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 優しい波だ。ずっと昔に家族で行ったシタルキア東部の海よりも、ずっと透き通るように淡い水がなだらかにうち寄せてくる。潮の匂いはごく僅かで、それよりも南から渡ってくる駘蕩とした風が肌にまろい。
 どさりと砂に旅行鞄を置いて、クインが大きく伸びをする。時々はっとするほど粗野な仕草がなければ、完璧な少女に見えるだろう。ミシュアへ下る船の中でも彼は一際の美少女として耳目を集めていて、彼はそのあしらいに慣れた微笑みで周囲を圧倒するばかりだった。着替えがないから服を融通したが、実際エミリアよりも数段映えるのが苦笑になる。
 クインは海風に乱れる髪をうるさそうに手で制しながら、エミル、と言った。
「あとで、その……どっか泊まるところを探さないと……」
 最後にふわっと赤くなるあたりが、商売に関わらず妙にすれていないようで、エミリアはついくすりと笑った。時々彼は、こちらが面食らうほど幼く初心い。
 無論、泊まるところを探そうという彼の言葉が何を含んでいるかを察しないことはない。船の中は一番安価な他の旅客と共同の大部屋で、広い空間に一応の仕切線がひいてあるだけの場所だ。
 ──それでも夜は二人で一枚の毛布をかぶり、額を寄せ合い、手を繋ぎあって眠った。彼が主人にはぐれた獣のようにおずおずと身を寄せてきた時、胸にゆるく湧いてきた気持ちは一体何に例えたらいいだろう。それはぬるい湯のようなもので、全身をひたして柔らかく、温かくしてくれるものだ。
 彼の身体はぬくやかで、身を寄せていると小さく心臓の音が聞こえた。彼の皮膚も血も冷たいとどこかで思っていたのだろうか、それがひたすら胸に迫ってエミリアは最初の夜を殆ど眠ることが出来なかった。
 伏せた瞼の半月のように魅惑的な曲線。薄く開いた唇の蓮桃色。頬に優美な影をうつす長い睫毛。そのどれもが美しいのは、それら全てが不安定で強く儚い魂の上に乗っているからなのだ。
 横になったままで眠り込んでいるクインの頬を撫でると喉を鳴らしてエミリアの鎖骨あたりに額を寄せてきたから、腕を回して彼の頭をかかえるように抱いた。僅かに髪の匂いがして、それはとても愛しく切なく自分を取り込んでいくようだった。
 出会った時の顔を、思い出せない。あの時の彼はひどく歪んでくすんだ印象だけが全てで、他に記憶から探すとしたら何かに傷ついてひび割れたままの声でしかない。
 一目見て可哀想な子だと思った。それは理屈ではなかった。ただ感じる、彼の背負った何かの影が目に痛いほどだったから。辛さが頬の歪みに淋しげな色になるまでに滲んでいたのに、不満を口にしない。何よりもそれが胸を刺した。辛さや苦しさを訴える相手がいないのだ、この子は──……
 そう悟ったから妹の為の絵を彼に見せた。人は何にでも救われるし希望を持てるのだということを知ってほしいとそれだけの願いだった──彼は泣いた。ぽろぽろと涙をこぼして、無言のまま泣いていた。希望、と一言呟いた声音の震える重みがまだ耳の奥に残っている。
 そして自分は彼に見惚れていた。あっけに取られるほど、彼は綺麗だった。誰かを困惑させる為とか引き寄せる為の罠ではなく、純粋に胸の中の痛みをこぼす涙。それを見た瞬間に息苦しいほどの感情が降りてきたようで、彼を描いても表情がうまくまとめきれない。自然に背中ばかりが多くなってしまう。
 だから船の中でクインが見せた沢山の表情が尚更眩しい。彼はとにかく良く喋ったし、笑いもしたし、なるほど成長期なのだと感心するほど食欲もあった。これが素地なのだ。
 だとしたら、あれほどまでに追いつめられていた理由は彼が自分で言い出すまでは絶対に聞くことは出来ない。自分で言い出すまではまだ少しかかりそうだったが、ともかく明るい彼を見ていれば安堵になる。
 船がミシュアに到着したのは昼過ぎのことだが、宿よりも先にエミリアは海を見たかった。そう言うとクインは何度かミシュアへ来たことがあるらしく、この浜へ案内してくれたのだ。遠く霞む岬の遠景が、海の青さに色濃い緑をまぶして目に優しい。波の音も、光の影も、このミシュアを基点にやがて南海と言われる美しい島々へ到達することを信じさせてくれる。
 エミリアが黙って遠くを見ていると、その袖が軽く引かれた。クインの方は少し怒ったような、困惑したような表情で佇んでいた。
「……あの、あのさ、部屋なんだけど……一緒でいい……かな」
 そういえば、彼にきちんとした許しの証拠を与えていなかったとエミリアは気付いた。縋るような目をしている。心細くて不安な瞳の青が、この海の穏やかな色にゆったりとほぐれていくなら、それもいいかも知れない。
 エミリアは自分の心をまさぐって曖昧に笑った。クインのことを一人の男として好きか、という問いにはまだ自信を持って頷くに足る確信がない。彼を見れば美しいと思い、その美しさが脆く繊細で不安定な魂の産物だと知り、知れば憐憫に変わる。実のところ自分のこの締め付けられるような胸の痛みが、一体同情なのか恋なのか判然としないのだ。恋愛は慈善事業ではないし、これが彼の不幸への共鳴なのかそれとも庇護欲なのか、そしていずれもっと昂る気持ちへ変わる前哨なのか、どれに結論つけて良いのか分からない。
「エミル……」
 クインは返答がないことを焦れたように彼女を呼んだ。それから一瞬迷ったように目線を彷徨わせてエミリアの肩に手を伸ばし、ためらいながら抱きしめる。他にどうして良いのか分からないようだ。
 ───可哀想だ。エミリアは目を閉じて、クインの背中をそっと撫でてやる。彼への気持ちの中核にあるのは同情なのだろう。けれど、この気持ちはいずれもっと激しく強い何かに変わっていく。そんな予感がする。
 描きたいという思いはその指針であったし、それがある限り彼をきっと愛するようになるだろうという確信はいずれ見つけられるはずだ。鏡の中の自分の瞳に。
 エミリアはいいわ、とクインの耳元に囁いた。
「今日は一緒に……ずっと一緒にいるわ……」
 クインが頷いたのが分かった。
 やがて体を離したクインは照れくさそうにありがとうと言うと、腰の時計をちらりと見た。これは彼が最初から身につけていた物だ。
「俺、ちょっと行かなくちゃいけないところがあるんだ。……あの、そんなに長くはしないから、1刻かあと半分くらい、待ってて欲しいんだけど」
 エミリアはそうね、と時計を覗き込んで頷いた。夕方には戻ってくるという意味であろう。分かった、とエミリアは頷き、砂に置かれたままの旅行鞄にくくりつけてあった画帳を引っ張り出した。
「いいわ、私ここで描いてるから気にしないでいってきて」
「ん……ごめん」
 すまなそうに目線を下げる彼にエミリアは微笑み、いいわよと強く言った。鞄を開けて固形絵の具の箱を取り出す。それくらいの時間があるなら、色絵の一枚は写生できそうだった。どんな時でも一人で時間を潰すことが苦になったことはない。あいた一人の時間はエミリアにとって大切で貴重な時間でもあったのだ。
 クインはここで待っていて欲しいと繰り返して、最後にもう一度ごめんと付け加えた。繰り返すのは不安だからだ。
 ──エミリアが自分を置いてどこかへ去ってしまう、という怖れにただ震えている。
 行かないで。置いていかないで。クインの切羽詰まった目の色が訴えていて、深い青をしたそれを見つめれば切ない。信じていないのではなくて、ただ失うことが怖いのだ。何かを失うことしか知らなかったと泣きながら彼がこぼした夜の記憶がたった今、その淡い恐怖を気付かせて、エミリアを絡めてしまう。
 彼を見捨てられない。彼が求めるのなら、一杯の水にでも頼りない糸にでもなろう。それが愛であれば、いつか必ず答えが出る。
「待ってるわ……ずっと、待ってるから」
 エミリアは子供を諭すように、ゆっくり優しく言った。クインは頷いて、ごめんと同じ事を言った。目の中の切なく求める光はやはり変わらない。こんなにまで必死でクインが自分を恋していたことなど、今、初めて見る気がする。
 愛おしい。
「どこにも行かないわ」
 ただひたすらに、切なく悲しいほど愛おしい。
「あなたを待ってる、ずっとずっと」
 うん、と頷く仕草が素直で普段よりもずっと幼くいとけなかった。クインはエミリアにそっと唇をよせようとし、何かに気付いたように離れた。人の声もするし、第一彼は今、少女の格好をしている。女二人でひたすら触れ合っているのは人目に奇妙に映るだろう。
 クインはやっとぬるい笑みになった。それがようやくごく普通の笑顔に戻ったようで、エミリアはほっと息を付いた。
「じゃあ、また。その……後で」
 クインの気安い笑みにつられてエミリアは頷き、後でね、と繰り返した。クインは嬉しそうに笑った。
 花開く笑み。やっと見つけた。この表情だ──多分。
 エミリアは彼の面差しをじっと見つめて深く頷く。自分は今、圧倒的な者の前に仕える敬虔な巫女であるような気がした。
 夢中で描き上げた最後の一枚に日付を入れると、エミリアは画帳ごと鞄にくくりつけた。これは彼にはまだ見せたくない絵だ。筆致も感情も、全てが乱れていてとても絵になっていない。けれどその惑乱は決して悪いものにはならなかった。
 自分の印象に刻まれたままに先ほどのクインの破顔した笑みを描き写したが、自分でも制御できない何かが指先から溢れてきて止まらない。まるで自分の意志とは関係ないかのような早さで手が彼を描き出す。
 止まらない、止まる気配さえない。今までザクリアのアパートで見た彼の微笑みや不満な表情や、虚をつかれたまばたき、歪めた唇、淋しげな横顔、皮肉な影の落ちる頬、何もかもが一度に降りてくる。何故今までこれを描けなかったのか、忘れていられたのか、そんな疑問さえ浮いてくるほどだ。そんな狂騒の熱に浮かされるように1冊画帳を使い切って、はっと気付けば既に日は和らいで優しくなりつつあった。
 クインが戻ってくると言った時刻までにはまだ少しありそうだった。エミリアは苦笑してはいていたサンダルを脱ぎ、海へ足を入れた。練炭で汚れた利き腕を軽く洗う。
 それが済むと旅行鞄の中に入れておいた小さめの画帳を取り出し、絵の具で直接浜で遊ぶ子供たちを写し始めた。幻想画が画題の中心のように言われているエミリアであったが、実題のうち家族の絵は好んで描いた。
 温かで柔らかい一つの箱のような、ぼんやりと優しい印象をエミリアは持っている。表現したいものがどうやら自分の場合は美しい光景ではなくて、優しく普遍な愛と祈りなのだと確信するのはこんな時だ。妹を描くのもその為なのかもしれない。エミリアは少し息をついて、遊ぶ子供たちを眺めやった。
 アスナの黒々とした目には深淵の闇が棲んでいる。それは月のない夜の星空と似た暗闇で、だからこそ美しかった。失ってみて初めて気付くものもあり、気付いた故に一層愛しくなるものもある。アスナの幸福が何であるかを自分が決めることは出来ないが、あの子にはどんなことでもしてやりたい──それが喩え罪であったとしても手をつけるだろうという確信が、どこかに眠っているのがわかる。
 エミリアはそっと笑った。この旅行が終わったら故郷のステリオへ寄って妹の顔を見て帰るつもりが最初からあった。出来れば彼を連れて行ってやりたいが、クインはどれくらい一緒にいられるのだろう……仕事、ということは帝都を出た日からついぞ口にしないが、彼の仕事が決して暇であるとは思っていなかった。
 今クインに必要なのは戻る巣であり、温かな寝床であるようにエミリアは思えてならない。自分に縋り付いてくる目が必死で、切羽詰まっているから分かる。
 その為に彼が求めているものを自分が持っているなら差し出してやりたい。去り際にクインの浮かべた安堵の笑顔が瞼の裏に強くまざまざしく蘇ってきて、エミリアは感歎の吐息を漏らす。あれが彼の最も明るい笑みだ。そして、一番幼い。
 彼はまだ子供だ、どんな意味においても。だから守りたいと思うのだろう。無垢であることが子供の証明ならば彼はまさしく無垢のままであり、自分が汚れていると感じつづけることで尚更頑なに美しく孤高にあり続けている。それがとても綺羅しく感じると同時に、痛々しさを覚える要因だったはずだ。
 彼のことを、好きになるだろうか。エミリアは手を止めて子供たちを見やる。いつか自分にも、きっと愛し合って結ばれる相手が出来るはずだ。クイン以前につき合っていた男は故郷のステリオでの絵画鑑賞の同好会で知り合ったが、最後にはエミリアをなじって離れていった。
 ──君は絵が描ければいいんだろう? 俺のこともきっと絵のついでかその肥やし程度にしか出来ないんだ……彼は絵を愛していたが描く男ではなかった。自分では描けないから一線で描く人を尊敬できると言ったのは同じ唇だったのに、エミリアの描く世界に彼の印象の色であった白が混ざり始めたのを喜んでくれたはずなのに、結局自分を踏み台にされたのだと言って離れていった。
 好きだという気持ちならば、彼とのことにより多く見つけられた。絵の中でしか愛を語れないと言われてエミリアはそれなりに傷つきもしたし、怒りもした。クインに同じ不満を与えたいはずもないが、ではどうしたらいいのかは全く分からない。
 エミリアは軽い溜息をついて、写生を再開した。そろそろ夕刻近い海は淡い灯火色になりはじめた光線を乱反射して、巨大なだんだら模様を描き始めている。それは一瞬の魔法のような風景だったから、描き留めるのを急かされるようで、自然に手が早くなり意識は平板になっていった。集中する時はいつもそうだ。
 ──だから、人の気配が背後にしたのをエミリアは長く気付かなかった。光の幻想を淡い色で写し終えて一息ついた時に、やっと背後に誰かが経っているのに気付いたのだ。絵を描いていると時折後ろから覗き込む者もいるから、それにやや鈍感になっていたのも本当だろう。
「こんにちは」
 ふと振り返ったエミリアが何かを言う前に、少年はにこりと笑った。笑顔が明るく屈託ない。背はすらりと高く、手足が長い印象があった。色素の薄い髪は夕日に今染まり始めていて定かではないが、亜麻色というところだろうか。とにかく体格が細く長い印象が強く、ついで笑顔の人なつこさが胸に残った。
 こんにちは、とエミリアは笑って見せた。相手の明るさに合わせた笑顔であったが、普通の挨拶ではこれで十分だった。
「絵、上手いね……声をかけようと思ってたのに、ずっと見ちゃったよ」
 少年の言葉にエミリアは軽く微笑み、ありがとうと言った。絵は彼女の本業であったから、素人にこうして写生を誉められることには慣れている。少年は頷き、ちらりとエミリアの横を見やった。
「……隣に座っても?」
 聞かれてエミリアは頷いた。少年の持っている空気には敵意を感じさせるものが何一つなく、朗らかな気配の居心地がよかった。少年は嬉しそうにエミリアの隣へ腰を下ろし、もう一度エミリアの絵を誉めた。
「俺、あんまり絵は見ないんだけどあなたの絵は好きだな……何だか優しくて泣ける」
 エミリアは首を傾げ、そう、と曖昧な返答をした。写生は子供たちと夕日の海だけで、それも素描に近いからそんな印象を受け取るには多少材料が足りない気もしたのだ。少年は訝しげなエミリアの表情に気付いたらしく、照れたように笑った。
「ああ、いやほら、この前ザクリアで展示会やってたでしょ?」
 それでエミリアは多少の納得に微笑んだ。この少年のことは記憶にはないがずっと会場にいたわけでもないし、展示会のことは事実だったからだ。ほら、と少年は証拠を掲げるように上着のかくしからカードを取り出す。エミリアはそれに破顔した。
 それは展示会の告知に使った天使の絵だった。水の青を基調に天使と魚群を描いた絵で、これは評価会でもよい評をつけて貰えた一幅だ。何故か巡り巡って今、リュース皇子の元にあると聞いている。絵のモデルを最初皇子に頼もうとして断られたのだから、不思議な縁に思われた。
「この絵が綺麗だったから、俺、ザクリアであなたの画集も探したんだ。結構出てるんだね、色々あって驚いたよ」
 エミリアは曖昧に頷いた。今何冊出ていたろう──画集については本人に権利料が僅かに支払われるだけであまり現金に変わるものではなかったが、何よりも絵の告知になるために厳密に条件を取り決めたことはなかった。少年の言う画集が何であったのかは分からないが、そんなうちの1冊だろう。
「画集はいろんな所から出ているから、気に入ったら見てやって」
「うん、そうする。妹さんの絵があったでしょ、幻想の連作のやつ。あれが入ってるのがいいな。何かある?」
「そう……だったら、そうね……」
 エミリアは少し考え、画集の内で妹を描いたものが多めに入っている本を記憶に探り出し、題名を画帳の隅に書いてちぎった。これがいいわ、と言うと少年はありがとうとくしゃりと顔を潰すようにして笑う。笑顔の心地よさが明るくて、一瞬クインにもこんな顔が出来ればいいのにと、そんなことを思った。
 少年は紙片を服の内側に入れ、エミリアに頷いて立ち上がった。夕日というべき温かな色に照らされて、少年の影が長く伸びる。彼は決して飛び抜けた美形ということではなかったが、人好きのする性質と穏やかで明るい笑顔が人に落ち着きと微笑みを与えるようであった。天真爛漫というほどに幼くもないが、それでも明朗な表情が誰であっても悪い印象を受けないだろう。
 エミリアは置きかけていた練炭を取った。表情や仕草の雰囲気を、僅かでも写し取っておきたかったのだ。と、それに気付いたらしい少年がやめてよ、と苦笑になった。
「俺なんか描いてもいいことなんかないよ」
 いいえとエミリアは首を振る。少年の身についている雰囲気は、どこかに描き留めておきたいという欲求を興させた。エミリアはすぐだからと素早く言って、写生を続けようとした。
 待って、と手首が掴まれたのはその時だった。そんなことをされるのは初めてで、エミリアは思わず小さな声を上げる。だが、少年は掴んだ手を放さないままやめてよ、と繰り返した。
「俺なんか描いてもろくな事にならない───無論、彼もだ」
 エミリアはふと表情を引いて少年を見た。彼、と少年は言った。それが誰のことであるのかが、一瞬繋がらない。彼、と怪訝に呟いた次の瞬間、それが最前まで自分が呟いていた言葉と重なった。
「彼……」
 エミリアは喘いだ。上手く呼吸が出来ない。彼、と繰り返してエミリアはふと冷たい眩暈を感じてこめかみに手をやった。そう、と少年が肯定する為の強い口調で言ったのが聞こえた。エミリアは顔を上げ、側に立つ少年を見上げる。彼はまだ微笑んでいて、それは先ほどまでと変わらない、明るく裏のない笑顔だった。
「そう、彼。あなたに何と名乗っているかは知らないけど、彼だよ。……彼と最初に会うのに俺たちに連絡を取ったのはあなただったね、エミリア=スコルフィーグ? 担当していたのが女だったろう、やけに暗い女──つまり、あなたはあの女を通して彼にまつわる世界のことを感じなくてはいけなかった」
 エミリアはじっと少年を見つめた。夕映えの中で少年は苦笑気味ではあるが、やはり明るく笑っている。何の気負いや凄みも感じない。だからこそ、これが少年にとって特に威圧を加えなくてもよい程度の、ごく普通の通告だと知れた。
 潮風が一瞬強く増し、エミリアの肌を叩いた。それに我に返ったように、背がぞくりと冷えた。
「……でも……あの子は」
 何の当てもないまま反論しようとした時、手首が痛んだ。少年が掴んだままだったそこを、きつく握りしめたのだ。一瞬の圧迫の後で手先が痺れてくる。エミリアは呻き、その瞬間に指先から練炭が砂に落ちた。関節がぎりっと合わさって軋む音がする。ぴくんと反射で自分の指先が撥ねるのにエミリアは喘いだ。息苦しい。
「例えば、あなたが絵を二度と描けないようにする、ということも出来る。どこをどうすれば人の身体が駄目になるかくらいは俺でも知ってるんだ、ご主人にそう教えて貰ったから……あ、ごめんね、痛いでしょ?」
 少年はにこりと笑って手を離す。途端にどっと血が通い始めてエミリアはそこを押さえた。急激な血液の温度がかあっと火照るようで、強く手をさする。感覚は見失ってはならない。
「でも、俺はそんなのはやだな。あなたの絵は本当に好きなんだ……彼のことで色々とこっちで調べた時に見て、本当に好い絵だと思った。だから、これが俺の好意だと信じて欲しいんだ──今すぐ一人で、帝都へ帰ってくれたら二度とあなたの周辺に近付かないと約束する」
 エミリアは反射的に首を振った。クインに二度と会うな、と言う意味であることはすぐに分かった。そんなことは出来ない───すべきではない。彼の瞳に自分へのまっすぐな光を見てしまったのに、それを見捨てるなど出来るはずがない。
 だめよ、とエミリアは低く呟いた。
「今私があの子を見捨てたら、あの子には帰る場所がなくなってしまう。それは駄目よ。絶対に駄目。せっかく、良くなってきたのに……」
 描けなかった表情。彼の上全体に落ちていた、重苦しい影。それが次第に薄れていった夜と昼が、言葉につられるように戻ってくる。エミリアはだめ、と繰り返した。
「駄目よ、また元に戻ってしまうわ……」
 言いながらエミリアはその胸痛む想像に顔を歪めた。出会った夜のような歪んだ印象へ彼が戻ってしまうとしたら、途方もない罪悪感だけが残るだろう。やっと普通の少年らしい表情が覗くようになったのに、それがまた取り繕って刺々しい殻に引き戻されていくかと思うと胸が裂けそうだ。
 だめ、と繰り返しながらエミリアは何度も首を振った。少年は曖昧に頷き、エミリアに額を寄せて囁いた。
「そのことは俺も反省しているし、後悔してる。奴がずっと淋しくて苦しんでたのを俺は知ってた。知ってたけど、俺はそんなに酷いことじゃないと思ってた……少し我が儘なところがあるんだと。でも、奴がどれだけ追いつめられた気分だったかは良く分かった。奴の渇きを俺は癒してやれないが……」
 少年は頬を歪めて切なく笑う。
「けれど、その方法を知っている。こんなことは二度とさせない。奴をこんな風に飢えさせない。それも約束しよう」
 だから、と言われてエミリアは首を振った。だめよ、と言い募る自分の声が揺らいでいる。彼を今この瞬間に愛しているかと言われたら分からない、としか言いようがない。けれど彼の助けを求める声に頷き伸ばした手を、今ここで引いたらあの子は二度と立ち上がれないかもしれない……
 それだけはしてはだめ、とエミリアは強く自分に頷きかける。駄目よと更に繰り返した声はそれまでよりもしっかりと強く聞こえた。
「私は、あの子を見捨てたらいけないわ。出来ない、そんなこと……」
 言いながらエミリアは立ち上がる。少年から少しでも離れたいと思ったのだ。少年はその反応に淡い苦笑を浮かべ、エミリアの鞄をさっと奪い取って行こうか、と言った。
「船着き場まで送るよ。帝都まで一人、個室を買っておいたから。さあ、急がないとあまり時間がない」
「返して。私はいかないわ。ここで待っていると約束したもの」
 手を突き出すと少年は仕方なさそうに笑い、エミリアの鞄を砂に置いた。
「……君がどうしても、と言うなら仕方ないね」
 声はあくまでも軽く明るい。それがひどく底知れなく恐ろしくて、エミリアは半歩後じさった。逃げないで、と少年が素早くエミリアの腕を掴む。離して、と叫んだ声が途中で裏返り、悲鳴のようになった。けれど、誰も近寄ってこない。自分の声が酷く掠れて震え、小さく強張っているのに気付いたのはこの時だ。エミリアは低く呻き、離して、と震える声で言った。
「離して、……私を……どうする、の」
 クインの関わっているのが帝都の闇にほど近いのだと知っていたはずだった。タリアから彼が来ていることも。タリアの華やかで猥雑な表面の下にはこの国の暗部を引き受ける深い闇がある。その王たるのがタリア王であり、その幹部たちや部下たちがどれだけ悪辣で残虐かは今更語るほどのことでもないはずだ。
 沢山の暗い逸話が不意に瞼の奥をよぎった気がしてエミリアは震える。それを何とか悟られないように殺そうとしていると、少年がどうもしない、と返答した。
「あなたのことはどうもしない。でも、今帰らなくてはいけない。そうでなければ、まず5日後にあなたの親しい人がいなくなるよ」
「──何……?」
 エミリアは思わず瞬きをした。彼の言う意味が良く分からない。ぽかんとしていると、少年はゆっくりエミリアに近付いて、その頬を軽く撫でた。神経の具合が繋がるように、その瞬間にざあっと背中が粟立つような感覚が走った。
「……そしてそれでも帰らなければまた5日後に、別の人がいなくなる。悪いけど、留守中にあなたの部屋には何度か入らせて貰った。手紙があるね──故郷の恩師、近所に住んでいる親戚、それと初等学校の頃からの友人たち……帝都の同僚、絵の同人会の仲間、あなたにちょっと気のある画廊の若旦那、学院の友人たちに、写生を教えている生徒たち、それに」
 少年は一度言葉を句切り、まっすぐにエミリアを見た。
 エミリアは口を開けた。悲鳴を上げたいと思ったのだ。けれど、唇からは何もこぼれてこない。上擦った自分の呼吸が不規則に打ち出す音だけがする。木枯らしのような音が。
「それに……」
 少年が言いかけた言葉を引き留めるようにエミリアは彼の腕を掴んだ。やめて、と動かした唇が、一体どこまで正確に発音を刻んでくれたか分からない。けれど、彼が何を言おうとしたのか、直感が教えてくれたのだ。
 少年はエミリアの制止には構わず、それに、と強い声を出した。
「あなたの肖像画はよく似せてある。妹の題の絵を見れば、どれがあなたの妹かはすぐに分かるはずだ……あなたの部屋にあった彼の絵も、背中だけなのに確かに奴だったから」
「やめて……あの子は、関係ないわ……」
 エミリアはぎゅっと目を閉じる。黒く冴えた瞳の少女が、脳裏をゆっくり歩いている。姉さんと呼ぶおっとりした、芯の強い声。やめてと呻いた声は、今度こそ震えて強張っていた。
「妹は──他の人は、関係ないでしょう? どうして、そんな、……酷いわ」
「うん、そう、酷いよね」
 他人事のように少年は呟き、彼に縋り付くような姿勢のエミリアの背をゆっくりと撫でた。でもね、と呟く声は最初に声をかけてきた時とやはり同じだ。
「あなた、彼と会うのは一度きりだという約束を守らなかったね……それだけでも本当は殺せと言う連中もいる。俺は俺たちのことに本当は関係ないあなたを巻き込むのはいやだから、一度あなたを説得する機会をもらった」
「説得ですって?」
 エミリアは急にかあっと頬に血が上るのを感じて面差しをすくい、相手へ強い視線をあてた。少年はやはり微笑んだままで、それが尚更怒りに変わった。
「これは脅迫でしょう? 私があの子を捨てなければ、私の周りの人を殺すというのに!」
「決めるのはあなただよ、エミリア? それに脅迫っていうのは、最初の一人を殺してからするものさ」
 エミリアはきっと奥歯を噛みしめて相手を睨んだ。睨まれた方はゆるい笑みを浮かべたままでどうする、と何度目かを口にした。
「あなたは帰らなくてもいい。すぐに妹さんにも危害が及ぶわけではないしね。でも、それがいつになるかは教えられない。だからいつ手が伸びるのかをあなたはいつも怯えていなくてはいけなくなる──奴とのことをその他全部と引き替えてもいいというならそれでもいいんだ、ただ、それにどれだけの覚悟と実際の犠牲を伴うか、というだけの話」
 少年は軽く笑い、つとエミリアから離れて大きく伸びをした。しなやかな背中。気負いなくまっすぐに伸びて、まるで影さえもない。ひどく惨い脅迫を口にしながらも終始彼は穏やかで、どこか済まなそうな気配さえあった。裏も感じないから、これがこの少年の素地なのだろう。クインにあったのが思いの外幼い明るさであったことと同じように。
「で、どうするの? 奴の為に全て失っていいというなら、俺にはもうあなたには何も言うことがない……奴が帰ってくるのを待って奴に同じ事を言うさ」
 エミリアは低く喘いだ。クインに同じ事を言った時、彼はどんな顔をするだろう。あの強く切ない光で自分を見つめて、何を言うのだろう。
 ──それが全てを捨てて欲しいという言葉だったら、どうしたらいいの。それが思いの外強い動揺であったことにエミリアはうろたえ、うろたえたことで目の前が暗くなったような気がした。
 迷っている。いいえ、多分これは迷いでさえない。彼には救いが要る。エミリアはそれを与えてやりたい──でも。
 目を閉じるとこの春に最後に会った時の妹の、あどけない笑みが浮かんでくる。細い首と手足、華奢な肩とほっそりした指。あれを失うことなど考えられない。
 アスナ、私の可愛い妹。たった一人の肉親、私のための希望。
 アスナ。呟くと、涙が出そうになる。それを飲み込んで堪えた時、おこりのように震えが来た。
「駄目よ、そんなのは駄目」
 叫ぼうとしても声にならない。今頷いたら全てが消えてしまう。紺青の海にしどけなく漂う水泡のようにその淡い夢のように、全てが呆気なく終わってしまう。彼のことを愛そうと思ったことも、彼が自分を見て切なく縋り付いたことも、二人で手を繋いで眠った時間も、───彼の背中に垣間見た美しい翼も。
 それは駄目だと思う側から、だが体は動かない。震えているだけで、ぴくりとも出来ない。エミリアはたった一つ出来ることをする。目を閉じればやはり浮かぶのは黒髪を風に軽く任せて笑う、妹の無垢な笑顔だった。
 少年がそっと近付いてきて、エミリアの肩を抱いて言った。
「大丈夫。ゆっくり息をして。俺は約束したことは守るよ──彼のことは俺がどうにかするから、心配しなくていい」
 囁くような声音が優しい。エミリアはそれに引かれるように頷いた。頷いた瞬間に、体中から力が抜けて座り込んでしまう。
 戻れない。分からない。
 何が正しくて間違った判断なのか、きっと一生答えなんかでないはずだ。妹を助ける為にクインを見捨てる、これが正しいはずはないのに。
 けれど怖い。クインの背後にあるはずの組織の全容は知らないが、ある、ということだけでも十分なはずであった。そしてそこからの使者はエミリアの知人と肉親を無差別の人質に取ると宣告した。エミリアが折れなければきっと実行に移す。
「だから先に帝都に戻ってくれるね?」
 念を押すように囁かれた言葉にエミリアはがくりと項垂れ、小さく首肯した。こくりと頭が垂れた瞬間に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてくる。
 彼を哀れんでいたし、彼を愛しんでもいた。青い宝石のような瞳が切なく自分を見つめていることが歓喜と困惑を両方連れてきた。
 エミリアに縋る目、ためらいがちに伸ばされてきた手、好きだと言った時の切羽詰まって掠れた声。そのどれもが淋しげで、だからぬくぬくと甘やかしてやりたかった。湯浴のようにゆったりと普遍の愛と祈りに浸らせて癒してやりたかった。
 ──でも、妹と引き替えには出来ない。
「ごめんね……」
 掠れた呻きに少年がごめんよと付け足し、エミリアの腕を掴んで立ち上がらせた。砂に足を取られて僅かによろめく。
「もう行こう、船の時間がある。荷物はこれだけ?」
 少年が鞄を取ろうとしたのをエミリアは触らないで、と強く言った。クインを失う悲しみよりも、このやり方や唐突さへの怒りがひどく暗い声音にしていた。
「── 一人で行くわ。構わないで……」
 呟いて鞄を自分の方へ抱き寄せる。鞄にくくりつけた画帳ごと一度抱きしめて、エミリアは画帳を外した。
「これをあの子に渡して……あの子を描いてたの、全部この中にあるから」
 うん、と少年が頷き、代わりに船の指定切符を差し出した。エミリアはそれを受け取る。これを少年がお詫びにと言うならそれも良かった。何より、他人に紛れたくない。河を上る便だから帝都まで5日ほどかかるその間を、一人になりたかった。
「あの子にごめんねって、言って」
 少年は肩をすくめてそれは言わない方がいいと思うよ、と言った。エミリアは一瞬を置いて頷く。確かに少年の言うことは正しかった。
「……これは必ず彼に渡しておく。……中を見ても?」
「いいえ」
 エミリアは強く言い捨て、返答を待たずに背を返した。
 回帰線の間際に太陽が隠れていこうとしている。その薄く弱い光を頬に感じながら、エミリアは早足でその場から、そしてクインの未来と運命の中から立ち去るために歩み出した。
 窓の外には緑の濃い色が、夏の明るさを主張している。途中で母の為に買ってきた花を適当に水に挿しながら、自分は何かを口ずさんでいたらしい。
「今日は何だか嬉しそうね」
 母親の言葉でそれに気付き、クインは照れの為に頬を歪めた。エミリアが自分を待っているだろうと思うと足が着かないほど浮かれているのが気恥ずかしい気もしたし、自覚していてさえ胸の奥が柔らかくさざめいているのが分かる。
「何でもない……わ。大丈夫。上手くやってるから、心配しないで」
 いつもと同じ言葉をすらすらと口に乗せ、クインは花の角度を指先でいじった。白い薔薇の大輪がそっと揺れる。母は手にしていた刺繍枠を下ろし、クインの横へ立った。こうよ、と言いながらこうしたことに器用でない息子の仕業を直していく。
「……いい薔薇ね」
 肉厚でしっかりした花弁を指で撫でながら、母が呟いた。
「お前、これがなんて花だか知っているの?」
「薔薇……じゃないの?」
 きょとんとしたクインに母親は少し笑い、『麗しきイリーナ姫』よ、と言った。ふと細くなった母の瞳が哀しげに淡く微笑んでいる。
 イリーナという名にクインは内心ぎくりとする。その名は現在の皇妃であるイリーナ・ロシェルを指しているのだろう。あの皇子の実母であり、即ち自分のおそらくは真実の母の名であった。それを思えばひどく切ない。皇子のことを憎んではいけないと知っているはずなのに、皇子のことを思うたびに焼き切れそうな怒りと憎悪を覚えるのは自分が狭いのだと理解しているはずなのに、それはいっかな弱くなる炎ではなかった。
 自分の胸の中の、荒れる炎の幻影。何もかもを手に入れなくては嫌だと吠えて、自分を捨て去ろうとするもの全てを焼き尽くしたがっている。ライアンのことも、その熱に煽られあぶられて追いつめられていった。自分でさえ焼いてしまいそうな激しさが、時折自分で恐ろしくなる。──いつかこれが自分自身を殺しそうだ。
 不意に胸に湧いた不吉な言葉にクインは目を伏せ、ゆっくり呼吸をした。イリーナの名の由来を自分が知っているとは悟られたくなかった。母の胸の中にある罪をいつか聞かなくてはいけないとしても、それを受け入れることが今の自分に出来るなどとは到底思えなかった。
「そう……イリーナ姫? 綺麗な品種ね。香りがちょっと強いから、窓を開けるわ」
 クインは微笑みながらそんなことを言い、手を伸ばして硝子窓を押した。小さく木枠が軋み、ついで外の風と空気が吹き込んでくる。
「いい風……」
 クインは呟いて、梢の向こうに瞬き見える海へ視線をやった。エミリアは今、何をしているだろう──絵を描いているだろうという予測とは別に、今彼女がどんな表情で何を描いているかが知りたい。
 もっと知りたい。彼女のことを。二人で身を寄せ合って眠った船の中、目覚めると彼女の柔らかな腕の中に収まっていたことがあった。指を絡めると、無意識に握り返してきた。
 掌の熱、肌の温度、髪の匂い。決して美しい女でもないし、絵のこと以外にはごく普通の女だ。それは分かっている。
 けれど──でも、彼女しかいない。自分を捕まえ、微笑み、特別だと優しい言葉をくれるのは、彼女しかいないのだ。ライアンが戻ってくれば彼女の為に二度と会わない方がいいとは分かっている。ライアンがどう判断するかは分からないが、エミリアを手にかけて全てを短絡に葬る可能性は低くない。奴は人を殺すのが好きだからな……クインは苦く奥歯を噛み合わせる。チアロでさえ眉をひそめているではないか。元々チアロは殺人についてはあまり積極的でないことはあるが、それにしてもよい趣味だとは思えなかった。
「……何かあったの?」
 母親の優しい声が背中を撫でて、はっとクインは顔を上げた。自分は随分難しい顔つきで窓の外の枝を睨んでいたらしい。慌てて顔を弛めるための満面の笑みを作り、何でもない、と言った。
「もうすぐ夏期の中途入学の受験期だから、少し気になるのね。生徒から何人かは受けることになってるから」
 仕事は塾の講師ということにしてある。いつまでこんな風に誤魔化すのだろうという自嘲がそっと胸の奥に囁いたが、クインはそれを無視した。いつまで、ならば簡単だ。この嘘が知れてしまうまで──つまり、永遠に。
「そう……あまり無理はしないのよ。昔から、そんなに丈夫な方じゃないんですからね」
 クインは頷く。虚弱というほどでもないが頑丈ではなかった体質は、やはり根の弱い体質だというリュース皇子のそれと重なる。こんな些細な状況証拠を積み上げた末に、血縁はやはり確信というものに変わっているのだった。
「大丈夫、母さん。私は……全部大丈夫だから」
 母を安心させる為に繰り返してきた台詞をまた口にして、クインは笑って見せた。そう、と母は頷きかえし、しばらくクインを愛しげに見つめてから言った。
「ねぇ、お前……好きな人でも出来た?」
 母の声にクインは思わずえ、と聞き返した。それからぱあっと赤くなる。慌てて俯いても、尚更頬に血が集まってくるようで止まらない。
「や、ちょっと待って、何でそんな……母さん」
 何か取り繕うようなことを口の中でしきりと呟いていると、母は明るい笑い声をたてた。クインはますます赤面するが、表情に出るものは隠しようがない。次第に仕方ない笑みになってクインは照れたまま肩をすくめた。
「別に、そんなことないわ……第一こんな格好でどうしろっていうのよ」
 女装のままの姿であったから、母はそうねと苦く笑う。でも、と付け足された言葉は優しいが苦みに満ちて悲しげであった。
「でもね、お前もどんどん成長するわ。見る度に大きくなる気がする……この格好もあともう少しになってしまうわね」
 クインはやや真面目な表情でそうね、と曖昧に返答した。体つきはどんどん男性的になっていく。細身の体格はともかく、肩の広さや腕の関節の大きさは確かに男のものだ。身長がどこまで伸びるかは分からないが、女装では目立ちすぎるようになってしまうまで僅かというところだろう。
 但し、クインは自分の美貌については強烈に自負というものを持っている。まだ少しの間ならば、女装でも通せるのではないかという感触はあった。誰もがクインの容貌に目を奪われるため、体型は後から印象に付加されるだけの追加事項に過ぎないのだ。美少女という印象さえ与えてしまえば後はどうにでもなる、というのはあまりに適当な仕儀だが、それをまっとうするだけの雰囲気を作る自信はあった。まだしばらくは大丈夫だろうとクインは考えている。
「そのことはどうにか考えるわ。あんまり厳しいと、ここへも来られなくなってしまう……」
 言いながらそれが一番恐ろしいことだとクインは思う。やはりあの時ライアンに下手に取りすがって戸籍を貰わなくて良かった。真実母娘の戸籍を用意できていたら、臨機応変というわけにはいかなくなるではないか。今更自分の選択を追認してクインは大きく安堵の溜息をはき、母さん、と言った。
「でもしばらくは大丈夫。まだ普通にしていれば誰も気が付かないから」
 クインは笑い、母親の手袋の上から軽く唇を押し当てた。この病にかかってから母は接触を極端に怖れるようになった。感染値は下がっているから今はもう遮蔽幕もないし部屋の外へも出ることが出来るが、素肌を触れ合わせることは絶えている。
 だからいつも頬ずりや軽いキスで確認してきた愛情は、いまは薄い手袋越しのこのキス一つであった。それでも、黒死の証明とも言える黒ずんだ肌は今のところ指先だけだ。それ以上広げない為にクインは自分を提供することを選んだのだから、手袋をしていても唇の温度を知っていて貰えるならば報いはあるのかもしれなかった。
「またね……母さん」 
 クインは柔らかに笑いながら告げる。陽は次第に傾き始めていて、窓の向こうの遠い海は屈託ない青から夕陽の反射の鈍い灰色になりつつあった。今からミシュアの街へ戻るならば、夕方になってしまうだろう。
 母は頷き、ねぇ、と優しく彼を呼び止めた。クインは首を傾げてみせる。窓辺の椅子から母は立ち上がり、愛しくクインの前髪を整えてやりながら言った。
「いつか好きな人が出来たら教えて頂戴ね……お前の為にいつでも祈っているわ。お前の幸せと、お前の愛を」
 クインはじっと母と決めた女を見つめる。マリアは柔らかに笑ってクインの手をぎゅっと握りしめた。うん、と小さくクインは呟き、誰にも聞こえないように母の耳元で小さく囁く。
「分かってる。でもそれはもっと遠い時間だと思う……」
 ライアンとのことがある限り、エミリアは通り過ぎていくだけのことになるだろう。それでもいい。今彼女の持つ愛と癒しが欲しいのは本当だから。
 母は頷き、ごめんねと小さく言った。クインは首を振る。本当は、マリアと名乗り彼の母だというこの女を見捨ててもいいはずだ。けれど、そんなことは出来るはずがない。それは既に自明であり、納得が済んでいることでもあった。そして血のつながりがないことをクインが知っている、ことをマリアには悟られてはならなかった。あくまでも優しい子として、ただ母を思い案じている子であると思っていて欲しいのだった。
 クインはまた、と強く言うと背を返した。扉を閉める一瞬に、母の笑みが視界をよぎった。瞳の奥にある、柔らかで温かな表情。かちゃりと錠金具が噛む音がした瞬間、クインは既視感に微かな溜息をついた。瞬間母の瞳にあった光と良く似たものがエミリアの目にもある。
 途端、クインは上がってきた羞恥の為に赤くなる。エミリアへ向かう心の中核が何であるかを突然思い知ったような気になったのだ。まるで子供じゃないかと自分を苛立たしく思いながら、クインは溜息になった。エミリアが完全に自分を愛しているとは思っていない。どこか彼女は同情的でそれが自分を多少卑屈な気持ちにさせるけれど、いとおしさというものに完全な境界線などないのだから、それも一つの思いなのだろう。それでも今夜はずっと一緒にいてくれると言った。
 ───どこか、眺めのいい部屋を探そう。町の向こうに海が見える部屋を。ミシュアの街は大きくて、きっと夜でも明かりを消せば地上の灯火が星のように綺麗なはずだ。一晩だけでも一瞬でも、彼女とのことを一番美しく思い出せるように。
 愛や恋という名前は後から考えればいい。後から振り返れば幻のようなことかもしれない。たった一夏で通り過ぎていく、美しい夢のような。
 けれどそれに縋って僅かにでも希望を見ていられたらどれだけ幸せだろう。希望という言葉を教えてくれたのもエミリアだった。彼女の持っているごく普通の当たり前の優しさにずるずると甘えたくなる。陽の降り注ぐ窓辺やぬるい湯に浸かっている時のようなゆったりした心地よさにただひたすら身を沈めたい。
 エミリアに会う以前ならばそれが真実からの愛ではないと叫んで拒否しただろうか。けれど、それをはねつける気力などもう僅かも残っていない。彼女の微笑みというぬるま湯につかりきってから、ああ自分は本当に傷ついていたのだと感じることが真実なのだ。
 クインは足早に療養所を出てミシュアの街へ向かう。来る時は坂を上るためにやや時間がかかるが、帰りはほとんど駆け下りていくような勢いで下っていった。頬を海からの風が撫でて通り過ぎていく。エミル、と胸内で彼女を呼んでクインは一人で笑い、慌てて顔を引き締めた。
 エミリアが待っていると言った砂浜は船着き場からほど近い。療養所は市街地からやや北寄りに外れた場所にあったから、畢竟ミシュアの街をよぎる格好になる。
 クインがやっと元の浜へ戻ったのはだから、陽が落ちてからのことだった。まだ残光の気配が濃厚に漂って、空の低い場所は燃えるような色だ。砂浜には既に人影がまばらだった。そろそろ家路を辿る時間であるのだ。
 クインはざっと周辺を見渡し、怪訝に首を傾げた。彼を待っているはずの人の姿はどこにも見えなかった。確かこの辺りに、とエミリアが座り込んでいたような箇所へ歩いていっても、そこには夏の光線のせいでまだぬくい砂があるばかりで、彼女の気配さえない。
「……エミル?」
 口に出して名を呼んでみても、返事はどこからもこない。クインは眉をひそめて辺りを落ち着き無く見回し、腑に落ちないままその辺りの適当な店を目で探したが、やはりエミリアの優しい姿は見つけられなかった。
 エミル、とクインはもう一度呟く。訳が分からない。何度か瞬きしてからやっと、彼女の荷物であった大きめの鞄が消えていることに気付く。
 クインは首を傾げ、唇を結びながらじっと砂へ視線をやった。鞄がない、エミリアがいない。……先に宿でも探しに行ったのだろうか。それはそれで構わないのだが、自分を待ってくれないのがいかにも彼女らしくなくて……奇妙だった。
 戸惑ったままクインは更に近辺を見やり、溜息になって砂に座り込んだ。場所はここで良かったはずだ。宿でも探しに行ったのか、とにかくここを離れたなら必ずここへ戻ってくるだろう。鞄がないのは置き放しておく訳にもいかないからだ。
 自分の中でそう整合をつけて決着すると、クインはまだぬくい砂に指で意味のない線をゆるゆる描き始めた。
 浜辺とはいえ波打ち際からは遠い場所では砂は乾いてさらさらと指を滑る。他にすることもなくてぼんやりかき回していた無意味な線はいつの間にかエミリアの名をつづっていた。
 エミル。クインはそれに目を落とす。彼女の空気もなだらかな優しさも、全てが欲しい。女を知らないわけでは勿論なかったが、いつものような態度で相手を蹂躙する気にはならなかった。そんな事を考えていると、ひどくそぞろで高ぶった気持ちになる。意味のないあやふやな笑みをこぼしては飲み込んでいると、砂をかき回す手にこつんと硬いものが当たった。
 視線をやると、黒い小さな棒のようなものが目に入った。クインはそれをつまみ上げる。これは見たことがあった──エミリアの手にある所を何度も目撃しているからすぐにわかる。写生用の練炭だ。エミリアが自分で使いやすいように握る部分を若干えぐってあるため、彼女の持ち物だとすぐに分かった。
 クインは一瞬それに視線を与え、立ち上がった。彼女がこれを捨てていくなどあり得ない。何かがあったのだ。探さなくては、と軽くスカートの砂を払って走り出そうとした時、黄昏の中を歩いてくる人影に気付いた。
 ちらりと視界の端をよぎった影を無視して通り過ぎようとし、クインは足を止めた。一瞬逆光になる影の中に、既知の空気を感じ取ったのだ。クインは影に向き直り、二、三度まばたきをした。……微かに呼吸が上擦ってくる。すらりとした上背のある身体が片手を挙げて簡単に彼に合図した時、クインは何かを呻いて後ずさった。
「チアロ……」
 夢うつつに呟いた自分の声に撲たれたようにクインははっと身を強張らせ、近寄ってくる友人から更に同じだけ後ろへ下がった。痺れたような塊が腹の底から上がってくる。それが喉を通過した時、喘ぎになって唇からこぼれた。
「……チアロ、お前……」
 何故、という疑問は浮いてこなかった。クインは一瞬強く目を閉じる。最初から尾行られていたのだという確信は少しも動かない。何のためにという疑問さえ、愚かだ。
 急に心臓が早く打ち始め、クインは呻きながら額に手を当てる。喉が干上がったように痛い。全身から水が抜けてしまったようにかあっと頭の中までが熱いのに、血の流れだけが速くどくどくと脈を打って止まらない。クインは喘ぎ、首を振った。
「大丈夫か、クイン?」
 いつもと変わらないチアロの声が、その瞬間、混乱の為に濁った脳裏にきりっと一本の正気を与える。それは重要で重大なことを聞く理性だ。
「俺に触るな」
 差しのばされたチアロの指先を叩き返し、クインはその腕で友人の胸ぐらを乱暴に掴んだ。
「エミル──は、エミリアは、彼女は、」
「大丈夫。無事に帝都行きの船に乗せたから」
 クインは持てるだけの力を視線に込めて友人を睨み据えた。チアロは少し困ったように笑い、本当だよ、と穏やかに言った。
「5日後に帝都に着く便だから、心配なら見に行けばいい。但し、遠くから見るだけだ。二度と会うな……次があればライアンは俺に命じなくてはいけない」
 その名前にクインははっと手を離した。チアロがこの瞬間にこの場所にいること、ザクリアから尾行されてきたこと、いや違う──ミシュア行きはクインにとっても唐突で衝動的な行動だった。
 次があればというチアロの言葉がするすると全ての解答を掴み出す。
「ライアンは……もうタリアにいるんだな」
 クインは呻き、更に導き出した答えに全身が逆巻くような眩暈を覚えた。
「俺を……試した、な……」
 最後の忠告とやらをチアロやディーを通じてクインに与え、その上でクインがどう判断するのかを待っていたのだ。チアロが僅かに時間を迷った後で頷いた。
 クインは目を閉じる。憎悪や怒りさえ、唖然というべき自失の前に崩れ落ちていきそうだ。試した、と繰り返して呟いて、ようやくそれを飲み込むことだけに成功する。
 無事だとチアロが言うならそれは信じてもいい。二度と会うなという通告も、これは最前から自分でも覚悟していたことだ。
 けれど、こんな形でこんなに唐突に、呆気なく終わってしまうものだということは予想していなかった。覚悟などというものは追い付かない。何もかもが不意に消えて、残されてどうしていいのかさえ分からないのだ。
 いや、たった一つだけすべきことがある。クインは小さくエミリアの名を呟きながらチアロを軽く突き放し、その反動で後ろへ下がった。
「俺は、許さない」
 エミリア。エミリア。俺の希望。
 優しい声で俺を抱き寄せて大丈夫よと笑ってくれた──クインは喘ぐ。涙も枯れてしまったように、ただ、駆け上がってくるものに揺すぶられるように呼吸を荒げるしか出来ない。
 チアロが何かを言いかける前に、クインは背を返した。待て、と叫んだ声と同時に腕がぴんと引っ張られ、その場にたたらを踏む。離せ、と怒鳴ってクインは身をもぎはなす間際にチアロの爪が引っかかったのだろう、腕の内側をすっと細い痛みが走った。僅かな間を置いて、そこがうっすら滲むように痺れてくる。
「ああ悪い、傷が……」
 そんなことを言いかけたチアロの声が宥めるように優しげで、クインはやめろとひきつった笑みになった。
「やめろ、今更──そんな偽善、違うか」
「そんな言い方こそやめろ、クイン。俺はお前に傷を付けたくないだけで……」
「へぇ? ああ、大事な商品だもんな!」
 首筋ががくがく震えている。俯いていることさえ頭が重くてままならず、クインは振りかぶるように顔を上げ、そのままの勢いで喉をのけぞらせて笑い出した。やめろ、というチアロの声が淡い恐怖に変わっている。
 クインは甲高く音を外した声で笑い続けながら、右手を左の耳の付け根へ持っていく。何をしようとしているのかを悟ったチアロが飛びかかろうとするより早く、思い切り爪を立てて唇の方へ引き下ろした。チアロの呻きが聞こえた次の瞬間、左の頬を何条にも細く強い痛みがはしった。
「顔だろ? なぁ、顔だろう、チアロ? だったら、ほら、こんな、」
「よせ──やめてくれ、頼むやめてくれ……」
 あまりに弱々しい友人の声をクインは初めて聞いた。軽く鼻で笑い、やめてやるよ、と吐き捨てて今度こそ走り出した。クイン、と叫ぶチアロの声がみるみる遠くなる。
 エミリアと過ごすはずの夜に浮かれ飛んできた道を、クインは全速力で戻りだした。療養所の近くに空間移転の為の移転座標を置いている。魔導での移転には正確な相対座標を示す必要があるから、それをザクリアの自室とこの場所において誤差をごく僅かに抑えているのだ。
 月が次第に辺りを照らし始めていた。いつもの街道の目印から脇へ降り、まっすぐに座標まで駆け寄っていく。自分で書いた石盤の赤い塗料文字が目の奥でちかちか瞬いている。この場所と自室をつなげる空間の魔導の数値を確かめ、クインは一息を置いてすぐに詠唱を始めた。
 途端、ふっと身体が浮くような感覚がして、すぐにたたき落とされる。失敗したのだ。あまりに呼吸が乱れていて上手く行かない。地に落ちた瞬間に足を少しひねったらしく、足首の辺りから軽い痺れと痛みで力が入らなかった。
 クインはぎゅっと唇を噛んだ。ほんの僅か、血の味がする。落ち着かなきゃと深く呼吸をした時、まるで凍えた時のように唇が震えているのに気付いた。
 これを止めなくては詠唱どころではないと口元へ手をやると、かちかちと歯が鳴っている。クインは呻きながら石版に額を押しつけた。脳幹から発熱する、とぐろを巻く熱さが僅かに冷える気がした。
「エミル、エミル、エミル」
 呟いているとそれはやはり目のくらむような怒りへ変わった。それが逆に激しく荒れる胸を一瞬だけ宥めてくれる。
 クインはきっと顔を上げた。月は自然にあわあわと世界を照らし、星が次第に姿を現し始めている。紫紺の空を睨み、クインは激しく首を振ると始めから詠唱を始めた。
 ──ライアン。目を閉じたまま、その名を胸に呼び起こす。瞬間全身が沸騰しそうになる。
 許さない。許さない。
 エミリアは本当にただの女だ。巻き込んだな──俺が勝手をするからという理由をつけて彼女を巻き込んだ。エミリアには手出しをしていないとチアロがいうなら、もっと身近な、おそらくは妹あたりを脅迫に使ったはずだ。
 それが簡単で何の負担も要らない方法だから。エミルに俺と妹を選ばせた。
 それを思うと目の前が血に染まるような怒りを覚える。あの子は私の希望だとエミリアは言った。あの子のために描き続けるとも。
 エミリアから絵を取り上げてはいけない。彼女から彼女自身の翼をむしりとってはならない──分かっていた、そんなことは!
 クインはようやくいつもの落ち着きを取り戻したように慣れた詠唱を続けながら薄目を開けて月を見上げた。ぼんやりと滲んでいるのは淡い雲か、涙だろうか。分からない。喉の奥に悲しみがこみ上げてくるのをぐっと殺した時、詠唱が終わった。
 身体があり得ない形にぐにゃりと歪み、すっと足下が消えたような感覚が降りた。数度の失敗の後にやっと成功したらしい。
 空間を渡る時間はほんの十を数える間だが、水中を無理矢理連れ回されているような浮遊感と体の重さは何度経験しても慣れるものではなかった。いつもの寝台の上にどさりと身体が落ちた瞬間、ミシュアの浜から疾走してすぐに転移を始めた呼吸の合わなさが強烈な吐き気に変わる。
 それを目を閉じて飲み込んでいると、寝室の扉が開いた。ザクリアの方がミシュアよりも若干東にあるからこちらは既に夜の中に世界がある。居間はそのせいで明々とランプが灯され、一瞬目を焼くほど眩しかった。
 思わず手をかざしたクインの耳に、低い声がした。
「……戻ってきました、ライアン」
 ああ、と返答する重い声。かつんという硬い音は灰切りだろうか。それを耳にした瞬間に凄まじい怒りが跳ね上がってきて、クインは出来うる限り素早く身を起こし、そちらへ向かって駆け出そうとした。
 途端、かくんと膝が落ちる。足をひねったことを忘れていたせいか、勢いで床へ身を打ち、喉で呻いた。
「消耗してますが」
 ごく冷静に自分を見つめて呟く声はディーだ。姿は逆光の暗い影とクイン自身の燃えさかるような血熱のためによく焦点を結べないが、好意の欠片もないからすぐ分かる。
 クインが体を起こそうとゆっくり腕に力を込めていると、ディーがまっすぐに歩いてきて腕を取った。立たせるというわけでもなく、床を引きずられて居間へ放り出される。
 軋む肩を押さえながら、クインは半身をやっとあげた。久しぶりに見るライアンは居間の長椅子にもたれ、じっと腕を組んで自分を見つめていた。
 その目に表情がない。ディーがクインの襟首を掴み、ライアンの足下に這いつくばるように押さえ込んだ。微かな失笑。オルヴィが暗い笑みを口元に歪めながら、ゆっくりと腕を伸ばしてライアンの背後から彼の首にまきつけている。挑発だと分かっていても、忍耐など出来なかった。
「離れろ、馬鹿女」
 掠れた声音で呻くと、オルヴィはたまらないといったように背をそらして笑い出した。それは確かに哄笑だった。勝ち誇ったような声にクインは相手を睨み、黙れ、と低く吠えた。
「お前の顔を見るだけで吐き気がするんだよ!」
「そう。私もお前が嫌いだから丁度いいな」
「お前と一緒にするな! 最低の売女のくせに!」
「それがお前とどう違う。お前だって男に足を開いて金を貰ってるだろう」
 クインが何かを言い返そうとした時、不意にライアンが顔、と呟いた。
「その顔はどうした」
 声がいつもよりかなり低い位置に掠れている。クインは別に、と押さえられたままでライアンから顔を背けた。自分の顎にディーが指をかけ、強引に上を向かせる。ひっかいたんでしょうね、と淡々と呟いた声に、ライアンが頷いた。
「顔はどうした。……あの女にされたのか」
 クインは首を振ってディーの捉える顎を無理に振り切り、床にぺたりと額をつける。顔などよりも、どんな表情をつくればライアンの胸に同じような傷を作ることが出来るのか、まるで見当が付かないからだ。
 不意に自分の上から重力が消えた。ディーが押さえていた体を離したのだ。クインは身を楽にするために丸めようとする。呼吸を整えようとしていると首根がおもむろに掴まれ、長椅子へ引きずりあげられた。
「顔はどうした、と聞いたな。自分でやったのか」
 ライアンが身を寄せるようにして呟くように言った。クインは無理矢理笑おうとして頬を歪め、傷の痛みに顔を痙攣させた。今更疼くような痛みが幾らでも湧いてくる。
「それが何だよ」
 脳裏に逆巻く荒波の幻影が、言葉を上手く紡がせない。とどろく音がただ憎い憎いと呻いているのだけが聞こえる。それに耳を傾けていると、ああ本当に自分はこの男が憎いのだと次々に湧いてくるようだ。馬鹿な、とライアンが低く言ったのが聞こえた。
「お前の価値は顔だと自分で知っているはずだな。──オルヴィ、しばらくは仕事は休ませろ。使い物にならない……そう、連絡を。チアロが戻ってきたらあれに身の周辺のことをさせておけ」
 オルヴィが簡単に頷いた気配がした。ライアンは視線をクインに戻した。彼のまろい緑の瞳が何かにかぎろい、ひどく不安定な明滅を繰り返していることにクインは気付いた。ライアンの感情が何かに揺すぶられているのだ、それもかなり強く。
 クインは唇をめくりあげるようにして、吐息で笑って見せた。ライアンが喉を鳴らしたのが聞こえた。僅かに細められた瞳の奥に、たわめようとしているらしい激しさがある。
 ──怒りだろうか。それとも、自分の胸にあるような憎しみだろうか。
 それをライアンが理性というもので押さえ込んで今までのように冷淡にあしらおうとするなら、それが最も許せなかった。エミリアの優しい温もりを手放して遂に何も得られないとすれば、それは全ての敗北に等しい。
 それだけは嫌だ、とクインは奥歯を一度きつく噛み合わせ、そして傷のせいでひきつれ痛む頬をぐしゃりと歪めて笑った。
「……あんた、何か言うことはないの? 浮気された亭主だってよっぽど腑抜けじゃなけりゃ、ひとくさり言うぜ」
「二度とこんな面倒を起こすな」
 ライアンの言葉はいよいよ低い。語尾が微かに震えている。
「いいな、お前は俺の特別だから許されていることが沢山ある。旨い汁だけ吸って身分を逸脱することは許さない」
「特別だって? どこが? あんたの特別はリァンだけで俺のことは付録だろ? チアロだってあんたにはリァンの模造品じゃないか……!」
 ライアンが不意にクインの喉を掴み、黙れと掠れた声で言った。ぼそりと呟くような声音は感情を無理に轢き殺した時特有の抑揚の無さで、クインはそう、と更に笑った。ライアンの内側に爪を立てることは出来たらしい。
 あとは思い切りひっかき下ろすだけであった。
「で、俺はそれ以下って態度なんだろう、はっきり言えばいいじゃないか! ライアンは俺が怖いんだ、俺が消えたら守るべきお可哀想なリァンの幻だって消えちまうんだからな!」
「黙れ!」
 ライアンの叫びがした瞬間、耳元で火花が散ったような衝撃がクインを身体ごと横へはじき飛ばした。椅子の脇の机に体側を強く撲ち、身体が反射で撥ねる。
 クインは薄目を開けてライアンを見た。自分は泣いているのだろうか、視界がぼやけてはっきりとしない。けれどそのもやのかかったような世界の中心でライアンが肩を震わせて、荒い呼吸を宥めすかそうとしているのは見えた。
 クインはしゃくりあげるような呼吸でどうにか笑った。耳の奥で空気の塊がはね回っているようで、自分の声さえあやふやになりそうだ。だから尚更くっきりと発音する。
 ライアンの心に噛み付いて、そのまま引きちぎってやりたい。──エミリアとのことを簡単に裂き壊したように。
「怒ってるんだ、図星なんだな、ライアン! あんたは俺が怖いのさ、リァンの代わりにしたはずの庇護人形が自分にいちいち噛み付くのが気に入らない癖に、リァンの代替品だから殺せないんだもんな! やってみろよ! 案外楽しいぜ!」
 クインの叫びがきんと響いて一瞬世界は静まりかえった。ライアンが物も言わず青ざめていく。それは驚愕や不快のためではなく、血の気の引くような怒りのためだった。
 貴様、とライアンが呻いたのが聞こえた。クインはふんと鼻を鳴らして笑おうとした。それが終わらぬうちに喉が急速に締めあげられ、体重が消えた。次の瞬間、がくんと首の付け根に重量がかかり、足が勝手に空中を蹴る。
 喉元をひっつかまれて吊り上げられているのだと悟った時、ライアンが何かを吠えてクインは壁に叩きつけられ、崩れ落ちた。
 一瞬呼吸が止まり、それを回復するように大きく肩で息をする。全身が軋み痛むのをこらえ、クインはそれでもこらえきれずに笑い出した。それは弱々しい吐息のような物でしかなかったが、ライアンをあぶるには最早十分すぎる炎だった。ライアンが喉を鳴らして唸ったのが聞こえた。
 ライアンが足早に自分に近寄って胸ぐらを掴み、宙へ再び吊り上げる。衝撃にそなえてクインは奥歯を噛みしめて息を殺すが、殴打は頬ではなく腹へきた。
 みぞおちに膝が入った瞬間、クインは呼吸を喉で詰まらせた。床に落ちる。咄嗟に頭を庇って丸くなろうとした腕が踏みつけられ、無理な角度で筋がみしりと引き延ばされる激痛がはしった。
 クインは悲鳴を上げた──気がした。後のことははっきりと判別が出来ない。
 嵐のように突き刺さる力が自分を散々なぶり、痛めつけている。朦朧とした意識の中で、クインは確かにライアンの小さく殺した声を聞いた。笑っている。ひきつったような声で、しかし確かにライアンは笑っているようだった。
 何かを言ってやろうと唇を開くと、そこからしまりなく何かが零れ落ちていく。鉄の錆びたような臭い。
「──死んでしまう、殺す気ですか、ライアン!」
 掠れた声が怒鳴っているのを耳に留めたのを最後に、ふっと意識が暗闇へ紛れ込んだ。
 ステリオは丘の街だ。シタルキア中北部の丘陵地帯の中に属し、ゆったりした隆没が波濤のように遠くまで続いているのが街外れから見える。夏の草の緑が溢れてくるようで、強い光線の下にあれば一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
 エミリアは鞄を肩からかけ直し、振り返った丘の様子が記憶と変わらないことに安堵して歩き出した。まっすぐに街の中央区からやや外れた地区へ入り、やがて背の低い薔薇の木の双柱門を抜ける。夏薔薇の甘く清涼な香りがふっと鼻先をかすめ、やっと自分が元の場所へ戻ってきたような気になる。
 奥から偶然歩いてきた中年の女に軽く会釈すると、女はあら、と明るく笑った。
「まぁ、エミリアさん? 帰省は再来週って聞いてましたけど、早めたのね?」
 女の表情にどんな影も苦悩も遂に見つけられず、エミリアはやっとぬるい笑みになることが出来た。何かがあれば、きっとこんな風に屈託なく話しかけると言うことはしないだろう。
 それが思いの外自分の頬を弛めたらしい。ほっと溜息になると、女はエミリアに満面の笑みを向けた。
「面談室をお使いになる? それとも帰宅するかしら? アスニアったら養家に迷惑だからってなかなか帰らないのよ」
 エミリアは苦笑になった。叔父夫婦には子供がおらず、そのせいでエミリアもアスナも実の子のように愛しまれている。葡萄園も年によって作付けに波があるのは仕方がないが、片手間に仕込んでいる葡萄酒の評判が存外良くて、不足のない暮らしだ。口減らしではなく、自分の世話に手がかかることを気にしているのだろう。
 それはエミリアも同じであった。だからアスナが全寮制のこの盲学校に入りたいと夢想を語った時に絵の新人奨励賞を貰った絵を売って金を作ったのだ。
「連れて帰ります。部屋へ行って荷造りを手伝ってもいいですか?」
 どうぞ、と女が微笑む。エミリアが頻繁に面会に行く部類であることもあって、面談には比較的甘い。盲学校特有の手すりや階段の終わりの鳴き床を通り、妹の部屋の扉を叩く。どうぞ、という声は明るくて、いつもの妹のまま、何も変わらないごく普通の日々のままだ。
 部屋の扉を開けると、妹は窓辺にいた。開け放した窓硝子に耳を当て、じっと目を閉じている。窓に跳ねる風の音を聞いているのだ。
 扉が開くと一瞬通りが良くなった風が強く硝子を震わせて、それが楽しいのだろう、アスナは小さく喉を鳴らして笑っている。ちりんと扉にくくりつけられた合図の鈴が鳴った。
「……だれ?」
 おっとりと口にして妹は窓から身を離す。傾げていた首を直すと長く伸ばしている髪がさらりと肩を滑って落ちた。妹の目と同じ、美しい夜空の色だ。落ち着いて扉の方角へ向けられる目は、それでも見当違いの場所を見ている。というよりは、振り向いた耳に気配を悟ろうとしているからどうしても見えている者とは視線のやり方が違うのだ。
 エミリアは私よ、と小さく言った。妹の無事を目にした瞬間、気が抜けてしまうほどの安堵に襲われて、口を開くのもおっくうなほどだ。
「──姉さん? 姉さんね、その声、すぐに分かる!」
 アスナは朗らかな声を挙げてするりと窓際の椅子から降りた。自室の中は既に未知の世界ではないらしく、歩いてこようとする。
 姉の身体を一瞬でも早く確かめようと伸ばされてきた手の先にエミリアは指を添わせ、絡めて引き寄せた。妹の身体はまだ少女の入り口にある年齢のままに小さく、すっぽりとエミリアの両腕の中へ収まってしまう。この小さな宝石の愛しさにエミリアは破顔し、きつく妹を抱きしめた。腕の中にある身体の温度と質量が、やっと確かな実感に変わる。
「アスナ、アスナ……会いたかったわ」
 エミリアはうわごとのように口走り、何度か再会の軽いキスを頬に交わしあってから長い溜息になった。一つが無事に解決すれば、更に一つが浮いてくる。不安というのは大抵一つの根に連なっていて、全てが消えるという確信に至るまでには一つ一つを丁寧に潰していかなくてはならなかった。
 エミリアは僅かに呼吸を飲み込み、重大なことだと悟られないようなさりげない声音を作り出した。
「ねぇ、何か最近おかしな事はなかった?」
「おかしな? ……例えばどんなこと、姉さん?」
「あぁ、いえ……いいのよ、気にしないで──ちょっと見ない間に大人びた感じがしたからびっくりしただけ」
 妹の反応が余りに無邪気で、エミリアはやっと自分の暗い想像を振り切ろうと決意する。この小鳩のような妹が不幸になることを想像するよりは、幸福に微笑んでいる姿を思い描くことの方が重大で重要で、大切なことだ。叔父さんの所へ帰るわよ、とエミリアは努めて明るく口にして、簡単に荷物をまとめて外へ出た。
 ザクリアのような大都市とは違って流しの馬車などはほとんど無い。二人で田舎道を歩いている途中で捕まえた農馬車に便乗出来たのは運が良かったほうであろう。
 アスナは刈り取った牧草に夏の匂いがすると身を投げて笑っている。朗らかな笑い声が耳に響くたびに少しづつ、エミリアの不安や恐怖を埋めていくようだ。可愛い子。エミリアは草の束に頬を押しつけている妹を見やる。
 草の匂い、風の音、小鳥の声、太陽の熱。視覚を失ってしまった代わりにアスナは全てを肌と心の感触で捉えている。悲壮でもなく、自棄ばちな明るさでもない。これがこの子の芯なのだとエミリアは不意に妹を頬ずりしてやりたくなる。両親がいなくなってからは唯一残された最も濃い血の相手であったし、何よりも幼く守るべき者なのだ。
 叔父夫婦の家に着いたのは夕方近くになってからだった。馬車を降りてから少し歩いたが、しっかりと手を繋いでいるせいなのか、アスナの足取りにあまり不安はない。最近の寄宿舎での生活や、習いだした点字のタイプのことなどを嬉しそうに語っている。
 やはりあの少年の口にしたのは単なる恐喝なのだとエミリアは次第に心がぬるく解けていくのを感じてそっと笑った。黄昏に埋没する農園はいつもの色で、何も変わらない光景を見る度にほっと長い溜息になる。忘れようと努めても、一度刷り込まれた恐怖を捨ててしまうことは難しい。それが検証によって少しづつ安堵にすり替わっていっても同じだ。
 姉さん、と妹が強くエミリアの手を握った。どうしたの、と優しい声を出すと、見えないはずの黒々した瞳をまっすぐに向け、アスナは微かに憂えたような表情で言った。
「姉さん、何だか怖いことがあったのね? 震えてるもの、ずっと」
 エミリアは一瞬返答が出来ない。真夏のぬるい残照の中でアスナの手を強く握りしめて震えていたとするなら、やはり怯えているのだろう。失いたくないのだ。全てを。
「大丈夫。アスナと一緒にいれば、きっと落ち着くからね」
 返答は下手に誤魔化さない。肌で触感を読むごとく、アスナは気配に敏感な娘だった。光を失うまでもその傾向はあったが、それは更に強まっている。妹はそれに直接答えず、そっと笑った。遠くから自分たちを見つけたらしい叔母の驚きと歓喜の声が呼んでいる。それに何の暗さも感じない。エミリアはまた同じような溜息になって手を振り返した。
 久しぶりの養家は記憶の通りの野暮ったくて温かな色味をしている。手縫の壁掛けも毛布のつぎも、そこに溢れるように縫い込められている住人の愛情が真冬の雪のようにじんわりと重たい。けれど、それに埋もれてやっと暖まるような心地もあるのだ。
 エミリアの帰郷は予定よりも半月早く、これは相当突然といって良かった。どうしたのだと苦笑する叔父たちにも、アスナと同じく日常の明るさはあっても恐怖の影は見つけられない。3ヶ月ほど前に帰省した時の空気と同じものをふんだんに与えられて、ようやく神経ごと弛緩していくようだった。
 夕食が終わると妹を連れてエミリアは二人の部屋へ引き取った。昼下がりの埃っぽい道を歩いてアスナも疲れているようだったし、エミリアも船を降りてからは強行軍であったといってよい。
 一刻も早く妹の無事を確かめたかったし、叔父夫婦の息災を見たかったのだ。
 アスナはついてすぐに自分で整理した棚を開けて、手探りで寝着を取り出している。着ていた木綿の服をぱっと勢いよく脱ぎ捨てているのはやはり、自分に対する目の意識の薄さなのだろう。見られている、ということに対して無頓着なのだ。
 寝着をもそもそと着ている仕草はたどたどしい以外の何でもないが、手伝ってはいけないと言われている。身辺のことは自分で一通り出来るようにするのが自活の最初だと盲学校で教えているようだ。
 だから手を貸さずにエミリアはじっと待っている。釦の数を丁寧に数え、指がゆっくりと着替えを仕上げていく。次第に子供から大人へ渡り始める身体はどこも淡く薄い、女の匂いがする。未完成で危うい身体の線が、この一瞬しかない美しさをもっている。それは殻を破ろうとする直前の息吹だ。
 見る度に妹の身体がゆっくりと、しかし確実に子供時代の次の季節へと歩んでいくのが分かった。それに比して笑顔は昔の通り、屈託なく明るい。子供のままのような、無垢の永遠を垣間見る気がする。
 けれど、その身体のように妹が子供のままだとは思ったことがなかった。他人には無邪気で明るく、やや年齢にしては幼く思われるほど素直に大人しくやわやわしい少女であったが、真実子供であれば言うはずの他愛ない我が儘も癇癪も持っていない。何かを無理矢理主張して誰かを困惑させたりすることがないのだ。
 ──優しい子。エミリアはやっと全ての釦をかけ終えて、一番下から順にきちんと止められているかを確かめている妹を見ながら思う。
 優しくて、傷つきやすく、そして強い。両親の死、自身の盲。そんな境遇の中にあってもアスナはいつもエミリアを支え、励まし続けた。辛くないなどとは思わない。アスナの強さは何事にも動じない鉄ではなく、しなやかに風にそよぐ若木のそれだからだ。
 不意に愛おしさの波が零れてきて、エミリアはそっと目元を拭う。妹と自分と、支え合って生きていきたい。可愛い子。優しい子。私の希望。エミリアは口の中で呟いた。ふと意識のそこを何かがかすめようとするのを無理に押し殺し、着替え終わって寝台に座る妹の隣へ腰を下ろす。
「……綺麗な髪ね、アスナ。やっぱり長いのが似合うわ」
 言いながらエミリアは櫛で丁寧に妹の髪を梳いてやる。これは久しぶりにあった時の姉妹の心を近くする儀式のようなものであった。流れるような黒髪は艶やかでどっしりした重みがある。量が多いが美しい髪だ。妹の身を整える閉じた幸福を噛みしめていると、不意にアスナが姉さんと言った。
「──ねぇ、前の手紙にあった男の子は元気?」
 ふっと瞬間、手が止まった。胸の深いところが一瞬で射抜かれて、僅かな時間呼吸も出来ない。
 エミリアはそうね、とあやふやな事を返答し、もう寝なさいと強く言った。寝台に入れてからそう立たない内に妹が寝付いてしまうと、エミリアはほっと溜息になって自分も寝台へもぐりこんだ。船の中の揺らぎがなくて、真実自分は戻ってきたのだと思う。
 目を閉じると真っ先にクインのことが浮かんだ。
 ──クイン。見捨ててしまったという罪の意識や哀れだと思う胸の作用よりも早く、彼の表情が豊かにあふれ出してくる。
 苛立つ頬の線、癇性に歪めた唇。そんな翳りばかりの面差しが、いつしか素直に明るく変化していったのをみたのは、奇跡か幻のような出来事であったはずだ。
 船の中でみたのはいとけなく縋りつく、切羽詰まった依存であった。怒り、笑い、不機嫌になり、毒づき、そして強く禍々しい言葉に自ら傷つくような顔。沢山の彼を見たはずなのに、最後に他のもの全てを消し去って浮かんでくるのは、ミシュアの浜で別れた時の幸福そうな笑顔だ。
 心の温度のままに全てを全身から発散する彼の、あれが最も力ある表情だった。あの瞬間に自分たちの間に秘密も打算も形式もなく、ただ惹かれるままに相手を見つめていればそれで良かった。そのはずなのに。
 エミリアは毛布を頭まで引き上げ、中で丸くなった。涙がたぎるように溢れてくる。ここに至って初めて、ミシュアの浜で膝を折った時から自分は茫然としていたのだとやっと思う。
 結局のところ、自分は何に負けたのだろう。
 クインのことは愛しかった。彼が自分のためにそこにいてくれと言うのなら、彼の繊細な神経を宥める鎮静剤だったとしても意味があると思った。彼の心はひどく荒くて激しい波だが、その根底にあるのは絶望的な寂しさだった。
 だから可哀想に思った、それが間違っているはずはない。男として愛していたかという問いには今でも答えがないが、それも仕方がない。憐憫は決して恋ではないが、それも人への真摯な祈りならば、愛と呼べる種類でないか。
 手放してしまった希少な宝石。彼はその硬質な心でもって自ら傷ついていく。それを自分に止めることが出来るなら、それに準じる巫女でもいいと確かに思った。女というものは殆どが絶望的に美しいものが好きで、それは馬鹿馬鹿しいことではあるが仕方がない。圧倒的なものの前にひれ伏すならば、愚かしさでもってしか出来ないからだ。
 彼は美しかった。表面に浮かぶ外殻ではなく、胸の奥津城に誰にも触れさせない頑とした純粋を飼っている。それを自分でどうしていいのか分からずに、秘密を分かち合う相手を必死で捜そうとして遂に見つけられない悲哀が彼をどうしようもなく打ちのめしていたのだ。
 エミリアはこぼれる涙を枕に押しつけながら深く頷いた。彼の背中に翼を描いたのが何故だったのか、ようやく解答が見つかった気がした。それはきっと彼が最も欲しているものだから。力強く羽ばたいて地上より少しでも高く、天へ近付いていきたい、そしてそれが出来ないことに絶望しつつあった天使。
 ──それを捨ててしまった。自分の手で。一度は彼は翼を見つけたはずだ。そんな表情を知っている。
 彼はどうしただろう。あの少年は彼の、おそらくは友人なのだろう。名前は遂にその唇から零れなかったが、彼の口から陽気な友人の話は聞いたことがある。それに任せていいのだという声が自分の中からすることを許せない。彼への罪悪感と自分への絶望が、家族の無事を確認し、確信してから湧いてくる。
 それが自分で本当に卑怯だと思う。あんなに心細く不安な声で自分を呼んで、どうしていいのかも分からないまま身を寄せてきた獣のような彼を見捨てて、全てに目を瞑り耳を塞いで逃げてきたのだ。
 心の底から彼を哀れだと思う、張り裂けそうなほど悲しいと思う。けれど、それを救うために自分の根底を構成するこの家の温かな色をした全てを差し出せと言われたら、それは出来なかった。出来ないならば、これは全てを賭けて狂っていくような恋ではなかったのだ。
 そう呟く側から言い訳のようだという自嘲が湧いてきて、エミリアはきつく歯を食いしばる。少年がエミリアに彼を不幸にはしないと言った言葉を鵜呑みにする気はなかった。第一、それは自分とは関係がない。気休めにもならないのだ。
 クイン、とエミリアは小さく名を呼んだ。もしあの時全てが順調に流れていたならば、今頃は彼と身体を寄せ合い名前を呼び合っていたかもしれないのだという新しい推測は、思った以上に胸を刺した。痛い。彼は今、どうしているだろう。
 その資格は既に無いとしても、案じているのは本当だ。あれが恋でなくても、愛の種類ではあったから。思えば全てが幻の儚さであった気がした。夏の海にくゆる、蜃気楼のような。
 違う、とエミリアは反射的に強く思った。全ては自分の目と、心が真実だと思うのがうつつであり、幻だと思うものが夢だ。醒めて消える夢にはしない。誰がどんな思惑を持っていたかも関係ない。エミリアの中にある、一番の彼が全てで現実だ。
 現実、と呟く。あれが幻でなかったことを証明するために、うつつの夢であったことを残しておくために、この胸の後悔と彼への追憶のために、差し出せなかった自分の全てを賭けるとするなら、方法はたった一つだ。
 ──描きたい。
 自分の身体のそこから力強く浮いてきた言葉に深く頷き、エミリアはゆっくりと身体を起こす。妹を起こさないようにそっと寝台を抜けてショールを羽織ると、静かに家の外へ出た。葡萄畑は月夜に照らされて、青緑色の海のように葉がうねっている。
 その中をエミリアは足早に作業小屋へと向かった。作業小屋の屋根裏は昔からエミリアの絵のための部屋になっている。専用の部屋を増築してもらう事が出来なかった代わり、エミリアが好きなだけ一人で絵を描けるようにと叔父が作ってくれたのだ。
 屋根裏へあがるとそこは昔のままの世界であった。賞を取ることも、芸術院へ進むことも、絵を売って生活することも、全く思いもせずに自分のためにただ描いていた頃の気配がまだ残っているようだ。
 描きかけてそのままになっている何冊もの画帳、何を描くか迷って手をつけていない木綿の画布はやや日向焼けしているが、構わずにエミリアはそれを作業台へ立てかけた。
 ──描きたい。
 胸の奥から衝動が、それだけを囁いている。
 床に落ちていた炭は写生用の柔らかいものではなく、おそらく子供の頃に母屋の備蓄庫から拾ってきたものだ。それをも愛しいとエミリアは微笑み、画布と真向かった。
 ──彼を描きたい。いいえ、描かなくては。
 更地のような何もない画布に、たちまちクインの沢山の表情が零れてくるようだ。これまでに見た綺羅綺羅しいものではなく、人形のような魂のない端正さではなく、たった一つ、描きたいと心から思う表情が出るまで、じっとエミリアは画布を睨み据えて待っている。
 ──描きたい。
 ここへ戻るのは自分の持っている業なのだろう。それをなじって離れていった恋人もいた。全てのことを絵のための土台であると言われて悲しかった。けれど、それは今的中ではなくても何かの真実を含んでいるかも知れないとそう思う。
 描きたい。クインという奇跡を描き留めておきたい。そうしなくてはいけない。全てがエミリアの中で昇華されていくのなら、通り過ぎていった恋愛でさえなかった交感を形に残し現実だったと振り返るよすがとなるのはやはりこれしかない。
 自分自身の中から溢れてくる、この衝動と情熱の帰結しかないのだ。
 描きたい、とエミリアは強く画布を睨んだ。
 彼を描きたい。美しさで周囲に君臨する王ではなく、ただ寂しさと怒りと、それでも希望を手に入れようとするあの目を持った少年としての彼をとどめておきたい。
 自分でも意識せずに最初の一線が出た。何も描かれていなかった処女雪の上に足をつけた僅かな罪悪感が手を止め、やがてそれは突き進み、滑り出す。
 彼を描きたい。今、描きたい。
 ひたすら突き上げてくる衝動がエミリアの手を自動筆記のような勢いで動かしている。ザクリアのアパートにある美しい幻想画とは違う絵になるだろう。この高揚感をしばらく味わっていなかった気さえする。
 売り絵は否定しないしそれで食べていこうとしているのも事実だが、他人が求める自分の絵はいつの間にか幾重にも張り巡らされていた自分らしい優しさという枠の中であった。慣れた技法と慣れた愛に、僅かに疑問を持ったことはなかったろうか。エミリアの持つ魂の複製品のような絵を沢山描いてきた気がする。
 ──描きたい。
 エミリアは自分の手が勝手に彼の姿を描き出していくのを見つめながら、深く頷いた。これは彼だ。誰がどう言っても、私の中の彼だ。技術でもなく、色彩の綾でもなく、彼の魂をこの一枚に塗り込めておきたい。その為だけに描く、自分のための絵。
 描きたい、とエミリアは呟いた。途端に何かが決定的に弾けたらしく、一度は止まっていた涙が溢れてくる。それを空いた手で払いのけながら、エミリアは忙しく手を動かした。
 描きたい。全ての決算に、自分と彼が僅かにでも同じ地平に存在した証拠に、今描きたい。この絵を最後に情熱全てを燃やし尽くしても構わない。
 これが描くということで、これが想うということだ。
 絵のために生きているのだという非難はあるいは正しいかも知れない。けれど、それがどうしたっていうの。それが生きていくということなのよ──私にとって。
 クインのことがこの絵の代償であったということではないのだ。全ての魂への打擲があるからこそ、それを糧に出来るのだから。
 エミリアは夢中で描き続けた。この絵を彼に見せてあげられるかは分からない。けれど、描くことで彼への祈りを形残すことが出来る。
 その為に描くのだ。愛も、祈りも、形にならないものだからこそ、胸の中にあった証明と追憶のために。
「天使」
 エミリアは呟く。
「天使にするわ──夜明けに空を見る希望を」
 これがエミリアにとっての彼と過ごした夏、奇跡のような短い季節の決算であった。
 ──これは後に、『暁の天使』として展覧会で最高の評価を得、また画家エミリア=スコルフィーグの劇的な質的転換を示す一枚として扱われるようになるが、それはまた別の話である。

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