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 窓の外には緑の濃い色が、夏の明るさを主張している。途中で母の為に買ってきた花を適当に水に挿しながら、自分は何かを口ずさんでいたらしい。
「今日は何だか嬉しそうね」
 母親の言葉でそれに気付き、クインは照れの為に頬を歪めた。エミリアが自分を待っているだろうと思うと足が着かないほど浮かれているのが気恥ずかしい気もしたし、自覚していてさえ胸の奥が柔らかくさざめいているのが分かる。
「何でもない……わ。大丈夫。上手くやってるから、心配しないで」
 いつもと同じ言葉をすらすらと口に乗せ、クインは花の角度を指先でいじった。白い薔薇の大輪がそっと揺れる。母は手にしていた刺繍枠を下ろし、クインの横へ立った。こうよ、と言いながらこうしたことに器用でない息子の仕業を直していく。
「……いい薔薇ね」
 肉厚でしっかりした花弁を指で撫でながら、母が呟いた。
「お前、これがなんて花だか知っているの?」
「薔薇……じゃないの?」
 きょとんとしたクインに母親は少し笑い、『麗しきイリーナ姫』よ、と言った。ふと細くなった母の瞳が哀しげに淡く微笑んでいる。
 イリーナという名にクインは内心ぎくりとする。その名は現在の皇妃であるイリーナ・ロシェルを指しているのだろう。あの皇子の実母であり、即ち自分のおそらくは真実の母の名であった。それを思えばひどく切ない。皇子のことを憎んではいけないと知っているはずなのに、皇子のことを思うたびに焼き切れそうな怒りと憎悪を覚えるのは自分が狭いのだと理解しているはずなのに、それはいっかな弱くなる炎ではなかった。
 自分の胸の中の、荒れる炎の幻影。何もかもを手に入れなくては嫌だと吠えて、自分を捨て去ろうとするもの全てを焼き尽くしたがっている。ライアンのことも、その熱に煽られあぶられて追いつめられていった。自分でさえ焼いてしまいそうな激しさが、時折自分で恐ろしくなる。──いつかこれが自分自身を殺しそうだ。
 不意に胸に湧いた不吉な言葉にクインは目を伏せ、ゆっくり呼吸をした。イリーナの名の由来を自分が知っているとは悟られたくなかった。母の胸の中にある罪をいつか聞かなくてはいけないとしても、それを受け入れることが今の自分に出来るなどとは到底思えなかった。
「そう……イリーナ姫? 綺麗な品種ね。香りがちょっと強いから、窓を開けるわ」
 クインは微笑みながらそんなことを言い、手を伸ばして硝子窓を押した。小さく木枠が軋み、ついで外の風と空気が吹き込んでくる。
「いい風……」
 クインは呟いて、梢の向こうに瞬き見える海へ視線をやった。エミリアは今、何をしているだろう──絵を描いているだろうという予測とは別に、今彼女がどんな表情で何を描いているかが知りたい。
 もっと知りたい。彼女のことを。二人で身を寄せ合って眠った船の中、目覚めると彼女の柔らかな腕の中に収まっていたことがあった。指を絡めると、無意識に握り返してきた。
 掌の熱、肌の温度、髪の匂い。決して美しい女でもないし、絵のこと以外にはごく普通の女だ。それは分かっている。
 けれど──でも、彼女しかいない。自分を捕まえ、微笑み、特別だと優しい言葉をくれるのは、彼女しかいないのだ。ライアンが戻ってくれば彼女の為に二度と会わない方がいいとは分かっている。ライアンがどう判断するかは分からないが、エミリアを手にかけて全てを短絡に葬る可能性は低くない。奴は人を殺すのが好きだからな……クインは苦く奥歯を噛み合わせる。チアロでさえ眉をひそめているではないか。元々チアロは殺人についてはあまり積極的でないことはあるが、それにしてもよい趣味だとは思えなかった。
「……何かあったの?」
 母親の優しい声が背中を撫でて、はっとクインは顔を上げた。自分は随分難しい顔つきで窓の外の枝を睨んでいたらしい。慌てて顔を弛めるための満面の笑みを作り、何でもない、と言った。
「もうすぐ夏期の中途入学の受験期だから、少し気になるのね。生徒から何人かは受けることになってるから」
 仕事は塾の講師ということにしてある。いつまでこんな風に誤魔化すのだろうという自嘲がそっと胸の奥に囁いたが、クインはそれを無視した。いつまで、ならば簡単だ。この嘘が知れてしまうまで──つまり、永遠に。
「そう……あまり無理はしないのよ。昔から、そんなに丈夫な方じゃないんですからね」
 クインは頷く。虚弱というほどでもないが頑丈ではなかった体質は、やはり根の弱い体質だというリュース皇子のそれと重なる。こんな些細な状況証拠を積み上げた末に、血縁はやはり確信というものに変わっているのだった。
「大丈夫、母さん。私は……全部大丈夫だから」
 母を安心させる為に繰り返してきた台詞をまた口にして、クインは笑って見せた。そう、と母は頷きかえし、しばらくクインを愛しげに見つめてから言った。
「ねぇ、お前……好きな人でも出来た?」
 母の声にクインは思わずえ、と聞き返した。それからぱあっと赤くなる。慌てて俯いても、尚更頬に血が集まってくるようで止まらない。
「や、ちょっと待って、何でそんな……母さん」
 何か取り繕うようなことを口の中でしきりと呟いていると、母は明るい笑い声をたてた。クインはますます赤面するが、表情に出るものは隠しようがない。次第に仕方ない笑みになってクインは照れたまま肩をすくめた。
「別に、そんなことないわ……第一こんな格好でどうしろっていうのよ」
 女装のままの姿であったから、母はそうねと苦く笑う。でも、と付け足された言葉は優しいが苦みに満ちて悲しげであった。
「でもね、お前もどんどん成長するわ。見る度に大きくなる気がする……この格好もあともう少しになってしまうわね」
 クインはやや真面目な表情でそうね、と曖昧に返答した。体つきはどんどん男性的になっていく。細身の体格はともかく、肩の広さや腕の関節の大きさは確かに男のものだ。身長がどこまで伸びるかは分からないが、女装では目立ちすぎるようになってしまうまで僅かというところだろう。
 但し、クインは自分の美貌については強烈に自負というものを持っている。まだ少しの間ならば、女装でも通せるのではないかという感触はあった。誰もがクインの容貌に目を奪われるため、体型は後から印象に付加されるだけの追加事項に過ぎないのだ。美少女という印象さえ与えてしまえば後はどうにでもなる、というのはあまりに適当な仕儀だが、それをまっとうするだけの雰囲気を作る自信はあった。まだしばらくは大丈夫だろうとクインは考えている。
「そのことはどうにか考えるわ。あんまり厳しいと、ここへも来られなくなってしまう……」
 言いながらそれが一番恐ろしいことだとクインは思う。やはりあの時ライアンに下手に取りすがって戸籍を貰わなくて良かった。真実母娘の戸籍を用意できていたら、臨機応変というわけにはいかなくなるではないか。今更自分の選択を追認してクインは大きく安堵の溜息をはき、母さん、と言った。
「でもしばらくは大丈夫。まだ普通にしていれば誰も気が付かないから」
 クインは笑い、母親の手袋の上から軽く唇を押し当てた。この病にかかってから母は接触を極端に怖れるようになった。感染値は下がっているから今はもう遮蔽幕もないし部屋の外へも出ることが出来るが、素肌を触れ合わせることは絶えている。
 だからいつも頬ずりや軽いキスで確認してきた愛情は、いまは薄い手袋越しのこのキス一つであった。それでも、黒死の証明とも言える黒ずんだ肌は今のところ指先だけだ。それ以上広げない為にクインは自分を提供することを選んだのだから、手袋をしていても唇の温度を知っていて貰えるならば報いはあるのかもしれなかった。
「またね……母さん」 
 クインは柔らかに笑いながら告げる。陽は次第に傾き始めていて、窓の向こうの遠い海は屈託ない青から夕陽の反射の鈍い灰色になりつつあった。今からミシュアの街へ戻るならば、夕方になってしまうだろう。
 母は頷き、ねぇ、と優しく彼を呼び止めた。クインは首を傾げてみせる。窓辺の椅子から母は立ち上がり、愛しくクインの前髪を整えてやりながら言った。
「いつか好きな人が出来たら教えて頂戴ね……お前の為にいつでも祈っているわ。お前の幸せと、お前の愛を」
 クインはじっと母と決めた女を見つめる。マリアは柔らかに笑ってクインの手をぎゅっと握りしめた。うん、と小さくクインは呟き、誰にも聞こえないように母の耳元で小さく囁く。
「分かってる。でもそれはもっと遠い時間だと思う……」
 ライアンとのことがある限り、エミリアは通り過ぎていくだけのことになるだろう。それでもいい。今彼女の持つ愛と癒しが欲しいのは本当だから。
 母は頷き、ごめんねと小さく言った。クインは首を振る。本当は、マリアと名乗り彼の母だというこの女を見捨ててもいいはずだ。けれど、そんなことは出来るはずがない。それは既に自明であり、納得が済んでいることでもあった。そして血のつながりがないことをクインが知っている、ことをマリアには悟られてはならなかった。あくまでも優しい子として、ただ母を思い案じている子であると思っていて欲しいのだった。
 クインはまた、と強く言うと背を返した。扉を閉める一瞬に、母の笑みが視界をよぎった。瞳の奥にある、柔らかで温かな表情。かちゃりと錠金具が噛む音がした瞬間、クインは既視感に微かな溜息をついた。瞬間母の瞳にあった光と良く似たものがエミリアの目にもある。
 途端、クインは上がってきた羞恥の為に赤くなる。エミリアへ向かう心の中核が何であるかを突然思い知ったような気になったのだ。まるで子供じゃないかと自分を苛立たしく思いながら、クインは溜息になった。エミリアが完全に自分を愛しているとは思っていない。どこか彼女は同情的でそれが自分を多少卑屈な気持ちにさせるけれど、いとおしさというものに完全な境界線などないのだから、それも一つの思いなのだろう。それでも今夜はずっと一緒にいてくれると言った。
 ───どこか、眺めのいい部屋を探そう。町の向こうに海が見える部屋を。ミシュアの街は大きくて、きっと夜でも明かりを消せば地上の灯火が星のように綺麗なはずだ。一晩だけでも一瞬でも、彼女とのことを一番美しく思い出せるように。
 愛や恋という名前は後から考えればいい。後から振り返れば幻のようなことかもしれない。たった一夏で通り過ぎていく、美しい夢のような。
 けれどそれに縋って僅かにでも希望を見ていられたらどれだけ幸せだろう。希望という言葉を教えてくれたのもエミリアだった。彼女の持っているごく普通の当たり前の優しさにずるずると甘えたくなる。陽の降り注ぐ窓辺やぬるい湯に浸かっている時のようなゆったりした心地よさにただひたすら身を沈めたい。
 エミリアに会う以前ならばそれが真実からの愛ではないと叫んで拒否しただろうか。けれど、それをはねつける気力などもう僅かも残っていない。彼女の微笑みというぬるま湯につかりきってから、ああ自分は本当に傷ついていたのだと感じることが真実なのだ。
 クインは足早に療養所を出てミシュアの街へ向かう。来る時は坂を上るためにやや時間がかかるが、帰りはほとんど駆け下りていくような勢いで下っていった。頬を海からの風が撫でて通り過ぎていく。エミル、と胸内で彼女を呼んでクインは一人で笑い、慌てて顔を引き締めた。
 エミリアが待っていると言った砂浜は船着き場からほど近い。療養所は市街地からやや北寄りに外れた場所にあったから、畢竟ミシュアの街をよぎる格好になる。
 クインがやっと元の浜へ戻ったのはだから、陽が落ちてからのことだった。まだ残光の気配が濃厚に漂って、空の低い場所は燃えるような色だ。砂浜には既に人影がまばらだった。そろそろ家路を辿る時間であるのだ。
 クインはざっと周辺を見渡し、怪訝に首を傾げた。彼を待っているはずの人の姿はどこにも見えなかった。確かこの辺りに、とエミリアが座り込んでいたような箇所へ歩いていっても、そこには夏の光線のせいでまだぬくい砂があるばかりで、彼女の気配さえない。
「……エミル?」
 口に出して名を呼んでみても、返事はどこからもこない。クインは眉をひそめて辺りを落ち着き無く見回し、腑に落ちないままその辺りの適当な店を目で探したが、やはりエミリアの優しい姿は見つけられなかった。
 エミル、とクインはもう一度呟く。訳が分からない。何度か瞬きしてからやっと、彼女の荷物であった大きめの鞄が消えていることに気付く。
 クインは首を傾げ、唇を結びながらじっと砂へ視線をやった。鞄がない、エミリアがいない。……先に宿でも探しに行ったのだろうか。それはそれで構わないのだが、自分を待ってくれないのがいかにも彼女らしくなくて……奇妙だった。
 戸惑ったままクインは更に近辺を見やり、溜息になって砂に座り込んだ。場所はここで良かったはずだ。宿でも探しに行ったのか、とにかくここを離れたなら必ずここへ戻ってくるだろう。鞄がないのは置き放しておく訳にもいかないからだ。
 自分の中でそう整合をつけて決着すると、クインはまだぬくい砂に指で意味のない線をゆるゆる描き始めた。
 浜辺とはいえ波打ち際からは遠い場所では砂は乾いてさらさらと指を滑る。他にすることもなくてぼんやりかき回していた無意味な線はいつの間にかエミリアの名をつづっていた。
 エミル。クインはそれに目を落とす。彼女の空気もなだらかな優しさも、全てが欲しい。女を知らないわけでは勿論なかったが、いつものような態度で相手を蹂躙する気にはならなかった。そんな事を考えていると、ひどくそぞろで高ぶった気持ちになる。意味のないあやふやな笑みをこぼしては飲み込んでいると、砂をかき回す手にこつんと硬いものが当たった。
 視線をやると、黒い小さな棒のようなものが目に入った。クインはそれをつまみ上げる。これは見たことがあった──エミリアの手にある所を何度も目撃しているからすぐにわかる。写生用の練炭だ。エミリアが自分で使いやすいように握る部分を若干えぐってあるため、彼女の持ち物だとすぐに分かった。
 クインは一瞬それに視線を与え、立ち上がった。彼女がこれを捨てていくなどあり得ない。何かがあったのだ。探さなくては、と軽くスカートの砂を払って走り出そうとした時、黄昏の中を歩いてくる人影に気付いた。
 ちらりと視界の端をよぎった影を無視して通り過ぎようとし、クインは足を止めた。一瞬逆光になる影の中に、既知の空気を感じ取ったのだ。クインは影に向き直り、二、三度まばたきをした。……微かに呼吸が上擦ってくる。すらりとした上背のある身体が片手を挙げて簡単に彼に合図した時、クインは何かを呻いて後ずさった。
「チアロ……」
 夢うつつに呟いた自分の声に撲たれたようにクインははっと身を強張らせ、近寄ってくる友人から更に同じだけ後ろへ下がった。痺れたような塊が腹の底から上がってくる。それが喉を通過した時、喘ぎになって唇からこぼれた。
「……チアロ、お前……」
 何故、という疑問は浮いてこなかった。クインは一瞬強く目を閉じる。最初から尾行られていたのだという確信は少しも動かない。何のためにという疑問さえ、愚かだ。
 急に心臓が早く打ち始め、クインは呻きながら額に手を当てる。喉が干上がったように痛い。全身から水が抜けてしまったようにかあっと頭の中までが熱いのに、血の流れだけが速くどくどくと脈を打って止まらない。クインは喘ぎ、首を振った。
「大丈夫か、クイン?」
 いつもと変わらないチアロの声が、その瞬間、混乱の為に濁った脳裏にきりっと一本の正気を与える。それは重要で重大なことを聞く理性だ。
「俺に触るな」
 差しのばされたチアロの指先を叩き返し、クインはその腕で友人の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「エミル──は、エミリアは、彼女は、」
「大丈夫。無事に帝都行きの船に乗せたから」
 クインは持てるだけの力を視線に込めて友人を睨み据えた。チアロは少し困ったように笑い、本当だよ、と穏やかに言った。
「5日後に帝都に着く便だから、心配なら見に行けばいい。但し、遠くから見るだけだ。二度と会うな……次があればライアンは俺に命じなくてはいけない」
 その名前にクインははっと手を離した。チアロがこの瞬間にこの場所にいること、ザクリアから尾行されてきたこと、いや違う──ミシュア行きはクインにとっても唐突で衝動的な行動だった。
 次があればというチアロの言葉がするすると全ての解答を掴み出す。
「ライアンは……もうタリアにいるんだな」
 クインは呻き、更に導き出した答えに全身が逆巻くような眩暈を覚えた。
「俺を……試した、な……」
 最後の忠告とやらをチアロやディーを通じてクインに与え、その上でクインがどう判断するのかを待っていたのだ。チアロが僅かに時間を迷った後で頷いた。
 クインは目を閉じる。憎悪や怒りさえ、唖然というべき自失の前に崩れ落ちていきそうだ。試した、と繰り返して呟いて、ようやくそれを飲み込むことだけに成功する。
 無事だとチアロが言うならそれは信じてもいい。二度と会うなという通告も、これは最前から自分でも覚悟していたことだ。
 けれど、こんな形でこんなに唐突に、呆気なく終わってしまうものだということは予想していなかった。覚悟などというものは追い付かない。何もかもが不意に消えて、残されてどうしていいのかさえ分からないのだ。
 いや、たった一つだけすべきことがある。クインは小さくエミリアの名を呟きながらチアロを軽く突き放し、その反動で後ろへ下がった。
「俺は、許さない」
 エミリア。エミリア。俺の希望。
 優しい声で俺を抱き寄せて大丈夫よと笑ってくれた──クインは喘ぐ。涙も枯れてしまったように、ただ、駆け上がってくるものに揺すぶられるように呼吸を荒げるしか出来ない。
 チアロが何かを言いかける前に、クインは背を返した。待て、と叫んだ声と同時に腕がぴんと引っ張られ、その場にたたらを踏む。離せ、と怒鳴ってクインは身をもぎはなす間際にチアロの爪が引っかかったのだろう、腕の内側をすっと細い痛みが走った。僅かな間を置いて、そこがうっすら滲むように痺れてくる。
「ああ悪い、傷が……」
 そんなことを言いかけたチアロの声が宥めるように優しげで、クインはやめろとひきつった笑みになった。
「やめろ、今更──そんな偽善、違うか」
「そんな言い方こそやめろ、クイン。俺はお前に傷を付けたくないだけで……」
「へぇ? ああ、大事な商品だもんな!」
 首筋ががくがく震えている。俯いていることさえ頭が重くてままならず、クインは振りかぶるように顔を上げ、そのままの勢いで喉をのけぞらせて笑い出した。やめろ、というチアロの声が淡い恐怖に変わっている。
 クインは甲高く音を外した声で笑い続けながら、右手を左の耳の付け根へ持っていく。何をしようとしているのかを悟ったチアロが飛びかかろうとするより早く、思い切り爪を立てて唇の方へ引き下ろした。チアロの呻きが聞こえた次の瞬間、左の頬を何条にも細く強い痛みがはしった。
「顔だろ? なぁ、顔だろう、チアロ? だったら、ほら、こんな、」
「よせ──やめてくれ、頼むやめてくれ……」
 あまりに弱々しい友人の声をクインは初めて聞いた。軽く鼻で笑い、やめてやるよ、と吐き捨てて今度こそ走り出した。クイン、と叫ぶチアロの声がみるみる遠くなる。
 エミリアと過ごすはずの夜に浮かれ飛んできた道を、クインは全速力で戻りだした。療養所の近くに空間移転の為の移転座標を置いている。魔導での移転には正確な相対座標を示す必要があるから、それをザクリアの自室とこの場所において誤差をごく僅かに抑えているのだ。
 月が次第に辺りを照らし始めていた。いつもの街道の目印から脇へ降り、まっすぐに座標まで駆け寄っていく。自分で書いた石盤の赤い塗料文字が目の奥でちかちか瞬いている。この場所と自室をつなげる空間の魔導の数値を確かめ、クインは一息を置いてすぐに詠唱を始めた。
 途端、ふっと身体が浮くような感覚がして、すぐにたたき落とされる。失敗したのだ。あまりに呼吸が乱れていて上手く行かない。地に落ちた瞬間に足を少しひねったらしく、足首の辺りから軽い痺れと痛みで力が入らなかった。
 クインはぎゅっと唇を噛んだ。ほんの僅か、血の味がする。落ち着かなきゃと深く呼吸をした時、まるで凍えた時のように唇が震えているのに気付いた。
 これを止めなくては詠唱どころではないと口元へ手をやると、かちかちと歯が鳴っている。クインは呻きながら石版に額を押しつけた。脳幹から発熱する、とぐろを巻く熱さが僅かに冷える気がした。
「エミル、エミル、エミル」
 呟いているとそれはやはり目のくらむような怒りへ変わった。それが逆に激しく荒れる胸を一瞬だけ宥めてくれる。
 クインはきっと顔を上げた。月は自然にあわあわと世界を照らし、星が次第に姿を現し始めている。紫紺の空を睨み、クインは激しく首を振ると始めから詠唱を始めた。
 ──ライアン。目を閉じたまま、その名を胸に呼び起こす。瞬間全身が沸騰しそうになる。
 許さない。許さない。
 エミリアは本当にただの女だ。巻き込んだな──俺が勝手をするからという理由をつけて彼女を巻き込んだ。エミリアには手出しをしていないとチアロがいうなら、もっと身近な、おそらくは妹あたりを脅迫に使ったはずだ。
 それが簡単で何の負担も要らない方法だから。エミルに俺と妹を選ばせた。
 それを思うと目の前が血に染まるような怒りを覚える。あの子は私の希望だとエミリアは言った。あの子のために描き続けるとも。
 エミリアから絵を取り上げてはいけない。彼女から彼女自身の翼をむしりとってはならない──分かっていた、そんなことは!
 クインはようやくいつもの落ち着きを取り戻したように慣れた詠唱を続けながら薄目を開けて月を見上げた。ぼんやりと滲んでいるのは淡い雲か、涙だろうか。分からない。喉の奥に悲しみがこみ上げてくるのをぐっと殺した時、詠唱が終わった。
 身体があり得ない形にぐにゃりと歪み、すっと足下が消えたような感覚が降りた。数度の失敗の後にやっと成功したらしい。
 空間を渡る時間はほんの十を数える間だが、水中を無理矢理連れ回されているような浮遊感と体の重さは何度経験しても慣れるものではなかった。いつもの寝台の上にどさりと身体が落ちた瞬間、ミシュアの浜から疾走してすぐに転移を始めた呼吸の合わなさが強烈な吐き気に変わる。
 それを目を閉じて飲み込んでいると、寝室の扉が開いた。ザクリアの方がミシュアよりも若干東にあるからこちらは既に夜の中に世界がある。居間はそのせいで明々とランプが灯され、一瞬目を焼くほど眩しかった。
 思わず手をかざしたクインの耳に、低い声がした。
「……戻ってきました、ライアン」
 ああ、と返答する重い声。かつんという硬い音は灰切りだろうか。それを耳にした瞬間に凄まじい怒りが跳ね上がってきて、クインは出来うる限り素早く身を起こし、そちらへ向かって駆け出そうとした。
 途端、かくんと膝が落ちる。足をひねったことを忘れていたせいか、勢いで床へ身を打ち、喉で呻いた。
「消耗してますが」
 ごく冷静に自分を見つめて呟く声はディーだ。姿は逆光の暗い影とクイン自身の燃えさかるような血熱のためによく焦点を結べないが、好意の欠片もないからすぐ分かる。
 クインが体を起こそうとゆっくり腕に力を込めていると、ディーがまっすぐに歩いてきて腕を取った。立たせるというわけでもなく、床を引きずられて居間へ放り出される。
 軋む肩を押さえながら、クインは半身をやっとあげた。久しぶりに見るライアンは居間の長椅子にもたれ、じっと腕を組んで自分を見つめていた。
 その目に表情がない。ディーがクインの襟首を掴み、ライアンの足下に這いつくばるように押さえ込んだ。微かな失笑。オルヴィが暗い笑みを口元に歪めながら、ゆっくりと腕を伸ばしてライアンの背後から彼の首にまきつけている。挑発だと分かっていても、忍耐など出来なかった。
「離れろ、馬鹿女」
 掠れた声音で呻くと、オルヴィはたまらないといったように背をそらして笑い出した。それは確かに哄笑だった。勝ち誇ったような声にクインは相手を睨み、黙れ、と低く吠えた。
「お前の顔を見るだけで吐き気がするんだよ!」
「そう。私もお前が嫌いだから丁度いいな」
「お前と一緒にするな! 最低の売女のくせに!」
「それがお前とどう違う。お前だって男に足を開いて金を貰ってるだろう」
 クインが何かを言い返そうとした時、不意にライアンが顔、と呟いた。
「その顔はどうした」
 声がいつもよりかなり低い位置に掠れている。クインは別に、と押さえられたままでライアンから顔を背けた。自分の顎にディーが指をかけ、強引に上を向かせる。ひっかいたんでしょうね、と淡々と呟いた声に、ライアンが頷いた。
「顔はどうした。……あの女にされたのか」
 クインは首を振ってディーの捉える顎を無理に振り切り、床にぺたりと額をつける。顔などよりも、どんな表情をつくればライアンの胸に同じような傷を作ることが出来るのか、まるで見当が付かないからだ。
 不意に自分の上から重力が消えた。ディーが押さえていた体を離したのだ。クインは身を楽にするために丸めようとする。呼吸を整えようとしていると首根がおもむろに掴まれ、長椅子へ引きずりあげられた。
「顔はどうした、と聞いたな。自分でやったのか」
 ライアンが身を寄せるようにして呟くように言った。クインは無理矢理笑おうとして頬を歪め、傷の痛みに顔を痙攣させた。今更疼くような痛みが幾らでも湧いてくる。
「それが何だよ」
 脳裏に逆巻く荒波の幻影が、言葉を上手く紡がせない。とどろく音がただ憎い憎いと呻いているのだけが聞こえる。それに耳を傾けていると、ああ本当に自分はこの男が憎いのだと次々に湧いてくるようだ。馬鹿な、とライアンが低く言ったのが聞こえた。
「お前の価値は顔だと自分で知っているはずだな。──オルヴィ、しばらくは仕事は休ませろ。使い物にならない……そう、連絡を。チアロが戻ってきたらあれに身の周辺のことをさせておけ」
 オルヴィが簡単に頷いた気配がした。ライアンは視線をクインに戻した。彼のまろい緑の瞳が何かにかぎろい、ひどく不安定な明滅を繰り返していることにクインは気付いた。ライアンの感情が何かに揺すぶられているのだ、それもかなり強く。
 クインは唇をめくりあげるようにして、吐息で笑って見せた。ライアンが喉を鳴らしたのが聞こえた。僅かに細められた瞳の奥に、たわめようとしているらしい激しさがある。
 ──怒りだろうか。それとも、自分の胸にあるような憎しみだろうか。
 それをライアンが理性というもので押さえ込んで今までのように冷淡にあしらおうとするなら、それが最も許せなかった。エミリアの優しい温もりを手放して遂に何も得られないとすれば、それは全ての敗北に等しい。
 それだけは嫌だ、とクインは奥歯を一度きつく噛み合わせ、そして傷のせいでひきつれ痛む頬をぐしゃりと歪めて笑った。
「……あんた、何か言うことはないの? 浮気された亭主だってよっぽど腑抜けじゃなけりゃ、ひとくさり言うぜ」
「二度とこんな面倒を起こすな」
 ライアンの言葉はいよいよ低い。語尾が微かに震えている。
「いいな、お前は俺の特別だから許されていることが沢山ある。旨い汁だけ吸って身分を逸脱することは許さない」
「特別だって? どこが? あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!」
 ライアンが不意にクインの喉を掴み、黙れと掠れた声で言った。ぼそりと呟くような声音は感情を無理に轢き殺した時特有の抑揚の無さで、クインはそう、と更に笑った。ライアンの内側に爪を立てることは出来たらしい。
 あとは思い切りひっかき下ろすだけであった。
「で、俺はそれ以下って態度なんだろう、はっきり言えばいいじゃないか! ライアンは俺が怖いんだ、俺が消えたら守るべきお可哀想なリァンの幻だって消えちまうんだからな!」
「黙れ!」
 ライアンの叫びがした瞬間、耳元で火花が散ったような衝撃がクインを身体ごと横へはじき飛ばした。椅子の脇の机に体側を強く撲ち、身体が反射で撥ねる。
 クインは薄目を開けてライアンを見た。自分は泣いているのだろうか、視界がぼやけてはっきりとしない。けれどそのもやのかかったような世界の中心でライアンが肩を震わせて、荒い呼吸を宥めすかそうとしているのは見えた。
 クインはしゃくりあげるような呼吸でどうにか笑った。耳の奥で空気の塊がはね回っているようで、自分の声さえあやふやになりそうだ。だから尚更くっきりと発音する。
 ライアンの心に噛み付いて、そのまま引きちぎってやりたい。──エミリアとのことを簡単に裂き壊したように。
「怒ってるんだ、図星なんだな、ライアン! あんたは俺が怖いのさ、リァンの代わりにしたはずの庇護人形が自分にいちいち噛み付くのが気に入らない癖に、リァンの代替品だから殺せないんだもんな! やってみろよ! 案外楽しいぜ!」
 クインの叫びがきんと響いて一瞬世界は静まりかえった。ライアンが物も言わず青ざめていく。それは驚愕や不快のためではなく、血の気の引くような怒りのためだった。
 貴様、とライアンが呻いたのが聞こえた。クインはふんと鼻を鳴らして笑おうとした。それが終わらぬうちに喉が急速に締めあげられ、体重が消えた。次の瞬間、がくんと首の付け根に重量がかかり、足が勝手に空中を蹴る。
 喉元をひっつかまれて吊り上げられているのだと悟った時、ライアンが何かを吠えてクインは壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
 一瞬呼吸が止まり、それを回復するように大きく肩で息をする。全身が軋み痛むのをこらえ、クインはそれでもこらえきれずに笑い出した。それは弱々しい吐息のような物でしかなかったが、ライアンをあぶるには最早十分すぎる炎だった。ライアンが喉を鳴らして唸ったのが聞こえた。
 ライアンが足早に自分に近寄って胸ぐらを掴み、宙へ再び吊り上げる。衝撃にそなえてクインは奥歯を噛みしめて息を殺すが、殴打は頬ではなく腹へきた。
 みぞおちに膝が入った瞬間、クインは呼吸を喉で詰まらせた。床に落ちる。咄嗟に頭を庇って丸くなろうとした腕が踏みつけられ、無理な角度で筋がみしりと引き延ばされる激痛がはしった。
 クインは悲鳴を上げた──気がした。後のことははっきりと判別が出来ない。
 嵐のように突き刺さる力が自分を散々なぶり、痛めつけている。朦朧とした意識の中で、クインは確かにライアンの小さく殺した声を聞いた。笑っている。ひきつったような声で、しかし確かにライアンは笑っているようだった。
 何かを言ってやろうと唇を開くと、そこからしまりなく何かが零れ落ちていく。鉄の錆びたような臭い。
「──死んでしまう、殺す気ですか、ライアン!」
 掠れた声が怒鳴っているのを耳に留めたのを最後に、ふっと意識が暗闇へ紛れ込んだ。
 ステリオは丘の街だ。シタルキア中北部の丘陵地帯の中に属し、ゆったりした隆没が波濤のように遠くまで続いているのが街外れから見える。夏の草の緑が溢れてくるようで、強い光線の下にあれば一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
 エミリアは鞄を肩からかけ直し、振り返った丘の様子が記憶と変わらないことに安堵して歩き出した。まっすぐに街の中央区からやや外れた地区へ入り、やがて背の低い薔薇の木の双柱門を抜ける。夏薔薇の甘く清涼な香りがふっと鼻先をかすめ、やっと自分が元の場所へ戻ってきたような気になる。
 奥から偶然歩いてきた中年の女に軽く会釈すると、女はあら、と明るく笑った。
「まぁ、エミリアさん? 帰省は再来週って聞いてましたけど、早めたのね?」
 女の表情にどんな影も苦悩も遂に見つけられず、エミリアはやっとぬるい笑みになることが出来た。何かがあれば、きっとこんな風に屈託なく話しかけると言うことはしないだろう。
 それが思いの外自分の頬を弛めたらしい。ほっと溜息になると、女はエミリアに満面の笑みを向けた。
「面談室をお使いになる? それとも帰宅するかしら? アスニアったら養家に迷惑だからってなかなか帰らないのよ」
 エミリアは苦笑になった。叔父夫婦には子供がおらず、そのせいでエミリアもアスナも実の子のように愛しまれている。葡萄園も年によって作付けに波があるのは仕方がないが、片手間に仕込んでいる葡萄酒の評判が存外良くて、不足のない暮らしだ。口減らしではなく、自分の世話に手がかかることを気にしているのだろう。
 それはエミリアも同じであった。だからアスナが全寮制のこの盲学校に入りたいと夢想を語った時に絵の新人奨励賞を貰った絵を売って金を作ったのだ。
「連れて帰ります。部屋へ行って荷造りを手伝ってもいいですか?」
 どうぞ、と女が微笑む。エミリアが頻繁に面会に行く部類であることもあって、面談には比較的甘い。盲学校特有の手すりや階段の終わりの鳴き床を通り、妹の部屋の扉を叩く。どうぞ、という声は明るくて、いつもの妹のまま、何も変わらないごく普通の日々のままだ。
 部屋の扉を開けると、妹は窓辺にいた。開け放した窓硝子に耳を当て、じっと目を閉じている。窓に跳ねる風の音を聞いているのだ。
 扉が開くと一瞬通りが良くなった風が強く硝子を震わせて、それが楽しいのだろう、アスナは小さく喉を鳴らして笑っている。ちりんと扉にくくりつけられた合図の鈴が鳴った。
「……だれ?」
 おっとりと口にして妹は窓から身を離す。傾げていた首を直すと長く伸ばしている髪がさらりと肩を滑って落ちた。妹の目と同じ、美しい夜空の色だ。落ち着いて扉の方角へ向けられる目は、それでも見当違いの場所を見ている。というよりは、振り向いた耳に気配を悟ろうとしているからどうしても見えている者とは視線のやり方が違うのだ。
 エミリアは私よ、と小さく言った。妹の無事を目にした瞬間、気が抜けてしまうほどの安堵に襲われて、口を開くのもおっくうなほどだ。
「──姉さん? 姉さんね、その声、すぐに分かる!」
 アスナは朗らかな声を挙げてするりと窓際の椅子から降りた。自室の中は既に未知の世界ではないらしく、歩いてこようとする。
 姉の身体を一瞬でも早く確かめようと伸ばされてきた手の先にエミリアは指を添わせ、絡めて引き寄せた。妹の身体はまだ少女の入り口にある年齢のままに小さく、すっぽりとエミリアの両腕の中へ収まってしまう。この小さな宝石の愛しさにエミリアは破顔し、きつく妹を抱きしめた。腕の中にある身体の温度と質量が、やっと確かな実感に変わる。
「アスナ、アスナ……会いたかったわ」
 エミリアはうわごとのように口走り、何度か再会の軽いキスを頬に交わしあってから長い溜息になった。一つが無事に解決すれば、更に一つが浮いてくる。不安というのは大抵一つの根に連なっていて、全てが消えるという確信に至るまでには一つ一つを丁寧に潰していかなくてはならなかった。
 エミリアは僅かに呼吸を飲み込み、重大なことだと悟られないようなさりげない声音を作り出した。
「ねぇ、何か最近おかしな事はなかった?」
「おかしな? ……例えばどんなこと、姉さん?」
「あぁ、いえ……いいのよ、気にしないで──ちょっと見ない間に大人びた感じがしたからびっくりしただけ」
 妹の反応が余りに無邪気で、エミリアはやっと自分の暗い想像を振り切ろうと決意する。この小鳩のような妹が不幸になることを想像するよりは、幸福に微笑んでいる姿を思い描くことの方が重大で重要で、大切なことだ。叔父さんの所へ帰るわよ、とエミリアは努めて明るく口にして、簡単に荷物をまとめて外へ出た。
 ザクリアのような大都市とは違って流しの馬車などはほとんど無い。二人で田舎道を歩いている途中で捕まえた農馬車に便乗出来たのは運が良かったほうであろう。
 アスナは刈り取った牧草に夏の匂いがすると身を投げて笑っている。朗らかな笑い声が耳に響くたびに少しづつ、エミリアの不安や恐怖を埋めていくようだ。可愛い子。エミリアは草の束に頬を押しつけている妹を見やる。
 草の匂い、風の音、小鳥の声、太陽の熱。視覚を失ってしまった代わりにアスナは全てを肌と心の感触で捉えている。悲壮でもなく、自棄ばちな明るさでもない。これがこの子の芯なのだとエミリアは不意に妹を頬ずりしてやりたくなる。両親がいなくなってからは唯一残された最も濃い血の相手であったし、何よりも幼く守るべき者なのだ。
 叔父夫婦の家に着いたのは夕方近くになってからだった。馬車を降りてから少し歩いたが、しっかりと手を繋いでいるせいなのか、アスナの足取りにあまり不安はない。最近の寄宿舎での生活や、習いだした点字のタイプのことなどを嬉しそうに語っている。
 やはりあの少年の口にしたのは単なる恐喝なのだとエミリアは次第に心がぬるく解けていくのを感じてそっと笑った。黄昏に埋没する農園はいつもの色で、何も変わらない光景を見る度にほっと長い溜息になる。忘れようと努めても、一度刷り込まれた恐怖を捨ててしまうことは難しい。それが検証によって少しづつ安堵にすり替わっていっても同じだ。
 姉さん、と妹が強くエミリアの手を握った。どうしたの、と優しい声を出すと、見えないはずの黒々した瞳をまっすぐに向け、アスナは微かに憂えたような表情で言った。
「姉さん、何だか怖いことがあったのね? 震えてるもの、ずっと」
 エミリアは一瞬返答が出来ない。真夏のぬるい残照の中でアスナの手を強く握りしめて震えていたとするなら、やはり怯えているのだろう。失いたくないのだ。全てを。
「大丈夫。アスナと一緒にいれば、きっと落ち着くからね」
 返答は下手に誤魔化さない。肌で触感を読むごとく、アスナは気配に敏感な娘だった。光を失うまでもその傾向はあったが、それは更に強まっている。妹はそれに直接答えず、そっと笑った。遠くから自分たちを見つけたらしい叔母の驚きと歓喜の声が呼んでいる。それに何の暗さも感じない。エミリアはまた同じような溜息になって手を振り返した。
 久しぶりの養家は記憶の通りの野暮ったくて温かな色味をしている。手縫の壁掛けも毛布のつぎも、そこに溢れるように縫い込められている住人の愛情が真冬の雪のようにじんわりと重たい。けれど、それに埋もれてやっと暖まるような心地もあるのだ。
 エミリアの帰郷は予定よりも半月早く、これは相当突然といって良かった。どうしたのだと苦笑する叔父たちにも、アスナと同じく日常の明るさはあっても恐怖の影は見つけられない。3ヶ月ほど前に帰省した時の空気と同じものをふんだんに与えられて、ようやく神経ごと弛緩していくようだった。
 夕食が終わると妹を連れてエミリアは二人の部屋へ引き取った。昼下がりの埃っぽい道を歩いてアスナも疲れているようだったし、エミリアも船を降りてからは強行軍であったといってよい。
 一刻も早く妹の無事を確かめたかったし、叔父夫婦の息災を見たかったのだ。
 アスナはついてすぐに自分で整理した棚を開けて、手探りで寝着を取り出している。着ていた木綿の服をぱっと勢いよく脱ぎ捨てているのはやはり、自分に対する目の意識の薄さなのだろう。見られている、ということに対して無頓着なのだ。
 寝着をもそもそと着ている仕草はたどたどしい以外の何でもないが、手伝ってはいけないと言われている。身辺のことは自分で一通り出来るようにするのが自活の最初だと盲学校で教えているようだ。
 だから手を貸さずにエミリアはじっと待っている。釦の数を丁寧に数え、指がゆっくりと着替えを仕上げていく。次第に子供から大人へ渡り始める身体はどこも淡く薄い、女の匂いがする。未完成で危うい身体の線が、この一瞬しかない美しさをもっている。それは殻を破ろうとする直前の息吹だ。
 見る度に妹の身体がゆっくりと、しかし確実に子供時代の次の季節へと歩んでいくのが分かった。それに比して笑顔は昔の通り、屈託なく明るい。子供のままのような、無垢の永遠を垣間見る気がする。
 けれど、その身体のように妹が子供のままだとは思ったことがなかった。他人には無邪気で明るく、やや年齢にしては幼く思われるほど素直に大人しくやわやわしい少女であったが、真実子供であれば言うはずの他愛ない我が儘も癇癪も持っていない。何かを無理矢理主張して誰かを困惑させたりすることがないのだ。
 ──優しい子。エミリアはやっと全ての釦をかけ終えて、一番下から順にきちんと止められているかを確かめている妹を見ながら思う。
 優しくて、傷つきやすく、そして強い。両親の死、自身の盲。そんな境遇の中にあってもアスナはいつもエミリアを支え、励まし続けた。辛くないなどとは思わない。アスナの強さは何事にも動じない鉄ではなく、しなやかに風にそよぐ若木のそれだからだ。
 不意に愛おしさの波が零れてきて、エミリアはそっと目元を拭う。妹と自分と、支え合って生きていきたい。可愛い子。優しい子。私の希望。エミリアは口の中で呟いた。ふと意識のそこを何かがかすめようとするのを無理に押し殺し、着替え終わって寝台に座る妹の隣へ腰を下ろす。
「……綺麗な髪ね、アスナ。やっぱり長いのが似合うわ」
 言いながらエミリアは櫛で丁寧に妹の髪を梳いてやる。これは久しぶりにあった時の姉妹の心を近くする儀式のようなものであった。流れるような黒髪は艶やかでどっしりした重みがある。量が多いが美しい髪だ。妹の身を整える閉じた幸福を噛みしめていると、不意にアスナが姉さんと言った。
「──ねぇ、前の手紙にあった男の子は元気?」
 ふっと瞬間、手が止まった。胸の深いところが一瞬で射抜かれて、僅かな時間呼吸も出来ない。
 エミリアはそうね、とあやふやな事を返答し、もう寝なさいと強く言った。寝台に入れてからそう立たない内に妹が寝付いてしまうと、エミリアはほっと溜息になって自分も寝台へもぐりこんだ。船の中の揺らぎがなくて、真実自分は戻ってきたのだと思う。
 目を閉じると真っ先にクインのことが浮かんだ。
 ──クイン。見捨ててしまったという罪の意識や哀れだと思う胸の作用よりも早く、彼の表情が豊かにあふれ出してくる。
 苛立つ頬の線、癇性に歪めた唇。そんな翳りばかりの面差しが、いつしか素直に明るく変化していったのをみたのは、奇跡か幻のような出来事であったはずだ。
 船の中でみたのはいとけなく縋りつく、切羽詰まった依存であった。怒り、笑い、不機嫌になり、毒づき、そして強く禍々しい言葉に自ら傷つくような顔。沢山の彼を見たはずなのに、最後に他のもの全てを消し去って浮かんでくるのは、ミシュアの浜で別れた時の幸福そうな笑顔だ。
 心の温度のままに全てを全身から発散する彼の、あれが最も力ある表情だった。あの瞬間に自分たちの間に秘密も打算も形式もなく、ただ惹かれるままに相手を見つめていればそれで良かった。そのはずなのに。
 エミリアは毛布を頭まで引き上げ、中で丸くなった。涙がたぎるように溢れてくる。ここに至って初めて、ミシュアの浜で膝を折った時から自分は茫然としていたのだとやっと思う。
 結局のところ、自分は何に負けたのだろう。
 クインのことは愛しかった。彼が自分のためにそこにいてくれと言うのなら、彼の繊細な神経を宥める鎮静剤だったとしても意味があると思った。彼の心はひどく荒くて激しい波だが、その根底にあるのは絶望的な寂しさだった。
 だから可哀想に思った、それが間違っているはずはない。男として愛していたかという問いには今でも答えがないが、それも仕方がない。憐憫は決して恋ではないが、それも人への真摯な祈りならば、愛と呼べる種類でないか。
 手放してしまった希少な宝石。彼はその硬質な心でもって自ら傷ついていく。それを自分に止めることが出来るなら、それに準じる巫女でもいいと確かに思った。女というものは殆どが絶望的に美しいものが好きで、それは馬鹿馬鹿しいことではあるが仕方がない。圧倒的なものの前にひれ伏すならば、愚かしさでもってしか出来ないからだ。
 彼は美しかった。表面に浮かぶ外殻ではなく、胸の奥津城に誰にも触れさせない頑とした純粋を飼っている。それを自分でどうしていいのか分からずに、秘密を分かち合う相手を必死で捜そうとして遂に見つけられない悲哀が彼をどうしようもなく打ちのめしていたのだ。
 エミリアはこぼれる涙を枕に押しつけながら深く頷いた。彼の背中に翼を描いたのが何故だったのか、ようやく解答が見つかった気がした。それはきっと彼が最も欲しているものだから。力強く羽ばたいて地上より少しでも高く、天へ近付いていきたい、そしてそれが出来ないことに絶望しつつあった天使。
 ──それを捨ててしまった。自分の手で。一度は彼は翼を見つけたはずだ。そんな表情を知っている。
 彼はどうしただろう。あの少年は彼の、おそらくは友人なのだろう。名前は遂にその唇から零れなかったが、彼の口から陽気な友人の話は聞いたことがある。それに任せていいのだという声が自分の中からすることを許せない。彼への罪悪感と自分への絶望が、家族の無事を確認し、確信してから湧いてくる。
 それが自分で本当に卑怯だと思う。あんなに心細く不安な声で自分を呼んで、どうしていいのかも分からないまま身を寄せてきた獣のような彼を見捨てて、全てに目を瞑り耳を塞いで逃げてきたのだ。
 心の底から彼を哀れだと思う、張り裂けそうなほど悲しいと思う。けれど、それを救うために自分の根底を構成するこの家の温かな色をした全てを差し出せと言われたら、それは出来なかった。出来ないならば、これは全てを賭けて狂っていくような恋ではなかったのだ。
 そう呟く側から言い訳のようだという自嘲が湧いてきて、エミリアはきつく歯を食いしばる。少年がエミリアに彼を不幸にはしないと言った言葉を鵜呑みにする気はなかった。第一、それは自分とは関係がない。気休めにもならないのだ。
 クイン、とエミリアは小さく名を呼んだ。もしあの時全てが順調に流れていたならば、今頃は彼と身体を寄せ合い名前を呼び合っていたかもしれないのだという新しい推測は、思った以上に胸を刺した。痛い。彼は今、どうしているだろう。
 その資格は既に無いとしても、案じているのは本当だ。あれが恋でなくても、愛の種類ではあったから。思えば全てが幻の儚さであった気がした。夏の海にくゆる、蜃気楼のような。
 違う、とエミリアは反射的に強く思った。全ては自分の目と、心が真実だと思うのがうつつであり、幻だと思うものが夢だ。醒めて消える夢にはしない。誰がどんな思惑を持っていたかも関係ない。エミリアの中にある、一番の彼が全てで現実だ。
 現実、と呟く。あれが幻でなかったことを証明するために、うつつの夢であったことを残しておくために、この胸の後悔と彼への追憶のために、差し出せなかった自分の全てを賭けるとするなら、方法はたった一つだ。
 ──描きたい。
 自分の身体のそこから力強く浮いてきた言葉に深く頷き、エミリアはゆっくりと身体を起こす。妹を起こさないようにそっと寝台を抜けてショールを羽織ると、静かに家の外へ出た。葡萄畑は月夜に照らされて、青緑色の海のように葉がうねっている。
 その中をエミリアは足早に作業小屋へと向かった。作業小屋の屋根裏は昔からエミリアの絵のための部屋になっている。専用の部屋を増築してもらう事が出来なかった代わり、エミリアが好きなだけ一人で絵を描けるようにと叔父が作ってくれたのだ。
 屋根裏へあがるとそこは昔のままの世界であった。賞を取ることも、芸術院へ進むことも、絵を売って生活することも、全く思いもせずに自分のためにただ描いていた頃の気配がまだ残っているようだ。
 描きかけてそのままになっている何冊もの画帳、何を描くか迷って手をつけていない木綿の画布はやや日向焼けしているが、構わずにエミリアはそれを作業台へ立てかけた。
 ──描きたい。
 胸の奥から衝動が、それだけを囁いている。
 床に落ちていた炭は写生用の柔らかいものではなく、おそらく子供の頃に母屋の備蓄庫から拾ってきたものだ。それをも愛しいとエミリアは微笑み、画布と真向かった。
 ──彼を描きたい。いいえ、描かなくては。
 更地のような何もない画布に、たちまちクインの沢山の表情が零れてくるようだ。これまでに見た綺羅綺羅しいものではなく、人形のような魂のない端正さではなく、たった一つ、描きたいと心から思う表情が出るまで、じっとエミリアは画布を睨み据えて待っている。
 ──描きたい。
 ここへ戻るのは自分の持っている業なのだろう。それをなじって離れていった恋人もいた。全てのことを絵のための土台であると言われて悲しかった。けれど、それは今的中ではなくても何かの真実を含んでいるかも知れないとそう思う。
 描きたい。クインという奇跡を描き留めておきたい。そうしなくてはいけない。全てがエミリアの中で昇華されていくのなら、通り過ぎていった恋愛でさえなかった交感を形に残し現実だったと振り返るよすがとなるのはやはりこれしかない。
 自分自身の中から溢れてくる、この衝動と情熱の帰結しかないのだ。
 描きたい、とエミリアは強く画布を睨んだ。
 彼を描きたい。美しさで周囲に君臨する王ではなく、ただ寂しさと怒りと、それでも希望を手に入れようとするあの目を持った少年としての彼をとどめておきたい。
 自分でも意識せずに最初の一線が出た。何も描かれていなかった処女雪の上に足をつけた僅かな罪悪感が手を止め、やがてそれは突き進み、滑り出す。
 彼を描きたい。今、描きたい。
 ひたすら突き上げてくる衝動がエミリアの手を自動筆記のような勢いで動かしている。ザクリアのアパートにある美しい幻想画とは違う絵になるだろう。この高揚感をしばらく味わっていなかった気さえする。
 売り絵は否定しないしそれで食べていこうとしているのも事実だが、他人が求める自分の絵はいつの間にか幾重にも張り巡らされていた自分らしい優しさという枠の中であった。慣れた技法と慣れた愛に、僅かに疑問を持ったことはなかったろうか。エミリアの持つ魂の複製品のような絵を沢山描いてきた気がする。
 ──描きたい。
 エミリアは自分の手が勝手に彼の姿を描き出していくのを見つめながら、深く頷いた。これは彼だ。誰がどう言っても、私の中の彼だ。技術でもなく、色彩の綾でもなく、彼の魂をこの一枚に塗り込めておきたい。その為だけに描く、自分のための絵。
 描きたい、とエミリアは呟いた。途端に何かが決定的に弾けたらしく、一度は止まっていた涙が溢れてくる。それを空いた手で払いのけながら、エミリアは忙しく手を動かした。
 描きたい。全ての決算に、自分と彼が僅かにでも同じ地平に存在した証拠に、今描きたい。この絵を最後に情熱全てを燃やし尽くしても構わない。
 これが描くということで、これが想うということだ。
 絵のために生きているのだという非難はあるいは正しいかも知れない。けれど、それがどうしたっていうの。それが生きていくということなのよ──私にとって。
 クインのことがこの絵の代償であったということではないのだ。全ての魂への打擲があるからこそ、それを糧に出来るのだから。
 エミリアは夢中で描き続けた。この絵を彼に見せてあげられるかは分からない。けれど、描くことで彼への祈りを形残すことが出来る。
 その為に描くのだ。愛も、祈りも、形にならないものだからこそ、胸の中にあった証明と追憶のために。
「天使」
 エミリアは呟く。
「天使にするわ──夜明けに空を見る希望を」
 これがエミリアにとっての彼と過ごした夏、奇跡のような短い季節の決算であった。
 ──これは後に、『暁の天使』として展覧会で最高の評価を得、また画家エミリア=スコルフィーグの劇的な質的転換を示す一枚として扱われるようになるが、それはまた別の話である。
 ゆっくり目を開けると、視界は白く濁っていた。瞬きをすると涙がこぼれていく。おかしい、何が悲しくて泣いているんだろう。それが分からなくて更に瞼を動かしていると、次第に世界が形を表してくるようであった。目線をあげるとよく知った木の節の模様、窓硝子の気泡。光は斜めにたっぷり差し込んで、寝台の端と床に日向の匂いを振りまいている。
 吐息を漏らして起きあがろうと右手を寝台に支えると、途端に腕がひきつるような激痛がはしり、思わず呻いて身体を倒れこんだ。まるで右腕に力が入らない。手の指が一斉に痙攣し始めて、自分でもどうしていいのか分からなかった。枕に頬を押しつけて次々に浮いてくる脂汗を拭っていると、軽く駆け寄ってくる足音がした。次の瞬間、ぴたりと冷たい感触が額に押しつけられて心地よさに僅かに喘ぐような声が出る。
「右腕は痛めているから、あんまり使うなよ」
 聞き慣れた明るい声に振り仰ぐと、チアロが柔らかに笑いながら自分に濡らした布を押し当てているのだった。ああ、という、喘ぎとも吐息ともつかない声がこぼれた。
 チアロがクインの額に濡布を押しつけ、肩を抱くようにして体勢を直す。起きるか、と聞かれて頷くと、寝台にもたれるように身体をあげてくれた。
「起きたな、クイン。……今、食べるものを持ってきてやるから」
 クインはぼんやりしたまま頷いた。全身が気怠く、ぎしぎしと軋んでいる。ばらばらにされたのを無理矢理繋ぎ直したように、関節が重くてなかなか動かすことが出来ない。ちらりと右腕を見るとこれでもかというように包帯が巻かれており、添え木までがあった。それを見た途端、強い湿布薬の臭いがした。
 クインはそれをじっと見つめて首を傾げた。記憶が不鮮明で、どこからが夢で現実なのか、まるで分からない。一体何故こんなことになっているのかも。左手でそっと右腕の包帯を撫でようとすると、左の小指と薬指にも包帯があった。こちらは固めてあるらしく、ぴくりとも動かせない。
 クインはぽかんとする。現実味のない世界に突然迷い込んだようで、どう反応していいのかも分からなかった。厨房からチアロが戻ってきて、寝台の隣に椅子を引きずり腰を下ろす。甘い匂いがした。
「蜜桃の甘煮だよ。昨日買っておいたんだ、お前、食べたいっていったろ?」
 クインは目をしばたき、そう、と小さくいった。その記憶は完全に抜け落ちていて、チアロがそう言うならということでしかない。クインの反応でそれをチアロも悟ったらしく、何だよと苦笑して皿の中の刻まれた果肉を匙ですくった。
「ほら、口開けて……遠慮すんなよ、その指じゃ匙を持つのもすぐには無理だから」
 どうやら右手は力が入らないし、左手は動かせない指がある。それを悟ってクインはおとなしく唇をあけた。匙のひんやりした感触が割り込んできて、舌先にあたる。舌の上を転がって落ちていく桃のざらっとした表面が気持ち悪い。クインが顔をしかめているのにも構わず、チアロは定期的にせっせと桃を口に運んでくる。どうやら自分は長く眠っていたのだろうと思ったのはこの時だった。皿の中をあらかた嚥下し終えてから、クインは腕なんだけど、と言った。チアロは頷き、完治まであと3週間、と告げた。
「筋をひねって傷めただけだから、使わないようにその期間吊っておけば大丈夫だってさ。あ、それと左手の指は骨がぱっきり折れてるけど、無理しなければちゃんとつくって。あと、肋骨が何本かいっちゃってるからしばらくの間、仕事は休み」
 クインは頷いた。全てがもやのかかったような断片的な記憶ばかりで、何一つ系統立てて思い出せない。ただ、夏の美しい幻影を見た気がする。眩しくて綺羅しい、紺青の海の幻を。
 海が……と言いかけると、チアロがごめんよ、と素早く遮った。
「俺が一緒に帰れば良かったな。お前にあんな馬鹿なことを言わせなかったのに……」
 クインはじっとチアロを見つめた。友人は昼下がりの明るい空気の中で柔らかに、どこか哀しそうに笑っている。馬鹿なこと、と復唱するとチアロはリァンのことだよと苦く笑い、クインの額にはりついている髪を丁寧により分けた。
「リァンのことは、俺にはいいんだよ。お前がそう思っててくれたのをディーから聞いたけど、嬉しかった。ありがとう」
 クインの身体に負担をかけないように配慮された抱擁が、温かだった。クインはじっとそれを受け止めながら、自分の脳裏を検証する。チアロの言葉にも、肯けるような気がしたが決定的な確信がない。全てはぼやけた曖昧な世界にあって、何もかも現実味がない。クインの反応がどうやっても薄いことに気付いたらしく、チアロはやや置いて寝台の脇から大きめの何かを取り上げた。
「あ……」
 クインは喘いだ。それを目にした瞬間に、薄い皮膜が破れたように全てのことが次々に溢れ出てくる。
 エミリア、暖かな色をした優しい絵の人。一度は澄んだ視界が見る間にぼやけてくる。自分は泣いているのだ。出会いの夜に目を見張った彼女から一息に、最後に見たミシュアの海での微笑みまでを駆け上がる。
「これ、彼女から預かったんだよ。お前に渡してくれって言われた」
 チアロがエミリアの画帳をクインの膝におき、口を綴じていた紐をほどいた。クインは頷いた。夢ではなかった。あの心穏やかで楽しかった日々は幻でも空想でもなく、最後に身に残った傷と共に確実に刻まれている。エミル、とクインは呟いた。俯くと涙が落ちて画帳の表紙にこぼれた。それをチアロの指がこそげとる。ごめん、とチアロの声が聞こえた。
「……こんな風にはしたくなかったのに、お前にもライアンにも、一つもいいことしてやれなかったな」
 チアロの声音には深い悔恨が滲んでいる。お前のせいじゃないよ、とクインは言った。誰のせいだということには意味がなかった。ライアンの仕打ちに憤っていても、それが自分の癇癪で利己的な欲求だということくらいは知っていた。けれど、それを押してでもライアンには自分を見て欲しいと思い、願いが叶わないと焦れて自棄になったのだ。
 エミリアに出会ったのは、そんなときだった。乾いた砂に吸い込まれていくように、エミリアの全てが胸に通っていった。誰でも良かったのだろうかという疑問は、さらさらと目の前を通り過ぎてしまった。自分に希望という言葉を教えてくれたのは、彼女であったはずだから。
 いいんだ、とクインは繰り返した。チアロが切なく笑ってごめんよと呟いた。クインは首を振り、そっと画帳の表紙をめくった。一人にしてくれるつもりなのだろう、ゆっくり休めと言い残してチアロが席を立っていく。それを視界の端で確認しながらクインは目を落とした。
 練炭の強く淡い濃淡で描かれた世界は、良く知った温もりのままにあった。最初の一枚には近所で遊ぶ石蹴りの子供がある。
 ──私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人──
 耳の奥に明るい恋の歌が蘇る。エミリアのアパートから覗いた日常の写生だ。日だまりの猫に逃げてしまったという注釈、蝶の展翅。側に走り書きの文字が日付と場所を教えている。
 自分もいる。最初の一枚は背中だけで表情さえないのに、尖りきって折れそうなナイフのようだ。ひどく苛立ち、暗く出口のない怒りで気が狂いそうだったのだと今なら思える。エミリアの部屋での写生もやはり背中が多い。けれど、何かが劇的に変化したのが背中だけでも分かる。自分の肩や俯く首筋から暗い翳りが消えている。
 これが彼女の力だった。いつでもクインを許し、優しく笑ってくれた。大丈夫よと囁いてくれた。自分が彼女の優しさに甘えつけ込んでずるずると居着くのを、黙って受け入れてくれたのだ。
 エミル、とクインは呟いた。居心地が良かった、甘えていた。自分の背負うもの全てを投げて彼女に縋り付こうとしたのだ。そしてそれをエミリアは受け入れようとしてくれた。船の中で手を繋いで眠った記憶、ミシュアの砂浜で約束のために抱きしめた身体。肌の熱。平凡な女の平凡な優しさでも良かった、彼女が自分を抱きしめて、大丈夫よと言ってくれればそれだけで良かったのだ。
 クインはこぼれる涙を左手の甲で拭った。胸にあるのは引き裂かれたという痛みでもなければ世界への煮えたぎるような怒りでもなかった。
 ──淋しい。ただ、淋しい。たまらない。
 寂寞とした大地に一人で立っているようだ。ほんの僅か先に潤う泉が見えていた気がしたのに、それは蜃気楼だったのだろう。真夏の光線と紺青の海に抱かれて一度は取り戻せると思った自分の中の平均律が霞み、消えていく。
 次の頁をめくると、項垂れる自分の背に翼が描かれていた。これが希望の形なのだ。俯きながらも前へ行きなさいとエミリアの声が耳元で謳っている気がする。
 行きなさい。前へ未来へ進んで行きなさい。
 今はまだ小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ。
 エミリア、とクインは喘いだ。目を閉じると涙がぼたぼたと紙に零れる音がした。上掛けの端でそれを吸い、クインは自分の背にあるとエミリアが言った翼を見つめた。彼女の瞳にこれが見えていたなら、いつか自分にも見えるようになりたいと思っていた。いつかエミリアの見る世界を、自分で見たかった。──エミリア、あなたの手の紡ぐ、愛と祈りといたわりに満ち満ちた世界を。
 クインは泣きながら次をめくる。船の中で彼女が描いていた小品がいくつか続き、それは突然現れた。自分だ。はっきりと分かる。笑っている、胸が痛むほど明るく強くまっすぐに、自分が笑っている。沢山の笑顔。いくら描いても足りないと思ったのか、筆致は急いで早い。勢いのある線が自分の満面の笑みを描き留め続けている。日付はミシュアで別れた日だ。砂浜でこれを描いたのだろう。
 エミル、とクインは呻いて画帳を閉じた。正視は難しかった。何を失ってしまったのか、はっきり分かったのだ。エミリアは確かにクインの希望かそれに近いものだった。彼女は全身全霊を籠めて自分への慈悲を描いてくれた。これほどまっすぐで堂々とした視線を、何の含みや翳りもない笑顔を、クインは鏡の中にさえ見つけることが出来なかった。それを簡単にエミリアは掴みだし、紙の上に広げて見せてくれている。
 大丈夫よ。エミリアの優しい声がした気がして、クインはゆっくり身体を寝台へ横たえて画帳を抱き寄せた。彼女の代わりにこれを抱いて眠りたかった。暖かさは同じだ。そう信じればかなう。大丈夫よ、大丈夫よ……エミリアの声が遠く歌っている。彼女の世界を抱いて、クインはゆるやかに微睡みへ漕ぎ出した。
 目が醒めたのは夕方近い時間だった。差し込む日が赤い。気付くとチアロが出し放しにしていった椅子で、ライアンが画帳をめくっていた。身じろぎするとクインが起きたのを分かったのだろう、画帳を閉じて足下へ置く。
 クインはじっとライアンを見つめた。ライアンも同じように自分を見つめ返してくる。彼とこうして視線を意味無くかわすのは本当に久しぶりだと思った時、声が聞こえた。
「済まなかった」
 うん、とクインは長い吐息と共に言った。チアロは言わなかったが、自分の怪我は殆どをライアンの暴力がつけたものなのだろう。それをさせたのは自分だ。あの瞬間瞬間のことを時系列立てて思い出すことは出来そうにないが、ライアンの傷だと知っていてリァンの名を持ち出し、そこに爪を立てたのは自分なのだ。
「あと二十日もすれば右腕の包帯は取れるはずだ、医者がそう言っていた」
「うん」
「足はひねっただけだから、もう大丈夫だとも」
「ああ、うん……」
「……済まなかった」
 ライアンの声が呻くように言った。そこに籠もった深い慚愧にクインはもう一度、うんと返事をした。ライアンが自分の額を指でなぞり、頬に触れる。傷は残らない、と言われてクインは目をしばたき、そういえば自分で左の頬をひっかき下ろしたことを思い出した。
 クインはそれにも頷き、ライアンの置いた画帳へ視線をやった。泣いた痕跡も残っているだろう絵を見られるのはひどく恥ずかしく、そして居たたまれなかった。自分が何をエミリアに求めていたかまでを見透かされそうだ。
「あの女の絵だな」
 ライアンの言葉には抑揚がない。これはいつものことだったが、急に不安がこみ上げてきてクインは左腕を伸ばし、ライアンの服の裾をつまんだ。握りしめたかったが、無事な三本の指ではそうするしかできなかった。
「彼女には手を出さないで……お願いだから」
 必死の思いで口にした言葉に、至極あっさりとライアンは頷いた。その反応の早さが却って不安を呼んでいることに気付いたらしく、大丈夫だと付け加える。
「俺はチアロに任せた。だからあとは奴に言え」
 クインは頷いた。チアロに一任した時からライアンはエミリアのことを手にかける気はなかったのだろう。むしろ、その気がないからチアロに任せたということも言えるはずだ。チェインでは特に頭目の面目が重要視されている。エミリアのことを知りながらライアンが彼女を放免したならば甘いと言われる種類であろう。チアロならば、まだ目立たない。ありがとう、とクインは呟いた。ライアンは頷き、それと、と続けた。
「オルヴィはお前の身辺から外す。お前とは本当に駄目だな、まるで合わない」
 そんなことを今更気付いたのかとクインは呆れかえる。ライアンは溜息になった。
「別に俺の愛人だからという理由でお前に添わせていたんじゃない。だが、どうやら無理のようだ。今後はチアロのところの子供が来る。オルヴィがしていた仕事はディーに割り振る。ディーの方がまだましだろう、お前にとってはな」
 クインは曖昧に頷いた。どちらがより嫌いかということになれば、確かにディーの方がオルヴィよりも数段はましだったのだ。クインが頷いたのを見て、ライアンはそれと、と付け加えた。
「それと、ディーに礼を言っておけ。奴が止めなければ俺はお前を殺していたはずだ」
 それにもクインは頷いた。記憶のどこかで殺す気ですかと怒鳴っている声を知っている。あれはディーだったのだろう。彼がライアンを止めたのは自分へのいたわりなどではなく、基本的にはライアンがその意志で庇護していることを急激な怒りのために破綻させることをためらったせいだ。それがすらすら理解できるが、助けられたのは事実であるらしい。分かった、とクインは小さく言って目を閉じた。
 ディーの思惑を指摘して毒づく気力は既にどこにも見あたらなかった。すっかり何もかもが燃え落ちて、残っているのは温かな記憶の気配だけだ。全てを失って茫然としている。ここにあるのは脱け殻のようなものなのだ。エミリアが去り、再び世界は薄暮へ落ち込もうとしている。彼女の希望という言葉がなければ、既にくず折れていたかもしれない。
 エミル、とクインは呟いた。その瞬間に、瞳が潤み出す。その熱さに耐えられず瞬きをすると、涙がこぼれて頬をかすめていった。むず痒い感触を嫌って枕に頬を押しつけていると、それを大きな手がゆっくりと撫で取っていくのが分かった。
 クインは目を開けてライアンを見る。自分を見やる彼は自分と同じ程度に傷ついたような表情をしていた。クインをこうして寝台に送り込んでしまったのは彼自身だった。そのための痛ましさを簡単に表情に見つけることが出来る。クインは混濁した記憶の中に残っているライアンを巻き戻し、あんた、と呟いた。
「笑ってたよね、ライアン……俺を殴りながら、笑ってた」
 ライアンの指が一瞬ぎくりとしたように止まり、そしてややあって再開する。そうらしいなという声にはひどい悔恨の影があって、クインをやや落ち着いた気持ちにさせた。
「多分、お前を殺せるのが嬉しかったんだろう」
 ライアンの返答に、クインは吐息で笑う。
「倒錯してるね」
「本当だな」
 ライアンがゆるく笑うのが聞こえる。それに合わせるようにクインがそっと笑うと、ライアンは涙をぬぐっていた手をクインの髪に置いてゆっくりと撫でた。
「だが、お前が死ななくて良かった──自分でしておいてと思うだろうが、時々自分で歯止めが利かないことがある……済まなかった、殺してしまうところだった……」
 彼の声が吐息のようにかすれて消えた。クインはライアンを見た。年長の男はクインの髪を撫でながらどこかで放心したような表情をしていた。過剰な安堵のためなのか、それともその余韻を引き戻して怖れているのか、いずれにしろクインに手をあげたことを痛みとして覚えている。
 いいよ、とクインは言った。彼を怒らせ挑発したのは自分だったのだ。あの瞬間、殺されてもいいとさえ思っていたはずだ。ライアンがリァンへの追悼に縛られて身動きが取れないことを誰よりも苦く思っているのは本人なのかも知れないと初めて思う。
 けれどそれを責めてしまうのは、ライアンの視線が自分だけでなく、例えば彼に忠実で明るい友人のことも見ようとしないからだ。チアロはいいよと笑っていたが、彼の胸内を思えばただ切なく、哀しかった。
「いいよ、分かってる……あんたには特別はリァンだけで、俺も他の奴も誰もそこに入れる気がないんだ」
 クインの言葉にライアンは苦く笑い、長い溜息をついた。
「……リァンの替わりはいない。誰であっても。お前に何を言われても、それを譲る気はない……彼を信じているし、信じることを信仰と呼ぶなら彼は俺の神だ──死んでしまった今でも」
 僅かに何かを思いだしたのか、ライアンの目元が痙攣した。目にあるのは未だに癒えないままでじくじくと膿続けている傷であった。クインはそう、とその目の影を見つめながら言った。
「淋しいね」
「そうだな」
 ライアンは少し笑い、けれど、と続けた。
「けれど、今を生きている奴らを厭うていることはない。チアロのことも、お前のこともな……ただ、俺は求められるのに慣れていない……のだと思う。欲することは知っていても、どう受け取っていいのか、分からない」
 クインは頷いた。ライアンはまだ子供と呼べる頃、ろくな記憶さえ残っていない頃に母親に身売りされて厳しい環境を生きてきたと聞いたことがある。最も最初に与えられる無償の愛情は母からの慈雨だ。彼はその経験が殆ど無いのだろう。歯痒いね、と言うと、ライアンはそうかと頷いた。
「そうか、歯痒いか。……そう、なのだろうな多分……けれど、お前が苦しむのは俺にも辛い。どちらが辛いかは良く分かった」
 クインはじっとライアンを見つめる。薄暮で次第に視界の悪くなる世界の中、ライアンは確かに目を伏せてクインを見ていた。
 この視線だった。自分を案じ、心を推し量ろうとする目。ライアンが自分を気にかけているのだという事実に突き当たり、クインは瞬きをした。焦がれるほど欲しかったはずなのに、なだらかに満ち足りた気持ちになっても歓喜とは遠い。エミリアのくれるはずだった安息とは、これは決定的に何かが違うのだ。
 エミリア、と湧いてきた言葉を呟くと、ライアンがあの女か、と低く言った。
「忘れろ。お前が忘れてやることが、あの女のこれからを保つ。二度と会うな」
 クインは返答をせず、肩を震わせた。一度は引き込んだ涙がエミリアの優しさの追憶に触れて再び零れだした。
 エミリア。好きだったのだ。どんな依存であっても甘えであっても、その腕に巻かれて心跳ねるほど嬉しかった。愛かどうかは分からない。恋していたという確信もない。けれど、母親から離れて初めてクインのために胸をさらけて好意を見せてくれた、貴重な時間だった。
 エミルと泣きながら呟いたとき、ライアンがその涙へ唇を寄せた。泣き火照った肌にはそれは一瞬震えるほどに冷たい。やめろ、とクインは唸ってどうにか動く方の腕でライアンを押しのけた。
「やめろ、俺は、もう……」
 ライアンの関心は要らないのだとは言えなかった。けれど、エミリアとのことの埋め合わせだとするなら酷く傷つくとしか思えなかった。ライアンはクインが飲み込んだ部分を察しているのか何も言わずに体を離し、そして置き捨ててあったエミリアの画帳を手にとった。
 足早に部屋の隅にある石の暖炉に立ち寄って中へ放り込む。たまっていた去年の灰が舞った瞬間に、何をしようとしているのかを悟ってクインは喘いだ。やめろと呻いた声が既に潤んでいる。
 ライアンは振り返らずに、腰に吊った煙草入れから火種石を取り出して躊躇わずに火をつけた。クインは自分のかすれた悲鳴を聞いた気がした。エミリアの全てがあっという間に燃えていく。
「忘れろ」
 ふと気付くとライアンがクインの側にいて、震える体をきつすぎないように抱いていた。その腕に縋るようにクインはじっと暖炉を見つめ、喘いで身を折る。ライアンに力の入らない身体を預けたまま、全てが燃え尽きるのを見るように言われて黙って画帳の末期を見つめた。
 エミリアとの全てのことが、今炎の中に消えていく。最初から幻だったように、何もかもが燃えてしまう。涙が出る。
 それを惜しんで泣き叫んでいいのか、それとも理不尽だと声を荒げていいのか、それとも麻痺したように茫然としていることを悲しめばいいのか、まるで分からない中で、クインはひたすら泣きじゃくった。
 黒ずんだ塊が最後にぼろりと崩れるとクインはライアンを押しやり、身体を寝台へゆっくりと戻した。片腕の痛みのためにひどく緩慢な仕草を見かねたのか、ライアンが一度抱き直して横たえる。その優しさに見える仕草が辛くて顔を背けると、ライアンが低く言った。
「忘れろ。全て無かったことだ──いいな」
 クインは首を振ろうとした。
「ライアンは、彼女の代わりに、ならないんだろう? 俺のことはどうでもいいと」
 言いかけた時、ライアンが不意にクインの唇を手で塞ぎ、涙の後へ口づけをした。ぴくりと身体が揺れる。自分が欲しかったものとは何かがずれていることを承知していても、それはひどくよく似た幻影だった。
「忘れろ。無かったことだ。最初から何もなかった。忘れろ、クイン。今から記憶を繋ぎ直せ」
 ライアンは口早に言って、それへの返答を拒否するようにクインの頬の爪痕に唇を落とした。クインは呻いた。息苦しさだと思ったのかライアンが、口を塞いでいた手を離す。それに大仰に呼吸をしていると、ライアンの唇が自分の頬を何度もついばむようにかすめた。
 目線をあげると瞳がかち合った。一瞬戸惑ったようなライアンの目にまっすぐ視線をあてながら、クインは彼の頬に触れて目を閉じる。手でゆっくりと導くと、わずかな躊躇いの時間をおいて、唇が塞がれたのがわかった。娼婦の世界の口づけは、貞操の意味だとライアンから聞いた。それを迷った律儀さがひどくおかしい。
 そしてエミリアと最後までキス一つさえしなかったことに気付き、クインは急にこみ上がってきた何かと、その何かを忘れるために無事な方の手をライアンの首に巻き付けた。ずるずると曖昧になる世界の中で、自分の声は確かに啜り泣き、泣き続けていた。
 それはこの夏を葬るための鎮魂歌であるように耳に響いた。
 しゅっという空気の音にカノンは背後へ跳躍した。銀の線が一瞬後に自分の残像を斬る。微かにあがってきた相手の呼吸を聞きながら、カノンは繰り出された切っ先を待ってぎりぎりのところで身をかわし、行き過ぎて僅かにたたらを踏む子供のうなじを指で軽く突いた。
「これで15回目のご薨去です、殿下」
 ふっと振り返った子供は照れくさそうに笑い、カノンから離れて大きく深呼吸をした。
「やっぱり駄目だね、まだ全然足りない」
 そんな事を言う口調に淡い悔しさや苦笑めいたものは浮かんでいても、激しさはない。自分の力量の不足についてこの皇子はよく知っているようだし、今の時点でまったくカノンにかなわないことを当然と受け止めているようだった。
「どうなさいます、もう少しお相手いたしましょうか」
 カノンが言うと、皇子は多少考えるような時間をおいてから首をかしげた。
「お前は? 僕はいいけど、お前の方は仕事はいいの?」
「これも仕事でございますよ」
 カノンは仮面の下で淡く微笑みながら言った。軽く咳払いする。
 この1月ほど、カノンはタリアから離れて魔導の塔にあった。変声期という時機に相当する魔導士はあまり仕事には従事しない。魔導が結局人の声を媒介として力を引き出し効果を組み合わせるものである以上、声変わりする頃には何もかもが辛いのだ。
 その期間は役目を特免されて魔導の塔に籠もり、師匠の魔導士について研究の助手などを務めるのが普通である。カノンも例外ではなく、こうして塔に戻って声が落ち着くまでは待機ということになろう。
 カノンの返答に皇子は軽く声を立てて笑った。第1正妃イリーナとよく似た面差しは愛らしく整っていて、やや紫のかかった深い青の髪と同色の瞳が朗らかに人なつこい。それがシタルキア皇国のライン・アミネス第4皇子であった。
 母妃が溺愛するという話は小半時ほどですぐに納得が出来た。第1皇子であるリュース・クインはおとなしく控えめで万事ひっそりしているが、こちらは明朗さと嫌味ない甘え方を持っている。これほど素直になつかれると、なるほど愛しいものなのだ。
 ライン皇子にどうやら剣士としての類い希な才能があることは2、3年前から次第に明らかになってきており、既に成人前の子供たちは相手にならない。近衛騎士と混ぜてみても遜色がなかった。無論体力や腕力の問題があるからまったく対等というわけにはいかないが、あと3年もすれば公式の剣試合で実はかなりよいところまでゆけるのではないだろうかと言われている。公式試合は色を付けた剣を使う得点制だから、技術をより試されるのだ。
 息子の才能を誰よりも喜んでいるのは母親であるイリーナ皇妃で、近衛に預け、そこでも頭角を現す気配を知ると、今度は更なる鍛錬の為に魔導士を要請した。魔導士は魔導の力を借りて時間をより多くの区切りとして掴むことが出来る故に、一般の人間からみえば驚異的な身の軽さを誇っている。
 その役目がカノンに回ってきたのは彼が現在待機期間中であることも理由の端に噛んでいるが、何よりもその第1皇子の護衛魔導士マルエスの推薦が大きい。カノンが以前からタリアの赴任に心浮かないことを知っていて、未だに護衛魔導士を持っていない皇子の相手役ということで相性を見るようにと魔導士の管理をひきうけている塔の長老会に進言してくれたのだ。
 その言葉のおかげで、とりあえず変声期の待機期間はライン皇子の側にいる事が出来そうであった。塔や魔導の研究会で会えたら一言礼を言いたかったが、マルエスはリュース皇子の用事とやらで多忙を極めており、対面する機会が未だに無かった。
 ではあと少し、とライン皇子が言った。この冬に11歳になるはずの少年であったが、皆が口を揃えて言うように確かに筋がよく、本人も熱心だ。強くなること自体が面白いのだろう。皇子が剣を構えて最初の距離を取る。カノンはどうぞ、と言った。
 皇子が軽く呼吸を切って低く駆け出す。皇子が横に払った模擬剣をふわりと飛んでかわすと着点を見定めていたように彼の胴を狙い、正確に剣がはしった。
 カノンは模擬剣の中程を押さえるように足で蹴り、皇子の脇へ回る。均衡を崩した皇子がそれでも受け身をとりながら鮮やかに回転し、勢いのまま素早く立ち上がった。
 カノンは彼の突きを軽くかわし、するりと皇子の背後に回る。と、皇子はそれに会わせるようにかかとでくるりと体を入れ替えた。軸にならなかった右足で剣練所の石床を蹴り、カノンの羽織る魔導士の長衣めがけて突っ込んでくる。絹一枚というあたりでそれを避けながら、カノンは人々の言う皇子の才能というものをつくづくと思い知った気分だった。
 本気かと問われると微妙だが、決していい加減に相手をしているわけではない。なのにほんの1刻前にはまるで届く気配さえなかった皇子の剣が、次第に自分に近いところをかすめるようになってきている。飲み込みの早さと勘の良さ、そして殆ど驚異的というべきはその反射神経なのだろう。
 魔導士とまともに戦うことが出来るならば国内一級の戦士であると結論してもいいが、カノンはそんな相手を数人しか知らない。……そしてそのうちの一人が現タリア王アルードであることは決して偶然などではないのだった。
 斜めに切り下ろした剣の軌跡をくぐってカノンは皇子の正面へ潜り込む。皇子はほぼ真横に飛んでそれをさけ、着地の反動を利用して逆にカノンの胴横に剣を滑らせた。鋭い一撃をカノンは軽く飛びかわし、皇子の背中側へ降りる。皇子の反転は早い。その動作の機敏さだけでも、恐らく本当にこの子供は強くなると確信が出来た。
「殿下、こちらへ!」
 カノンは軽く手を挙げる。もっと打ち込んでこいという言葉に皇子は小さく頷き、剣を繰り出した。剣を振り回すというような大味さは微塵もない。手首も強そうだ。腕から肩にかけての筋肉を使う基礎の部分と、手首の角度で剣を操る小手先の技術の両方を、皇子は均衡良く使っている。
 皇子の一撃をひらりとくぐって体を返したとき、別の魔導の匂いがした。魔導を身に帯びる者が近くにいると、身体能力の補助や向上のために自らに施している魔導の波長が空気を歪めて伝わってくるからすぐに分かる。魔導の塔には現在120名ほどの魔導士がいるが個々によって波長は違うから、知人であるなら判別が出来た。
 カノンは打ち込まれてきた皇子の剣にすれ違い、その首筋を軽く叩いた。
「───16回目です、殿下」
 勝敗を宣言するとライン皇子はそうだね、と屈託無く笑った。
「やっぱりまだ追いつけないなあ……カノン、だっけね。もうしばらくは来てくれるんでしょう?」
 この相手役が暫定であることは知らされているのだろう、ライン皇子はそんなことを言った。カノンは頷き、でも本当に筋がおよろしくて驚きましたと付け加えた。
「……いずれ私の方も自分を鍛錬しておきましょう。が、殿下、お迎えですよ」
 ライン皇子の手から練習用の模擬剣を受け取りながら、カノンは魔導の気配の方を振り返った。あ、と皇子が明るい声になる。手を挙げて勢いよく振りながら、兄上と叫んだ。
「兄上! 兄上、いらしてたんですか?」
 剣練所を見下ろす観覧席の中程にぽつんと座っていた人影が立ち上がり、ゆっくりした歩調で階段を降りた。簡単に観覧席と剣練所を区切る鉄格子の腰高柵越しに、ラインと呼ぶ。兄の元へ走り出す、跳ねるような歩調の軽やかさにカノンはそっと仮面の下で微笑み、模擬剣をその場において歩き始めた。
 同母の兄弟は頬を寄せ合うようにして密やかに何かを言い合ったり笑いあったりしていた。その様子は少女たちがじゃれつくような、甘やかな秘匿を描く一枚絵のようによく空間に収まっている。二人とも繊細な面差しと高貴を感じる空気を、皮膚の一部のようにごく自然に身に帯びていた。
 カノンはそっと近づき、ライン皇子の背後へ膝をついた。リュース皇子がちらりとカノンを見た気配がした。大仰にならぬようにしながら頭を下げる。兄の視線に気付いたのだろう、ライン皇子はカノンというんです、と朗らかな声音で彼を紹介した。
「魔導の塔から来てくれて。……ええ、そう、全然かないません。剣、当たりそうで当たらないんだもの」
 自分の言葉にくすくすライン皇子は笑った。カノンが皇子の集中力を持続させる為に、わざと回避の瞬間をぎりぎりまで待っていることは分かっていたらしい。
 弟の言葉に淡く微笑んだリュース皇子は相変わらず、確かに辺りを圧倒し気配を染め変えるほどの美貌の主であった。嫌味なく明朗で素直という美徳に恵まれたライン皇子の持つ、温かで人なつこい空気とは違い、この兄皇子の方にはひんやりと他人を距離をとる、夜の空気がある。類い希な美貌であることは確かだったが、それは線の細い人形のような脆さと繊細さから無縁ではなかった。
「カノンと言ったね。ラインを宜しく頼むよ」
 弟の頬を軽く指で撫でてやりながら、リュース皇子が言った。御意のままに、とカノンは更に頭を下げる。リュース皇子は頷き、弟皇子に向かって切り上げを促した。太陽の熱が既に弱い。黄昏が近いのだろう。
 皇子二人が何事かを話しながら遠くなっていく。カノンは膝をついたままで十分に遠ざかるのを待ち、立ち上がった。模擬剣を詰め所へ返してから魔導の塔へ戻らなくてはならない。タリアにいない時にはそこが彼の戻る巣であった。
 魔導の塔の魔導士たちには基本的には個室が与えられる。魔導士となるまではその師匠の部屋住となって資格を取るまでは出ることを許されないが、魔導士の試験に通ればあとは比較的、個人の生活は自由だ。
 カノンは自室に入って鍵をまわす。そして大きく呼吸をして仮面を取り、束ねて頭巾へ押し込んである髪の戒めを解いた。黒い髪がふくらむように流れ落ちてくる。カノンは首を振ってそれを軽く払いのけ、仮面を机においた。瞼の上から目を押さえる。
 魔導士の仮面は個人情報の秘匿を目的にして作られていて、魔導士の試験に通った時に師匠から贈られるものだ。大抵は師匠が周辺の気配や風景を直接脳髄に送り込むための魔導を施しているから、目で物は見なくとも直視しているのと同じ程度に現実を知覚することが出来た。白銀のなめらかな表面の額には階級を示す紋様が描かれ、内側にはカノンという名が彫られている。
 カノンか、と少年は苦笑した。その名は魔導士としての名前であって、本名は別に存在しているはずであった。けれど、カノンはもうそれを思い出せない。鏡をちらりと見れば、あの第一皇子にうり二つとはいえないが十分に似通ったものを見いだせる、端正で美しい面輪がそこにある。
 父親と一緒にいた頃、父が自分を連れ歩く先々で少女と間違えられたり、近所の女たちが自分を可愛いとほめそやしたり、そんなことがたくさんあった。年齢は確か、───確か、今、15か6だったはずだ。この魔導の塔に連れてこられた時が6歳だった気がする。
 但し、カノンの記憶は既に涙の向こうの景色のように歪んでぼんやりした色彩の塊になりはてている。自分の本名も、年齢も、住んでいた場所も、何もかもを生活に追われていく内に忘れてしまった。これは子供の頃に塔に連れてこられた魔導士にはさほど珍しい現象ではないらしいから、気に病んだことはない。
 それに、ほんのいくつか覚えていることもあった。
 たとえば、自分に母親がいなかったこと。確か……多分、最初から、いなかった。
 父親がいて、とても優しくて背の高い人で、その父に連れられて色々な土地へ行った気がする。父は時折何かに怯えたように自分を抱いて、自分の名前を呼んでいた───もう忘れてしまった、その名前を。
 お前には大変な運命を与えてしまった。けれど自分に正しく、人に優しく、そして世界に正直に生きていきなさい。いつかお前に私とお前の母親のことを話さなくてはならない。それは私と彼女の罪の話でもあるが、けれど、お前をこの世に生み出した真実を私はきっと話すはずだから───
 父の言葉の抑揚や優しい声音は見つかるのに、そこに語られているはずの自分の名前が良く聞こえない。カノンは鏡の中で気難しく眉根を寄せている自分と目を合わせながら、じっくりと胸の中の記憶をまさぐり出そうとした。
 途端、目の前に火花が見えた。はっとカノンは顔を上げる。これ以上はどうやら禁戒に触れるようだった。    
 魔導士に科せられた禁戒は、実はたった3つしかない。
 素顔を含む全ての個人情報は秘匿されること、たとえ何であっても主人の命令には従うこと、そして長老会の決定に服すること。この3つだけが魔導士を縛る。どこからどこまでを不服従とするのかの境界線は常に曖昧に推移しているが、禁戒に触れればそれはすなわち死であった。法文には「処分」と記される。魔導士は物と同じであるのだ。
 そして自分の過去はどうやら自分でも知ってはならないようだった。それに対する疑問は自分でも驚くほど小さかった。何がどうしたところで、自分の現実と未来が変化するわけではない。
 カノンは魔導というものに対して馴染みが早かった。魔導の塔に来てから4年で魔導士たる資格を得たが、これは魔導の塔の記録に残るほどのものだ。どんな呪文でも構成でも、泉が湧くようにどこかから彼の中にわき上がってきた。
 それが才能なのだと師は嬉しそうであったが、その師ももういない。カノンが資格を取った翌年に南大陸の雄であるフィアラーズ帝国へ出向を受け、出先で事変に巻き込まれて処分されたのだ。カノンを天才だと喜んでくれた師の死は辛かったが、その後に拝受した辞令はタリア王の側近としてのタリア出向であった。
 正直、カノンはタリア出向を喜んだことがない。魔導士を要請するのにも莫大な金額や資格や推薦がいるが、その代価を支払った主人には文字通り命をかけて忠節を尽くす義務がある。魔導士たちの間で一番希望が高いのは皇族の護衛だが、これが恐らく最も安寧に余命を保つことの出来る仕事であった。そしてタリア王の手足となるならば対極といってもいいだろう。
 タリアには抗争が多い。タリア王の交代のときはもちろんだが、そうでなくても各派閥や末端の支配領域の諍いなどは珍しくなく、自然沢山の危険を身近にしなくてはならなかった。主人の命を全うできないと魔導の塔に報告されれば処分、そして服命を拒否しても処分、だからおとなしくタリアへ行くしかなかった。
 タリア王アルードが今のところ子供である自分に多少気遣いを見せているのか、命じられる仕事が困難すぎることがないから助かっているが、もしタリア王の交代が囁かれるようになれば、今のように安穏としていることは出来ないだろう。
 将来的にタリア王を狙うことの出来る位置にあるのが、今はライアンという男一人だから暗殺でも命じてくれればいいのにと思わなくはない。正直、やり遂げる自信はある。接近戦では苦労するだろうが、そもそも魔導で身体の能力をそいでもいいし、炎で焼き払ってもいい。
 けれど、アルードは命じようとはしなかった。実際そのライアンを至極便利に使っているのだから、今はまだ価値があると思っているのだろう。主人の思惑に口を挟むことは禁戒ではなかったが歓迎はされなかった。だからカノンは黙っている。わざわざ仕事を作ってし損じることがあれば、それは自分の生命に直接関わる危機となる可能性があるからだ。
 カノンは微かに溜息をついた。魔導士として生命をまっとうしていくことは難しいことではなかった。彼は物事の飲み込みも理解も人より早かったし、魔導に関しては飛び抜けて優秀であることは自負している。
 多分、長らえれば史上最年少で長老会へ入るだろう。いくつか掛け持っている魔導の研究会のどこでも、彼は同志たちから感心と賞賛を受け取っている。
 けれど、その先に一体何があるのかカノンは上手く捕らえることが出来なかった。一体自分が何処から来て何処へ流れていくのか、うすぼやけた過去と不鮮明な未来しか思い描けないときには、そんなことをぼんやり思う。父や幼い頃の記憶が曖昧であることも、きっとそれに拍車をかけているのだろう。
 カノンがそんな根拠のない推論に一人頷いていると、自室の扉がこつこつと叩かれた。扉を開けずに返事をすると、外からの声が言った。
「魔導士カノン、在室か」
 聞き覚えのない声だが、呼び出しは魔導の塔専属の奴隷と決まっている。あちらが敬語を使わないのは、自分たちの方が奴隷よりも更に下層の身分に位するからだ。
「今、装束を解いています。何用ですか」
 扉に近く立って言うと、外の声が長老会の呼び出しを告げた。先日出しておいた転任の申請に対する回答が出たのだろう。辞令は同時期に申請をした魔導士たちとまとめて伝達が行われる。
 髪をまとめて色が見えないように頭巾へ押し込み、仮面をつけてカノンは外へ出た。外には既に呼び出しの奴隷はいなかった。伝令が済んだことで自分の他の仕事へ戻ったのだろう。
 呼び出された議事廷には既に長老会の構成員である上級魔導士たちは見あたらなかった。他の魔導士の影もまばらで、支度をしている間に終わってしまったらしい。人数が少ない時はそんなこともある。
 だが、カノンは自分を待っていたらしい年長の魔導士にすぐに気付いた。さきほどもリュース皇子の側に、姿は隠遁させていたものの随従していたことは分かっていた。魔導士ならば魔導士の気配をすぐに感じ取る。
「同志カノン、来たか」
 マルエスがゆらりと身体を彼に向けた。
「同志マルエス、お久しぶりです。先ほどは挨拶もせず」
 マルエスはうむ、と頷いた。彼の年齢はもちろん分からないが、階級としても魔導士としての経年もカノンの先達というべきであった。治癒に関わる魔導の研究会で同席する以外にはあまり見かけないが、マルエスの場合は主人であるリュース皇子自身が魔導に良く通じていることもあって、皇子の相談役としても努めているようだから忙しいのだろう。
「我も隠遁していたおりゆえ、構わない。それより、長老会からの裁定を預かっている」
 マルエスが差し出した文書を受け取り、カノンは巻き留められていた紐をほどく。たらりと下がった辞令書には、長老会全員の魔導印と長老会決定の朱印が押してあった。
『同志カノンの申請について長老会で検討した結論は以下である。却下』
 カノンは長い溜息になった。変声期の待機期間が終わり次第、再びタリアへ戻らなくてはならない。落胆したカノンの肩を、マルエスが慰めるように叩いた。
「気落ちするな、同志カノン。同志がタリアで暗殺と諜報だけをさせておくにはあまりにも惜しい人材である旨、いずれ折を見て我から殿下へ申しあげよう」
 マルエスの言う殿下というのは、彼の仕えるリュース皇子であろう。カノンは頷き、ありがとうございますと呟いた。マルエスはいや、と仮面の下でそっと笑ったようであった。
「それに、ライン皇子の護衛役は決定していない。……良い方だろう?」
「ええ、とても。何というのか、育ちがよいというのはああいうことなのですね」
 他人を疑ったり憎んだりすることを知らないような、明るい無邪気さが眩しい。人である以上は幼いながらも様々な感慨は胸にあるだろうが、他人にそれを気取らせないのが自然であった。
 マルエスは頷いたが、それ以上を口にしなかった。進言しても受け入れるかどうかはリュース皇子の判断一つであり、またリュース皇子からの要請があったとしても長老会が否決すればかなわないことである以上、これから先は不確定な事柄ばかりだ。
「まだしばらくはタリアへ行かなくてもよいだろう。ならば、ライン殿下のお相手をつつがなくやりとげることだ」
 マルエスの言葉に頷いて、カノンは辞令書をきゅっと握りしめた。あの赤い格子の迷路の奥に自分にとっての何かがあるとは、彼は到底信じることが出来なかった。

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