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 ステリオは丘の街だ。シタルキア中北部の丘陵地帯の中に属し、ゆったりした隆没が波濤のように遠くまで続いているのが街外れから見える。夏の草の緑が溢れてくるようで、強い光線の下にあれば一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
 エミリアは鞄を肩からかけ直し、振り返った丘の様子が記憶と変わらないことに安堵して歩き出した。まっすぐに街の中央区からやや外れた地区へ入り、やがて背の低い薔薇の木の双柱門を抜ける。夏薔薇の甘く清涼な香りがふっと鼻先をかすめ、やっと自分が元の場所へ戻ってきたような気になる。
 奥から偶然歩いてきた中年の女に軽く会釈すると、女はあら、と明るく笑った。
「まぁ、エミリアさん? 帰省は再来週って聞いてましたけど、早めたのね?」
 女の表情にどんな影も苦悩も遂に見つけられず、エミリアはやっとぬるい笑みになることが出来た。何かがあれば、きっとこんな風に屈託なく話しかけると言うことはしないだろう。
 それが思いの外自分の頬を弛めたらしい。ほっと溜息になると、女はエミリアに満面の笑みを向けた。
「面談室をお使いになる? それとも帰宅するかしら? アスニアったら養家に迷惑だからってなかなか帰らないのよ」
 エミリアは苦笑になった。叔父夫婦には子供がおらず、そのせいでエミリアもアスナも実の子のように愛しまれている。葡萄園も年によって作付けに波があるのは仕方がないが、片手間に仕込んでいる葡萄酒の評判が存外良くて、不足のない暮らしだ。口減らしではなく、自分の世話に手がかかることを気にしているのだろう。
 それはエミリアも同じであった。だからアスナが全寮制のこの盲学校に入りたいと夢想を語った時に絵の新人奨励賞を貰った絵を売って金を作ったのだ。
「連れて帰ります。部屋へ行って荷造りを手伝ってもいいですか?」
 どうぞ、と女が微笑む。エミリアが頻繁に面会に行く部類であることもあって、面談には比較的甘い。盲学校特有の手すりや階段の終わりの鳴き床を通り、妹の部屋の扉を叩く。どうぞ、という声は明るくて、いつもの妹のまま、何も変わらないごく普通の日々のままだ。
 部屋の扉を開けると、妹は窓辺にいた。開け放した窓硝子に耳を当て、じっと目を閉じている。窓に跳ねる風の音を聞いているのだ。
 扉が開くと一瞬通りが良くなった風が強く硝子を震わせて、それが楽しいのだろう、アスナは小さく喉を鳴らして笑っている。ちりんと扉にくくりつけられた合図の鈴が鳴った。
「……だれ?」
 おっとりと口にして妹は窓から身を離す。傾げていた首を直すと長く伸ばしている髪がさらりと肩を滑って落ちた。妹の目と同じ、美しい夜空の色だ。落ち着いて扉の方角へ向けられる目は、それでも見当違いの場所を見ている。というよりは、振り向いた耳に気配を悟ろうとしているからどうしても見えている者とは視線のやり方が違うのだ。
 エミリアは私よ、と小さく言った。妹の無事を目にした瞬間、気が抜けてしまうほどの安堵に襲われて、口を開くのもおっくうなほどだ。
「──姉さん? 姉さんね、その声、すぐに分かる!」
 アスナは朗らかな声を挙げてするりと窓際の椅子から降りた。自室の中は既に未知の世界ではないらしく、歩いてこようとする。
 姉の身体を一瞬でも早く確かめようと伸ばされてきた手の先にエミリアは指を添わせ、絡めて引き寄せた。妹の身体はまだ少女の入り口にある年齢のままに小さく、すっぽりとエミリアの両腕の中へ収まってしまう。この小さな宝石の愛しさにエミリアは破顔し、きつく妹を抱きしめた。腕の中にある身体の温度と質量が、やっと確かな実感に変わる。
「アスナ、アスナ……会いたかったわ」
 エミリアはうわごとのように口走り、何度か再会の軽いキスを頬に交わしあってから長い溜息になった。一つが無事に解決すれば、更に一つが浮いてくる。不安というのは大抵一つの根に連なっていて、全てが消えるという確信に至るまでには一つ一つを丁寧に潰していかなくてはならなかった。
 エミリアは僅かに呼吸を飲み込み、重大なことだと悟られないようなさりげない声音を作り出した。
「ねぇ、何か最近おかしな事はなかった?」
「おかしな? ……例えばどんなこと、姉さん?」
「あぁ、いえ……いいのよ、気にしないで──ちょっと見ない間に大人びた感じがしたからびっくりしただけ」
 妹の反応が余りに無邪気で、エミリアはやっと自分の暗い想像を振り切ろうと決意する。この小鳩のような妹が不幸になることを想像するよりは、幸福に微笑んでいる姿を思い描くことの方が重大で重要で、大切なことだ。叔父さんの所へ帰るわよ、とエミリアは努めて明るく口にして、簡単に荷物をまとめて外へ出た。
 ザクリアのような大都市とは違って流しの馬車などはほとんど無い。二人で田舎道を歩いている途中で捕まえた農馬車に便乗出来たのは運が良かったほうであろう。
 アスナは刈り取った牧草に夏の匂いがすると身を投げて笑っている。朗らかな笑い声が耳に響くたびに少しづつ、エミリアの不安や恐怖を埋めていくようだ。可愛い子。エミリアは草の束に頬を押しつけている妹を見やる。
 草の匂い、風の音、小鳥の声、太陽の熱。視覚を失ってしまった代わりにアスナは全てを肌と心の感触で捉えている。悲壮でもなく、自棄ばちな明るさでもない。これがこの子の芯なのだとエミリアは不意に妹を頬ずりしてやりたくなる。両親がいなくなってからは唯一残された最も濃い血の相手であったし、何よりも幼く守るべき者なのだ。
 叔父夫婦の家に着いたのは夕方近くになってからだった。馬車を降りてから少し歩いたが、しっかりと手を繋いでいるせいなのか、アスナの足取りにあまり不安はない。最近の寄宿舎での生活や、習いだした点字のタイプのことなどを嬉しそうに語っている。
 やはりあの少年の口にしたのは単なる恐喝なのだとエミリアは次第に心がぬるく解けていくのを感じてそっと笑った。黄昏に埋没する農園はいつもの色で、何も変わらない光景を見る度にほっと長い溜息になる。忘れようと努めても、一度刷り込まれた恐怖を捨ててしまうことは難しい。それが検証によって少しづつ安堵にすり替わっていっても同じだ。
 姉さん、と妹が強くエミリアの手を握った。どうしたの、と優しい声を出すと、見えないはずの黒々した瞳をまっすぐに向け、アスナは微かに憂えたような表情で言った。
「姉さん、何だか怖いことがあったのね? 震えてるもの、ずっと」
 エミリアは一瞬返答が出来ない。真夏のぬるい残照の中でアスナの手を強く握りしめて震えていたとするなら、やはり怯えているのだろう。失いたくないのだ。全てを。
「大丈夫。アスナと一緒にいれば、きっと落ち着くからね」
 返答は下手に誤魔化さない。肌で触感を読むごとく、アスナは気配に敏感な娘だった。光を失うまでもその傾向はあったが、それは更に強まっている。妹はそれに直接答えず、そっと笑った。遠くから自分たちを見つけたらしい叔母の驚きと歓喜の声が呼んでいる。それに何の暗さも感じない。エミリアはまた同じような溜息になって手を振り返した。
 久しぶりの養家は記憶の通りの野暮ったくて温かな色味をしている。手縫の壁掛けも毛布のつぎも、そこに溢れるように縫い込められている住人の愛情が真冬の雪のようにじんわりと重たい。けれど、それに埋もれてやっと暖まるような心地もあるのだ。
 エミリアの帰郷は予定よりも半月早く、これは相当突然といって良かった。どうしたのだと苦笑する叔父たちにも、アスナと同じく日常の明るさはあっても恐怖の影は見つけられない。3ヶ月ほど前に帰省した時の空気と同じものをふんだんに与えられて、ようやく神経ごと弛緩していくようだった。
 夕食が終わると妹を連れてエミリアは二人の部屋へ引き取った。昼下がりの埃っぽい道を歩いてアスナも疲れているようだったし、エミリアも船を降りてからは強行軍であったといってよい。
 一刻も早く妹の無事を確かめたかったし、叔父夫婦の息災を見たかったのだ。
 アスナはついてすぐに自分で整理した棚を開けて、手探りで寝着を取り出している。着ていた木綿の服をぱっと勢いよく脱ぎ捨てているのはやはり、自分に対する目の意識の薄さなのだろう。見られている、ということに対して無頓着なのだ。
 寝着をもそもそと着ている仕草はたどたどしい以外の何でもないが、手伝ってはいけないと言われている。身辺のことは自分で一通り出来るようにするのが自活の最初だと盲学校で教えているようだ。
 だから手を貸さずにエミリアはじっと待っている。釦の数を丁寧に数え、指がゆっくりと着替えを仕上げていく。次第に子供から大人へ渡り始める身体はどこも淡く薄い、女の匂いがする。未完成で危うい身体の線が、この一瞬しかない美しさをもっている。それは殻を破ろうとする直前の息吹だ。
 見る度に妹の身体がゆっくりと、しかし確実に子供時代の次の季節へと歩んでいくのが分かった。それに比して笑顔は昔の通り、屈託なく明るい。子供のままのような、無垢の永遠を垣間見る気がする。
 けれど、その身体のように妹が子供のままだとは思ったことがなかった。他人には無邪気で明るく、やや年齢にしては幼く思われるほど素直に大人しくやわやわしい少女であったが、真実子供であれば言うはずの他愛ない我が儘も癇癪も持っていない。何かを無理矢理主張して誰かを困惑させたりすることがないのだ。
 ──優しい子。エミリアはやっと全ての釦をかけ終えて、一番下から順にきちんと止められているかを確かめている妹を見ながら思う。
 優しくて、傷つきやすく、そして強い。両親の死、自身の盲。そんな境遇の中にあってもアスナはいつもエミリアを支え、励まし続けた。辛くないなどとは思わない。アスナの強さは何事にも動じない鉄ではなく、しなやかに風にそよぐ若木のそれだからだ。
 不意に愛おしさの波が零れてきて、エミリアはそっと目元を拭う。妹と自分と、支え合って生きていきたい。可愛い子。優しい子。私の希望。エミリアは口の中で呟いた。ふと意識のそこを何かがかすめようとするのを無理に押し殺し、着替え終わって寝台に座る妹の隣へ腰を下ろす。
「……綺麗な髪ね、アスナ。やっぱり長いのが似合うわ」
 言いながらエミリアは櫛で丁寧に妹の髪を梳いてやる。これは久しぶりにあった時の姉妹の心を近くする儀式のようなものであった。流れるような黒髪は艶やかでどっしりした重みがある。量が多いが美しい髪だ。妹の身を整える閉じた幸福を噛みしめていると、不意にアスナが姉さんと言った。
「──ねぇ、前の手紙にあった男の子は元気?」
 ふっと瞬間、手が止まった。胸の深いところが一瞬で射抜かれて、僅かな時間呼吸も出来ない。
 エミリアはそうね、とあやふやな事を返答し、もう寝なさいと強く言った。寝台に入れてからそう立たない内に妹が寝付いてしまうと、エミリアはほっと溜息になって自分も寝台へもぐりこんだ。船の中の揺らぎがなくて、真実自分は戻ってきたのだと思う。
 目を閉じると真っ先にクインのことが浮かんだ。
 ──クイン。見捨ててしまったという罪の意識や哀れだと思う胸の作用よりも早く、彼の表情が豊かにあふれ出してくる。
 苛立つ頬の線、癇性に歪めた唇。そんな翳りばかりの面差しが、いつしか素直に明るく変化していったのをみたのは、奇跡か幻のような出来事であったはずだ。
 船の中でみたのはいとけなく縋りつく、切羽詰まった依存であった。怒り、笑い、不機嫌になり、毒づき、そして強く禍々しい言葉に自ら傷つくような顔。沢山の彼を見たはずなのに、最後に他のもの全てを消し去って浮かんでくるのは、ミシュアの浜で別れた時の幸福そうな笑顔だ。
 心の温度のままに全てを全身から発散する彼の、あれが最も力ある表情だった。あの瞬間に自分たちの間に秘密も打算も形式もなく、ただ惹かれるままに相手を見つめていればそれで良かった。そのはずなのに。
 エミリアは毛布を頭まで引き上げ、中で丸くなった。涙がたぎるように溢れてくる。ここに至って初めて、ミシュアの浜で膝を折った時から自分は茫然としていたのだとやっと思う。
 結局のところ、自分は何に負けたのだろう。
 クインのことは愛しかった。彼が自分のためにそこにいてくれと言うのなら、彼の繊細な神経を宥める鎮静剤だったとしても意味があると思った。彼の心はひどく荒くて激しい波だが、その根底にあるのは絶望的な寂しさだった。
 だから可哀想に思った、それが間違っているはずはない。男として愛していたかという問いには今でも答えがないが、それも仕方がない。憐憫は決して恋ではないが、それも人への真摯な祈りならば、愛と呼べる種類でないか。
 手放してしまった希少な宝石。彼はその硬質な心でもって自ら傷ついていく。それを自分に止めることが出来るなら、それに準じる巫女でもいいと確かに思った。女というものは殆どが絶望的に美しいものが好きで、それは馬鹿馬鹿しいことではあるが仕方がない。圧倒的なものの前にひれ伏すならば、愚かしさでもってしか出来ないからだ。
 彼は美しかった。表面に浮かぶ外殻ではなく、胸の奥津城に誰にも触れさせない頑とした純粋を飼っている。それを自分でどうしていいのか分からずに、秘密を分かち合う相手を必死で捜そうとして遂に見つけられない悲哀が彼をどうしようもなく打ちのめしていたのだ。
 エミリアはこぼれる涙を枕に押しつけながら深く頷いた。彼の背中に翼を描いたのが何故だったのか、ようやく解答が見つかった気がした。それはきっと彼が最も欲しているものだから。力強く羽ばたいて地上より少しでも高く、天へ近付いていきたい、そしてそれが出来ないことに絶望しつつあった天使。
 ──それを捨ててしまった。自分の手で。一度は彼は翼を見つけたはずだ。そんな表情を知っている。
 彼はどうしただろう。あの少年は彼の、おそらくは友人なのだろう。名前は遂にその唇から零れなかったが、彼の口から陽気な友人の話は聞いたことがある。それに任せていいのだという声が自分の中からすることを許せない。彼への罪悪感と自分への絶望が、家族の無事を確認し、確信してから湧いてくる。
 それが自分で本当に卑怯だと思う。あんなに心細く不安な声で自分を呼んで、どうしていいのかも分からないまま身を寄せてきた獣のような彼を見捨てて、全てに目を瞑り耳を塞いで逃げてきたのだ。
 心の底から彼を哀れだと思う、張り裂けそうなほど悲しいと思う。けれど、それを救うために自分の根底を構成するこの家の温かな色をした全てを差し出せと言われたら、それは出来なかった。出来ないならば、これは全てを賭けて狂っていくような恋ではなかったのだ。
 そう呟く側から言い訳のようだという自嘲が湧いてきて、エミリアはきつく歯を食いしばる。少年がエミリアに彼を不幸にはしないと言った言葉を鵜呑みにする気はなかった。第一、それは自分とは関係がない。気休めにもならないのだ。
 クイン、とエミリアは小さく名を呼んだ。もしあの時全てが順調に流れていたならば、今頃は彼と身体を寄せ合い名前を呼び合っていたかもしれないのだという新しい推測は、思った以上に胸を刺した。痛い。彼は今、どうしているだろう。
 その資格は既に無いとしても、案じているのは本当だ。あれが恋でなくても、愛の種類ではあったから。思えば全てが幻の儚さであった気がした。夏の海にくゆる、蜃気楼のような。
 違う、とエミリアは反射的に強く思った。全ては自分の目と、心が真実だと思うのがうつつであり、幻だと思うものが夢だ。醒めて消える夢にはしない。誰がどんな思惑を持っていたかも関係ない。エミリアの中にある、一番の彼が全てで現実だ。
 現実、と呟く。あれが幻でなかったことを証明するために、うつつの夢であったことを残しておくために、この胸の後悔と彼への追憶のために、差し出せなかった自分の全てを賭けるとするなら、方法はたった一つだ。
 ──描きたい。
 自分の身体のそこから力強く浮いてきた言葉に深く頷き、エミリアはゆっくりと身体を起こす。妹を起こさないようにそっと寝台を抜けてショールを羽織ると、静かに家の外へ出た。葡萄畑は月夜に照らされて、青緑色の海のように葉がうねっている。
 その中をエミリアは足早に作業小屋へと向かった。作業小屋の屋根裏は昔からエミリアの絵のための部屋になっている。専用の部屋を増築してもらう事が出来なかった代わり、エミリアが好きなだけ一人で絵を描けるようにと叔父が作ってくれたのだ。
 屋根裏へあがるとそこは昔のままの世界であった。賞を取ることも、芸術院へ進むことも、絵を売って生活することも、全く思いもせずに自分のためにただ描いていた頃の気配がまだ残っているようだ。
 描きかけてそのままになっている何冊もの画帳、何を描くか迷って手をつけていない木綿の画布はやや日向焼けしているが、構わずにエミリアはそれを作業台へ立てかけた。
 ──描きたい。
 胸の奥から衝動が、それだけを囁いている。
 床に落ちていた炭は写生用の柔らかいものではなく、おそらく子供の頃に母屋の備蓄庫から拾ってきたものだ。それをも愛しいとエミリアは微笑み、画布と真向かった。
 ──彼を描きたい。いいえ、描かなくては。
 更地のような何もない画布に、たちまちクインの沢山の表情が零れてくるようだ。これまでに見た綺羅綺羅しいものではなく、人形のような魂のない端正さではなく、たった一つ、描きたいと心から思う表情が出るまで、じっとエミリアは画布を睨み据えて待っている。
 ──描きたい。
 ここへ戻るのは自分の持っている業なのだろう。それをなじって離れていった恋人もいた。全てのことを絵のための土台であると言われて悲しかった。けれど、それは今的中ではなくても何かの真実を含んでいるかも知れないとそう思う。
 描きたい。クインという奇跡を描き留めておきたい。そうしなくてはいけない。全てがエミリアの中で昇華されていくのなら、通り過ぎていった恋愛でさえなかった交感を形に残し現実だったと振り返るよすがとなるのはやはりこれしかない。
 自分自身の中から溢れてくる、この衝動と情熱の帰結しかないのだ。
 描きたい、とエミリアは強く画布を睨んだ。
 彼を描きたい。美しさで周囲に君臨する王ではなく、ただ寂しさと怒りと、それでも希望を手に入れようとするあの目を持った少年としての彼をとどめておきたい。
 自分でも意識せずに最初の一線が出た。何も描かれていなかった処女雪の上に足をつけた僅かな罪悪感が手を止め、やがてそれは突き進み、滑り出す。
 彼を描きたい。今、描きたい。
 ひたすら突き上げてくる衝動がエミリアの手を自動筆記のような勢いで動かしている。ザクリアのアパートにある美しい幻想画とは違う絵になるだろう。この高揚感をしばらく味わっていなかった気さえする。
 売り絵は否定しないしそれで食べていこうとしているのも事実だが、他人が求める自分の絵はいつの間にか幾重にも張り巡らされていた自分らしい優しさという枠の中であった。慣れた技法と慣れた愛に、僅かに疑問を持ったことはなかったろうか。エミリアの持つ魂の複製品のような絵を沢山描いてきた気がする。
 ──描きたい。
 エミリアは自分の手が勝手に彼の姿を描き出していくのを見つめながら、深く頷いた。これは彼だ。誰がどう言っても、私の中の彼だ。技術でもなく、色彩の綾でもなく、彼の魂をこの一枚に塗り込めておきたい。その為だけに描く、自分のための絵。
 描きたい、とエミリアは呟いた。途端に何かが決定的に弾けたらしく、一度は止まっていた涙が溢れてくる。それを空いた手で払いのけながら、エミリアは忙しく手を動かした。
 描きたい。全ての決算に、自分と彼が僅かにでも同じ地平に存在した証拠に、今描きたい。この絵を最後に情熱全てを燃やし尽くしても構わない。
 これが描くということで、これが想うということだ。
 絵のために生きているのだという非難はあるいは正しいかも知れない。けれど、それがどうしたっていうの。それが生きていくということなのよ──私にとって。
 クインのことがこの絵の代償であったということではないのだ。全ての魂への打擲があるからこそ、それを糧に出来るのだから。
 エミリアは夢中で描き続けた。この絵を彼に見せてあげられるかは分からない。けれど、描くことで彼への祈りを形残すことが出来る。
 その為に描くのだ。愛も、祈りも、形にならないものだからこそ、胸の中にあった証明と追憶のために。
「天使」
 エミリアは呟く。
「天使にするわ──夜明けに空を見る希望を」
 これがエミリアにとっての彼と過ごした夏、奇跡のような短い季節の決算であった。
 ──これは後に、『暁の天使』として展覧会で最高の評価を得、また画家エミリア=スコルフィーグの劇的な質的転換を示す一枚として扱われるようになるが、それはまた別の話である。
 ゆっくり目を開けると、視界は白く濁っていた。瞬きをすると涙がこぼれていく。おかしい、何が悲しくて泣いているんだろう。それが分からなくて更に瞼を動かしていると、次第に世界が形を表してくるようであった。目線をあげるとよく知った木の節の模様、窓硝子の気泡。光は斜めにたっぷり差し込んで、寝台の端と床に日向の匂いを振りまいている。
 吐息を漏らして起きあがろうと右手を寝台に支えると、途端に腕がひきつるような激痛がはしり、思わず呻いて身体を倒れこんだ。まるで右腕に力が入らない。手の指が一斉に痙攣し始めて、自分でもどうしていいのか分からなかった。枕に頬を押しつけて次々に浮いてくる脂汗を拭っていると、軽く駆け寄ってくる足音がした。次の瞬間、ぴたりと冷たい感触が額に押しつけられて心地よさに僅かに喘ぐような声が出る。
「右腕は痛めているから、あんまり使うなよ」
 聞き慣れた明るい声に振り仰ぐと、チアロが柔らかに笑いながら自分に濡らした布を押し当てているのだった。ああ、という、喘ぎとも吐息ともつかない声がこぼれた。
 チアロがクインの額に濡布を押しつけ、肩を抱くようにして体勢を直す。起きるか、と聞かれて頷くと、寝台にもたれるように身体をあげてくれた。
「起きたな、クイン。……今、食べるものを持ってきてやるから」
 クインはぼんやりしたまま頷いた。全身が気怠く、ぎしぎしと軋んでいる。ばらばらにされたのを無理矢理繋ぎ直したように、関節が重くてなかなか動かすことが出来ない。ちらりと右腕を見るとこれでもかというように包帯が巻かれており、添え木までがあった。それを見た途端、強い湿布薬の臭いがした。
 クインはそれをじっと見つめて首を傾げた。記憶が不鮮明で、どこからが夢で現実なのか、まるで分からない。一体何故こんなことになっているのかも。左手でそっと右腕の包帯を撫でようとすると、左の小指と薬指にも包帯があった。こちらは固めてあるらしく、ぴくりとも動かせない。
 クインはぽかんとする。現実味のない世界に突然迷い込んだようで、どう反応していいのかも分からなかった。厨房からチアロが戻ってきて、寝台の隣に椅子を引きずり腰を下ろす。甘い匂いがした。
「蜜桃の甘煮だよ。昨日買っておいたんだ、お前、食べたいっていったろ?」
 クインは目をしばたき、そう、と小さくいった。その記憶は完全に抜け落ちていて、チアロがそう言うならということでしかない。クインの反応でそれをチアロも悟ったらしく、何だよと苦笑して皿の中の刻まれた果肉を匙ですくった。
「ほら、口開けて……遠慮すんなよ、その指じゃ匙を持つのもすぐには無理だから」
 どうやら右手は力が入らないし、左手は動かせない指がある。それを悟ってクインはおとなしく唇をあけた。匙のひんやりした感触が割り込んできて、舌先にあたる。舌の上を転がって落ちていく桃のざらっとした表面が気持ち悪い。クインが顔をしかめているのにも構わず、チアロは定期的にせっせと桃を口に運んでくる。どうやら自分は長く眠っていたのだろうと思ったのはこの時だった。皿の中をあらかた嚥下し終えてから、クインは腕なんだけど、と言った。チアロは頷き、完治まであと3週間、と告げた。
「筋をひねって傷めただけだから、使わないようにその期間吊っておけば大丈夫だってさ。あ、それと左手の指は骨がぱっきり折れてるけど、無理しなければちゃんとつくって。あと、肋骨が何本かいっちゃってるからしばらくの間、仕事は休み」
 クインは頷いた。全てがもやのかかったような断片的な記憶ばかりで、何一つ系統立てて思い出せない。ただ、夏の美しい幻影を見た気がする。眩しくて綺羅しい、紺青の海の幻を。
 海が……と言いかけると、チアロがごめんよ、と素早く遮った。
「俺が一緒に帰れば良かったな。お前にあんな馬鹿なことを言わせなかったのに……」
 クインはじっとチアロを見つめた。友人は昼下がりの明るい空気の中で柔らかに、どこか哀しそうに笑っている。馬鹿なこと、と復唱するとチアロはリァンのことだよと苦く笑い、クインの額にはりついている髪を丁寧により分けた。
「リァンのことは、俺にはいいんだよ。お前がそう思っててくれたのをディーから聞いたけど、嬉しかった。ありがとう」
 クインの身体に負担をかけないように配慮された抱擁が、温かだった。クインはじっとそれを受け止めながら、自分の脳裏を検証する。チアロの言葉にも、肯けるような気がしたが決定的な確信がない。全てはぼやけた曖昧な世界にあって、何もかも現実味がない。クインの反応がどうやっても薄いことに気付いたらしく、チアロはやや置いて寝台の脇から大きめの何かを取り上げた。
「あ……」
 クインは喘いだ。それを目にした瞬間に、薄い皮膜が破れたように全てのことが次々に溢れ出てくる。
 エミリア、暖かな色をした優しい絵の人。一度は澄んだ視界が見る間にぼやけてくる。自分は泣いているのだ。出会いの夜に目を見張った彼女から一息に、最後に見たミシュアの海での微笑みまでを駆け上がる。
「これ、彼女から預かったんだよ。お前に渡してくれって言われた」
 チアロがエミリアの画帳をクインの膝におき、口を綴じていた紐をほどいた。クインは頷いた。夢ではなかった。あの心穏やかで楽しかった日々は幻でも空想でもなく、最後に身に残った傷と共に確実に刻まれている。エミル、とクインは呟いた。俯くと涙が落ちて画帳の表紙にこぼれた。それをチアロの指がこそげとる。ごめん、とチアロの声が聞こえた。
「……こんな風にはしたくなかったのに、お前にもライアンにも、一つもいいことしてやれなかったな」
 チアロの声音には深い悔恨が滲んでいる。お前のせいじゃないよ、とクインは言った。誰のせいだということには意味がなかった。ライアンの仕打ちに憤っていても、それが自分の癇癪で利己的な欲求だということくらいは知っていた。けれど、それを押してでもライアンには自分を見て欲しいと思い、願いが叶わないと焦れて自棄になったのだ。
 エミリアに出会ったのは、そんなときだった。乾いた砂に吸い込まれていくように、エミリアの全てが胸に通っていった。誰でも良かったのだろうかという疑問は、さらさらと目の前を通り過ぎてしまった。自分に希望という言葉を教えてくれたのは、彼女であったはずだから。
 いいんだ、とクインは繰り返した。チアロが切なく笑ってごめんよと呟いた。クインは首を振り、そっと画帳の表紙をめくった。一人にしてくれるつもりなのだろう、ゆっくり休めと言い残してチアロが席を立っていく。それを視界の端で確認しながらクインは目を落とした。
 練炭の強く淡い濃淡で描かれた世界は、良く知った温もりのままにあった。最初の一枚には近所で遊ぶ石蹴りの子供がある。
 ──私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人──
 耳の奥に明るい恋の歌が蘇る。エミリアのアパートから覗いた日常の写生だ。日だまりの猫に逃げてしまったという注釈、蝶の展翅。側に走り書きの文字が日付と場所を教えている。
 自分もいる。最初の一枚は背中だけで表情さえないのに、尖りきって折れそうなナイフのようだ。ひどく苛立ち、暗く出口のない怒りで気が狂いそうだったのだと今なら思える。エミリアの部屋での写生もやはり背中が多い。けれど、何かが劇的に変化したのが背中だけでも分かる。自分の肩や俯く首筋から暗い翳りが消えている。
 これが彼女の力だった。いつでもクインを許し、優しく笑ってくれた。大丈夫よと囁いてくれた。自分が彼女の優しさに甘えつけ込んでずるずると居着くのを、黙って受け入れてくれたのだ。
 エミル、とクインは呟いた。居心地が良かった、甘えていた。自分の背負うもの全てを投げて彼女に縋り付こうとしたのだ。そしてそれをエミリアは受け入れようとしてくれた。船の中で手を繋いで眠った記憶、ミシュアの砂浜で約束のために抱きしめた身体。肌の熱。平凡な女の平凡な優しさでも良かった、彼女が自分を抱きしめて、大丈夫よと言ってくれればそれだけで良かったのだ。
 クインはこぼれる涙を左手の甲で拭った。胸にあるのは引き裂かれたという痛みでもなければ世界への煮えたぎるような怒りでもなかった。
 ──淋しい。ただ、淋しい。たまらない。
 寂寞とした大地に一人で立っているようだ。ほんの僅か先に潤う泉が見えていた気がしたのに、それは蜃気楼だったのだろう。真夏の光線と紺青の海に抱かれて一度は取り戻せると思った自分の中の平均律が霞み、消えていく。
 次の頁をめくると、項垂れる自分の背に翼が描かれていた。これが希望の形なのだ。俯きながらも前へ行きなさいとエミリアの声が耳元で謳っている気がする。
 行きなさい。前へ未来へ進んで行きなさい。
 今はまだ小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ。
 エミリア、とクインは喘いだ。目を閉じると涙がぼたぼたと紙に零れる音がした。上掛けの端でそれを吸い、クインは自分の背にあるとエミリアが言った翼を見つめた。彼女の瞳にこれが見えていたなら、いつか自分にも見えるようになりたいと思っていた。いつかエミリアの見る世界を、自分で見たかった。──エミリア、あなたの手の紡ぐ、愛と祈りといたわりに満ち満ちた世界を。
 クインは泣きながら次をめくる。船の中で彼女が描いていた小品がいくつか続き、それは突然現れた。自分だ。はっきりと分かる。笑っている、胸が痛むほど明るく強くまっすぐに、自分が笑っている。沢山の笑顔。いくら描いても足りないと思ったのか、筆致は急いで早い。勢いのある線が自分の満面の笑みを描き留め続けている。日付はミシュアで別れた日だ。砂浜でこれを描いたのだろう。
 エミル、とクインは呻いて画帳を閉じた。正視は難しかった。何を失ってしまったのか、はっきり分かったのだ。エミリアは確かにクインの希望かそれに近いものだった。彼女は全身全霊を籠めて自分への慈悲を描いてくれた。これほどまっすぐで堂々とした視線を、何の含みや翳りもない笑顔を、クインは鏡の中にさえ見つけることが出来なかった。それを簡単にエミリアは掴みだし、紙の上に広げて見せてくれている。
 大丈夫よ。エミリアの優しい声がした気がして、クインはゆっくり身体を寝台へ横たえて画帳を抱き寄せた。彼女の代わりにこれを抱いて眠りたかった。暖かさは同じだ。そう信じればかなう。大丈夫よ、大丈夫よ……エミリアの声が遠く歌っている。彼女の世界を抱いて、クインはゆるやかに微睡みへ漕ぎ出した。
 目が醒めたのは夕方近い時間だった。差し込む日が赤い。気付くとチアロが出し放しにしていった椅子で、ライアンが画帳をめくっていた。身じろぎするとクインが起きたのを分かったのだろう、画帳を閉じて足下へ置く。
 クインはじっとライアンを見つめた。ライアンも同じように自分を見つめ返してくる。彼とこうして視線を意味無くかわすのは本当に久しぶりだと思った時、声が聞こえた。
「済まなかった」
 うん、とクインは長い吐息と共に言った。チアロは言わなかったが、自分の怪我は殆どをライアンの暴力がつけたものなのだろう。それをさせたのは自分だ。あの瞬間瞬間のことを時系列立てて思い出すことは出来そうにないが、ライアンの傷だと知っていてリァンの名を持ち出し、そこに爪を立てたのは自分なのだ。
「あと二十日もすれば右腕の包帯は取れるはずだ、医者がそう言っていた」
「うん」
「足はひねっただけだから、もう大丈夫だとも」
「ああ、うん……」
「……済まなかった」
 ライアンの声が呻くように言った。そこに籠もった深い慚愧にクインはもう一度、うんと返事をした。ライアンが自分の額を指でなぞり、頬に触れる。傷は残らない、と言われてクインは目をしばたき、そういえば自分で左の頬をひっかき下ろしたことを思い出した。
 クインはそれにも頷き、ライアンの置いた画帳へ視線をやった。泣いた痕跡も残っているだろう絵を見られるのはひどく恥ずかしく、そして居たたまれなかった。自分が何をエミリアに求めていたかまでを見透かされそうだ。
「あの女の絵だな」
 ライアンの言葉には抑揚がない。これはいつものことだったが、急に不安がこみ上げてきてクインは左腕を伸ばし、ライアンの服の裾をつまんだ。握りしめたかったが、無事な三本の指ではそうするしかできなかった。
「彼女には手を出さないで……お願いだから」
 必死の思いで口にした言葉に、至極あっさりとライアンは頷いた。その反応の早さが却って不安を呼んでいることに気付いたらしく、大丈夫だと付け加える。
「俺はチアロに任せた。だからあとは奴に言え」
 クインは頷いた。チアロに一任した時からライアンはエミリアのことを手にかける気はなかったのだろう。むしろ、その気がないからチアロに任せたということも言えるはずだ。チェインでは特に頭目の面目が重要視されている。エミリアのことを知りながらライアンが彼女を放免したならば甘いと言われる種類であろう。チアロならば、まだ目立たない。ありがとう、とクインは呟いた。ライアンは頷き、それと、と続けた。
「オルヴィはお前の身辺から外す。お前とは本当に駄目だな、まるで合わない」
 そんなことを今更気付いたのかとクインは呆れかえる。ライアンは溜息になった。
「別に俺の愛人だからという理由でお前に添わせていたんじゃない。だが、どうやら無理のようだ。今後はチアロのところの子供が来る。オルヴィがしていた仕事はディーに割り振る。ディーの方がまだましだろう、お前にとってはな」
 クインは曖昧に頷いた。どちらがより嫌いかということになれば、確かにディーの方がオルヴィよりも数段はましだったのだ。クインが頷いたのを見て、ライアンはそれと、と付け加えた。
「それと、ディーに礼を言っておけ。奴が止めなければ俺はお前を殺していたはずだ」
 それにもクインは頷いた。記憶のどこかで殺す気ですかと怒鳴っている声を知っている。あれはディーだったのだろう。彼がライアンを止めたのは自分へのいたわりなどではなく、基本的にはライアンがその意志で庇護していることを急激な怒りのために破綻させることをためらったせいだ。それがすらすら理解できるが、助けられたのは事実であるらしい。分かった、とクインは小さく言って目を閉じた。
 ディーの思惑を指摘して毒づく気力は既にどこにも見あたらなかった。すっかり何もかもが燃え落ちて、残っているのは温かな記憶の気配だけだ。全てを失って茫然としている。ここにあるのは脱け殻のようなものなのだ。エミリアが去り、再び世界は薄暮へ落ち込もうとしている。彼女の希望という言葉がなければ、既にくず折れていたかもしれない。
 エミル、とクインは呟いた。その瞬間に、瞳が潤み出す。その熱さに耐えられず瞬きをすると、涙がこぼれて頬をかすめていった。むず痒い感触を嫌って枕に頬を押しつけていると、それを大きな手がゆっくりと撫で取っていくのが分かった。
 クインは目を開けてライアンを見る。自分を見やる彼は自分と同じ程度に傷ついたような表情をしていた。クインをこうして寝台に送り込んでしまったのは彼自身だった。そのための痛ましさを簡単に表情に見つけることが出来る。クインは混濁した記憶の中に残っているライアンを巻き戻し、あんた、と呟いた。
「笑ってたよね、ライアン……俺を殴りながら、笑ってた」
 ライアンの指が一瞬ぎくりとしたように止まり、そしてややあって再開する。そうらしいなという声にはひどい悔恨の影があって、クインをやや落ち着いた気持ちにさせた。
「多分、お前を殺せるのが嬉しかったんだろう」
 ライアンの返答に、クインは吐息で笑う。
「倒錯してるね」
「本当だな」
 ライアンがゆるく笑うのが聞こえる。それに合わせるようにクインがそっと笑うと、ライアンは涙をぬぐっていた手をクインの髪に置いてゆっくりと撫でた。
「だが、お前が死ななくて良かった──自分でしておいてと思うだろうが、時々自分で歯止めが利かないことがある……済まなかった、殺してしまうところだった……」
 彼の声が吐息のようにかすれて消えた。クインはライアンを見た。年長の男はクインの髪を撫でながらどこかで放心したような表情をしていた。過剰な安堵のためなのか、それともその余韻を引き戻して怖れているのか、いずれにしろクインに手をあげたことを痛みとして覚えている。
 いいよ、とクインは言った。彼を怒らせ挑発したのは自分だったのだ。あの瞬間、殺されてもいいとさえ思っていたはずだ。ライアンがリァンへの追悼に縛られて身動きが取れないことを誰よりも苦く思っているのは本人なのかも知れないと初めて思う。
 けれどそれを責めてしまうのは、ライアンの視線が自分だけでなく、例えば彼に忠実で明るい友人のことも見ようとしないからだ。チアロはいいよと笑っていたが、彼の胸内を思えばただ切なく、哀しかった。
「いいよ、分かってる……あんたには特別はリァンだけで、俺も他の奴も誰もそこに入れる気がないんだ」
 クインの言葉にライアンは苦く笑い、長い溜息をついた。
「……リァンの替わりはいない。誰であっても。お前に何を言われても、それを譲る気はない……彼を信じているし、信じることを信仰と呼ぶなら彼は俺の神だ──死んでしまった今でも」
 僅かに何かを思いだしたのか、ライアンの目元が痙攣した。目にあるのは未だに癒えないままでじくじくと膿続けている傷であった。クインはそう、とその目の影を見つめながら言った。
「淋しいね」
「そうだな」
 ライアンは少し笑い、けれど、と続けた。
「けれど、今を生きている奴らを厭うていることはない。チアロのことも、お前のこともな……ただ、俺は求められるのに慣れていない……のだと思う。欲することは知っていても、どう受け取っていいのか、分からない」
 クインは頷いた。ライアンはまだ子供と呼べる頃、ろくな記憶さえ残っていない頃に母親に身売りされて厳しい環境を生きてきたと聞いたことがある。最も最初に与えられる無償の愛情は母からの慈雨だ。彼はその経験が殆ど無いのだろう。歯痒いね、と言うと、ライアンはそうかと頷いた。
「そうか、歯痒いか。……そう、なのだろうな多分……けれど、お前が苦しむのは俺にも辛い。どちらが辛いかは良く分かった」
 クインはじっとライアンを見つめる。薄暮で次第に視界の悪くなる世界の中、ライアンは確かに目を伏せてクインを見ていた。
 この視線だった。自分を案じ、心を推し量ろうとする目。ライアンが自分を気にかけているのだという事実に突き当たり、クインは瞬きをした。焦がれるほど欲しかったはずなのに、なだらかに満ち足りた気持ちになっても歓喜とは遠い。エミリアのくれるはずだった安息とは、これは決定的に何かが違うのだ。
 エミリア、と湧いてきた言葉を呟くと、ライアンがあの女か、と低く言った。
「忘れろ。お前が忘れてやることが、あの女のこれからを保つ。二度と会うな」
 クインは返答をせず、肩を震わせた。一度は引き込んだ涙がエミリアの優しさの追憶に触れて再び零れだした。
 エミリア。好きだったのだ。どんな依存であっても甘えであっても、その腕に巻かれて心跳ねるほど嬉しかった。愛かどうかは分からない。恋していたという確信もない。けれど、母親から離れて初めてクインのために胸をさらけて好意を見せてくれた、貴重な時間だった。
 エミルと泣きながら呟いたとき、ライアンがその涙へ唇を寄せた。泣き火照った肌にはそれは一瞬震えるほどに冷たい。やめろ、とクインは唸ってどうにか動く方の腕でライアンを押しのけた。
「やめろ、俺は、もう……」
 ライアンの関心は要らないのだとは言えなかった。けれど、エミリアとのことの埋め合わせだとするなら酷く傷つくとしか思えなかった。ライアンはクインが飲み込んだ部分を察しているのか何も言わずに体を離し、そして置き捨ててあったエミリアの画帳を手にとった。
 足早に部屋の隅にある石の暖炉に立ち寄って中へ放り込む。たまっていた去年の灰が舞った瞬間に、何をしようとしているのかを悟ってクインは喘いだ。やめろと呻いた声が既に潤んでいる。
 ライアンは振り返らずに、腰に吊った煙草入れから火種石を取り出して躊躇わずに火をつけた。クインは自分のかすれた悲鳴を聞いた気がした。エミリアの全てがあっという間に燃えていく。
「忘れろ」
 ふと気付くとライアンがクインの側にいて、震える体をきつすぎないように抱いていた。その腕に縋るようにクインはじっと暖炉を見つめ、喘いで身を折る。ライアンに力の入らない身体を預けたまま、全てが燃え尽きるのを見るように言われて黙って画帳の末期を見つめた。
 エミリアとの全てのことが、今炎の中に消えていく。最初から幻だったように、何もかもが燃えてしまう。涙が出る。
 それを惜しんで泣き叫んでいいのか、それとも理不尽だと声を荒げていいのか、それとも麻痺したように茫然としていることを悲しめばいいのか、まるで分からない中で、クインはひたすら泣きじゃくった。
 黒ずんだ塊が最後にぼろりと崩れるとクインはライアンを押しやり、身体を寝台へゆっくりと戻した。片腕の痛みのためにひどく緩慢な仕草を見かねたのか、ライアンが一度抱き直して横たえる。その優しさに見える仕草が辛くて顔を背けると、ライアンが低く言った。
「忘れろ。全て無かったことだ──いいな」
 クインは首を振ろうとした。
「ライアンは、彼女の代わりに、ならないんだろう? 俺のことはどうでもいいと」
 言いかけた時、ライアンが不意にクインの唇を手で塞ぎ、涙の後へ口づけをした。ぴくりと身体が揺れる。自分が欲しかったものとは何かがずれていることを承知していても、それはひどくよく似た幻影だった。
「忘れろ。無かったことだ。最初から何もなかった。忘れろ、クイン。今から記憶を繋ぎ直せ」
 ライアンは口早に言って、それへの返答を拒否するようにクインの頬の爪痕に唇を落とした。クインは呻いた。息苦しさだと思ったのかライアンが、口を塞いでいた手を離す。それに大仰に呼吸をしていると、ライアンの唇が自分の頬を何度もついばむようにかすめた。
 目線をあげると瞳がかち合った。一瞬戸惑ったようなライアンの目にまっすぐ視線をあてながら、クインは彼の頬に触れて目を閉じる。手でゆっくりと導くと、わずかな躊躇いの時間をおいて、唇が塞がれたのがわかった。娼婦の世界の口づけは、貞操の意味だとライアンから聞いた。それを迷った律儀さがひどくおかしい。
 そしてエミリアと最後までキス一つさえしなかったことに気付き、クインは急にこみ上がってきた何かと、その何かを忘れるために無事な方の手をライアンの首に巻き付けた。ずるずると曖昧になる世界の中で、自分の声は確かに啜り泣き、泣き続けていた。
 それはこの夏を葬るための鎮魂歌であるように耳に響いた。
 しゅっという空気の音にカノンは背後へ跳躍した。銀の線が一瞬後に自分の残像を斬る。微かにあがってきた相手の呼吸を聞きながら、カノンは繰り出された切っ先を待ってぎりぎりのところで身をかわし、行き過ぎて僅かにたたらを踏む子供のうなじを指で軽く突いた。
「これで15回目のご薨去です、殿下」
 ふっと振り返った子供は照れくさそうに笑い、カノンから離れて大きく深呼吸をした。
「やっぱり駄目だね、まだ全然足りない」
 そんな事を言う口調に淡い悔しさや苦笑めいたものは浮かんでいても、激しさはない。自分の力量の不足についてこの皇子はよく知っているようだし、今の時点でまったくカノンにかなわないことを当然と受け止めているようだった。
「どうなさいます、もう少しお相手いたしましょうか」
 カノンが言うと、皇子は多少考えるような時間をおいてから首をかしげた。
「お前は? 僕はいいけど、お前の方は仕事はいいの?」
「これも仕事でございますよ」
 カノンは仮面の下で淡く微笑みながら言った。軽く咳払いする。
 この1月ほど、カノンはタリアから離れて魔導の塔にあった。変声期という時機に相当する魔導士はあまり仕事には従事しない。魔導が結局人の声を媒介として力を引き出し効果を組み合わせるものである以上、声変わりする頃には何もかもが辛いのだ。
 その期間は役目を特免されて魔導の塔に籠もり、師匠の魔導士について研究の助手などを務めるのが普通である。カノンも例外ではなく、こうして塔に戻って声が落ち着くまでは待機ということになろう。
 カノンの返答に皇子は軽く声を立てて笑った。第1正妃イリーナとよく似た面差しは愛らしく整っていて、やや紫のかかった深い青の髪と同色の瞳が朗らかに人なつこい。それがシタルキア皇国のライン・アミネス第4皇子であった。
 母妃が溺愛するという話は小半時ほどですぐに納得が出来た。第1皇子であるリュース・クインはおとなしく控えめで万事ひっそりしているが、こちらは明朗さと嫌味ない甘え方を持っている。これほど素直になつかれると、なるほど愛しいものなのだ。
 ライン皇子にどうやら剣士としての類い希な才能があることは2、3年前から次第に明らかになってきており、既に成人前の子供たちは相手にならない。近衛騎士と混ぜてみても遜色がなかった。無論体力や腕力の問題があるからまったく対等というわけにはいかないが、あと3年もすれば公式の剣試合で実はかなりよいところまでゆけるのではないだろうかと言われている。公式試合は色を付けた剣を使う得点制だから、技術をより試されるのだ。
 息子の才能を誰よりも喜んでいるのは母親であるイリーナ皇妃で、近衛に預け、そこでも頭角を現す気配を知ると、今度は更なる鍛錬の為に魔導士を要請した。魔導士は魔導の力を借りて時間をより多くの区切りとして掴むことが出来る故に、一般の人間からみえば驚異的な身の軽さを誇っている。
 その役目がカノンに回ってきたのは彼が現在待機期間中であることも理由の端に噛んでいるが、何よりもその第1皇子の護衛魔導士マルエスの推薦が大きい。カノンが以前からタリアの赴任に心浮かないことを知っていて、未だに護衛魔導士を持っていない皇子の相手役ということで相性を見るようにと魔導士の管理をひきうけている塔の長老会に進言してくれたのだ。
 その言葉のおかげで、とりあえず変声期の待機期間はライン皇子の側にいる事が出来そうであった。塔や魔導の研究会で会えたら一言礼を言いたかったが、マルエスはリュース皇子の用事とやらで多忙を極めており、対面する機会が未だに無かった。
 ではあと少し、とライン皇子が言った。この冬に11歳になるはずの少年であったが、皆が口を揃えて言うように確かに筋がよく、本人も熱心だ。強くなること自体が面白いのだろう。皇子が剣を構えて最初の距離を取る。カノンはどうぞ、と言った。
 皇子が軽く呼吸を切って低く駆け出す。皇子が横に払った模擬剣をふわりと飛んでかわすと着点を見定めていたように彼の胴を狙い、正確に剣がはしった。
 カノンは模擬剣の中程を押さえるように足で蹴り、皇子の脇へ回る。均衡を崩した皇子がそれでも受け身をとりながら鮮やかに回転し、勢いのまま素早く立ち上がった。
 カノンは彼の突きを軽くかわし、するりと皇子の背後に回る。と、皇子はそれに会わせるようにかかとでくるりと体を入れ替えた。軸にならなかった右足で剣練所の石床を蹴り、カノンの羽織る魔導士の長衣めがけて突っ込んでくる。絹一枚というあたりでそれを避けながら、カノンは人々の言う皇子の才能というものをつくづくと思い知った気分だった。
 本気かと問われると微妙だが、決していい加減に相手をしているわけではない。なのにほんの1刻前にはまるで届く気配さえなかった皇子の剣が、次第に自分に近いところをかすめるようになってきている。飲み込みの早さと勘の良さ、そして殆ど驚異的というべきはその反射神経なのだろう。
 魔導士とまともに戦うことが出来るならば国内一級の戦士であると結論してもいいが、カノンはそんな相手を数人しか知らない。……そしてそのうちの一人が現タリア王アルードであることは決して偶然などではないのだった。
 斜めに切り下ろした剣の軌跡をくぐってカノンは皇子の正面へ潜り込む。皇子はほぼ真横に飛んでそれをさけ、着地の反動を利用して逆にカノンの胴横に剣を滑らせた。鋭い一撃をカノンは軽く飛びかわし、皇子の背中側へ降りる。皇子の反転は早い。その動作の機敏さだけでも、恐らく本当にこの子供は強くなると確信が出来た。
「殿下、こちらへ!」
 カノンは軽く手を挙げる。もっと打ち込んでこいという言葉に皇子は小さく頷き、剣を繰り出した。剣を振り回すというような大味さは微塵もない。手首も強そうだ。腕から肩にかけての筋肉を使う基礎の部分と、手首の角度で剣を操る小手先の技術の両方を、皇子は均衡良く使っている。
 皇子の一撃をひらりとくぐって体を返したとき、別の魔導の匂いがした。魔導を身に帯びる者が近くにいると、身体能力の補助や向上のために自らに施している魔導の波長が空気を歪めて伝わってくるからすぐに分かる。魔導の塔には現在120名ほどの魔導士がいるが個々によって波長は違うから、知人であるなら判別が出来た。
 カノンは打ち込まれてきた皇子の剣にすれ違い、その首筋を軽く叩いた。
「───16回目です、殿下」
 勝敗を宣言するとライン皇子はそうだね、と屈託無く笑った。
「やっぱりまだ追いつけないなあ……カノン、だっけね。もうしばらくは来てくれるんでしょう?」
 この相手役が暫定であることは知らされているのだろう、ライン皇子はそんなことを言った。カノンは頷き、でも本当に筋がおよろしくて驚きましたと付け加えた。
「……いずれ私の方も自分を鍛錬しておきましょう。が、殿下、お迎えですよ」
 ライン皇子の手から練習用の模擬剣を受け取りながら、カノンは魔導の気配の方を振り返った。あ、と皇子が明るい声になる。手を挙げて勢いよく振りながら、兄上と叫んだ。
「兄上! 兄上、いらしてたんですか?」
 剣練所を見下ろす観覧席の中程にぽつんと座っていた人影が立ち上がり、ゆっくりした歩調で階段を降りた。簡単に観覧席と剣練所を区切る鉄格子の腰高柵越しに、ラインと呼ぶ。兄の元へ走り出す、跳ねるような歩調の軽やかさにカノンはそっと仮面の下で微笑み、模擬剣をその場において歩き始めた。
 同母の兄弟は頬を寄せ合うようにして密やかに何かを言い合ったり笑いあったりしていた。その様子は少女たちがじゃれつくような、甘やかな秘匿を描く一枚絵のようによく空間に収まっている。二人とも繊細な面差しと高貴を感じる空気を、皮膚の一部のようにごく自然に身に帯びていた。
 カノンはそっと近づき、ライン皇子の背後へ膝をついた。リュース皇子がちらりとカノンを見た気配がした。大仰にならぬようにしながら頭を下げる。兄の視線に気付いたのだろう、ライン皇子はカノンというんです、と朗らかな声音で彼を紹介した。
「魔導の塔から来てくれて。……ええ、そう、全然かないません。剣、当たりそうで当たらないんだもの」
 自分の言葉にくすくすライン皇子は笑った。カノンが皇子の集中力を持続させる為に、わざと回避の瞬間をぎりぎりまで待っていることは分かっていたらしい。
 弟の言葉に淡く微笑んだリュース皇子は相変わらず、確かに辺りを圧倒し気配を染め変えるほどの美貌の主であった。嫌味なく明朗で素直という美徳に恵まれたライン皇子の持つ、温かで人なつこい空気とは違い、この兄皇子の方にはひんやりと他人を距離をとる、夜の空気がある。類い希な美貌であることは確かだったが、それは線の細い人形のような脆さと繊細さから無縁ではなかった。
「カノンと言ったね。ラインを宜しく頼むよ」
 弟の頬を軽く指で撫でてやりながら、リュース皇子が言った。御意のままに、とカノンは更に頭を下げる。リュース皇子は頷き、弟皇子に向かって切り上げを促した。太陽の熱が既に弱い。黄昏が近いのだろう。
 皇子二人が何事かを話しながら遠くなっていく。カノンは膝をついたままで十分に遠ざかるのを待ち、立ち上がった。模擬剣を詰め所へ返してから魔導の塔へ戻らなくてはならない。タリアにいない時にはそこが彼の戻る巣であった。
 魔導の塔の魔導士たちには基本的には個室が与えられる。魔導士となるまではその師匠の部屋住となって資格を取るまでは出ることを許されないが、魔導士の試験に通ればあとは比較的、個人の生活は自由だ。
 カノンは自室に入って鍵をまわす。そして大きく呼吸をして仮面を取り、束ねて頭巾へ押し込んである髪の戒めを解いた。黒い髪がふくらむように流れ落ちてくる。カノンは首を振ってそれを軽く払いのけ、仮面を机においた。瞼の上から目を押さえる。
 魔導士の仮面は個人情報の秘匿を目的にして作られていて、魔導士の試験に通った時に師匠から贈られるものだ。大抵は師匠が周辺の気配や風景を直接脳髄に送り込むための魔導を施しているから、目で物は見なくとも直視しているのと同じ程度に現実を知覚することが出来た。白銀のなめらかな表面の額には階級を示す紋様が描かれ、内側にはカノンという名が彫られている。
 カノンか、と少年は苦笑した。その名は魔導士としての名前であって、本名は別に存在しているはずであった。けれど、カノンはもうそれを思い出せない。鏡をちらりと見れば、あの第一皇子にうり二つとはいえないが十分に似通ったものを見いだせる、端正で美しい面輪がそこにある。
 父親と一緒にいた頃、父が自分を連れ歩く先々で少女と間違えられたり、近所の女たちが自分を可愛いとほめそやしたり、そんなことがたくさんあった。年齢は確か、───確か、今、15か6だったはずだ。この魔導の塔に連れてこられた時が6歳だった気がする。
 但し、カノンの記憶は既に涙の向こうの景色のように歪んでぼんやりした色彩の塊になりはてている。自分の本名も、年齢も、住んでいた場所も、何もかもを生活に追われていく内に忘れてしまった。これは子供の頃に塔に連れてこられた魔導士にはさほど珍しい現象ではないらしいから、気に病んだことはない。
 それに、ほんのいくつか覚えていることもあった。
 たとえば、自分に母親がいなかったこと。確か……多分、最初から、いなかった。
 父親がいて、とても優しくて背の高い人で、その父に連れられて色々な土地へ行った気がする。父は時折何かに怯えたように自分を抱いて、自分の名前を呼んでいた───もう忘れてしまった、その名前を。
 お前には大変な運命を与えてしまった。けれど自分に正しく、人に優しく、そして世界に正直に生きていきなさい。いつかお前に私とお前の母親のことを話さなくてはならない。それは私と彼女の罪の話でもあるが、けれど、お前をこの世に生み出した真実を私はきっと話すはずだから───
 父の言葉の抑揚や優しい声音は見つかるのに、そこに語られているはずの自分の名前が良く聞こえない。カノンは鏡の中で気難しく眉根を寄せている自分と目を合わせながら、じっくりと胸の中の記憶をまさぐり出そうとした。
 途端、目の前に火花が見えた。はっとカノンは顔を上げる。これ以上はどうやら禁戒に触れるようだった。    
 魔導士に科せられた禁戒は、実はたった3つしかない。
 素顔を含む全ての個人情報は秘匿されること、たとえ何であっても主人の命令には従うこと、そして長老会の決定に服すること。この3つだけが魔導士を縛る。どこからどこまでを不服従とするのかの境界線は常に曖昧に推移しているが、禁戒に触れればそれはすなわち死であった。法文には「処分」と記される。魔導士は物と同じであるのだ。
 そして自分の過去はどうやら自分でも知ってはならないようだった。それに対する疑問は自分でも驚くほど小さかった。何がどうしたところで、自分の現実と未来が変化するわけではない。
 カノンは魔導というものに対して馴染みが早かった。魔導の塔に来てから4年で魔導士たる資格を得たが、これは魔導の塔の記録に残るほどのものだ。どんな呪文でも構成でも、泉が湧くようにどこかから彼の中にわき上がってきた。
 それが才能なのだと師は嬉しそうであったが、その師ももういない。カノンが資格を取った翌年に南大陸の雄であるフィアラーズ帝国へ出向を受け、出先で事変に巻き込まれて処分されたのだ。カノンを天才だと喜んでくれた師の死は辛かったが、その後に拝受した辞令はタリア王の側近としてのタリア出向であった。
 正直、カノンはタリア出向を喜んだことがない。魔導士を要請するのにも莫大な金額や資格や推薦がいるが、その代価を支払った主人には文字通り命をかけて忠節を尽くす義務がある。魔導士たちの間で一番希望が高いのは皇族の護衛だが、これが恐らく最も安寧に余命を保つことの出来る仕事であった。そしてタリア王の手足となるならば対極といってもいいだろう。
 タリアには抗争が多い。タリア王の交代のときはもちろんだが、そうでなくても各派閥や末端の支配領域の諍いなどは珍しくなく、自然沢山の危険を身近にしなくてはならなかった。主人の命を全うできないと魔導の塔に報告されれば処分、そして服命を拒否しても処分、だからおとなしくタリアへ行くしかなかった。
 タリア王アルードが今のところ子供である自分に多少気遣いを見せているのか、命じられる仕事が困難すぎることがないから助かっているが、もしタリア王の交代が囁かれるようになれば、今のように安穏としていることは出来ないだろう。
 将来的にタリア王を狙うことの出来る位置にあるのが、今はライアンという男一人だから暗殺でも命じてくれればいいのにと思わなくはない。正直、やり遂げる自信はある。接近戦では苦労するだろうが、そもそも魔導で身体の能力をそいでもいいし、炎で焼き払ってもいい。
 けれど、アルードは命じようとはしなかった。実際そのライアンを至極便利に使っているのだから、今はまだ価値があると思っているのだろう。主人の思惑に口を挟むことは禁戒ではなかったが歓迎はされなかった。だからカノンは黙っている。わざわざ仕事を作ってし損じることがあれば、それは自分の生命に直接関わる危機となる可能性があるからだ。
 カノンは微かに溜息をついた。魔導士として生命をまっとうしていくことは難しいことではなかった。彼は物事の飲み込みも理解も人より早かったし、魔導に関しては飛び抜けて優秀であることは自負している。
 多分、長らえれば史上最年少で長老会へ入るだろう。いくつか掛け持っている魔導の研究会のどこでも、彼は同志たちから感心と賞賛を受け取っている。
 けれど、その先に一体何があるのかカノンは上手く捕らえることが出来なかった。一体自分が何処から来て何処へ流れていくのか、うすぼやけた過去と不鮮明な未来しか思い描けないときには、そんなことをぼんやり思う。父や幼い頃の記憶が曖昧であることも、きっとそれに拍車をかけているのだろう。
 カノンがそんな根拠のない推論に一人頷いていると、自室の扉がこつこつと叩かれた。扉を開けずに返事をすると、外からの声が言った。
「魔導士カノン、在室か」
 聞き覚えのない声だが、呼び出しは魔導の塔専属の奴隷と決まっている。あちらが敬語を使わないのは、自分たちの方が奴隷よりも更に下層の身分に位するからだ。
「今、装束を解いています。何用ですか」
 扉に近く立って言うと、外の声が長老会の呼び出しを告げた。先日出しておいた転任の申請に対する回答が出たのだろう。辞令は同時期に申請をした魔導士たちとまとめて伝達が行われる。
 髪をまとめて色が見えないように頭巾へ押し込み、仮面をつけてカノンは外へ出た。外には既に呼び出しの奴隷はいなかった。伝令が済んだことで自分の他の仕事へ戻ったのだろう。
 呼び出された議事廷には既に長老会の構成員である上級魔導士たちは見あたらなかった。他の魔導士の影もまばらで、支度をしている間に終わってしまったらしい。人数が少ない時はそんなこともある。
 だが、カノンは自分を待っていたらしい年長の魔導士にすぐに気付いた。さきほどもリュース皇子の側に、姿は隠遁させていたものの随従していたことは分かっていた。魔導士ならば魔導士の気配をすぐに感じ取る。
「同志カノン、来たか」
 マルエスがゆらりと身体を彼に向けた。
「同志マルエス、お久しぶりです。先ほどは挨拶もせず」
 マルエスはうむ、と頷いた。彼の年齢はもちろん分からないが、階級としても魔導士としての経年もカノンの先達というべきであった。治癒に関わる魔導の研究会で同席する以外にはあまり見かけないが、マルエスの場合は主人であるリュース皇子自身が魔導に良く通じていることもあって、皇子の相談役としても努めているようだから忙しいのだろう。
「我も隠遁していたおりゆえ、構わない。それより、長老会からの裁定を預かっている」
 マルエスが差し出した文書を受け取り、カノンは巻き留められていた紐をほどく。たらりと下がった辞令書には、長老会全員の魔導印と長老会決定の朱印が押してあった。
『同志カノンの申請について長老会で検討した結論は以下である。却下』
 カノンは長い溜息になった。変声期の待機期間が終わり次第、再びタリアへ戻らなくてはならない。落胆したカノンの肩を、マルエスが慰めるように叩いた。
「気落ちするな、同志カノン。同志がタリアで暗殺と諜報だけをさせておくにはあまりにも惜しい人材である旨、いずれ折を見て我から殿下へ申しあげよう」
 マルエスの言う殿下というのは、彼の仕えるリュース皇子であろう。カノンは頷き、ありがとうございますと呟いた。マルエスはいや、と仮面の下でそっと笑ったようであった。
「それに、ライン皇子の護衛役は決定していない。……良い方だろう?」
「ええ、とても。何というのか、育ちがよいというのはああいうことなのですね」
 他人を疑ったり憎んだりすることを知らないような、明るい無邪気さが眩しい。人である以上は幼いながらも様々な感慨は胸にあるだろうが、他人にそれを気取らせないのが自然であった。
 マルエスは頷いたが、それ以上を口にしなかった。進言しても受け入れるかどうかはリュース皇子の判断一つであり、またリュース皇子からの要請があったとしても長老会が否決すればかなわないことである以上、これから先は不確定な事柄ばかりだ。
「まだしばらくはタリアへ行かなくてもよいだろう。ならば、ライン殿下のお相手をつつがなくやりとげることだ」
 マルエスの言葉に頷いて、カノンは辞令書をきゅっと握りしめた。あの赤い格子の迷路の奥に自分にとっての何かがあるとは、彼は到底信じることが出来なかった。
 リィザは黒く広がる自分の髪の海からのろのろと身を起こした。百合の造花の花弁が撲たれた拍子に散ってしまったらしい。白い布地の破片が黒髪の中の小舟のように落ちている。折角の花だったのに──
 ふと浮かんできた涙を指で押さえ、リィザはぴくりと肩をひきつらせる。指の触れた箇所が鈍く痛んだ。
「ごめんね……」
 誰へ向かうでもない謝罪を呟きながらばらばらに解かれてしまった花をかき集める。うてなの辺りへ縫いつければ元に戻らないだろうかとしばらく花弁をあれこれあててみるが、途中からちぎれてしまったものはともかく、根から外れてしまったものはどうにもなりそうになかった。
 リィザは掌に安い綿地の花を握りしめる。爪の裏が淡く痺れて、その痛みで涙がまた上がってくる。唇をきゅっと結んでしばらく耐えていたものの、やがて唇の方から弛んで嗚咽になった。
 何故殴る男に出会うのか、ということについては自分のせいだ。怯えがちな性格や臆病な気質はそれを煽るためのものであって、原因ではない。女将も、そして他の姐妓たちも口を揃えて言うことは、殴る男はどの遊女にも同じような確率で潜んでいて、ただその札を表にしやすい相手としにくい相手がいるということだ。
 狩られる子鹿、あるいはか弱い雛鳥。保護欲をそれで見いだす男もいる替わり、弱いというだけで荒く翻弄したいと舌なめずりする男もいる。そういうことなのだろう。でも、だったら、どうしたらいいの……どうしたら、どうしたらどうしたら!
 ふっと胸の中に湧いてきた一瞬の激しさにリィザは自分で怯えた。そんなことを思ってはいけない。自分以外の全てのせいにしてはいけない。この妓楼で一番実入りが少なくて、時折強かに顔を打たれてはしばらく店に出られないなどということを繰り返しているのだから、原因は必ず自分の中にある。
 客が殴る理由は様々だ。曰く、歓待が悪い。もっとはっきりものを言え。苛々する──けれど一番辛いのはそんな罵倒ではなく、暴力でもない。笑え、という言葉が一番胸を痛くする。
 それが特に、命令ではない、優しい声であったりした時は。
(少しは笑ってくれないか)
 自分の頬に片手をおいて額同士を触れ合わせながら彼が言った時、どうして微笑むくらいが出来なかったのだろう。優しくされて、丁寧に扱われて、なのに何故、唇をほころばせることくらいが出来なかったのか。
 一所懸命にそうしようと頬を動かしていると、遂に彼は苦笑した。いいんだと言われた瞬間、絶望のような薄い黒雲が胸の中に広がっていくのが分かった。それがひどく安堵と似ていたことが更に沈鬱な気持ちにさせる。
 リィザはゆるく首を振り、造花を掴んで立ち上がった。まだ打たれた側の耳奥がにぶく反響を繰り返しているような気がするが、部屋の片づけなどもしなくてはいけない。
 天窓を見上げればそこには半分に足りないほどの月とゆるゆる流れていく雲、そして仄かに赤く光る硝子板があった。タリアの闇は妓楼が表に焚いていた篝火を一斉に落とすため、意外なほど青い。だからまだ早い時間といえた。
 リィザは造花を自分の衣装棚の奥へしまい、化粧台の鏡を見やった。殴られた箇所は少し赤くなっているが、痕跡が残るほど酷い物ではなさそうだった。少し冷やせばすぐに元のような肌に戻るだろう。ぼってりした腫れはあるが、口の中に血の臭いはしなかった。
 散らかった割れ物を拾っていると、女将からの呼び出しがあった。どうやら先ほどの客は女将にひとしきりの苦情を言ったらしい。いつも女将がぼんやりと煙草をしている応接間へ行くと、来たね、と苦い顔をした。
「さて、同じ事を何度言ったらいいのやらだね、お前には」
 呆れ半分の言葉には、明らかに次第に加算されていく苛立ちが滲んでいる。リィザは身を縮め、項垂れた。謝罪は既にその度に呟き続けていて、口にすることさえ躊躇われるほどだ。だから殆ど言うべき事はない。じっと俯いて、女将の諭すような声音を聞いている。
「怖がっていても仕方ないのは分かるだろう? 何がそんなに怖いんだ、暴力、それとも他人? 何だっていいけどお前だけがこんなにしょっちゅう酷い目に遭うんだから、もう少し何とかおし」
 リィザは黙ったままでこくりとする。女将の言うことは尤もで、反論など出来る余地がなかった。女将はやれやれと呟きながら煙草に火を入れ、深く一服している。女将の胸内を完全に知っているわけではないが、リィザばかりが酷く手痛い目に遭うことを商売ぬきで案じてくれていることは分かっている。───少なくとも、そんな気配がする。
「全ての男が優しくて人格者だったらこんな商売はあがったりだけどね、しかし全員が酷い男でもない。大体は、人の中に割合の多少で両方あるもんさ」
 リィザはまた頷く。女将の言葉は分かりやすく、よく胸に通った。通るゆえに重いこともある。頷きこそすれ、返答は出来なかった。
「好きな男を作れ……と無理には言わないけど」
 じいっとリィザの様子を見ていたらしい女将は煙草の煙を溜息に混ぜて吐き出した。
「でもね、もうちょっと客に愛想良くして気に入って貰わなきゃ、本当のところはお前が一番辛いはずだよ」
 それも良く理解できる言葉ではあった。リィザは小さくはいと答えた。誰も苦痛を代理にすることは出来ない。リィザの苦役を解消するのはリィザ本人しかいないのだ。だのに、それをどうしていいのかが分からない。今のままでは良くないことだけが分かる。
 それ以上をリィザが返答しないことに女将はゆるゆると首を振り、煙管の火を小皿で切った。
「……あんまり気を張りすぎても良くはないんだろうけど。そうだね、もうちょっとゆったり構えてご覧。それだけで大分違うはずだから」
「はい……あの、努力します」
 女将はその言葉に何故か哀れんだような笑みを浮かべ、そうねと曖昧に頷いた。どうしたのだろうとリィザが口を開こうとした時、部屋の扉が叩かれて小間使いが顔を出した。
「母さん、あの、リーナ姉さんにお客さんが」
 ぴくっと肩が動いたのが自分で分かった。今諭されたばかりなのに、反射的に竦んでしまう。怖いのだ。結局のところ、殴る男でなくたって、全ては暴力なのだから。
 リィザの様子をちらっと見た女将が、煙管を勢いよく灰切り皿に打って立ち上がった。顎をつまんでさっと顔立ちの様子を確認し、大丈夫だねと頷く。
「部屋は大丈夫? そう、ならいいね。……旦那様をリーナの部屋へご案内」
 小間使いに指示をして、女将はリィザに自分の化粧箱を取ってくるように言った。女将の部屋からそれを持って帰ってくると、リィザを隣に座らせて化粧を手早く始める。慣れた手つきの確かな魔法はあっという間に鏡の中の少女を一段美しくしていく。
「お前の馴染みの旦那様はそれでもまだ少しはましだ、せめて機嫌良く可愛くして、優しくして貰いな」
 丁度その時リィザは瞼を薄く掃き始めた色粉筆のために目を閉じる。頷くことも首を振ることもしなくていい仕草に逃げ込んでいるのだ、という胸の中の呟きは小さくない。けれどそれに耳を貸してしまえば溜め込んできた澱みのような黒い物が流れ出してしまう気がして、それを無視している。
 やがて女将の手が紅筆をとって唇に色を差し始めた。これで返答さえしなくていい。唇を這うむず痒さ、紅特有のぬらりとした匂い、芸術品を仕上げるかのような潜めた息づかいの女将の気配。
 それらが急に遠くなってリィザが目を開けると、女将は化粧小物を箱へしまいはじめていた。リィザはぺこりと頭を下げて部屋を出る。裏廊下を通って自室へ入る裏戸をくぐると、見慣れた背があった。振り返り、軽く頷く目線が柔らかに微笑んでいる。殴る客に接した後だからなのか、今日はそれが特別温かな安心感となって胸底から溢れてくるようだ。
 リィザは何かの予感の為に思わず目を伏せる。それはやはり正しくて、制御できない涙がその途端にぽろぽろと流れ落ちたのが分かった。狭い部屋の寝台にもたれていたディーは黙ってリィザの腕を掴み、ゆっくりひきよせる。彼の筋肉の厚みと温度にますますリィザは彼の肩に顔を押しつけ、ひたすらに啜り泣いた。
「大丈夫だ、大丈夫、大丈夫……」
 呟く彼の声音の低い落ち着きにリィザは何度も頷く。人肌の温度を残しているほうの手が何度も自分の髪を撫でつけてくれるのが、気力の抜けるような安堵に変わって、次第にリィザの体の中に根を張り始めるのが分かった。
「どうした、辛かったか」
 気遣ってくれる声にリィザは曖昧に首を振り、ようやく止まり始めていた涙を指先で払って顔を上げた。
「ごめんなさい、あの、大丈夫です……ごめんなさい……」
 他の客の話は禁忌であったから理由を口にすることは出来ないが、ディーの方は何があったのかを薄々は察していたらしい。いや、と苦笑してリィザの頭を軽く撫でた。
「俺のことなら気にするな。お前はいつも俺に謝ってばかりいる」
 リィザは俯く。彼の言うことは事実で、それが元からの自分の性格から来る習性に上乗せされた後ろめたさであることは明らかだった。
 ディーのことを決して厭うているのではない。けれど彼の姿をこの部屋に見れば悲しくて切なくて、いつも結局は謝罪になる。いつか巡り逢うはずの魂の相手が、何故彼ではないのだろう。それは分かってしまうのだ、理屈ではない何かによって。閉じたままの身体も、硬く冷えたままの心も、そうなればいいというリィザの仄かな願いなど無視したように同じ所に居座り続けているのだ。
 ごめんなさいと呟くと、ディーは優しく、切なく笑った。
「いや、謝るな。謝らなくていい……今日はお前にいとまを言いに来たんだから」
 リィザは顔を上げ、ぽかんとディーを見つめた。男はリィザの頬に軽く触れ、あまり無理をするなよと言った。柔らかな笑みを浮かべた柔らかな声音には悪戯めいたものは何一つ無く、それが決別なのだと気付くのに一瞬以上の間があった。
 別離の言葉だと腑に落ちた瞬間に、リィザは小さく震えだした。どうしてとは思わない。自分のこの頑なで冷えた性質が結局、彼の忍耐の限界を超えてしまったのだ。
 それが申し訳なくて、ただディーに済まなくて、けれどそれを口にしたら尚更彼を傷つけるのではないだろうかという考えが言葉を奪ったようで声にならない。ディーの持っている空気はこの妓楼の生活の中で僅かにでも馴染めるものであったはずだった。それを失ってしまうのは恐ろしく、怖い。
 そう思う根が自分の心の安楽の為であることが、自分でひどく汚らわしくて厭わしかった。
「ごめ……ごめんなさい、私……私、ただ……ごめんなさい……」
 一度は収まったはずの涙がまた滲んでくる。ディーは少し笑って首を振った。
「俺といるとお前は辛そうだ──どんな時でも。お前はお前で辛いとは思うが、俺を心苦しく辛く思うなら、もう来ない」
 リィザは目を閉じ、瞳に積まれた涙が押し出されて落ちた。決定的な一言であった。ディーはリィザの心情を知っていて、見ぬ振りをしてくれていたのだろう。けれどもう来ない。リィザの痛みには2種類あるのを理解して、その一方を負担している自分を消してくれるのだ。
 ───それは、罪悪感という痛み。どんなに言葉も夜も重ねても、心だけは重ねられなかった罪へ向かう背徳の痛み。
 リィザは喉で呻き、両手で顔を覆った。日常は辛かったし、殴る客も酔って無理難題を押しつける客も、粘着に責め苛む客も辛かった。けれど、一番辛かったのは、確かに彼だ。
(笑ってくれないか)
 そんな容易いことさえ出来なかった。その罪が今、僅かな間だけでも心を安らけてくれたはずの男を遠ざけようとしている。何かを言おうとしてリィザはやめた。何を口にしても、今更の言い訳でしかないと分かっているはずだった。
「泣くな、お前が苦しく思うことはない……俺も、俺が本当にお前を好きかどうかなど、実はよく分からない」
 ディーは長い溜息をつき、苦い笑みになった。それは恐らく自嘲の為のものであった。
「俺は俺で、お前が絶対だと言うだけの材料がない。気に入っていたというなら本当だが、それ以上は分からない」
 淡々と告げる彼の表情に、翳りはなかった。リィザは頷いた。それは彼の真実なのだろう。嘘がないことは分かる。
「だから、もう来ない。……頑張れ、というのは妙な気分だが、息災でな」
 リィザはもう一度同じ仕草をした。ディーはやっと気持ちが落ちたように笑い、立ち上がった。義手はつけたままだった。彼は本当に、話だけしたら帰るつもりだったのだ。
 リィザは表廊下へ通じる扉を開けるディーの、がっしりした背を見る。この背にいくつかの傷があることは知っていた。傷、背骨の規則的なくぼみ、そして欠けた腕の痛々しさ。
 胸に巻き起こってくるのはやはり哀しみであって、狂おしい別離への拒絶ではない。それを彼も知っている。自分も理解している。
 最後に振り返ったディーの目はまだ優しくて、こんな場面に出くわしたことが殆ど無いゆえの困惑で、いっそ悲しく見えるほどだ。多分、自分も同じ顔をしているのだろう。ディーの表情を見ているとそう信じられた。自分たちは、同じ目をして同じ顔つきで相手を見ている。だから駄目だったのだ。
 ───同じ目つき。
 ぱたりと扉が閉まってディーの姿が見えなくなってから、リィザはぎゅっと唇を結んだ。
 優しさもいたわりも、相手への恋情とは関係がない。恋は全く別の炎だ。燻るだけでいっかな火のつかなかった気持ちを誤魔化すことなど出来そうになかった。
 ───同じ顔つき。
 リィザは化粧台の鏡を振り返る。そこにあったのは確かに優しく相手を思いやって慈しむ目であっても、全ての障害や困難を乗り越えても相手を巻き込み、さらっていく目ではなかった。
 遠い国の音楽のように、淡々と朗読が続いている。先ほどからカルアは隣で瞼の重さと必死で闘っているが、あまり抑制できないようだ。時々目を見開いたり大仰に頷いたり、眠ってはいけないという意識があるだけましなのだろう。
 本文の論旨がまとめに入ったのを聞き留めながら、リュースはそっとカルアの膝を揺する。はっと顔を上げた弟が慌てて口元のゆるい涎滴を拭い、照れ笑いになった。
 し、とリュースは唇に指を当てた。それと殆ど同じくして教授が朗読を終える。どうかねと問われてリュースは大変感銘を受けました、と取り澄まして返答した。それに倣ったカルアが同じ事を同じような口調で言う。皇子たちの様子に気付かず、老教授は頬をほころばせて今日はここまで、と宣言した。
 ようやく講師がいなくなった部屋でカルアが大きく伸びをして笑った。
「ああ眠かった……兄上は良くあれで眠くなりませんね」
「魔導も同じくらい古典音楽じみているから慣れているんだろうね。カルア、思うのは良いけどあまり眠っては駄目だよ」
 簡単にたしなめると、弟はやんちゃな仕草で肩をすくめる。立太子のための資質を見るという題目で二人が並んで講義を受けるようになってから一月ほどになるが、カルアの気楽さばかりが評点に負として書き込まれているのは察している。リュースの場合は大抵当たり障りがないために、あまり印象にも残らないのだ。
 評点が全てならいずれ自分が皇太子となるだろう。カルアもそれを望んでいる。他の人たちには内緒なんですけど、とこっそり耳打ちしてくれたのは
「だって俺が即位して兄上に補佐をお願いするとなると、結局兄上が全部国政をみるってことになりません?」
という他人任せの気楽な意見であった。
 それにリュースはつい苦笑してしまったから、カルアの方は彼の了承が取れたと思ったらしい。以来ますます適当な受講ぶりとなっている。
 それも構うまいとリュースは思う。結局のところこの帝王学とやらの学問所などは形式だ。皇太子は貴族間の派閥の力点が左右することになるだろう。カルアに決まれば学問所の評定などは不真面目で浅慮、から明るくて行動的、へと書き換えられるのだから。
 昼食のために二人でイリーナ皇妃の居宮へ戻りながら、カルアは朗らかな声でリュースの袖を引く。
「午後からエリザとルーミエが来るんです。イリーナ様の夏薔薇庭園が丁度いいから遊びに来るみたい。兄上も一緒にどうですか?」
「うん……そうだね……」
 リュースは曖昧に返答する。カルアがね、と明るく念を押したのに結局頷いたのは、エリザに会うのが久しぶりであるからかも知れない。元々幼馴染みという気安い間柄で行き来があったが、中等学院に通い始めてからはあまり顔を合わせなかった。
 エリザは恋人と上手く行ってるのだろうかとリュースはふと思い出し、唇だけで苦笑になる。そんなことまで自分が気にかける必要はなかったし、婚約ということになればいずれ慣例に従ってアルカナかアイリュスのどちらかから正妻を取ることになるだから、自分があれこれ気を揉むことでもないのだ。エリザに対してあるのは穏やかで温かな友好であって、何かの激しさではあり得なかった。
 ……それは少しづつ分かり始めている。
 夏薔薇庭園は母イリーナの自慢の庭だ。残夏の気配が漂い始める頃に一番爛熟する季節を迎える。……夏の初めにその庭で、イリーナからの拒絶を受けたはずなのに、いつの間にか二人は同じ場所にいて、身体を添わせていた。
 それまで母と上手く接点が見つけられなかったとしても激しい喧嘩や反抗もしたことがなく、それは母の方も事情が同じだ。ラインのことは叱りつけもするし甘やかしもするが、リュースに対してはその必要もなくて美貌や優秀を誉めているうちにその他のことを忘れてしまったような節がある。
 お互いに怒り慣れていない者同士の感情の行き違いが激しく決裂すると、どうなるかは火を見るより明らかだ。あれから芝居じみた暖かさが自分たちの間に流れているが、結局自分たちという母子は決定的な時間というものをまだ味わいたくはないのだろう。
 それが分かっていてもリュースは良かった。とにかく母を傷つけることはしたくないし、非難することなどは出来るはずがない。元々感情の揺れ幅のある女性だし、と結論つけて一人で納得している。あれは言葉のあやで、単に勢いで口走ってしまっただけなのだと。マリアという、遠い昔に母の友人だった女性の話を聞いたのが良くなかったのだろう。
(その友達はもう死にました)
 母の今にも崩れそうなほどの硬い声が呟いている。知らなかったとはいえ辛いことを思い出させてしまったとリュースは思い、二度とそのことは口にすまいと誓った。つまりは母に辛いことはさせたくないのだ。
 庭園が近くなると、白い帆布が庭園の一角に張られているのが見えた。湿度の高くない昼にはああして庭に日よけをつくって食事にすることがある。薔薇園の食事は花の香りと外の涼やかな空気のせいで、普段よりはリュースも食が進む。だから母は時々こんな風にして彼を歓待してくれるのだ。そんなことを考えているとカルアがあ、声を上げた。
「母上……」
 リュースは顔を上げる。カルアが母と呼ぶならば、それはアイリュス系の正妃ユーデリカに違いない。リュースの母とも従姉妹同士で、やはりここも幼馴染みという関係だ。穏やかでおっとりした、深窓の令嬢という風情がまだ残っている。
 こちらに気付いたのだろう、ユーデリカ妃がゆったりと手を振っているのが見える。カルアがついというように手をあげたあと、慌ててそれを下ろして赤面した。母親に甘えるのに羞恥を覚える年齢になってきたらしい。
 異母弟は母親とここしばらく離れて暮らしている。淋しくないことはないだろうとリュースは思い、カルアの背中をとんと押す。照れ笑いになったカルアがそれでも少し足を速めて母親の元へ歩み寄り、頬ずりを交わした。
 即席の天蓋の下には他にも父やアイリュス大公、それにアルカナ大公までもが揃っていた。無論母イリーナの姿もある。エリザたちが来るとカルアが言っていたのはあながち間違いではない。エリザはアイリュス大公の一人娘であるし、ルーミエはいずれ一人しかいない嗣子の不都合を埋めるために、アイリュス本家へ養女に入るだろうという予測が既にあった。
 つまりこれは立太子の口頭試験なのだとリュースは悟った。皇太子の決定については専任の討議会を経るという手続きになっているが、その前に主だった大人たちであらかたを決めておくつもりなのだろう。
 今上帝である父、その二人の正妃、そしてこの国の権力機構をほぼ分割掌握する大貴族の両大公。リュースはアルカナ系でありカルアはアイリュス系であるが、父がアイリュス系の皇子であったことを考えるに、ことはやはり資質や意欲の問題ではないようだった。
 リュースは大人たちに軽く会釈して給仕の侍従に教書を渡した。カルアがそれでやっと本の所在をどうしたらいいのかを悟ったのか、同じ事をする。
 父を中心にそれぞれの母と挟まれるようにして席に着いたあと、食事は台本があるように明るく過ぎていった。エリザの中等学院での話、ラインの剣術の上達。子供たちの話に相づちを打つ大人たちの表情にはあまり気負ったところがなく、あるいは素養をみるだけであまり重要な試験ではないのかも知れないなとリュースは思う。横目でカルアをみれば異母弟のほうは刻まれた野菜の中から嫌いなものをさりげなくよけるので必死だ。
 リュースはそれに苦笑し、彼の前の皿から肉を拾い出した。肉や脂といったものはひどく胸に悪くて元から余り好きではなかった。そうでなくてもここ最近、暑気あたりなのか食事をしても吐いてしまうことが多い。ラインはこんなものが好きだから、と弟の皿にいつものように入れてやろうとすると、母がぴしゃりと駄目よ、と遮った。
「リュース、ちゃんと食べなさい。ラインもそんな物欲しそうな顔をしないのよ」
 普段はこうしたことにあまりうるさい母でなかったから、他の大人たちの反応を気にしているのだろう。リュースはすみませんと簡単に頷き、捨てるわけにもいかないと良く煮えた肉を口の中へ押し込んだ。
 何か変な臭いがすると思ったのはその時だ。腐っているということではないが、普段口にしているものと何かが決定的に違う。口の中でいつまでも噛み続けているわけにもいかないと急いで水で押し込むと、やっと喉を塊が通りすぎていってリュースはほっと溜息になった。
 食事が進むとやがて最後の菓子が出る。果物よりもこの季節は氷菓が多く、それがまだ胃に何かが燻っているような感覚には良かった。
 早めに食べ終わったラインが椅子から滑り降り、大人たちに向かって簡単に礼をすると庭へ向かっていく。それをエリザとルーミエが追って、カルアが自分もと立ち上がりかけたとき、父帝がそれを制した。
「カルア、まだ最後の茶が出ていないよ」
 カルアはきょとんとした顔で立ち止まった。食後の茶などは重要なことではない。何故それを待てと自分だけが言われるのかを理解できていない顔つきだ。自分に困惑したままの視線が向けられて、リュースは弟に首を振った。
「いいからここにいなさい、カルア。皆さんは私たちに話があるようだから」
 大人たちが目配せをしあっている気配がした。父がふと目を細め、リュースの髪を撫でた。それに少しばかり微笑んで、リュースは自分の前に置かれた茶を含んだ。僅かに残るのは甘い香り。薔薇園で母が摘んだ花の匂いだ。
「さて、今回の仕儀ですが」
 口火を切ったのはアイリュス公であった。中年の、ややふっくりした体格は首をすくめた梟と似ている。目尻はいつも何かのために微笑んでいて、そのため細かな皺が沢山そこにあった。
「両殿下には学問所は如何でしょうか」
 問われてリュースはカルアと視線を合わせ、先に口を開く。
「座学が中心なので単調ではありますが、興味深く拝聴しています」
「難しくて分からない事が多いですけど、兄上によくして貰ってます」
 カルアの返答に大人たちが一斉に苦笑になる。自分の返答もあまりにそつなく出来すぎていたが、カルアも本当に適当だとリュースはゆるく笑い、そうでもないよと軽く口を入れた。父がカルアの額を撫でて、リュースに負担をかけるなよと一応の釘を刺し、二人とも、と言った。
「二人とも、もっとよく国の姿を知っておきなさい、特にカルア。お前はずっとロリスだったから、宮廷のことは良く分からないはずだ。リュースには何度か議会などを見学させているが……」
 父帝の視線にリュースは頷く。
「お前も同じ事を経験した方がいい。お前はもっと知るべきだ──それとリュース」
 父は今度は彼に向き直り、淡く笑ってみせた。
「お前は勉強は良くできるし思慮も深いけれど、カルアが知識を積むべきなのと同じように、お前も他人との経験を積むべきだ。いいね、人は一人では生きてゆけない、それはとても当たり前のことなのだから」
 父の言葉は優しいが、頑としてもいる。リュースはやや俯いた後で頷いた。父の言葉はきちんと分かる気もしたし、具体的には何も分からない気もした。リュースが俯くと、そっと母が彼の手を握った。目線は優しく笑っていて、リュースはそれでやっと安堵する。
 自分の至らないところは自分では掴みづらい。けれど父がそんな風に考えているとすれば、やはり反省した方がいいのだろう。父帝がリュースに欠点ではないのだよと優しく言って、さてと語調を整えた。
「カルアの養育もきちんとした形では終えていないし、これの皇族としての教育をきちんと施すことで審議会の時期を少し先へずらしたいと考えているが、両大公のお考えは」
 父の物言いは穏やかで、根底に気遣いが流れている。威圧的でないのは父の性格からくるものだが、それ以前に両大公の意志を無視しては何事も進まないのも現実であった。
「異存はありませんな」
 真っ先に返答したのはアイリュス公で、これは至極尤もであった。父帝もアイリュス系であるが、やはり自閥系から次の帝位を出すことは大きいものだ。ついでアルカナ公が頷く。イリーナの実兄であるが、こちらは痩躯といってよい男だ。
「時間を延ばしてじっくり審議した方がよろしいな、こういうことは……次代の君を決める重要なことです」
 こちらは余裕とも取れる言葉であった。父はそれにも頷き、では来年の冬を過ぎてからに、と決着する。もういいよと言われてカルアは早速というように席を立ち、夏薔薇の誇る庭園の、噴水のあたりへ走っていく。そちらからエリザたちの笑い声が聞こえていた。エリザに少し近況でも聞こうかと思いながら、リュースは茶を飲んだ。夏は食欲が落ちるかわりに水ものが多い。その彼をアイリュス公が呼んだ。
「殿下、うちの娘をどうかよく思ってやってください。あれは私に似ず、思いがけず美しい娘になりまして」
 ええ、とリュースは曖昧に頷いた。エリザはくっきりした面差しの美しい少女であった。さすがに大人たちの席ではおとなしく礼儀に乗っ取って食事をしていたが、本来は闊達で明るい。
「いずれ、もっと大切なことをお願いに上がりたいものですが、殿下があれを厭わしく思っていなければと心配しておりますので」
 リュースは苦笑になった。最近自分とエリザが疎遠なように思えて気を回しているのだろう。彼女とは確かに会わない日々が続いているが、それはリュースにとってさほど重要なことも変化もない証拠であった。エリザの方も普段と変わりない。
 中等学院の講師陣の手伝いに時折卒業生として顔を出すが、そんな時には軽い挨拶程度は交わしている。
 エリザとの婚約は誰もが暗黙に想定していたが、はっきりとした形で示されたことはなかった。自分か彼女か、もしくはどちらかの親が激しく拒絶したら撤回が出来る。それをほんの僅かに先んじる言葉でもあった。リュースは大丈夫ですよと笑ってから、付け加えた。
「でも、彼女には彼女の思いもあると思います。どんなお願いにしても、どうか彼女の言葉を一度聞いてやってください、公」
 選択はエリザに委ねるというリュースの言葉に、アイリュス公は不意に生真面目な顔になった。
「──魔導士までお使いになって、誰をお捜しです、殿下」
 リュースは僅かに身じろぎし、エリザの父に真向かいあった。それがエリザと彼とのことにどうつながるのだろう。それがまるで結びつかなくて、リュースは瞬きをした。
「……何の話です」
 中等で一緒だった「彼女」のことを表にするにはまだ確定的な何か、はなかった。それに「彼女」がひどく沢山のことに怯え、今でも怖れ逃げ続けていることは去年の夏の花火の日によく知ることが出来た。魔導によって痕跡を辿れないように結界罠を残していったならば、それは即ち二つのことを教えてくれる。
 彼がまだ逃亡者であること。そして彼を追う相手が魔導士をかり出せるほどの立場や地位を持っていること。だから迂闊には全てを肯定するわけにいかない。リュースは宥めるように笑って公、と言った。
「魔導士には色々なことを命じます。私の小さな証明問題の実証にも。ですから、誰かを捜しているということもよく似たそんな実証実験かもしれません。申し訳ないですが、誰を、と言うことに心当たりはなくて……」
 言いながらリュースはふとその場の空気が一転していることに気付いた。全員が呼吸を忘れたように黙り込み、父は愕然としていて、母は蒼白だ。そしてアルカナ公はじっとリュースを睨むように強く見つめている。何かを聞き漏らさないようにという表情にも見えた。
 リュースは奇妙な沈黙に慌てて笑い、本当に何でもありませんよ、と言った。その時になってやっとアイリュス公が聞いた意味が分かった。エリザのことを無視して誰か見かけただけの女性を必死で捜しているとでも思っているのだ。
 そんな下らない、という失望に似た怒りでリュースはやや不機嫌になり、その原因を作ったアイリュス公にまっすぐに視線を当てた。
「一体私が誰を捜していると問題なのです? エリザとのことは彼女が決めることだと申し上げましたし、私は私の信念と意志で魔導士に命を与えています。私にとって必要なことですので」
 強く言いきると、それではっとしたらしい父がリュース、と叱りつけた。
「そんな言い方があるか!」
 父帝の言葉が終わらない内に、軽く頬が張られた。リュースは乾音を立てた頬を押さえる。痛みは殆ど無かった。父が自分を庇ってくれたのだとその軽さで悟る。
 済みません、と呟くとその場の空気が張りつめたものから一段弛んだ。座ったままリュースはアイリュス公へ腰を折って謝罪の言葉を口にしようとした。
 ──その時のことだった。
 リュースは弾かれたように席を立ち、口元を押さえた。何かが胃の底から翻ったように、逆に駆け上がってくる。
 人々の驚いた声に構う余裕なく皇子は数歩駆け出し、眩暈で崩れ落ちた。身体を打った衝撃で吐き気が一気にこみ上げてくる。どうにか身体をずりあげようとすると、自分の上にふわりと影が出来た。
 マルエスの長衣の端だと思った瞬間に、皇子は身を折って胃の中のものを全て吐き戻した。喉の奥から上がってくる嘔吐が臓腑全体をえぐるようだ。
 喉に引っかかった細かな溶液をどうにか咳で飛ばしていると、殿下と囁きながらマルエスが背を撫でたのが分かった。
「どうかお休み下さい。……最近良くございませんね」
 呼吸を整えながらリュースは頷く。だが眩暈がさほど酷くないと気付き、リュースは怪訝に思った。奇妙なほど身体に変調はなかった。戻してしまったことで大体が解決してしまったらしい。多少の胸焼けは残っているが、あまり違和感がないのだ。
 さっきの肉だろうかとリュースは侍従が差し出す水で口を注ぎながらちらりと天蓋を振り返った。母イリーナが蒼白で駆け寄ってくるところであった。
「リュース、リュース! 大丈夫? 無理をしては駄目よ……──お前はこの子の護衛魔導士ですね? 最近は体調が悪いのかしら?」
 マルエスが暫くの体調の低い位置の推移を説明しているのをぼんやり聞き流しながら、リュースは口元を拭う。侍従が薄い綿布を日よけ代わりに彼にかけ、呼ばれてきたらしい近衛騎士が負担をかけないように抱き上げた。
 ちらりと振り返ると、マルエスが隠遁のために淡く消えるところだった。薔薇園の土に彼の吐瀉物が残っていないのならば、きっとマルエスの衣に戻したのだ。
 皇子は赤面し、長い吐息と共に目を閉じた。

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