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 ぼんやりした光景には色がなかった。薄い煙幕のような白黒の世界に、ぼやけた焦点の格子木が見えている。
 ああ、これは夢だ。それを知覚した途端、ぬるく体が溶けていきそうな感覚が興った。視点が低い。まだ幼い自分の見ていた、遠く古い目線の焼き直し。格子の向こう側にもつれあった男女が見える。のたうつように身をよじり、意味のないあやふやな言葉を叫んでいる女と、それを殆ど殺すかのような勢いで攻め立てている男、右肩の傷。
 視点はゆっくりと格子の中へ分け入って男の右肩を視線で撫で、女の傍にすとんと座り込んだようだった。女が自分の手を握る。一瞬ぎくりとするほど熱い。
(ねぇ、見てて、見ていて、ねぇ、可愛い子ねぇ、どこから来たの?)
 浮かされたように口走る女に視線が上下する。自分は頷いたらしい。
 どこから来たのという問いに答えるように、子供特有のふっくらした手が上がり、女の腹を指した。自分の唇が動いて何かを言ったようだった。それの何が良かったのか、女がけたたましく笑う。それに合わせて男が笑っている。
 笑う。笑う。嘲り、蔑み、侮る声が幾重にも、ぐるぐる、めまぐるしく、ひたすらに、笑う笑う笑う笑う──……
 これは夢だ。強い声が胸の奥から囁いている。それに導かれるように決然と目を開けると、そこは柔らかな光の中だった。窓から淡い光線が差し込んで、白いシーツの波間に優しい灰色の影を作っている。
 それを目にした瞬間、これが現実だと身体が理解したようだった。すうっと肩から力が抜けて、自分がひどく身を強張らせていたことがやっと分かる。
 長い溜息を肺から押し出していると、隣にいた男が身じろぎした。起きたかと言われ、目をしばたいて素っ気なく頷き返すと男は腕を寝台傍の小卓に伸ばした。煙草だろう。何度かこの男と共に朝を迎えたことがあるから、寝起きの最初が一服から始まることは知っていた。
 身を起こしてその通りに煙草を始めるライアンの仕草はもの慣れていて、そもそもの印象の通り、素っ気ない。けれど、それは自分も同じだ。何もかもは過去へ置いてきた。今まで寝てきた全ての男たちも自分に同じものを見て、苦笑したではないか。
 終わればすぐに醒める女。痕跡も空気も全てを呆気なく消してしまう奴──つまり、なつかない犬。
 そんな喩えを思い出して、オルヴィはそっと視線を伏せた。考え事をする時は、ことさら無表情になる。それが子供の頃からの韜晦の手段であり、母とその周辺の男たちへの目眩ましであった。
 オルヴィは薄い毛布の下で身体の位置を変える。枕に肩まで押しつけるようにして、まだまどろみに半分ほど漂っている気分のままに目を閉じた。眠るかと聞かれて目を閉じたままで首を振り、少し、と呟いた。ライアンの返答はない。ないが、それは了承の沈黙であるように思われた。
 母の夢を見るのは久しぶりだとオルヴィはまだ脳裏に鮮明に残るそれを、じっと見つめる。古ぼけた格子棚は母の店、シタルキア南部の都市メーリンの、安い妓楼の立ち並ぶ地域の更に隅にオルヴィは8才まで育った。特段美少女ということでもなかったため客には適当に邪険にされながら成長したが、その生活の終わりは母の人生の終わりでもあった。
 だらしのない男に惚れ、男の言うままに麻薬に手を出し、最期の血の一滴までも啜り尽くされて死んだ母。最後にはオルヴィのことさえ分からなかった。中毒のせいで濁った白目でぎょろりと娘を見て、どこから来たのと同じ事を繰り返し聞いた。
 あの草をやる奴は馬鹿だ。馬鹿だから踏み込むのか、あの草の見せる胸の悪くなるような幻影が馬鹿にするのかは知らないが、あんなものに溺れるやつは生きていく価値なんかありはしない。死ねばいい。母のように惨めに。
 僅かに眉根を寄せて深い溜息をつく。母親の死んだ後は債権者によってタリアの非組合の娼窟へ送られ、8才の夜から客を取った。その娼窟には当時の自分よりも更に幼い少女もいたから、そうした好みの客専門だったのだろう。
 12の時にその娼窟の主人も借財のせいで逃げ、すぐに掴まり、自分たちの見ている前でなぶり殺しにされた。それまで奇妙にねっとりした声音で自分たちを扱っていた男が絶叫と苦痛にのたうち、緩慢に死んでいくのをじっと眺めながら、オルヴィはひたすら口の中で同じ事を呟いていた。
 ──私は石だ。石になろう。何も思わず感じない石だ。石になろう、石になろう……
 転売された先の娼窟でも、オルヴィはあまり売れない女だった。笑わない、愛想も言わない、もの暗い表情の女はやはり敬遠されるのだった。とびきり美しい面立ちであれば違ったろうが、生憎そんなものは持ち合わせていない。
 あまりに売上が悪くてその娼窟からたたき出されたのが17の時、そのままオルヴィは迷うことなくチェインに足を踏み入れた。タリアの少年王のことは時折聞いて知っていたし、娼窟で知った数人の顔なじみもいる。あまり不安はなかった。チェインに女は珍しく、そのせいで数度は手酷い目にもあったが、それはオルヴィの中に決定的な傷を残さなかった。
 ──私は石だ。何も感じない石。
 それが全てを傍観するための呪文だった。それさえ胸の中で呟いていれば、やがて災厄は遠くなった。いくつかの傷、些細な諍い、保険のために寝てきた少年たち。そんなあやふやなつての最後に立っていたのがチェインの若い王だった。王という古めかしい言葉の持つ重い澱みを確かに感じた相手。
 お前と似ているだろうと皮肉を言って笑っていたのはどの幹部だったろうか。あるいは全員だったかも知れない。オルヴィがライアンの愛人であることは周知のことであり、それ故に一段蔑まれていることも知っている。幹部たちの中で一番馴染みがあるのはチアロだが、彼にしたところで腹の中でどう思っているか知れたものではないだろう。
 無論ライアンと寝たのは単なる保険だ。自分の足場を僅かにでも確保するためのことで、それ以上ではなかった──はずなのに。
 毛布の中でオルヴィは身じろぎし、右耳の貴石に触れた。一体何が起こってライアンがこれを自分に寄越したのか全く見当が付かない。宝石には詳しくないが、色の濃い石は高いと聞いているし、タリア王からの下賜品だとライアンが言っていたはずだ。安い品ではあるまい。
 そのことを思う時、オルヴィはひどくせわしない気持ちになる。土台ライアンから何かの形あるものを貰う、ということ自体が違和感なのだ。彼は単に自分を便利な道具のように扱っていたはずだった。少なくとも、最初の頃はそうだった。
 それがどうしてこんな宝石になって戻ってくるのか、それが何故なのか、どう判断していいのか分からない。有り体に言うならば、面食らっている。一体ライアンは自分をなんだと思っているのだろう?
 そこまできてオルヴィは自問の馬鹿馬鹿しさにさっと頬を歪めた。ライアンにとって一番大切な女は妓楼の中にいるはずだった。彼の視線をもう長く独占しているというその遊女の名前も顔もオルヴィは知らない。妓楼での宴席には正直なところ自分の居場所があるとは思えなかったし、ライアンも自分に来いとは言わなかった。
 知らなくていい。オルヴィはそっと頷く。多分、知らない方がよいことなのだ、これは。この奇妙な怖れがどこから来るのかも、考えるな。
 ───私は石だ。何も感じない、何も思わない、ただの石くれ。
 胸の中に呟き続けていると、かつかつという硬い音がした。煙管の灰切りだろう。気配は再び火種石をいじっているからもう一服というところか。
 既に神経は覚醒へ向かっていて、目を閉じていても眠りに落ちることはなさそうだった。オルヴィはゆっくり体を起こし、ばらばらに落ちてきた髪をかき上げる。横目でちらりとライアンを見ると、彼の方はゆるくくわえた煙管の先に火種を移すところだった。
 面伏せた瞼のくっきりした外殻線、煙管を撫でる整った指先。あの手はいつでもひんやりと冷たい。ライアンはいつもと変わらぬ無表情のまま、煙草を繰り返している。深い呼吸にずっしりと重い存在感があった。他人と同じ事をしていてさえ、身から漂い始める重い威圧がある。
 これは確かに美しい男であった。力ある雄にだけ現れる薄紗のような煌めきが時折、はっとさせる。そもそも役者のような整った面差しでもあるはずだが、彼の身に付いた空気に比すれば全く目立たない付属物であった。
 それとも、とオルヴィはふと思う。ライアンの面輪に大して感慨を強めないのは更に美しい顔貌を知っているからかもしれない。美貌というならばあの少年であることは間違いがないのだから。
 そしてオルヴィは渋面になった。元からあの少年はオルヴィを気に入らなかった。何故始めから悪意で迎えられたのかは分かる。彼はライアンの関心を引きたくてたまらない上に、チェインの少年たちとは折り合いが悪い。オルヴィもその一翼に見えていただろうし、いつ頃からか更に憎まれるようになった。誰かから漏れたのか勘付いたのか、オルヴィがライアンの愛人であることを知ったのだろう。
 いや、元から気に入らなかったのは自分も同じだ。最初にライアンに連れて行かれたアパートで自分を見た少年の目が、ざっと一瞥した後にぬるい軽蔑へ変わったのは確かに見た気がする。取るに足らない相手、まったく自分の敵ではないという表情だった。
 嫌な奴。それがクインに最初感じた感触であり、時間を経過して接触が増えるほどそれは強まっていった。
 確かにあの美しい面輪は特別の産物だ。一つ一つの表情や仕草でさえ、それがどんなに乱暴で斜に構えた偽悪であっても、目を奪うほど美しい。けれどその美貌を鼻に掛けた態度や人を小馬鹿にしたような口調はどうしても腹に据えかねる。
 だから時折はライアンとの関係を盾にとって彼をからかう。そうすると透けるほど白い肌がさっと怒りのために紅潮するのだ。それさえ美の範疇にあるのはさすがであるかも知れなかったが、屈辱感さえ口に出来ない品高さが少年を荒らすことは予測が立てやすかった。
 ふん、とオルヴィは唇だけで笑う。そんな笑い方がライアンに似ているとチアロが以前苦笑していたはずだった。似ているだろうか、とふと湧いた疑問をこね回していると、これだけは確かに似たような吐息がぬるく落とされるのを聞いた。
「……あれのことを考えているな」
 ライアンの表情はぬるい。オルヴィは目線だけで肯定した。
「あまり嫌味な客を選ぶな、奴がどういう客が気に食わないかくらいは知っているだろう」
 その作為はとうに知れていたようであった。オルヴィは肩をすくめ、返答をしない。そもそもあちらも気に入らないという理由だけで当日でも平気で撥ねつけるのだから、オルヴィだけが不興を買うのは公平でなかった。
「不満か? だが、奴を荒れさせることは感心しない」
「あの子が私を嫌いなんだ。何故好かれるようにしなくてはいけない」
「機嫌は取らなくてもいい、配慮してやれと言っている」
「同じ意味だ」
 オルヴィは短く返答し、寝台から降りた。裸のまま部屋を横切り、適当な服を拾ってかぶる。
 エリオンはシタルキアの北東に位置する国で、夏近いとはいえ裸身だと肌が冷えた。服の内側から小さな薬包が転がり落ちるのに目を留め、オルヴィはそれを拾いあげる。
「……煙草にでも入れたらどう、ライアン?」
 当てつけの嫌味を呟いて彼にそれを放り投げる。寝台の上にどうにか届いた薬包をライアンはひらき、灰皿へこぼした。微かに鼻を突く、甘い匂い。エリオンの裏の市場で高価に取り引きされている麻薬、その精製された顆粒はどの種類でも多少の差はあれ、甘い匂いをしている。
 エリオンまで出向いているのはこの麻薬の以前の取引筋との契約の為だ。彼がアルードから下賜された麻薬筋は殆どそのままライアンの手元へ収まったが、重量の単価や取引のための符丁などは一度打ち合わせなくてはならない。
 いくつかは別の取引先からの申し出もあるようで、実物は吟味しなくてはならないしその元締めとも顔を繋いでおく必要があるだろう。自分が伴われてきたのはその為だ。母の妓楼で初歩の筆記と計算は覚えている。チアロでも良かっただろうが、この点は恐らくクインのためにあちらを残したに違いない。
 そしてこれはオルヴィにとって、紛れもなく大きな転機の機会となるはずであった。麻薬筋のことはライアンの掌握する事柄の中でも金額からして大きな項目の一つだ。その基本的な契約の提携に立ち会い、彼らの語る方針を書き留め、簡単な試算を出すことでその基盤に深く、大きく食い込むことが出来る。
 それを思うと薄い興奮がオルヴィにも上がってくる。チェインの中で勝ち上がろうと決めた時から、ライアンはオルヴィにとって当面の寄生先だった。彼はチェインという小さな王国に君臨する絶対王だ。
 もしくは、とオルヴィは頬を厳しくした。クインと相容れないのはお互いの寄生の邪魔だと感じているからかもしれない。クインがどんな事情でか知らないがライアンに頼っているのと違う事情で、しかし同じようにオルヴィも彼に頼っている。宿主を取り合っているのだと思うとやはり面白くはなかった。
 オルヴィの渋面をどう受け取ったのか、ライアンが視線で意味を問うてくる。オルヴィは別に、と素っ気なく返答してから付け加えた。
「あの子のことなら、するべきことはしている。あちらが気に食わないのは勝手だが、私は配慮してるつもりだ、十分に。金払いのいい、後腐れのない相手をちゃんと選んでやっている」
 ライアンは僅かに溜息をついて薄茶色の顆粒の上から煙管の火種を落とした。灼熱の小さな塊がそこへ転がり落ち、微かな音を立てて薬粒を焼く。彼は薬はやらない。オルヴィと同じく、あの草に手を出す奴は愚かだと知っているのだ。
 風に乗って漂ってくる、ほんの僅かな甘い匂い。母の体臭とよく似ている。記憶の中の嫌悪と。
 それから逃れるようにオルヴィは浴室の扉を開けた。ライアンの肌には既に煙草の匂いが染みついていて、一晩傍にいると何故か眩暈がする。肺の中に差し込んでくる空気が細胞を侵していくような、きつい、感触。オルヴィは首を振り、水栓をひねった。一瞬おいて、受口から冷水が小雨のように落ちてくる。
 肌をこぼれていく人工の雨が、むず痒い。自分の髪から鬱そうと煙草の移り香が立ち上り、やがてそれは水と共に流れ落ちる。彼の煙草の匂いが薄くなっていくのに連れて、オルヴィは長い吐息を落とした。
 気に入らない。
 あの子も。
 妓楼にいるという彼の女も。
 肌をかすめていく煙草の匂いも。
 嫌悪と呼ぶにはひどく薄い感触がして、それでも何かが変わっていく──剥がれ落ちて。
 オルヴィは唇だけで暗く笑った。
 金払いのいい、後腐れのない客は確かに選んでいる。その先のクインの嫌悪のことを思って意地悪くほくそ笑むのは、クインの自分に対する嫌悪の鏡であり意趣返しだ。せいぜいねちこい相手にいたぶられればいい。
 そのせいで荒れていく様子は確実に溜飲を下げる遊戯であった。変化をつける為にあの変に素人臭い女を混ぜてみたのも、その落差を激しくするための布石だ。男客への憎悪に近い嫌忌との比較でいっそ、どの女でもいい、駆け落ちでもしてくれたらライアンも彼を処分しなくてはならなくなるのに──……
 オルヴィは肩を軽くすくめた。そんな都合のいいことは滅多に起こらない。だからこそ続ける意味もあるのだと、そんなことを思った。
 看護学校の課題を終えてクインは綴りの右肩を紐でとめた。ぱらぱら読み返しても全く欠損が無くて我ながらいい出来だ。その欠損には、わざといくつかの間違いを混ぜてあるところまで含まれている。
 ……幼くて魔導論文を書き散らしていた頃、欠陥を故意に作ることなど思いもしなかった。
 あの苦い失敗はしてはならない。目立ってはいけない、看護学校とて医療行為の一端に噛む故に、魔導の扱いは教えているのだから。
 医療と魔導は既に切れない縁で結ばれつつある。黒死の病に唯一効果のある薬は魔導と医術の融合によって出来上がるものであるし、その他にも難病といわれるものに対処する高価な薬には大抵魔導の効果が組み込まれているのが普通だ。
 医者の為の医療学校と看護士のための看護学校は多少内容は違うが、行き着くところは人間の病と向き合う為の技術であって、医者が基本的な魔導の扱いを知っていると同じように看護士にもそれが求められている。
 そして、それゆえに魔導学を修めている学生たちとの研究会が存在した。クインの通っている学校にもある。大抵は優秀な学生を高等学院へ出向させるのだ。
 だから成績も適当な匙加減を加えて卒業には支障ない程度に押さえてある。普通よりは少し上あたりの階層を彷徨わせている成績と合わせて、同じ学生同士の研修会でも目立つような発言は慎重に避けた。
 自分は、よくやっている。クインは自己満足に小さく笑うと課題の綴りを鞄へ放り込んだ。今日は仕事もないし、学校は明日の夜だ。さて、とわざとらしく腰に手を当てて机の斜め上に切られている窓の向こうを見やる。白くなめらかな皇城の壁面が一面夕映えの薄陽に染まり、雲のない空は夏の訪れを宣言するような、突き抜けた朗らかさだ。
 どうしようかなと首を傾げてみる傍から自分がひどく機嫌良く笑っていることにクインは気付く。
 けれどそれは少しも嫌な気持ちにならない。何かの特別なことがあったわけではないのに、心の底が仄かに明るくなったような気分になる。
 それが何のせいなのかは知っていた。エミリアは唐突で気まぐれとしか言いようのない頻度と時間にまたがる彼の訪れを、いつでも喜んでくれた。他愛ない話、単なる雑談、それに愚痴、そんなことをいちいち真剣に笑ったり驚いたりしてくれる。
 甘えているんだということは分かっていても、居心地のいい許容を手放す気はなかった。ほんの一時態度を弛めていた客たちにも最初の頃のような権高い表情を作れるようになってきている。客に媚びなくなってきたことで、蓄積されて行かなくなったものもあった。
 やっと自分の均衡を自分で操り始めたようで、それも心穏やかにしてくれる。
 全てが良い方向へ転がり始めた。追っ手のことや自分の出生のことは追々考えて行かなくてはならないだろうが、ともかくほっと呼吸を温くできる場所があったことが何より大きい。
 どんな時間に行っても彼女は大抵一人で絵を描いていた。静物もあったし、窓からの風景もあった。その全てに共通するのは彼女の素朴で清潔な明るさで、それを線画の奥に僅かに感じるたびに、何故だかひどく嬉しくなる。
 そして急に照れくさくなってきて、髪をかき回してクロゼットを開けた。一瞬迷って夏の薄く柔らかいシャツを選んで簡単に着替える。客との商売の時は女装も多いが、身長や骨格の堅さが次第に彼を大人にしていった。決定的な違和感ではなかったが、既に女装よりは男装のほうがしっくり馴染むようになっている。
 度の入っていない眼鏡を探していると、部屋の扉が開く音がした。クインは振り返る。このアパートへ訪ねてくるのなら、今はチアロくらいしかいない。ライアンはあの女を連れてどこかへ出ているようで、この一月、消息さえ聞かなかった。
 居間の方へ出るとやはりそれはチアロであった。クインに向かって軽く手を挙げ、途中で買ってきたらしい袋を長椅子にそっと置いている。硝子の鳴る音がしたから水の瓶も入っているのだろう。
「ありがとう……仕事?」
 クインは袋の中身をざっと覗きながら言った。チアロはひどく曖昧な返事をして、お前は、と聞き返した。クインは一瞬怪訝に友人を見る。何かを聞いた時に質問で返すようなことは今まで無かったからだ。
 淡い不審がうっすらと胸に広がっていく。エミルのことは知ればいい顔をしないだろうという予測が先にあったから、クインは別に、と答えた。適当にいつも引っかけている部屋着でないのは本当だったから、素早く付け足す。
「別に、買い物でも行こうかと思ってただけだよ……どうかしたのか」
 じっとチアロを見ると彼はうんと頷いて笑ったが、やはり薄墨のような曖昧な予感が表情に張り付いている。クインは長椅子に座り直してどうしたんだよと強い声を出した。チアロはそれで肩をすくめた。
「怒るなよ、別に駄目だっていう訳じゃないんだから……俺はただ、彼女の所にでも行くのかと思ってさ」
 彼女、という単語が耳に突き刺さってクインは一瞬ぎょっとする。こんな言い方をするのならエミリアのことを確実に知っているのだ──ということに思い至り、次の瞬間にそれが苦い感情に、どうしてという疑問は監視されていたのだという推測に変わった。クインは顔を歪めた。
「……俺が自分の時間を何に使っても自由だろ」
 声音はすり切れたように低かった。チアロは苦い笑みを崩さない。違うと言葉で否定されるよりもそのほうが胸に応えた。
「何だよ、俺がどうしていようと関係ないんだろう、ライアンだってそう言ったじゃないか」
「クイン」
 チアロは困ったような声を出してクインに近寄り、肩を叩こうとした。なし崩しに宥めるような仕草をクインは咄嗟に振り払う。ライアンに突き放された怒りをいつもチアロがそうやって慰めようとしてきた──今度も同じような対処をしようとする友人の態度が面白くなかった。
 チアロは諦めない。再びクインの肩に手を伸ばし、今度は捕まえて優しく揺すった。
「なあ、何で駄目かは分かるだろ? 今ならライアンもオルヴィもいないし、他の幹部連中にはまだばれてないし、どうにかなると……」
「うるさい」
 クインはチアロの手を押し戻した。チアロは僅かに目を見開き、視線を落とした。それがひどく傷ついたような表情であったことで、クインは微かに罪悪感を覚える。自分が辛く苦しくて荒れるだけだった時間に、傍にいて話を聞いてくれたのはチアロだけだったのに。
 ごめん、と決まり悪く呟くと、チアロの方は温んだ笑みになった。
「……何で駄目なのかは知ってるはずだ、クイン。今ならあんまり深い傷にはならない」
 クインは首を振る。やっと手に入れた場所を、この一言で放棄する気になど全くならない。エミリアが彼にふんだんに与えてくれるなだらかな日だまり、突き抜けて明るい空気、何よりも心穏やかに彼女の優しさにしなだれて覚える安息を手放すなどどうして思えるだろう。
「いやだ」
 ふて腐れたような声でクインは言った。ぷいとチアロから視線を逸らす。友人は彼の肩を撫でるようにさすり、ますます優しい声を出した。
「なぁ、頼むよ。……そのぅ……お前があんまりライアンの所有の範囲から逸脱すると俺もちょっとまずいんだよ、なにせライアンの留守中のことだからさ。俺のこともたまには考えてくれよ、な」
 柔らかい声だった。クインは横目で友人を見やる。彼に縋るような言葉とは裏腹に、その顔は少しも困惑していなかった。むしろ、淡い哀しみのような気配さえする。チアロは自分を下げてでもクインを引き留めようとしているのだ。
 それはクインには出来ないことでもあった。だからクインはやや態度を和らげる。そんなことまで友人にさせたことは確かに罪悪感になった。
 でも、とクインは顔を上げる。チアロの配慮を嬉しく感じ取るのと、エミリアに自分の負の部分を預けることは全く比重が違うことなのだ。
「お前しか知らないっていうなら、黙っててくれよ──なぁ、いいだろ? ライアンはあんなだし、俺は……俺は、ただ……別に恋人とかじゃないんだし……」
 ねじれた言い訳を呟きながら、クインはチアロの腕を掴んだ。チアロは首を傾げて溜息になった。
「クイン、俺は忠告をしているんだよ。お前はライアンのものだ、違わないだろう? なのにタリアの外で女と会ってる。他の幹部たちに知れたら、彼らはお前を処分しろと言うはずだ」
 クインは煮え切らない返答を喉で鳴らす。チアロの言うことは出鱈目の恫喝ではなく、十分に予測される未来であった。最終的にはライアンの胸一つでもあるが、幹部たちが口を揃えて処分を吠えれば無視することは考えにくい。配下の意見を尊重するというよりは、それによって傷つく彼の体面と矜持を優先するだろうということだ。
「ライアン、いつ、帰ってくる……」
 苦い気分のままクインは呟いた。チアロは僅かに迷った後、来月の半ばにはと答えた。一緒に行ったオルヴィからの連絡があったようで、大体の経緯は知っているらしい。
「だから頼むから、もう」
 行くなと言いかけたチアロの言葉を、クインは素早く、強く遮った。
「いやだ」
 殆ど泣きかけているような声だと自分で思った。けれど、それが却って自分の意志を強く固めたような気持ちを連れてくる。
 いやだ、とクインは繰り返して素早く、勢いよく立ち上がった。チアロが驚いたように微かに目を瞠る。それは本当に不意を付かれた時の彼の癖だ。僅かにそれで溜飲を下げて、クインはいやだと三度目を言った。
「ライアンは何もしてくれない、俺はもう奴のことを考えたくないんだ、もう嫌なんだ、うんざりしてるんだよ、どうして分からないんだ!」
 叫ぶ自分の声に吊り上げられるように、苦く痛い記憶ばかりが脳裏からあふれ出てくる。ライアンの冷たい声音までを思い出してクインは一瞬上がりかけた涙を飲み込んでもう嫌なんだ、と怒鳴った。
「分かってる、それはよく分かってるから」
 宥めようとするチアロの肩を軽く突き飛ばし、クインはたまたま放り出されていた眼鏡を掴んでまっすぐに扉へ向かう。待てよと追いかけようとするチアロを一瞥振り返り、何が分かってるんだよと低く小さく、唸るように言った。
「分かってるなら放っておいてくれよ、俺は大丈夫だから」
「クイン、でも、」
「ライアンは勝手だ、だから俺もそうするんだ。何がいけないのかなんて、知るかよ!」
 鈍く冷たい怒りのままにクインは吐き捨て、外へ走り出た。乱暴に扉を閉め、階段を駆け下りる。路地は既に紫色の暮刻の中で、建物の輪郭線までが不明瞭な闇に沈みつつある。
 普段使う地下水路を放棄して、ただチアロとその向こうにいるはずのライアンやその幹部たちへの当てつけの為だけに、クインは地上を駆け出した。
 エミリアに会いたい。何を言われても、どんな制約があっても、彼女に会ってこの吹き上がってくる怒りや苛立ちを宥め鎮めてやりたい。
 会いたい───それだけでいいから。
 走ってタリアの境界門を抜けると、急速に力がゆるんだ。膝に手を当ててしばらく呼吸を整え、エミリアの住居であるアパートへ歩き出す。部屋を飛び出した時にチアロが何かを叫んでいた気がするが、それはもう分からない。
 それから黙って突き飛ばされてくれたのが彼の優しさであることに気付き、クインは溜息になった。チアロのことを憎くなど思えない。
 だからそれはその果てにいるはずのライアンへと流れ込んでいく。憎しみだと単純に言い張るよりも遙かにねじれている感情が強く、強く、体の中に根付き増殖していくのがはっきりと分かった。

 開け放した窓から誰かの歌が聞こえる。窓にかけられた綿レースの繊細な模様がまだらな影を、背もたれからだらりと下げた腕にゆらめきながら落としている。それをぼんやりと見つめるでもなく視界に入れながら、クインはじっと歌を聴いていた。
(私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人)
 やけに明るい恋の歌だ。歌っているのは子供たちで、歌いながら石蹴りをしているらしい。からからという軽い音が調子に合わせて聞こえる。あ、という声、馬鹿と一斉にはやす笑い声、そして歌はもう一度最初から繰り返されるために撒き戻る。
 クインはゆるく嘆息した。下らない歌だ。子供がはしゃぎながら歌い遊ぶのとよく似合った、調子はずれの明るさと馬鹿馬鹿しさ。
 クインの吐息にやっとエミリアが画帳から顔を上げ、どうしたの、と聞いた。別に、とクインは素っ気ない返事をする。それから突き放したような自分の声の不機嫌に気付き、外、と言った。
「歌、聞いてた……さっきから同じ歌ばっかりだから」
「陣取りでしょう? 最近あの歌でするのが流行ってるみたいね」
 簡単に応え、エミリアは画帳の下に小さく何かを書き込んだ。それは一枚の素描が出来上がった時の彼女の覚え書きだ。日付と場所とモデルの名前は最低でも書き留めておくらしい。クインが最初それをひどく警戒した為に、そこには最初の夜の画帳と同じく少年としか書かれていない。
 クインは長椅子から立ち上がってエミリアの背後へ回る。練炭特有の濃淡で描き出されているのは背中を向けて椅子にもたれ、項垂れるような仕草をしている彼自身だった。身につけているものというよりは、肩の線や微かに傾げられたうなじの角度が確かに自分だと思えるような絵だ。
 画面の中の少年はがっくりとうなだれていたが、細い首筋にあるのは力強いたわみであり、それは絶望と呼ぶよりは遙かに祈りのような敬虔さに満ちているように見える。雪崩落ちている髪の向こう側は窓。あるはずのカーテンは描かれておらず、その代わりに窓の高い位置から太陽が啓示のように差し込んで、少年の背中を斜めに一条よぎっている。
 彼女は天使の題材を描くのだと改めて知ったような気持ちになって、クインは何気なくふぅんと言った。エミリアの絵はいつ見ても何かがそこにある気がする。ひどく懐かしかったり、温かだったり、その絵からエミリアの気配が溢れ出て、まっすぐに絡め取られてしまうような淡い畏服。
「最近良くなったわね、背中」
 描き上がった絵をじっと見つめていたエミリアが不意に言った。クインは横に並ぶエミリアを見やる。彼女の方が3才の年長ではあったが、背丈は既にクインの方が若干高い位置に到達していた。
 クインの視線にエミリアは少し笑い、同じ画帳のかなり前の頁をめくりだした。エミリアは素描をとる時背中をよく好んで描いていたから同じようなものは遡れば幾らでも出てくるが、彼女がやっと手を止めたのは、かなり最初の頃に描かれた頁だった。
「ほら、これが最初。すごく……気が張ってて身構えている感じ」
 エミリアと出会った夜だろう。女装のまま宿の一人がけの椅子にもたれ、窓の外を見ている自分だ。表情は見えないが、肩のあたりにまつろう空気は確かに尖って張りつめきった糸のようだった。
 クインは小さく頷いた。エミリアの言葉の意味がほぼ掴めた気になったし、そしてそれは正しいと自分も思う。良くなったという言葉が示す通り、エミリアの部屋で彼女の素描や習作のモデルに登場してくるようになった自分の背中から、きりきりと切羽詰まった空気は消えていて、代わりになだらかな落ち着きと安堵に手足を投げ出しているような無防備な背中が多い。
「次の評価会にはあなたの絵を出そうと思うのよ。ほら、こんな風にして」
 エミリアは先ほど描き終えた素描の頁をめくり、練炭を握る。光が照らすクインの背中にその先端を当てて、さらさらと迷い無く動かし始めた。
 途中まで来ればそれが何であるかは分かる。クインはあやふやに微笑み、そして微かに赤面した。
「俺、こんなんじゃないよ……」
 曖昧な言い訳を口にすると、エミリアは笑って首を振った。
「そう? あなたには違っても、私にはこうなのよ。今は小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ」
 さらりと言ってエミリアは彼の背に折り畳まれた翼を描き終えた。
 翼ある者、美しい幻想、そして祈り。これは確かに彼女の絵だ。豊かに包む、愛情のまま。
 僅かに心の底が揺らぎ始める。嬉しくてたまらない。自分の中に沢山の闇があってそれに押しつぶされそうだったのはつい最近なのに、闇の中でこそ美しく輝く沢山の星をエミリアが彼の手を取って教えてくれた。闇夜の星、微かに白く淡い光。それを知っただけで胸の中がほんの少しなだらかになったようであった。
 あるいは自分は、絶望したかったのかも知れない。それは息を呑むほど強い力で自分を壊していくはずだった。それで良かった、絶望できるほどの強靱な心があれば破壊の後の再生を支えてくれるはずだったから。
 けれどそれはなされなかった。代わりにクインは明るい窓辺にぼんやりともたれる午後や二人で寄り添うようにして囁きあかす夜を手に入れた。
 ───それを捨てろだって? 冗談じゃない。クインは先日のチアロの言葉を不意に思い出し、奥歯をきつく噛み合わせた。
 チアロが自分を心配してくれるのは分かる。あれほど無遠慮にはしゃぎ回っているような印象の実、チアロは細やかで優しい目線で彼を気遣ってくれているのだ。
 それは今も変わらない。あの翌日に訪ねてきてくれたチアロと和解は済んでいる。けれど彼が言ったことを許容できるかどうかは全く違う話だ。
 ライアンの帰還はどうやら半月ほど先で、それまでには何か対策を練っておかなくてはいけない。そもそも奴のせいなのだ、とまっすぐに非難を思うことが出来るようになった分だけ気が楽になったから、ライアンとも多少はまともに話が出来そうだった。
 ……全て、川のように静かにゆるやかに、安息と安堵へと流れていく。何故それを放棄しなくてはいけないのだ。
 それを考え出すと苦い怒りと共に冷たく黒い恐怖を微かに感じる。戸籍の一件で思い知った通り、ライアンもその抱えている連中も短絡に人を手にかける。ライアンなどはむしろそれを楽しんでいるような節があり、どうしてもその部分には怯まずにいられない。チアロは忠告だと言った。このまま突き進んでいけば破滅するという意味であったろう。それはクインのこの生活の終わりであり、畢竟、母の死と直結している。
 母の死、と思うと背中がぞくりと粟だった。当面今の生活を続けていかなくては、金の工面が出来ない。折れてライアンにでも頼ればどうにかなるだろうと分かっていても、自分の中の頑迷は激しく首を振った。
 対等に、という自分の矜持がひどく幼くて崩れやすい虚塔であることは薄々理解しているが、けれど自分を無視して何があるのだろう。今でも十分、客といる時には己を殺し沈めている。それ以上はどうあっても耐えられない。
 だからこそ、エミリアの持っている清潔で素朴な明るさが自分にとって重要なことなのだ。彼女の優しいぬくやかな海に抱かれていると、とてつもなく幼い子供に還ったような不思議な落ち着きが自分を癒してくれるのが分かる。それはクインにとってどんなものにも引き替えられない貴重で、大切で、最も美しく平凡な時間かもしれなかった。
「……お茶でも淹れましょうね」
 エミリアがいつものような朗らかな声で言った。クインはそれで我に返り、側を離れて厨房へ消えていく彼女を見送る。自分にまつわりながらも話せないことは確かに多く、エミリアはそれを追求しなかった。それも多分、気楽さを増幅してくれている。
 クインは軽い溜息になって、先ほどまでもたれかかっていた長椅子へ転がった。うつぶせに体勢を直し、ぱらぱらと画帳をめくる。エミリアは悪く言うなら手当たり次第に目に付いたものを描いていて、統一感のある画題ではなかった。
 自分がいる。次の頁には日だまりの猫に途中で逃げてしまったという悔しそうな注釈、その更に次にはどこかの資料館で写生したらしい展翅蝶の素描、絵の傍に呟くような独白、忘備録替わりの走り書き。
 画帳がエミリアの写生帳であり日記であった。そのために最初は読むのを躊躇ったのだが、エミリア自身が全く頓着無く彼に過去をめくって見せてくれて最近は余り抵抗感がない。眺めるというほど熱心でもなく絵をめくっていると、小さな走り書きが目に付いた。どうやら時刻表らしく、地名と金額から大河ユーエリを下りミシュアへ出る客船であると予測できた。
「どっか行くの?」
 クインは茶のカップを二つ手にして戻ってきたエミリアにその覚え書きをなぞりながら聞いた。エミリアはああ、と軽く頷いた。
「来月にでも、ちょっと南へね。学校も来週から夏期の長期休暇に入るし、海でも描きに行ってみようかなって思って。──ミシュア、行ったことある?」
「うん……まぁ」
「南の海は特別綺麗だものね、写真でしか見たことないんだけど。2週間くらい向こうで色々描いてくるつもりなの。日程が決まったらちゃんと教えるわ、あなたが来たらいけないから」
 クインは何度か瞬きをする。エミリアの不在は僅かな落胆を連れてくる。けれど、ライアンやチェインの連中のことを鑑みるに、多少はそうした空隙をおいた方が良い気もすると胸の中で素早く弾き出して頷いた。
「ん、分かった……」
 お土産買ってくるわよと笑うエミリアの楽しそうな表情に、クインはやっと自分も顔が弛んできたのを自覚する。……あまり考えすぎるのはよそう。今この瞬間が満ちて穏やかならば、それでいいから。悪い方へと考えすぎていつも自分でたてる騒音に苛立っているようなところが、クインにはある。それを自覚しつつある今ならば、どれだけそれが自分をすり減らす無駄な摩擦であるか、知っている気になっていた。
 エミリアは自分で淹れた茶を一口啜り、渋いわ、と思い切り顔をしかめた。クインはつられるように自分も同じ事をして同じ渋面になり、どちらからともなく笑い出す。このごく普通の笑い声を、ひどく愛しく思いながら。

 小さな馬車を降りると煤けて赤い町並みと、青みかかった石畳から世界を異なる色へ変える境界の2本柱が見えた。相変わらず昼日中の白けた光の下では薄汚くてよそよそしい。外からタリアへ戻ってくるたびに胸に微かに興るのは確かに嫌悪なのに、それをいつの間にか許容しているのは諦観なのだろう。
 所詮、この町でしか生きてゆけないのだ。リァンの背を追うように少年たちの上に君臨し始めた時から自分の命一つに沢山のものが付随している。今死ぬわけにはいかないし、勝ち続けなくてはならない。その義務を重いと感じないのは僥倖であったけれども、重いと思うものはある。
 ───例えば、あの庇護している子供のことだとか。
 ライアンは内心で軽い自身の嘆息を聞いた。タリアを離れる直前彼の癇癪につい、つき合ってしまった。全身の気配を逆立ててこちらを巻き込もうとする瞳を見る度に、何かひどい間違いを犯している気持ちになる。
 客を取り始める前にその予行がしたいなどという一瞬唖然とするような彼の願いを聞き入れたのは、彼がそう思っているであろう秘密の担保ではなくて、純粋な憐憫の為だ。再開した少年の切羽詰まっている上に怯えたような目が、ひたすら哀れでならなかった。
 元々ひどく誇り高い子供であったことも、その痛ましさに拍車をかけていただろう。ライアンの元から一度走り去った時、クインは沢山の事情はあったにせよ明るく陽気な子供だったはずなのだ。
 けれど、どこかから戻ってきたクインは疲弊と焦燥のせいなのか、気強く傲慢だった瞳の凄みさえ失ってしまっていた。それが自分でもはっとするほどの憐れみに変わる。──それを知ればクインの方はまた傷つけられたように思うだろうから、口には出来ないことではあったが。
 客とのことはクインの性質には合うかもしれないと当初楽観していたことを、ライアンは認めざるを得ない。傲岸不遜の塊、自分の理知と美貌に抱く正直で圧倒されるような自負。それは彼の内面から滲むように溢れていて、きっと客には崇拝という扱われ方をするだろうと考えたし、最初は確かにそうだったはずだ。
 おかしくなった分岐点が何であったのかをライアンは知る術がないが、その時機ならば記憶とつき合わせて導くことが出来る──そして、それが一層クインの元へ足が向かない理由であった。 
 ライアンは髪に手を入れてゆるくかき回す。気が重い。あれは何故、俺にそんなにこだわるのだろう──男は初めてだと言っていたし、あの怯えた態度やその後のもの慣れぬ仕草や空気がそれを裏付けていたからあまりにえげつないことは控えた、それは本当だ。が、それを何かと勘違いしているとしたらライアンは面食らうしかない。そもそもクインの申し出を受けたのも、ライアン自身の苦い記憶の為だ。
 活劇の芸団から稚児に転売された夜のことは、思い出せることのほうが少なく、またその殆どは息苦しい屈辱の黒で塗りつぶされている。あれを与えるよりはと思ったことは否定しないが、同情を他のものに取り違えられても困惑するとしか言いようがないのだ。
 客の殆どが男であることで価値観が若干揺らいでいるのかもしれない、と言ったのはチアロであったはずだが、だからといって同性愛がごく普通の志向だという考えを持つのは浅薄にすぎる。それはあくまでも珍しい嗜好に属し、タリアの外へ行けば非常に少ないものだろう。
 後ろを付いてくるオルヴィに聞こえないように溜息を落とし、ライアンはチェインに入る小路を折れた。通称で煉瓦屋敷と呼ばれている建物の、記憶の通りの影が目に入る。窓辺に何かが動いた気配がして視線を上げると、窓が開いて少年が顔を出した。あれは確かチアロが連れていたショワとかいう子供だ。では、チアロもここにいるだろう。
 煉瓦屋敷の1階の広間の奥に、ライアンのいつもの席はある。幹部たちが集まってくるのも大抵ここで、チェインの様子を聞くのも何らかの命を下すのもここだ。そこへ入っていくと全員が立ち上がって彼を待ち受けているところであった。
「お疲れさまでした」
 簡単な挨拶と共に幹部の一人であるノイエが腰を折る。それに全員が倣うのに簡単に頷き、ライアンは自分の場所である椅子へ腰を下ろした。脇の小卓へ灰切りの小皿がまわされてくるのもいつものことだ。黙って顎をしゃくると幹部を除いた少年たちが広間から出ていくのも符丁通り、ここに至ってようやく自身の巣へ戻ってきた実感が湧いた。
「イシュラとディーは」
 見あたらない幹部の名をあげると、ノイエが軽く頷いた。
「イシュラは自派の内部の始末に出ています。中で少し造反の気配があったようなので、その粛正と燻り出しのために最近はあまりここに来ません。探しにやりましたが、少しかかると思います。ディーはタリア王からの呼び出しで王屋敷へ出向いています。呼びにやりましたから、じき、戻ってくるでしょう」
 ライアンは頷き、煙草の支度をした。僅かに空いた間を支配する、奇妙な沈黙。それが何の為であるのかをライアンはすぐに悟り、自分の真横に立つ女を一瞥した。幹部以外は退室するように命じた仕草にオルヴィが従わないゆえに、ライアンに留守中の様々を告げる時間をずらしているのだ。
 ライアンの視線を受けてオルヴィは軽く一礼し、出て行こうとした。その背をライアンは呼び止める。
「オルヴィ、ここにいろ。出て行かなくていい……これから先もだ」
 一瞬少年たちがさっと気色ばむ。ライアンの言葉は絶対ではあるが、不服や不満をまるで押し殺してしまうにはそれぞれ忍耐が足りない。誰かが異を唱えないかと視線でお互いをつつきあっているのを仕方なく受けたようにチアロが口を開いた。ライアンに向かって対等で飾らない口を利けるのはチアロくらいしかいない為、こんな場面は大抵彼に貧乏くじがあたることになっている。
「でも彼女は自分の派閥を持っていない、後ろ盾がないと本人もきついと思うけど」
 愛人のつてを辿って登ってきた女、ということを口にしないのはチアロの感性の優しさであったかもしれぬ。それは誰でも知っていることであったし、現在はライアンの愛人であることもしかりであった。
 が、ライアンはそれを一蹴する。
「構わない。これは俺の傍におく──いずれ、タリアの方へ連れて行く。チェインの自治には関わらせず、お前たちの派閥に口出しはさせない」
「でも……」
「では、代わりに麻薬の管轄が出来る奴がいるなら名前を言え──カリス」
 不意に視線を向けられた少年は言葉を濁し、やがて頷いた。他の幹部たちがそれに倣う。チアロがやっと荷が下りたというようなほっとした表情になり、この1月半の不在についての報告の口火を切りだした。
 彼の不在の期間中、ほぼチェインは平穏であると総括できそうであった。個々の派閥についての幾つかの細かな抗争はあったようだが、ライアンに収拾を切り出す者がいないならば決着は付いているか見通しがあるのだろう。この場にいないイシュラの自派閥については彼から直接報告を受けなければならないが、他の幹部たちが口にしないと見ると飛び火していない程度の規模と思われた。
 ライアンは煙草を飲みながらそれらをいちいち聞いた。チェインは確かに彼の最も有力な足場であり、チェインの王である故にタリア自治の内部にも食い込んでいる。いずれチェインはチアロに任せてタリアの大人たちの派閥に匹敵するような自分の派閥を築いていくことになるだろう。
 やがて報告が済んで幹部たちが解散すると、オルヴィが彼に向かって深く頭を下げた。今後幹部として取り扱うと宣知したことは、きっと彼女のためになることだった。
「ありがとうございます、ライアン」
 呟く声音には過剰な感情は浮かんでいない。北へ連れて行った時から期待はあっただろうが、それを表面にする女ではなかった。ライアンは軽く頷き、そこに残っているチアロを見た。長く馴染んでいる故に、この少年がなにかもの言いたげにしている空気が分かる。
「……話は裏で聞こう、来い」
 ライアンはそう言って裏廊下へ出た。オルヴィにはチアロが首を振ったらしく、足を止めてライアンにもう一度礼を言うに済ませた。では、これは確実にクインの話だ。オルヴィはクインとひどく折り合いが悪い。折り合いというよりはお互いに絶対に折れないと決めたような頑なさと似たような底意地の悪さで以て、ちくりちくりと相手を攻撃することをやめようとしなかった。
 クインかと思うと途端に気が滅入ったのが分かった。激しく強くライアンを縛ろうとする意志を感じるたびに、何かに気圧されるような苦い忍耐を強いられる。ライアンは長く大きく嘆息した。
「あれのことはお前に任せてあったはずだ、いちいち俺に持ち込むな」
 それが本当にうんざりした声音であったことにライアンは一瞬遅れて気付き、自分で顔をしかめた。チアロはちらりと彼のそんな表情にライアンと苛立った声を出した。裏廊下の壁にもたれてライアンは一度火を切った煙管にもう一度煙草をつめる。それで続きを促されていると悟ったチアロは、話を切り出す為らしい溜息をついた。
「どうやらタリアの外に女が出来たみたいなんだ……その、女客となんだかいい感じみたいでさ……」
 ライアンは舌打ちし、煙草に火を入れた。
「だから俺は女客をつけるのには反対したはずだったな、チアロ」
 自分の声は不機嫌と困惑と、それを感じざるを得ないという怒りが滲んで低く冷たい。だがチアロは彼の言葉にはっきりと首を振り、ライアンと彼を真正面から睨むように見た。この1月と少しの間にまた背が伸びたらしく、もう視線の位置は殆ど変わらない。間近にするチアロの目線は強く、底が苦い色に覆われている。
 ───チアロもまた、怒りを覚えているのだ。それは自分に対してなのだとライアンは視線の強さで悟った。
「……クインはあんたのものだ、ライアン。俺はそれでいいと思う。でも、飼い主ならその責任をとってやれよ。変な同情や気遣いでそのままにしておくより、ちゃんと支配してやらなきゃ、誰が主人かも分からなくなる」
 ライアンは黙って煙を吐く所作で天井を見上げた。はぐらかされたと思ったらしいチアロの声が更に怒りと苛立ちに低くなる。一体いつ頃から変声したのだったか、チアロもからを脱ぎ捨てるような勢いで成長していくのだ、とぼんやり思った。
「俺はあんたのせいだと思ってる。クインが荒れるのもオルヴィに下らないことで噛みつくのも、今度のことも。相手は普通の女だ、本当に普通のね。特別美人でもないし頭が良さそうにも見えないのにクインはあっという間に夢中だよ」
「……忠告は?」
「一度。拒否された。ディーに相談したら、ディーは女の方を始末しろと言った。俺はそれは賛成できないからライアンが戻ったら話をするとディーと約束した」
 経緯の説明にライアンは頷いた。チアロの対処は正しかった。クインのこととなるとどうにもうまい対応を見つけられないのはいつも自分の方なのだ。
 一体あれは何者なのだろう。ライアンに対等を要求し、同じ口で庇護を頼む。かと思えば頼りしなを浮かべ、撥ねつける癇癪を投げ、全く一貫性が無い上に凄まじく求められていることだけは分かってしまうのだから始末に困った。どこへどう分類すればいいのかが分かれば対処も出来るが、クインはその分類に収まらない。範疇があちこちに逸脱しているために分類が出来ぬ。出来ぬ故に、その不可解さに苛立ってしまうのだ。
「ならばもう一度同じ事を言ってやれ……ディーと一緒にな。俺はまだエリオンから戻っていないと言えば、奴がどうするつもりなのかはすぐに結果が出る」
 チアロはこの言葉にすぐに渋い表情を作った。ライアンはふっと年下の少年から視線を逸らす。何をチアロが怒っているのかなど、考えることでさえなかった。
「……俺は奴の飼い主だ、確かにな。だが、それと奴を抱くのと何の関係がある」
「クインはそれしか知らないんだ、他にどうやって甘えていいのか分かんないんだよ」
「それは俺のせいか」
「ライアン、そうじゃないだろ?」 
 チアロは呆れたように声を荒げ、そして溜息になった。くしゃくしゃと亜麻色の髪をかき回している。ライアンは自分を落ち着かせる為に煙管をゆっくりさすり、やがて深く頷いた。
「相手というのはどんな女だ」
「ん……絵を描いてる。結構その世界じゃ有名みたいだね。家族は田舎に妹が一人だけ。盲目で、盲字学校に通ってる。本人は帝都、西の八区」
 ライアンはそうかと頷き、では、と強く吐き捨てるような口調で言った。
「クインが警告を無視した時は、その女の方に接触しろ」
「───殺すの?」
 さらりと口にするのはやはりチアロもチェインの子供であった。命の価値をクインのように重大で尊崇すべきものだというとらえ方をしない。但し、簡単なことのように聞きながらもチアロの頬は厳しい。一般の女に手を出すのは確かにチアロにとっては倦厭すべきことのようだった。
「いや……そうだな、クインに近付いたら妹を目の前で八つ裂きにするとでも言ってやれ。多分、折れる」
「やな言葉」
 チアロはくしゃっと顔を歪めた。賛同してはいないものの、ライアンの示した逃げ道の存在には気付いているようだ。殺せ、と命じたわけではないから事実上チアロへ裁量を与えたに等しい。であればチアロは女を殺すのは最後の手段として他の手を考えるだろう。それがチアロの気の済む方法であるなら好きにするのが良かった。
 ライアンは煙管をくわえなおしながら裏廊下を歩きだした。この廊下の深奥にはずっと以前に死んだリァンの隠し部屋がある。ぼんやりとした時間を過ごす時はその場所が気に入っていた。
 ───まだ、彼の気配が残っているような気持ちになるのは、自分の気のせいなのだろうけど。
 その背をチアロが呼び止め、ライアンは怪訝に振り返った。ライアンがリァンの部屋へ向かう時は邪魔をしないのがチアロのいつもの配慮だったのだ。どうした、と言うとチアロは苦く苦く、微笑んだ。
「ライアン、クインが怖い……?」
 その言葉にライアンは背中を一瞬痙攣させた。ぎくりとする、という言葉が浮かんだのはそれから一瞬後のことである。それを知覚した途端、今度はさあっと血が上ってくるような音がした。
 ───耳の奥に、まろやかな鈴の音がする。何かを憎しみ、八つ裂き、血を啜って命を踏みにじりたいという欲望の音だ。怖いのかという質問にライアンは首を振った。けれど、憎いのだろうかという自問には何も返らない。ただ、鈴の音が弱くなり強くなり、陣営を決するための何かを待っていると言わんばかりの焦れったさを誇示するかのようだ。
 ライアンはもう一度首を振った。恐怖、という意味においては感じたことはなかった───そのはずだった。
 チアロは頷き、ならいいんだ、と軽く流した。またねと言い置いて戻っていくチアロの背にひどく安堵を覚えていることを、ライアンはしばらくの間気付かなかった。

 忠告は二度目はないのだと言われてクインはきっと目線を据えて相手を睨んだ。きつい視線を投げつけられた方は平然とそれを受け流し、クイン、と低く言う。
「ライアンのものだからそう扱え、というなら理解しよう。もし扱いがお前の思うに足りないと言うならライアンに伝えよう。だが、自分だけが好きに出来ると思うのは間違いだ。あまり我が儘が過ぎるとお前自身が処分の対象になることを覚えておけ。詮議になればお前の味方はこいつだけだと心得ろ、いいな」
 ディーは側に立つチアロを目線で示した。チアロの方は最前の忠告の時と同じ、淡く歪んだ表情をしている。それにわけのない怒りを覚えるのは、ディーの乱暴な言葉をチアロが全く制しないことが大きいだろう。つまり、チアロも同意見なのだ。
 これは恫喝であった。紛れもなく圧力とよべる種類のものだ。けれど、ここに至るまでに自分を追いやってきたのはライアンではなかったろうか。自分は何度も言葉やそれ以外のもので彼にやり場のない胸苦しさを訴えようとし、ライアンはそれを冷淡に退けてきた。
 冷ややかな彼の態度に癇癪を起こし、知っている限りの罵詈雑言を投げつけ、一瞬の狂熱が過ぎて残るのは、白けた怒りと感情の煤けた灰だけだった。だから彼に頼るのはやめた……その何がいけない。
 クインはじっと二人を睨み据え、ゆっくり、深く呼吸をした。そうでないといつものように怒りにまかせて奔流のようにわめき散らした挙げ句、自分の悲鳴で一層追い込まれていってしまう。
「……ライアンには、そう何度も言った。奴は、俺とは関わりたくないと、言った。ディーが同じ事を言ってもやっぱり同じさ、──なぁ、チアロ?」
 話を振られた友人は曖昧に笑い、クイン、と穏やかな声を出した。これが何であるかは知っていた。この前にも聞いた、彼をどうにか宥め、落ち着かせようと懐柔する声音だ。そうだと感覚が頷いた瞬間、背がざわりと冷えた。紛れもなく怒りの為だ。
「ライアンには俺からももう一度、強く言うから。彼が帰ってきたらもうやめた方がいい。ほんのちょっと遊ぶつもりだったと思えば俺もディーも、黙っていてやるから」
「黙っていてやる? へぇ、ありがたいね」
 言葉尻を捉えて吐き捨てると、チアロは困ったような溜息になった。ディーをちらりと見やっているのは、助力を求めているのだろう。困惑を隠さないという表情で自分をやわらかに制するチアロのやり方だ──いつもと同じ。
 同じ、と思うと尚更胸の中に荒れる音を聞く。お仕着せの服のように慣れて扱われることはひどく誇りを噛んだ。
「ライアンは俺とは関係ないんだと、奴が自分でそう言った。だから俺が何をしてようと、奴は構わないはずだ」
 クインの言葉に二人は顔を見合わせ、小難しい表情で目線を交錯させた。クインは舌打ちをして、椅子に投げかけてあった白レースの上着を取る。日光に肌を直接晒さないように日中出る時は羽織るものを持つのが習慣で、今まさに外へ行こうとしていた矢先の二人の訪問であったためにそこへ置き放してあったものだ。
 意図を悟ったチアロが彼を遮ろうとする。先日の彼への些細な暴力が咄嗟に浮かんでクインは柔らかにチアロを押し戻し、ごめん、と彼にだけ聞こえるように囁いた。
「もう少し勝手にさせてよ──ライアンが戻ってきたら、もっと上手い方法を考える。お前に迷惑はかけないから」
 チアロは痛ましそうに眉を寄せ、首を振った。何を言いたいかはこれまで散々聞いてきたはずであった。クインはごめん、ともう一度を言って振り返らずに部屋の外へと歩き出した。背中でディーがクインと呼んでいるのが聞こえる。
「いいか、これは忠告じゃない。警告だ。警告の次はもうない、それを覚えておけ」
 クインはちらと振り返り、出て行きざまに隻腕の男へ嘲けるような笑みを浮かべる。それは自分の突出した美貌に被さると、ひどく相手の神経を逆撫でするものになるのは承知していた。
「───うるさいよ、あんた」
 吐き捨て、クインはアパートの部屋を出た。
 ふらりと路地へおりて太陽のきつさに目を細め、日陰を選んで歩き出す。外へ行こうとしていたのは飲料水が少なくなりかけていたからだが、最初から彼女のところへ向かうのだと二人とも思いこんでいたようで、それも面白くない。
 クインは熱線にじりつく石畳の白茶の眩しさに、目を細める。ディーにむかってうるさいと言い、チアロには迷惑をかけないと口にしながら次第次第に最後の線が忍び寄ってくるのを感じないではいられなかった。ライアンが帰ってくる。そうしたらエミルとは終わりだ。
 チアロやディーに散々繰り返されるまでもなく、ライアンの所有物だから尊重しろという主張を勝ち得た時から、それを自ら覆してはならないことは知っている。けれど、その冷静な囁きとは全く違う場所からそんなのは嫌だと叫ぶ声が聞こえて、クインはついそちらにふらふらと引き寄せられてしまう。
 声は強く激しく主張する。嫌だ。嫌だ。やっと見つけたのに。やっと会えたのに。
 優しい人に優しくしてもらえて嬉しいのに。それが今の生活の中にたった一つの温かな色をしたものなのに。
 何故。
 何故。
 何故、何故、何故それを捨てなくてはいけない、──と。
 警告、とディーは言った。忠告と言ったチアロがあくまで善意であるならば、警告と口にしたディーはその次に来るものを既に考え始めている。処分という言い方をしていたが意味するところはなぶり殺しだ。ライアンもチェインの自治を乱した子供に対しては容赦しない、それと同じことをするという示唆であった。
 エミル、とクインは呟いた。彼女の与えてくれる許容と抱擁のなだらかな海に身を委ねていたいという欲求は強く、他の何よりも第一の望みであった。甘えであるかもしれないし、依存であるかもしれない。
 けれど、彼女の優しく温かな視線と手が導き出す絵の中に、クインは満たされて幸福な顔の自分を見つけてしまった。知ってしまえばもう戻れない。それを手放したくない。彼女と共にいることが出来れば、いつか彼女の絵の中にいるような表情が出来るような気がするのだ。
 けれどこのまま進んでいけば破滅するとチアロは忠告し、ディーは更に警告という言い方で威嚇に変えた。クインが拒否し続ければエミルにも危害を加えるとライアンは言うかもしれない。否、それは突然現実になって自分の前に突きつけられるかもしれないのだ。
 クインは僅かに首裏が冷えた気がして身震いした。恐怖と呼ぶには薄い冷気であったが、その可能性が低いと言いきるだけの材料は何もない。むしろ、短絡にエミリアの命を奪って決着とすることは十分に考え得る未来であった。
 失いたくない。けれど今のままではいけない。その上手い均衡点を見つけられない苛立ちにクインは秀麗な面差しをぎりっと歪めた。どこかで蝉が鳴いているのまでが気に障る。
 クインは貯まってきた鬱を吐き出す長い溜息になった。エミリアとのことは現実、まさしく袋小路へ向かって走り出している。ライアンはきっと許さないだろう。怒り狂うに決まっている。
 けれど、それは無視されるより遙かにましだ。奴が俺を引き裂いても俺はきっとそれを嗤ってやろうとクインはその予行の為に唇を吊り上げる。
 行き場のなかった苛立ちや不透明な鬱屈をすくい上げてくれたのはエミリアであって、ライアンではなかった。何度もライアンには救済を求めたはずなのに、それを一顧だにしなかった。飼い主だと名乗ったくせに、事実を放り投げている。
 それが許せない。憎い。彼への怒りと当てつけの為に何でも出来る気がする。つまりそれに踏み出すきっかけと勢いの問題なのだ。
 憎い。ただ───憎い。チアロに向けるものが淡い不満でオルヴィやディーに感じるのが嫌悪だとしたら、ライアンへのそれは憎悪と呼んでも良かった。強い思い入れがあるほど憎しみも増すし、苛立ちも募るのだ。
 彼への意趣返し。エミリアの安全と自分の未来。全てを平等で公平な単位には振り分けられない。一つ一つが全く別のものであると同時に、根深いところで堅牢に繋がっている。通算が出来たところで感情の振り幅の予測など出来るはずもなかった。
 クインが軽い舌打ちをした瞬間、あら、という軽い声がした。クインははっと視線を上げる。じっと考え事をしながら足早に歩いているうち、どうやら自分は彼女のアパートまで来ていたらしい。
「エミル……」
 呻くような声音で呟き、クインは唇を引き結んだ。エミリアの死のことばかり考えていたせいなのか、ぱあっと胸詰まるものが駆け上がってきて自分でも上手く制御できない。いけない、と面伏せた先の睫毛をぱらぱらと涙が伝い、夏の乾いた石畳に水滴の染みを作った。
「どうしたの? ……泣かなくていいのよ……」
 何の見返りも打算もなく降り注ぐのは、優しい声、そして温もりの気配。そっと彼女の指先が頬に触れて、クインは目を閉じる。無条件に自分を受け入れてくれる人の肌に涙が止まらない。気力が抜けていく証左のように、涙だけが溢れてくる。
 クインの肩をそっとエミリアが抱いて、慰撫のためにゆっくりさする。うん、と意味なくクインは頷き、頷きながら彼女を見、そしてやっと足下の旅行鞄に気付いた。ここへ歩いてきたことがそもそも無意識の作為であったから忘却していたが、彼女は今日から南行であった。
「ごめ……いかない……と、船……」
 クインは整わない呼吸のせいで途切れがちな言葉を呟き、彼女の旅行鞄を見た。鞄には絵の具の染みがつき、中には入らなかったらしい大きめの画帳が無理矢理くくりつけてある。 
 それが目に入った瞬間に、一つの夢が胸底から転がるように目の前に出てきた気がした。
 海に行きたい。広くて自由な海、遠く遙か南の海へ。いつか母と渡った美しい碧緑の彩の海、風駆け上がる坂が繊細レースのように町中をめぐる街、聖都の名をいただく沿海の海泡ミシュア。
 あの海へエミリアと行けたら、それはどんなに美しく凝固するだろうか。
 ライアンのことも、彼の布く掟のことも、別離、恫喝、反発、混乱、そんなもの、どうでもいい。考えたくない───せめて一瞬、ほんの僅かな時間でも、綺羅めかしくて温かな夢を見たい。
 その何がいけない。考えたくない。ただひたすら、彼女と一緒にいる時間が欲しい。逃避なのだと分かっていても、その淡く甘い夢は魅惑的だった。
「俺も……行く」
 クインは呟いた。エミリアは首を傾げ、いいの?と聞いた。それが自分の仕事や学校や、その他のものを指していたのは分かっていた気もしたが、この瞬間に、それはライアンへの密かな背反を問うように聞こえた。
「いいんだ」
 クインは僅かに動揺した自分を叱りとばすように、しっかりとした声で言った。
「いいんだ、エミル……いいよ、全部いい。一緒に行く……駄目?」
 エミリアは明るい笑みになって首を振った。クインは頷き、エミリアの鞄を取った。着替えも何も持っていなかったが、耳にはいつかの真珠がはまったままだったから不安はなかった。いざとなればどうにかなるという楽観もある。
 それに多分、これが最後の機会になるはずだった。ライアンがもうすぐタリアへ戻るだろうことは、チアロやディーのせわしない態度や目線の動きで分かる。はやく自分を納得させて事態を収束させたい目つきだった。
 ならば一層、今を離れてはいけない。時限は近く、その限界線を越えた先には暗い未来しかないのが分かっている。母のことがある故に、結局自分はライアンのものだと誓う羽目になるだろう。
 だから今、尚更今、彼女と離れたくない。どこからが恋で何が依存なのかも知りたくない。彼女といることで得られる安堵も安息も失いたくない。彼女といれば自分が少しはましになれるような気が、彼女がふざけて描いた翼をいつか本当に持てるような、そんな気がする。
 もっとエミリアに近くなりたい、側にいて肌の温度の分かるところで微笑み合って、心の感触が浸透するほど近付きたい。
 これは恋なのだろうか。恋というのは存外分かっているようで分からない。けれどこのもの狂おしいような希求と切ない傾倒は何か劇的なものの前触れだと根拠なく信じている。だから告げなくてはいけないことはただ一つきりだ。クインは彼女の鞄を持って歩きながら、小さく言った。
「好きだ」
 エミリアはじっとクインを見上げ、それから少し掠れた声をだした。
「私、あなたより3つも年上よ」
「関係ない」
「絵のことで利用してるだけかもしれないのに?」
「そんなこと、関係ない、全然」
 重ねて言葉を返されて、クインはやや不機嫌な声音になった。彼女の方はじっと俯き加減に歩き続けていたが、やがてそっとクインの名を呼んだ。
「私、きっとあなたを好きになるわ──気が狂いそうになるくらい、今、あなたを描きたいと思ってる……」
 エミリアの言葉にクインは頷き、鞄を持ち替えた。軽くあたった肘の下がするりと寄り合い、やがて指を絡めて掌が重なる。
 二人は手を繋いだまま、ゆっくりと南と自由へ歩き続けた。クインはただ幸福だった。あれだけ罵りあい言葉を突き刺しながら一つも理解できなかったライアンとのことが急速に薄れ、遠くなっていく。
 それはきっと、良いことに違いなかった。何よりも自分のために悪いことだとは思えなかった。
 ユーエリ河に接岸する南下船への連絡馬車へ二人は乗り込んだ。時間は差し迫っていたから馬車はすぐに出立する。それが大路を折れて見えなくなってから、チアロはゆっくりと街角から歩み出た。停車場の行き先をみて頷き、流しの馬車を止める為に手を振って合図する。
 乗り込む直前、やはり同行していたショワを振り返り、チアロは言った。
「行く先はどうやらミシュアだ、ライアンにそう伝えろ。3日後の昼過ぎに船がミシュアに着くはずだから、クインは夕方までに奴の部屋へ戻す、と」
 ショワが頷いて駆け去っていく。それを見送ってチアロは御者にたっぷりの金を押しつけ、目的地と急用を告げて馬車の座席に身をうずめた。
 馬鹿だな、と低く呟いた声は誰にも届かない。それはむしろ、クインに何も有効なことを出来なかった自分に向けた声であるかもしれないとチアロはふと思い、こみ上がってきた苦いものに頬を歪めた。


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