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 かたんと自分の前に淡い色の果実酒のグラスが置かれた。天然炭酸のあげる気泡が微かに揺らぎながら、グラスの向こうの風景を時折歪めてみせる。
 クインはグラスの縁を指先で遊び、口を付けた。一息にあおろうとしてそれをやめる。けれど膝の微かな震えはとまりそうになかった。
(なあ、君、もしかして───ほら、君が高等学院に魔導の聴講に来てたとき、俺、君と同じ研究班にいた……)
 掴まれた肩、強引に振り向かされた力の強さ。それに思わずよろめいて均衡を崩し、声を掛けてきた男にもたれて座り込んでしまった。
(中等にいた彼女だよな? 名前───ごめん、名前が出てこない……けどほら、魔導論文で確か賞まで取った───)
 それでも話しかけるのを止めそうにない男を咄嗟に睨み、クインはさっと立ち上がったつもりだったのに、いきなり鞭打たれた事実に足が追い付かなかった。自分は恐らく相当よろめきながら体勢を戻したはずだ。
(誰、それ)
 出来るだけ低く、冷たい声音を出したのは内心のひどい波をそうでもしないと自分で叱りつけることが出来なかったからだ。男はクインに睨まれたのがいかにも存外だったというように目を丸くし、やっと思い出したらしい名前で彼を呼んだ。───それは確かに中等学院に入学した頃彼が使っていた偽名だった。可愛らしくてありふれた少女の名前。
(……俺、男なんだけど?)
 クインは辛うじてそれだけ絞り出した。男の方はぽかんと彼を見つめていたが、やがてかあっと赤くなった。思い違いだと納得したらしい。
(ごめんよ、でも本当に似てるなぁ……彼女、もしかして君の親類とか親戚とかじゃないかな、本当に綺麗な子でさ、大人しくて可愛くて……魔導の方もまさしく天才少女ってああいう感じなんだって……)
(悪いけど)
 割って入ったのはエミリアだった。クインをかばうように自分の背後へ押しやって、男の名前を呼んでいる。知り合いなのだろう。
(この子は私の遠縁なの。帝都に出てきたから今日ここで待ち合わせただけよ、変なこと言わないで)
 ぴしゃりと断言する強さは、あの日にクインの耳を引っ張って叱りつけたものと同じだ。庇われているのだとクインは微かに卑下のために唇をきつく結ぶ。だが、それ以上の言葉はあの頃と同じように喉で凍り付いて出てくる気配がなかった。
 男の方はややあってからクインに向かって軽く頭を下げた。ごめんよ、という口調の丁寧さとぼくとつな雰囲気はあの頃のままだ。……高等学院で魔導学の聴講を受けていた頃のまま。彼の名前も得意だった呪言形態も繋がって記憶から戻ってくる。
 あれから考えてみれば5年は経過していない。まだ彼が高等学院に在籍していても特段奇異な出来事であるわけではなかった。何故あの場にあの男がいたのかなどは知らないが、エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることと無関係ではないだろう。
 とにかく、とクインは画廊から3区画ほど離れた食堂の一番奥でそっと溜息になる。エミリアが咄嗟に庇ってくれたことを感謝するしかないが、それにしても自分はひどく動揺したらしい。真っ青だとエミリアは彼を気遣い、この食堂で待っていないかと言ったのだった。
 それに頷いたのは、やはり呆然のなせる業であった。中等学院に通っていたことさえ忘れかけていたのに、記憶はどこかへ無理矢理紛失させても過去は喪失しない。全て確かにクインが通ってきた欺瞞の歴史そのものだ。
 クインは暗がりに身体を押し込むようにして顔を歪めた。震えはまだとまらない。迂闊だった。エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることを、まるきり知らなかったわけではない。カードの出展画家一覧の後援にも高等学院の名前があった。
 名前を呼ばれた時に振り返らなかったのが、今は唯一自分を宥める材料といえそうだった。振り向いていたら全てが雪崩のように露見していくに違いない。自分が男だと言うことくらいは気付くだろう。
 気付けば、過去の欺瞞が剥がれる。剥がれ落ちた欠片を、自分と母を追い続けていた連中が拾う───自分の強迫観念の根深さ、臆病な性質をクインはやや苦く奥歯にかみつぶすが、それでもその経緯は明白で、しかも逃れられない絶対の道筋に見えた。
 クインは痙攣のとまらない指先で自分の額を押さえ、机に肘をついた。まだ膝の細かな動きもやまない。近付いてはいけない。高等学院の関係者にも、あの場所にも、二度と近寄ってはならない。隣接している中等学院の学舎にも、生徒はともかく教授陣はまだ残っているはずだ。藪をつついて妙なことになるくらいなら、最初から逃げてしまえ。
 その考えは既に彼の中に根付いている習慣に近い反射だった。それを繰り返して呟きながら、今日という今日に限って自分がそれになかなか頷かないのが苛立たしい。
 本当はエミリアなど待たず帰るべきだった。酒の一杯でも一息にあおって帰るべきだ、今でも。
 けれど何故か腰が浮かない。彼女を待っているのだ……なんとも不思議なことに。礼を言わなくてはとクインは自分にどうにか刷り込んでみる。エミリアが遠縁なのだと出任せを言ったことでかなり救われた部分があるのは確かだった。
 そうやって答えのでない自問自答を繰り返していた彼の前にエミリアが立ったのは、それから同じ酒の3杯目を終える頃だった。ごめんね、と囁く声音にも苦笑気味の表情にも、先ほどの出来事の欠片も残っていない。まるでなかったことのようだ。
「……何も食べてないの? 少し食べる? 絵が売れたからここ、おごるわよ───えーっと……ね、何か嫌いなものある?」
「食欲、ないから」
 クインは乱暴に返答した。事実、何かを食べる気などまったくおこらなかった。ひどい眩暈に必死で耐えているほどだ。エミリアは軽く溜息をついた。
「でもお酒だけじゃ胃に悪いわ。ここ、窯焼きの鳥が美味しいのよ。香草が嫌いじゃなかったらそうして貰うわね? それとパンと……そうね、何か温かいもの胃に入れた方がいいから、煮込みかなにか」
「要らないって言ってるだろ!」
 クインは机を拳でたたきつけて怒鳴った。一瞬食堂の中の視線が呼び寄せられる。クインは机に突っ伏して要らない、と繰り返した。恋人たちの単なる痴話喧嘩だと思ったのか、やがて注目が散って元の静かなざわめきが戻る。
「……ねぇ、少年」
 それを待っていたようにエミリアがそっと彼の髪を撫でた。
「でも、生きていく限りは食べなくちゃ。あなた痩せてるわ、とってもね。もっとちゃんと食べて、もっとちゃんと生きないと、ね」
 クインは机にうつぶせたまま緩く首を振った。エミリアの言葉はやはり彼に温かくしみこんでくるものだったが、今は聞きたくなかった。
「いいんだ、要らない……本当に、今日は要らない……食べたくないんだ」
 呟く口調がひどく甘えたものになっている。クインは気付いて一瞬きつく眉根を寄せた。誰にでもすりよっていく野良猫と同じ種類の生き物になった気がする。自嘲で苦く頬が歪んだ。クインはそのために更に黙り込み、額を机に押し当てたままで呼吸を殺す。それは自分自身をひどく情けなく思うことでもあったのだ。
 そうしてじっとしていると、やがて耳に仕方なさそうな、けれど甘い苦笑が聞こえた。
「……さっきの、気にしてるの? ごめんね、彼、ちょっと唐突で思いこんだら盲目的なところがあるから」
 クインはそっと視線をあげて自分の前に座る女を見やる。彼女は微笑んでいて、クインの目が自分に向いたことを知ってもう一度小さく、ごめんね、と囁いた。
「……あいつ、あんたの、何」
 クインはふて腐れたような顔を上げ、頬杖を付いてエミリアを見た。彼女の方は肩をすくめた。
「彼は趣味で絵を描くのよ。基礎写生からちょっと教えてるの」
 ふぅん、とクインは流した。エミリアはクインの返答がやっと通常の音調に戻りつつあることを理解したのか、適当に注文を済ませると展示会のあれこれを話し始めた。あの男が口走った内容について、彼女は触れようとしない。それが彼女の気遣いであることは明らかだった。
 食事を適度に進めながらエミリアは料理を取り分けてクインの前に置く。それを義務的に口に押し込むうち、やっと落ち着いてきた心象にクインは深い吐息を落とした。4杯目の酒を、それで最後にしなさいねと苦笑するエミリアに頷きながら注文する。運ばれてきた新しい酒に唇を寄せる瞬間に、クインはぽつりと呟いた。
「……さっきの、聞かないんだ?」
 エミリアもその場にいて、あの男の口走ったことを聞いている。クインが少年であったことで男の方は人違いだと納得した様子だったが、エミリアはそれこそ女装したクインを見ているのだった。もっと幼かった頃にはまさしく少女にしか見えなかったことくらい、想像が出来ない種類の女ではないだろう。
 エミリアはそうねと笑い、でもと続けた。
「あなたが話したくないことなら聞かない。興味はあるわ、正直にいえば。でも、あなたが嫌がっているのにどうして聞こうと思えるの?」
 クインは頷く。彼女の言葉一つ一つが、何かの宝石のようにきらきら胸の中に踊る。ありふれた気遣い、ありふれた言葉、ごく当たり前のいたわり。そんなものに過ぎないと承知していても、それに甘えたくなる。
 誰かという叫びが胸の奥にする日に、遂に与えられなかった安息の気配がする。
 ───泣きたくなる。誰かの無条件の優しさが、胸に痛い。突き刺さるように痛い。痛みがある、それが疼く、心臓を貫かれたような深い疼痛、それら全てが声を合わせて彼女に甘えてもいいのだ、そうしてもきっと慰撫してくれる、助けてくれる、その予感を歌っている。
 高らかに。クインは片手で顔を覆う。本当に泣き出しそうだった。
「……奴の言ったのは、嘘じゃない。あれは俺だ。10歳の時まで、中等にいたんだ。天才だとか神童だとか言われて、いい気になって、魔導論文も書いたよ……」
 自らの擬態や根本の欺瞞など忘れ、豊かな未来を夢見て自分の持つ力を傲慢に発揮していたのはまだ5年も経たないほどの近い過去なのに、ひどく遠い。自分の過去ではないような気がするほど、現実味がなかった。
「……また、戻りたい?」
 クインが声を震わせたのをなんと思ったのか、エミリアはそんなことを聞いた。クインはゆっくり首を振り、分からないと答えた。
「分からない、そんなこと……俺は、同級生なんかみんな馬鹿にしてた。友達なんかいなかった、みんなちやほやしてくれたけど、俺は奴らのことを端から相手にする気なんかなかった……」
 一瞬目の裏に皇子の面影が過ぎる。皇子のことは別のもので塗りつぶされてしまっていたが、彼が特別であることは真実だった。
「分からない、エミリア、俺は、あんな場所に戻るもんかと思ってた、でも、あそこにいた頃が一番……今から考えるなら、一番、ましだったかもしれない……」
 少なくとも母がいて、きっかけはどうであったにせよチアロやライアンなどと友人関係を築くことが出来、学校という閉鎖された特殊な空間の中で自分の能力の限界を楽しむことさえしていたのだから。
「学校、好きだったのね……」
 エミリアのなだらかな相づちにクインは曖昧に首を振った。苦笑になる。
「俺は、学校なんか別にどうでも良かった……そう、確かに受験した時は……将来は学者や役人になって母さんをもっと楽にさせたいと、思ってたはずなのに……」
 自分はあの人の足枷なのだろうか。それともあの人の罪の中核、動かし得ぬ重大な証拠。
 けれど、そんなことは知りたくない。知らなくていい。ただ母と名乗る女のために自分の人生を使い潰したって構わない。
 けれど母の温かな肌は彼に与えられなくなってしまった。時折手を重ねても、手袋の薄い遮断を隔てた体温のもどかしさに訳の分からない衝動を覚えることがある。
 エミリア、とクインは呟いた。
「でも、俺は、中等にいた頃のことなんか、捨てたんだ。捨てたら終わりだ、もう戻れない、二度と戻れないんだ……捨てるってそういうことなんだ、リーリーが……」
 クインはふと唇からこぼれた名前を確かめるように、指でそこをなぞった。今この瞬間まで忘れていた、あの、最初の友人の名前。ずっと彼の話し相手だった、黒い猫のぬいぐるみ。
 何かがこぼれるように、胸の奥から吹き上がってくる。
「あいつを捨てた時から、色んなものを捨ててきて、だから、みんな同じだったけど、でも、もう拾えない、拾えないから、諦めるしかないだろ、だって、もうないんだから、なくしたものは還ってこない、だから」
 酔ってる。クインは自分の唇がせわしなく動くのを放置しながらぼんやり思った。頭がおかしいんだ、きっと。なんでこんなことをべらべら喋ってるんだ。酔ってる。間違いなく酔ってる。帰らなきゃ───でも、どこへ? タリアの奥巣、ライアンが俺に放り投げて寄越したあの部屋へ?
 クインは小さく笑い出した。帰らなきゃ、と思うのにその場所がどこであるのか今ひとつ確信にならない。あの部屋の寝台は確かに彼の寝床ではあったけれど、帰還する場所ではありえないのだった。それはいつか、母の腕の中だった。沢山の不満や不安も激情も、母が彼の波を鎮め慰めてくれた。
 それさえ、自分で切り捨てなければならなかった。母への秘密を持ったのは自分だ。だから結局自分が自分でその場所に封印をしたのだろう。
 クインは喉で笑いながら、捨てたんだ、と呟いた。リーリー。彼を捨てたあの夜から、拾うもの全てを捨て続けてきた。そうしなくては生きていけなかったと分かっているのに、いつまでも拘泥している。
「……もう、帰ってこないから……」
 クインはエミリアが最後だと念を押した酒をあおり、注文をするために片手をあげた。その手がぱちんと弾かれる。クインはエミリアを咄嗟に睨んだが、彼女の方は涼しい顔でやってきた給仕に向かって伝票を振り回した。勘定するときの仕草だ。
「───適量はもうちょっと少ないみたいね、覚えておくわ。……ほら、立って。行くわよ」
 精算を終えてエミリアはクインを促し、彼の鞄を掴んで外へ出た。外はすでに夜の更けていく時間で人通りもまばらだ。石畳の街路を歩くエミリアの後をクインは黙ってついて歩く。鞄、という意識はまだあるのだ。
「どこ行くんだよ。鞄返せよ」
 クインの声にエミリアは少しだけ振り返り、微笑んだ。
「見せたいものがあるの。あなたに見て欲しい」
 その瞬間彼女が浮かべた薄い笑みは、それまで見てきた明朗さとは少し毛色の違った淋しげな影に縁取られているように思われた。
 クインは何かを言おうとしてやめ、だまって彼女の後を追った。

 月が出ている。半分欠けたやわい光が帝都の石畳の隙間を埋める白漆喰を優しい色に浮かばせていて、俯きながら歩いていると水面を歩いているような不思議な幻想があった。微かに眩暈がするのはやはり酔っているせいだろう。世界がゆらゆら、揺れている。
 エミリアは時折振り返りながら彼を待ち、呼んだ。もう帰ろう、鞄だけ返して貰ったらつき合う義理なんか無いんだ、と何度も口にしかけてはそれを飲み込んでしまっている。
 ……誰でもいいのか。クインは皮肉に唇を歪めて笑う。母さんがいない。ライアンが俺を無視する。一度繋がりそうに思えたリーナとかいう女だって……結局俺のものじゃない。今夜も誰かのもので、明日もまた違う誰かのものだ。
 自分を愛してくれる誰かが欲しい。その残り香、気配のようなものでさえ欲しい。飢えているというほどに渇いている───多分、本当に誰でもいいのだろう。例えば彼の機嫌を取ろうとする客たちや、こんな通りすがりの女にまでいい顔をするほど。
 自嘲はやはり胸によい作用はもたらさない。クインがますます無口に黙り込んでいると、エミリアが少年、と彼を呼んだ。
「ここよ。部屋は3階の右」
 上がっていくアパートはやや古めの木造で、階段を上がると軋んで鳴った。あまりよい部屋というわけではなさそうだったが、彼女の身につけているものとは相場は釣り合っているだろう。
 どうぞ、とエミリアが入っていく部屋に足を入れると、まずむっと鼻につまる薬品の臭いがした。看護学校でも薬独特の臭気はあるが、それとは全く別の系統の臭いだ。
 クインが思わず顔をしかめるとエミリアは少し笑って、居間はちょっとましだから我慢してねと囁いた。彼女の言葉の通りにそこは彼女が窓を開けてくれたせいもあって無臭にやや近い。
「ごめんね、絵の定着剤の臭いなの。臭いでしょ? 慣れないと吐く人もいるくらい」
 彼女の苦笑にクインは頷く。しかめ面の彼にエミリアは笑い、厨房の方から水の瓶を持って戻ってきた。差し出されてクインはそれを受け取る。酔いも醒ました方がいいのは分かっていた。
 待っててね、とエミリアが一度消え、すぐに手に大きなものを掴んで現れた。絵だ。形や大きさですぐに分かる。
「俺に見せたいのって絵? それならさっき散々あっちで見たよ」
 ふて腐れたような声になったクインに、エミリアは仄かに笑ったようだった。彼の座る窓下の長椅子にぽんと座り、月光に照らされる位置にもたせかける。
「春幻想の、最後の一枚。あそこにあるのは売るための絵だけど、これはアスナに……妹にあげるための絵よ。定着材がやっと乾いたから、明日にでも梱包して田舎に送ろうと思ってたんだけど、その前にあなたに見せてあげたいって思った」
 ふぅんと気のない返事をしてクインは彼女の持ってきた絵を見つめた。画廊にあった絵とは確かに何かが違っていた。彼女の絵の特徴である厚い絵の具の塗りはそのままだが、色が違う。淡いなりにしっかりと目に残る色味も幻想の一部であったはずなのに、殆ど色味さえない。辛うじて色はついているものの、春幻想のシリーズにあった夢幻的な色彩の自由な筆致とは言えなかった。
 妹であろう少女が春の野を背景に花を胸に抱く構図で、少女は印象的だった瞳をじっと閉ざし、唇だけで微笑んでいる。表情は柔らかだったが、やはり色数の絶対的な不足のせいで、画廊にあった絵よりも遙かに粗い印象が強い。
 クインが黙っていると、彼の隣でエミリアがどう、と優しい声で言った。彼の戸惑いを分かっているような声音であったから、クインは首を振った。
「……画廊にあったやつの方が綺麗だ」
 実際、こちらの方が絵の具の塗りが妙に厚いこともあって、ひどく太く粗末な感慨を引き起こした。元々多少筆致の厚い絵であったが、これはそれが顕著すぎて描き殴ったようでさえある。筆の跡もまったく放置したままで、それが粗いという印象を担う大きな一つであった。
「あんまり好きな絵じゃない。画廊にあった方がよかった」
 思ったことをそのまま口に乗せる。彼の言葉にエミリアはそうね、と簡単に頷いた。
「多分、みんな同じ事を言うでしょうね。でも、これはこれでいいのよ。妹に見せるために描いた絵だから」
 クインは怪訝な視線を彼女に与える。大人という年齢の端にようやく足をかけようとしている年齢の、尖り始めた顎の線が細い。それが何故かひどく切なくて、クインはふっとそこから目をそらした。彼のその仕草にエミリアはそっと笑った。
「いいの、アスナ……妹のための絵だもの。あの子だけが分かっていればいいの」
「でも、色だって画廊の方がずっと綺麗だった」
 自分の感慨を否定されたような僅かな不服に、むきになってクインは言った。エミリアはだが、いよいよ柔らかにそっと笑った。
「いいのよ。あの子、目は見えないから……」
 クインは一瞬きょとんとし、それから徐々に彼女の言葉の意味を悟って呼吸を潜めて深くした。見えないと繰り返すとエミリアはそう、とことさらゆっくり頷いた。それは、とクインは曖昧な居心地悪さを口の中で噛みつぶし、ややあって大変だね、と付け足した。
 それを口にしてからその事実の重大さにやっと気付く。エミリアの絵の大きな特徴であるはずの、人物像の表情の優しさや色使いの暖かさ、染みいるような筆致の美しさも、エミリアの肉親が見ることが出来ないと言うのはひどい皮肉である気がした。
 クインが黙り込んでしまったのをエミリアは小さく吐息で笑い、彼女自身の目線を粗い粒子で構成される絵へ向けた。
「4年前の流行熱でね……親ももういなかったから医者にも診せてあげられなくて、見えないって気付いた時には遅かった。力のない自分も悔しかったし、何よりあの子が不憫で哀れでずっと泣いたわ。私の絵をとっても好きだって言ってくれたあの子に、もう見せてやることが出来ないと思った」
 エミリアの声はしっかりして、静かに明るかった。クインは絵を見つめる彼女の横顔へ目線をやった。エミリアは彼に視線を合わせ、微笑んだ。それがやはり何の気負いもなく明るいことが不思議だった。
「……この絵はね、だからこうやって見るのよ」
 彼女がそう笑った次の瞬間、クインの手に温かなものが重なって彼ははっと肩をいからせようとする。それは既に反射というような早さだった。客のことも、自分の周辺にある思いに任せない現実も、彼の手を取ってはくれなかったはずなのに、それは不意に降りてきて彼を動転させる。
 大丈夫、と宥める穏やかな声。それに何かが触れて中の神経がゆったりと波を凪ぎへ近寄せていくのが分かった。
 クインは微かに喘ぐ。触れた箇所が過敏に熱い。肌が発火しているような気がする。けれど動くことさえ出来ないで、ただ震えの上がって来るまま、エミリアの手の温度に動揺しているのがひどく恥ずかしかった。
 目を閉じて、と囁くような声が言った。クインは瞬きし、そして何かを言おうとして言葉が見つからず、唇を無意味に動かす。エミリアは少し首を傾げ、彼の手を掴んだままで背後に回り、ゆっくり抱き寄せるような仕草でクインの目を後ろからもう片方の手で隠すようにした。
 そっと背中に彼女が被さる。声を上げかけてクインはそれを飲み込む。ほぼ同じ位置にある心臓の鼓動が、とく、とく、肌と服の薄い厚みを通して触れ合っているようだ。
「こうして、ね」
 エミリアの声が自分の耳すぐ端でした。クインは吐息がかかる距離にやや身震いする。それと指先が絵であろうざらざらした表面に触れるのとが同時だった。導かれるままに指先で絵を撫でる──その触感が筆跡の流れを捉えて滑った。
「ここは緑。春の色、新しくて綺麗な草が戻ってくる春」
 そっと囁く声が優しい。泣きたい。それだけに触れて泣きたくなるほど優しくて温かい。
「ここは青。やっと晴れた日の眩しい空色、ほら、雲、柔らかい、ふわふわしてる。このなだらかな線は山、ずっと向こうにある山に霞雲がかかってる」
 彼女の言葉の通り、指先には山の稜線のような薄い膨らみと、所々途切れるような攪拌された綿のような乱線が分かる。空と彼女が言った箇所は殆ど平らで筆致もほとんど感じ取れない。
 雲だと言う場所には確かに雲を表すようなゆるい曲線が脈絡無く配置された、模様のようなものがあった。
「そして、これが妹。あの子の目、鼻、ここは瞼……睫毛が長くて、ほら……眉の形はこう、肩の線はここ……少しづつ大人になっていくから大分身体も柔らかな線になってる……」
 彼女の声と手が導く絵と、告げられる色味が次第に頭の中でぼんやりした絵になっていく。指先の感覚が連れてくる、幻想で形作られていくもう一枚の絵。色を彼女が告げるたびにそれはしっかりした風景のように鮮やかになっていく。意識の中にしか存在しない、鮮明で美しい絵。髪よ、と指がたどる道筋のうねるような流れと豊かな情感、殆ど官能的ですらある輪郭。
「───見える? これがあの子の見る絵よ……」
 エミリアの声にクインはゆっくり頷いた。彼女の手が離れる。
 背後からそっと気配が遠くなって、クインはやっと目を開けてエミリアを見た。彼女はやはり笑っていた。その笑顔がいつにもまして切なくて、ぬくやかで、ひどく優しい気がした。
「……あの子が見えないって分かって、私、本当に悲しかった。あの子のいないところでずっと泣いてた。絵も……芸術院への推薦を貰えそうだったけど、やめて働こうとしたわ。でもあの子がこうやって」
 エミリアは言いながら手を自分の顔にあて、指先で造形を確かめるように撫でた。
「私の顔は見えないけど、どんな顔をしてるかは分かるって言ってくれた。姉さんが笑ったり泣いたりしてるのが良く分かるって、あの子が……」
 僅かにエミリアの声が歪んだ。クインが目を向けると、月明かりのぼやけた視界の中で彼女は淡く泣きながら、それでも彼に微笑んだ。
 クインは当惑と怯みの中間にある痛ましさに揺すられて首を振った。エミリア、と言いかけると彼女は首を振ってエミル、と言った。
「……エミル……」
 呟くように言うと、彼女は頷いた。エミル、とクインは繰り返した。エミリアは微笑みながら首を振り、指で軽く涙をこそいだ。その口元がやはりまだ笑っている。仄かで温かい、彼女の絵と同じ、人の肌の温度と心の熱を教えてくれる笑みだ。
 ──唇に触れたい。彼女の柔らかで温かなそこに触れたい。クインは唐突にそんなことを思い、身体をずらしかけてふとそれを止めた。キスは誰かと寝るより重要なことだという娼婦の世界の常識が不意に現れて彼の腕を掴んだのだ。それが特殊な条件の特殊な約束だとは知っていても、一瞬のためらいの時間が衝動を冷えさせるのには十分だった。
 男女どちらでも寝ることに抵抗はない。それは既に彼にとって定理のような身体の反射に過ぎない。けれどその先に来るはずの、簡単な仕草が重い。特別なことなのだという感覚が自分の身に染みすぎていて、キス一つがどうしても出来なかった。
 クインは僅かに俯き、エミリアの絵に指を這わせた。彼女が盲目の妹のために描く絵はやはり地味な色彩とぼってりした画材の厚みでどうしても垢抜けない。けれど、目を閉じて空想に委ねれば驚くほど豊かな情景を示した。
「……ねぇ、少年。妹が……その時言ってくれたの。見えなくても見えるものがあるし、無くしたものの替わりに拾ったものもあるからいいって、気にしないでって、絵を続けて欲しいって、私の絵があの子の希望だって……」
「希望……」
 クインは呻くような声で呟いた。その言葉を生まれて初めて聞いた気がした。希望、と繰り返すとそれが尚更痛くきつく胸に落ちた。
「少年、希望は自分で探さなくてはいけないわ。あの子の希望が私の絵なら、私の希望はあの子なのよ。アスナがいるから描き続ける事が出来る。あの子が私の絵を自分の未来だと言ってくれたから私、ずっとずっと描くわ、描き続ける。あの子の為に」
 だから、とエミリアは続けた。
「あなたの希望を探して。お願い、辛そうな顔をしないで。あなたが無理に笑ったり喋ったりしてるのを見ると、居たたまれないほど私も辛いわ……」
 クインは臓腑の奥を突き刺されたようにして深く呼吸しながら喘いだ。胸が痛い。何故という疑問も、煩わしいという感情も、湧いてこない。溢れてくるのは涙だ。自分でも訳が分からない衝動と激しい高ぶりが、そんな形になって身体の中から吹き上がってくる。
「エミル……」
 喘ぎながらクインはこぼれてくる涙を手でぐいぐい拭い、口元を押さえた。泣いている時は言葉も声も役に立たない。エミリアがゆっくりと彼の額にばらばらにかかる後れ毛を払い、そっといたわるように抱きしめた。
 彼女の体温。そして髪についている定着剤と絵の具の微かな匂い。それにどっと寄せる安堵を覚えてクインは彼女にしがみついた。いつかあった、こんなぬくい腕の中がやっと自分に戻ってきた気がした。
 涙が落ち着くまで長いことそうしていて、やがて身体が自然に離れた時、その懐かしさや嬉しさにクインはつい笑みをこぼした。エミリアの気配がふっと密やかになる。怪訝にそちらを見ると、彼女はじっとクインを見ていた。視線の強さが出会った夜と同じ色だ。
「綺麗ね──本当に綺麗」
 呟いたエミリアにクインはゆるく首を振った。
「俺は……そんなんじゃない……誰かにそう言って貰えるほど何も……無いから」
「いいえ。あなた綺麗だわ。とても……綺麗。あなたの笑った顔、もっと見たい。あなたを描きたいわ……」
 エミリアはそんな事を言って淋しく笑った。その先を続けないことでクインも事情を分かった。女客は二度と同じ相手を取らないのが決まりだ。エミリアがチアロにつてを取っても彼はその理由であっさり撥ねるだろう。……けれど、抜け道もある。
「俺、時々来ても……いいよ……」
 それでもこんな言い方しかできない自分を苛立たしさと苦笑の両方で眺め回しながらクインは言った。これは恐らく重大な違反の一つになるだろう。ライアンは女客を取らせること自体にあまり良い色を示さなかった。
 だからこそ、意味があることもある。これがあてつけなのか反発なのか、……それともエミリアへ向かう何か特別の前触れなのか、まだよく分からないけれど。
 彼の言葉にエミリアは目をしばたき、ついで嬉しそうに笑った。いいの、と聞かれていいさと答える。いずれにしろ、彼女といればここ最近自分を取り巻いていた嫌な空気とは離れていられるのだ。
 ありがとう、というエミリアに首を振り、クインはもう一度絵に目をやった。塗り厚い絵はやはり重たそうな色の印象でしかなかった。
「いつか、ちゃんとあなたを描けたら……その絵をあなたにあげる。妹のためにこの絵を描いたように、いつかあなたのためにあなたを表す絵を描くわ、約束する……」
 エミリアの言葉にクインは頷いた。その瞬間にこぼれてきたのはやはり温かな感慨だった。
 凍ったようだった胸を、ぬるくほどかしてゆく、春の日射し。新緑の隙間から降る木漏れ日に似た、眩しい季節の前触れ。クインはそんな幻想が一時脳裏をよぎるのに任せて目を閉じ、エミル、と言った。
「俺の絵が出来たら見せてよ。見たいんだ」
 勿論、とエミリアが深く頷いた。
 それを見届けて、もう帰るよ、とクインは立ち上がった。酔いも醒めて来た頃合いであったし、今日は看護学校と言うことでタリアを抜けてきている。あまり遅くなってはチアロに心配も掛けるし不審を抱かせたくもなかった。
 今日が最後じゃない。それを思うだけで心浮かれるほど嬉しい。鞄を受け取ってアパートの外へ出ると、既に夜は深く人通りは殆ど無かった。月は変わらずに石畳に光の影を落としている。
 またね、とエミリアが彼の頬に軽くキスをした。それに照れたように笑い、クインはまた、と繰り返す。
 数歩行って振り返り、まだそこにいたエミリアにクインは言った。
「───クイン」
「え?」
「みんな、俺をそう呼んでる」
 それだけ言って、クインはぱっと駆けだした。気恥ずかしくて返事は待てない。その背後からまた、と叫ぶエミリアの声が弾んでいるのを知って、彼は唇をゆるめて笑みを作った。
 吐息のように細く、月光のように淡い、心底から浮いてきたほころぶ笑みを。

 ゆっくりと外周を回っていくと、さびくれた門構えが見えた。チアロは足を止めて彼の記憶の中の過去と照らし合わせ、やがて頷く。確かここで良かったはずだ。もう……4年ほど前のことであったが、おぼろながら所在地を覚えていた自分にほっと安堵する。
 鉄の飾り格子になった門扉を軽く押して中へはいると、庭にいた少年たちが一斉に稽古をやめてチアロを見、そして彼の背後の子供を見た。……身売りだと思われているのだろうか、視線が強い。チアロは苦笑し、彼に付いてきた子供の額をつついた。
「ショワ、外で待ってろ」
 子供はやや不満げに唇を尖らせるがチアロの言葉に逆らいはしない。チアロがライアンの子飼いと呼ばれているように、ショワは彼の一番近しい部下であり、弟のような存在でもあった。
 ショワが門扉の方へ戻っていくのを見据えてから、チアロは視線を前へ戻した。ぴしりという鞭が空気を割いて石畳を叩く音がしたのだ。その音に弾かれたように子供たちがまた稽古を再開した。殺陣、軽業、そして芝居の台詞と立ち回り。子供を監督する鞭をうち下ろした老人に向かってチアロは軽く会釈し、その側へ歩いた。
「何か用かね。うちは今は新しい子供は要らないよ」
 老人は椅子に腰を下ろしたまま、ぼそぼそと言った。チアロは首を振った。
「少し調べものをしてるんだ……もう10年くらい前に、この一座にライアンって子供がいたと思うんだけど」
「さて、年を取ると耄碌していかん」
 微かに空気の抜けた声で笑うと老人は再び石の床に鞭を叩き、何人かの名前を続けて叫んだ。
「何度教えたらいいんだ、この馬鹿どもが!」
 名前を呼ばれた子供たちが微かに身を硬くする。チアロはそれに首をすくめた。ここがライアンの育った場所だ。少なくとも6才を過ぎた頃から12、3まで彼はここで活劇芝居の役者をしていた──この子供たちと同じように些細な失敗に怒鳴られ、鞭で打たれながら。
 チアロはさっと彼らの目に走った怯えに気付き、お願いだから、となだらかな声を出した。言いながら内懐から10ジル紙幣を数枚掴みだし、老人の手に押しつける。それをさっと袖の中にしまい込み、老人はチアロをややすがめになりながら見上げた。
 誰を捜してるって、と聞き直されて、ライアンの名とこの芸団で活劇の殺陣役者をしていたことを告げる。老人はチアロの説明に何度か頷きながらぼつぼつと返答した。
 ───ライアンだってね? ……イダルガーン役の活劇役者か……ああ、そういやそんなのもいた気がするな……まぁ、お待ち。帳簿を探してあげようね。
 そうして老人が席を立ち、奥にある雑居用らしい建物へ消えていく。子供たちの殺陣の気迫が途端にゆるまって、チアロははっきりした苦笑になった。鬼の見ていない間にはやはり気が楽になるのはどこの世界も共通らしい。
 芝居の稽古を何となく視界に入れながら、チアロは長い溜息をつく。ライアンの履歴は大体を本人から、何かの折りに断片的に聞いたものをつなぎ合わせて理解している。彼はこの一座から老人の稚児に売られ、2年近くを慰み者に甘んじた後逃亡し、チェインに転がり込んできたはずだ。
 この劇団だと言うことには間違いがない。……何故なら4年前にライアン自身がここへ来たのにチアロも同行したのだから。あの時、自分もショワと同じように外へ出されてしまった。ライアンに付いている自分を、子供たちがうろんな目つきで見たのだろう。そんなことが今更分かる。
 ライアンが何をしに来たのか、その時には教えて貰えなかった。けれど、今は知っている──多分、正確に察している。今チアロがここへ訪ねてきたのと同じ理由によって、ライアンは4年前にここへ来たのだ。
 お願いよ、という声が遠い場所から蘇ってくる。チアロは吐息を長く落とした。彼女のことは特別だ。気位が高くて気質が脆く、鼻っ柱が強いくせに折れてしまいそうなほど弱い。彼女のことを思うたびに新しい息吹のようなものが胸の底に湧く。一目見た瞬間から何かに撲たれたように彼女のことばかりだ。
 恋だの愛だのという小難しい理屈は要らない。ただまっすぐに、彼女だけに視線も思いも向かっている──好き、なのだ。
(お願いよ、ねっ、いいでしょ? あたしのこと好きなんでしょ?)
 利用されているのだということが分からないほど馬鹿でもないが、彼女がそう思いたいならそれでも良かった。彼女のことに関する限り、馬鹿だと言われても構わない。
 要するに、何だっていいのだ。彼女が自分に頼ったり甘えたりしてくれれば、それがどんなにあざとい仕打ちであっても、誰かの身代わりであっても、八つ当たりであったとしても嬉しい。それが恋だ。少なくとも、チアロにとっては。
 シアナ、と彼女の名を呟くとそれだけで嬉しくなってくるのだから本当に馬鹿なのかも知れない。この名前は遊女としての源氏名だから、本名は別にある。それを教えて貰えるのは特別の印で、この調べものが終われば与えて貰えるはずであった。
(兄がね、いるの。会ったことはないんだけど、母がそう言ってたから……兄を捜して、お願い。年は私より7才上で、名前は……)
 シアナはややためらうように言葉を濁し、そして名前はライアンよ、と付け加えた。シアナの7才年長というのなら、それはチアロの主人であるライアンと同年齢であったはずだった。
 ライアン、と聞き返すとシアナは深く頷いてお願いよ、と幾分重い声になった。
(そう。つまりね、ライアンが私の兄なのかどうか、調べて欲しいの。私の母の名前はシルナ、南国沿海州の出身で言葉が片言だったから、母のことを聞いて貰えれば分かるかも知れないわ──お願いよ、ねぇ、こんなこと頼めるのチアロくらいしかいないの)
 最後に追加された言葉が目的を達しようとするあまりの無意識の媚びであったせいでチアロは反射的に頷いてしまったが、落ち着いてよく考えてみればこれも妙な話であった。
 ライアンはずっと彼女に通い続けている。シアナもライアンに夢中だ。けれど彼女は自分たちの間に血縁があるかどうかが気にかかるらしい。……ライアンとの絆を確かめようとしているのだろうか、それとも兄妹であったら関係が劇的に変化するのか。
 妹である方がチアロには都合が良さそうだった。気になる、というならば血縁が証明できればシアナがライアンを諦めるという選択が浮上する。シアナはそれを迷っているのではないだろうか。
 だがライアンはこの問いの答えを知っているはずだ。4年前に彼も同じ疑問を抱いてここへ、自らの母親の足跡を求めて立ち寄っている……恐らく。そしてそのまま関係を解消することなく続けているのなら、シアナは彼の妹ではない。概測をどことなく掴みながらも確信には至らないため、この芸団まで足を向けているのだが、回答は知っている気も胸のどこかにあった。
 やがて戻ってきた老人が、子供たちの様子をさっと一瞥して帳簿をめくり始める。古びた紙のカビ臭さが僅かに漂ってくる程度の時間が過ぎて、老人の指先が一カ所でとまった。
「この子だな……帝歴1978年9月、ライアン、6才」
 そうですね、と頷いたチアロにだが老人は自分で首を振った。違う違う、と呟き、その指がやや遅れた記録を辿る。この子だな、と指された帳簿には名前がなかった。チアロが訝しく老人を見ると、老人の方はひょいという仕草で肩をすくめた。このライアンって子はこっちの子を買う3日くらい前に死んだんだよと薄く笑い、付け加える。
「名前は母親が売りに来た時に聞いたはずだったが、忘れちまったんでね。だからこのライアンって子の名前をそのままつけた……」
 チアロは僅かに眉をひそめる。この老人の適当さ加減はここにいる子供たちの個々への関心など無いことの証明であった。金のない家ほど子供が多い。仕事を手伝わせたり、最初から無戸籍にしておいて売り払ったり、子供など物と同じなのだ。少なくともこの老人や、老人に子供を売った親にとっては。
 これに多少の不快を感じるのは、チアロにとっての父親が、決して理不尽で憎むべき相手でなかったことが幸いしているのだろう。チアロは気分を変えるためにそう、と務めて明るい声を出した。
「ねえ、じゃあこっちの子がイダルガーン役をやってたライアンだよね? 12か3でどっかの変態に稚児に売られた……」
「人聞きの悪いことを言うんじゃない、養子だよ、養子」
 チアロは今度は苦笑して分かったよ、と老人の詭弁に合わせた。実際のことはライアンの少ない言葉数の中から拾い上げた嫌悪感で察しているが、ここで実体のことを論議しても始まらないだろう。老人は養子だともう一度念を押し、それから頷いた。最前のチアロの言葉への肯定であるらしい。ではこの名無き子供がチアロの主人であるライアンであろう。
「じゃ、この子の母親なんだけどさ……異国人って話、ない?」
 ここでシアナの記憶と合致するならば、もう少し詳しく調べても良かった。これが噛み合わなければ他人だと断定も出来る。老人は怪訝に眉をひくつかせ、首を振った。
「いいや、異国人から子供を買ったことなど一度もないよ。言葉がおかしいと芝居に使えないからな」
 一瞬置いてチアロは頷いた。老人の言い分には道理があった。軽業なども見せてはいるが、この芸団の一番の出し物はやはり芝居だ。台詞がおかしいのは具合が悪いのだろう。
 間違いがないかを確認してチアロは10ジル札を老人に渡し、芸団を出た。門外で退屈そうにしていたショワが駆け寄ってくる。
「もういいの、チアロ? 何の用だった?」
「いや、お前には関係ないことだよ」
 軽く子供の柔らかい髪を撫でてチアロは多少巻き起こってきた感慨のために空を見上げた。
 ライアンとシアナは兄妹ではなかった。そうではないかと推測していたものの、呆気ないほど簡単に回答は与えられた。……けれど、これをシアナに伝えたら……どうだろう。
 彼女は今でもライアンに夢中だ。それに嫉妬さえ興らないのは自分もライアンを好きで、深く尊崇しているからでもあろう。彼の良くない所も沢山知っているが、誉めろと言われたら幾らでも出来る自信がある。
 けれど、嫉妬しないことと希望を持たないことは違う。いつの日にか、シアナがライアンに向けるような熱っぽく潤んだような瞳の中に自分を見たい。彼女のためになら、文字通り何でも出来るとも思う。
 そうやってかき口説いても何度も言葉を重ねても、身体さえ添わせていたって彼女の美しい翡翠色の目はいつでもチアロを通り越し、ライアンを見ている。兄妹でないと教えてしまったら、その目は二度とそこから動かないかもしれない……
 チアロは頬を僅かに苦笑に歪め、薄い色の髪をくしゃくしゃかき回した。教えてしまえばきっと一生彼女の都合のいい友人程度のものから脱却することが出来ない。けれど黙っているのは彼女が多少なりとも自分に向けてくれた信頼を裏切るのと同じ意味だ。
 告げるべきなのかどうかを考えながら、それでも生来の多弁な性質のままショワと雑談に笑い合いながらチアロはタリアの境界門を過ぎた。黄昏近い境界門の付近はこれからこの歓楽街で一夜を楽しもうという魂胆の人々によってごったがえしている。
 どうするかは彼女の顔を見てから考えよう、とチアロはショワに根城へ戻っているように言いかけ、ふと視線を彷徨わせた。既視感が視界の端によぎったのだ。
 チアロは反射的に人波の気配に自分を埋めた。これは習性と言うべきだった。視線だけでせわしなく気配の方向をまさぐっていると、細い身体が目に入った。
 ───今日は女装か。
 チアロはタリアに流入してくる流れに逆らって外へ行く、すらりとした立ち姿を見つめた。髪は適当に編んで後ろでまとめ、夏向きの淡い色のワンピースに編革のサンダルを形良い足に引っかけ、歩いていく。すれ違う人々が驚愕と賛嘆と、畏怖にも似た目つきで振り返るのが判で押したように同じで苦笑を誘う。華やかで匂い立つように美しい面差しを掘り起こし、チアロは眩しいような圧迫で目を細めた。
 初めて会った時の驚愕が、彼を見て目を瞠る人々の仕草に呼び戻ってくる。
「仕事っすかね」
 ショワの言葉に、チアロは我に返った。今日は仕事はなかったはずだ。本人が少し休みが欲しいと言っていたし、先月から看護学校にも通い始めているからそれに配慮する意味でチアロは頷いている。
 学校か、と思いかけてチアロは首を振った。授業は週に2度だが、仕事と重ねたくないという彼の言葉を受け入れ、毎週彼と予定を連絡し合っている。今日は一日何もない日だ。仕事は入れた覚えがないし、授業は確か、明日でなかったろうか。……それに、彼は学校には確か男のままの服装で通っていたはずであった。
「ショワ、奴を尾行しろ。とりあえず、どこへ行ったのかだけ分かればいい」
 さっと言いつけ、持っていた20ジル札と小銭を子供に押しつける。ショワはちらっと過ぎていく背中を見つめ、でも、と言いかけた。それを遮り、チアロは大丈夫だと素早く言う。
「奴はこういう事には素人だ、お前が奴をじろじろ眺め回さない限り、気付かない」
 尾行には通常二人以上があたる。ずっと同じ人間が視界にいれば気が付くことがあるし、連絡をしやすいという利点もあって、普通はそうするのだ。
 だが、それはないとチアロは即断した。ショワに言った通り、クインはこうしたことには疎く、反応が鈍い。それは仕方がないことだろう。ライアンは彼を仲間に引き込む気がなく、チアロも同じだ。
 仲間として迎えるのなら教えていくべきいくつかのことを、だから彼には伝えていない……例えば、尾行のまきかただとか。つまりショワ一人でも十分だ。チアロは既に身長が平均よりも抜けていて、目立つ部類に入るし、顔見知りは適任ではないだろう。
 雑踏の中からどうやらクインは抜けたらしい。人の吐息や視線の方向がばらけて戻ったことですぐに分かった。チアロも目立つがクインはもっと人目を引く。一瞬見失ったとしても、人の気配の方向で探し出せるほどに。
 チアロは肩をすくめてチェインへ戻り、彼の根城となっている煉瓦屋敷の地下から水路に降りた。そこを経由してクインの住処であるアパートへ回る。合い鍵は持っているのだ。
 書斎の机近くには、登校時に使っている鞄が置かれていた。相変わらず、適当に積み上げた本と訳の分からない書き付けが散乱している汚い部屋だ。
 机の上の意味のない単語の書取、専門用語の辞書だろうか分厚い本にびっしり挟まれた紙片。それらをそっと動かして、チアロは引き出しを開けた。こちらも整理整頓とは無縁に文具が散らばっている。
 引き出しをゆっくり滑らせて、中の物の位置をずらさないように気を使いながら手を奥へ突っ込むと、やはり何かが指先に触れた。隠し物は引き出しの奥、というのは本当に常套だ。
 紙片のような物を指でつまんで引き出すと、それは一枚のカードだった。幻想的な青い色は海なのだろうか、そこに微笑む天使と群れ泳ぐ魚を配した美しい絵が印刷されている。
 裏を返すと地図と日付があった。父親から最低限の読み書きは教えられていたせいで、チアロはごく簡単な構文は理解できる。いくつかの単語は読めないが、絵の展覧会の案内状だろうということは察しが付いた。
 絵か、とチアロは少し眉を寄せる。……確かクインの最近の仕事の中に、絵を描くとかいう若い女がいたはずだ。オルヴィから仔細の申し送りを受けた時に、そんなことを聞いた気がする。
 それとすぐに結びつけて考えるのは性急すぎるとは思うけれど。
 チアロは溜息になった。カードを元の場所に戻し、違和感のないように慎重に引き出しを閉めて居間へ戻る。一応の用心のために切っておいた明かりをつけて、ゆるく首を傾げながら長椅子に身を預けた。
 ……クインの様子は確かにこの半月ほどおかしい。明らかに浮かれている。それにはとうに気付いていたが、元来気性の上下の激しい子供のことであるから悪い時があればよい時もあるのだと考えてきた。
 ……だが、チアロに何も言わずタリアの外へ出かけていくとなると、何かの秘密を持っていると思った方がいいだろう。
 折りもおり、ライアンが居ない。彼はオルヴィを連れてシタルキアの北東、エリオン王国に足を向けており、あと1ヶ月は戻ってこないだろう。タリアを離れる直前にクインとまたひどくやりあったらしく、そんな話をライアンからは聞いた。留守中は頼むと言われて頷いた記憶がある。
 まずいよな、とチアロは額に落ちる髪をかき上げるついでにくしゃりとかき回した。ひどく明るくて楽しげなクインの表情には確かに安堵も覚えるのだが、地に足の着いていない浮かれ方は……恋だろうか。チアロは顔を一瞬歪め、自分の表情が渋いことに遅れて気付いた。それは彼のためにいいことだ、とは思う。けれど彼のために素直に喜んでやることは出来ない。
 クインはライアンのもので、だから許容されていることが沢山ある。ライアンの掌握する子供たちの幹部と呼ばれているのは現在チアロを含めて6人だが、クインに多少なりとも好意を抱いているのはチアロくらいのものだ。
 ディーもノイエもカインも彼を疎ましく思っているし、残る二人、イシュラやカリスに至ってはライアンが彼を所有することにさえ不満げな色を漂わせている。無論チェインの王たるライアンに面と向かって異を唱えはしないが、何か不祥事があった時にはこぞって処分を吠えるだろう。
 6幹部に更に一人増えるという噂もちらほらあるが、そうなれば事態は更に悪くなるのは明白だ。追加が囁かれているのはオルヴィという女……クインの目下の天敵。
 チアロはちょんと肩をすくめた。ショワの報告を待たなくてはいけないしこれが杞憂であると思いたいが、常に事態の想定はしておくべきだった。
 恋人が出来たなら、それはクインにとってはきっと良いことのはずだった。これまでのように思いを預けようとライアンに寄りかかっては拒絶され、その結果荒れるだけ荒れているよりは遙かにましだ。
 けれどそれを喜べない。ライアンはなんて言うだろうとチアロは溜息になった。彼は気に入らないのに決まっているからだ。それは所有欲というよりも体面の問題で、チェイン王としての顔を潰されることがあれば、タリア王アルードへの示しも具合が悪い。そもそもクインのことはアルードには隠したいはずだ。いずれ、クインは何事かの切り札にも使えるとライアンは考えている。
 何が起きているのかがはっきりするまでは彼の様子を逐一観察するしかないが、もし外の世界に恋人が出来たなら……
 チアロは難しい吐息を落とした。その時は彼に、忠告をしなくてはならない。ライアンのいない時機であるのは却って好機だ、忠告を素直に聞いてくれたら自分の胸の中にだけ、収めておけばいいのだし。
 そんな言い訳を胸でいじりながら、チアロは嫌な懸念が自分から一向に離れていかないことに舌打ちをした。
 ぼんやりした光景には色がなかった。薄い煙幕のような白黒の世界に、ぼやけた焦点の格子木が見えている。
 ああ、これは夢だ。それを知覚した途端、ぬるく体が溶けていきそうな感覚が興った。視点が低い。まだ幼い自分の見ていた、遠く古い目線の焼き直し。格子の向こう側にもつれあった男女が見える。のたうつように身をよじり、意味のないあやふやな言葉を叫んでいる女と、それを殆ど殺すかのような勢いで攻め立てている男、右肩の傷。
 視点はゆっくりと格子の中へ分け入って男の右肩を視線で撫で、女の傍にすとんと座り込んだようだった。女が自分の手を握る。一瞬ぎくりとするほど熱い。
(ねぇ、見てて、見ていて、ねぇ、可愛い子ねぇ、どこから来たの?)
 浮かされたように口走る女に視線が上下する。自分は頷いたらしい。
 どこから来たのという問いに答えるように、子供特有のふっくらした手が上がり、女の腹を指した。自分の唇が動いて何かを言ったようだった。それの何が良かったのか、女がけたたましく笑う。それに合わせて男が笑っている。
 笑う。笑う。嘲り、蔑み、侮る声が幾重にも、ぐるぐる、めまぐるしく、ひたすらに、笑う笑う笑う笑う──……
 これは夢だ。強い声が胸の奥から囁いている。それに導かれるように決然と目を開けると、そこは柔らかな光の中だった。窓から淡い光線が差し込んで、白いシーツの波間に優しい灰色の影を作っている。
 それを目にした瞬間、これが現実だと身体が理解したようだった。すうっと肩から力が抜けて、自分がひどく身を強張らせていたことがやっと分かる。
 長い溜息を肺から押し出していると、隣にいた男が身じろぎした。起きたかと言われ、目をしばたいて素っ気なく頷き返すと男は腕を寝台傍の小卓に伸ばした。煙草だろう。何度かこの男と共に朝を迎えたことがあるから、寝起きの最初が一服から始まることは知っていた。
 身を起こしてその通りに煙草を始めるライアンの仕草はもの慣れていて、そもそもの印象の通り、素っ気ない。けれど、それは自分も同じだ。何もかもは過去へ置いてきた。今まで寝てきた全ての男たちも自分に同じものを見て、苦笑したではないか。
 終わればすぐに醒める女。痕跡も空気も全てを呆気なく消してしまう奴──つまり、なつかない犬。
 そんな喩えを思い出して、オルヴィはそっと視線を伏せた。考え事をする時は、ことさら無表情になる。それが子供の頃からの韜晦の手段であり、母とその周辺の男たちへの目眩ましであった。
 オルヴィは薄い毛布の下で身体の位置を変える。枕に肩まで押しつけるようにして、まだまどろみに半分ほど漂っている気分のままに目を閉じた。眠るかと聞かれて目を閉じたままで首を振り、少し、と呟いた。ライアンの返答はない。ないが、それは了承の沈黙であるように思われた。
 母の夢を見るのは久しぶりだとオルヴィはまだ脳裏に鮮明に残るそれを、じっと見つめる。古ぼけた格子棚は母の店、シタルキア南部の都市メーリンの、安い妓楼の立ち並ぶ地域の更に隅にオルヴィは8才まで育った。特段美少女ということでもなかったため客には適当に邪険にされながら成長したが、その生活の終わりは母の人生の終わりでもあった。
 だらしのない男に惚れ、男の言うままに麻薬に手を出し、最期の血の一滴までも啜り尽くされて死んだ母。最後にはオルヴィのことさえ分からなかった。中毒のせいで濁った白目でぎょろりと娘を見て、どこから来たのと同じ事を繰り返し聞いた。
 あの草をやる奴は馬鹿だ。馬鹿だから踏み込むのか、あの草の見せる胸の悪くなるような幻影が馬鹿にするのかは知らないが、あんなものに溺れるやつは生きていく価値なんかありはしない。死ねばいい。母のように惨めに。
 僅かに眉根を寄せて深い溜息をつく。母親の死んだ後は債権者によってタリアの非組合の娼窟へ送られ、8才の夜から客を取った。その娼窟には当時の自分よりも更に幼い少女もいたから、そうした好みの客専門だったのだろう。
 12の時にその娼窟の主人も借財のせいで逃げ、すぐに掴まり、自分たちの見ている前でなぶり殺しにされた。それまで奇妙にねっとりした声音で自分たちを扱っていた男が絶叫と苦痛にのたうち、緩慢に死んでいくのをじっと眺めながら、オルヴィはひたすら口の中で同じ事を呟いていた。
 ──私は石だ。石になろう。何も思わず感じない石だ。石になろう、石になろう……
 転売された先の娼窟でも、オルヴィはあまり売れない女だった。笑わない、愛想も言わない、もの暗い表情の女はやはり敬遠されるのだった。とびきり美しい面立ちであれば違ったろうが、生憎そんなものは持ち合わせていない。
 あまりに売上が悪くてその娼窟からたたき出されたのが17の時、そのままオルヴィは迷うことなくチェインに足を踏み入れた。タリアの少年王のことは時折聞いて知っていたし、娼窟で知った数人の顔なじみもいる。あまり不安はなかった。チェインに女は珍しく、そのせいで数度は手酷い目にもあったが、それはオルヴィの中に決定的な傷を残さなかった。
 ──私は石だ。何も感じない石。
 それが全てを傍観するための呪文だった。それさえ胸の中で呟いていれば、やがて災厄は遠くなった。いくつかの傷、些細な諍い、保険のために寝てきた少年たち。そんなあやふやなつての最後に立っていたのがチェインの若い王だった。王という古めかしい言葉の持つ重い澱みを確かに感じた相手。
 お前と似ているだろうと皮肉を言って笑っていたのはどの幹部だったろうか。あるいは全員だったかも知れない。オルヴィがライアンの愛人であることは周知のことであり、それ故に一段蔑まれていることも知っている。幹部たちの中で一番馴染みがあるのはチアロだが、彼にしたところで腹の中でどう思っているか知れたものではないだろう。
 無論ライアンと寝たのは単なる保険だ。自分の足場を僅かにでも確保するためのことで、それ以上ではなかった──はずなのに。
 毛布の中でオルヴィは身じろぎし、右耳の貴石に触れた。一体何が起こってライアンがこれを自分に寄越したのか全く見当が付かない。宝石には詳しくないが、色の濃い石は高いと聞いているし、タリア王からの下賜品だとライアンが言っていたはずだ。安い品ではあるまい。
 そのことを思う時、オルヴィはひどくせわしない気持ちになる。土台ライアンから何かの形あるものを貰う、ということ自体が違和感なのだ。彼は単に自分を便利な道具のように扱っていたはずだった。少なくとも、最初の頃はそうだった。
 それがどうしてこんな宝石になって戻ってくるのか、それが何故なのか、どう判断していいのか分からない。有り体に言うならば、面食らっている。一体ライアンは自分をなんだと思っているのだろう?
 そこまできてオルヴィは自問の馬鹿馬鹿しさにさっと頬を歪めた。ライアンにとって一番大切な女は妓楼の中にいるはずだった。彼の視線をもう長く独占しているというその遊女の名前も顔もオルヴィは知らない。妓楼での宴席には正直なところ自分の居場所があるとは思えなかったし、ライアンも自分に来いとは言わなかった。
 知らなくていい。オルヴィはそっと頷く。多分、知らない方がよいことなのだ、これは。この奇妙な怖れがどこから来るのかも、考えるな。
 ───私は石だ。何も感じない、何も思わない、ただの石くれ。
 胸の中に呟き続けていると、かつかつという硬い音がした。煙管の灰切りだろう。気配は再び火種石をいじっているからもう一服というところか。
 既に神経は覚醒へ向かっていて、目を閉じていても眠りに落ちることはなさそうだった。オルヴィはゆっくり体を起こし、ばらばらに落ちてきた髪をかき上げる。横目でちらりとライアンを見ると、彼の方はゆるくくわえた煙管の先に火種を移すところだった。
 面伏せた瞼のくっきりした外殻線、煙管を撫でる整った指先。あの手はいつでもひんやりと冷たい。ライアンはいつもと変わらぬ無表情のまま、煙草を繰り返している。深い呼吸にずっしりと重い存在感があった。他人と同じ事をしていてさえ、身から漂い始める重い威圧がある。
 これは確かに美しい男であった。力ある雄にだけ現れる薄紗のような煌めきが時折、はっとさせる。そもそも役者のような整った面差しでもあるはずだが、彼の身に付いた空気に比すれば全く目立たない付属物であった。
 それとも、とオルヴィはふと思う。ライアンの面輪に大して感慨を強めないのは更に美しい顔貌を知っているからかもしれない。美貌というならばあの少年であることは間違いがないのだから。
 そしてオルヴィは渋面になった。元からあの少年はオルヴィを気に入らなかった。何故始めから悪意で迎えられたのかは分かる。彼はライアンの関心を引きたくてたまらない上に、チェインの少年たちとは折り合いが悪い。オルヴィもその一翼に見えていただろうし、いつ頃からか更に憎まれるようになった。誰かから漏れたのか勘付いたのか、オルヴィがライアンの愛人であることを知ったのだろう。
 いや、元から気に入らなかったのは自分も同じだ。最初にライアンに連れて行かれたアパートで自分を見た少年の目が、ざっと一瞥した後にぬるい軽蔑へ変わったのは確かに見た気がする。取るに足らない相手、まったく自分の敵ではないという表情だった。
 嫌な奴。それがクインに最初感じた感触であり、時間を経過して接触が増えるほどそれは強まっていった。
 確かにあの美しい面輪は特別の産物だ。一つ一つの表情や仕草でさえ、それがどんなに乱暴で斜に構えた偽悪であっても、目を奪うほど美しい。けれどその美貌を鼻に掛けた態度や人を小馬鹿にしたような口調はどうしても腹に据えかねる。
 だから時折はライアンとの関係を盾にとって彼をからかう。そうすると透けるほど白い肌がさっと怒りのために紅潮するのだ。それさえ美の範疇にあるのはさすがであるかも知れなかったが、屈辱感さえ口に出来ない品高さが少年を荒らすことは予測が立てやすかった。
 ふん、とオルヴィは唇だけで笑う。そんな笑い方がライアンに似ているとチアロが以前苦笑していたはずだった。似ているだろうか、とふと湧いた疑問をこね回していると、これだけは確かに似たような吐息がぬるく落とされるのを聞いた。
「……あれのことを考えているな」
 ライアンの表情はぬるい。オルヴィは目線だけで肯定した。
「あまり嫌味な客を選ぶな、奴がどういう客が気に食わないかくらいは知っているだろう」
 その作為はとうに知れていたようであった。オルヴィは肩をすくめ、返答をしない。そもそもあちらも気に入らないという理由だけで当日でも平気で撥ねつけるのだから、オルヴィだけが不興を買うのは公平でなかった。
「不満か? だが、奴を荒れさせることは感心しない」
「あの子が私を嫌いなんだ。何故好かれるようにしなくてはいけない」
「機嫌は取らなくてもいい、配慮してやれと言っている」
「同じ意味だ」
 オルヴィは短く返答し、寝台から降りた。裸のまま部屋を横切り、適当な服を拾ってかぶる。
 エリオンはシタルキアの北東に位置する国で、夏近いとはいえ裸身だと肌が冷えた。服の内側から小さな薬包が転がり落ちるのに目を留め、オルヴィはそれを拾いあげる。
「……煙草にでも入れたらどう、ライアン?」
 当てつけの嫌味を呟いて彼にそれを放り投げる。寝台の上にどうにか届いた薬包をライアンはひらき、灰皿へこぼした。微かに鼻を突く、甘い匂い。エリオンの裏の市場で高価に取り引きされている麻薬、その精製された顆粒はどの種類でも多少の差はあれ、甘い匂いをしている。
 エリオンまで出向いているのはこの麻薬の以前の取引筋との契約の為だ。彼がアルードから下賜された麻薬筋は殆どそのままライアンの手元へ収まったが、重量の単価や取引のための符丁などは一度打ち合わせなくてはならない。
 いくつかは別の取引先からの申し出もあるようで、実物は吟味しなくてはならないしその元締めとも顔を繋いでおく必要があるだろう。自分が伴われてきたのはその為だ。母の妓楼で初歩の筆記と計算は覚えている。チアロでも良かっただろうが、この点は恐らくクインのためにあちらを残したに違いない。
 そしてこれはオルヴィにとって、紛れもなく大きな転機の機会となるはずであった。麻薬筋のことはライアンの掌握する事柄の中でも金額からして大きな項目の一つだ。その基本的な契約の提携に立ち会い、彼らの語る方針を書き留め、簡単な試算を出すことでその基盤に深く、大きく食い込むことが出来る。
 それを思うと薄い興奮がオルヴィにも上がってくる。チェインの中で勝ち上がろうと決めた時から、ライアンはオルヴィにとって当面の寄生先だった。彼はチェインという小さな王国に君臨する絶対王だ。
 もしくは、とオルヴィは頬を厳しくした。クインと相容れないのはお互いの寄生の邪魔だと感じているからかもしれない。クインがどんな事情でか知らないがライアンに頼っているのと違う事情で、しかし同じようにオルヴィも彼に頼っている。宿主を取り合っているのだと思うとやはり面白くはなかった。
 オルヴィの渋面をどう受け取ったのか、ライアンが視線で意味を問うてくる。オルヴィは別に、と素っ気なく返答してから付け加えた。
「あの子のことなら、するべきことはしている。あちらが気に食わないのは勝手だが、私は配慮してるつもりだ、十分に。金払いのいい、後腐れのない相手をちゃんと選んでやっている」
 ライアンは僅かに溜息をついて薄茶色の顆粒の上から煙管の火種を落とした。灼熱の小さな塊がそこへ転がり落ち、微かな音を立てて薬粒を焼く。彼は薬はやらない。オルヴィと同じく、あの草に手を出す奴は愚かだと知っているのだ。
 風に乗って漂ってくる、ほんの僅かな甘い匂い。母の体臭とよく似ている。記憶の中の嫌悪と。
 それから逃れるようにオルヴィは浴室の扉を開けた。ライアンの肌には既に煙草の匂いが染みついていて、一晩傍にいると何故か眩暈がする。肺の中に差し込んでくる空気が細胞を侵していくような、きつい、感触。オルヴィは首を振り、水栓をひねった。一瞬おいて、受口から冷水が小雨のように落ちてくる。
 肌をこぼれていく人工の雨が、むず痒い。自分の髪から鬱そうと煙草の移り香が立ち上り、やがてそれは水と共に流れ落ちる。彼の煙草の匂いが薄くなっていくのに連れて、オルヴィは長い吐息を落とした。
 気に入らない。
 あの子も。
 妓楼にいるという彼の女も。
 肌をかすめていく煙草の匂いも。
 嫌悪と呼ぶにはひどく薄い感触がして、それでも何かが変わっていく──剥がれ落ちて。
 オルヴィは唇だけで暗く笑った。
 金払いのいい、後腐れのない客は確かに選んでいる。その先のクインの嫌悪のことを思って意地悪くほくそ笑むのは、クインの自分に対する嫌悪の鏡であり意趣返しだ。せいぜいねちこい相手にいたぶられればいい。
 そのせいで荒れていく様子は確実に溜飲を下げる遊戯であった。変化をつける為にあの変に素人臭い女を混ぜてみたのも、その落差を激しくするための布石だ。男客への憎悪に近い嫌忌との比較でいっそ、どの女でもいい、駆け落ちでもしてくれたらライアンも彼を処分しなくてはならなくなるのに──……
 オルヴィは肩を軽くすくめた。そんな都合のいいことは滅多に起こらない。だからこそ続ける意味もあるのだと、そんなことを思った。
 看護学校の課題を終えてクインは綴りの右肩を紐でとめた。ぱらぱら読み返しても全く欠損が無くて我ながらいい出来だ。その欠損には、わざといくつかの間違いを混ぜてあるところまで含まれている。
 ……幼くて魔導論文を書き散らしていた頃、欠陥を故意に作ることなど思いもしなかった。
 あの苦い失敗はしてはならない。目立ってはいけない、看護学校とて医療行為の一端に噛む故に、魔導の扱いは教えているのだから。
 医療と魔導は既に切れない縁で結ばれつつある。黒死の病に唯一効果のある薬は魔導と医術の融合によって出来上がるものであるし、その他にも難病といわれるものに対処する高価な薬には大抵魔導の効果が組み込まれているのが普通だ。
 医者の為の医療学校と看護士のための看護学校は多少内容は違うが、行き着くところは人間の病と向き合う為の技術であって、医者が基本的な魔導の扱いを知っていると同じように看護士にもそれが求められている。
 そして、それゆえに魔導学を修めている学生たちとの研究会が存在した。クインの通っている学校にもある。大抵は優秀な学生を高等学院へ出向させるのだ。
 だから成績も適当な匙加減を加えて卒業には支障ない程度に押さえてある。普通よりは少し上あたりの階層を彷徨わせている成績と合わせて、同じ学生同士の研修会でも目立つような発言は慎重に避けた。
 自分は、よくやっている。クインは自己満足に小さく笑うと課題の綴りを鞄へ放り込んだ。今日は仕事もないし、学校は明日の夜だ。さて、とわざとらしく腰に手を当てて机の斜め上に切られている窓の向こうを見やる。白くなめらかな皇城の壁面が一面夕映えの薄陽に染まり、雲のない空は夏の訪れを宣言するような、突き抜けた朗らかさだ。
 どうしようかなと首を傾げてみる傍から自分がひどく機嫌良く笑っていることにクインは気付く。
 けれどそれは少しも嫌な気持ちにならない。何かの特別なことがあったわけではないのに、心の底が仄かに明るくなったような気分になる。
 それが何のせいなのかは知っていた。エミリアは唐突で気まぐれとしか言いようのない頻度と時間にまたがる彼の訪れを、いつでも喜んでくれた。他愛ない話、単なる雑談、それに愚痴、そんなことをいちいち真剣に笑ったり驚いたりしてくれる。
 甘えているんだということは分かっていても、居心地のいい許容を手放す気はなかった。ほんの一時態度を弛めていた客たちにも最初の頃のような権高い表情を作れるようになってきている。客に媚びなくなってきたことで、蓄積されて行かなくなったものもあった。
 やっと自分の均衡を自分で操り始めたようで、それも心穏やかにしてくれる。
 全てが良い方向へ転がり始めた。追っ手のことや自分の出生のことは追々考えて行かなくてはならないだろうが、ともかくほっと呼吸を温くできる場所があったことが何より大きい。
 どんな時間に行っても彼女は大抵一人で絵を描いていた。静物もあったし、窓からの風景もあった。その全てに共通するのは彼女の素朴で清潔な明るさで、それを線画の奥に僅かに感じるたびに、何故だかひどく嬉しくなる。
 そして急に照れくさくなってきて、髪をかき回してクロゼットを開けた。一瞬迷って夏の薄く柔らかいシャツを選んで簡単に着替える。客との商売の時は女装も多いが、身長や骨格の堅さが次第に彼を大人にしていった。決定的な違和感ではなかったが、既に女装よりは男装のほうがしっくり馴染むようになっている。
 度の入っていない眼鏡を探していると、部屋の扉が開く音がした。クインは振り返る。このアパートへ訪ねてくるのなら、今はチアロくらいしかいない。ライアンはあの女を連れてどこかへ出ているようで、この一月、消息さえ聞かなかった。
 居間の方へ出るとやはりそれはチアロであった。クインに向かって軽く手を挙げ、途中で買ってきたらしい袋を長椅子にそっと置いている。硝子の鳴る音がしたから水の瓶も入っているのだろう。
「ありがとう……仕事?」
 クインは袋の中身をざっと覗きながら言った。チアロはひどく曖昧な返事をして、お前は、と聞き返した。クインは一瞬怪訝に友人を見る。何かを聞いた時に質問で返すようなことは今まで無かったからだ。
 淡い不審がうっすらと胸に広がっていく。エミルのことは知ればいい顔をしないだろうという予測が先にあったから、クインは別に、と答えた。適当にいつも引っかけている部屋着でないのは本当だったから、素早く付け足す。
「別に、買い物でも行こうかと思ってただけだよ……どうかしたのか」
 じっとチアロを見ると彼はうんと頷いて笑ったが、やはり薄墨のような曖昧な予感が表情に張り付いている。クインは長椅子に座り直してどうしたんだよと強い声を出した。チアロはそれで肩をすくめた。
「怒るなよ、別に駄目だっていう訳じゃないんだから……俺はただ、彼女の所にでも行くのかと思ってさ」
 彼女、という単語が耳に突き刺さってクインは一瞬ぎょっとする。こんな言い方をするのならエミリアのことを確実に知っているのだ──ということに思い至り、次の瞬間にそれが苦い感情に、どうしてという疑問は監視されていたのだという推測に変わった。クインは顔を歪めた。
「……俺が自分の時間を何に使っても自由だろ」
 声音はすり切れたように低かった。チアロは苦い笑みを崩さない。違うと言葉で否定されるよりもそのほうが胸に応えた。
「何だよ、俺がどうしていようと関係ないんだろう、ライアンだってそう言ったじゃないか」
「クイン」
 チアロは困ったような声を出してクインに近寄り、肩を叩こうとした。なし崩しに宥めるような仕草をクインは咄嗟に振り払う。ライアンに突き放された怒りをいつもチアロがそうやって慰めようとしてきた──今度も同じような対処をしようとする友人の態度が面白くなかった。
 チアロは諦めない。再びクインの肩に手を伸ばし、今度は捕まえて優しく揺すった。
「なあ、何で駄目かは分かるだろ? 今ならライアンもオルヴィもいないし、他の幹部連中にはまだばれてないし、どうにかなると……」
「うるさい」
 クインはチアロの手を押し戻した。チアロは僅かに目を見開き、視線を落とした。それがひどく傷ついたような表情であったことで、クインは微かに罪悪感を覚える。自分が辛く苦しくて荒れるだけだった時間に、傍にいて話を聞いてくれたのはチアロだけだったのに。
 ごめん、と決まり悪く呟くと、チアロの方は温んだ笑みになった。
「……何で駄目なのかは知ってるはずだ、クイン。今ならあんまり深い傷にはならない」
 クインは首を振る。やっと手に入れた場所を、この一言で放棄する気になど全くならない。エミリアが彼にふんだんに与えてくれるなだらかな日だまり、突き抜けて明るい空気、何よりも心穏やかに彼女の優しさにしなだれて覚える安息を手放すなどどうして思えるだろう。
「いやだ」
 ふて腐れたような声でクインは言った。ぷいとチアロから視線を逸らす。友人は彼の肩を撫でるようにさすり、ますます優しい声を出した。
「なぁ、頼むよ。……そのぅ……お前があんまりライアンの所有の範囲から逸脱すると俺もちょっとまずいんだよ、なにせライアンの留守中のことだからさ。俺のこともたまには考えてくれよ、な」
 柔らかい声だった。クインは横目で友人を見やる。彼に縋るような言葉とは裏腹に、その顔は少しも困惑していなかった。むしろ、淡い哀しみのような気配さえする。チアロは自分を下げてでもクインを引き留めようとしているのだ。
 それはクインには出来ないことでもあった。だからクインはやや態度を和らげる。そんなことまで友人にさせたことは確かに罪悪感になった。
 でも、とクインは顔を上げる。チアロの配慮を嬉しく感じ取るのと、エミリアに自分の負の部分を預けることは全く比重が違うことなのだ。
「お前しか知らないっていうなら、黙っててくれよ──なぁ、いいだろ? ライアンはあんなだし、俺は……俺は、ただ……別に恋人とかじゃないんだし……」
 ねじれた言い訳を呟きながら、クインはチアロの腕を掴んだ。チアロは首を傾げて溜息になった。
「クイン、俺は忠告をしているんだよ。お前はライアンのものだ、違わないだろう? なのにタリアの外で女と会ってる。他の幹部たちに知れたら、彼らはお前を処分しろと言うはずだ」
 クインは煮え切らない返答を喉で鳴らす。チアロの言うことは出鱈目の恫喝ではなく、十分に予測される未来であった。最終的にはライアンの胸一つでもあるが、幹部たちが口を揃えて処分を吠えれば無視することは考えにくい。配下の意見を尊重するというよりは、それによって傷つく彼の体面と矜持を優先するだろうということだ。
「ライアン、いつ、帰ってくる……」
 苦い気分のままクインは呟いた。チアロは僅かに迷った後、来月の半ばにはと答えた。一緒に行ったオルヴィからの連絡があったようで、大体の経緯は知っているらしい。
「だから頼むから、もう」
 行くなと言いかけたチアロの言葉を、クインは素早く、強く遮った。
「いやだ」
 殆ど泣きかけているような声だと自分で思った。けれど、それが却って自分の意志を強く固めたような気持ちを連れてくる。
 いやだ、とクインは繰り返して素早く、勢いよく立ち上がった。チアロが驚いたように微かに目を瞠る。それは本当に不意を付かれた時の彼の癖だ。僅かにそれで溜飲を下げて、クインはいやだと三度目を言った。
「ライアンは何もしてくれない、俺はもう奴のことを考えたくないんだ、もう嫌なんだ、うんざりしてるんだよ、どうして分からないんだ!」
 叫ぶ自分の声に吊り上げられるように、苦く痛い記憶ばかりが脳裏からあふれ出てくる。ライアンの冷たい声音までを思い出してクインは一瞬上がりかけた涙を飲み込んでもう嫌なんだ、と怒鳴った。
「分かってる、それはよく分かってるから」
 宥めようとするチアロの肩を軽く突き飛ばし、クインはたまたま放り出されていた眼鏡を掴んでまっすぐに扉へ向かう。待てよと追いかけようとするチアロを一瞥振り返り、何が分かってるんだよと低く小さく、唸るように言った。
「分かってるなら放っておいてくれよ、俺は大丈夫だから」
「クイン、でも、」
「ライアンは勝手だ、だから俺もそうするんだ。何がいけないのかなんて、知るかよ!」
 鈍く冷たい怒りのままにクインは吐き捨て、外へ走り出た。乱暴に扉を閉め、階段を駆け下りる。路地は既に紫色の暮刻の中で、建物の輪郭線までが不明瞭な闇に沈みつつある。
 普段使う地下水路を放棄して、ただチアロとその向こうにいるはずのライアンやその幹部たちへの当てつけの為だけに、クインは地上を駆け出した。
 エミリアに会いたい。何を言われても、どんな制約があっても、彼女に会ってこの吹き上がってくる怒りや苛立ちを宥め鎮めてやりたい。
 会いたい───それだけでいいから。
 走ってタリアの境界門を抜けると、急速に力がゆるんだ。膝に手を当ててしばらく呼吸を整え、エミリアの住居であるアパートへ歩き出す。部屋を飛び出した時にチアロが何かを叫んでいた気がするが、それはもう分からない。
 それから黙って突き飛ばされてくれたのが彼の優しさであることに気付き、クインは溜息になった。チアロのことを憎くなど思えない。
 だからそれはその果てにいるはずのライアンへと流れ込んでいく。憎しみだと単純に言い張るよりも遙かにねじれている感情が強く、強く、体の中に根付き増殖していくのがはっきりと分かった。


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