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 ゆっくりと外周を回っていくと、さびくれた門構えが見えた。チアロは足を止めて彼の記憶の中の過去と照らし合わせ、やがて頷く。確かここで良かったはずだ。もう……4年ほど前のことであったが、おぼろながら所在地を覚えていた自分にほっと安堵する。
 鉄の飾り格子になった門扉を軽く押して中へはいると、庭にいた少年たちが一斉に稽古をやめてチアロを見、そして彼の背後の子供を見た。……身売りだと思われているのだろうか、視線が強い。チアロは苦笑し、彼に付いてきた子供の額をつついた。
「ショワ、外で待ってろ」
 子供はやや不満げに唇を尖らせるがチアロの言葉に逆らいはしない。チアロがライアンの子飼いと呼ばれているように、ショワは彼の一番近しい部下であり、弟のような存在でもあった。
 ショワが門扉の方へ戻っていくのを見据えてから、チアロは視線を前へ戻した。ぴしりという鞭が空気を割いて石畳を叩く音がしたのだ。その音に弾かれたように子供たちがまた稽古を再開した。殺陣、軽業、そして芝居の台詞と立ち回り。子供を監督する鞭をうち下ろした老人に向かってチアロは軽く会釈し、その側へ歩いた。
「何か用かね。うちは今は新しい子供は要らないよ」
 老人は椅子に腰を下ろしたまま、ぼそぼそと言った。チアロは首を振った。
「少し調べものをしてるんだ……もう10年くらい前に、この一座にライアンって子供がいたと思うんだけど」
「さて、年を取ると耄碌していかん」
 微かに空気の抜けた声で笑うと老人は再び石の床に鞭を叩き、何人かの名前を続けて叫んだ。
「何度教えたらいいんだ、この馬鹿どもが!」
 名前を呼ばれた子供たちが微かに身を硬くする。チアロはそれに首をすくめた。ここがライアンの育った場所だ。少なくとも6才を過ぎた頃から12、3まで彼はここで活劇芝居の役者をしていた──この子供たちと同じように些細な失敗に怒鳴られ、鞭で打たれながら。
 チアロはさっと彼らの目に走った怯えに気付き、お願いだから、となだらかな声を出した。言いながら内懐から10ジル紙幣を数枚掴みだし、老人の手に押しつける。それをさっと袖の中にしまい込み、老人はチアロをややすがめになりながら見上げた。
 誰を捜してるって、と聞き直されて、ライアンの名とこの芸団で活劇の殺陣役者をしていたことを告げる。老人はチアロの説明に何度か頷きながらぼつぼつと返答した。
 ───ライアンだってね? ……イダルガーン役の活劇役者か……ああ、そういやそんなのもいた気がするな……まぁ、お待ち。帳簿を探してあげようね。
 そうして老人が席を立ち、奥にある雑居用らしい建物へ消えていく。子供たちの殺陣の気迫が途端にゆるまって、チアロははっきりした苦笑になった。鬼の見ていない間にはやはり気が楽になるのはどこの世界も共通らしい。
 芝居の稽古を何となく視界に入れながら、チアロは長い溜息をつく。ライアンの履歴は大体を本人から、何かの折りに断片的に聞いたものをつなぎ合わせて理解している。彼はこの一座から老人の稚児に売られ、2年近くを慰み者に甘んじた後逃亡し、チェインに転がり込んできたはずだ。
 この劇団だと言うことには間違いがない。……何故なら4年前にライアン自身がここへ来たのにチアロも同行したのだから。あの時、自分もショワと同じように外へ出されてしまった。ライアンに付いている自分を、子供たちがうろんな目つきで見たのだろう。そんなことが今更分かる。
 ライアンが何をしに来たのか、その時には教えて貰えなかった。けれど、今は知っている──多分、正確に察している。今チアロがここへ訪ねてきたのと同じ理由によって、ライアンは4年前にここへ来たのだ。
 お願いよ、という声が遠い場所から蘇ってくる。チアロは吐息を長く落とした。彼女のことは特別だ。気位が高くて気質が脆く、鼻っ柱が強いくせに折れてしまいそうなほど弱い。彼女のことを思うたびに新しい息吹のようなものが胸の底に湧く。一目見た瞬間から何かに撲たれたように彼女のことばかりだ。
 恋だの愛だのという小難しい理屈は要らない。ただまっすぐに、彼女だけに視線も思いも向かっている──好き、なのだ。
(お願いよ、ねっ、いいでしょ? あたしのこと好きなんでしょ?)
 利用されているのだということが分からないほど馬鹿でもないが、彼女がそう思いたいならそれでも良かった。彼女のことに関する限り、馬鹿だと言われても構わない。
 要するに、何だっていいのだ。彼女が自分に頼ったり甘えたりしてくれれば、それがどんなにあざとい仕打ちであっても、誰かの身代わりであっても、八つ当たりであったとしても嬉しい。それが恋だ。少なくとも、チアロにとっては。
 シアナ、と彼女の名を呟くとそれだけで嬉しくなってくるのだから本当に馬鹿なのかも知れない。この名前は遊女としての源氏名だから、本名は別にある。それを教えて貰えるのは特別の印で、この調べものが終われば与えて貰えるはずであった。
(兄がね、いるの。会ったことはないんだけど、母がそう言ってたから……兄を捜して、お願い。年は私より7才上で、名前は……)
 シアナはややためらうように言葉を濁し、そして名前はライアンよ、と付け加えた。シアナの7才年長というのなら、それはチアロの主人であるライアンと同年齢であったはずだった。
 ライアン、と聞き返すとシアナは深く頷いてお願いよ、と幾分重い声になった。
(そう。つまりね、ライアンが私の兄なのかどうか、調べて欲しいの。私の母の名前はシルナ、南国沿海州の出身で言葉が片言だったから、母のことを聞いて貰えれば分かるかも知れないわ──お願いよ、ねぇ、こんなこと頼めるのチアロくらいしかいないの)
 最後に追加された言葉が目的を達しようとするあまりの無意識の媚びであったせいでチアロは反射的に頷いてしまったが、落ち着いてよく考えてみればこれも妙な話であった。
 ライアンはずっと彼女に通い続けている。シアナもライアンに夢中だ。けれど彼女は自分たちの間に血縁があるかどうかが気にかかるらしい。……ライアンとの絆を確かめようとしているのだろうか、それとも兄妹であったら関係が劇的に変化するのか。
 妹である方がチアロには都合が良さそうだった。気になる、というならば血縁が証明できればシアナがライアンを諦めるという選択が浮上する。シアナはそれを迷っているのではないだろうか。
 だがライアンはこの問いの答えを知っているはずだ。4年前に彼も同じ疑問を抱いてここへ、自らの母親の足跡を求めて立ち寄っている……恐らく。そしてそのまま関係を解消することなく続けているのなら、シアナは彼の妹ではない。概測をどことなく掴みながらも確信には至らないため、この芸団まで足を向けているのだが、回答は知っている気も胸のどこかにあった。
 やがて戻ってきた老人が、子供たちの様子をさっと一瞥して帳簿をめくり始める。古びた紙のカビ臭さが僅かに漂ってくる程度の時間が過ぎて、老人の指先が一カ所でとまった。
「この子だな……帝歴1978年9月、ライアン、6才」
 そうですね、と頷いたチアロにだが老人は自分で首を振った。違う違う、と呟き、その指がやや遅れた記録を辿る。この子だな、と指された帳簿には名前がなかった。チアロが訝しく老人を見ると、老人の方はひょいという仕草で肩をすくめた。このライアンって子はこっちの子を買う3日くらい前に死んだんだよと薄く笑い、付け加える。
「名前は母親が売りに来た時に聞いたはずだったが、忘れちまったんでね。だからこのライアンって子の名前をそのままつけた……」
 チアロは僅かに眉をひそめる。この老人の適当さ加減はここにいる子供たちの個々への関心など無いことの証明であった。金のない家ほど子供が多い。仕事を手伝わせたり、最初から無戸籍にしておいて売り払ったり、子供など物と同じなのだ。少なくともこの老人や、老人に子供を売った親にとっては。
 これに多少の不快を感じるのは、チアロにとっての父親が、決して理不尽で憎むべき相手でなかったことが幸いしているのだろう。チアロは気分を変えるためにそう、と務めて明るい声を出した。
「ねえ、じゃあこっちの子がイダルガーン役をやってたライアンだよね? 12か3でどっかの変態に稚児に売られた……」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない、養子だよ、養子」
 チアロは今度は苦笑して分かったよ、と老人の詭弁に合わせた。実際のことはライアンの少ない言葉数の中から拾い上げた嫌悪感で察しているが、ここで実体のことを論議しても始まらないだろう。老人は養子だともう一度念を押し、それから頷いた。最前のチアロの言葉への肯定であるらしい。ではこの名無き子供がチアロの主人であるライアンであろう。
「じゃ、この子の母親なんだけどさ……異国人って話、ない?」
 ここでシアナの記憶と合致するならば、もう少し詳しく調べても良かった。これが噛み合わなければ他人だと断定も出来る。老人は怪訝に眉をひくつかせ、首を振った。
「いいや、異国人から子供を買ったことなど一度もないよ。言葉がおかしいと芝居に使えないからな」
 一瞬置いてチアロは頷いた。老人の言い分には道理があった。軽業なども見せてはいるが、この芸団の一番の出し物はやはり芝居だ。台詞がおかしいのは具合が悪いのだろう。
 間違いがないかを確認してチアロは10ジル札を老人に渡し、芸団を出た。門外で退屈そうにしていたショワが駆け寄ってくる。
「もういいの、チアロ? 何の用だった?」
「いや、お前には関係ないことだよ」
 軽く子供の柔らかい髪を撫でてチアロは多少巻き起こってきた感慨のために空を見上げた。
 ライアンとシアナは兄妹ではなかった。そうではないかと推測していたものの、呆気ないほど簡単に回答は与えられた。……けれど、これをシアナに伝えたら……どうだろう。
 彼女は今でもライアンに夢中だ。それに嫉妬さえ興らないのは自分もライアンを好きで、深く尊崇しているからでもあろう。彼の良くない所も沢山知っているが、誉めろと言われたら幾らでも出来る自信がある。
 けれど、嫉妬しないことと希望を持たないことは違う。いつの日にか、シアナがライアンに向けるような熱っぽく潤んだような瞳の中に自分を見たい。彼女のためになら、文字通り何でも出来るとも思う。
 そうやってかき口説いても何度も言葉を重ねても、身体さえ添わせていたって彼女の美しい翡翠色の目はいつでもチアロを通り越し、ライアンを見ている。兄妹でないと教えてしまったら、その目は二度とそこから動かないかもしれない……
 チアロは頬を僅かに苦笑に歪め、薄い色の髪をくしゃくしゃかき回した。教えてしまえばきっと一生彼女の都合のいい友人程度のものから脱却することが出来ない。けれど黙っているのは彼女が多少なりとも自分に向けてくれた信頼を裏切るのと同じ意味だ。
 告げるべきなのかどうかを考えながら、それでも生来の多弁な性質のままショワと雑談に笑い合いながらチアロはタリアの境界門を過ぎた。黄昏近い境界門の付近はこれからこの歓楽街で一夜を楽しもうという魂胆の人々によってごったがえしている。
 どうするかは彼女の顔を見てから考えよう、とチアロはショワに根城へ戻っているように言いかけ、ふと視線を彷徨わせた。既視感が視界の端によぎったのだ。
 チアロは反射的に人波の気配に自分を埋めた。これは習性と言うべきだった。視線だけでせわしなく気配の方向をまさぐっていると、細い身体が目に入った。
 ───今日は女装か。
 チアロはタリアに流入してくる流れに逆らって外へ行く、すらりとした立ち姿を見つめた。髪は適当に編んで後ろでまとめ、夏向きの淡い色のワンピースに編革のサンダルを形良い足に引っかけ、歩いていく。すれ違う人々が驚愕と賛嘆と、畏怖にも似た目つきで振り返るのが判で押したように同じで苦笑を誘う。華やかで匂い立つように美しい面差しを掘り起こし、チアロは眩しいような圧迫で目を細めた。
 初めて会った時の驚愕が、彼を見て目を瞠る人々の仕草に呼び戻ってくる。
「仕事っすかね」
 ショワの言葉に、チアロは我に返った。今日は仕事はなかったはずだ。本人が少し休みが欲しいと言っていたし、先月から看護学校にも通い始めているからそれに配慮する意味でチアロは頷いている。
 学校か、と思いかけてチアロは首を振った。授業は週に2度だが、仕事と重ねたくないという彼の言葉を受け入れ、毎週彼と予定を連絡し合っている。今日は一日何もない日だ。仕事は入れた覚えがないし、授業は確か、明日でなかったろうか。……それに、彼は学校には確か男のままの服装で通っていたはずであった。
「ショワ、奴を尾行しろ。とりあえず、どこへ行ったのかだけ分かればいい」
 さっと言いつけ、持っていた20ジル札と小銭を子供に押しつける。ショワはちらっと過ぎていく背中を見つめ、でも、と言いかけた。それを遮り、チアロは大丈夫だと素早く言う。
「奴はこういう事には素人だ、お前が奴をじろじろ眺め回さない限り、気付かない」
 尾行には通常二人以上があたる。ずっと同じ人間が視界にいれば気が付くことがあるし、連絡をしやすいという利点もあって、普通はそうするのだ。
 だが、それはないとチアロは即断した。ショワに言った通り、クインはこうしたことには疎く、反応が鈍い。それは仕方がないことだろう。ライアンは彼を仲間に引き込む気がなく、チアロも同じだ。
 仲間として迎えるのなら教えていくべきいくつかのことを、だから彼には伝えていない……例えば、尾行のまきかただとか。つまりショワ一人でも十分だ。チアロは既に身長が平均よりも抜けていて、目立つ部類に入るし、顔見知りは適任ではないだろう。
 雑踏の中からどうやらクインは抜けたらしい。人の吐息や視線の方向がばらけて戻ったことですぐに分かった。チアロも目立つがクインはもっと人目を引く。一瞬見失ったとしても、人の気配の方向で探し出せるほどに。
 チアロは肩をすくめてチェインへ戻り、彼の根城となっている煉瓦屋敷の地下から水路に降りた。そこを経由してクインの住処であるアパートへ回る。合い鍵は持っているのだ。
 書斎の机近くには、登校時に使っている鞄が置かれていた。相変わらず、適当に積み上げた本と訳の分からない書き付けが散乱している汚い部屋だ。
 机の上の意味のない単語の書取、専門用語の辞書だろうか分厚い本にびっしり挟まれた紙片。それらをそっと動かして、チアロは引き出しを開けた。こちらも整理整頓とは無縁に文具が散らばっている。
 引き出しをゆっくり滑らせて、中の物の位置をずらさないように気を使いながら手を奥へ突っ込むと、やはり何かが指先に触れた。隠し物は引き出しの奥、というのは本当に常套だ。
 紙片のような物を指でつまんで引き出すと、それは一枚のカードだった。幻想的な青い色は海なのだろうか、そこに微笑む天使と群れ泳ぐ魚を配した美しい絵が印刷されている。
 裏を返すと地図と日付があった。父親から最低限の読み書きは教えられていたせいで、チアロはごく簡単な構文は理解できる。いくつかの単語は読めないが、絵の展覧会の案内状だろうということは察しが付いた。
 絵か、とチアロは少し眉を寄せる。……確かクインの最近の仕事の中に、絵を描くとかいう若い女がいたはずだ。オルヴィから仔細の申し送りを受けた時に、そんなことを聞いた気がする。
 それとすぐに結びつけて考えるのは性急すぎるとは思うけれど。
 チアロは溜息になった。カードを元の場所に戻し、違和感のないように慎重に引き出しを閉めて居間へ戻る。一応の用心のために切っておいた明かりをつけて、ゆるく首を傾げながら長椅子に身を預けた。
 ……クインの様子は確かにこの半月ほどおかしい。明らかに浮かれている。それにはとうに気付いていたが、元来気性の上下の激しい子供のことであるから悪い時があればよい時もあるのだと考えてきた。
 ……だが、チアロに何も言わずタリアの外へ出かけていくとなると、何かの秘密を持っていると思った方がいいだろう。
 折りもおり、ライアンが居ない。彼はオルヴィを連れてシタルキアの北東、エリオン王国に足を向けており、あと1ヶ月は戻ってこないだろう。タリアを離れる直前にクインとまたひどくやりあったらしく、そんな話をライアンからは聞いた。留守中は頼むと言われて頷いた記憶がある。
 まずいよな、とチアロは額に落ちる髪をかき上げるついでにくしゃりとかき回した。ひどく明るくて楽しげなクインの表情には確かに安堵も覚えるのだが、地に足の着いていない浮かれ方は……恋だろうか。チアロは顔を一瞬歪め、自分の表情が渋いことに遅れて気付いた。それは彼のためにいいことだ、とは思う。けれど彼のために素直に喜んでやることは出来ない。
 クインはライアンのもので、だから許容されていることが沢山ある。ライアンの掌握する子供たちの幹部と呼ばれているのは現在チアロを含めて6人だが、クインに多少なりとも好意を抱いているのはチアロくらいのものだ。
 ディーもノイエもカインも彼を疎ましく思っているし、残る二人、イシュラやカリスに至ってはライアンが彼を所有することにさえ不満げな色を漂わせている。無論チェインの王たるライアンに面と向かって異を唱えはしないが、何か不祥事があった時にはこぞって処分を吠えるだろう。
 6幹部に更に一人増えるという噂もちらほらあるが、そうなれば事態は更に悪くなるのは明白だ。追加が囁かれているのはオルヴィという女……クインの目下の天敵。
 チアロはちょんと肩をすくめた。ショワの報告を待たなくてはいけないしこれが杞憂であると思いたいが、常に事態の想定はしておくべきだった。
 恋人が出来たなら、それはクインにとってはきっと良いことのはずだった。これまでのように思いを預けようとライアンに寄りかかっては拒絶され、その結果荒れるだけ荒れているよりは遙かにましだ。
 けれどそれを喜べない。ライアンはなんて言うだろうとチアロは溜息になった。彼は気に入らないのに決まっているからだ。それは所有欲というよりも体面の問題で、チェイン王としての顔を潰されることがあれば、タリア王アルードへの示しも具合が悪い。そもそもクインのことはアルードには隠したいはずだ。いずれ、クインは何事かの切り札にも使えるとライアンは考えている。
 何が起きているのかがはっきりするまでは彼の様子を逐一観察するしかないが、もし外の世界に恋人が出来たなら……
 チアロは難しい吐息を落とした。その時は彼に、忠告をしなくてはならない。ライアンのいない時機であるのは却って好機だ、忠告を素直に聞いてくれたら自分の胸の中にだけ、収めておけばいいのだし。
 そんな言い訳を胸でいじりながら、チアロは嫌な懸念が自分から一向に離れていかないことに舌打ちをした。
 ぼんやりした光景には色がなかった。薄い煙幕のような白黒の世界に、ぼやけた焦点の格子木が見えている。
 ああ、これは夢だ。それを知覚した途端、ぬるく体が溶けていきそうな感覚が興った。視点が低い。まだ幼い自分の見ていた、遠く古い目線の焼き直し。格子の向こう側にもつれあった男女が見える。のたうつように身をよじり、意味のないあやふやな言葉を叫んでいる女と、それを殆ど殺すかのような勢いで攻め立てている男、右肩の傷。
 視点はゆっくりと格子の中へ分け入って男の右肩を視線で撫で、女の傍にすとんと座り込んだようだった。女が自分の手を握る。一瞬ぎくりとするほど熱い。
(ねぇ、見てて、見ていて、ねぇ、可愛い子ねぇ、どこから来たの?)
 浮かされたように口走る女に視線が上下する。自分は頷いたらしい。
 どこから来たのという問いに答えるように、子供特有のふっくらした手が上がり、女の腹を指した。自分の唇が動いて何かを言ったようだった。それの何が良かったのか、女がけたたましく笑う。それに合わせて男が笑っている。
 笑う。笑う。嘲り、蔑み、侮る声が幾重にも、ぐるぐる、めまぐるしく、ひたすらに、笑う笑う笑う笑う──……
 これは夢だ。強い声が胸の奥から囁いている。それに導かれるように決然と目を開けると、そこは柔らかな光の中だった。窓から淡い光線が差し込んで、白いシーツの波間に優しい灰色の影を作っている。
 それを目にした瞬間、これが現実だと身体が理解したようだった。すうっと肩から力が抜けて、自分がひどく身を強張らせていたことがやっと分かる。
 長い溜息を肺から押し出していると、隣にいた男が身じろぎした。起きたかと言われ、目をしばたいて素っ気なく頷き返すと男は腕を寝台傍の小卓に伸ばした。煙草だろう。何度かこの男と共に朝を迎えたことがあるから、寝起きの最初が一服から始まることは知っていた。
 身を起こしてその通りに煙草を始めるライアンの仕草はもの慣れていて、そもそもの印象の通り、素っ気ない。けれど、それは自分も同じだ。何もかもは過去へ置いてきた。今まで寝てきた全ての男たちも自分に同じものを見て、苦笑したではないか。
 終わればすぐに醒める女。痕跡も空気も全てを呆気なく消してしまう奴──つまり、なつかない犬。
 そんな喩えを思い出して、オルヴィはそっと視線を伏せた。考え事をする時は、ことさら無表情になる。それが子供の頃からの韜晦の手段であり、母とその周辺の男たちへの目眩ましであった。
 オルヴィは薄い毛布の下で身体の位置を変える。枕に肩まで押しつけるようにして、まだまどろみに半分ほど漂っている気分のままに目を閉じた。眠るかと聞かれて目を閉じたままで首を振り、少し、と呟いた。ライアンの返答はない。ないが、それは了承の沈黙であるように思われた。
 母の夢を見るのは久しぶりだとオルヴィはまだ脳裏に鮮明に残るそれを、じっと見つめる。古ぼけた格子棚は母の店、シタルキア南部の都市メーリンの、安い妓楼の立ち並ぶ地域の更に隅にオルヴィは8才まで育った。特段美少女ということでもなかったため客には適当に邪険にされながら成長したが、その生活の終わりは母の人生の終わりでもあった。
 だらしのない男に惚れ、男の言うままに麻薬に手を出し、最期の血の一滴までも啜り尽くされて死んだ母。最後にはオルヴィのことさえ分からなかった。中毒のせいで濁った白目でぎょろりと娘を見て、どこから来たのと同じ事を繰り返し聞いた。
 あの草をやる奴は馬鹿だ。馬鹿だから踏み込むのか、あの草の見せる胸の悪くなるような幻影が馬鹿にするのかは知らないが、あんなものに溺れるやつは生きていく価値なんかありはしない。死ねばいい。母のように惨めに。
 僅かに眉根を寄せて深い溜息をつく。母親の死んだ後は債権者によってタリアの非組合の娼窟へ送られ、8才の夜から客を取った。その娼窟には当時の自分よりも更に幼い少女もいたから、そうした好みの客専門だったのだろう。
 12の時にその娼窟の主人も借財のせいで逃げ、すぐに掴まり、自分たちの見ている前でなぶり殺しにされた。それまで奇妙にねっとりした声音で自分たちを扱っていた男が絶叫と苦痛にのたうち、緩慢に死んでいくのをじっと眺めながら、オルヴィはひたすら口の中で同じ事を呟いていた。
 ──私は石だ。石になろう。何も思わず感じない石だ。石になろう、石になろう……
 転売された先の娼窟でも、オルヴィはあまり売れない女だった。笑わない、愛想も言わない、もの暗い表情の女はやはり敬遠されるのだった。とびきり美しい面立ちであれば違ったろうが、生憎そんなものは持ち合わせていない。
 あまりに売上が悪くてその娼窟からたたき出されたのが17の時、そのままオルヴィは迷うことなくチェインに足を踏み入れた。タリアの少年王のことは時折聞いて知っていたし、娼窟で知った数人の顔なじみもいる。あまり不安はなかった。チェインに女は珍しく、そのせいで数度は手酷い目にもあったが、それはオルヴィの中に決定的な傷を残さなかった。
 ──私は石だ。何も感じない石。
 それが全てを傍観するための呪文だった。それさえ胸の中で呟いていれば、やがて災厄は遠くなった。いくつかの傷、些細な諍い、保険のために寝てきた少年たち。そんなあやふやなつての最後に立っていたのがチェインの若い王だった。王という古めかしい言葉の持つ重い澱みを確かに感じた相手。
 お前と似ているだろうと皮肉を言って笑っていたのはどの幹部だったろうか。あるいは全員だったかも知れない。オルヴィがライアンの愛人であることは周知のことであり、それ故に一段蔑まれていることも知っている。幹部たちの中で一番馴染みがあるのはチアロだが、彼にしたところで腹の中でどう思っているか知れたものではないだろう。
 無論ライアンと寝たのは単なる保険だ。自分の足場を僅かにでも確保するためのことで、それ以上ではなかった──はずなのに。
 毛布の中でオルヴィは身じろぎし、右耳の貴石に触れた。一体何が起こってライアンがこれを自分に寄越したのか全く見当が付かない。宝石には詳しくないが、色の濃い石は高いと聞いているし、タリア王からの下賜品だとライアンが言っていたはずだ。安い品ではあるまい。
 そのことを思う時、オルヴィはひどくせわしない気持ちになる。土台ライアンから何かの形あるものを貰う、ということ自体が違和感なのだ。彼は単に自分を便利な道具のように扱っていたはずだった。少なくとも、最初の頃はそうだった。
 それがどうしてこんな宝石になって戻ってくるのか、それが何故なのか、どう判断していいのか分からない。有り体に言うならば、面食らっている。一体ライアンは自分をなんだと思っているのだろう?
 そこまできてオルヴィは自問の馬鹿馬鹿しさにさっと頬を歪めた。ライアンにとって一番大切な女は妓楼の中にいるはずだった。彼の視線をもう長く独占しているというその遊女の名前も顔もオルヴィは知らない。妓楼での宴席には正直なところ自分の居場所があるとは思えなかったし、ライアンも自分に来いとは言わなかった。
 知らなくていい。オルヴィはそっと頷く。多分、知らない方がよいことなのだ、これは。この奇妙な怖れがどこから来るのかも、考えるな。
 ───私は石だ。何も感じない、何も思わない、ただの石くれ。
 胸の中に呟き続けていると、かつかつという硬い音がした。煙管の灰切りだろう。気配は再び火種石をいじっているからもう一服というところか。
 既に神経は覚醒へ向かっていて、目を閉じていても眠りに落ちることはなさそうだった。オルヴィはゆっくり体を起こし、ばらばらに落ちてきた髪をかき上げる。横目でちらりとライアンを見ると、彼の方はゆるくくわえた煙管の先に火種を移すところだった。
 面伏せた瞼のくっきりした外殻線、煙管を撫でる整った指先。あの手はいつでもひんやりと冷たい。ライアンはいつもと変わらぬ無表情のまま、煙草を繰り返している。深い呼吸にずっしりと重い存在感があった。他人と同じ事をしていてさえ、身から漂い始める重い威圧がある。
 これは確かに美しい男であった。力ある雄にだけ現れる薄紗のような煌めきが時折、はっとさせる。そもそも役者のような整った面差しでもあるはずだが、彼の身に付いた空気に比すれば全く目立たない付属物であった。
 それとも、とオルヴィはふと思う。ライアンの面輪に大して感慨を強めないのは更に美しい顔貌を知っているからかもしれない。美貌というならばあの少年であることは間違いがないのだから。
 そしてオルヴィは渋面になった。元からあの少年はオルヴィを気に入らなかった。何故始めから悪意で迎えられたのかは分かる。彼はライアンの関心を引きたくてたまらない上に、チェインの少年たちとは折り合いが悪い。オルヴィもその一翼に見えていただろうし、いつ頃からか更に憎まれるようになった。誰かから漏れたのか勘付いたのか、オルヴィがライアンの愛人であることを知ったのだろう。
 いや、元から気に入らなかったのは自分も同じだ。最初にライアンに連れて行かれたアパートで自分を見た少年の目が、ざっと一瞥した後にぬるい軽蔑へ変わったのは確かに見た気がする。取るに足らない相手、まったく自分の敵ではないという表情だった。
 嫌な奴。それがクインに最初感じた感触であり、時間を経過して接触が増えるほどそれは強まっていった。
 確かにあの美しい面輪は特別の産物だ。一つ一つの表情や仕草でさえ、それがどんなに乱暴で斜に構えた偽悪であっても、目を奪うほど美しい。けれどその美貌を鼻に掛けた態度や人を小馬鹿にしたような口調はどうしても腹に据えかねる。
 だから時折はライアンとの関係を盾にとって彼をからかう。そうすると透けるほど白い肌がさっと怒りのために紅潮するのだ。それさえ美の範疇にあるのはさすがであるかも知れなかったが、屈辱感さえ口に出来ない品高さが少年を荒らすことは予測が立てやすかった。
 ふん、とオルヴィは唇だけで笑う。そんな笑い方がライアンに似ているとチアロが以前苦笑していたはずだった。似ているだろうか、とふと湧いた疑問をこね回していると、これだけは確かに似たような吐息がぬるく落とされるのを聞いた。
「……あれのことを考えているな」
 ライアンの表情はぬるい。オルヴィは目線だけで肯定した。
「あまり嫌味な客を選ぶな、奴がどういう客が気に食わないかくらいは知っているだろう」
 その作為はとうに知れていたようであった。オルヴィは肩をすくめ、返答をしない。そもそもあちらも気に入らないという理由だけで当日でも平気で撥ねつけるのだから、オルヴィだけが不興を買うのは公平でなかった。
「不満か? だが、奴を荒れさせることは感心しない」
「あの子が私を嫌いなんだ。何故好かれるようにしなくてはいけない」
「機嫌は取らなくてもいい、配慮してやれと言っている」
「同じ意味だ」
 オルヴィは短く返答し、寝台から降りた。裸のまま部屋を横切り、適当な服を拾ってかぶる。
 エリオンはシタルキアの北東に位置する国で、夏近いとはいえ裸身だと肌が冷えた。服の内側から小さな薬包が転がり落ちるのに目を留め、オルヴィはそれを拾いあげる。
「……煙草にでも入れたらどう、ライアン?」
 当てつけの嫌味を呟いて彼にそれを放り投げる。寝台の上にどうにか届いた薬包をライアンはひらき、灰皿へこぼした。微かに鼻を突く、甘い匂い。エリオンの裏の市場で高価に取り引きされている麻薬、その精製された顆粒はどの種類でも多少の差はあれ、甘い匂いをしている。
 エリオンまで出向いているのはこの麻薬の以前の取引筋との契約の為だ。彼がアルードから下賜された麻薬筋は殆どそのままライアンの手元へ収まったが、重量の単価や取引のための符丁などは一度打ち合わせなくてはならない。
 いくつかは別の取引先からの申し出もあるようで、実物は吟味しなくてはならないしその元締めとも顔を繋いでおく必要があるだろう。自分が伴われてきたのはその為だ。母の妓楼で初歩の筆記と計算は覚えている。チアロでも良かっただろうが、この点は恐らくクインのためにあちらを残したに違いない。
 そしてこれはオルヴィにとって、紛れもなく大きな転機の機会となるはずであった。麻薬筋のことはライアンの掌握する事柄の中でも金額からして大きな項目の一つだ。その基本的な契約の提携に立ち会い、彼らの語る方針を書き留め、簡単な試算を出すことでその基盤に深く、大きく食い込むことが出来る。
 それを思うと薄い興奮がオルヴィにも上がってくる。チェインの中で勝ち上がろうと決めた時から、ライアンはオルヴィにとって当面の寄生先だった。彼はチェインという小さな王国に君臨する絶対王だ。
 もしくは、とオルヴィは頬を厳しくした。クインと相容れないのはお互いの寄生の邪魔だと感じているからかもしれない。クインがどんな事情でか知らないがライアンに頼っているのと違う事情で、しかし同じようにオルヴィも彼に頼っている。宿主を取り合っているのだと思うとやはり面白くはなかった。
 オルヴィの渋面をどう受け取ったのか、ライアンが視線で意味を問うてくる。オルヴィは別に、と素っ気なく返答してから付け加えた。
「あの子のことなら、するべきことはしている。あちらが気に食わないのは勝手だが、私は配慮してるつもりだ、十分に。金払いのいい、後腐れのない相手をちゃんと選んでやっている」
 ライアンは僅かに溜息をついて薄茶色の顆粒の上から煙管の火種を落とした。灼熱の小さな塊がそこへ転がり落ち、微かな音を立てて薬粒を焼く。彼は薬はやらない。オルヴィと同じく、あの草に手を出す奴は愚かだと知っているのだ。
 風に乗って漂ってくる、ほんの僅かな甘い匂い。母の体臭とよく似ている。記憶の中の嫌悪と。
 それから逃れるようにオルヴィは浴室の扉を開けた。ライアンの肌には既に煙草の匂いが染みついていて、一晩傍にいると何故か眩暈がする。肺の中に差し込んでくる空気が細胞を侵していくような、きつい、感触。オルヴィは首を振り、水栓をひねった。一瞬おいて、受口から冷水が小雨のように落ちてくる。
 肌をこぼれていく人工の雨が、むず痒い。自分の髪から鬱そうと煙草の移り香が立ち上り、やがてそれは水と共に流れ落ちる。彼の煙草の匂いが薄くなっていくのに連れて、オルヴィは長い吐息を落とした。
 気に入らない。
 あの子も。
 妓楼にいるという彼の女も。
 肌をかすめていく煙草の匂いも。
 嫌悪と呼ぶにはひどく薄い感触がして、それでも何かが変わっていく──剥がれ落ちて。
 オルヴィは唇だけで暗く笑った。
 金払いのいい、後腐れのない客は確かに選んでいる。その先のクインの嫌悪のことを思って意地悪くほくそ笑むのは、クインの自分に対する嫌悪の鏡であり意趣返しだ。せいぜいねちこい相手にいたぶられればいい。
 そのせいで荒れていく様子は確実に溜飲を下げる遊戯であった。変化をつける為にあの変に素人臭い女を混ぜてみたのも、その落差を激しくするための布石だ。男客への憎悪に近い嫌忌との比較でいっそ、どの女でもいい、駆け落ちでもしてくれたらライアンも彼を処分しなくてはならなくなるのに──……
 オルヴィは肩を軽くすくめた。そんな都合のいいことは滅多に起こらない。だからこそ続ける意味もあるのだと、そんなことを思った。
 看護学校の課題を終えてクインは綴りの右肩を紐でとめた。ぱらぱら読み返しても全く欠損が無くて我ながらいい出来だ。その欠損には、わざといくつかの間違いを混ぜてあるところまで含まれている。
 ……幼くて魔導論文を書き散らしていた頃、欠陥を故意に作ることなど思いもしなかった。
 あの苦い失敗はしてはならない。目立ってはいけない、看護学校とて医療行為の一端に噛む故に、魔導の扱いは教えているのだから。
 医療と魔導は既に切れない縁で結ばれつつある。黒死の病に唯一効果のある薬は魔導と医術の融合によって出来上がるものであるし、その他にも難病といわれるものに対処する高価な薬には大抵魔導の効果が組み込まれているのが普通だ。
 医者の為の医療学校と看護士のための看護学校は多少内容は違うが、行き着くところは人間の病と向き合う為の技術であって、医者が基本的な魔導の扱いを知っていると同じように看護士にもそれが求められている。
 そして、それゆえに魔導学を修めている学生たちとの研究会が存在した。クインの通っている学校にもある。大抵は優秀な学生を高等学院へ出向させるのだ。
 だから成績も適当な匙加減を加えて卒業には支障ない程度に押さえてある。普通よりは少し上あたりの階層を彷徨わせている成績と合わせて、同じ学生同士の研修会でも目立つような発言は慎重に避けた。
 自分は、よくやっている。クインは自己満足に小さく笑うと課題の綴りを鞄へ放り込んだ。今日は仕事もないし、学校は明日の夜だ。さて、とわざとらしく腰に手を当てて机の斜め上に切られている窓の向こうを見やる。白くなめらかな皇城の壁面が一面夕映えの薄陽に染まり、雲のない空は夏の訪れを宣言するような、突き抜けた朗らかさだ。
 どうしようかなと首を傾げてみる傍から自分がひどく機嫌良く笑っていることにクインは気付く。
 けれどそれは少しも嫌な気持ちにならない。何かの特別なことがあったわけではないのに、心の底が仄かに明るくなったような気分になる。
 それが何のせいなのかは知っていた。エミリアは唐突で気まぐれとしか言いようのない頻度と時間にまたがる彼の訪れを、いつでも喜んでくれた。他愛ない話、単なる雑談、それに愚痴、そんなことをいちいち真剣に笑ったり驚いたりしてくれる。
 甘えているんだということは分かっていても、居心地のいい許容を手放す気はなかった。ほんの一時態度を弛めていた客たちにも最初の頃のような権高い表情を作れるようになってきている。客に媚びなくなってきたことで、蓄積されて行かなくなったものもあった。
 やっと自分の均衡を自分で操り始めたようで、それも心穏やかにしてくれる。
 全てが良い方向へ転がり始めた。追っ手のことや自分の出生のことは追々考えて行かなくてはならないだろうが、ともかくほっと呼吸を温くできる場所があったことが何より大きい。
 どんな時間に行っても彼女は大抵一人で絵を描いていた。静物もあったし、窓からの風景もあった。その全てに共通するのは彼女の素朴で清潔な明るさで、それを線画の奥に僅かに感じるたびに、何故だかひどく嬉しくなる。
 そして急に照れくさくなってきて、髪をかき回してクロゼットを開けた。一瞬迷って夏の薄く柔らかいシャツを選んで簡単に着替える。客との商売の時は女装も多いが、身長や骨格の堅さが次第に彼を大人にしていった。決定的な違和感ではなかったが、既に女装よりは男装のほうがしっくり馴染むようになっている。
 度の入っていない眼鏡を探していると、部屋の扉が開く音がした。クインは振り返る。このアパートへ訪ねてくるのなら、今はチアロくらいしかいない。ライアンはあの女を連れてどこかへ出ているようで、この一月、消息さえ聞かなかった。
 居間の方へ出るとやはりそれはチアロであった。クインに向かって軽く手を挙げ、途中で買ってきたらしい袋を長椅子にそっと置いている。硝子の鳴る音がしたから水の瓶も入っているのだろう。
「ありがとう……仕事?」
 クインは袋の中身をざっと覗きながら言った。チアロはひどく曖昧な返事をして、お前は、と聞き返した。クインは一瞬怪訝に友人を見る。何かを聞いた時に質問で返すようなことは今まで無かったからだ。
 淡い不審がうっすらと胸に広がっていく。エミルのことは知ればいい顔をしないだろうという予測が先にあったから、クインは別に、と答えた。適当にいつも引っかけている部屋着でないのは本当だったから、素早く付け足す。
「別に、買い物でも行こうかと思ってただけだよ……どうかしたのか」
 じっとチアロを見ると彼はうんと頷いて笑ったが、やはり薄墨のような曖昧な予感が表情に張り付いている。クインは長椅子に座り直してどうしたんだよと強い声を出した。チアロはそれで肩をすくめた。
「怒るなよ、別に駄目だっていう訳じゃないんだから……俺はただ、彼女の所にでも行くのかと思ってさ」
 彼女、という単語が耳に突き刺さってクインは一瞬ぎょっとする。こんな言い方をするのならエミリアのことを確実に知っているのだ──ということに思い至り、次の瞬間にそれが苦い感情に、どうしてという疑問は監視されていたのだという推測に変わった。クインは顔を歪めた。
「……俺が自分の時間を何に使っても自由だろ」
 声音はすり切れたように低かった。チアロは苦い笑みを崩さない。違うと言葉で否定されるよりもそのほうが胸に応えた。
「何だよ、俺がどうしていようと関係ないんだろう、ライアンだってそう言ったじゃないか」
「クイン」
 チアロは困ったような声を出してクインに近寄り、肩を叩こうとした。なし崩しに宥めるような仕草をクインは咄嗟に振り払う。ライアンに突き放された怒りをいつもチアロがそうやって慰めようとしてきた──今度も同じような対処をしようとする友人の態度が面白くなかった。
 チアロは諦めない。再びクインの肩に手を伸ばし、今度は捕まえて優しく揺すった。
「なあ、何で駄目かは分かるだろ? 今ならライアンもオルヴィもいないし、他の幹部連中にはまだばれてないし、どうにかなると……」
「うるさい」
 クインはチアロの手を押し戻した。チアロは僅かに目を見開き、視線を落とした。それがひどく傷ついたような表情であったことで、クインは微かに罪悪感を覚える。自分が辛く苦しくて荒れるだけだった時間に、傍にいて話を聞いてくれたのはチアロだけだったのに。
 ごめん、と決まり悪く呟くと、チアロの方は温んだ笑みになった。
「……何で駄目なのかは知ってるはずだ、クイン。今ならあんまり深い傷にはならない」
 クインは首を振る。やっと手に入れた場所を、この一言で放棄する気になど全くならない。エミリアが彼にふんだんに与えてくれるなだらかな日だまり、突き抜けて明るい空気、何よりも心穏やかに彼女の優しさにしなだれて覚える安息を手放すなどどうして思えるだろう。
「いやだ」
 ふて腐れたような声でクインは言った。ぷいとチアロから視線を逸らす。友人は彼の肩を撫でるようにさすり、ますます優しい声を出した。
「なぁ、頼むよ。……そのぅ……お前があんまりライアンの所有の範囲から逸脱すると俺もちょっとまずいんだよ、なにせライアンの留守中のことだからさ。俺のこともたまには考えてくれよ、な」
 柔らかい声だった。クインは横目で友人を見やる。彼に縋るような言葉とは裏腹に、その顔は少しも困惑していなかった。むしろ、淡い哀しみのような気配さえする。チアロは自分を下げてでもクインを引き留めようとしているのだ。
 それはクインには出来ないことでもあった。だからクインはやや態度を和らげる。そんなことまで友人にさせたことは確かに罪悪感になった。
 でも、とクインは顔を上げる。チアロの配慮を嬉しく感じ取るのと、エミリアに自分の負の部分を預けることは全く比重が違うことなのだ。
「お前しか知らないっていうなら、黙っててくれよ──なぁ、いいだろ? ライアンはあんなだし、俺は……俺は、ただ……別に恋人とかじゃないんだし……」
 ねじれた言い訳を呟きながら、クインはチアロの腕を掴んだ。チアロは首を傾げて溜息になった。
「クイン、俺は忠告をしているんだよ。お前はライアンのものだ、違わないだろう? なのにタリアの外で女と会ってる。他の幹部たちに知れたら、彼らはお前を処分しろと言うはずだ」
 クインは煮え切らない返答を喉で鳴らす。チアロの言うことは出鱈目の恫喝ではなく、十分に予測される未来であった。最終的にはライアンの胸一つでもあるが、幹部たちが口を揃えて処分を吠えれば無視することは考えにくい。配下の意見を尊重するというよりは、それによって傷つく彼の体面と矜持を優先するだろうということだ。
「ライアン、いつ、帰ってくる……」
 苦い気分のままクインは呟いた。チアロは僅かに迷った後、来月の半ばにはと答えた。一緒に行ったオルヴィからの連絡があったようで、大体の経緯は知っているらしい。
「だから頼むから、もう」
 行くなと言いかけたチアロの言葉を、クインは素早く、強く遮った。
「いやだ」
 殆ど泣きかけているような声だと自分で思った。けれど、それが却って自分の意志を強く固めたような気持ちを連れてくる。
 いやだ、とクインは繰り返して素早く、勢いよく立ち上がった。チアロが驚いたように微かに目を瞠る。それは本当に不意を付かれた時の彼の癖だ。僅かにそれで溜飲を下げて、クインはいやだと三度目を言った。
「ライアンは何もしてくれない、俺はもう奴のことを考えたくないんだ、もう嫌なんだ、うんざりしてるんだよ、どうして分からないんだ!」
 叫ぶ自分の声に吊り上げられるように、苦く痛い記憶ばかりが脳裏からあふれ出てくる。ライアンの冷たい声音までを思い出してクインは一瞬上がりかけた涙を飲み込んでもう嫌なんだ、と怒鳴った。
「分かってる、それはよく分かってるから」
 宥めようとするチアロの肩を軽く突き飛ばし、クインはたまたま放り出されていた眼鏡を掴んでまっすぐに扉へ向かう。待てよと追いかけようとするチアロを一瞥振り返り、何が分かってるんだよと低く小さく、唸るように言った。
「分かってるなら放っておいてくれよ、俺は大丈夫だから」
「クイン、でも、」
「ライアンは勝手だ、だから俺もそうするんだ。何がいけないのかなんて、知るかよ!」
 鈍く冷たい怒りのままにクインは吐き捨て、外へ走り出た。乱暴に扉を閉め、階段を駆け下りる。路地は既に紫色の暮刻の中で、建物の輪郭線までが不明瞭な闇に沈みつつある。
 普段使う地下水路を放棄して、ただチアロとその向こうにいるはずのライアンやその幹部たちへの当てつけの為だけに、クインは地上を駆け出した。
 エミリアに会いたい。何を言われても、どんな制約があっても、彼女に会ってこの吹き上がってくる怒りや苛立ちを宥め鎮めてやりたい。
 会いたい───それだけでいいから。
 走ってタリアの境界門を抜けると、急速に力がゆるんだ。膝に手を当ててしばらく呼吸を整え、エミリアの住居であるアパートへ歩き出す。部屋を飛び出した時にチアロが何かを叫んでいた気がするが、それはもう分からない。
 それから黙って突き飛ばされてくれたのが彼の優しさであることに気付き、クインは溜息になった。チアロのことを憎くなど思えない。
 だからそれはその果てにいるはずのライアンへと流れ込んでいく。憎しみだと単純に言い張るよりも遙かにねじれている感情が強く、強く、体の中に根付き増殖していくのがはっきりと分かった。

 開け放した窓から誰かの歌が聞こえる。窓にかけられた綿レースの繊細な模様がまだらな影を、背もたれからだらりと下げた腕にゆらめきながら落としている。それをぼんやりと見つめるでもなく視界に入れながら、クインはじっと歌を聴いていた。
(私とうとう見つけたわ あの人は私の運命の人)
 やけに明るい恋の歌だ。歌っているのは子供たちで、歌いながら石蹴りをしているらしい。からからという軽い音が調子に合わせて聞こえる。あ、という声、馬鹿と一斉にはやす笑い声、そして歌はもう一度最初から繰り返されるために撒き戻る。
 クインはゆるく嘆息した。下らない歌だ。子供がはしゃぎながら歌い遊ぶのとよく似合った、調子はずれの明るさと馬鹿馬鹿しさ。
 クインの吐息にやっとエミリアが画帳から顔を上げ、どうしたの、と聞いた。別に、とクインは素っ気ない返事をする。それから突き放したような自分の声の不機嫌に気付き、外、と言った。
「歌、聞いてた……さっきから同じ歌ばっかりだから」
「陣取りでしょう? 最近あの歌でするのが流行ってるみたいね」
 簡単に応え、エミリアは画帳の下に小さく何かを書き込んだ。それは一枚の素描が出来上がった時の彼女の覚え書きだ。日付と場所とモデルの名前は最低でも書き留めておくらしい。クインが最初それをひどく警戒した為に、そこには最初の夜の画帳と同じく少年としか書かれていない。
 クインは長椅子から立ち上がってエミリアの背後へ回る。練炭特有の濃淡で描き出されているのは背中を向けて椅子にもたれ、項垂れるような仕草をしている彼自身だった。身につけているものというよりは、肩の線や微かに傾げられたうなじの角度が確かに自分だと思えるような絵だ。
 画面の中の少年はがっくりとうなだれていたが、細い首筋にあるのは力強いたわみであり、それは絶望と呼ぶよりは遙かに祈りのような敬虔さに満ちているように見える。雪崩落ちている髪の向こう側は窓。あるはずのカーテンは描かれておらず、その代わりに窓の高い位置から太陽が啓示のように差し込んで、少年の背中を斜めに一条よぎっている。
 彼女は天使の題材を描くのだと改めて知ったような気持ちになって、クインは何気なくふぅんと言った。エミリアの絵はいつ見ても何かがそこにある気がする。ひどく懐かしかったり、温かだったり、その絵からエミリアの気配が溢れ出て、まっすぐに絡め取られてしまうような淡い畏服。
「最近良くなったわね、背中」
 描き上がった絵をじっと見つめていたエミリアが不意に言った。クインは横に並ぶエミリアを見やる。彼女の方が3才の年長ではあったが、背丈は既にクインの方が若干高い位置に到達していた。
 クインの視線にエミリアは少し笑い、同じ画帳のかなり前の頁をめくりだした。エミリアは素描をとる時背中をよく好んで描いていたから同じようなものは遡れば幾らでも出てくるが、彼女がやっと手を止めたのは、かなり最初の頃に描かれた頁だった。
「ほら、これが最初。すごく……気が張ってて身構えている感じ」
 エミリアと出会った夜だろう。女装のまま宿の一人がけの椅子にもたれ、窓の外を見ている自分だ。表情は見えないが、肩のあたりにまつろう空気は確かに尖って張りつめきった糸のようだった。
 クインは小さく頷いた。エミリアの言葉の意味がほぼ掴めた気になったし、そしてそれは正しいと自分も思う。良くなったという言葉が示す通り、エミリアの部屋で彼女の素描や習作のモデルに登場してくるようになった自分の背中から、きりきりと切羽詰まった空気は消えていて、代わりになだらかな落ち着きと安堵に手足を投げ出しているような無防備な背中が多い。
「次の評価会にはあなたの絵を出そうと思うのよ。ほら、こんな風にして」
 エミリアは先ほど描き終えた素描の頁をめくり、練炭を握る。光が照らすクインの背中にその先端を当てて、さらさらと迷い無く動かし始めた。
 途中まで来ればそれが何であるかは分かる。クインはあやふやに微笑み、そして微かに赤面した。
「俺、こんなんじゃないよ……」
 曖昧な言い訳を口にすると、エミリアは笑って首を振った。
「そう? あなたには違っても、私にはこうなのよ。今は小さいけれど、いつか広げて飛ぶことが出来るわ」
 さらりと言ってエミリアは彼の背に折り畳まれた翼を描き終えた。
 翼ある者、美しい幻想、そして祈り。これは確かに彼女の絵だ。豊かに包む、愛情のまま。
 僅かに心の底が揺らぎ始める。嬉しくてたまらない。自分の中に沢山の闇があってそれに押しつぶされそうだったのはつい最近なのに、闇の中でこそ美しく輝く沢山の星をエミリアが彼の手を取って教えてくれた。闇夜の星、微かに白く淡い光。それを知っただけで胸の中がほんの少しなだらかになったようであった。
 あるいは自分は、絶望したかったのかも知れない。それは息を呑むほど強い力で自分を壊していくはずだった。それで良かった、絶望できるほどの強靱な心があれば破壊の後の再生を支えてくれるはずだったから。
 けれどそれはなされなかった。代わりにクインは明るい窓辺にぼんやりともたれる午後や二人で寄り添うようにして囁きあかす夜を手に入れた。
 ───それを捨てろだって? 冗談じゃない。クインは先日のチアロの言葉を不意に思い出し、奥歯をきつく噛み合わせた。
 チアロが自分を心配してくれるのは分かる。あれほど無遠慮にはしゃぎ回っているような印象の実、チアロは細やかで優しい目線で彼を気遣ってくれているのだ。
 それは今も変わらない。あの翌日に訪ねてきてくれたチアロと和解は済んでいる。けれど彼が言ったことを許容できるかどうかは全く違う話だ。
 ライアンの帰還はどうやら半月ほど先で、それまでには何か対策を練っておかなくてはいけない。そもそも奴のせいなのだ、とまっすぐに非難を思うことが出来るようになった分だけ気が楽になったから、ライアンとも多少はまともに話が出来そうだった。
 ……全て、川のように静かにゆるやかに、安息と安堵へと流れていく。何故それを放棄しなくてはいけないのだ。
 それを考え出すと苦い怒りと共に冷たく黒い恐怖を微かに感じる。戸籍の一件で思い知った通り、ライアンもその抱えている連中も短絡に人を手にかける。ライアンなどはむしろそれを楽しんでいるような節があり、どうしてもその部分には怯まずにいられない。チアロは忠告だと言った。このまま突き進んでいけば破滅するという意味であったろう。それはクインのこの生活の終わりであり、畢竟、母の死と直結している。
 母の死、と思うと背中がぞくりと粟だった。当面今の生活を続けていかなくては、金の工面が出来ない。折れてライアンにでも頼ればどうにかなるだろうと分かっていても、自分の中の頑迷は激しく首を振った。
 対等に、という自分の矜持がひどく幼くて崩れやすい虚塔であることは薄々理解しているが、けれど自分を無視して何があるのだろう。今でも十分、客といる時には己を殺し沈めている。それ以上はどうあっても耐えられない。
 だからこそ、エミリアの持っている清潔で素朴な明るさが自分にとって重要なことなのだ。彼女の優しいぬくやかな海に抱かれていると、とてつもなく幼い子供に還ったような不思議な落ち着きが自分を癒してくれるのが分かる。それはクインにとってどんなものにも引き替えられない貴重で、大切で、最も美しく平凡な時間かもしれなかった。
「……お茶でも淹れましょうね」
 エミリアがいつものような朗らかな声で言った。クインはそれで我に返り、側を離れて厨房へ消えていく彼女を見送る。自分にまつわりながらも話せないことは確かに多く、エミリアはそれを追求しなかった。それも多分、気楽さを増幅してくれている。
 クインは軽い溜息になって、先ほどまでもたれかかっていた長椅子へ転がった。うつぶせに体勢を直し、ぱらぱらと画帳をめくる。エミリアは悪く言うなら手当たり次第に目に付いたものを描いていて、統一感のある画題ではなかった。
 自分がいる。次の頁には日だまりの猫に途中で逃げてしまったという悔しそうな注釈、その更に次にはどこかの資料館で写生したらしい展翅蝶の素描、絵の傍に呟くような独白、忘備録替わりの走り書き。
 画帳がエミリアの写生帳であり日記であった。そのために最初は読むのを躊躇ったのだが、エミリア自身が全く頓着無く彼に過去をめくって見せてくれて最近は余り抵抗感がない。眺めるというほど熱心でもなく絵をめくっていると、小さな走り書きが目に付いた。どうやら時刻表らしく、地名と金額から大河ユーエリを下りミシュアへ出る客船であると予測できた。
「どっか行くの?」
 クインは茶のカップを二つ手にして戻ってきたエミリアにその覚え書きをなぞりながら聞いた。エミリアはああ、と軽く頷いた。
「来月にでも、ちょっと南へね。学校も来週から夏期の長期休暇に入るし、海でも描きに行ってみようかなって思って。──ミシュア、行ったことある?」
「うん……まぁ」
「南の海は特別綺麗だものね、写真でしか見たことないんだけど。2週間くらい向こうで色々描いてくるつもりなの。日程が決まったらちゃんと教えるわ、あなたが来たらいけないから」
 クインは何度か瞬きをする。エミリアの不在は僅かな落胆を連れてくる。けれど、ライアンやチェインの連中のことを鑑みるに、多少はそうした空隙をおいた方が良い気もすると胸の中で素早く弾き出して頷いた。
「ん、分かった……」
 お土産買ってくるわよと笑うエミリアの楽しそうな表情に、クインはやっと自分も顔が弛んできたのを自覚する。……あまり考えすぎるのはよそう。今この瞬間が満ちて穏やかならば、それでいいから。悪い方へと考えすぎていつも自分でたてる騒音に苛立っているようなところが、クインにはある。それを自覚しつつある今ならば、どれだけそれが自分をすり減らす無駄な摩擦であるか、知っている気になっていた。
 エミリアは自分で淹れた茶を一口啜り、渋いわ、と思い切り顔をしかめた。クインはつられるように自分も同じ事をして同じ渋面になり、どちらからともなく笑い出す。このごく普通の笑い声を、ひどく愛しく思いながら。

 小さな馬車を降りると煤けて赤い町並みと、青みかかった石畳から世界を異なる色へ変える境界の2本柱が見えた。相変わらず昼日中の白けた光の下では薄汚くてよそよそしい。外からタリアへ戻ってくるたびに胸に微かに興るのは確かに嫌悪なのに、それをいつの間にか許容しているのは諦観なのだろう。
 所詮、この町でしか生きてゆけないのだ。リァンの背を追うように少年たちの上に君臨し始めた時から自分の命一つに沢山のものが付随している。今死ぬわけにはいかないし、勝ち続けなくてはならない。その義務を重いと感じないのは僥倖であったけれども、重いと思うものはある。
 ───例えば、あの庇護している子供のことだとか。
 ライアンは内心で軽い自身の嘆息を聞いた。タリアを離れる直前彼の癇癪につい、つき合ってしまった。全身の気配を逆立ててこちらを巻き込もうとする瞳を見る度に、何かひどい間違いを犯している気持ちになる。
 客を取り始める前にその予行がしたいなどという一瞬唖然とするような彼の願いを聞き入れたのは、彼がそう思っているであろう秘密の担保ではなくて、純粋な憐憫の為だ。再開した少年の切羽詰まっている上に怯えたような目が、ひたすら哀れでならなかった。
 元々ひどく誇り高い子供であったことも、その痛ましさに拍車をかけていただろう。ライアンの元から一度走り去った時、クインは沢山の事情はあったにせよ明るく陽気な子供だったはずなのだ。
 けれど、どこかから戻ってきたクインは疲弊と焦燥のせいなのか、気強く傲慢だった瞳の凄みさえ失ってしまっていた。それが自分でもはっとするほどの憐れみに変わる。──それを知ればクインの方はまた傷つけられたように思うだろうから、口には出来ないことではあったが。
 客とのことはクインの性質には合うかもしれないと当初楽観していたことを、ライアンは認めざるを得ない。傲岸不遜の塊、自分の理知と美貌に抱く正直で圧倒されるような自負。それは彼の内面から滲むように溢れていて、きっと客には崇拝という扱われ方をするだろうと考えたし、最初は確かにそうだったはずだ。
 おかしくなった分岐点が何であったのかをライアンは知る術がないが、その時機ならば記憶とつき合わせて導くことが出来る──そして、それが一層クインの元へ足が向かない理由であった。 
 ライアンは髪に手を入れてゆるくかき回す。気が重い。あれは何故、俺にそんなにこだわるのだろう──男は初めてだと言っていたし、あの怯えた態度やその後のもの慣れぬ仕草や空気がそれを裏付けていたからあまりにえげつないことは控えた、それは本当だ。が、それを何かと勘違いしているとしたらライアンは面食らうしかない。そもそもクインの申し出を受けたのも、ライアン自身の苦い記憶の為だ。
 活劇の芸団から稚児に転売された夜のことは、思い出せることのほうが少なく、またその殆どは息苦しい屈辱の黒で塗りつぶされている。あれを与えるよりはと思ったことは否定しないが、同情を他のものに取り違えられても困惑するとしか言いようがないのだ。
 客の殆どが男であることで価値観が若干揺らいでいるのかもしれない、と言ったのはチアロであったはずだが、だからといって同性愛がごく普通の志向だという考えを持つのは浅薄にすぎる。それはあくまでも珍しい嗜好に属し、タリアの外へ行けば非常に少ないものだろう。
 後ろを付いてくるオルヴィに聞こえないように溜息を落とし、ライアンはチェインに入る小路を折れた。通称で煉瓦屋敷と呼ばれている建物の、記憶の通りの影が目に入る。窓辺に何かが動いた気配がして視線を上げると、窓が開いて少年が顔を出した。あれは確かチアロが連れていたショワとかいう子供だ。では、チアロもここにいるだろう。
 煉瓦屋敷の1階の広間の奥に、ライアンのいつもの席はある。幹部たちが集まってくるのも大抵ここで、チェインの様子を聞くのも何らかの命を下すのもここだ。そこへ入っていくと全員が立ち上がって彼を待ち受けているところであった。
「お疲れさまでした」
 簡単な挨拶と共に幹部の一人であるノイエが腰を折る。それに全員が倣うのに簡単に頷き、ライアンは自分の場所である椅子へ腰を下ろした。脇の小卓へ灰切りの小皿がまわされてくるのもいつものことだ。黙って顎をしゃくると幹部を除いた少年たちが広間から出ていくのも符丁通り、ここに至ってようやく自身の巣へ戻ってきた実感が湧いた。
「イシュラとディーは」
 見あたらない幹部の名をあげると、ノイエが軽く頷いた。
「イシュラは自派の内部の始末に出ています。中で少し造反の気配があったようなので、その粛正と燻り出しのために最近はあまりここに来ません。探しにやりましたが、少しかかると思います。ディーはタリア王からの呼び出しで王屋敷へ出向いています。呼びにやりましたから、じき、戻ってくるでしょう」
 ライアンは頷き、煙草の支度をした。僅かに空いた間を支配する、奇妙な沈黙。それが何の為であるのかをライアンはすぐに悟り、自分の真横に立つ女を一瞥した。幹部以外は退室するように命じた仕草にオルヴィが従わないゆえに、ライアンに留守中の様々を告げる時間をずらしているのだ。
 ライアンの視線を受けてオルヴィは軽く一礼し、出て行こうとした。その背をライアンは呼び止める。
「オルヴィ、ここにいろ。出て行かなくていい……これから先もだ」
 一瞬少年たちがさっと気色ばむ。ライアンの言葉は絶対ではあるが、不服や不満をまるで押し殺してしまうにはそれぞれ忍耐が足りない。誰かが異を唱えないかと視線でお互いをつつきあっているのを仕方なく受けたようにチアロが口を開いた。ライアンに向かって対等で飾らない口を利けるのはチアロくらいしかいない為、こんな場面は大抵彼に貧乏くじがあたることになっている。
「でも彼女は自分の派閥を持っていない、後ろ盾がないと本人もきついと思うけど」
 愛人のつてを辿って登ってきた女、ということを口にしないのはチアロの感性の優しさであったかもしれぬ。それは誰でも知っていることであったし、現在はライアンの愛人であることもしかりであった。
 が、ライアンはそれを一蹴する。
「構わない。これは俺の傍におく──いずれ、タリアの方へ連れて行く。チェインの自治には関わらせず、お前たちの派閥に口出しはさせない」
「でも……」
「では、代わりに麻薬の管轄が出来る奴がいるなら名前を言え──カリス」
 不意に視線を向けられた少年は言葉を濁し、やがて頷いた。他の幹部たちがそれに倣う。チアロがやっと荷が下りたというようなほっとした表情になり、この1月半の不在についての報告の口火を切りだした。
 彼の不在の期間中、ほぼチェインは平穏であると総括できそうであった。個々の派閥についての幾つかの細かな抗争はあったようだが、ライアンに収拾を切り出す者がいないならば決着は付いているか見通しがあるのだろう。この場にいないイシュラの自派閥については彼から直接報告を受けなければならないが、他の幹部たちが口にしないと見ると飛び火していない程度の規模と思われた。
 ライアンは煙草を飲みながらそれらをいちいち聞いた。チェインは確かに彼の最も有力な足場であり、チェインの王である故にタリア自治の内部にも食い込んでいる。いずれチェインはチアロに任せてタリアの大人たちの派閥に匹敵するような自分の派閥を築いていくことになるだろう。
 やがて報告が済んで幹部たちが解散すると、オルヴィが彼に向かって深く頭を下げた。今後幹部として取り扱うと宣知したことは、きっと彼女のためになることだった。
「ありがとうございます、ライアン」
 呟く声音には過剰な感情は浮かんでいない。北へ連れて行った時から期待はあっただろうが、それを表面にする女ではなかった。ライアンは軽く頷き、そこに残っているチアロを見た。長く馴染んでいる故に、この少年がなにかもの言いたげにしている空気が分かる。
「……話は裏で聞こう、来い」
 ライアンはそう言って裏廊下へ出た。オルヴィにはチアロが首を振ったらしく、足を止めてライアンにもう一度礼を言うに済ませた。では、これは確実にクインの話だ。オルヴィはクインとひどく折り合いが悪い。折り合いというよりはお互いに絶対に折れないと決めたような頑なさと似たような底意地の悪さで以て、ちくりちくりと相手を攻撃することをやめようとしなかった。
 クインかと思うと途端に気が滅入ったのが分かった。激しく強くライアンを縛ろうとする意志を感じるたびに、何かに気圧されるような苦い忍耐を強いられる。ライアンは長く大きく嘆息した。
「あれのことはお前に任せてあったはずだ、いちいち俺に持ち込むな」
 それが本当にうんざりした声音であったことにライアンは一瞬遅れて気付き、自分で顔をしかめた。チアロはちらりと彼のそんな表情にライアンと苛立った声を出した。裏廊下の壁にもたれてライアンは一度火を切った煙管にもう一度煙草をつめる。それで続きを促されていると悟ったチアロは、話を切り出す為らしい溜息をついた。
「どうやらタリアの外に女が出来たみたいなんだ……その、女客となんだかいい感じみたいでさ……」
 ライアンは舌打ちし、煙草に火を入れた。
「だから俺は女客をつけるのには反対したはずだったな、チアロ」
 自分の声は不機嫌と困惑と、それを感じざるを得ないという怒りが滲んで低く冷たい。だがチアロは彼の言葉にはっきりと首を振り、ライアンと彼を真正面から睨むように見た。この1月と少しの間にまた背が伸びたらしく、もう視線の位置は殆ど変わらない。間近にするチアロの目線は強く、底が苦い色に覆われている。
 ───チアロもまた、怒りを覚えているのだ。それは自分に対してなのだとライアンは視線の強さで悟った。
「……クインはあんたのものだ、ライアン。俺はそれでいいと思う。でも、飼い主ならその責任をとってやれよ。変な同情や気遣いでそのままにしておくより、ちゃんと支配してやらなきゃ、誰が主人かも分からなくなる」
 ライアンは黙って煙を吐く所作で天井を見上げた。はぐらかされたと思ったらしいチアロの声が更に怒りと苛立ちに低くなる。一体いつ頃から変声したのだったか、チアロもからを脱ぎ捨てるような勢いで成長していくのだ、とぼんやり思った。
「俺はあんたのせいだと思ってる。クインが荒れるのもオルヴィに下らないことで噛みつくのも、今度のことも。相手は普通の女だ、本当に普通のね。特別美人でもないし頭が良さそうにも見えないのにクインはあっという間に夢中だよ」
「……忠告は?」
「一度。拒否された。ディーに相談したら、ディーは女の方を始末しろと言った。俺はそれは賛成できないからライアンが戻ったら話をするとディーと約束した」
 経緯の説明にライアンは頷いた。チアロの対処は正しかった。クインのこととなるとどうにもうまい対応を見つけられないのはいつも自分の方なのだ。
 一体あれは何者なのだろう。ライアンに対等を要求し、同じ口で庇護を頼む。かと思えば頼りしなを浮かべ、撥ねつける癇癪を投げ、全く一貫性が無い上に凄まじく求められていることだけは分かってしまうのだから始末に困った。どこへどう分類すればいいのかが分かれば対処も出来るが、クインはその分類に収まらない。範疇があちこちに逸脱しているために分類が出来ぬ。出来ぬ故に、その不可解さに苛立ってしまうのだ。
「ならばもう一度同じ事を言ってやれ……ディーと一緒にな。俺はまだエリオンから戻っていないと言えば、奴がどうするつもりなのかはすぐに結果が出る」
 チアロはこの言葉にすぐに渋い表情を作った。ライアンはふっと年下の少年から視線を逸らす。何をチアロが怒っているのかなど、考えることでさえなかった。
「……俺は奴の飼い主だ、確かにな。だが、それと奴を抱くのと何の関係がある」
「クインはそれしか知らないんだ、他にどうやって甘えていいのか分かんないんだよ」
「それは俺のせいか」
「ライアン、そうじゃないだろ?」 
 チアロは呆れたように声を荒げ、そして溜息になった。くしゃくしゃと亜麻色の髪をかき回している。ライアンは自分を落ち着かせる為に煙管をゆっくりさすり、やがて深く頷いた。
「相手というのはどんな女だ」
「ん……絵を描いてる。結構その世界じゃ有名みたいだね。家族は田舎に妹が一人だけ。盲目で、盲字学校に通ってる。本人は帝都、西の八区」
 ライアンはそうかと頷き、では、と強く吐き捨てるような口調で言った。
「クインが警告を無視した時は、その女の方に接触しろ」
「───殺すの?」
 さらりと口にするのはやはりチアロもチェインの子供であった。命の価値をクインのように重大で尊崇すべきものだというとらえ方をしない。但し、簡単なことのように聞きながらもチアロの頬は厳しい。一般の女に手を出すのは確かにチアロにとっては倦厭すべきことのようだった。
「いや……そうだな、クインに近付いたら妹を目の前で八つ裂きにするとでも言ってやれ。多分、折れる」
「やな言葉」
 チアロはくしゃっと顔を歪めた。賛同してはいないものの、ライアンの示した逃げ道の存在には気付いているようだ。殺せ、と命じたわけではないから事実上チアロへ裁量を与えたに等しい。であればチアロは女を殺すのは最後の手段として他の手を考えるだろう。それがチアロの気の済む方法であるなら好きにするのが良かった。
 ライアンは煙管をくわえなおしながら裏廊下を歩きだした。この廊下の深奥にはずっと以前に死んだリァンの隠し部屋がある。ぼんやりとした時間を過ごす時はその場所が気に入っていた。
 ───まだ、彼の気配が残っているような気持ちになるのは、自分の気のせいなのだろうけど。
 その背をチアロが呼び止め、ライアンは怪訝に振り返った。ライアンがリァンの部屋へ向かう時は邪魔をしないのがチアロのいつもの配慮だったのだ。どうした、と言うとチアロは苦く苦く、微笑んだ。
「ライアン、クインが怖い……?」
 その言葉にライアンは背中を一瞬痙攣させた。ぎくりとする、という言葉が浮かんだのはそれから一瞬後のことである。それを知覚した途端、今度はさあっと血が上ってくるような音がした。
 ───耳の奥に、まろやかな鈴の音がする。何かを憎しみ、八つ裂き、血を啜って命を踏みにじりたいという欲望の音だ。怖いのかという質問にライアンは首を振った。けれど、憎いのだろうかという自問には何も返らない。ただ、鈴の音が弱くなり強くなり、陣営を決するための何かを待っていると言わんばかりの焦れったさを誇示するかのようだ。
 ライアンはもう一度首を振った。恐怖、という意味においては感じたことはなかった───そのはずだった。
 チアロは頷き、ならいいんだ、と軽く流した。またねと言い置いて戻っていくチアロの背にひどく安堵を覚えていることを、ライアンはしばらくの間気付かなかった。


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