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 隣で身を起こす気配がした。それでライアンはふと目を覚ました。窓の外は青暗く、月も天の高い位置にある。まだ夜明けには早いようだ。月明かりのほの暗さの中で寝台の脇の水瓶を取り上げて、口を付けたらしい。嚥下する音が聞こえる。瓶を置く音。再び潜り込んでくる身体──細く、彼に比べれば遙かに小さく華奢な腕がライアンの肩に回って足が絡まった。
 ライアンはクインの肩を抱いた。彼が目覚めているとは思っていなかったのか、微かにクインが溜息をもらし、すぐに何事もなかったように目を閉じる。あれから彼は殆ど口をきかない。
 足の怪我はもう良かったが、腕の方はディーが止めなければ筋を切って引きちぎるところだった。自分の中の修羅を制止することが出来なかったのだ──いや、多分そうする気がなかったのだろう。
 あの時、クインが叫んだ瞬間から全ては極彩色の幻のようで、ただ煮えるような怒りと憎しみだけが自分の中にあった。鈴の音だけが確かに耳に聞こえていた。それはライアンだけに聞こえる残虐な衝動の呼び水で、あの軽やかで澄んだ音を聞いていると全ての血がたぎる。命を食らいつくすための歓喜と陶酔があっという間に彼自身を飲み込んで、どこまでが自我なのかさえ分からなくなるのだ。
 ライアンは目を閉じて、その瞬間の甘美を引き出そうとする。束の間の肉の手応えと血飛沫の中にだけ、自分の全てを容易く見つけることが出来る。胸高鳴る、血の踊る、凄まじい悦びが全身を息づかせ、自分の命を実感に昇華するのだ。その相手を憎しめば憎しむほど心酔は強く、歓びは深く、愉悦は身体を貫くほどに鋭い。クインの言葉に触発されたとはいえ、そこまで強い歓楽はごく僅かだ。
 ……だからクインを特別に思っているのは本当なのだろう。但し、それが何であるかは理解できない。クインが自分にひたすらこだわる理由も同じだ。
 クインは自分がリァンの身代わりなのだと思っている。それはまるきり見当違いではなく、確かに彼を守り死ぬことが出来なかったという後悔が闇雲に庇護する対象を求めていたまさにその時、クインは自分の前に現れたのだ。
 けれどそれはもう遠い。クインはリァンではないし、性格も全く違う。何よりもライアンに頼るということはリァンはしなかったし、むしろライアンの生真面目な部分や思い詰める性質をからかったりさりげなく救おうとしてくれた。
 それに、リァンはクインがするように全身の力でライアンに対峙したことなど無かったはずであった。ライアンはリァンの犬と呼ばれる種類のもので、向き合う必要さえなかったのだ。
 それにチアロだ。クインが引き合いにだした言葉の内で、これははっきりと覚えていることの一つであった。あの時の口論の内容は後になればなるほど曖昧で、強い感情の被膜に押しつぶされて曖昧に消えてしまっているが、チアロとリァンの相似は以前からのことであった。リァンの生前からも、チアロの調子の良い朗らかでいい加減な部分が俺と似ているとリァン本人が笑っていたことがある。
 俺も子供の頃はあんなだったさ、懐かしいな──なあ、ドォリィ?
 リァンが幼馴染みで片腕であった男を呼ぶと、彼は大きな肩をすくめて本当だと笑ったはずだった。
 チアロを拾ったのは偶然で気まぐれだった。行くところがないとライアンに縋った子供が切羽詰まっていたこと、リァンにそろそろ自身の子飼いの部下を持った方がいいと言われていたことなどが重なっていたとはいえ、チアロでなければならない理由など、その瞬間にはどこにもなかったのだ。
 その証拠に、チアロを拾っても最初の頃は足手まといの子供であったしその後は自分の身辺で適当なことを喋っている奴だという苦笑めいた、出来の悪い弟を構うような気持ちであった。
 そしてリァンが突然世界から消えた後、チアロは確かに一時リァンの面影や空気をふんだんに残している存在であった。自分の殆ど異様といって良いチアロへの引き立てはその頃から始まっている。丁度その時期にチェインの支配者の継承戦争があったから目立たないが、チアロの出立の地点は間違いなく自分の偏愛だ。
 けれどそれを乗り越えてチアロは良くやっている。チェインをやりたいという自分の意志は殆ど誰にも話したことがないが、それがチアロ可愛さだけから来るものではないことは少なくともディーには分かるはずだ。
 ライアンの子飼いだと既にチアロの顔はタリアの上層幹部も認識している。いずれ自分に何かがあればチアロも一蓮托生のはずだ。誰かに肩入れするということは、その敵も背負うということと同じだから。
 チアロがそれに怖じ気づくような気配は無かったし、ライアンの存在を上手く利用して自分の立場を上昇させているらしい。らしい、というのは既に自分がチェインから離れかけているせいでもあるが、これから先、金も人手も要る。そのつてに一番信頼している少年を頭目においておきたいのは当然のことだ。
 他の連中が信用できないわけではないが、ライアンが無条件にその言葉を信じるのは、ディーとチアロの二人だけであった。
 それにチアロには恐らく、何かがある。リァンに似た、という言葉しか見つけられないのが自分でも歯痒いが、真芯の打たれ強さと朗らかで自然な求心力はどこかが違う──そんな気がする。見込めるとディーに言ったのはそんな意味だったし、甘さはあるにせよ、それがチアロの良い部分であることも確かなのだ。
 一つ一つを丁寧により分けていけば、クインの言葉など戯言だと一蹴すべきであったことだけが分かる。そこでライアンはまた溜息になる。
 あの時自分は確かに不機嫌だった。クインには出来うる限りのことはしてやっていたし、時間も自分なりに割いたつもりだった。けれどクインはそれでは到底足りないと焦れ、その間隙を一足飛びに埋めようとして自分に身体を委ねようとして拒絶されて偶然知り合った女に傾倒した。それが最初ライアンへの当てつけを含んだ行為だったことも察してはいる。
 下らないというのが最初の感想であり、ついでうんざりだという溜息を聞いた。けれど自分の体面のためにそれ以上を好きにさせておく訳にはいかなかった。知っているのはチアロとディーくらいだったはずだから、その内輪で済ませておければと忠告を試みたことは結局裏目に出てしまった。
 運が良かったのは細刃刀を含めて切れ物を自分がディーに用心にと預けていたことで、それがなければクインを切り刻んでいたはずだったが、リァンのことを引き合いに出すのも自分をもっと心に留めて欲しいと吠えるのも、その二つが融合することだって初めてではなかったはずなのに、あの瞬間にそれでたがが飛んでしまった。
 ライアンは自分にしがみつくようにして眠っているクインの頬の輪郭線を指でなぞる。これがいま生きて彼の胸に生暖かい吐息をこぼしていることが安堵にやっと変わる気がする。と、不意に長い睫毛が動いて深く鮮やかな色の瞳が覗いた。

「──ライアン、起きてた……?」
 声はしわがれてかすれている。これは眠りに落ちる前にクインを壊すような勢いで抱いたからだ。この瞬間だけはクインの声を溢れるほどに聞く。けれどそれは、絶叫と悲鳴という形だ。
 腕も肋骨も、その他に肩や背中に残る打ち身の青黒い痕跡さえ薄らいでいるが消えていない。そんな時に責め殺すようなことをすればそんな声しか聞かないのは当然だ。
 だが、そんな苦痛のための悲鳴よりも胸に痛いのは、これがクインの望みだということだ。身体の不具合は元よりライアンも承知している。彼に負担をかけない方法なら幾つかを思いつくが、それは激しい拒否にあった。
 もっと、とクインが言う。もっとしてよ。もっと。ライアン、もっと──……もっと、壊してよ──
 彼の言う通りに無理な姿勢を取らせると悲鳴になり、それに気圧されてライアンが身を引こうとすると更に自分で身体を打ってしまう。精神の均衡の満ち引きが元々激しい性格ではあったが、どこかが決定的にゆるんでしまったのか、激痛に全身を突っ張らせて痙攣させながら、喉を鳴らして笑っているのだ。
 怖いというなら、これほど恐ろしいと思うこともあまり記憶になかった。痛めつけられたい、滅茶苦茶に破壊されつくしたい、その欲求に彼は身を委ねている。それに引きずられるようにつき合っている自分も混乱しているのだろうが、クインの狂乱に一枚噛んでいることがひどい罪の意識を引き起こした。
 そのクインの口から久しぶりに落ち着いた声音を聞いた気がして、ライアンは今、となだらかに言った。うん、とクインが小さく頷き、痛いはずの腕で自分を支えて身体を起こす。ライアンが眠っている──と彼が思っている──時にはそんなことはしないから、これは明らかに当て付けであった。それを知っているはずなのに、思わず顔を歪めてしまう。
 クインはそれにふと笑い、ライアンの首に腕を回して唇を重ねてくる。仕草がまるで娼婦のそれになってきたなとライアンは思い、それでも押しのけることはせずに口づけを受け取った。
「煙草の匂いがする……」
 そんなことを呟いてクインはライアンの首に腕を絡めて横になった。腕に巻かれるようにライアンは横を向く。
 クインが彼の身体に手を這わせて目を閉じるのは、もう一度という意味だった。ライアンはよせ、と咄嗟に制止した。クインの細い身体の限界はもはや遠くにあるとは思えなかった。その前に心がどこかへ行ってしまうか、そのどちらが早いだろう。
「どうして? 俺がしたい時につき合うって約束、してくれたよね」
 クインは淡く微笑みながらそんな事を言った。その約束は本当に存在する。彼女の絵を燃やした後のまだ熱い灰に手を入れようとしたから、それを回避するためにクインの要求を飲む形で頷いたのだ。
 瑠璃色の瞳の奥の光が不安なほどに強い。月が映っているのだとライアンは思いこもうとし、クインと呼んだ。
「その約束は確かにした、けれど、これ以上は……死んでしまう……」
 と、クインはその返答に背をそらして笑い出した。ライアンはよせ、と同じ事を言いながら形の良い唇に手を押し当てた。クインは首を振ってそれをもぎ離し、喉で笑い続けた。
「殺すつもりじゃなかったんだ? 知らなかったな……知らなかった、ふ、ふふ」
「やめろ、クイン」
「いいよ──ほら、だから、さ」
 クインが自身に巻き付けていた夏の上掛けを蹴り飛ばし、生白い身体を晒す。求められるままにライアンが踏み躙った虐痕が目に飛び込んできて、ライアンは怯んだ。口元が痙攣し、やめろ、と勝手に呻く。
 それを無視してクインは自分から足を開いた。場末の娼婦のようになってきたとライアンは目をそらす。既に正視に耐える状態ではなかった。彼の様子にクインは機嫌良く笑い、ねえ、とライアンの手を取るが、それを振り払ってライアンは端に寄せられたままの上掛けを手繰り寄せた。
 日常、彼は殆ど喋らない。何かを話してもどこかに魂を置き忘れてきたようにふらふらと視線が彷徨っていて、まるで脈絡が噛み合わないのだ。
 夢の中に生きているようにひどく無防備で無力な子供の昼と、ばらばらに殺してくれという勢いで激しく彼を求める傲岸で非力な脅迫者の夜、その二つがクインの精神を引き裂いていくのが分かる。
 会話が成立するのは殆ど夜で、昼はうすぼんやりとして危うい、間延びした表情でじっと外を見つめているだけだ。
 ライアンは画帳を燃やしたことを今更のように後悔している。あの時これは泣き叫んでいたはずだった。あの女との追憶の形見になるはずだった絵にライアンは火をつけた。クインがこれにいつまでも追想をよせるだろうことが痛ましいことだと思ったからだ。
 忘れろ、と強く言うとそれには返答せずに握力の残る左手でライアンにしがみついてきた。辛いというよりは一息に全てを失ったような寄る辺ない自失に何か縋り付いて身を寄せるものがあればと彼を抱いた。より強い支配を、とチアロも言ったはずだった。
 そんなつもりがなかったというなら、今のこの状態こそ、こんなつもりはなかった。クインのことは分からない。ただ痛ましい。これほどまでに弱かったのかと愕然とする。クインの偽悪調の喋り口や顎をそらすような態度はこの内面を頑なに守ろうとする為の棘だったのだろうかとやっと知った気になるが、どうしてやればいいのかはやはり見えなかった。
 ライアンの首にクインの手が触れた。ライアンはクインを見つめる。表情のない視線で彼はライアンを仰視していて、やがてふいっと顔を背けた。
 ライアンはこの瞬間に自分が明らかに安堵したのを感じた。クインが傷ついたとさえ口にせずに自分を貶めることでライアンに復讐しているのだとしても、その手が弛むことはたまらなく気を緩めたのだ。
「……ライアンは、俺が怖いんだな」
 クインが呟くのが聞こえた。ライアンは横臥してクインの身体を後ろから抱き寄せ、かもしれない、と自分にも聞こえないほど小さな声で言った。クインの危うさ、昼と夜では全く違った方向にそれぞれ突き抜けて揺らいでいる心を見ると、焦れたような叫び出したくなるような、そんな気持ちになる。
「そうだな、怖い。お前が自分で傷つきたいというのを見ているのも……」
「何言ってるの? 違うよ、ああ──やっぱりライアンは俺が怖いんだ」
 クインはライアンに背を向けたまま、肩を震わせている。笑っているらしい。
「違うよ、あんたは俺が怖いんだよ。俺を身近に置くのが怖いのさ。リァンが死んだ時みたいに、全部連れて行かれるのが怖いんだ」
 ライアンは虚をつかれて身じろぎし、沈黙した。リァンを失った時の深い沈痛と茫然は未だに彼の中に痕跡を残している。クインとライアンは呻いたきり絶句した。クインはそうなんだね、と静かに断じると、不意に仰向けに身体をずらした。
「……俺は別におかしくなんかなってないよ、ライアン──ただ、少しばかり嫌気が差しただけさ」
 その口振りは今までと比べても異様に静かで、厳かめいていた。ライアンは返答する言葉を見つけられずにただ沈黙する。クインはくしゃっと顔を歪めて笑い、ライアンの頬を撫でた。
「いいよ、別に。俺はこれでいいんだ。ライアンに壊してもらうのも、客に殺されるのも同じだ、俺が死ぬ時に誰かを道連れに出来るなら、何も要らない……」
 うっすらと笑みを浮かべるクインの瞳には、やはり大きすぎる月が映りこみ、瞬きをする度に揺れて不安を誘う。月を見ているのか、少年の視線の焦点は遠く、遙かだった。
 道連れにしたいという彼の望みの静かな狂気にライアンは狼狽え、眉根をよせて首を振った。そんな破滅の衝動が良い方向に変わるはずはなかった。クインはライアンを凝視め、そして静かに笑い出した。形の良い唇がほころんで、聞くに堪えないほど切羽詰まった媚声が溢れてくる。
 これ以上を聞いているとおかしくなりそうだとライアンは思わず身体を離そうとした。クインがさっと筋をいためた方の腕を伸ばし、ライアンの背に回す。無理矢理もぎ離すことは出来るはずだったが、怪我という弱みを盾にする方法に、それと分かっていながら手が出せない。
 あれほど誇り高く驕慢だった少年が、ただ自分の話を聞かせるためにだけこんな惨めな真似をするのかと思うとたまらなかった。
 これは復讐なのだ。あの女とのことをライアンが簡単に引き裂いた、彼の体面のため、というクインの矜持を滅茶苦茶に叩き潰す理由で壊した、その復讐だ。
 ライアンは頬を歪めた。胸に痛ましく斬りつけてくるのは憐憫であった。痛ましく切なく、見ていることさえ辛い。そしてクインをこんな風にしたのは自分であるという自覚を否応なしに見せつけられ、怯みきっているのにクインから離れることが出来ない。今それをしてしまうと、本当に死んでしまうのではないかという恐怖がどこかにあるのだ。
 自分に必死にしがみついてくる身体をライアンは抱きすくめるようにして寝台に押しつけ、辛うじて押し潰さない程度に胸を合わせながら言い聞かせるように低く呟いた。
「クイン、済まなかった。あの女の事は謝る。絵を燃やしたことも、お前がそれを忘れるためにはそのほうがいいと思った、本当だ」
 クインは何がおかしいのか喉を鳴らして笑い、そう、と簡単に流した。足を絡めてくるのをどうにか離そうとしていると、クインが不意に彼の鎖骨に歯をたてた。
 甘噛みするほどの痛みはさほど強くない。けれど、どうにかして男を誘うつもりの仕草には胸が突かれるほどの痛々しさを感じる。手負いの獣と同じだ。心に裂いた傷は目に出来ないが、そこからあがる血飛沫と痛みにじっとうずくまることも出来なくて転げ回って痛みを訴えている。
 クイン、と名前を呼び、ライアンは唇を深くよりあわせた。結局こうすることしか咄嗟に出来ない自分の愚かしさも、クインはきっと嗤っているのだろう。クインが腕を自分の首に巻き付けてしっかりと足を絡ませた。ねえ、という声が泣き出しそうなほど潤んでいるのに、涙は見つけられない。画帳を焼く炎にあぶられて消えてしまったように、あれ以来彼の涙を見ていなかった。
「──うんとひどくしてよ……思い切り手荒にしていいから、ライアン、さっきなんかよりもっともっと痛くして……」
「クイン止めよう、お前が本当に死んでしまう」
「殺せよ!」
 クインが不意に怒鳴り、その勢いで肺が軋んだように呻いた。クインと手を伸ばそうとするのをだが叩き返し、きつい、それでいて何かに浮かされている熱にゆらぐ視線をまっすぐにライアンに当ててくる。
「殺せよ、それでいいんだよ! 同情なんか要らないんだ、憐れみなんかもっと要らない! 半端なことするなよ! 俺が怖いくせに! 怖いくせに、怖いくせに!」
 吠えるように叫んでクインは不意にまた笑った。ねぇ、と呟く声に媚態が戻っている。この出鱈目な態度にライアンが覚えるのは、それでもクインがそんなものは要らないと怒鳴ったはずの憐憫だ。追い込むという言葉の意味を今更思い知る。
 ライアンはクインの細い顎を捉えてしっかりしろ、と揺すった。
「同情や憐れみが要らないというなら、何が欲しい、クイン。言え」
 クインは首を振り、両手で顔を覆った。唸るような音が喉から零れたが、それは涙の声ではなかった。
「要らない──あんたからは何も、要らない、あんたはリァンのものだ、そうだろ? 永遠にリァンのものだ、違うの? だったら要らない……要らない……他人のものなんか……誰が……」
 呟く言葉が不意に途切れる。どうしたと言おうとした瞬間にクインは彼を押しやって頭までを上掛けに隠し、震えだした。泣いているのだろうかとライアンはその肩を揺する。けれど返ってきたのは乱暴な拒絶だった。
 ライアンは長い溜息になり、そしてそっと上掛けをめくった。クインは体を震わせていたが、やはり泣いてはいなかった。けれど涙の方がよほどましだと思うのは、それさえ枯れた絶望を自分が知っているからだろう。
 本当に傷つき、叩きのめされてのたうっているその瞬間に、涙は出ない。それはあまりに深く、あまりに渇いた闇だからだ。
 涙がこぼれてくるのは現実を受け入れて折り合いをつけ始めようとする時で、だからクインが今、ひどく混迷した闇にいることは分かる。それを自分が心苦しく、ひどく痛ましく眺めていることも。
 クイン、とライアンは努めて静かに言った。
「──俺があの女とのことを体面のために潰したのではなく、嫉妬のためにそうしたと思え。お前が欲しいというならどんな言質でもやる、何が聞きたい、言ってみろ」
 クインは視線を翻し、ライアンを睨み据えた。それをライアンはやはり睨み返す。二人でじっと身じろぎもせず瞬きもせずにらみ合った末に先に折れたのはクインの方だった。
「……何でそんなことまで俺に聞くんだよ……」
 それが強制したのだという事実を避けようとする策略だとは分かっていた。けれど、ライアンは頷いて済まないと言った。クインが欲しがっていたのは彼を必要だと言い、彼に手を伸べる人間だった。それをあの女が占めようとしたのを壊したのは自分だ。それによって自ら壊れたいと願うクインを一度つなぎ止めてやれるのも。
 いつかクインも新しい想いに身を委ねていくだろう。けれど今、血を吐き散らし、絶叫に近い悲鳴をあげながら彼が傷つけ巻き込もうとしているのはライアンで、それを拒否する権利はあっても出来ないだろうということも、全てを見通したような諦観が襲った。
「俺はお前の気に入る言葉を知らないが、これでどうか」
 淡々と呟き、ライアンはクインの肩に触れ、髪に指を差し入れてゆっくり愛撫した。クインが微かに喘いで目を閉じる。その瞼に唇を寄せ、頬を両手で優しく挟んで深いキスをした。
 クインが喉で呻き、一度ライアンの肩に手が触れた。それは弱く押し戻そうとして何かに負けたように力を緩め、縋り付いてくる。
「……涙が出ない」
 唇が離れた時、クインが呟いた。
「ライアン、駄目なんだ。あれから泣けない。エミルのことが」
「忘れろ」
 名前が出た瞬間にライアンは遮り、愛しくクインの額を撫でた。
「涙はそのうちに出るようになる。あの女の事は忘れろ、もう言うな。いいな」
 クインは唇を歪め、何かを言おうと口を喘ぐようにあけた。ゆったり十を数えるほどの時間が沈黙に流れ、やがてクインは頷いた。頷きながらライアンの鎖骨あたりに額を押し当て、震え出す。
 けれど無理に涙を流そうとしてもそれが無駄な仕儀であることは、ライアンにもよく分かっていた。夜の蒼さを一人で背負わせないためだけに彼の細い肩を抱きながら、ライアンは窓の外の月を見上げた。
 夜はそろそろ長く伸びていく季節だった。
 晩鐘が遠くから幾重にも、空気を震わせながら近寄ってくる。それを待っていたタリアの篝火が殆ど一斉に灯され始めて、通りは一呼吸する前に朱泥に浸ったように赤く染まった。
 チアロはこの瞬間が一番好きだ。これを女の化粧だとたとえる言葉を初めて聞いた時、深く頷いた記憶がある。とびきり華やかで贅を尽くした表通りの組合筆頭妓楼の格子が赤く照らされて燃えるような美しさを誇っている。
 小さな白い花火が尾を引く音を立ててぱちんと咲いた。火薬は砂金と同じ価値がある。筆頭妓楼で何か慶事があったのだろう。
「お、豪気だね、見に行こうか、水揚げか身請けの披露だよ」
 チアロは明るい声を出し、隣でぼんやりと突っ立っている友人の手を握る。彼はまるで子供に戻ってしまったようだ。昼間はいつ訪ねていってもまともに受け答えをしない。ぼんやりと、放心して弛緩しきった視線で外を見ている。
 ──窓の外の、鳥たちを。
 夕方を過ぎてこの時間になるとようやくぽつりぽつりと言葉が出るようになっていたから、連れ出すのはいつもこんな時間だ。クインの返答はないが拒否の様子は見せなかった。
 彼の様子に頓着ない風を装って、チアロはほら、と手を引いて歩き始める。少し足を引きずりながらもクインは大人しく連れられているが、彼の声は聞けなかった。
 エミリアとのことを壊して破算にしたとき、これほどまでに彼の異存が酷いと思っていなかった。ミシュアから地上街道の乗合馬車でチアロは帝都まで帰還したが、そこで待っていたのはライアンの激高のために全身を痛めたクインの姿だった。
(喧嘩だ、気にするな。ただリァンのことを引き合いに出したのは奴が悪い)
 ディーはそんな言い方をしていたが、それをしたくなる、クインにとってはせざるを得ない状況を作り込んでクインを追い詰めていったのはライアンではなかったろうか。
 最初に出逢った頃からクインはリァンのことをライアンが気にかけすぎると気に入らなかったが、それをなじらなくてはいけない方が、責難されるより辛くないなどということはない。
 ライアンは心なし青褪めていたから、それ以上を彼には言えなかった。けれど、とチアロはクインの手を引いてタリアの大通りをゆっくり巡りながら思う。
 クインは淋しかったのだ。
 誰でも良かったというのには語弊があるかも知れないが、優しく明るい愛情で、彼の胸のささくれだった部分を丁寧に埋めてくれる相手であれば誰でも良かった──自分にさえ縋り付こうとした彼があまりに辛くて見ていられなかった。
 エミリアという女に傾倒し始めたのを気付いた時、依存は既に始まっていて簡単に引き抜くことは出来そうになかった。クインを下手に傷つけまいとして却って機会を見失ってしまった責任は、自分にもある。今となっては何が最善で次善であったのか、定かではなかった。
 エミリアの方はどうやら帝都には戻っていないらしい。では彼女の故郷にでも飛んでいったのだろう。故郷近い街に妹がいるはずだ。彼女にも酷いことを、とチアロは胸の中で呟く。ごく普通の愛情の配分を心得ている彼女に妹とクインを無理矢理選べと言えば家族に決まっているのだ。ライアンの思惑は分かるしそれには自分も賛同するが、あまりよい役回りではなかったと自分でも思う。
 それにしてもディーや、ライアンと共に戻ってきたオルヴィのようにエミリア自身への危害を提案するよりはライアンは随分ましと言えた。
 ライアンはクインを彼なりに特別に気にかけている。遠ざけようとするのがいい証拠だ。失って辛いものは持たない主義で、辛くなりそうなものには近寄りたがらない性質だから、ライアンが身辺に寄せている人間のうち、信頼されているらしいディーや自分を除いた全てが捨て駒だ。うぬぼれるなら、多分自分たちも捨てていい札だが、それはかなり後のことになのだろう。
 順列の詳しいことは察するしかないが、チアロはその最後の札は自分だと思っている。
 ──それをクインが気にかけているとは知らなかった。ライアンが彼に特別だと言ったことに嘘だと噛み付いて、叫んだと聞いた。
(あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!)
 単純に、これはチアロにとっては嬉しい言葉であった。ライアンの視線が自分の後ろにリァンの面影を探していたことは分かっているし、それは仕方のないことだと諦めてきた。それが嫌だと思ったところで今更違う自分にはなれないし、そんなことは意味がない。
 ライアンが自分に何を投影していても、自分がライアンに対して思う心や気持ちには本来関係がない。相手の思惑に関わらずまっすぐに人を愛せる自分がチアロは好きだし、いつまでもそうでありたいと考えている。
 相手からの心が返らないことや思うに任せないことが多い時は哀しいが、生きている限り、よい未来が必ずある。
 それをクインにも信じさせてやりたかった。けれどクインはエミリアとのことが壊れてしまった衝撃に、未だに足元が定まらない。これ以上はもう耐えられそうにないとライアンが音を上げたのが珍しかったが、その様子を聞けば背が冷えた。
 昼間を過ごすチアロとの時は彼は大人しすぎるほど従順だ。口数は少ないが、時折はチアロの冗談に唇をゆるく開くことがある。目がまるで違う場所の幻を見ているから真実安堵するわけには行かないが、チアロを気遣うならそう酷いことではなかった。
 だがライアンの口から聞く彼の褥の狂気には愕然とする。何が一番惨く辛いかというなら、それが全てライアンへの復讐であろうことだ。ライアンによって追いやられていった方法とは違うやり方で、クインなりにライアンを虐げている。道理でなかなか傷が良くならないはずだった。
 クインは確かに頭がいい、とチアロは苦笑になりかける。ライアンが何故自分に対して弱腰なのか近寄りがたく遠ざけようとするのか、確信してやっているのだ。分かっていなければライアンへの好意の示し方はもっと違うものになるはずであった。
 失ってもいいものしか側に置かない。愛したものを失う辛さを知り抜いているからこそ、最初から愛さないように遠ざける。何もかもを失ってもいいように、無くして辛いものは持たないようにしているのだ。
 チアロはその臆病な性分を、けれど却って愛おしい。馬鹿だなあと思う。こんなに分かりやすくて背反なことがあるだろうか。好きならば好きだと直線的に愛すればいいのだ。失って辛いのはどんなものだって同じだし、それは自分の気持ちの上に興ることだから、誰にも奪われない。
 それをライアンは怯えている。クインが彼にとって庇護対象者でありリァンに対する彼の欲求の一部分をまっとうして補完する存在であることはチアロは疑わないが、クインもそれが自分への興味と関心と好意だと誤解できればことはここまでこじれなかったはずであった。
クインがライアンに何故ああして絡むのかはチアロにも良く分からない。ただ、彼は年齢が離れて上の、自分に優しくしてくれる相手には男女問わず比較的素直に懐く傾向がある。まだ幼い頃に出会ったことでライアンの印象は彼の中では大きいのだろう。
 ……最初に彼を捕まえた時、ライアンは確かに時のタリア王、カレルにクインを貢ごうとしていた。カレルは虐癖の持ち主で、リァンから同じように提供されたライアンが死の寸前まで追いやられたことがあるらしい。
 らしいというのはその頃チアロは父親と気楽な旅を渡り歩いていたからだが、クインをカレルに差し出して生け贄にするつもりであったはずだ。
 ライアンがクインを逃がしてやったのが何故なのかはチアロには分からない。けれど、クインがそれで彼を自分に甘くしてくれる相手だと感じたのは間違いがないだろう。事実、クインはそれ以来ライアンの渋い表情にも頓着せずにチェインに出入りしていたのだから。
 クインがライアンに好意を持つのは分かる。彼をつなぎ止めておくために身体を開くしかないと思っているのが間違っているだけなのだ。
 チアロは手を引かれて俯いたままついてくるクインに足、と聞く。クインはやや呆けたような表情であったが頷いた。
「うん……大丈夫」
 そう、とチアロは顔を潰すようにして笑ってみせる。今クインに必要なのは、彼女がふんだんに与えるはずだった優しさと明るさを、少しでも補充してやることなのだとチアロは信じている。
 綺麗なものを沢山見せてやりたいと思うのもそうだし、何か美味いものでも食べさせてやりたいと思う。ぬるく傷ついた心にはぬるま湯につけるような愛情が相応しく、上等だった。
 花火の上がった妓楼はやはり水揚げの披露目だった。見物の人垣に混じり込んでいくと、どっしりした赤い絹地にびっしりと刺された精緻な刺繍が目に入った。水揚げの少女が身動きする度に揺れる花板の飾鎖が眩しい。少女の面差しは可憐で、ぱっちりとした目が人形のようだ。
「可愛いなあ、ほら、年はいくつだろ」
 チアロは明るい声を上げながら、指をさす。クインはちらりと興味なさそうに視線をあげ、さあ、と投げやりな声を出した。チアロはクインの反応の薄さには構わずに可愛いよなあと朗らかに笑った。
「あ、ほら祝儀が出る」
 大きくて格式の高い妓楼の水揚げには沢山の儀式がある。格が落ちれば落ちるほど、特別なことは何もなくなっていくのだ。
 万象万乗万歳の決まり文句のかけ声と共に、駄菓子を包んだひねりが妓楼の中からばらまかれる。人々がわっと喊声を上げてそれを拾いに詰めかける。人並みに押されてチアロはクインの手を握ったまま前の方へ押し出され、一つ二つを拾った。これは拾ってやるのが礼儀なのだ。
 最後に水揚げされる少女からひねりが投げられて、これは特別の祝儀が入っているものだったから人々が手を伸ばしてこちらへとざわめく中を、不意にチアロは視線を感じて貼り付けていた楽しげな笑みを収めた。
 強い視線は水揚げの少女からまっすぐにこちらへ向かっていた。それが簡単な好意でないことを肌で悟り、チアロは微かに怪訝に眉根を寄せる。と、少女の整って愛らしい表情がきゅっと歪んだ。その目が自分から少しずれた場所を見ている。
 チアロはそれを追って視線をずらし、慌ててクインの手を引いた。
 クインはやや俯き加減に薄ぼんやりとした表情をしていたが、その物憂げで儚い様子はこの場の全ての上に君臨するほどの美しさだった。見慣れているはずのチアロでさえ、一瞬言葉が出ない。
 赤い篝火に照らされた肌は茜色に染まるほど白いことを誇り、じっとあらぬ場所を見つめている彼の身から、微かな光感さえ覚えるほどの麗しさだ。
 少女の目線でクインに気付いた群衆が波打つようにざわめき、打たれたように静まりかえった。少女の目にあるのは今やはっきりした怒りであった。水揚げという妓楼での最初の晴れがましさを横から奪われる怒りだ。
 少女がどんな奢りの中にいたか、その怒りの激しさを見れば一目で分かった。美しさと可憐さを崇められ讃えられ、数多くの男たちの憧れを掻き立てるために媚びるでなく豪奢に微笑む、そんな生活をしていただろうし、これからもそうなるはずだった、──但し、それは朝日に消える霞のように、無力な強さしか持っていない。彼女よりももっと圧倒的に美しい、くっきりした美貌の前に。
 少女が美しく化粧された頬を歪めた。チアロは人垣の中から抜けようとクインを促した。分厚い人混みに掻き入ろうとしたした時、少女が祝儀を投げた。それはまっすぐにクインの目尻あたりに命中し、重い音を立てて落ちた。
 その瞬間に、何かの糸が急激に張り戻ったようにクインの瞳に光が宿った。底光りする光のようなものが戻り、クインがきつく少女を睨みつける。
 少女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。これから先の数年において一番の誇りになる場面をよそ者に汚されたという屈辱が、彼女の白い頬を上気させている。
 クイン、と促そうとした時、友人は低く笑い出しながら自分の足下に落ちた祝儀を拾い上げ、止める間もなく投げ返した。それはしてはならないことの一つであった。少女が美しい面輪を歪め、気違い、と叫んだ。それがきんと通った瞬間にクインが喉をのけぞらせるように笑い出し、チアロが持ったままだった通常の祝儀をひっつかんでそれも少女めがけて投げつけた。
 チアロが口を塞ごうとするよりも、クインの誇らかな哄笑の方が強く早い。
「黙れよ、淫売!」
 クインはそう怒鳴り、笑い出した。少女がくっと唇を噛んで、もう耐えられないというように妓楼の中へ駆け込んでいく。それと入れ替わりに妓楼の衛士たちが駆け出してくるのに目を留め、チアロはクインの手を掴んで駆け出した。背後で怒鳴り声がしている。
「おい、待て、馬鹿どもが!」
「チアロだな──このチェインの餓鬼め!」
 タリアに長くいるのならば、チアロの顔を知っているものも時折いる。それは無論ライアンの側人としての彼の顔だが、いずれ妓楼の組合を通じてタリア王の配下あたりを経由し、ライアンに嫌味がゆくだろう。
 路地や抜け道ならばチアロの方が彼らよりも数段詳しい。滅茶苦茶に走り回ってやっと呼吸をつくと、またクインが喉を鳴らして笑い出した。たがの弛んでいるような感触はしなかったが、人を怒らせて楽しむような真似はいい趣味だとは到底思えなかった。
「あれはまずいよ、可哀想に……」
 息を整えながらそんなことを言うと、クインはゆるゆると首を振った。
「だって、俺の方がずっと綺麗だよ……チアロはそう思わない? エミルはいつも俺のことを綺麗だと言ったしね」
 クインの言葉にチアロは溜息になる。少女の傷ついた顔もよくわかる。それが仕方のないことだとも。クインの美貌は天与としかいいようがなく、人目を惹き付けて離さない。見に行ったことが悪かったのは確かだが、クインにはこの世界にある美しいものに少しでも触れて欲しいのだ。
 いつまでも自分の中の狂気や怒りにつきあっていても、それは全く彼を成長させない。美しいもの、優しいものに触れて嬉しいと思える心だけが、人を自分で癒させる。
「確かにお前の方が美人だったけど……でも」
 エミリアのことはあえて無視し、チアロが言いかけるとクインは黙ってというように首を振った。
「俺のことはもういいんだよ、チアロ。ライアンに頼まれたのか、それとも? あいつ俺を殺したいのか違うのか、どっちなんだろうな」
「クイン、そんな言い方は良くない」
「じゃあどんな言い方ならいいんだ? 俺はただ、ライアンに俺のことをリァンみたいにぐじぐじ思い出して貰えるならなんでもしようと決めただけさ」
 チアロはそれ以上何かを言うのをやめ、クインの肩を揺すって歩き出した。タリアの大通りにはそれなりに格式のある店が多く、年若い者が気楽に入れるような店は殆ど無かった。
 食事のために路地を渡り歩きながらチアロは何が食べたいかと聞く。クインは大抵要らないと返答するが、それは無視していつも自分一人で何事かを喋りながら適当な店を探すのだ。馴染みを殆ど作ろうとしないライアンについて歩く内に、自分にもそんな習慣が出来上がってしまっている。
 ここ数日の食事を脳裏で確かめながら、チアロは目で適当に店を探し歩く。手は繋ぎ直すと素直に従うクインがやはり哀れでならなかった。結局のところ、彼は淋しいのだ。
 彼をこんな風にしたのは俺だとライアンは苦しく呻いていた。その声音をクインに聞かせてやりたいとチアロは思う。そうすれば、もっとライアンとのことを穏やかに受け止めていけるだろうに、それをどうして放棄するのだろうか。
 愛はぶつかり合うものでも破壊し合うものでも、そして支配しあうものでも決してない。お互いがあるがままに在ればいいと思う自分が間違っているのだろうかと考えてしまう。
 とにかくクインには心の均衡の取り方を思い出して貰わなくてはいけなかった。ライアンに返し刀で次第に迫っていく様子には、端で見ている方がひどい危機感を覚える。特にクインに何もしてやれなかったという悔恨は恐らく、ライアンよりは自分の方が深く感じている。
 ライアンの場合は自分の臆病な性質がクインを沈めてしまったという後悔であろうが、チアロはその過程をライアンよりも良く目にしていたし、自分ではそれなりに息抜きをさせているつもりだったのだ。
 それにはまず一緒にいる時間を増やすという最も単純な方法へ立ち返るというのがチアロの結論だ。彼に沢山の、人生と世の中の楽しく面白いこと、美しいものや愛らしいもの、そんな彩りがあることを思い出させてやりたい。
 とりあえず何か、と通りをぶらついていると、不意にクインの足が止まった。気付かずに行き過ぎようとして、チアロもそれにひかれて立ち止まる。
 クインは遠い目線で赤い格子の向こう側を見つめていた。消えてしまった蜃気楼を眺めるような視線だとチアロは思い、嫌な表情だと苦く思いながらクインの目線の先を辿ろうとした。
 その時、不意にクインが呟いた。
「……エミル……エミルがいる……」
 チアロはぎょっとする。彼女をさらって妓楼へ放り込めなどと指示をした覚えなど在るはずがない。そんな馬鹿なと慌てて赤い格子の向こうへ彼も視線をやるが、やはりエミリアなどはいるはずがなかった。
 けれど、その代わりに見つけたのは戸惑うような現実だった。クイン、とそっと目を塞いでやると、クインはふっと格子から顔を背け、チアロに抱きついてきた。動揺しているのだ。
 それが本人でないことくらいは知っているのだろう。けれど、時折人は自分の欲するものを無理矢理にでも見ようとする──例えば、自分とはまるで似つかない顔立ちをしているのにも構わずに、チアロの遠くにリァンを見ようとするライアンだとか。
 それを思ってチアロは苦い顔になる。
 そこにいたのは黒髪の遊女だった。
 似ている。顔立ちはエミリアという女よりも多少幼く弱々しいような気配がするが、一瞬見た時の造作や面差しの雰囲気に共通するものが多い。別人だということはすぐに分かる程度の相似でしかないが、例えばエミリアが持っていた温かで優しそうな空気は同じだ。
 チアロは迷い、クインを見た。クインは見たくないというように顔を背けたままで俯いていた。思い出したくない。忘れたい。そんな言葉に心底から頷くことも出来ずに彼が苦しみ呻いてのたうちまわっている。
 チアロはじっと格子の中へ目をやった。この妓楼は彼の馴染みだ。チアロが心の底から深く恋をする女、シアナがいる。女将の人なりも良く知っているし、金額も大体は計算できる。僅かに躊躇う心を振り切るためにチアロはそうだ、と明るい声を出した。
「なあ、ちょっと寄って行こうか、そうしよう、いいだろ、つき合えよ」
 返事を待たずにクインの腕を引き、妓楼の格子戸を開ける。小間使いの少女が常連客のチアロを見て微笑み、いらっしゃいと愛想を言った。それで帳面台で煙管をいじっていた女将が顔を上げ、チアロに頷く。
「女将さんこんばんは。えーっと」
「あの子はさっき客が帰ったばっかりだから、少し待っていておくれよね。それと……そっちは?」
 女将の視線が向いて、チアロはクインを軽く突き飛ばす。よろめくようにクインが前へ出て、ようやくはっとしたように周囲を見回した。妓楼だということは分かるのだろう、途端に俯いて柱にふらふらともたれかかり黙り込む。気に入らないのだ。
 チアロはその不平を無視し、あの子、と食堂で給仕をしている遊女を目で示した。
「あの子、こいつにつけてやって。金は俺の奢りで、泊まりでね」
 女将はちらりとクインを見やり、すぐに頷いた。小間使いが黒髪の遊女を連れてくる。遊女はクインに目をやった瞬間に、あ、と小さな声を上げた。
 反応が初めてではないらしいと気付き、チアロは軽い笑みになりながら、知り合い、と聞いた。
「あ、あの……いえ、少しだけ、お話をしたことがあるだけで……」
 小さな声は消え入りそうにかぼそい。到底チアロの好みから遠かったが、こんな優しげな少女の方がクインにはいいかも知れないと思い直し、彼を頼むよといった。
「ちょっと落ち込んでるんだよ、慰めてやって」
 チアロは遊女に笑いかけ、女将によろしくと同じ事を言った。女将が頷いてあんたの奢りで良いんだねと念を押した。それにチアロが頷くと女将はにっこりと商売の破顔を作り、よく通る声で宣言した。
「旦那様をリーナの部屋へご案内! ゆっくりしていって頂戴。分からないことがあったらこの子に聞いてね」
 最後の言葉はもの慣れていないクインへのいたわりなのだろう。戸惑って振り返るクインにチアロは手をひらひらと振り、食堂の方へ歩き出した。シアナの身体が空けばじきに階下へ降りてきて彼の頭をはたき、いつもの傲慢な笑顔でまた来たのと笑うはずであった。
 渇いている、とライアンには言われた。そうかも知れないとクインは思う。エミリアとのことが幻になってしまったことで自分を責め、ライアンを非難し、けれど彼からの贖罪を受け取ってしまえば最後に向き合うのは自分の中の罪でしかない。
 だからそれは受け取らない。狂気なのかそのふりをしているのか、自分でも境界は曖昧だったが、世界への怒りとライアンへの鈍い憤りが今の自分を辛うじて支えている。
 昼の柔らかで温かな日射し、明るい日常の光の中にいると自分が場違いなところに座らされているようでどうしていいのか分からない。そして夜の青い孤独の中にいればただ淋しくて身を切られるほど辛い。
 ライアンはあれから時間を割いて回してくれているようだが、月に三度ほどだった会話が週に二度になったことが劇的な変化だとは思えなかった。
 一人の夜は淋しいし、ライアンがいてもなお淋しい。ライアンに徹底的に自分を痛めつけるようにし向けているのは彼の心に悪意と痛みをばらまくにはそれがいいと思ったからで、どうやら成功しているようであったが、一体こんな事をしてなんになるのだろうという声がどこからか聞こえてくるのだ。
 ──意識を取り戻した夜、ライアンに現実に巻き戻されるようにして彼と寝た。殆ど力づくでライアンは自分を取り戻そうとしたのだ。快楽かどうかという以前に自分の中の空虚と胸裂けるような悲しみがぐるぐると回って、あの晩は喉嗄れるまで泣いたはずだ。
 ライアンの身体が自分を押し潰さないように気を使うのが苛立たしくてたまらなかったし、エミリアのことを失い、全てを放擲したことで初めてライアンが自分をその意志で巻き込んだことが許せなかった。
 けれど、それはエミリアの温かな腕に巻かれる以前、自分が望んでいたことではなかっただろうか。知ってしまえば他のものは要らない。ライアンが彼に与えようとするエミリアの身体の熱と似たものでは、既に満ちてゆかないのだ。
 エミル。クインはじっと遊女の部屋の床にはられた、美しい組木模様を睨み据える。チアロが自分を勝手にこんな所へ押し込んでいったのは、今怯えたような目で彼を遠くなく近くない場所で見つめる彼女がエミリアと似ているからだ。
 順序としては逆で、最初エミリアを見た瞬間には、それ以前に行き会ったこの遊女と似ていると思ったはずであった。けれどその位置は決定的に逆転している。
 エミリアは彼の中に明るい光が差し込むための窓をつけてくれた。いつか翼を広げてそこから飛ぶことが出来るわと言ってくれた。彼女といるだけで穏やかになる気がしたし、手を触れていれば嬉しく、頬を寄せていればなお嬉しかった。
 終わることだ、というのは分かっていた。いずれ離れて行かなくてはいけないとはっきり自覚していた。だからこそミシュアへ向かう旅路やその過程が美しく貴重なものになるだろうと思ったのに、それはほんの僅か手前で道を逸れ、息苦しい迷路へと紛れ込んでしまったのだ。
 エミリアはどうしているだろう。見に行くことさえ怖い。自分が彼女に接触したら次はないとチアロも言った。だから行かない方がいい。行ってはいけない。あの優しくて暖かな色をした女に二度と会えないことが現実だった。
 そしてクインは顔を上げて自分をひたすら見つめる遊女に視線をくれた。それははっきりとした敵意のような眼差しだったらしい。遊女が怯えたように肩を震わせたのが分かった。
「……お前……何か喋れよ」
 クインは低い声で命じた。チアロといると楽なのは、彼が勝手にいつまでも口を動かしてくれる部分が大きいのだろう。自分がどんな状態でも、彼なりにクインの気持ちを引き上げようとする。
 遊女は済みません、と呟いた。
「あの、何のお話を、したらいいでしょう……?」
 怖々とクインの機嫌を伺おうとする瞳が大きい。あの晩に一瞬、捕らえられたような気持ちになったそれは、今はもう何の感情も呼び起こさない。彼女の面輪にエミリアの幻だけを見ている。
 なるほどライアンは下らない、とクインはふと鼻で笑った。彼がしているのはこれと同じ事だ。彼のことを思い出すと尚更不機嫌になる。クインは遊女の問いに返答しないまま、座り込んだ椅子に身をゆっくり埋めるような姿勢を取り、長い溜息になった。
 ──つまりチアロは俺がライアンと同じくらい下らないと思ってるんだな。クインは口元を思い切り歪める。チアロはエミリアの顔を知っている。彼女がエミリアと似ていることも、では分かったのだろう。
 気を使おうとしてくれることを有り難くは思っても、これが嬉しいかどうかは良く分からなかった。それに、とクインは困ったように俯いてしまっている遊女を横目で見やる。
 彼女にはエミリアの持っていた嫌味ない明るさが足りなかった。もっとうち解ければ違うのかも知れないが、クインの発散する不穏な空気に気圧されているのか口数も少なくおどおどとこちらを窺うばかりだ。
 クインが溜息になった時、あの、という小さな声が聞こえた。
「何だよ」
 切り捨てるように言うと、ごめんなさいという反射的な言葉がもれた。クインは苛立つ。自分がせっかちで気忙しい部分があることを承知しながらも、この女は俺の機嫌を取らなくてはいけないはずだという認識がひどく素っ気なくて乱暴な言葉や態度にしかならないのだった。
「ごめんって、何が」
 底意地の悪いことを聞いている、とクインは顔を歪めた。遊女は困ったようにますます身を縮め、ひたすら済みませんと呟いている。それがいい加減に癇に障り始めてクインはお前、と吐き捨てるように言った。
「お前、同じ事しか言えないならもう黙ってろ」
 ──彼女はエミリアではない。失ってしまったものは、もう戻ってこない。
「俺は別にお前のくどくどした謝罪なんか聞きたくねぇよ」
 ──エミリアではない。彼女の持っていた全てと遠く隔たった、別人だ。
 そんなことは分かっていたけれど、何を期待していたのだろうと思うと尚更かあっと胸の底が熱くなるようだ。クインは言いたいことだけを言って長椅子の方に移って寝転がり、天井を見上げた。天窓から地上の赤い光に揺らめく月が見える。
 クインは手を伸ばした。エミリアの声が、自分の中に蘇ってくる気がしたのだ。ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春。胸に描く幻想を、温かな理想を、そっと囁く声が優しかった。彼女のおおらかな気持ちに抱かれていたかった。エミル。
 エミル、好きだったのに。これがどんな種類の愛でも欲しかったのは本当だのに、どうしてあんな風に突然、何の予告もなく精算しなくてはいけなかったのだろう。
 現実は進んでいくのに、心の方はそれに追い付かない。自分がせかせかと時間を早めていく性質であるのに、肝心の己がついてこられないなどといういうことが、また苛立ちになった。
 クインは自分の顔を片手で覆い、長い溜息になった。何も考えずにいたかった。忘れろとライアンが言うのは正しいのだろう。ただ、自分が意地でもそんなことはしてやるものかと思っているだけだ。
 忘れない。絶対に。それがライアンへの復讐の方法であったし、自分の中に美しい幻影が眠っていたことの証明でもある。そしてクインは不意に身を起こした。
 結局この女がエミリアに似ているかどうかなんて、どうでもいいことじゃないか。自分に優しく微笑んでくれた彼女は一人しかいない。ならば、誰でもいい。もうどうでもいいし誰でも構わない。一瞬でも、ほんの束の間でも肌の熱と吐息で溶けてしまえるなら、もうどうだって構わないじゃないか……
 そんなことを口の中で呟き、クインは所在なく彼の横に座っていた遊女の腕を掴んだ。はっとしたように彼女が目をみはる。大きな瞳が怯えたように潤んでいるのを見た瞬間に、罪悪感のようなものが胸をかすった。それに自分で動揺する。
 何がいけないんだとクインは強く顔を歪めた。
 自分は客で、この女は遊女だ。俺を好きなように玩ぶあの客連中と同じ扱いをしていい相手だ。クインの表面だけを丁寧に愛でて好き放題に彼を扱う連中に覚えた憎しみが、形を変えて戻ってくる。
 抱いていいはずだったし、滅茶苦茶にしていいはずだった。ライアンが彼の胸を切り刻んだように、誰かを傷つけることで均衡を取っている。
 自分は荒れ狂いたいのだろう。本当に狂ってしまえたらどんなに楽だろうか。けれど、母のことがある限り生きて行かなくてはいけないし、あの商売だって辞めるわけには行かない。ライアンとの自虐ともいうべき関係も、エミリアとの思い出も、何もかも、放り出すものか。
 それら全てを放擲しない重みを、どこかに吐き出さなくては潰されてしまう。その捌け口が女でどうしていけない!
 クインは無理やり彼女を長椅子に引き上げると、着ていた木綿の赤い花襟の紐をほどいた。余りに性急で乱暴な仕草に彼女が驚いたような声を上げた。うるさい、とクインは強い言葉を捨てた。彼女はびくりと肩を震わせるとクインがもどかしく剥がそうとする服を手伝うつもりなのか、一つ二つ釦を外そうとした。
 クインはその白い手を払いのけ、服の前袷を掴んで思い切り引き破った。勢いで釦がぱちぱちと飛ぶ。遊女の視線がそれを追ったのが気に食わなくて、お前、と喉元を掴んで呻くように言った。
「俺を見てろ。他の所に目をやるな。いいか、ずっと俺を見てろ」
 遊女の喉を離すと、彼女は怯えたままで頷いた。クインは彼女の服に目を戻す。それは彼の粗野な行動のせいで既に半分ほどが引き裂かれ、下からはっとするほど白い肌が覗いていた。
 体つきは少し幼い。胸の隆起もあまりないし、腰まわりもほっそりとしていて、さほど肉感的な魅力を放つ少女ではなかった。クインの視線が身体を眺めているのに気付いたのか、少女が恥じらうように手で胸を覆った。クインはそれを乱暴に振り払う。羞恥なのか少女がふわりと頬を赤らめて、どうしようかと迷った末に手をクインの肩に回そうとした。
 その瞬間、クインは喘いでその手を叩き返した。似ている、と呻きかけてそれをどうにか飲み込む。最初の印象が似ていた通り、ふとした仕草や頬の影がぎょっとするほど重なったのだ。
 けれど──似ている。どうしようもなく下らない、全く意味のないことだと分かっているのに振り払えない。エミリアの身代わりなのか、彼女は。頭がおかしくなりそうだとクインは喘ぎながら、ぽろりと名前を呼んだ。
「……エミル……」
 その声に遊女がえ、と聞き返した。クインははっとした。今自分の身体の下で怯えたような不安な目つきで、しかし命じた通りに彼を見つめる女は決して彼女ではなかった。
 こんな時にエミリアならどうしただろうか。大丈夫よと笑ってゆったり抱き寄せてくれたろうか。それとも、優しいキスを、エミリア? あなたならどうしたろうか。俺を慰めてくれたのか、それとも抱き包んでくれたろうか。
 いずれにしても、それをこの少女が代行することはあり得なかった。
 急速にきたものが急速に冷えていく。クインは少女を突き飛ばし、立ち上がった。眩暈がする。ライアンがしていることをせせら笑っていたはずなのに、気付けば自分まで同じ事をしようとしていたのは何故なのだろう。
 淋しいという気持ちが何でもさせるなら、ライアンに縋ればいいのだ。そのほうがよほどましだ。少なくとも、ライアンとエミリアを混同するほど馬鹿ではない。
 だが、似た印象の女に依存しようとすること自体が、汚い。ライアンに向かって俺はリァンの幻影ではないのだとほえついたことが霞んでいきそうになる。クインはよろよろと少女から離れ、喉で意味のないことを呻きながら扉に背をつけた。
 少女が急いで服の前をかき合わせ、駆け寄ってくる。
「──あの、ごめんなさい、私、何か、あの……」
 クインの機嫌を損ねたのかと見上げてくる視線が大きくて、あの晩に出会った時のように美しく潤んでいる。
 けれどこれはエミリアではない。こんな贋の代用品で間に合わせようとした自分も許せないし、おどおどとクインを窺おうとするこの女にも腹が立った。
「俺はお前なんか欲しくない。あいつが勝手に放り込んだんだ──もういい、俺に構うな……泣くな、馬鹿っ」
 ついというように涙をこぼした遊女に心底うんざりしてクインは怒鳴りつけた。
 渇いている、とライアンは自分を指して言った。自分の中では涸れてつきてしまった涙をこんな下らないことでぼろぼろこぼしてみせられると、いっそ当てつけなのかと勘ぐりたくなる。
「泣くなって言ってんだろ、いい加減にしろ、知らない、帰る!」
 クインは少女を突き飛ばし、扉を乱暴に開けて足早にそこを出た。待ってと少女が叫んでいるのが聞こえたが、それには構わない。来た階段を駆け下りていくと、女将がぎょっとしたようにどうしたの、と聞いた。それに返答をせず、先ほどはチアロが開けた格子戸から出ていく。何かを女将が言いかけた気配がしたが、戻る気にはならなかった。
 駆け戻ったアパートは人の気配がない、しんと冷たい闇の中であった。クインはまっすぐに寝室へ入る。遊女の身体からついたのか、ふわんと甘い香りがする。
 こんなもの、と滅茶苦茶に自分の肌をかきむしり、それでも足りなくて意味のない悲鳴を上げながら服を脱ぎ捨てて暖炉に放り込んだ。
 灰が舞い立つ。
 月明かりの中で画帳の最後の角の形が崩れたのをクインは見、そしてぺたんとその場に座り込んだ。エミリアの残した全てがたった今、最後のものさえ潰え去ってしまった。
 それを思うと後から後から何かがこみ上げてくる。獣のようなうなり声を上げてクインは暖炉の前へひれ伏すが、涙はやはり出てこなかった。
「エミリア、ごめん」
 呻いた言葉にクインは自分で首を振る。画帳はエミリアが自分へ渡したかった希望の形であった。背中が良くなったと誉め、翼が見えるのよと笑い、よい未来を彼に教え、そしてそれを教えたことを忘れないでというつもりでチアロに画帳を預けたのに決まっているのに、それを自分は為す術なく燃えるのを見ているしかしなかったのだ。
「エミル、ごめん、ごめんよ……」
 呟き続ける声に混じってくるのは大量の、自分でも制御できない量の後悔だった。それが苦く鋭く自分の背中を打ち続けている。エミリアがここに、と描いた位置が痛い。
 いつかクインを描けたらその絵をくれるとエミリアは約束をしてくれた。この画帳はそのための引き替えの切符だった。それを大切にしてやれなかった、ただライアンが画帳を燃やすのを、ぼんやりと見ていた。
 腕も胸も、痛むのはこれは罰だとクインは思う。
 罰だ、罰が下ったんだ。二度とエミリアには会えない。彼女の託してくれた希望が他人の手で蹂躙されるのをぼんやり見ていた。だから泣くことさえ出来ない、これが罰なのだ。
 クインはほんの僅かに形が分かる灰へ手を伸ばし、おそるおそるすくい上げた。灰は既に冷めていて、たださらさらと細かく指の隙間からこぼれていこうとする。
 それを阻止するようにクインは灰を握りしめた。
 自分の手の中にある、一握の灰。自分の体温にぬくまっていくそれは、エミリアとの全ての思い出の遺灰であった。
 クインは喉で呻いた。涙の気配は、やはりどこからもなかった。

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