑って弟に待っているように言った。これから夕食の時間になる。
 リュースは半ば辟易したような吐息が自分の唇から零れたことに気付き、苦笑になった。また両親からのしつこい追及の時間なのだ。
 そしてその予感はやはり正しい。皇子に向かって両親は宥めたりすかしたり、とにかくマルエスを使って何をしているのかを聞きたがった。リュースはそれに適当に返事をしながら皿の中の料理をフォークでつつき回している。昼食会の時のことが蓋になったように、殆ど入らない。
 それをようやく見咎めたのは母で、どうしたの、と怪訝な面もちで聞いた。
「さっきから全然食べないのね、リュース? 食欲がないと身体も出来ないわよ」
 リュースはまあ、と曖昧なことを言った。ラインの前でこんな生臭い話はしたいとは思わなかった。弟はまだ正真正銘の子供で、皇太子の候補からも外されている。いたずらに騒がれても困惑するし、何よりも心配をかけたくない。
 その場の言い訳のようなことを口にして夕食を終えると、父帝はラインに簡単な書取を言いつけてリュースを夜の庭へ誘った。母妃も一緒だ。これは何の話だろうとリュースは思い、また人捜しの話だろうかと思うと胸の内で苦笑と溜息が同時に聞こえた。
 庭は薔薇の終わりの甘い香りが漂っている。白い薔薇が月の光に輝くような美しさだ。庭園の噴水の縁に腰掛けて、父帝が彼の頬をそっと撫でた。
「お前に少し話しておきたいことがあってね。ゆっくり呼吸をして、落ち着いて聞きなさい、いいね」
 父はゆったりと、そして心底から穏やかに微笑んでいる。リュースは同じように唇をほころばせると、ええ、と頷いた。そっと彼の背に母が座り、肩を抱く。自分の頭上で両親が視線で何事かを会話している気配がした。
 リュース、と呼ばれて素直に返答をする。父は彼を愛おしく見つめた後、ゆっくりと区切るように言った。
「来週に口頭試問に私が列席することになっているのは知っているね?」
 リュースは頷いた。学問所の簡単な試験ではあるが、次世代の帝位の行方を占うという意味で皇帝本人の列席が義務となっている。口を挟まずに同じ場所に座っているだけではあるが、形式というのはそんなものだ。それがどうしたのだろうかと思っていると、父は彼の聡明な額に触れて優しく、ごくゆっくりと言った。
「その時に、立太子の候補から降りたいと、私に申し出るように、いいね」
 リュースは数度瞬きをした。父の言葉が胸に理解として落ちてくるまでに、少しかかったのだ。
「何故……」
 呻いた時、上手く唇が動かない。やがて呼吸自体が出来ていないことに気付く。それを打破するために強く何故と呟くと、それはまるで悲鳴のような声になった。
「何故──何故です、父上! 私は、ずっと、……どうしてですか、理由は何ですか、父上、私は、」
 言い募りながらリュースは自分の胸あたりを掴む。そうしていないと身体から魂がふらふらと彷徨い出ていってしまいそうな気がしてたまらなかった。
 たまらない、と思った瞬間に怒りとも悲しみとも、疲労ともつかぬものがどっとこみ上げてくる。自分が今まで努力し、たゆまずに続けてきた全てが父の一言で撤回しなくてはいけないとしたら、どれだけの徒労で無駄だったのだろうか。
 そんな馬鹿な、とリュースは呟き、父上と言いかけた。
 と、不意に背からリュースは強く抱かれた。母が彼をぎゅっと抱きしめて、ごめんねと呻くように言ったのが聞こえた。母上、とリュースはそれを無理矢理もぎ離し、父にまっすぐな視線を当てる。
「納得できません。理由を……理由は何ですか、父上、私は自分の出来ることはしてきました、今までだってずっとしてきました、これからも! これからもやるべきことは努力します、わ、私は、別に、性格だって、それに──」
 意味のないことを連ねて口走りながら、リュースは眩暈を耐える。何故です、と呟いた声が自分で悲鳴のようだとリュースは思った。
 何故ですかともう一度繰り返すと、父帝が辛そうに目を伏せ、しかしはっきりした声音で言った。
「お前はどうしても身体が弱い。帝位につけばそれだけでまっとうできないのではないかと私もイリーナも心配しているのだ、リュース。……分かるね」
「いやです」
「リュース、聞き分けなさい。お前のことを私たちは思って言っているんだよ」
「いやです! いや、いや、それは、嫌です、嫌だ嫌だ……」
 駄々をこねるような幼い拒否を呻いてリュースは顔を上げる。その途端に涙が頬を流れ落ちていったのが分かった。泣いているのだと思った瞬間に、更に溢れてくる。
「昼食会の時のことは、あれは違います、父上、私の皿に毒が──」
 と、その禍言に父帝が息を呑んだ。リュースは毒です、と強く言った。父が狼狽えるように視線を彷徨わせる。毒、と母が呻いた声にリュースは振り返り、そうですと強い口調で言った。
「あれは私の食事に毒が、だからあんな、父上、あれはだから違うんです」
 言い募るリュースに父帝は頷き、確かかねと低い声を出した。それでようやく事の重大さを悟ったような気持ちになって、リュースは震えながら頷く。
「私の護衛魔導士が、そう。致死量ではないとか、そんなことも言っていましたが、しばらく用心するようにと言われました」
 父は頷きアウィスと呟いた。父の背後にふわりと魔導士の影が現れる。調査を、という言葉に魔導士が頷いて消えると、それでやっと我に返ったのか母の悲鳴が聞こえた。
 それに却って冷静な部分が戻ってきたようにリュースは母の手を握りしめ、大丈夫ですと強く言った。イリーナはそれには返答せず、彼の細い身体を強く抱きしめて、震えだした。
 父がリュース、と彼の身体に触れる。リュースはそれを振り払い、父を睨み上げた。
「だから父上、私は降りません。そんなのは……そんなのは嫌です。私は絶対に嫌だ。今降りたらそんな卑劣なことに負けたことになります」
 父は半ば哀しげな表情で首を振り、彼の肩を掴んでゆっくりさすった。
「リュース、私たちはお前のことをいつも考えている。お前が元からあまり丈夫でないことも今まで見てきた。お前は頭のいい、賢い子だ。優しくてとてもいい子だよ──けれどお前のような賢くて繊細な子には、私は帝位を継がせるべきでないと考えている……リュース、お前が即位したら沢山の現実を見なくてはいけない。お前にはそれはとても辛いことだと思う。なまじ聡明過ぎると、知らなくていいことも分かってしまう……」
 父の言葉は淡い苦みに彩られていて、リュースは僅かに怯んだ。この言葉には父の見てきた苦いうつつが全て滲んでいるように思われたのだ。
 何かを言おうとしてリュースは沈黙した。父の経験とそれ故のいたわりに太刀打ちできるものを見つけられない。だが、素直に受け入れるには足らないものが多い。リュースは父上、と絞られるような声を出した。
「私は、きちんと、今までちゃんとやってきました! 不安だというならもっと試してくださって結構です、だから、降りろと言うのは撤回してください! 父上、私は嫌です! 身体のことだって、では何故最初からそう仰らなかったんです、今更、今更そんなことを言われても、私は納得しません」
 リュースは言いながら首を振った。リュース、と彼を母が抱いてごめんねと言った。
「ごめんね、私が諦められなかったから。でも、お前のために一番いい方法を私たちで話し合ったのよ、信じて頂戴、リュース。お前がこれまでちゃんとやってきた事は良く知っています。でもね、お前を失うことの方がずっとずっと怖いのよ……!」
「私が私をどうするか、未来をどうしたいかは、私が自分で決めます」
 リュースは母を叱りつけるように言った。はっと顔を上げた母妃の菫色の瞳に瞬く間に涙があがってくる。母上とリュースは強い声になった。
「太子候補にではラインをあげるのですか? 母上は昔から、私よりラインの方がずっと可愛いんでしょう? 私が何をしても母上はラインばかり」
 すらすらと自分の唇が吐き出す言葉にリュースは目をきつく瞑った。自分の中にこんなに醜い部分があったのだと思った時、彼の名が呼ばれ、咄嗟に頬が打たれたのが分かった。
 リュースは僅かによろめき、喉で呻いた。ずるずると座り込む。打ったのは父であった。彼をもう一度平手で打って、叱りつける。
「リュース、二度とそんなことを言うんじゃない! それは母への侮辱だ、いいな、そんな馬鹿なことがあるはずがない、イリーナがお前をいつ邪険にしたというんだ!」
「──薔薇園で!」
 リュースは凄まじい早さで顔を上げ、父に怒鳴り返した。
「母上は私にもう会いたくないと、顔など見たくないからくるなと、そう、そう言って、そう言って」
 言葉にするとそれがどれだけ自分を傷つけていたかが初めて分かった気がした。リュースは喘ぐように言葉を紡ぎながら、拳でぐいぐい涙を払った。
「だから、私は、悪いことを聞いてしまったと、そう思って、でもマリアという女性のことは、同情しますが、母上が、彼女と何があったか知りませんが、私が……」
 そこまで夢中で口走ってリュースはふと声を潜めた。父は目を瞠り、微かに震えていた。驚愕と茫然の為に、やがて静かに青ざめていく。リュースと呻いた父の声音は今まで聞いたどれよりも強張り、重たかった。
 リュースは一瞬目をしばたく。父上、とそっと声をかけようとした時、マリアという呻きが背後からした。はっと振り返ると母妃が蒼白というべき顔色で口元を押さえ、おこりのように震え出すところだった。
 この名が母にとって重大な罪の意識をかき起こすことは知っていたはずだった。リュースはしまったと顔を歪めて母親を宥めるために手を伸ばした。
 だがそれは届かなかった。母はさっと立ち上がり、マリアともう一度呟くと許して頂戴と喘いだ。
「ごめんね、ごめんね……マリア、私が悪いのよ。いけなかったのよ。お前にもあの人にも沢山の罪を負わせて、追い出してしまった! 許して……」
 それだけを呟いて、母は耐えられないと言うように身を翻し、駆け去っていく。それではっと我に返った父がイリーナと叫んで数歩追いかけ、そしてリュースを振り返った。
「──先に館へ戻りなさい、リュース。……マリアのことを、お前は知っているのか」
 厳しい口調にリュースは父を見つめ、やがて力無く首を振った。ただ母上がそんなことを、と言いかける先を、父が言い訳はいいとぴしゃりと撥ねた。
「リュース、確信もない事を引き合いに出すのは止めなさい。いいね」
 その言葉に頷くと、父は厳しい表情のまま母を追って駆けてゆく。リュースは混乱を払うように首を振り、とぼとぼと歩き出した。
 夜の夏薔薇庭園は静寂の中で、月光だけが明るい。自分の影を見つめながら歩いていると、ふとその横に新しい影が出来た。マルエスだろうかと皇子は振り返り、
 ──何かの凄まじい予感に咄嗟に背後へ跳躍した。自分の残像を銀色の線が横断するのがくっきりと、劇的に遅く見えた。
 はっとした瞬間、後先を考えずに飛んだ身体が薔薇の茂みにぶつかり、植え込みを潰すように皇子はその中へくずおれた。人影がはっきりと手を振り上げる。その手に銀にぎらつく光がある。
 何かを考える前に皇子は叫んだ。
「マルエス! マルエス!」
 その視界にふっと尾を引く銀の線が現れる。
 リュースは身をよじる。彼の身体への決定的な傷を負わせるに至らない、しかしかすった痛みを首筋に覚えてリュースは呻いた。
 次の一撃を振り上げた影が、横へはじき飛ばされる。魔導士の長衣と背格好でマルエスだと知って、皇子は薔薇の植え込みにだらりともたれた。
 マルエスが人には在らざる早さで人影の腕を取り、簡単に押さえ込む。骨の折れる軽い音がして、リュースはびくりと身をすくめた。相手の身動きを封じ、マルエスが自分に駆け寄ってくる。大丈夫ですかと助け起こされて、リュースは異変に気付いた。
 世界が揺らいでいる。身体が痺れたように動かない。
 何かを言おうとした唇が重くてぴくりともする気配がなかった。殿下と叫ぶマルエスの声は聞こえるのに、それに返答しようとしても何も出来ないのだ。脳幹が痺れ、末端から感覚が無くなっていく。喉が何かを呻こうとして、呼吸がふと止まった。
 息が出来ない。弛緩した身体に力が戻ってこない。
 あ、と小さく喉を鳴らすと、マルエスが毒、と唸って不意にリュースの瞼を手で閉じた。僅かな時間をおいて、傷になったらしい場所に温かな吐息がかかった。くすぐったいような感覚が首筋を撫でて、リュースは身体を痙攣させた。柔らかいものがそこに押し当てられ、きつく吸っては離れるのを繰り返している。
 それを四度まで数えた時蓋が開いたように空気が喉を通り、それで深い呼吸を長く長く吸いながら、リュースは痺れるような無意識の中へ転がり落ちた。
 赤い格子の向こう側は、いつもと同じ雑踏だった。興味本位で覗き込んでくる男たち、からかうための言葉だけを投げつける男たち、みないつもと同じだ。そして自分がまったく不変の頑なさの中にいることも。
 リィザは格子のきわの腰台に所在なく座り、ぼんやりと通りを眺めやっている。誰かを誘うでも睨み据えるでもない弱い視線は誰の気も惹くことがない。それが楽なのだろう。何度叱られても叱られても、気付くと同じ事をしているのだ。
 自分は芯まで冷たいのだろうかとリィザは時折恐ろしくなる。ディーへ深い罪の意識を覚えてもそれは彼にまったく心が開かなかった言い訳で、彼がリィザの元に訪れなくなったことをどこかで安堵しているようなのだ。
 ディーは自分に十分優しかった。癇性で暴力の多い男に巡り会うリィザの性分には過ぎた相手ではあった。けれど、優しいことが辛い時もある。そして二人ともがそれを乗り越えてお互いを理解し合おうと思っていなかったことだけが分かる。だから駄目になってしまったのだということは分かるのに、これからどうしたらいいのかということは全く見えない。
 リィザは外を眺めながら、ディーと過ごしてきた百には足りない夜のことを思い出そうとする。酒は少し薄めの薄荷入り。煙草は吸わない。義手は重たくて目はまろく鈍い青。彼の性癖や口癖なども思い出せるのに、その一瞬一瞬切り取られた記憶の中に、自分の感情がまるで進入してこない。
 それを思うと自分の頑なで鉄のような心にうっすらとした絶望さえ抱く。その時は確かにディーを嫌いではなかったはずなのに、覚えていないというのはやはり薄情な証拠なのだ。
 リィザはそっと溜息になる。ディーを含めてチェイン地区の何人かを知っているが、その殆どは若い者特有の性急な粗野であった。ディーのように血の臭いを消し去る男は珍しい。
 まして女に丁寧に接するなど妓楼ではまさしく貴重な種類であったはずだ。
 けれど、結局は条件ではない。それを分かっていたからこそ、ディーは離れていった。チェイン王ライアンの宴席とやらがまたあるのなら、その時に一言謝らなくてはいけない。心を開けなかったことではなく、あれほど心をかけて貰ったのに、彼に何かを残してやることが出来なかったことを。
 謝ることではないかもしれないが、何かを残しておきたい気がしてたまらない。恐らく、彼が来なくなる以前よりもずっと彼のことを考えている。
 リィザはその矛盾にそっと苦笑し、また格子の向こうへ視線を漂わせた。ディーにあれだけ酷い仕打ちをしておいて、という自嘲をリィザは胸に聞いているが、それに構っている余裕はなかった。
 もう一度会わなくてはという信念に近い思いだけが、リィザを苦手であった腰台にずっと座らせている。
 ──初めて出会った時、自分は傷ついていた。
 酔った客に無理に抱き寄せられて、衣装の裾から潜り込ませた手が自分を勝手にまさぐり始めるのに恐怖さえ覚えて震えていた。止めて欲しいと何度も口にしたのに聞いて貰えなかった。惑乱と羞恥で泣き出してしまったことを責められて、済みませんとしか言えなかった。
 自分の謝罪は他人の心に届かないらしい。余りに豊かにありふれて流れてくるために、全く真実味が薄いようなのだ。平手で思い切り打たれ、喉を絞められて、一瞬これで死ねると思ったことを今この瞬間のことのように思い出す。
 死にたかったのかもしれない。客とのことはあまりに辛く、自分を取り巻く世界はあまりに冷ややかだった。
 あのまま虐め殺されたら自由になれるかもしれないとそんなことを思っていた。死に解放と救いを求めてはいけないと神様は言うらしいけれど、それを思わなくては生きていけない辛さはどうしたらいいのだろうか。
 けれど辛い辛いと呟くことは出来ない。この格子の町はみな、似たような境遇の女たちで溢れている。貴族荘園から引き離されたことをリィザはずっと悲しみ、未練を手放すのに長くかかってしまったが、そんなことはごく普通のことで、もっとひどいことを幾らでも聞くことが出来た。
 自分よりも哀れな人も沢山いる。例えばミアは家族が食い詰めて、冬を一家が乗り越える食料のためにここへ来た。シアナは娼婦だった母親が同棲していた男に追いやられて運河に身を投げた後、アパートの家賃の片に売られた。母親の遺産というべき金や宝石は同じ娼婦仲間が洗いざらい持っていってしまったのだという。
 だからあなたは恵まれているのだ、ということは誰も言わなかった。少しづつ不幸の根と種類は違うが、結局この妓楼にいるところで全ての帳尻はあうようになっている。この妓楼はタリアの中堅どころというあたりだが、女将がもっと格式高いところへあげたいらしく、日の売上のために無理な注文を取るということは殆ど無い。
 ──問題はリィザの頑迷な心なのだ。今でも自分の身に起こったことを理不尽だとなじり、悲鳴を上げ続けている。ディーもそれで失ってしまった。
 リィザはゆるく首を振る。ディーだけではなく、他の常連客にもリィザは顔向けできないことをしている自覚はあった。勤勉で怠慢な娼婦だと思ったことがあった。その感慨は強くなっても聞こえなくなることはない。いつもいつも、リィザの近くにいてリィザを非難し続けている。
 そんな中で、彼と出会った。あれは確かに何かの劇的な瞬間だった。
 彼は客に打たれた時に髪から落ちた造花を拾ってくれた。多分自分を見て哀れんだのだろう、そんな声を出していたはずだ。
 けれど格子の向こう側に彼を見つけた瞬間に、僅かな負い目は吹き飛んでしまったようだった。
 彼は美しかった。目を奪われるという意味を初めて知った気がする。
 彼は何かを口走るように喘いでいた。リィザは声も出せなかった。ただ、何かの予感か雷鳴のようなひらめきに撲たれて茫然と、目の前の奇跡に見入っていたのだ。
 あの時、確かに何かが起こっていた。自分も彼も震えていた。格子という籠のあちらとこちらでお互いを引き合うように凝視めあっていたのだ。
 それは天啓とよく似ていて、例えば農園にいた頃に小糠雨を見つめてやがて空が明るくなってくると、リィザはじっと予感をまっていた。何か美しいものに出逢うかもしれないと思うと胸が膨らむような期待があった。虹や蝶やそんなものでも嬉しかったのに、彼の面差しに溢れてくるような存在感が眩しかった。
 だから、二度目に逢った時、彼に何かが起こったことははっきりと分かった。夏の初めにリィザを見つめていた瞳の色は同じなのに、そこにあった零れるような命の火が揺らぎ明滅していて、全く力無い、ただあるだけのようなものになっていたからだ。
 魂が抜けてしまったようなぼんやりした、殆ど無気力というべき表情が胸に鋭く突き刺すように痛かった。顔立ちはあの時と変わらないはずなのに、そこに激しく強い光がないだけでまるで別人のようだ。
 礼を言わなくてはとリィザは思っていた。造花はあの時、ディーから貰った大切なものだった。その彼ももう自分の所には来ないと言ったきり、その言葉を守り通しているけれど、あの瞬間にはリィザにとって、数少ない安心して身にまとうことの出来るものだったのは真実だったから。
 けれど、礼だとか彼の名前を知りたいとか、そんなことは吹き飛んで、ただ傷ついた顔つきで不機嫌に部屋にいた彼を、自分はどうしたら良かったのだろう。話せと言われても咄嗟に思いつかない愚かさが自分で苛立たしかったが、彼の方はそれで更に機嫌を損ねてリィザに構わず一人だけの世界に籠もってしまった。
 悲しいと思い、今謝りたいと思うのはそのことだ。彼が何かによってひどく打ちのめされて傷から血を流しながらのたうち回っているのは分かる。それは既に理屈などで納得するようなことではないのだ。
 だから尚更悲しい。彼が一人で自分を慰撫しようとしたこと、自分の中の世界とその幻想の中に引きこもり、その幻想に現実を無理矢理合わせようとしたこと。何よりも、彼がリィザを側に置きながら孤独に易々と身を委ねてしまったことが、とてつもなく悲しいのだ。
 一人でいる孤独よりも、他人を側に置いた孤独の方が、数段悲しく、辛く、切なく苦しい。
 それは誰にも頼るよすがが無いということだ。外で傷ついた身体を癒すようにして女に依存して一時の安息を得ることをリィザは決して否定しない。誰かのために自分が頼りない糸のようなものにでもなれるなら、肉体的な苦痛はじっと甘受しながらでもいいと思う。
 けれど彼はそれさえしなかった。何か話せ、という言葉が自分と世界を切り離そうとする言葉で、もういいと苛々と呟いたのはリィザのことをその場所にさえ認めなかったという意味だ。
 あるいは、彼が寝転がっているときにふと手を伸ばした、あの指先を掴まえれば良かったのかもしれない。その仕草が何かを必死で探しているように見えて、余りに痛々しくて動けなかった。
 その後の急な衝動も、乱暴で唐突な手管も、ただ辛い。俺を見ろと言った時、彼の表情があまりにも静かで何も浮かんでいなかったことが。ひどく辛くて辛くて死にそうだというような目をしているのに、表情は凍ったように薄かったことが。
 その辛さが彼を見つめる仕草で自分の中に雪崩れ込んできそうだったから少しでも何かに触れればと手を伸ばしたリィザを振り払ったことが。──彼の美しく華やかな光を放っていたような面差しが、無惨なまでに輝きを失っていることが。
 彼に何をしてあげたら良かっただろうとリィザは考えている。少なくとも、単純な性的接触でないことははっきりしている。彼が欲しがっているのはもっと違うものだ。
 何を求め探していたのか、宙を攪拌するように伸ばしていた手が遂に何も掴めないのだと彼が知ってしまう前に、あの指を掴まれば良かった。私がここにいますと言ってあげれば良かった。怪我をした獣は慣れないと知っていても、強く胸に抱いて大丈夫と言ってあげれば良かった。
 大丈夫。大丈夫。
 今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ──と。
 リィザは視線を格子の町の外へ流し、そして待っていた機会に近いものを見つけて声を上げた。彼の名前は知らない。けれど、確かに彼はこの妓楼の常連といえたから、顔は知っていた。
「待って、待ってお願いです! お願い、待って!」
 大きな声を出すことなど滅多になくて、それだけで心臓が破裂しそうだ。雑踏の人々が一瞬何事かと足を止める。その中にその少年の姿もある。一所懸命にそちらへ視線をやってどうにかかち合わせると、少年が意外そうな表情で俺? と自分を指した。
 リィザが頷くと、少し首を傾げたままで格子の前に立つ。彼はすらりと背が高く、手足がほっそり長い。笑顔がほどよく明るくて、嫌味がなかった。
 どうしたの、と聞かれてリィザは彼の袖を掴み、私、と言った。
「この前の……あの、……」
 リィザは言いかけながら、「彼」の名前を知らないことに気付く。あの人が、と言ったきり言いよどんでいると、少年の方が先に承知したらしい。ああ、と軽く声を上げて頷いた。
「奴ね、うん、奴がどうかしたの」
「この前……私、何も出来なくて、謝りたくて、それで」
 少年はゆるく笑った。気にしないでいいよ、となだらかに言われてリィザは首を振る。最初の時、ただ見つめるだけで言葉さえ殆どかわさなかった。そして次の時には彼の言葉に一筋も触れられなかった。  
「お願い、私が謝りたいと言っていると、伝えて欲しいんです。──お礼なら、何でもしますから……」
「何でもする、なんて簡単に言っちゃ駄目だよ」
 少年は苦笑し、奴のことは気にしないでよ、と付け加えた。
「あいつはちょっと苛々している。君に当たったなら済まなかったというのはこっちの方だと思うよ……色々あってね、今ちょっと荒れてるから」
 少年は肩をすくめる。でも、とリィザは強く言い募った。
「お願いです。この前は何一つ言えなかったから、今度はきちんとしたいんです。お願いします、お願い、あの人にもう一度会わせてください、お願い……」
 彼の袖を掴んだまま、リィザは項垂れるようにする。少年は困ったように溜息をついた。何かを思案しているのだろう、亜麻色の髪に手を入れてひたすらかき回しながら宙を睨んでいたが、やがて頷いた。
「一応伝えるだけ伝えておくけど、保障はしないよ。それでいいだろ? ……ねぇ、それともし、奴と話が出来たら……そうしたら彼に優しくしてやってくれないか。女の子が気にかけてくれたらもうちょっとましだと……」
 そこまできて少年はふと口をつぐみ、照れ笑いになった。そんな事を他人に頼む愚かしさを思い出したらしい。リィザはそれでも分かりましたと頷いた。優しくしてやって欲しいという言葉にちりばめられた、少年の気世話が良く分かったのだ。
 リィザの生真面目な態度に少年は少し顔をほころばせ、頼むよ、と今度は小さく呟いた。
「……あんた、奴がこの前別れたばかりの女とちょっと似てるのさ。だからってわけじゃないんだけど、なるべく親切にしてやって欲しいんだよ……俺が頼むのも変な話だけどさ、奴が来たらそうしてやって。金は奴に持たせておくから、頼むよ」
 少年は念を押して雑踏に消えた。リィザはほっと溜息になって格子から離れる。
 ともかく賽は投げた。これがどんな目を出すかはまだ分からないが、彼は……来るだろうか。そんなことをちらりと思い、リィザはじっと床を見つめ、深く頷いた。
 来る、という確信に近いものがひたひたとわき起こってくる。あの少年もそのつもりがあるのだろう。保障はしないといいながら、揚げ代の話まで口にした。
 リィザは待合いから離れ、裏階段から自室へ戻った。大抵部屋の中は片づいている……というよりは乱雑にしておく程の広さもないのだが、それを一度ざっと点検して髪を丁寧にとかした。そっと鏡台の引き出しを開ける。
 中にはいつか大切な人から貰った硝子の小鳥があった。若様、と呟いてそれに触れる。硝子の透明でさやかな質感が指にくる。若主人を恋していた頃、彼を思うだけで幸福だった。
 あの気持ちがあってよかった。リィザは微笑む。恋があって、その薄い悲観があって、それでも歓びがあって絶望があって、最後に希望があった。その形がまだはっきりしないことが自分にも辛かったし、それで見失ってしまったような思いもあったけれど、希望の光感を知っていればそれを思い出すことが出来るはずだから。
 じっと鏡の中の自分と向き合っていると、不意に表廊下の扉が叩かれた。小間使いの少女が客の来訪を告げている。
 リィザはゆっくりと扉に歩み寄って内側に開いた。静かにあらわになる面輪は彼だった。リィザと目線さえ合わせないで、ただむっつりと押し黙って立ちつくしている。その腕をそっと取ろうとすると、やはり拒絶だった。乱暴に振り払い、何だよ、とかすれた声を出す。
 リィザは中へ、と身体をずらす。仕方なさそうに部屋に踏み込んでくる彼の背後で扉を閉めて、リィザはありがとうございますと小さく言った。
 少年は振り返り、やはり目は合わせないまま、だから何だよ、と低い声を出した。
 リィザは少しだけ笑う。こんな声を知っている。いつか怪我をした狐が農場に紛れ込んだ時にこんな声で鳴いていた。自分に近付くものは敵だという威嚇、痛みがあって血を流しているからこそ、全身で抗う空気。
 だからこんな時にどうしたらいいのかは知っていた。リィザは微笑み、彼の方に迷いなく近付いていく。怯えたように彼が後じさる。じりじりと微妙な距離を残して彼が部屋の中へ後退するのをリィザは脅かさないように歩みよっていく。
「──やめろ」
 彼が不意に唸った。
「何の用だ、さっさと言えよ。俺は奴が約束をしたって言うから、それだけで」
「私、この前言い忘れたことがあって」
 リィザはじっと彼の目を見る。彼がリィザの視線から逃れるように目を閉じて在らぬ方向を向いた。
 それがやはり、痛々しくて胸に響く。可哀想だという声が耳の奥から、脳の底から、身体に流れる全ての記憶からわき上がってくる。
 何だよ、と彼が喘ぐように言った。リィザはそうっと手を伸ばし、彼の手を取ろうとした。少年がそれを振り払い、触るな、と怒鳴る。リィザはもう一度同じ事をする。再び少年がそれを叩き返す。更に同じ事をする。
 彼はぴくりと指先を痙攣させただけで、もう打ち返そうとはしなかった。
 リィザは彼の手を取り、あの晩出来なかったことを償うようにゆっくり、強く、柔らかく握りしめた。
 やめ……と言いかけて、彼が黙り込む。リィザを見なかった瞳がようやく正面に来て、ああやはり彼は美しいのだと感じる。
 リィザはじっと彼の目を覗き込むようにする。彼が微かに震えながら目を合わせてくる。
 最初の晩のように何の負荷も気負いもない目線ではない。あれから彼に何か決定的なことがあったのは本当だろう。けれど今、あの晩と同じようにリィザを見ている。最前の全く触れられなかった夜のようでなく、まっすぐにではないけれど、リィザを見ようとしている。
 リィザは瞳をそらさないままで彼の手に指を絡め、もう片方の手で彼の頬を撫でた。びくりと彼が反応する。震えが来ている。だからリィザはそっと笑い、目を合わせたままで大丈夫よ、と言った。
 ──不意に彼が呻いた。顔が歪む。
 それまで投げやりで虚脱したような気配が残っていた表情からそれが波引いていく。
 彼は微かに何かを呟き、首を振った。
「違う、俺は……お前は、彼女じゃない」
 リィザは頷き、違います、とはっきり言った。
「でも、私はここにいます。あなたの近くに。そして私はあなたの敵じゃありません。ただ、あなたに謝らなくてはいけないと思ったんです。この前、あなたに大丈夫だって言ってあげられなかったから」
 それを言うと、彼は首を振った。その仕草は否定ではなく、否定を偽装したもっと、という欲求であることは分かった気がしたから、リィザは更に強く言った。
「大丈夫よ、大丈夫。ゆっくり息をして、ゆっくり眠れば、いつか朝が来るみたいに希望が戻ってくるから」
 彼が何かを喘いで首を振り、そして希望、と唇をそよがせた。そう、とリィザは深く頷いて、彼の頬を両手で挟むようにしてゆっくり愛撫する。
 大丈夫、と言いながら撫でてやると、不意に彼がリィザの肩に触れ、一瞬迷って抱きしめた。それは殆ど縋り付くような形であった。
 微かに耳の側で震える吐息が聞こえる。泣いているのだ。
 リィザは彼の男にしては華奢な肩を抱き、ゆっくりと背中を撫でながら、大丈夫よ、と繰り返した。
「大丈夫、大丈夫。今は辛くても、きっといつかいい未来がくるから、大丈夫よ……」
 リィザが呟く言葉に彼が呻き、やがてずるずると跪いた。
 床に座り込んでリィザの肩に額を押しつけ、彼が泣いている。それをいたわるために彼の頭を抱きしめてやると、丁度リィザの胸の辺りに彼が頬を押しつけるようになった。
 母性というのはこういう気持ちなのかもしれないとリィザは肩を震わせて泣いている彼を胸に抱きながら思う。彼はしきりとエミリアと呟いていて、それがきっと彼が失ってしまった恋の名前なのだろうと悟った。
 むせび泣く彼の声に紛れて、遠く鐘が聞こえた。リィザは視線を上げる。もうタリアの日が落ちる時間だ。ふっと周囲が闇へ戻っていくのに彼も気付いたのか、怪訝に顔を上げる。リィザは火を消す時間なんです、と告げてこの部屋の明かりも落とした。
 その途端、世界は青い闇に沈んだ。こんな光景は初めてなのだろう、彼が不思議そうに天窓を見上げ、お前、と不意に言った。
「──この前は、済まなかった」
 声は涙の余韻で震えていたが、落ち着いて静かだった。リィザはじっと月明かりの中で彼を見る。彼もリィザを見ている。彼がリィザを抱いて寝台に倒れ込んだ。
 その瞬間、リィザは再び息が止まりそうになる。どんなに感情があったとしても、やはり身体が反射的に強張るのだ。本当は彼を抱きしめなくてはいけないと思うのに、いつもの苦役、ひどい苦痛の記憶が悪夢として目裏に蘇ってきてどうにもならない。
 リィザは喘ぎ、ぎゅっと目を閉じた。相手が誰でも苦痛であるならば、これにはもう期待は抱かないと胸に呟いた時、彼が手を、と言った。
「……手を、握ってて……離さないで、そのままにしておいて……」
 リィザは言われた通りにする。彼はそれで安堵したような吐息を漏らし、リィザに身を寄せて静かに目を閉じた。彼が自分を今抱く気がないことを知り、リィザは悲しくなるほど安堵を覚える。遊女としてはまったく有能でないことを彼に教えたいとは思わなかった。
 リィザも彼と同じように身を寄せ合い、目を閉じる。月の下で眠りに落ちていこうとするその間際、彼の呟きがありがとうといったのが聞こえた気がした。

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