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 小さな馬車を降りると煤けて赤い町並みと、青みかかった石畳から世界を異なる色へ変える境界の2本柱が見えた。相変わらず昼日中の白けた光の下では薄汚くてよそよそしい。外からタリアへ戻ってくるたびに胸に微かに興るのは確かに嫌悪なのに、それをいつの間にか許容しているのは諦観なのだろう。
 所詮、この町でしか生きてゆけないのだ。リァンの背を追うように少年たちの上に君臨し始めた時から自分の命一つに沢山のものが付随している。今死ぬわけにはいかないし、勝ち続けなくてはならない。その義務を重いと感じないのは僥倖であったけれども、重いと思うものはある。
 ───例えば、あの庇護している子供のことだとか。
 ライアンは内心で軽い自身の嘆息を聞いた。タリアを離れる直前彼の癇癪につい、つき合ってしまった。全身の気配を逆立ててこちらを巻き込もうとする瞳を見る度に、何かひどい間違いを犯している気持ちになる。
 客を取り始める前にその予行がしたいなどという一瞬唖然とするような彼の願いを聞き入れたのは、彼がそう思っているであろう秘密の担保ではなくて、純粋な憐憫の為だ。再開した少年の切羽詰まっている上に怯えたような目が、ひたすら哀れでならなかった。
 元々ひどく誇り高い子供であったことも、その痛ましさに拍車をかけていただろう。ライアンの元から一度走り去った時、クインは沢山の事情はあったにせよ明るく陽気な子供だったはずなのだ。
 けれど、どこかから戻ってきたクインは疲弊と焦燥のせいなのか、気強く傲慢だった瞳の凄みさえ失ってしまっていた。それが自分でもはっとするほどの憐れみに変わる。──それを知ればクインの方はまた傷つけられたように思うだろうから、口には出来ないことではあったが。
 客とのことはクインの性質には合うかもしれないと当初楽観していたことを、ライアンは認めざるを得ない。傲岸不遜の塊、自分の理知と美貌に抱く正直で圧倒されるような自負。それは彼の内面から滲むように溢れていて、きっと客には崇拝という扱われ方をするだろうと考えたし、最初は確かにそうだったはずだ。
 おかしくなった分岐点が何であったのかをライアンは知る術がないが、その時機ならば記憶とつき合わせて導くことが出来る──そして、それが一層クインの元へ足が向かない理由であった。 
 ライアンは髪に手を入れてゆるくかき回す。気が重い。あれは何故、俺にそんなにこだわるのだろう──男は初めてだと言っていたし、あの怯えた態度やその後のもの慣れぬ仕草や空気がそれを裏付けていたからあまりにえげつないことは控えた、それは本当だ。が、それを何かと勘違いしているとしたらライアンは面食らうしかない。そもそもクインの申し出を受けたのも、ライアン自身の苦い記憶の為だ。
 活劇の芸団から稚児に転売された夜のことは、思い出せることのほうが少なく、またその殆どは息苦しい屈辱の黒で塗りつぶされている。あれを与えるよりはと思ったことは否定しないが、同情を他のものに取り違えられても困惑するとしか言いようがないのだ。
 客の殆どが男であることで価値観が若干揺らいでいるのかもしれない、と言ったのはチアロであったはずだが、だからといって同性愛がごく普通の志向だという考えを持つのは浅薄にすぎる。それはあくまでも珍しい嗜好に属し、タリアの外へ行けば非常に少ないものだろう。
 後ろを付いてくるオルヴィに聞こえないように溜息を落とし、ライアンはチェインに入る小路を折れた。通称で煉瓦屋敷と呼ばれている建物の、記憶の通りの影が目に入る。窓辺に何かが動いた気配がして視線を上げると、窓が開いて少年が顔を出した。あれは確かチアロが連れていたショワとかいう子供だ。では、チアロもここにいるだろう。
 煉瓦屋敷の1階の広間の奥に、ライアンのいつもの席はある。幹部たちが集まってくるのも大抵ここで、チェインの様子を聞くのも何らかの命を下すのもここだ。そこへ入っていくと全員が立ち上がって彼を待ち受けているところであった。
「お疲れさまでした」
 簡単な挨拶と共に幹部の一人であるノイエが腰を折る。それに全員が倣うのに簡単に頷き、ライアンは自分の場所である椅子へ腰を下ろした。脇の小卓へ灰切りの小皿がまわされてくるのもいつものことだ。黙って顎をしゃくると幹部を除いた少年たちが広間から出ていくのも符丁通り、ここに至ってようやく自身の巣へ戻ってきた実感が湧いた。
「イシュラとディーは」
 見あたらない幹部の名をあげると、ノイエが軽く頷いた。
「イシュラは自派の内部の始末に出ています。中で少し造反の気配があったようなので、その粛正と燻り出しのために最近はあまりここに来ません。探しにやりましたが、少しかかると思います。ディーはタリア王からの呼び出しで王屋敷へ出向いています。呼びにやりましたから、じき、戻ってくるでしょう」
 ライアンは頷き、煙草の支度をした。僅かに空いた間を支配する、奇妙な沈黙。それが何の為であるのかをライアンはすぐに悟り、自分の真横に立つ女を一瞥した。幹部以外は退室するように命じた仕草にオルヴィが従わないゆえに、ライアンに留守中の様々を告げる時間をずらしているのだ。
 ライアンの視線を受けてオルヴィは軽く一礼し、出て行こうとした。その背をライアンは呼び止める。
「オルヴィ、ここにいろ。出て行かなくていい……これから先もだ」
 一瞬少年たちがさっと気色ばむ。ライアンの言葉は絶対ではあるが、不服や不満をまるで押し殺してしまうにはそれぞれ忍耐が足りない。誰かが異を唱えないかと視線でお互いをつつきあっているのを仕方なく受けたようにチアロが口を開いた。ライアンに向かって対等で飾らない口を利けるのはチアロくらいしかいない為、こんな場面は大抵彼に貧乏くじがあたることになっている。
「でも彼女は自分の派閥を持っていない、後ろ盾がないと本人もきついと思うけど」
 愛人のつてを辿って登ってきた女、ということを口にしないのはチアロの感性の優しさであったかもしれぬ。それは誰でも知っていることであったし、現在はライアンの愛人であることもしかりであった。
 が、ライアンはそれを一蹴する。
「構わない。これは俺の傍におく──いずれ、タリアの方へ連れて行く。チェインの自治には関わらせず、お前たちの派閥に口出しはさせない」
「でも……」
「では、代わりに麻薬の管轄が出来る奴がいるなら名前を言え──カリス」
 不意に視線を向けられた少年は言葉を濁し、やがて頷いた。他の幹部たちがそれに倣う。チアロがやっと荷が下りたというようなほっとした表情になり、この1月半の不在についての報告の口火を切りだした。
 彼の不在の期間中、ほぼチェインは平穏であると総括できそうであった。個々の派閥についての幾つかの細かな抗争はあったようだが、ライアンに収拾を切り出す者がいないならば決着は付いているか見通しがあるのだろう。この場にいないイシュラの自派閥については彼から直接報告を受けなければならないが、他の幹部たちが口にしないと見ると飛び火していない程度の規模と思われた。
 ライアンは煙草を飲みながらそれらをいちいち聞いた。チェインは確かに彼の最も有力な足場であり、チェインの王である故にタリア自治の内部にも食い込んでいる。いずれチェインはチアロに任せてタリアの大人たちの派閥に匹敵するような自分の派閥を築いていくことになるだろう。
 やがて報告が済んで幹部たちが解散すると、オルヴィが彼に向かって深く頭を下げた。今後幹部として取り扱うと宣知したことは、きっと彼女のためになることだった。
「ありがとうございます、ライアン」
 呟く声音には過剰な感情は浮かんでいない。北へ連れて行った時から期待はあっただろうが、それを表面にする女ではなかった。ライアンは軽く頷き、そこに残っているチアロを見た。長く馴染んでいる故に、この少年がなにかもの言いたげにしている空気が分かる。
「……話は裏で聞こう、来い」
 ライアンはそう言って裏廊下へ出た。オルヴィにはチアロが首を振ったらしく、足を止めてライアンにもう一度礼を言うに済ませた。では、これは確実にクインの話だ。オルヴィはクインとひどく折り合いが悪い。折り合いというよりはお互いに絶対に折れないと決めたような頑なさと似たような底意地の悪さで以て、ちくりちくりと相手を攻撃することをやめようとしなかった。
 クインかと思うと途端に気が滅入ったのが分かった。激しく強くライアンを縛ろうとする意志を感じるたびに、何かに気圧されるような苦い忍耐を強いられる。ライアンは長く大きく嘆息した。
「あれのことはお前に任せてあったはずだ、いちいち俺に持ち込むな」
 それが本当にうんざりした声音であったことにライアンは一瞬遅れて気付き、自分で顔をしかめた。チアロはちらりと彼のそんな表情にライアンと苛立った声を出した。裏廊下の壁にもたれてライアンは一度火を切った煙管にもう一度煙草をつめる。それで続きを促されていると悟ったチアロは、話を切り出す為らしい溜息をついた。
「どうやらタリアの外に女が出来たみたいなんだ……その、女客となんだかいい感じみたいでさ……」
 ライアンは舌打ちし、煙草に火を入れた。
「だから俺は女客をつけるのには反対したはずだったな、チアロ」
 自分の声は不機嫌と困惑と、それを感じざるを得ないという怒りが滲んで低く冷たい。だがチアロは彼の言葉にはっきりと首を振り、ライアンと彼を真正面から睨むように見た。この1月と少しの間にまた背が伸びたらしく、もう視線の位置は殆ど変わらない。間近にするチアロの目線は強く、底が苦い色に覆われている。
 ───チアロもまた、怒りを覚えているのだ。それは自分に対してなのだとライアンは視線の強さで悟った。
「……クインはあんたのものだ、ライアン。俺はそれでいいと思う。でも、飼い主ならその責任をとってやれよ。変な同情や気遣いでそのままにしておくより、ちゃんと支配してやらなきゃ、誰が主人かも分からなくなる」
 ライアンは黙って煙を吐く所作で天井を見上げた。はぐらかされたと思ったらしいチアロの声が更に怒りと苛立ちに低くなる。一体いつ頃から変声したのだったか、チアロもからを脱ぎ捨てるような勢いで成長していくのだ、とぼんやり思った。
「俺はあんたのせいだと思ってる。クインが荒れるのもオルヴィに下らないことで噛みつくのも、今度のことも。相手は普通の女だ、本当に普通のね。特別美人でもないし頭が良さそうにも見えないのにクインはあっという間に夢中だよ」
「……忠告は?」
「一度。拒否された。ディーに相談したら、ディーは女の方を始末しろと言った。俺はそれは賛成できないからライアンが戻ったら話をするとディーと約束した」
 経緯の説明にライアンは頷いた。チアロの対処は正しかった。クインのこととなるとどうにもうまい対応を見つけられないのはいつも自分の方なのだ。
 一体あれは何者なのだろう。ライアンに対等を要求し、同じ口で庇護を頼む。かと思えば頼りしなを浮かべ、撥ねつける癇癪を投げ、全く一貫性が無い上に凄まじく求められていることだけは分かってしまうのだから始末に困った。どこへどう分類すればいいのかが分かれば対処も出来るが、クインはその分類に収まらない。範疇があちこちに逸脱しているために分類が出来ぬ。出来ぬ故に、その不可解さに苛立ってしまうのだ。
「ならばもう一度同じ事を言ってやれ……ディーと一緒にな。俺はまだエリオンから戻っていないと言えば、奴がどうするつもりなのかはすぐに結果が出る」
 チアロはこの言葉にすぐに渋い表情を作った。ライアンはふっと年下の少年から視線を逸らす。何をチアロが怒っているのかなど、考えることでさえなかった。
「……俺は奴の飼い主だ、確かにな。だが、それと奴を抱くのと何の関係がある」
「クインはそれしか知らないんだ、他にどうやって甘えていいのか分かんないんだよ」
「それは俺のせいか」
「ライアン、そうじゃないだろ?」 
 チアロは呆れたように声を荒げ、そして溜息になった。くしゃくしゃと亜麻色の髪をかき回している。ライアンは自分を落ち着かせる為に煙管をゆっくりさすり、やがて深く頷いた。
「相手というのはどんな女だ」
「ん……絵を描いてる。結構その世界じゃ有名みたいだね。家族は田舎に妹が一人だけ。盲目で、盲字学校に通ってる。本人は帝都、西の八区」
 ライアンはそうかと頷き、では、と強く吐き捨てるような口調で言った。
「クインが警告を無視した時は、その女の方に接触しろ」
「───殺すの?」
 さらりと口にするのはやはりチアロもチェインの子供であった。命の価値をクインのように重大で尊崇すべきものだというとらえ方をしない。但し、簡単なことのように聞きながらもチアロの頬は厳しい。一般の女に手を出すのは確かにチアロにとっては倦厭すべきことのようだった。
「いや……そうだな、クインに近付いたら妹を目の前で八つ裂きにするとでも言ってやれ。多分、折れる」
「やな言葉」
 チアロはくしゃっと顔を歪めた。賛同してはいないものの、ライアンの示した逃げ道の存在には気付いているようだ。殺せ、と命じたわけではないから事実上チアロへ裁量を与えたに等しい。であればチアロは女を殺すのは最後の手段として他の手を考えるだろう。それがチアロの気の済む方法であるなら好きにするのが良かった。
 ライアンは煙管をくわえなおしながら裏廊下を歩きだした。この廊下の深奥にはずっと以前に死んだリァンの隠し部屋がある。ぼんやりとした時間を過ごす時はその場所が気に入っていた。
 ───まだ、彼の気配が残っているような気持ちになるのは、自分の気のせいなのだろうけど。
 その背をチアロが呼び止め、ライアンは怪訝に振り返った。ライアンがリァンの部屋へ向かう時は邪魔をしないのがチアロのいつもの配慮だったのだ。どうした、と言うとチアロは苦く苦く、微笑んだ。
「ライアン、クインが怖い……?」
 その言葉にライアンは背中を一瞬痙攣させた。ぎくりとする、という言葉が浮かんだのはそれから一瞬後のことである。それを知覚した途端、今度はさあっと血が上ってくるような音がした。
 ───耳の奥に、まろやかな鈴の音がする。何かを憎しみ、八つ裂き、血を啜って命を踏みにじりたいという欲望の音だ。怖いのかという質問にライアンは首を振った。けれど、憎いのだろうかという自問には何も返らない。ただ、鈴の音が弱くなり強くなり、陣営を決するための何かを待っていると言わんばかりの焦れったさを誇示するかのようだ。
 ライアンはもう一度首を振った。恐怖、という意味においては感じたことはなかった───そのはずだった。
 チアロは頷き、ならいいんだ、と軽く流した。またねと言い置いて戻っていくチアロの背にひどく安堵を覚えていることを、ライアンはしばらくの間気付かなかった。

 忠告は二度目はないのだと言われてクインはきっと目線を据えて相手を睨んだ。きつい視線を投げつけられた方は平然とそれを受け流し、クイン、と低く言う。
「ライアンのものだからそう扱え、というなら理解しよう。もし扱いがお前の思うに足りないと言うならライアンに伝えよう。だが、自分だけが好きに出来ると思うのは間違いだ。あまり我が儘が過ぎるとお前自身が処分の対象になることを覚えておけ。詮議になればお前の味方はこいつだけだと心得ろ、いいな」
 ディーは側に立つチアロを目線で示した。チアロの方は最前の忠告の時と同じ、淡く歪んだ表情をしている。それにわけのない怒りを覚えるのは、ディーの乱暴な言葉をチアロが全く制しないことが大きいだろう。つまり、チアロも同意見なのだ。
 これは恫喝であった。紛れもなく圧力とよべる種類のものだ。けれど、ここに至るまでに自分を追いやってきたのはライアンではなかったろうか。自分は何度も言葉やそれ以外のもので彼にやり場のない胸苦しさを訴えようとし、ライアンはそれを冷淡に退けてきた。
 冷ややかな彼の態度に癇癪を起こし、知っている限りの罵詈雑言を投げつけ、一瞬の狂熱が過ぎて残るのは、白けた怒りと感情の煤けた灰だけだった。だから彼に頼るのはやめた……その何がいけない。
 クインはじっと二人を睨み据え、ゆっくり、深く呼吸をした。そうでないといつものように怒りにまかせて奔流のようにわめき散らした挙げ句、自分の悲鳴で一層追い込まれていってしまう。
「……ライアンには、そう何度も言った。奴は、俺とは関わりたくないと、言った。ディーが同じ事を言ってもやっぱり同じさ、──なぁ、チアロ?」
 話を振られた友人は曖昧に笑い、クイン、と穏やかな声を出した。これが何であるかは知っていた。この前にも聞いた、彼をどうにか宥め、落ち着かせようと懐柔する声音だ。そうだと感覚が頷いた瞬間、背がざわりと冷えた。紛れもなく怒りの為だ。
「ライアンには俺からももう一度、強く言うから。彼が帰ってきたらもうやめた方がいい。ほんのちょっと遊ぶつもりだったと思えば俺もディーも、黙っていてやるから」
「黙っていてやる? へぇ、ありがたいね」
 言葉尻を捉えて吐き捨てると、チアロは困ったような溜息になった。ディーをちらりと見やっているのは、助力を求めているのだろう。困惑を隠さないという表情で自分をやわらかに制するチアロのやり方だ──いつもと同じ。
 同じ、と思うと尚更胸の中に荒れる音を聞く。お仕着せの服のように慣れて扱われることはひどく誇りを噛んだ。
「ライアンは俺とは関係ないんだと、奴が自分でそう言った。だから俺が何をしてようと、奴は構わないはずだ」
 クインの言葉に二人は顔を見合わせ、小難しい表情で目線を交錯させた。クインは舌打ちをして、椅子に投げかけてあった白レースの上着を取る。日光に肌を直接晒さないように日中出る時は羽織るものを持つのが習慣で、今まさに外へ行こうとしていた矢先の二人の訪問であったためにそこへ置き放してあったものだ。
 意図を悟ったチアロが彼を遮ろうとする。先日の彼への些細な暴力が咄嗟に浮かんでクインは柔らかにチアロを押し戻し、ごめん、と彼にだけ聞こえるように囁いた。
「もう少し勝手にさせてよ──ライアンが戻ってきたら、もっと上手い方法を考える。お前に迷惑はかけないから」
 チアロは痛ましそうに眉を寄せ、首を振った。何を言いたいかはこれまで散々聞いてきたはずであった。クインはごめん、ともう一度を言って振り返らずに部屋の外へと歩き出した。背中でディーがクインと呼んでいるのが聞こえる。
「いいか、これは忠告じゃない。警告だ。警告の次はもうない、それを覚えておけ」
 クインはちらと振り返り、出て行きざまに隻腕の男へ嘲けるような笑みを浮かべる。それは自分の突出した美貌に被さると、ひどく相手の神経を逆撫でするものになるのは承知していた。
「───うるさいよ、あんた」
 吐き捨て、クインはアパートの部屋を出た。
 ふらりと路地へおりて太陽のきつさに目を細め、日陰を選んで歩き出す。外へ行こうとしていたのは飲料水が少なくなりかけていたからだが、最初から彼女のところへ向かうのだと二人とも思いこんでいたようで、それも面白くない。
 クインは熱線にじりつく石畳の白茶の眩しさに、目を細める。ディーにむかってうるさいと言い、チアロには迷惑をかけないと口にしながら次第次第に最後の線が忍び寄ってくるのを感じないではいられなかった。ライアンが帰ってくる。そうしたらエミルとは終わりだ。
 チアロやディーに散々繰り返されるまでもなく、ライアンの所有物だから尊重しろという主張を勝ち得た時から、それを自ら覆してはならないことは知っている。けれど、その冷静な囁きとは全く違う場所からそんなのは嫌だと叫ぶ声が聞こえて、クインはついそちらにふらふらと引き寄せられてしまう。
 声は強く激しく主張する。嫌だ。嫌だ。やっと見つけたのに。やっと会えたのに。
 優しい人に優しくしてもらえて嬉しいのに。それが今の生活の中にたった一つの温かな色をしたものなのに。
 何故。
 何故。
 何故、何故、何故それを捨てなくてはいけない、──と。
 警告、とディーは言った。忠告と言ったチアロがあくまで善意であるならば、警告と口にしたディーはその次に来るものを既に考え始めている。処分という言い方をしていたが意味するところはなぶり殺しだ。ライアンもチェインの自治を乱した子供に対しては容赦しない、それと同じことをするという示唆であった。
 エミル、とクインは呟いた。彼女の与えてくれる許容と抱擁のなだらかな海に身を委ねていたいという欲求は強く、他の何よりも第一の望みであった。甘えであるかもしれないし、依存であるかもしれない。
 けれど、彼女の優しく温かな視線と手が導き出す絵の中に、クインは満たされて幸福な顔の自分を見つけてしまった。知ってしまえばもう戻れない。それを手放したくない。彼女と共にいることが出来れば、いつか彼女の絵の中にいるような表情が出来るような気がするのだ。
 けれどこのまま進んでいけば破滅するとチアロは忠告し、ディーは更に警告という言い方で威嚇に変えた。クインが拒否し続ければエミルにも危害を加えるとライアンは言うかもしれない。否、それは突然現実になって自分の前に突きつけられるかもしれないのだ。
 クインは僅かに首裏が冷えた気がして身震いした。恐怖と呼ぶには薄い冷気であったが、その可能性が低いと言いきるだけの材料は何もない。むしろ、短絡にエミリアの命を奪って決着とすることは十分に考え得る未来であった。
 失いたくない。けれど今のままではいけない。その上手い均衡点を見つけられない苛立ちにクインは秀麗な面差しをぎりっと歪めた。どこかで蝉が鳴いているのまでが気に障る。
 クインは貯まってきた鬱を吐き出す長い溜息になった。エミリアとのことは現実、まさしく袋小路へ向かって走り出している。ライアンはきっと許さないだろう。怒り狂うに決まっている。
 けれど、それは無視されるより遙かにましだ。奴が俺を引き裂いても俺はきっとそれを嗤ってやろうとクインはその予行の為に唇を吊り上げる。
 行き場のなかった苛立ちや不透明な鬱屈をすくい上げてくれたのはエミリアであって、ライアンではなかった。何度もライアンには救済を求めたはずなのに、それを一顧だにしなかった。飼い主だと名乗ったくせに、事実を放り投げている。
 それが許せない。憎い。彼への怒りと当てつけの為に何でも出来る気がする。つまりそれに踏み出すきっかけと勢いの問題なのだ。
 憎い。ただ───憎い。チアロに向けるものが淡い不満でオルヴィやディーに感じるのが嫌悪だとしたら、ライアンへのそれは憎悪と呼んでも良かった。強い思い入れがあるほど憎しみも増すし、苛立ちも募るのだ。
 彼への意趣返し。エミリアの安全と自分の未来。全てを平等で公平な単位には振り分けられない。一つ一つが全く別のものであると同時に、根深いところで堅牢に繋がっている。通算が出来たところで感情の振り幅の予測など出来るはずもなかった。
 クインが軽い舌打ちをした瞬間、あら、という軽い声がした。クインははっと視線を上げる。じっと考え事をしながら足早に歩いているうち、どうやら自分は彼女のアパートまで来ていたらしい。
「エミル……」
 呻くような声音で呟き、クインは唇を引き結んだ。エミリアの死のことばかり考えていたせいなのか、ぱあっと胸詰まるものが駆け上がってきて自分でも上手く制御できない。いけない、と面伏せた先の睫毛をぱらぱらと涙が伝い、夏の乾いた石畳に水滴の染みを作った。
「どうしたの? ……泣かなくていいのよ……」
 何の見返りも打算もなく降り注ぐのは、優しい声、そして温もりの気配。そっと彼女の指先が頬に触れて、クインは目を閉じる。無条件に自分を受け入れてくれる人の肌に涙が止まらない。気力が抜けていく証左のように、涙だけが溢れてくる。
 クインの肩をそっとエミリアが抱いて、慰撫のためにゆっくりさする。うん、と意味なくクインは頷き、頷きながら彼女を見、そしてやっと足下の旅行鞄に気付いた。ここへ歩いてきたことがそもそも無意識の作為であったから忘却していたが、彼女は今日から南行であった。
「ごめ……いかない……と、船……」
 クインは整わない呼吸のせいで途切れがちな言葉を呟き、彼女の旅行鞄を見た。鞄には絵の具の染みがつき、中には入らなかったらしい大きめの画帳が無理矢理くくりつけてある。 
 それが目に入った瞬間に、一つの夢が胸底から転がるように目の前に出てきた気がした。
 海に行きたい。広くて自由な海、遠く遙か南の海へ。いつか母と渡った美しい碧緑の彩の海、風駆け上がる坂が繊細レースのように町中をめぐる街、聖都の名をいただく沿海の海泡ミシュア。
 あの海へエミリアと行けたら、それはどんなに美しく凝固するだろうか。
 ライアンのことも、彼の布く掟のことも、別離、恫喝、反発、混乱、そんなもの、どうでもいい。考えたくない───せめて一瞬、ほんの僅かな時間でも、綺羅めかしくて温かな夢を見たい。
 その何がいけない。考えたくない。ただひたすら、彼女と一緒にいる時間が欲しい。逃避なのだと分かっていても、その淡く甘い夢は魅惑的だった。
「俺も……行く」
 クインは呟いた。エミリアは首を傾げ、いいの?と聞いた。それが自分の仕事や学校や、その他のものを指していたのは分かっていた気もしたが、この瞬間に、それはライアンへの密かな背反を問うように聞こえた。
「いいんだ」
 クインは僅かに動揺した自分を叱りとばすように、しっかりとした声で言った。
「いいんだ、エミル……いいよ、全部いい。一緒に行く……駄目?」
 エミリアは明るい笑みになって首を振った。クインは頷き、エミリアの鞄を取った。着替えも何も持っていなかったが、耳にはいつかの真珠がはまったままだったから不安はなかった。いざとなればどうにかなるという楽観もある。
 それに多分、これが最後の機会になるはずだった。ライアンがもうすぐタリアへ戻るだろうことは、チアロやディーのせわしない態度や目線の動きで分かる。はやく自分を納得させて事態を収束させたい目つきだった。
 ならば一層、今を離れてはいけない。時限は近く、その限界線を越えた先には暗い未来しかないのが分かっている。母のことがある故に、結局自分はライアンのものだと誓う羽目になるだろう。
 だから今、尚更今、彼女と離れたくない。どこからが恋で何が依存なのかも知りたくない。彼女といることで得られる安堵も安息も失いたくない。彼女といれば自分が少しはましになれるような気が、彼女がふざけて描いた翼をいつか本当に持てるような、そんな気がする。
 もっとエミリアに近くなりたい、側にいて肌の温度の分かるところで微笑み合って、心の感触が浸透するほど近付きたい。
 これは恋なのだろうか。恋というのは存外分かっているようで分からない。けれどこのもの狂おしいような希求と切ない傾倒は何か劇的なものの前触れだと根拠なく信じている。だから告げなくてはいけないことはただ一つきりだ。クインは彼女の鞄を持って歩きながら、小さく言った。
「好きだ」
 エミリアはじっとクインを見上げ、それから少し掠れた声をだした。
「私、あなたより3つも年上よ」
「関係ない」
「絵のことで利用してるだけかもしれないのに?」
「そんなこと、関係ない、全然」
 重ねて言葉を返されて、クインはやや不機嫌な声音になった。彼女の方はじっと俯き加減に歩き続けていたが、やがてそっとクインの名を呼んだ。
「私、きっとあなたを好きになるわ──気が狂いそうになるくらい、今、あなたを描きたいと思ってる……」
 エミリアの言葉にクインは頷き、鞄を持ち替えた。軽くあたった肘の下がするりと寄り合い、やがて指を絡めて掌が重なる。
 二人は手を繋いだまま、ゆっくりと南と自由へ歩き続けた。クインはただ幸福だった。あれだけ罵りあい言葉を突き刺しながら一つも理解できなかったライアンとのことが急速に薄れ、遠くなっていく。
 それはきっと、良いことに違いなかった。何よりも自分のために悪いことだとは思えなかった。
 ユーエリ河に接岸する南下船への連絡馬車へ二人は乗り込んだ。時間は差し迫っていたから馬車はすぐに出立する。それが大路を折れて見えなくなってから、チアロはゆっくりと街角から歩み出た。停車場の行き先をみて頷き、流しの馬車を止める為に手を振って合図する。
 乗り込む直前、やはり同行していたショワを振り返り、チアロは言った。
「行く先はどうやらミシュアだ、ライアンにそう伝えろ。3日後の昼過ぎに船がミシュアに着くはずだから、クインは夕方までに奴の部屋へ戻す、と」
 ショワが頷いて駆け去っていく。それを見送ってチアロは御者にたっぷりの金を押しつけ、目的地と急用を告げて馬車の座席に身をうずめた。
 馬鹿だな、と低く呟いた声は誰にも届かない。それはむしろ、クインに何も有効なことを出来なかった自分に向けた声であるかもしれないとチアロはふと思い、こみ上がってきた苦いものに頬を歪めた。

 優しい波だ。ずっと昔に家族で行ったシタルキア東部の海よりも、ずっと透き通るように淡い水がなだらかにうち寄せてくる。潮の匂いはごく僅かで、それよりも南から渡ってくる駘蕩とした風が肌にまろい。
 どさりと砂に旅行鞄を置いて、クインが大きく伸びをする。時々はっとするほど粗野な仕草がなければ、完璧な少女に見えるだろう。ミシュアへ下る船の中でも彼は一際の美少女として耳目を集めていて、彼はそのあしらいに慣れた微笑みで周囲を圧倒するばかりだった。着替えがないから服を融通したが、実際エミリアよりも数段映えるのが苦笑になる。
 クインは海風に乱れる髪をうるさそうに手で制しながら、エミル、と言った。
「あとで、その……どっか泊まるところを探さないと……」
 最後にふわっと赤くなるあたりが、商売に関わらず妙にすれていないようで、エミリアはついくすりと笑った。時々彼は、こちらが面食らうほど幼く初心い。
 無論、泊まるところを探そうという彼の言葉が何を含んでいるかを察しないことはない。船の中は一番安価な他の旅客と共同の大部屋で、広い空間に一応の仕切線がひいてあるだけの場所だ。
 ──それでも夜は二人で一枚の毛布をかぶり、額を寄せ合い、手を繋ぎあって眠った。彼が主人にはぐれた獣のようにおずおずと身を寄せてきた時、胸にゆるく湧いてきた気持ちは一体何に例えたらいいだろう。それはぬるい湯のようなもので、全身をひたして柔らかく、温かくしてくれるものだ。
 彼の身体はぬくやかで、身を寄せていると小さく心臓の音が聞こえた。彼の皮膚も血も冷たいとどこかで思っていたのだろうか、それがひたすら胸に迫ってエミリアは最初の夜を殆ど眠ることが出来なかった。
 伏せた瞼の半月のように魅惑的な曲線。薄く開いた唇の蓮桃色。頬に優美な影をうつす長い睫毛。そのどれもが美しいのは、それら全てが不安定で強く儚い魂の上に乗っているからなのだ。
 横になったままで眠り込んでいるクインの頬を撫でると喉を鳴らしてエミリアの鎖骨あたりに額を寄せてきたから、腕を回して彼の頭をかかえるように抱いた。僅かに髪の匂いがして、それはとても愛しく切なく自分を取り込んでいくようだった。
 出会った時の顔を、思い出せない。あの時の彼はひどく歪んでくすんだ印象だけが全てで、他に記憶から探すとしたら何かに傷ついてひび割れたままの声でしかない。
 一目見て可哀想な子だと思った。それは理屈ではなかった。ただ感じる、彼の背負った何かの影が目に痛いほどだったから。辛さが頬の歪みに淋しげな色になるまでに滲んでいたのに、不満を口にしない。何よりもそれが胸を刺した。辛さや苦しさを訴える相手がいないのだ、この子は──……
 そう悟ったから妹の為の絵を彼に見せた。人は何にでも救われるし希望を持てるのだということを知ってほしいとそれだけの願いだった──彼は泣いた。ぽろぽろと涙をこぼして、無言のまま泣いていた。希望、と一言呟いた声音の震える重みがまだ耳の奥に残っている。
 そして自分は彼に見惚れていた。あっけに取られるほど、彼は綺麗だった。誰かを困惑させる為とか引き寄せる為の罠ではなく、純粋に胸の中の痛みをこぼす涙。それを見た瞬間に息苦しいほどの感情が降りてきたようで、彼を描いても表情がうまくまとめきれない。自然に背中ばかりが多くなってしまう。
 だから船の中でクインが見せた沢山の表情が尚更眩しい。彼はとにかく良く喋ったし、笑いもしたし、なるほど成長期なのだと感心するほど食欲もあった。これが素地なのだ。
 だとしたら、あれほどまでに追いつめられていた理由は彼が自分で言い出すまでは絶対に聞くことは出来ない。自分で言い出すまではまだ少しかかりそうだったが、ともかく明るい彼を見ていれば安堵になる。
 船がミシュアに到着したのは昼過ぎのことだが、宿よりも先にエミリアは海を見たかった。そう言うとクインは何度かミシュアへ来たことがあるらしく、この浜へ案内してくれたのだ。遠く霞む岬の遠景が、海の青さに色濃い緑をまぶして目に優しい。波の音も、光の影も、このミシュアを基点にやがて南海と言われる美しい島々へ到達することを信じさせてくれる。
 エミリアが黙って遠くを見ていると、その袖が軽く引かれた。クインの方は少し怒ったような、困惑したような表情で佇んでいた。
「……あの、あのさ、部屋なんだけど……一緒でいい……かな」
 そういえば、彼にきちんとした許しの証拠を与えていなかったとエミリアは気付いた。縋るような目をしている。心細くて不安な瞳の青が、この海の穏やかな色にゆったりとほぐれていくなら、それもいいかも知れない。
 エミリアは自分の心をまさぐって曖昧に笑った。クインのことを一人の男として好きか、という問いにはまだ自信を持って頷くに足る確信がない。彼を見れば美しいと思い、その美しさが脆く繊細で不安定な魂の産物だと知り、知れば憐憫に変わる。実のところ自分のこの締め付けられるような胸の痛みが、一体同情なのか恋なのか判然としないのだ。恋愛は慈善事業ではないし、これが彼の不幸への共鳴なのかそれとも庇護欲なのか、そしていずれもっと昂る気持ちへ変わる前哨なのか、どれに結論つけて良いのか分からない。
「エミル……」
 クインは返答がないことを焦れたように彼女を呼んだ。それから一瞬迷ったように目線を彷徨わせてエミリアの肩に手を伸ばし、ためらいながら抱きしめる。他にどうして良いのか分からないようだ。
 ───可哀想だ。エミリアは目を閉じて、クインの背中をそっと撫でてやる。彼への気持ちの中核にあるのは同情なのだろう。けれど、この気持ちはいずれもっと激しく強い何かに変わっていく。そんな予感がする。
 描きたいという思いはその指針であったし、それがある限り彼をきっと愛するようになるだろうという確信はいずれ見つけられるはずだ。鏡の中の自分の瞳に。
 エミリアはいいわ、とクインの耳元に囁いた。
「今日は一緒に……ずっと一緒にいるわ……」
 クインが頷いたのが分かった。
 やがて体を離したクインは照れくさそうにありがとうと言うと、腰の時計をちらりと見た。これは彼が最初から身につけていた物だ。
「俺、ちょっと行かなくちゃいけないところがあるんだ。……あの、そんなに長くはしないから、1刻かあと半分くらい、待ってて欲しいんだけど」
 エミリアはそうね、と時計を覗き込んで頷いた。夕方には戻ってくるという意味であろう。分かった、とエミリアは頷き、砂に置かれたままの旅行鞄にくくりつけてあった画帳を引っ張り出した。
「いいわ、私ここで描いてるから気にしないでいってきて」
「ん……ごめん」
 すまなそうに目線を下げる彼にエミリアは微笑み、いいわよと強く言った。鞄を開けて固形絵の具の箱を取り出す。それくらいの時間があるなら、色絵の一枚は写生できそうだった。どんな時でも一人で時間を潰すことが苦になったことはない。あいた一人の時間はエミリアにとって大切で貴重な時間でもあったのだ。
 クインはここで待っていて欲しいと繰り返して、最後にもう一度ごめんと付け加えた。繰り返すのは不安だからだ。
 ──エミリアが自分を置いてどこかへ去ってしまう、という怖れにただ震えている。
 行かないで。置いていかないで。クインの切羽詰まった目の色が訴えていて、深い青をしたそれを見つめれば切ない。信じていないのではなくて、ただ失うことが怖いのだ。何かを失うことしか知らなかったと泣きながら彼がこぼした夜の記憶がたった今、その淡い恐怖を気付かせて、エミリアを絡めてしまう。
 彼を見捨てられない。彼が求めるのなら、一杯の水にでも頼りない糸にでもなろう。それが愛であれば、いつか必ず答えが出る。
「待ってるわ……ずっと、待ってるから」
 エミリアは子供を諭すように、ゆっくり優しく言った。クインは頷いて、ごめんと同じ事を言った。目の中の切なく求める光はやはり変わらない。こんなにまで必死でクインが自分を恋していたことなど、今、初めて見る気がする。
 愛おしい。
「どこにも行かないわ」
 ただひたすらに、切なく悲しいほど愛おしい。
「あなたを待ってる、ずっとずっと」
 うん、と頷く仕草が素直で普段よりもずっと幼くいとけなかった。クインはエミリアにそっと唇をよせようとし、何かに気付いたように離れた。人の声もするし、第一彼は今、少女の格好をしている。女二人でひたすら触れ合っているのは人目に奇妙に映るだろう。
 クインはやっとぬるい笑みになった。それがようやくごく普通の笑顔に戻ったようで、エミリアはほっと息を付いた。
「じゃあ、また。その……後で」
 クインの気安い笑みにつられてエミリアは頷き、後でね、と繰り返した。クインは嬉しそうに笑った。
 花開く笑み。やっと見つけた。この表情だ──多分。
 エミリアは彼の面差しをじっと見つめて深く頷く。自分は今、圧倒的な者の前に仕える敬虔な巫女であるような気がした。
 夢中で描き上げた最後の一枚に日付を入れると、エミリアは画帳ごと鞄にくくりつけた。これは彼にはまだ見せたくない絵だ。筆致も感情も、全てが乱れていてとても絵になっていない。けれどその惑乱は決して悪いものにはならなかった。
 自分の印象に刻まれたままに先ほどのクインの破顔した笑みを描き写したが、自分でも制御できない何かが指先から溢れてきて止まらない。まるで自分の意志とは関係ないかのような早さで手が彼を描き出す。
 止まらない、止まる気配さえない。今までザクリアのアパートで見た彼の微笑みや不満な表情や、虚をつかれたまばたき、歪めた唇、淋しげな横顔、皮肉な影の落ちる頬、何もかもが一度に降りてくる。何故今までこれを描けなかったのか、忘れていられたのか、そんな疑問さえ浮いてくるほどだ。そんな狂騒の熱に浮かされるように1冊画帳を使い切って、はっと気付けば既に日は和らいで優しくなりつつあった。
 クインが戻ってくると言った時刻までにはまだ少しありそうだった。エミリアは苦笑してはいていたサンダルを脱ぎ、海へ足を入れた。練炭で汚れた利き腕を軽く洗う。
 それが済むと旅行鞄の中に入れておいた小さめの画帳を取り出し、絵の具で直接浜で遊ぶ子供たちを写し始めた。幻想画が画題の中心のように言われているエミリアであったが、実題のうち家族の絵は好んで描いた。
 温かで柔らかい一つの箱のような、ぼんやりと優しい印象をエミリアは持っている。表現したいものがどうやら自分の場合は美しい光景ではなくて、優しく普遍な愛と祈りなのだと確信するのはこんな時だ。妹を描くのもその為なのかもしれない。エミリアは少し息をついて、遊ぶ子供たちを眺めやった。
 アスナの黒々とした目には深淵の闇が棲んでいる。それは月のない夜の星空と似た暗闇で、だからこそ美しかった。失ってみて初めて気付くものもあり、気付いた故に一層愛しくなるものもある。アスナの幸福が何であるかを自分が決めることは出来ないが、あの子にはどんなことでもしてやりたい──それが喩え罪であったとしても手をつけるだろうという確信が、どこかに眠っているのがわかる。
 エミリアはそっと笑った。この旅行が終わったら故郷のステリオへ寄って妹の顔を見て帰るつもりが最初からあった。出来れば彼を連れて行ってやりたいが、クインはどれくらい一緒にいられるのだろう……仕事、ということは帝都を出た日からついぞ口にしないが、彼の仕事が決して暇であるとは思っていなかった。
 今クインに必要なのは戻る巣であり、温かな寝床であるようにエミリアは思えてならない。自分に縋り付いてくる目が必死で、切羽詰まっているから分かる。
 その為に彼が求めているものを自分が持っているなら差し出してやりたい。去り際にクインの浮かべた安堵の笑顔が瞼の裏に強くまざまざしく蘇ってきて、エミリアは感歎の吐息を漏らす。あれが彼の最も明るい笑みだ。そして、一番幼い。
 彼はまだ子供だ、どんな意味においても。だから守りたいと思うのだろう。無垢であることが子供の証明ならば彼はまさしく無垢のままであり、自分が汚れていると感じつづけることで尚更頑なに美しく孤高にあり続けている。それがとても綺羅しく感じると同時に、痛々しさを覚える要因だったはずだ。
 彼のことを、好きになるだろうか。エミリアは手を止めて子供たちを見やる。いつか自分にも、きっと愛し合って結ばれる相手が出来るはずだ。クイン以前につき合っていた男は故郷のステリオでの絵画鑑賞の同好会で知り合ったが、最後にはエミリアをなじって離れていった。
 ──君は絵が描ければいいんだろう? 俺のこともきっと絵のついでかその肥やし程度にしか出来ないんだ……彼は絵を愛していたが描く男ではなかった。自分では描けないから一線で描く人を尊敬できると言ったのは同じ唇だったのに、エミリアの描く世界に彼の印象の色であった白が混ざり始めたのを喜んでくれたはずなのに、結局自分を踏み台にされたのだと言って離れていった。
 好きだという気持ちならば、彼とのことにより多く見つけられた。絵の中でしか愛を語れないと言われてエミリアはそれなりに傷つきもしたし、怒りもした。クインに同じ不満を与えたいはずもないが、ではどうしたらいいのかは全く分からない。
 エミリアは軽い溜息をついて、写生を再開した。そろそろ夕刻近い海は淡い灯火色になりはじめた光線を乱反射して、巨大なだんだら模様を描き始めている。それは一瞬の魔法のような風景だったから、描き留めるのを急かされるようで、自然に手が早くなり意識は平板になっていった。集中する時はいつもそうだ。
 ──だから、人の気配が背後にしたのをエミリアは長く気付かなかった。光の幻想を淡い色で写し終えて一息ついた時に、やっと背後に誰かが経っているのに気付いたのだ。絵を描いていると時折後ろから覗き込む者もいるから、それにやや鈍感になっていたのも本当だろう。
「こんにちは」
 ふと振り返ったエミリアが何かを言う前に、少年はにこりと笑った。笑顔が明るく屈託ない。背はすらりと高く、手足が長い印象があった。色素の薄い髪は夕日に今染まり始めていて定かではないが、亜麻色というところだろうか。とにかく体格が細く長い印象が強く、ついで笑顔の人なつこさが胸に残った。
 こんにちは、とエミリアは笑って見せた。相手の明るさに合わせた笑顔であったが、普通の挨拶ではこれで十分だった。
「絵、上手いね……声をかけようと思ってたのに、ずっと見ちゃったよ」
 少年の言葉にエミリアは軽く微笑み、ありがとうと言った。絵は彼女の本業であったから、素人にこうして写生を誉められることには慣れている。少年は頷き、ちらりとエミリアの横を見やった。
「……隣に座っても?」
 聞かれてエミリアは頷いた。少年の持っている空気には敵意を感じさせるものが何一つなく、朗らかな気配の居心地がよかった。少年は嬉しそうにエミリアの隣へ腰を下ろし、もう一度エミリアの絵を誉めた。
「俺、あんまり絵は見ないんだけどあなたの絵は好きだな……何だか優しくて泣ける」
 エミリアは首を傾げ、そう、と曖昧な返答をした。写生は子供たちと夕日の海だけで、それも素描に近いからそんな印象を受け取るには多少材料が足りない気もしたのだ。少年は訝しげなエミリアの表情に気付いたらしく、照れたように笑った。
「ああ、いやほら、この前ザクリアで展示会やってたでしょ?」
 それでエミリアは多少の納得に微笑んだ。この少年のことは記憶にはないがずっと会場にいたわけでもないし、展示会のことは事実だったからだ。ほら、と少年は証拠を掲げるように上着のかくしからカードを取り出す。エミリアはそれに破顔した。
 それは展示会の告知に使った天使の絵だった。水の青を基調に天使と魚群を描いた絵で、これは評価会でもよい評をつけて貰えた一幅だ。何故か巡り巡って今、リュース皇子の元にあると聞いている。絵のモデルを最初皇子に頼もうとして断られたのだから、不思議な縁に思われた。
「この絵が綺麗だったから、俺、ザクリアであなたの画集も探したんだ。結構出てるんだね、色々あって驚いたよ」
 エミリアは曖昧に頷いた。今何冊出ていたろう──画集については本人に権利料が僅かに支払われるだけであまり現金に変わるものではなかったが、何よりも絵の告知になるために厳密に条件を取り決めたことはなかった。少年の言う画集が何であったのかは分からないが、そんなうちの1冊だろう。
「画集はいろんな所から出ているから、気に入ったら見てやって」
「うん、そうする。妹さんの絵があったでしょ、幻想の連作のやつ。あれが入ってるのがいいな。何かある?」
「そう……だったら、そうね……」
 エミリアは少し考え、画集の内で妹を描いたものが多めに入っている本を記憶に探り出し、題名を画帳の隅に書いてちぎった。これがいいわ、と言うと少年はありがとうとくしゃりと顔を潰すようにして笑う。笑顔の心地よさが明るくて、一瞬クインにもこんな顔が出来ればいいのにと、そんなことを思った。
 少年は紙片を服の内側に入れ、エミリアに頷いて立ち上がった。夕日というべき温かな色に照らされて、少年の影が長く伸びる。彼は決して飛び抜けた美形ということではなかったが、人好きのする性質と穏やかで明るい笑顔が人に落ち着きと微笑みを与えるようであった。天真爛漫というほどに幼くもないが、それでも明朗な表情が誰であっても悪い印象を受けないだろう。
 エミリアは置きかけていた練炭を取った。表情や仕草の雰囲気を、僅かでも写し取っておきたかったのだ。と、それに気付いたらしい少年がやめてよ、と苦笑になった。
「俺なんか描いてもいいことなんかないよ」
 いいえとエミリアは首を振る。少年の身についている雰囲気は、どこかに描き留めておきたいという欲求を興させた。エミリアはすぐだからと素早く言って、写生を続けようとした。
 待って、と手首が掴まれたのはその時だった。そんなことをされるのは初めてで、エミリアは思わず小さな声を上げる。だが、少年は掴んだ手を放さないままやめてよ、と繰り返した。
「俺なんか描いてもろくな事にならない───無論、彼もだ」
 エミリアはふと表情を引いて少年を見た。彼、と少年は言った。それが誰のことであるのかが、一瞬繋がらない。彼、と怪訝に呟いた次の瞬間、それが最前まで自分が呟いていた言葉と重なった。
「彼……」
 エミリアは喘いだ。上手く呼吸が出来ない。彼、と繰り返してエミリアはふと冷たい眩暈を感じてこめかみに手をやった。そう、と少年が肯定する為の強い口調で言ったのが聞こえた。エミリアは顔を上げ、側に立つ少年を見上げる。彼はまだ微笑んでいて、それは先ほどまでと変わらない、明るく裏のない笑顔だった。
「そう、彼。あなたに何と名乗っているかは知らないけど、彼だよ。……彼と最初に会うのに俺たちに連絡を取ったのはあなただったね、エミリア=スコルフィーグ? 担当していたのが女だったろう、やけに暗い女──つまり、あなたはあの女を通して彼にまつわる世界のことを感じなくてはいけなかった」
 エミリアはじっと少年を見つめた。夕映えの中で少年は苦笑気味ではあるが、やはり明るく笑っている。何の気負いや凄みも感じない。だからこそ、これが少年にとって特に威圧を加えなくてもよい程度の、ごく普通の通告だと知れた。
 潮風が一瞬強く増し、エミリアの肌を叩いた。それに我に返ったように、背がぞくりと冷えた。
「……でも……あの子は」
 何の当てもないまま反論しようとした時、手首が痛んだ。少年が掴んだままだったそこを、きつく握りしめたのだ。一瞬の圧迫の後で手先が痺れてくる。エミリアは呻き、その瞬間に指先から練炭が砂に落ちた。関節がぎりっと合わさって軋む音がする。ぴくんと反射で自分の指先が撥ねるのにエミリアは喘いだ。息苦しい。
「例えば、あなたが絵を二度と描けないようにする、ということも出来る。どこをどうすれば人の身体が駄目になるかくらいは俺でも知ってるんだ、ご主人にそう教えて貰ったから……あ、ごめんね、痛いでしょ?」
 少年はにこりと笑って手を離す。途端にどっと血が通い始めてエミリアはそこを押さえた。急激な血液の温度がかあっと火照るようで、強く手をさする。感覚は見失ってはならない。
「でも、俺はそんなのはやだな。あなたの絵は本当に好きなんだ……彼のことで色々とこっちで調べた時に見て、本当に好い絵だと思った。だから、これが俺の好意だと信じて欲しいんだ──今すぐ一人で、帝都へ帰ってくれたら二度とあなたの周辺に近付かないと約束する」
 エミリアは反射的に首を振った。クインに二度と会うな、と言う意味であることはすぐに分かった。そんなことは出来ない───すべきではない。彼の瞳に自分へのまっすぐな光を見てしまったのに、それを見捨てるなど出来るはずがない。
 だめよ、とエミリアは低く呟いた。
「今私があの子を見捨てたら、あの子には帰る場所がなくなってしまう。それは駄目よ。絶対に駄目。せっかく、良くなってきたのに……」
 描けなかった表情。彼の上全体に落ちていた、重苦しい影。それが次第に薄れていった夜と昼が、言葉につられるように戻ってくる。エミリアはだめ、と繰り返した。
「駄目よ、また元に戻ってしまうわ……」
 言いながらエミリアはその胸痛む想像に顔を歪めた。出会った夜のような歪んだ印象へ彼が戻ってしまうとしたら、途方もない罪悪感だけが残るだろう。やっと普通の少年らしい表情が覗くようになったのに、それがまた取り繕って刺々しい殻に引き戻されていくかと思うと胸が裂けそうだ。
 だめ、と繰り返しながらエミリアは何度も首を振った。少年は曖昧に頷き、エミリアに額を寄せて囁いた。
「そのことは俺も反省しているし、後悔してる。奴がずっと淋しくて苦しんでたのを俺は知ってた。知ってたけど、俺はそんなに酷いことじゃないと思ってた……少し我が儘なところがあるんだと。でも、奴がどれだけ追いつめられた気分だったかは良く分かった。奴の渇きを俺は癒してやれないが……」
 少年は頬を歪めて切なく笑う。
「けれど、その方法を知っている。こんなことは二度とさせない。奴をこんな風に飢えさせない。それも約束しよう」
 だから、と言われてエミリアは首を振った。だめよ、と言い募る自分の声が揺らいでいる。彼を今この瞬間に愛しているかと言われたら分からない、としか言いようがない。けれど彼の助けを求める声に頷き伸ばした手を、今ここで引いたらあの子は二度と立ち上がれないかもしれない……
 それだけはしてはだめ、とエミリアは強く自分に頷きかける。駄目よと更に繰り返した声はそれまでよりもしっかりと強く聞こえた。
「私は、あの子を見捨てたらいけないわ。出来ない、そんなこと……」
 言いながらエミリアは立ち上がる。少年から少しでも離れたいと思ったのだ。少年はその反応に淡い苦笑を浮かべ、エミリアの鞄をさっと奪い取って行こうか、と言った。
「船着き場まで送るよ。帝都まで一人、個室を買っておいたから。さあ、急がないとあまり時間がない」
「返して。私はいかないわ。ここで待っていると約束したもの」
 手を突き出すと少年は仕方なさそうに笑い、エミリアの鞄を砂に置いた。
「……君がどうしても、と言うなら仕方ないね」
 声はあくまでも軽く明るい。それがひどく底知れなく恐ろしくて、エミリアは半歩後じさった。逃げないで、と少年が素早くエミリアの腕を掴む。離して、と叫んだ声が途中で裏返り、悲鳴のようになった。けれど、誰も近寄ってこない。自分の声が酷く掠れて震え、小さく強張っているのに気付いたのはこの時だ。エミリアは低く呻き、離して、と震える声で言った。
「離して、……私を……どうする、の」
 クインの関わっているのが帝都の闇にほど近いのだと知っていたはずだった。タリアから彼が来ていることも。タリアの華やかで猥雑な表面の下にはこの国の暗部を引き受ける深い闇がある。その王たるのがタリア王であり、その幹部たちや部下たちがどれだけ悪辣で残虐かは今更語るほどのことでもないはずだ。
 沢山の暗い逸話が不意に瞼の奥をよぎった気がしてエミリアは震える。それを何とか悟られないように殺そうとしていると、少年がどうもしない、と返答した。
「あなたのことはどうもしない。でも、今帰らなくてはいけない。そうでなければ、まず5日後にあなたの親しい人がいなくなるよ」
「──何……?」
 エミリアは思わず瞬きをした。彼の言う意味が良く分からない。ぽかんとしていると、少年はゆっくりエミリアに近付いて、その頬を軽く撫でた。神経の具合が繋がるように、その瞬間にざあっと背中が粟立つような感覚が走った。
「……そしてそれでも帰らなければまた5日後に、別の人がいなくなる。悪いけど、留守中にあなたの部屋には何度か入らせて貰った。手紙があるね──故郷の恩師、近所に住んでいる親戚、それと初等学校の頃からの友人たち……帝都の同僚、絵の同人会の仲間、あなたにちょっと気のある画廊の若旦那、学院の友人たちに、写生を教えている生徒たち、それに」
 少年は一度言葉を句切り、まっすぐにエミリアを見た。
 エミリアは口を開けた。悲鳴を上げたいと思ったのだ。けれど、唇からは何もこぼれてこない。上擦った自分の呼吸が不規則に打ち出す音だけがする。木枯らしのような音が。
「それに……」
 少年が言いかけた言葉を引き留めるようにエミリアは彼の腕を掴んだ。やめて、と動かした唇が、一体どこまで正確に発音を刻んでくれたか分からない。けれど、彼が何を言おうとしたのか、直感が教えてくれたのだ。
 少年はエミリアの制止には構わず、それに、と強い声を出した。
「あなたの肖像画はよく似せてある。妹の題の絵を見れば、どれがあなたの妹かはすぐに分かるはずだ……あなたの部屋にあった彼の絵も、背中だけなのに確かに奴だったから」
「やめて……あの子は、関係ないわ……」
 エミリアはぎゅっと目を閉じる。黒く冴えた瞳の少女が、脳裏をゆっくり歩いている。姉さんと呼ぶおっとりした、芯の強い声。やめてと呻いた声は、今度こそ震えて強張っていた。
「妹は──他の人は、関係ないでしょう? どうして、そんな、……酷いわ」
「うん、そう、酷いよね」
 他人事のように少年は呟き、彼に縋り付くような姿勢のエミリアの背をゆっくりと撫でた。でもね、と呟く声は最初に声をかけてきた時とやはり同じだ。
「あなた、彼と会うのは一度きりだという約束を守らなかったね……それだけでも本当は殺せと言う連中もいる。俺は俺たちのことに本当は関係ないあなたを巻き込むのはいやだから、一度あなたを説得する機会をもらった」
「説得ですって?」
 エミリアは急にかあっと頬に血が上るのを感じて面差しをすくい、相手へ強い視線をあてた。少年はやはり微笑んだままで、それが尚更怒りに変わった。
「これは脅迫でしょう? 私があの子を捨てなければ、私の周りの人を殺すというのに!」
「決めるのはあなただよ、エミリア? それに脅迫っていうのは、最初の一人を殺してからするものさ」
 エミリアはきっと奥歯を噛みしめて相手を睨んだ。睨まれた方はゆるい笑みを浮かべたままでどうする、と何度目かを口にした。
「あなたは帰らなくてもいい。すぐに妹さんにも危害が及ぶわけではないしね。でも、それがいつになるかは教えられない。だからいつ手が伸びるのかをあなたはいつも怯えていなくてはいけなくなる──奴とのことをその他全部と引き替えてもいいというならそれでもいいんだ、ただ、それにどれだけの覚悟と実際の犠牲を伴うか、というだけの話」
 少年は軽く笑い、つとエミリアから離れて大きく伸びをした。しなやかな背中。気負いなくまっすぐに伸びて、まるで影さえもない。ひどく惨い脅迫を口にしながらも終始彼は穏やかで、どこか済まなそうな気配さえあった。裏も感じないから、これがこの少年の素地なのだろう。クインにあったのが思いの外幼い明るさであったことと同じように。
「で、どうするの? 奴の為に全て失っていいというなら、俺にはもうあなたには何も言うことがない……奴が帰ってくるのを待って奴に同じ事を言うさ」
 エミリアは低く喘いだ。クインに同じ事を言った時、彼はどんな顔をするだろう。あの強く切ない光で自分を見つめて、何を言うのだろう。
 ──それが全てを捨てて欲しいという言葉だったら、どうしたらいいの。それが思いの外強い動揺であったことにエミリアはうろたえ、うろたえたことで目の前が暗くなったような気がした。
 迷っている。いいえ、多分これは迷いでさえない。彼には救いが要る。エミリアはそれを与えてやりたい──でも。
 目を閉じるとこの春に最後に会った時の妹の、あどけない笑みが浮かんでくる。細い首と手足、華奢な肩とほっそりした指。あれを失うことなど考えられない。
 アスナ、私の可愛い妹。たった一人の肉親、私のための希望。
 アスナ。呟くと、涙が出そうになる。それを飲み込んで堪えた時、おこりのように震えが来た。
「駄目よ、そんなのは駄目」
 叫ぼうとしても声にならない。今頷いたら全てが消えてしまう。紺青の海にしどけなく漂う水泡のようにその淡い夢のように、全てが呆気なく終わってしまう。彼のことを愛そうと思ったことも、彼が自分を見て切なく縋り付いたことも、二人で手を繋いで眠った時間も、───彼の背中に垣間見た美しい翼も。
 それは駄目だと思う側から、だが体は動かない。震えているだけで、ぴくりとも出来ない。エミリアはたった一つ出来ることをする。目を閉じればやはり浮かぶのは黒髪を風に軽く任せて笑う、妹の無垢な笑顔だった。
 少年がそっと近付いてきて、エミリアの肩を抱いて言った。
「大丈夫。ゆっくり息をして。俺は約束したことは守るよ──彼のことは俺がどうにかするから、心配しなくていい」
 囁くような声音が優しい。エミリアはそれに引かれるように頷いた。頷いた瞬間に、体中から力が抜けて座り込んでしまう。
 戻れない。分からない。
 何が正しくて間違った判断なのか、きっと一生答えなんかでないはずだ。妹を助ける為にクインを見捨てる、これが正しいはずはないのに。
 けれど怖い。クインの背後にあるはずの組織の全容は知らないが、ある、ということだけでも十分なはずであった。そしてそこからの使者はエミリアの知人と肉親を無差別の人質に取ると宣告した。エミリアが折れなければきっと実行に移す。
「だから先に帝都に戻ってくれるね?」
 念を押すように囁かれた言葉にエミリアはがくりと項垂れ、小さく首肯した。こくりと頭が垂れた瞬間に、堰を切ったように涙がこぼれ落ちてくる。
 彼を哀れんでいたし、彼を愛しんでもいた。青い宝石のような瞳が切なく自分を見つめていることが歓喜と困惑を両方連れてきた。
 エミリアに縋る目、ためらいがちに伸ばされてきた手、好きだと言った時の切羽詰まって掠れた声。そのどれもが淋しげで、だからぬくぬくと甘やかしてやりたかった。湯浴のようにゆったりと普遍の愛と祈りに浸らせて癒してやりたかった。
 ──でも、妹と引き替えには出来ない。
「ごめんね……」
 掠れた呻きに少年がごめんよと付け足し、エミリアの腕を掴んで立ち上がらせた。砂に足を取られて僅かによろめく。
「もう行こう、船の時間がある。荷物はこれだけ?」
 少年が鞄を取ろうとしたのをエミリアは触らないで、と強く言った。クインを失う悲しみよりも、このやり方や唐突さへの怒りがひどく暗い声音にしていた。
「── 一人で行くわ。構わないで……」
 呟いて鞄を自分の方へ抱き寄せる。鞄にくくりつけた画帳ごと一度抱きしめて、エミリアは画帳を外した。
「これをあの子に渡して……あの子を描いてたの、全部この中にあるから」
 うん、と少年が頷き、代わりに船の指定切符を差し出した。エミリアはそれを受け取る。これを少年がお詫びにと言うならそれも良かった。何より、他人に紛れたくない。河を上る便だから帝都まで5日ほどかかるその間を、一人になりたかった。
「あの子にごめんねって、言って」
 少年は肩をすくめてそれは言わない方がいいと思うよ、と言った。エミリアは一瞬を置いて頷く。確かに少年の言うことは正しかった。
「……これは必ず彼に渡しておく。……中を見ても?」
「いいえ」
 エミリアは強く言い捨て、返答を待たずに背を返した。
 回帰線の間際に太陽が隠れていこうとしている。その薄く弱い光を頬に感じながら、エミリアは早足でその場から、そしてクインの未来と運命の中から立ち去るために歩み出した。
 窓の外には緑の濃い色が、夏の明るさを主張している。途中で母の為に買ってきた花を適当に水に挿しながら、自分は何かを口ずさんでいたらしい。
「今日は何だか嬉しそうね」
 母親の言葉でそれに気付き、クインは照れの為に頬を歪めた。エミリアが自分を待っているだろうと思うと足が着かないほど浮かれているのが気恥ずかしい気もしたし、自覚していてさえ胸の奥が柔らかくさざめいているのが分かる。
「何でもない……わ。大丈夫。上手くやってるから、心配しないで」
 いつもと同じ言葉をすらすらと口に乗せ、クインは花の角度を指先でいじった。白い薔薇の大輪がそっと揺れる。母は手にしていた刺繍枠を下ろし、クインの横へ立った。こうよ、と言いながらこうしたことに器用でない息子の仕業を直していく。
「……いい薔薇ね」
 肉厚でしっかりした花弁を指で撫でながら、母が呟いた。
「お前、これがなんて花だか知っているの?」
「薔薇……じゃないの?」
 きょとんとしたクインに母親は少し笑い、『麗しきイリーナ姫』よ、と言った。ふと細くなった母の瞳が哀しげに淡く微笑んでいる。
 イリーナという名にクインは内心ぎくりとする。その名は現在の皇妃であるイリーナ・ロシェルを指しているのだろう。あの皇子の実母であり、即ち自分のおそらくは真実の母の名であった。それを思えばひどく切ない。皇子のことを憎んではいけないと知っているはずなのに、皇子のことを思うたびに焼き切れそうな怒りと憎悪を覚えるのは自分が狭いのだと理解しているはずなのに、それはいっかな弱くなる炎ではなかった。
 自分の胸の中の、荒れる炎の幻影。何もかもを手に入れなくては嫌だと吠えて、自分を捨て去ろうとするもの全てを焼き尽くしたがっている。ライアンのことも、その熱に煽られあぶられて追いつめられていった。自分でさえ焼いてしまいそうな激しさが、時折自分で恐ろしくなる。──いつかこれが自分自身を殺しそうだ。
 不意に胸に湧いた不吉な言葉にクインは目を伏せ、ゆっくり呼吸をした。イリーナの名の由来を自分が知っているとは悟られたくなかった。母の胸の中にある罪をいつか聞かなくてはいけないとしても、それを受け入れることが今の自分に出来るなどとは到底思えなかった。
「そう……イリーナ姫? 綺麗な品種ね。香りがちょっと強いから、窓を開けるわ」
 クインは微笑みながらそんなことを言い、手を伸ばして硝子窓を押した。小さく木枠が軋み、ついで外の風と空気が吹き込んでくる。
「いい風……」
 クインは呟いて、梢の向こうに瞬き見える海へ視線をやった。エミリアは今、何をしているだろう──絵を描いているだろうという予測とは別に、今彼女がどんな表情で何を描いているかが知りたい。
 もっと知りたい。彼女のことを。二人で身を寄せ合って眠った船の中、目覚めると彼女の柔らかな腕の中に収まっていたことがあった。指を絡めると、無意識に握り返してきた。
 掌の熱、肌の温度、髪の匂い。決して美しい女でもないし、絵のこと以外にはごく普通の女だ。それは分かっている。
 けれど──でも、彼女しかいない。自分を捕まえ、微笑み、特別だと優しい言葉をくれるのは、彼女しかいないのだ。ライアンが戻ってくれば彼女の為に二度と会わない方がいいとは分かっている。ライアンがどう判断するかは分からないが、エミリアを手にかけて全てを短絡に葬る可能性は低くない。奴は人を殺すのが好きだからな……クインは苦く奥歯を噛み合わせる。チアロでさえ眉をひそめているではないか。元々チアロは殺人についてはあまり積極的でないことはあるが、それにしてもよい趣味だとは思えなかった。
「……何かあったの?」
 母親の優しい声が背中を撫でて、はっとクインは顔を上げた。自分は随分難しい顔つきで窓の外の枝を睨んでいたらしい。慌てて顔を弛めるための満面の笑みを作り、何でもない、と言った。
「もうすぐ夏期の中途入学の受験期だから、少し気になるのね。生徒から何人かは受けることになってるから」
 仕事は塾の講師ということにしてある。いつまでこんな風に誤魔化すのだろうという自嘲がそっと胸の奥に囁いたが、クインはそれを無視した。いつまで、ならば簡単だ。この嘘が知れてしまうまで──つまり、永遠に。
「そう……あまり無理はしないのよ。昔から、そんなに丈夫な方じゃないんですからね」
 クインは頷く。虚弱というほどでもないが頑丈ではなかった体質は、やはり根の弱い体質だというリュース皇子のそれと重なる。こんな些細な状況証拠を積み上げた末に、血縁はやはり確信というものに変わっているのだった。
「大丈夫、母さん。私は……全部大丈夫だから」
 母を安心させる為に繰り返してきた台詞をまた口にして、クインは笑って見せた。そう、と母は頷きかえし、しばらくクインを愛しげに見つめてから言った。
「ねぇ、お前……好きな人でも出来た?」
 母の声にクインは思わずえ、と聞き返した。それからぱあっと赤くなる。慌てて俯いても、尚更頬に血が集まってくるようで止まらない。
「や、ちょっと待って、何でそんな……母さん」
 何か取り繕うようなことを口の中でしきりと呟いていると、母は明るい笑い声をたてた。クインはますます赤面するが、表情に出るものは隠しようがない。次第に仕方ない笑みになってクインは照れたまま肩をすくめた。
「別に、そんなことないわ……第一こんな格好でどうしろっていうのよ」
 女装のままの姿であったから、母はそうねと苦く笑う。でも、と付け足された言葉は優しいが苦みに満ちて悲しげであった。
「でもね、お前もどんどん成長するわ。見る度に大きくなる気がする……この格好もあともう少しになってしまうわね」
 クインはやや真面目な表情でそうね、と曖昧に返答した。体つきはどんどん男性的になっていく。細身の体格はともかく、肩の広さや腕の関節の大きさは確かに男のものだ。身長がどこまで伸びるかは分からないが、女装では目立ちすぎるようになってしまうまで僅かというところだろう。
 但し、クインは自分の美貌については強烈に自負というものを持っている。まだ少しの間ならば、女装でも通せるのではないかという感触はあった。誰もがクインの容貌に目を奪われるため、体型は後から印象に付加されるだけの追加事項に過ぎないのだ。美少女という印象さえ与えてしまえば後はどうにでもなる、というのはあまりに適当な仕儀だが、それをまっとうするだけの雰囲気を作る自信はあった。まだしばらくは大丈夫だろうとクインは考えている。
「そのことはどうにか考えるわ。あんまり厳しいと、ここへも来られなくなってしまう……」
 言いながらそれが一番恐ろしいことだとクインは思う。やはりあの時ライアンに下手に取りすがって戸籍を貰わなくて良かった。真実母娘の戸籍を用意できていたら、臨機応変というわけにはいかなくなるではないか。今更自分の選択を追認してクインは大きく安堵の溜息をはき、母さん、と言った。
「でもしばらくは大丈夫。まだ普通にしていれば誰も気が付かないから」
 クインは笑い、母親の手袋の上から軽く唇を押し当てた。この病にかかってから母は接触を極端に怖れるようになった。感染値は下がっているから今はもう遮蔽幕もないし部屋の外へも出ることが出来るが、素肌を触れ合わせることは絶えている。
 だからいつも頬ずりや軽いキスで確認してきた愛情は、いまは薄い手袋越しのこのキス一つであった。それでも、黒死の証明とも言える黒ずんだ肌は今のところ指先だけだ。それ以上広げない為にクインは自分を提供することを選んだのだから、手袋をしていても唇の温度を知っていて貰えるならば報いはあるのかもしれなかった。
「またね……母さん」 
 クインは柔らかに笑いながら告げる。陽は次第に傾き始めていて、窓の向こうの遠い海は屈託ない青から夕陽の反射の鈍い灰色になりつつあった。今からミシュアの街へ戻るならば、夕方になってしまうだろう。
 母は頷き、ねぇ、と優しく彼を呼び止めた。クインは首を傾げてみせる。窓辺の椅子から母は立ち上がり、愛しくクインの前髪を整えてやりながら言った。
「いつか好きな人が出来たら教えて頂戴ね……お前の為にいつでも祈っているわ。お前の幸せと、お前の愛を」
 クインはじっと母と決めた女を見つめる。マリアは柔らかに笑ってクインの手をぎゅっと握りしめた。うん、と小さくクインは呟き、誰にも聞こえないように母の耳元で小さく囁く。
「分かってる。でもそれはもっと遠い時間だと思う……」
 ライアンとのことがある限り、エミリアは通り過ぎていくだけのことになるだろう。それでもいい。今彼女の持つ愛と癒しが欲しいのは本当だから。
 母は頷き、ごめんねと小さく言った。クインは首を振る。本当は、マリアと名乗り彼の母だというこの女を見捨ててもいいはずだ。けれど、そんなことは出来るはずがない。それは既に自明であり、納得が済んでいることでもあった。そして血のつながりがないことをクインが知っている、ことをマリアには悟られてはならなかった。あくまでも優しい子として、ただ母を思い案じている子であると思っていて欲しいのだった。
 クインはまた、と強く言うと背を返した。扉を閉める一瞬に、母の笑みが視界をよぎった。瞳の奥にある、柔らかで温かな表情。かちゃりと錠金具が噛む音がした瞬間、クインは既視感に微かな溜息をついた。瞬間母の瞳にあった光と良く似たものがエミリアの目にもある。
 途端、クインは上がってきた羞恥の為に赤くなる。エミリアへ向かう心の中核が何であるかを突然思い知ったような気になったのだ。まるで子供じゃないかと自分を苛立たしく思いながら、クインは溜息になった。エミリアが完全に自分を愛しているとは思っていない。どこか彼女は同情的でそれが自分を多少卑屈な気持ちにさせるけれど、いとおしさというものに完全な境界線などないのだから、それも一つの思いなのだろう。それでも今夜はずっと一緒にいてくれると言った。
 ───どこか、眺めのいい部屋を探そう。町の向こうに海が見える部屋を。ミシュアの街は大きくて、きっと夜でも明かりを消せば地上の灯火が星のように綺麗なはずだ。一晩だけでも一瞬でも、彼女とのことを一番美しく思い出せるように。
 愛や恋という名前は後から考えればいい。後から振り返れば幻のようなことかもしれない。たった一夏で通り過ぎていく、美しい夢のような。
 けれどそれに縋って僅かにでも希望を見ていられたらどれだけ幸せだろう。希望という言葉を教えてくれたのもエミリアだった。彼女の持っているごく普通の当たり前の優しさにずるずると甘えたくなる。陽の降り注ぐ窓辺やぬるい湯に浸かっている時のようなゆったりした心地よさにただひたすら身を沈めたい。
 エミリアに会う以前ならばそれが真実からの愛ではないと叫んで拒否しただろうか。けれど、それをはねつける気力などもう僅かも残っていない。彼女の微笑みというぬるま湯につかりきってから、ああ自分は本当に傷ついていたのだと感じることが真実なのだ。
 クインは足早に療養所を出てミシュアの街へ向かう。来る時は坂を上るためにやや時間がかかるが、帰りはほとんど駆け下りていくような勢いで下っていった。頬を海からの風が撫でて通り過ぎていく。エミル、と胸内で彼女を呼んでクインは一人で笑い、慌てて顔を引き締めた。

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