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 ───それは、深くて暗い色であった。心に潜むの深淵の、その更に奥にあるようなひっそりとした闇。通りを照らす沢山の灯火が夜の沼に映るようにぼんやりと輝いている。
 クインは僅かな時間、呼吸さえ殺して目の前に広がっている美しい闇を見つめていた。自分の目に映っている現象が一体何であるのかさえ考えられない、真っ暗で空白の時間。
 どこかで見た。やっとその沼から浮いてきた気泡が割れて、耳の奥で囁いている。どこかで知っている。見たことがある。この色を。瞳の深い美しさを。懐かしささえ覚える奇妙な既視感を、だが不思議と違和だとは思わなかった。
 懐かしい? 知っている? けれど、確かに初めて見る少女だ。それは間違いがない。就学していた頃も飛び級が多かったクインの身辺には、同年齢程度の少女たちは殆どいなかったはずだ。それとも流れていく先々の、沢山の町ですれ違ったのだろうか。けれど、多分出会っていたなら彼女を忘れない。それだけは何故かはっきりと分かる。
 ふっとその瞬間、瞼が動いた。瞬きであることにクインは一瞬置いて気付いた。それでやっと現実の知覚が戻ってきたようになる。
 周囲の雑踏とざわめきは普段と変わらない。けれど、ほんの瞬き一つの間の刹那、確かに時間が止まったような永遠があったことを、クインは半ば呆然と掴むように、自分の胸元あたりに手をやった。
 その耳に微かな吐息が聞こえた。少女が喉を僅かにならしたのだ。彼女もまた驚愕していた。大きな瞳の中の星々がこぼれおちそうなほど、一杯に見開いた目がじっと自分に当てられている。
 魂を吸われるような感覚を覚えてクインは微かに後ずさった。その下がった分を詰めるように少女が格子にすがりつくようにして、彼に指を伸ばそうとする。整えられよく磨かれた爪がそっと自分の袖に触れ、こわごわと撫でてから掴んだ瞬間、クインは淡いしびれのようなものに背をふるわせた。
 身体の末端が痛い。痛くて、───分からない。
 何かを言おうとしてクインは唇を薄く開き、そしてそこが渇いているのに気付いた。長い一瞬、目を閉じてクインは呼吸を深くする。そうすると胸の奥の痛みが僅かに切なく焦れて別の痛みに変わる気がした。きゅっと袖が強く引かれた。クインは再び視線を少女へ与える。
 よく見れば飛び抜けて見目の麗しい少女というわけではなかった。吸い込まれそうなほどの大きな瞳と、黒髪に良くはえる白い肌が美しいが、肌の方は年齢ゆえのものもあるだろう。化粧がごく薄いのは肌の元からの良さを全面に出す為の所作なはずだ……自分だってほとんどしないから分かる。
 少女はまだじっと彼を見ている。彼女の湖沼のように鈍く光をはらむ瞳に自分がいるのが見える。
 彼女が何故自分を見つめているのかは、クインにとっては考えるまでもないことであった。彼に出会う者たちはその時間の多少や驚愕の表現こそ違え、みな一様に彼の圧倒的な美貌の前に呆然とする。
 だが、いつものように何を見ているのだと意地悪く微笑むような仕草はどこかへ消えてしまって出てこない。だからそれ以外にどんな反応をしていいのか分からずに、クインもぼんやり相手を見つめ返すしかできていないのだった。
「お前……」
 クインは低く呟いた。とにかく何かを言わなくてはと思ったのだ。少女がゆっくり頷く。視線だけは彼にぴたりと合ったまま動かない。
 大きな目だ、とそんなことを思った。吸い込まれそうなほど。
 お前、とクインは二度目を言いかけた。だがその後何を続けようかと一瞬迷った彼よりも、気の張った女の声の方が強く、そして早かった。
「リーナ!」
 はっとしたように少女が身を痙攣させ、振り返った。さら、と黒髪が流れて落ちる。片方落ちた髪飾りが押さえていた部分がほどけたせいで、編み込んだ髪が多少甘くほどけてきている。その不揃いさがかえって目に焼き付くようだった。
 リーナというのがこの少女の源氏名であるようだった。リーナとは矢車草の薄紫の品種を意味する。なるほど、彼女の赤い衣装の裾には淡く光る金の糸で矢車草の刺繍があった。
 おいで、と女の声が続けている。その声の方向を見やれば、恐らく遊女たちの部屋へ続く回廊の入り口にあつらえた帳面台に陣取る中年の女が見えた。この女だけは遊女の赤や見習いの白といった符丁のある服を着ていない。通常町中で見かけるような、きちんとした仕立ての灰色の長衣に黒い編み糸のショールを羽織っている。つまりは女将であろう。
 女将の隣には中年の男が帳面台によりかかるようにしてリーナを見ている。彼女を指名した客なのか、少女に向かって軽く手を振った。少女は頷き、クインを振り返った。そして三度かち合う視線の中にお互いを見つけて、少女は困惑したように首を傾げる。
 何だよ、とクインは囁いた。少女は首を振った。その曖昧さに焦れたようになって、クインは思わず顔をしかめた。
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」
 つい乱暴な早口で言ってしまってから、クインはそのために更に渋い顔になる。些細なことですぐ苛立って噛みつく癖がこんな時には自分で舌打ちしたくなるほど疎ましい。
 少女は驚いたようにぱちぱちと目をしばたかせ、それからまた首を振った。彼女の視線がするりと自分の顔から落ちて、格子の下の方へ流れていく。つられるように目線を追って、クインはやっと少女の迷いが何であったのかを分かった。
 自分の足下に転がっている百合の造花を拾い上げる。そうだ、自分はこれを拾ってやろうとしたんだっけ───ほんの僅かな時間の中に濃く深く凝縮された深奥を感じていたせいなのか、ひどく長い時が過ぎた気がするがそれは錯覚だ。何故なら、妓楼を探して彷徨っていた頃と同じ声がまだ同じ歌を歌っている。
 クインは造花をつまんで格子越しに放り投げた。明るい灯火に踊るように百合花がふわんと宙を飛んで彼女の足下に落ちる。少女は造花を大切に拾い上げ、彼に向かってやっと笑った。
 その途端、目を引くような何もない、ごく平凡な面差しが急に様変わりしたようだった。含羞のような仄かな恥じらいを含んだ微笑みは、確かに何かが違う。大仰な美少女ということでは決してなかったが、その笑みには何かの強い力があった。───ほんの僅か、ぽかんと見つめてしまうほど。
 その一瞬が通り過ぎた時、クインはぶるっと一つ震えた。背中の皮膚が粟立っている。
 胸に急に噴出してくるぬるい感情が何であるのか、その瞬間にクインには分からなかった。ただやわらかな湯のようなものが胸の一番奥深い部分にたゆっている。何かがそこにぽつりと灯る───ような、ぼんやりした、曖昧な、感覚。
 それをこわごわ確かめるようにクインは自分の喉元辺りを指で押さえた。かすかに脈打つ血管がやけに敏に伝わってくる。
 何か言おう。そんなことをふと思ったのに唇が動かない。真冬の雪に凍えた時と同じように重く堅く、ぴくりともしなかった。
「……リーナ!」
 先ほどよりは焦れた声が再び促した。少女はさっと振り返り、こくりと頷く。そしてクインの方へ向き直って百合の花を胸に当てるような仕草をした。
「あの……」
 少女の唇が動いて、やっとそれが彼女の声だと気付く。声は細く、弱い。消え入りそうな小さな声だが、面差しや表情ほどは幼くはなかった。けれど、やはり懐かしい。理性の部分ではこれが全くの錯覚だとわかっていても、ひどく遠い匂いがした。
 クインが彼女を見ると、僅かに頬を赤らめる。その頬のふわりとした明るさを見た瞬間に、血の気がかあっと自分の方にあがってきた気がした。クインは慌ててつんと顔を逸らす。反射的に怯んだのだ。
「あの、花、ありがとうございました……」
 囁くような声にクインはそっと視線を戻す。少女はクインが自分の方を見たのが嬉しいのかほっとしたように笑い、深く腰を折った。彼女の髪が肩を滑り落ちる。その圧倒的な量と黒い色の輝きは、夜の滝のようにも見えた。
「ん……ああ、別に」
 素っ気なく返事をし、クインは頷いてみせる。少女はもう一度彼に礼を言い、背を返した。ゆっくりと遠ざかっていく。
 クインは彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめた。少女は振り返らない。女将と客の男が待つ帳面台まで辿り着くと、女将の言葉に首を振ったり頷いたりしている。男が彼女の頬を撫でながら女将に何かを言った。女将がしまりなくしどけない笑みを浮かべたから猥雑な冗談でも言ったのだろうか。
 彼女の方は俯いてしまったが、恥じ入っているのか、男の方は上機嫌だ。やがて少女が男に何かを囁いて二人は回廊の向こうへ消えていく。クインはそれを見ながら今から彼女をあの男が抱くのだという現実につきあたり、ふと奇妙な苛立ちにかられた。
 あの女、一体どんな顔をしてどんな風に啼くだろう? けれどそれが自分の前に他の男が知っていることがたまらなく不愉快だ。ぴくりと頬が不機嫌ゆえに引きつったのをクインは感じ、舌打ちした。一瞬の交感にうつけて惚れたのなんだの言い始めたら、まるきり自分が馬鹿に思えてくる。
 多分あの瞳のせいだ。あれが吸い込まれそうなほどに大きくて深い色をしていたから、どこかで見たことがあるような懐かしさだったから。そのせいで心が落ち着かないのだ。
 どこで見たのか、あの少女でなくても類似した者を自分は知っているような気がしてならないが、それが何であるのか見当が付かない。苛立ちはそのせいだろう。昔から、自分に理解できないことがあるのが途方もなく気分を悪くする。
 突然こんこんという音がして、クインははっと顔を上げた。この妓楼の女将であろう帳面台にいた女がクインに練れた笑みを向けていた。
「───何か用事かい? それとも気に入った娘でも?」
「え? ……あ、いや、別に、用事じゃ」
 咄嗟のことにクインは相当きょとんとした顔をしたらしい。女将は小さく笑った。昔は美女であったろう面立ちは、笑うと意外に深い皺が出る。見かけよりは年齢が上なのだろう。
「用事じゃなければそこをどいて欲しいんだけどね。外からのお客が中を見る為の寄席場所だから」
 言われてクインはやっとその妓楼の中に足を入れた。食堂で給仕をしていた女たちや客たちの視線が一瞬、怒濤のように身に流れてくる。それにいつもの薄い笑みを放り投げてやると、やっと自分の余裕が戻ってきたような気分になる。あの少女と目が合ってそれがなんだか懐かしかっただけのことで、ひどく調子を崩していたのだ。
「ここ、一晩いくら」
 クインは帳面台にさきほどの男がしていたようによりかかりながら言った。女将は彼をちらりと見て、少し意地の悪いような微笑みになった。
「うちはただの旅館じゃないけど?」
 からかわれているのだとクインは女将をきっと見据える。彼の視線のきつさに女将は苦笑して悪かったね、と呟いた。
「でもこんな店は初めてだね? 指名があるなら娘の名を、ないなら部屋が空いているかどうかを聞くんだよ。娘たちの格によって値段は全然違うからね。指名がないなら空いている娘の中からあたしが適当に見繕う」
 クインは頷いた。女将の看破したとおり、妓楼に足を入れるのも初めてであったから、妓楼の仕組みなどは知っていても実地のことは何も知らないのだ。勿体ぶりもせずに淡々と教えてくれた女将に安堵し、クインはこれ、と耳から真珠の粒を外した。
「これで大体どの女でも足りる?」
 女将は彼から真珠を受け取り、鑑定用の小さな拡大鏡でしばらく見ていたがやがて大きく頷いた。
「───十分だね。うちの一番いい娘でも買える、いい真珠だこと。指名は……ないんだったっけ」
 クインは首を振る。彼女のことですっかり飛んでいたが、やっと自分がここに何をしに来たのか思い出したのだ。
「他の奴から聞いて……ライアンっていうチェインの頭がいるだろう? そいつの女がいい」
 女将は長い溜息になった。あのね、と続ける言葉がやけに優しい。だから断られるのだとすぐにわかった。
「どの妓楼も同じだけど、どの遊女にどんな客が付いているかは極秘なんだよ。うちの娘たちにも、娘同士で客の個人情報の話なんかはしないようにしつける。組合に入っている妓楼はどこもそうだ。だから、例えばそのライアンっていう男がいたとして、うちの娘を可愛がってくれてるってことがあったとしても、あたしはそれが誰だかを教えるわけには行かないね」
 客の個人情報は教えるわけには行かないと言われるなら、それも道理であるかも知れなかった。だからクインは別の方向から食い下がる。
「俺がライアンと知り合いだって言っても?」 
「じゃあ源氏名を聞いておいで。聞けないならそれはそういうことなんだよ」
 女将は素っ気なくやり返し、クインの手に真珠を返した。
「で、どうする? あたしに空いている部屋を聞く? それともそっちの食堂で食事でもしていく? 給仕に出ている赤い衣装の子が娘だから、好きな子を選べばいいが。ああ、その場合は指名料は半額つけてもらうからね」
 クインは女将の視線の先にある食堂を振り返った。確かに赤い衣装を着た遊女たちが客の合間を縫っては酌をしたり給仕をしたり、男客は大抵一人だが、一人で黙々と飲み食いしている者は見あたらない。そこで女を選ぶという行為がどことなく腑に落ちなくて、クインは首を振った。そう、と女将は自分の提案に拘泥せずに頷いた。
「それで、どうする。あがる? 帰る? ……それともリーナが空くまで待ってるかい?」
 先ほどの邂逅を見られていたのだと気付いてクインはぱっと自分の頬が赤らむのを感じた。女将は少し笑った。
「あの子がいいなら待っていればいい。あんたは綺麗だから放って置いてもうちの娘たちが相手をしたくて焦れてるよ」
 クインは食堂の方を振り返る。と、いくつかの視線が彼の面輪に当たってほころぶように微笑み咲いた。どれも美しく着飾った女たちであったが、やはり誰からもリーナといった少女に感じたような力はなかった。
 クインは曖昧に返答し、リーナ、と聞き返した。女将は頷き、1刻半もすれば相手が出来るはずだと付け加えた。他の男と寝た直後に買うかと聞かれている生々しさにクインは怯み、首を振った。それはとんでもなく悪趣味である気がしてならなかった。
「いいよ、また来る……リーナ、だっけ、彼女、高い?」
「指名料込みで晩酌が50ジル、泊まりが80ジル。他に飲み食いするならその値段だね」
 クインは苦笑した。それは彼の一晩の値段の僅か10分の1だったのだ。女将はその笑みをなんと思ったのか、帳簿をぱたりと開いて明日、と言った。
「明日は指名が入ってないから相手が出来る。もしあんたがその気があるなら今予約入れていってもらえるなら、少しまけるけど」
 クインは首を振った。明日の夜は夜間の看護学校の入学試験がある。医療の実践と現場を知る為に、クインは看護学校の試験を受けるのだ。首席で試験に通れば学費もかなり特待で安くなるとそれなりに勉強もしてきたのだから、これを放り出すわけにはいかない。
 それから先のことは仕事の予定をチアロかオルヴィからか聞かなくてはわからなかった。
「いや、先のことは俺にもわからないんだ。……今日は帰る」
 クインはそれだけいって帳面台の前を離れた。またね、と女将の声が追いかけてきたがそれには振り向かず、手を軽く振ることで挨拶に代えた。

 住処にしているアパートが見える角を曲がると、部屋に灯りがついているのが見えた。誰かが来ている。少なくとも、だからライアンがオルヴィと密やかに関係を持つようなことは行われていないのだろう。
 クインは僅かに溜息をついた。安堵したことが自分でひどく屈辱的な気もするし、それでも多少は楽になった恩恵にそのままおぼれてもいい気もする。そのどちらに気分を定めるのか思案したまま、クインは自室に辿り着いて扉を開けた。
 入ってすぐにある居間の長椅子にゆったり背を預けていたライアンが、いつもの彼の煙管をくわえたまま、クインに視線を流して頷いた。クインは薄く部屋に漂う煙に眉をひそめ、軽くあごをしゃくった。最近は彼に対して不機嫌な態度を取ることが多い。
 クインの仕草で何を言われているのか悟ったのだろう、ライアンは煙管を灰切りの皿にもたせかけて天窓下の椅子の上に立った。天窓を開ける。ゆっくり手で空気を攪拌して煙を追うが、一瞬充満していた臭いだけはそうそう消えそうになかった。
 クインはライアンが降りた窓下の椅子に座った。何故彼がここにいるのかはわかっている気がしていた。あの客からオルヴィへ、そして彼女からライアンへ、連絡が回ったのだろう。ひとしきり小言でも言うのだろうかとそれを意地悪く待ちかまえていると、ライアンはクインのそんな表情に気付いたのか、薄く唇だけで笑った。
「お前が自分で自分の客を減らすのは勝手だ、好きにしろ」
 いつものように突き放されて、クインは唇を歪めた。ライアンの興味も関心もまったく引きつけておくことが出来ないのは昔からだが、焦れた思いが沈殿しつつあるこの頃には尚更彼の態度がクインの胸をひっかくようだ。
 ちりちりいう痛みを身体のどこかに聞きながら、クインはそう、と声音だけは素っ気なく返した。ライアンは長椅子の背もたれ越しにクインを見ると苦笑したような吐息になった。
「オルヴィの仕事だけ容赦がないな、そんなにあれが嫌いか」
「チアロ以外はみんな嫌だね」
 そこにライアンを付け加えなかったのは当てつけでもあるし、半分ほどは本気かも知れなかった。ライアンの関心の薄い態度を目にする度に、ひどく苛立つし怒りを覚えるし、そして最後には自分自身の持つものの少なさについて思い知る。嫌味に気付いたのかどうか、ライアンの返答はなかった。丁度草が切れたのか、灰切り皿にこつこつと煙管を叩いている。
「何しに来たんだよ。用がないなら帰れば? とってもお忙しいんだからさ」
 クインは極力つまらなそうな声音を作って言った。
 ライアンは曖昧に首を振りながら、腰に下げている煙草入れに手をやっている。中身を変えようとしたところでクインの先ほどの渋い顔を思い出したのかそれをやめたが、代わりに吐き出されてきたのは煙よりも胸に悪い言葉であった。
「悪態がつけるくらいならお元気そうで何よりでございますな」
 自分の嫌味に同じような辛辣が戻ってきてクインはむっと唇を結び、ライアンに聞こえるような舌打ちをした。
 ライアンが振り返り、淡い苦笑のままで長椅子を立って彼の隣あたりの壁に背もたれた。その手がぽんぽんと軽く自分の頭を叩く。子供扱いに怒ってクインが首を振ると、ライアンは懐から小さな包みを取り出して彼の手に握らせた。口を縛る朱紐をほどくとそこからクインの爪先ほどある翡翠が転がり出てくる。
「しばらくタリアを離れる。チアロを残していくから大体のことは用足りるはずだが、何かあったら使え」
「しばらく……って、どれくらい」
 さあな、とライアンは返答を濁した。分からない、と付け加えてライアンはまた腰に手をやった。煙草飲みの習性が自然とそうさせるらしい。
 クインはライアンの手を軽く叩いた。煙草の制止である。叩かれた手をライアンは軽く振り、溜息になった。その指先が手持ち無沙汰に空間を彷徨うのを自分の指を絡めて引き取ろうとすると、ライアンは素っ気なくそれを振り払った。指が離れる一瞬、強かに打ち返してクインは場を離れた。
 居間を挟んで二つの部屋が相対するという簡単な作りの部屋の、片方は寝室でもう片方は書斎として使っている。あまり整理整頓というものが得意でないクインの性質を反映して、居間も寝室もそして書斎も乱雑にものが散乱しているが、その書斎の床に放り出したままの生物学の本を拾い、クインは机の前の無炎灯のつまみをひねった。部屋が本を読める程度には明るくなる。
 開け放したままだった扉がこつこつ叩かれて、クインは不機嫌にそちらを見た。ライアンはゆるく苦笑を浮かべていた。
「たまには顔を見に来てやったのに、そんなに不機嫌にならなくてもいいだろう」
「ふぅん、来てやった、んだ? どうせチアロにうるさく言われたんだろ」
 本の字面に目を走らせるようなふりをしながらクインは返答を待ったが、違うという答えは遂に聞かれなかった。
 クインは軽い溜息と共に本を開いたまま、ライアンを斜めににらみ据えた。
「別に、あんたのしけた面なんか見たって嬉しくないね。しばらく出かけるから俺にお小遣いでもやりに来て下さったんでしょ、チェイン王陛下様々。有り難くも勿体なくも恐縮至極に存じ奉ります……で、用事が済んだんだから、帰れば?」
 ライアンは吐息で笑い、クインの背後から彼の開いた本をのぞき込んだ。彼は字を読めないが図版や写真の具合で学術書だということくらいなら分かるのだろう、熱心だなと呟いている。
 微かにそのライアンの呼吸が首に掛かってクインは身をよじった。他人と寝るのに慣れてきた身体が、愛撫ではないのに僅かに反応しようとするのだ。その反射にクインはきゅっと唇を噛み、乱暴な仕草で立ち上がった。ライアンを睨みながら、彼を振り向く。
「……帰らないの?」
 読みかけの頁に指を挟み、クインは空いた方の腕を伸ばして指先をライアンの胸に強くつきつけた。夏の薄い綿生地を通して、彼の呼吸と体温が僅かに伝わってくる。
 その瞬間に、自分が彼の身体を欲しているのは確かだった。男と寝ることに既に抵抗感はない。自分の身体に道筋をつけたのはライアンだったし、最初の夜が過ぎてもクインが客との行為に慣れていくまでは時折関係を持っていた。
 けれど最近は全く記憶にない。ライアンがタリアの自警のことだけで引き回されていた頃にもあまり会わなかったのだが、最近新しく麻薬の取引筋を一つ手にしたようで、ライアンはそれにかまけて殆ど姿さえ見せない。二人でいることなど、ここしばらくの記憶にまるで見あたらなかった。
 彼に欲情しているのか、それとも単に欲求を解消したいだけなのか、クインは判別しようとしてやめた。数少ない記憶の中で、ライアンが彼を抱く時にだけはひどく優しかったように思われて、それにすがりたいのだろう。何かの温かなもの、愛でなくともそれに似たものの熱を感じ取ることが出来たのは、結局この男だけだったから。
 チアロに縋り付こうとした時、友人はそれを丁寧に拒否した。それはチアロの彼を気遣う心根から来るものであったから不愉快ではなかったが、チアロ以外に心を許せるというならば、やはりライアンしかいなかったのだ。
 自分とその身体と、抱えている破裂しそうな胸の中の何か。小綺麗な器と自分でも持て余しかけている中身の熟爛を過ぎようとしている溶液。それ以外に自分に何かがあるのか、確かめたい。何でもいい、誰かから愛されるような何か───自分の価値。
 母マリアの為に生きていかねばならないことは分かっている。それは彼にとって決して苦役ではなかったが、けれど、それだけなのか。
 俺の価値は、今ここにいる身体と心の意味は、それだけの為に在るのだろうか。
 誰かの為にというなら容易い。母の為にと呟くならそれは決して間違いではない。確かに自分はそのために生きている。
 だけど、でも、俺は?
 俺のために何かはあるのだろうか。俺の為に誰かがいるのだろうか。俺を見て、俺を信じて俺を頼る、俺の相手が。
 多分それはライアンではないのだろう。けれど、今この瞬間に、彼しかいない。肌を重ねる感触に擬態させながら心ほどいて誰かに甘える方法を、クインはこれしか知らない。
 クインは本を挟んでいた指から力を抜いた。本が床に落ちて紙が折れた音がした。
「───帰らないなら、煙草は、いやだよ……」
 彼の胸元へ刺すようにあてた指をしならせてずらし、やがてそっと掌を押し当てると脈が打つのが微かに分かった。クインはライアンの心臓の辺りへ手を這わせながら、彼の目を見ないように自分の指先を見つめた。
 自分の造形美にはクインは一点の曇りもない自負と自信を抱いている。その通りに男にしては華奢な体つきにそぐわう指の細さが頼りなげで、自分でそれに腹が立った。クインが僅かに目端を歪めた時、手首が掴まれた。
「お前は、俺からもう一度同じ事を聞きたいか」
 低い声が言った。クインは黙りこくったまま、掴まれた自分の手首あたりにぼんやり目線をやった。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない)
 ライアンの声が遠い記憶の底から低い声で呟いている。クインは唇だけでそっと笑い、返答をせずに俯いた。彼の顔を見ることが出来ない。自分の中にあるものを見透かされてしまいそうで怖かった。
 クインの沈黙がじっと時間をやりすごしかけたとき、ライアンの溜息がした。
「既に契約は終了している。俺はお前と寝る気はない」
 その声にクインは反射的に顔を上げた。契約という言葉が凍ったような胸の中に唐突に切り込んできたのだ。冷えた怒りが背を駆け上がってくる。
 クインは手首を掴んでいるライアンの手を乱暴にふりほどき、視線に強い力をこめて睨み据えた。
「……契約? 俺はそんなことを言った覚えなんか無い。あんたが何をどう解釈するのはご勝手だけど、俺は知らないね、そんな約束は」
「約束だと? 俺も知らんな、約束なんてものは。既にお前にやった金額の分は俺は取り戻したと言ってるんだ」
 彼が最初にクインに与えた1万ジル分は使い切ったと言い、ライアンはクインの視線を同じように睨み返した。クインは舌打ちをしてライアンの肩を突き飛ばすようにし、その勢いで自分の方がよろめいて下がった。
「俺はあんたに金を払えって言ったかよ!」
 怒鳴り、クインはかあっとなってきた頭を宥めるために、左のこめかみを指で押さえた。ライアンが溜息をついたのが聞こえた。
「お前の商売はそれだろう。金は要らない? 俺をお前の愛人にするつもりか? それこそそんな話はどこでしたのだと聞きたいが」
 クインは言葉無く顔を歪めた。ライアンの言葉に何かをたたきつけてやりたいが、言質という意味においてはライアンの言うことが事実だ。クインは縋り付こうとし、ライアンはそれを避け続けているのだから、言った言わないの話になると具合が悪い。
 けれど、そんな些細なことではないのだ。
 俺は、と言いかけてクインは呻いた。自分の怒りも苛立ちも、その根底にある飢えて吠える獣のような声も、全てを言葉にすることはとても難しく、どれも的確でないのは分かり切っていた。何を訴えてもライアンの面差しに歪み一つ与えられないことも。
 だからクインはもっと直截なことをした。自分が床に落とした本を拾い上げ、それをライアンに叩きつけ、帰れよ、と叫んだ。
「帰れよ───帰れ! 知らない、あんたの顔なんかしばらく見なくたって俺には関係ないんだろう! だったら嫌味だけ言いに来るなんて、あんたも案外暇なんだ?」
 殆ど脈絡など通っていない言葉にライアンが小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。それは冷笑と呼ぶべきものであった。
「そうだな、俺もそんな気がしてきた。お前の癇癪の相手など出来るんだから、俺も思っていたより時間があるらしい」
 クインはライアンにさっと手をあげた。何かの言葉も怒りも、全ては反射的な仕草の方が早かった。振り下ろした手はライアンに当たらない。体術ということについてはライアンの方が彼の数段上におり、全く暴力では歯が立たないのだ。
 打ってやろうとした手をするりとよけたライアンが、その手首を素早く掴む。その次の瞬間に訳の分からない眩暈がして、世界がぐるりと一周回った。どさりと床に投げ出され、クインは僅かな時間、ぼんやりする。
 つと肩に掛かっていた引きつるような重みが消えて、それですとんと体重が床に完全に落ちた。ライアンがクインの手首をようやく離したのだ。横に立つ彼を見上げると、ライアンは軽く首を振った。
「お前は自分で自分の吠える声に苛立っている。俺は巻き込まれたくない。もう充分だ」
 激高するでもなく淡々と呟かれた言葉に、クインはそう、と重い声を出した。のろのろ立ち上がって本を拾い、軽くほこりを払うような仕草をしながら呟いた。
「なら、さっさと帰れよ」
 一瞬の間をおいて、ライアンが溜息をついた。お前……と何かを言いかけ、奇妙なところで言葉を句切る。クインも顔を上げ、戸口の方を見やった。確かに扉が開いた音がしたのだ。
 軽い足音がして、部屋の中を覗いたのはオルヴィだった。女としてはやや長身に属するが、やはり女である体の線は明確だ。
 お前か、とライアンが僅かに肩から力を抜いた。オルヴィが彼に簡単な会釈をする。クインはふんと頬を歪めて鼻を鳴らし、何だよ、と不機嫌に言った。
「すっぽかしたんだって?」
 オルヴィの声は低めの苛立ちの範囲に属する冷ややかさであった。だから何だよとクインはつまらなそうに促す。オルヴィは不機嫌な声音のまま、淡々と言った。
「私の時だけそんなふざけた真似をするならもう私は仕事をあつらえない。全部チアロにさせればいい。その代わり、私の繋いできた客に対する始末だけは一度つけてもらう」
 謝れ、という意味であろう。クインがなんと噛みついてやろうかと身構えると、ライアンの声が駄目だと入ったのが聞こえた。
「お前とチアロでこれを切り回すように俺は言ったはずだ。俺に無断で勝手はさせない」
「ライアン」
 オルヴィはクインにする時よりはやや温んだ声を出した。クインは不愉快な気分をますます濃くして眉をひそめた。その声に滲んでいる僅かなおもねりを感じ取ったのだ。
「───態度をわきまえろってことさ」
 ライアンが何かを言う前に、クインは素早く割って入った。オルヴィはそう、と簡単に頷いた。
「……伝えておく。今日の客はもう一度あんたをご指名だ。引継はチアロに伝えてある……あんたが今度はすっぽかすかどうか、帰ってくるのが楽しみだな」
 クインはそう、と何気なく話を流したが、そこに含まれている毒はすぐに察知することが出来た。帰ってくるとオルヴィが言うのならば、ライアンがタリアを離れるのに彼女も同行するのだろう。それをわざわざ言葉にしないで提示しているのだ。
 だからクインはオルヴィに向き直り、華々しい笑顔を浮かべて見せた。
「伝える必要なんか無い。俺はあんたに言ったんだよ」
 オルヴィは僅かに眉を上げ、そして頷いた。クインにとっては相変わらず、冷徹な壁しか感じない相手であった。軽く彼女を睨むと同じような視線が返ったが、さほど長くは続かなかった。オルヴィはライアンに軽く頭を下げる。それは先ほどの自分の発言についての簡単な謝罪のようだった。
 それが済むと、彼女はクインに迷い無く近づいてきて、一枚の紙切れを差し出した。
「次の仕事だ。最前のご希望通り若い女だから、せいぜい楽めばいい」
 オルヴィの手から紙片をかすめるように奪い取り、クインはその内容にざっと目を通した。女客の時にはいつもの連れ出し用の貸し部屋ではなくタリアの外の宿を使うから、場所は毎回変わった。メモには姉妹ということで部屋の予約が取られていること、使う偽名などが記されている。クインは分かったと紙片を机の引き出しにしまいこみ、あごをしゃくった。
「用事が済んだら帰れよ、……二人とも、だ」
 オルヴィが何かを言いかけたのを、ライアンが首を振って制した。彼女の肩を軽く叩いて出ていく背に、クインはよいご旅行を、と怒鳴った。オルヴィだけがちらと振り返り、頬で暗く笑った。それは恐らく、クインに対する嘲笑とライアンの一件の勝利の顕示であった。
 クインはぎりっと奥歯をかみ合わせた。オルヴィのこれみよがしな態度は彼の神経をいつでも一番嫌な音の不協和音で逆撫でる。あの女に小馬鹿にされたのだという屈辱感とライアンへの怒りが急速にあがってきて、クインは拳を握りしめた。中で爪が皮膚につきささるようで痛い。
 戸口が閉まる小さな音が聞こえた瞬間、それが悲鳴になってこぼれた。何にどんな怒りをたたきつけていいのかさえ、知り得ない。
 胸の裂かれそうな苛立ちと痛みと、もの狂おしい怒り。それらに翻弄されるようにクインはふらふらと寝室へ歩き、寝台へ身を投げた。
「母さん───助けて……」
 呟く言葉に救いと癒しを求めても、彼の聖母は遠く離れた場所にしかなくて、彼を暖めてくれる魔法とはなりそうになかった。

 初夏のまっすぐな日射しがようやく茜にゆるむ頃、クインは夏用の薄いワンピースに着替えて地下水路へ降りた。水路に降りて複雑な迷路をどうにかくぐればタリアの境界門にほど近いアパートへ出ることができる。
 どこへ行っても彼の突出した美貌は人の目を引いたが、タリアの中ではそれが悶着になることが多い。いちいち声を掛けてくる連中の目的は結局は彼の身体であったが、相手をするのも面倒で、最近は尚更他人が疎ましかった。
 ───疎ましい、くせに、ではライアンがタリアから消えるとどこか物足りない。それをライアンの不在ゆえだと結論してしまうには内心の矜持の抵抗は頑迷であった。クインは水路からあがる階段を上りながら舌打ちをする。ライアンにこれほどまでにこだわる心根が一体何であるのか、クインは自分でもよく分からない。彼は確かに自分の愛人やら血縁やらではなかったし、そうしたいという欲求は見あたらなかった。
 だが、結局誰かに縋り付こうとする時に真っ先に浮かぶ面差しであることも事実であった。チアロはクインのせっぱ詰まった孤独感をどうにか緩和しようとしているのか、頻繁に食事や娯楽に誘ってくれるが、それとはまた違ったことでもある。
 クインは秀麗な顔を歪め、唇の端で苦く嗤った。ライアンなど言葉を交わしていれば苛立ちだけが蓄積されるのに、いないとなるとオルヴィの同行がやけに気に食わない。それを自分が不服としていることさえ怒りになる。
 ───ただ、ただ、自分が欲しいのは、ライアンの言葉ではなく彼の自分を気遣う心でもなく、ひたすらに焦がれるほどに欲しいのは、欲しいのは……そこまでくれば思考がふいに回転を止める。ライアンから何が欲しいのかさえ、彼への怒りゆえに曖昧に塗りつぶされてしまった絵のように焦点がぼやけている。
 クインは首を軽く振り、地下から上がった床の隠し扉を足でゆっくり閉めた。鏡の中にいる自分に向かって微笑んでみせる。瑕疵なく整った顔がきらめくような美しい少女が嗤った。化粧の具合を一度見て、クインは部屋のクロゼットから肩掛けのレースと靴を選んで外へ出た。
 このアパートにはいくつかの事務所が入っていて人の出入りが多い。その一つを架空の名義で借り受けて地下水路に繋いだのは正解だったといつもながらに思う。タリアの中をさほど歩かないうちに地下へ降りることが出来るし、他人の目は今でも微かな警戒心を呼び起こさせ、胸をささくれ荒らすのだ。
 まっすぐに前を見つめて歩き始めると彼に目を留めた人々が足を止め、やがて自然に割れて彼のための行き道を造る。微かな吐息、ぶしつけなほどの視線、そんなものでさえ身に飾るように誇らしげに背を伸ばしてクインはタリアの境界門を出ていく。ここなど自分の居場所ではないのだと威嚇するような微笑みが自分の顔に張り付いていることは知っていた。
 境界門を過ぎた辺りでクインは流しの辻馬車を拾い、この日の仕事だと指示された宿へ入った。オルヴィの書いた紙片にあった偽名を告げると宿帳をめくって管理人がああ、と曖昧な声を出した。
「お部屋は一番上にご用意してありますよ……しかし、……ああ、済みませんね、お姉さんとはあまり、その、」
 クインは柔らかく笑ってみせる。どんな時にも自分の美貌には絶対の自負があった。
「姉とは母が違うものですから」
 その場の嘘をさらりと口に乗せ、教えられた階段を上がる。指定の部屋は最上階の全ての面積を使う特別室だが、これはさして珍しいことではない。
 軽く扉を叩くとすぐに中から返答があった。オルヴィが嫌味に吐き捨てていったように確かに声音は若い女のものであった。若い女ね、とクインは微かに内心に毒づく。一体、どんな女なんだか。彼の一晩の金額は既に800ジルを超している。これから経費やライアンへ渡る一割を差し引くと手元には300と少しが残ることになるが、この先更に揚げ代は高額につり上がっていくだろう。少なくともチアロにはそのつもりがある。経費には客の身元を確かめるための調査料も含まれているから大幅に目減りすることは仕方がない。
 だから今ならまだ高額といっても誰かを破産させるには足りないほどであったが、それにしても男娼を買う若い女、というものがどんな種類であるのかをクインはこの晩とっくり見物するつもりであった。どこかの金満家の後妻、それとも亭主が役に立たない人妻、未婚の女だとすると相当好きな女だろうか。何にせよ、それは軽侮と冷笑を連れてくる。
 どうぞ、と扉が開いた瞬間、クインはそれでもその底意地の悪い思考をさっと表情の奥へ押し込んだ。どんな相手だろうと客は客、と今までも刷り込んできた性癖であった。
「───本当に、来てくれたのね? 嬉しいわ、夢みたい……」
 けれど出てきた女は彼の想像していたどんな極悪な色も持っていなかった。一瞬虚を突かれたようにクインはぽかんとする。彼女はそれまで彼を買いつけて散々玩んできたどんな男たちや女たちとも何かが違っていた。彼らは一様にどこか暗く歪んだ炎を目に飼っていたし、身から発せられる空気にも重い澱みがあるものなのだ。
 クインを僅かに見上げて大きく瞠られた瞳の輝きには純粋な驚きだけが灯っていて、それがひどく女を無邪気に見せている。年齢はなるほど若い。20には届いていないのは確かだろう。特別美しいというわけではなかったが、どこかで見たような既視感でクインは少し瞬きをし、それが過ぎた晩に格子の向こうにいた黒髪の遊女の印象であることに気付いた。───確か、リーナと呼ばれていた少女。
 但しそれは見間違えるというほどの酷似ではなかった。どことなく顔立ちから受ける最初の感触が似ているのだ。あのリーナという遊女もそしてこの女も、さして珍しげな特徴ある容貌ではなかったから、単に空似というものであった。夢みたい、と女が繰り返して呟いた。クインはその声でようやく現実に立ち戻り、さあね、と小さく呟いた。
「そっちが買っておいて夢も何もあるかよ。───中、入れてよ、いい加減にさ」
 クインの言葉にはっと女は振り返り、ごめんね、と慌てて身体をずらした。彼女に一瞥もくれずクインは部屋の奥へと踏み入れた。部屋は流石にこの宿の一番であって、調度も内装も申し分なかった。売春宿とはやはり品格が違う。クインが部屋の中を見回していると扉を閉めた女がいい部屋よね、と明るい声で言った。女の声に全く淫蕩さが潜んでいないことにクインは戸惑い、思わずじろりと彼女を睨んだ。
 この女は一体なんだろうという疑問が先ほどから彼の脳裏を巡っている。彼を買った客たちから感じてきた負の威圧がかけらもない。そもそも男娼を買う事自体をしないだろう、よい意味においての、ごく普通の女だ。奇妙な清潔感が彼女の明るい空気を支えている。
 彼のきつい視線に女は怯むでもなく目をしばたいた。彼が何故自分を睨んだのだろうというのさえ理解していない、まったくの素人ぶりにクインは遂に溜息になった。
「……あんたさ、俺を買ったんだよな?」
 女相手の時いつもするように、適当に言葉で相手を気圧したり翻弄したりする気にはなれなかった。この女は恐らく、本当にただの素人で興味本位なのだ。一体どこのお嬢様だと次第に苦くなりながら、クインは彼女に向き直った。
「だったらこっち来いよ。買った分は楽しむ気があるんだろ」
 彼の噂をどこかで聞きつけて面白半分に手を出そうとしたのなら、それはいたく彼の中の自嘲癖と自尊心のかけ混ざった部分を傷つけた。客たちの目的も欲望もクインには失笑の対象だったが、それさえ持たない女が気まぐれに自分を指名したのかと思うと、苛立たしさがまた腹の底にとぐろを巻き始めているのが自分でも分かった。
 欲しくもないくせに物珍しさだけで買うという行為自体が自分を馬鹿にしている。相手を蔑むのは自分の役目であって客のものではないのだ。女が扉を開ける前にそこで自分が浮かべていた冷笑をいきなり浴びせられたような汚辱にクインは微かに身震いし、薄く笑った。
「……こっち、来いよ。来いって言ってるのが聞こえないのか?」
 ほとんど脅しあげるような低い声に、女はぴくりと肩をふるわせた。怯えているのだ。クインは大声で笑い出したい衝動を耐えながら、ゆっくり余裕を持って獲物に近寄るように足を踏み出した。女の肩を掴んで腰に回そうとした手を、女は身をもぎ放すようにしてすり抜け、待って、と掠れた声で呟いた。
「待って、ねぇ、私、こんなつもりじゃ」
「じゃあどんなつもりなんだよ」
 クインは小さく笑いながら耳元へ囁いた。彼の吐息が女の耳朶にやわく絡んで産毛がさわりと逆立つのが見える。彼女の腰に今度こそ手を回して後ろから抱き寄せるようにすると、待ってと二度目を言いながら、女が突然くるりと身をひねった。正面からおもむろに向き合う形になってクインは僅かに身を引く。
 と、左の耳がぐいと引っ張られてクインは慌てて体を離した。
「待って、って言ってるでしょう? どうして言うことを聞けないの!」
 ぴしゃりと言われてクインはきょとんとする。頭ごなしに言われて怒りになるはずのいつもの反射が、どうしてか反応が鈍い。まるで自分が5才の子供に戻ったような気分であった。
「あ、いや……ごめん……」
 ぼんやり口にして、それが謝罪であったことに一瞬後から気付く始末だ。彼の言葉に女はうち解けたような笑みを見せた。美女ではなかったが、十分に居心地のよい、明るい笑顔であった。誰かのそんな表情を随分久しぶりに見た気がした。どうにも調子が狂う相手だとクインは苦い顔になる。気を詰めていた表情や身構えていた心根をゆるく解いて、クインは部屋のソファにどさりと身体を投げ出した。
「……あんた、じゃあどんなつもりで俺を買ったんだよ」
 寝る気がないという意味合いであろう女の言葉に落ち着かない気分であった。積み上げてきた経験の全てが投げやりに首を振って、この女は男としての自分に興味がないのだと溜息をついている。
 クインは身支度整えて編み上げてきた髪をほどいた。魔導の効果で黒く輝いている長い髪が、若干の柔らかな癖を残したままこぼれ落ちる。それを無造作に片手でかき回していると、女が部屋の隅に屈むのが見えた。少し大きめの布鞄から、貴重品のように取り出した黒い箱の正面に、大きな硝子の球面が見える───写真機だ。
「写真は駄目だよ」
 女が光画紙を入れようとする間際、クインはそれを遮った。それは男女どちらの客でも同じ事であった。客側の手にクインの写真が渡れば、それはどこからどんな形で誰に伝わるか分からない。ただの家族写真や記念品ではないのだ。最も皇太子に近いとされているリュース皇子との酷似は、正体や身元の詮索をいつか必ず呼ぶはずであった。その確実な証拠となる写真など、残すことは自暴自棄といってもよいことであった。
 女はえ、と聞き返した。
「……どうして? ───事情があるなら誰にも見せないわ」
「駄目ったら駄目。あんまりしつこいなら写真機、窓から放り投げるよ?」  
 女が写真機を扱う手つきはひどく慎重であった。恐らくそれは彼女のものではないだろうという推測はどうやら正解であるようで、女は一瞬俯いてから頷いた。
「ごめんなさいね、私、こんなこと初めてだからよく分からなくて……」
「あんたが初めてなのは知ってるよ」
 どう考えても男娼を買う類の女でないことも、既に雰囲気が雄弁に語っていた。世間ずれしすぎていないなら学生かも知れない。クインがそんなことを考えていると、女は写真機を鞄に戻す手で、大きめの写生帳を引き出した。
「何だよ」
 クインは立ち上がり、彼女の手元をのぞき込んだ。新しい頁を探すように女がぱらぱらとめくる紙には練炭色で何かが描かれている。それは花だったり人だったりごくたまに猫や犬だったりしたが、総じて淡い圧力で描かれた美しい絵だった。
「絵は? 写真は駄目でも、絵ならいいでしょう? ね?」
 そんな事を言いながら、写生用の練炭でも探しているのか女は鞄の中で手をごそごそと動かしている。彼女の荷物がどうやらその鞄一つであること、それがどこにでも安く売られているような綿地のものであることにクインは気付いた。そのまま足下に視線をやる。彼女の靴も昔自分が母といた頃に履いていたものと、さほど変わらぬ粗末なものだった。
 微かに、胸がちりっと焦げるように痛んだ。この女は自分と同じ階層にいる相手であった。服だってそう高価なものであるとは思えない。普段彼を買い付けている裕福な連中の払う金には何の同情も覚えないが、この女が自分を買う為に支払った金額を思うと一瞬呆れるほど……馬鹿馬鹿しいのか感心したいのか、どちらであろう。クインは溜息になった。どうやらこの女は一晩のモデル料としてあのオルヴィのふっかけた額を払ったようなのだ。
「……絵も駄目だって言ったら?」
 クインの言葉に女は顔を上げ、そして少し困惑したように笑った。
「それは……ちょっと眩暈がするわね」
 だろうね、とクインは応じて天井を見上げた。良い部屋らしく高く取られた空間の天井画は何かの洒落気なのか魚が水草の間をすり抜けていく題材だ。魚鱗の古びた色を眺めながら、クインは女の申し出を吟味した。オルヴィの取ってきた仕事であるし、気に入らなかったの一言で投げようか。金はチアロから返してやればいい。写真はもとより絵でさえも自分の容姿を形に残すかと思うと、真っ先に嫌悪感が立つことを軽視してはならなかった。
「……俺じゃなきゃ駄目か? 他にもっと、本職のモデルだっているだろう」
「そうねぇ……でも、新しい意匠の一連作を興す時には、やっぱり最初の自分の印象に近い相手を捜すものでしょ」
「それはあんたのやり方と理屈だから俺は知らないね。俺と似てるってなら……よく客にも俺がリュースさまとかいうお偉い人と似ているって言う奴もいるね」
 よく似ている、そっくりだと呟く声に混じっている混濁した欲望をクインはいつもひっそりと嗤ってきた。あの皇子様ときたら恐らく自分に向けられている視線に時折はこんな淫蕩な値踏みが潜んでいることにも気付いてはいるまい。その闇に葬られるべき部分を引き受けて、クインはますます自分が皇子の影となる気がした。あの皇子の引き受けている部分が光溢れる明るい世界ならば、その足下に落ちる影のすさまじい暗さに自分は生きている。皇子本人を決して嫌な奴だと思ったことはなかったはずなのに、彼のことを考えてふと目線をあげれば、鏡の中にいる自分がひどく暗くて惨めな気がするのは単に僻みであった。僻みだと、分かっているからこそ尚更……辛い。
 突然頬に何かが触れてクインははっと顔を上げた。女が彼の柔らかな頬をそっと撫でたのだった。
「……大丈夫? あまり嫌なことは考えない方がいいわ」
 さらりとした本心からのさりげない気遣いに、クインは怯んだように半歩後ずさり、いや、と曖昧な返事をした。微かに目の奥が潤み出そうとしている。人の優しい指先が、恋しい。それはいつか母が彼にふんだんに与えてくれたのとよく似た、まっすぐに単純に相手を案じる情愛のぬくもりだった。
「何でもねぇよ───気安く触んな」
 ぱっと顔を背けると、女はゆるく笑ったようだった。それが彼を宥め慰めようとする種類のものであることは、すぐに分かった。何かの反動でもあったようにそれにふらふらと縋り付きたくなるからだ。
 クインはことさら厳しい表情をして舌打ちをした。誰かがこんな風に時折優しくするだけで、ひどく寄りかかりたくなるほど自分はどこかがおかしくなってきているのかも知れなかった。
「ごめんね、本当に厭ならもうしないわ。……それに、リュース殿下は駄目よ。あっちは……そのぅ、もう断られたの。肖像権と写真の利得について懇々諭されちゃったわよ」
 女はちょんと肩をすくめて仕方なさそうに笑った。クインはそう、と軽く相づちを打ってやがてゆるく笑った。さほど交流が長かったわけではなかったが、あの皇子の生真面目でひっそりとした性質がそのまま変わらずにあることは分かった。
「だから俺を買ったってわけだ? ふうん……絵、か……」
 皇子の手元をすり抜けた話が巡って彼の元に回ってきた、その事自体は珍しいとは思えなかった。それは時折あることであったのだ。珍しいのは女が決して裕福な生活をしていないということであった。服も靴も鞄も、ごく普通の古着や使い込んだ品としか思えない。800ジルを越す金を惜しげなく出せる環境でないのは明白で、それを彼の一晩のモデル料と引き替えようとしている。皇子に断られたからと、諦めてもいいはずのその話の続きを見たがっているのだ。
「……そんなに、絵、好きなんだ」
 半ば呆れ加減に呟いた言葉に、女はそうねと笑った。
「好きというよりは、描いていないと死んでしまうかも知れないってことだと思うの……何があってもずっと絵だけは描いてきたからね……」
 女の微笑みに浮いた淋しげな影を、クインはじっと見つめた。何があってもと呟く程度には沢山のことが通過した、微かな痕跡をそこに見つけた気がした。……僅かに、胸が弛む。同情であったかもしれないし、幾ばくかの共感であったかもしれない。
「絵なら……いいよ」
 クインは小さく言った。同じ女の客は取らないことになっている。この女が自分に会うたった一度の機会に大枚を支払ったのなら、どうにかすり抜けのききそうな現実に目をつぶってやっても構わない。ライアンの判断に委ねるならば恐らく彼は撥ねるだろうし、チアロも同じ事を言うだろう。だから彼女の申し出を受けるのかも知れないとクインは思い、それを否定する材料がないことに気付いて苦笑した。
「……絵ならいいけど、あまり他人に見せないでくれよ。それと、俺とどうやって連絡を取ったかは誰にも言うな───ま、男娼の買い方なんかべらべら喋ってあんたの得になることは何一つないけどな」
 女は大急ぎで頷いた。彼の気が変わらないうちにと思っているのだろう。
「ありがとう。私はエミリア」
 短く、はっきりと名乗る。この女の風情からして偽名とは思えなかった。男娼を買って本名を名乗る相手というものが存在するとは思っていなかったにせよ、それはクインを相当面食らわせたらしい。表情も作らないでただ彼女を見つめ返すと、女はもう一度笑った。
「エミリア=スコルフィーグよ。みんなエミルって呼ぶわ……なんて呼んだらいい?」
 最後の質問にクインは肩をすくめた。
「適当にどうぞ。リュースでもいいぜ。それともカルア? エセル? ああ、ラインなんてのもいたな、どれでもいいさ」
 エミリアは呆れた、と呟いて彼の首を軽く、ぴしゃりと音を立てて叩いた。
「不敬なこと言わないで。別に本名を聞いている訳じゃないんだから……」
 分かったよ、とクインは適当に手をひらひらさせた。
「じゃ、リュース」
「嫌な子」
 エミリアはくしゃりと顔を歪め、それからついというように笑い出した。彼女の持っている空気はどこまでも明るくて、清潔だった。それにつられてゆるく笑いながら、ふと胸の重みが軽くなった気がして、クインは苦笑する。けれど、それさえ遂にぬるく解けて安息にしなだれていくことに、何故か懐かしい安堵を覚えた。
 クインは自室の寝台に転がって、ぼんやりと一枚のカードを見ている。降臨する天使、その周囲を取り巻く幻影のような魚の群。淡めの色遣いながらどこか強烈に印象に残る神秘的な青が絵全体を美しくとりまとめている。
 この絵がエミリアといった女の、細い手が編み出したものであることは信じられない気もしたし、よく知った気もした。
 何があっても絵だけは描いてきたとエミリアは言った。それは真実だったろう。写生用の練炭を握って一心に彼の姿を写し取り始めた彼女は真剣で、声を掛けるのもためらわれるほど無心に手を動かし続けた。
 突き詰められたような目の光、きゅっと結んだ唇のきかん気。特段美しい女ではなかったはずなのに、その顔をつい見つめてしまう。目が馬鹿になったように彼女の面輪から離れないのだ。
 ───描いている時だけは、私の世界は私のものだから。
 クインに向かって照れたように笑った顔はごく普通の若い女であるのに、画帳に向かう彼女は別人のように厳しい表情をする。
 芸術というものにクインはさして関心がなかった。これからもないだろうとは思う。けれど別れ際に彼女がくれた一枚のカードを捨てることが出来ない。エミリアの描いたという天使と魚群の一葉が印刷されたカードの裏には画廊と展示会の期間、そして合同出展するという画家の名前が連盟で記されている。
 そしてこの仲間たちの中ではエミリアは特別名前の出ている存在なのだろう。合同出展のうち、半数は彼女の「春幻想」と名付けられた一連作に割かれているようだ。
(興味があったら来てね。今週中はずっとやってるから)
 その彼女の言葉を何度も口の中で転がしながら、クインはじっと天使の微笑むカードを見ていた。……もう二日もそんなことをしている。
 ゆらめく波間に射す光の線をかいくぐるように身をよじる銀色の魚たち、それに手を差し伸べて微笑む天使の表情が柔らかく、甘く、優しげなのにひどく切ない。幻影画であることは疑いないが、天使の面輪に何か懐かしい、ぬくい感情がはい出してくる。
 ……これは余計なことなのだろうか。自分は物と同じなのだ、ただ客の望みを察してそのように振る舞うだけの人形なのだと必死でしつけてきた外殻が、柔らかく薄い微笑みひとつにゆるゆると消え去ってしまいそうになる。
 クインはこんなことではいけないと必死で思いこもうとする。人の優しく触れ合う暖かさを求め始めたら、恐らく客と寝ることなど出来なくなる。
 最初にライアンと寝たとき、微かに震えていたし怖かった。だから彼が自分をごく丁寧に、まっとうな恋人にするように扱ってくれたことは分かる───今なら、それは分かる。
 そのせいでライアンについて苛立ったり怒りを覚えたりしながらも、もう一度誰かのぬくもりの中にひたって癒されたいと考える時には彼に手を伸ばし続けて拒否され続けていることも。
 男たちに組み敷かれながら、クインはいつでも自己を閉じてただ暗い場所に彷徨っているようだった。身体の反応は興るままになることで、自分の感覚や意志とは既に遠い場所にあった。
 それが異様なことだと胸のどこかが飲み込めないままであったのを、今更思い知ることなど、欲しくない。
 要らない。そんなことに気付けばもっと苦しくなる。居たたまれなくなる。いやだ、それは嫌だ。このままでいいはずなのだ。チアロだって母さんだって、俺を気に掛けてくれてるじゃないか。何が不満なんだ。足りないんだ。
 けれど、その明確な回答など───要らない。そのはずなのに。
 クインは起きあがった。寝台の脇の小卓の上で、彼の時計が時間をせかしている。クインは澄んだ音で彼を呼ぶ時計の音を止め、服を脱いだ。週に2度、看護学校へ通っているのだ。試験は首位で通過し、特待の資格も得たのだから放り出すのは愚かであった。
 看護学校へは少年のままの姿で通っている。身長はこれからどこまで伸びるか分からないし、そもそも中等学院の時にもあの皇子が少女の体つきではないと断言したではないか。医療系の学校であるから、その目はもっと厳しくなるはずだった。
 クインはクロゼットの中から派手すぎない衣服を選んで身につけると、鞄に教書を放り込んだ。髪は適当にまとめて黒く見せ、眼鏡をかける。女装の時とは違って、素顔を晒すことにやはり抵抗は強かった。
 いつもの地下水路から抜け、少し歩いて乗り合いの馬車にあがりこむ。彼の面差しに時折はぶしつけな視線が当てられることもあるが、大都市ならではの無関心さがおおむね彼の過敏な神経を守ってくれた。
 いつものように他人の視線を拒絶するためにやや俯きがちに、馬車の振動に身体を預けながらぼんやり窓の外の薄暮の景色を眺めていたクインはふと視線をあげた。ちらりと一瞬目が過ぎた街角に、既視感の青い色がよぎったのだ。
 肩をひねって振り返り、目線を滑らせていくとやはり何かがちらりと引っかかる。僅かに時間を探し、すぐにクインはその正体を見つけた。表通りに面した硝子張りの店の一面に、あの天使の絵の複製が大きく張り出されている。
「あ……」
 微かにクインは声を漏らして腰を浮かせた。天使のカードをぼんやりと眺めながらつい彼女のことを考えていた最前までの記憶が、不意に現れた偶然に対して喧噪に息づき始める。
 急に心臓が高く打った気がして、クインは思わず口元を押さえた。カードの裏に印刷されていた画廊の地番など、覚えていない。多分その箇所は見ないように務めてきた。ふらふらと彼女の親切とやらに甘えてしまっては、この先客とのことが辛くなるだけだから。
 けれどその矢先に眼前に現れた絵の天使は、彼を許すように優しく微笑んでいる。
 もう一度だけ。そんな声が耳の裏で囁いたような気がして、クインはきゅっと唇を結ぶ。あと一度だけ、たった一度だけでもいいから、彼女とごく普通に話したり笑ったり、そんな平凡でなだらかな時間が欲しい。それを嬉しいと思う部分が自分の中にまだあったことが喜びに変わりそうになる。
 いけないと思いこもうとする傍にその声が次第に大きくなっていくようだった。微かに苛立ってクインが爪を噛もうとした時、急に馬車ががくんと揺れてとまった。
「───降りるかい?」
 その声が自分に向けられたものだったことに、クインは遅れて気付いた。乗り合いの切符勘定をする車掌が御者を止めたらしい。
「あ……いや、」
 何かはっきりしないことをクインは口の中で呟いた。車掌がいぶかしく彼を見つめる。クインは馬車窓の向こうにやや遠く見えている青い絵の具の色を見やり、自分の鞄を見やった。
 学校が、という胸の中の呟きがする。その声に耳を澄ましながら、クインは唇を開いた。
「降ります───ここで降ろして下さい」
 自分の声がぽろりとこぼすのを自分で驚きながらクインは受け止め、そして苦笑になった。
 一度くらい看護学校を休んでもすぐに取り返しはきくという自信はあった。それまでの学舎の経験からしても、数度通った看護学校の内容の密度から言っても、それは殆ど確信といって良かった。
 ……一度くらい、いいか。そんな現金さに自分で薄い苦笑を浮かべながら、クインは馬車を降りた。精算分の釣り銭を適当に服に押し込み、天使の絵の掲げられた画廊へ少しづつ近寄っていく。いつか妓楼にこわごわ近寄っていった時よりも更に何か恐ろしく不可解なものへ近付いていくようで、落ち着かない。
 画廊は通りに向かう壁面を全て硝子の一枚板で張ってあり、そこにカードと同じ絵の大きな複写画が張られていた。馬車の中から見えたのはこれだ。水の青が優しい。
 クインはその絵をじっと見つめた。カードの時にもふんわりしたぬくみのある絵だと思ったが、大判になると更に顕著だった。表情しか見えなかった小さな印刷よりも、事細かな仕草や表情の微妙な加減、光線の柔らかさなどがゆったりとした時間を連れてくる。美しい絵であった。技巧も色使いも表情も、全てが穏やかにゆっくりと、そして確実に胸の中に入り込んでくる。
 クインは溜息をついた。彼女が何かにとりつかれたように夢中で彼を写生していた時の情熱の帰結はこれなのだろうか。だとしたら、とクインは不意に頬を赤らめる。
 ……そりゃあ大層なものに見込まれてる。自分は天使ではなく、これほど美しいものでもない。現実と欲望の中に彷徨いながら、それを厭い嫌い憎しみさえしながら、そこから離れて生きていけない。それほど醜いものがあるだろうか。
 けれど自分でも可笑しくなるほどに、彼女が自分の表面だけを小器用に写し取っていたのではないことは、知っている気がした。
 あの日、いつしかソファで眠ってしまったクインが夜半に目を開けるとエミリアはまだ写生を続けており、彼の目覚めに気付いて優しく笑った。
(起きたの? 眠ってていいわよ……)
 それは僅かに記憶の奥底に眠る、母の声音と似ていた。声自体は似ていないのに、その柔らかな音調が似た場所に囁きかけてくる。
 頷いて目を閉じた自分の素直さにクインは苦笑したはずだったが、その先はすぐに闇に溶けて分からない。エミリアがそっと自分に近付いて毛布をかけ直してくれたことだけ、それだけを何故か覚えている。
 クインは微かに笑い、長い溜息になった。画廊の中にはいるのには、また別の種類の勇気が要る。どうしようかと視線をちらりと入り口の方へやると、慌てて居住まいを正す若い男女たちがいた。どうやら彼を見つめていたらしい。やっぱりこの顔は目立つな、とクインは苦笑した。
 彼らの年齢は多少ばらけているようであったが、雰囲気は似通っていた。合同出展とカードの案内にはあったはずだったから、これはその若い画家仲間というところなのだろう。
「あ、あの、よければ中、見て行きませんか?」
 クインと一瞬目線のあった女がしどろもどろに言う。下手きわまりない勧誘にクインは微かに首を傾げた。
「エミリアって……ここにいるって聞いたんだけど」
「エミリア? ああ、エミルね、いるわよ」
 女は知った名前が出たことで安堵したらしく、ほころんだ笑みになった。こっちよ、と手招きされて画廊の中へ踏み入れる。中は意外と広く、白い壁と淡い枯れ草色の絨毯が落ち着いた印象だ。
 初めてのことで周囲を見回していると、先ほどの女がすぐに戻ってきた。クインは僅かに皮肉気に見えるような笑みを作り、照れのために軽くあごをしゃくる。が、そんな意地も連れられてきたエミリアのぱっと咲いたような笑顔で急に引き込んで、口元を歪めてあらぬ方向を見た。
「来てくれたんだ、ありがと、嬉しいわ」
 やはり彼女の声は通って明るい。あの晩も朗らかな声や表情であったが、それを改めて確認した気持ちになる。自分が彼女につられるようにゆるい顔になっていることにクインは気付いたが、それをさっとしまい込む気にはならなかった。
「暇だったし」
 それでも口をついて出てくるのはそんな言葉だった。エミリアは彼の持っている鞄をちらりと見て、そうね、と頷いた。
「でも来てくれたんだから嬉しいわ───ごめんね、今、商談中なの。すぐに済むと思うから絵でも見ていて、ね?」
 商談ということは絵の買い手が付いたということだろう。エミリアはどうやらこの画廊に絵を飾っている連中の中では一番手であるらしく、いくつかあの天使の絵と同じ筆触の絵には売約済みの札が画題の下に張られている。
「売れてんだ、絵」
「まあ、そこそこにはね……何しろ散財しちゃったから、取り戻すのに必死よ」
 くすりとエミリアは笑う。散財というのが自分のことであることに気付き、クインは少し笑った。
 待ってて、と言い残してエミリアが奥の応接室へ戻っていく。その後ろ姿を見送ると、先ほど案内してきた女が知り合いなの、とクインをのぞき込んだ。まあ、と適当に肩をすくめるとそれ以上は諦めたのか、女はこっち、と彼の先に立って画廊の奥へ歩いた。
「ここから先がエミルの今度の新しい連作よ。右から時系列にそって並んでるから、その順に見てあげてね」
 それだけ言い残して女が去るのを待ち、クインは絵の前に立つ。天使の絵とは少し趣が違うが、淡いくせにしっかりと塗られた色調と美しい幻想の光景は同じだった。
 滔々と広がる若草色の野原に少女がいる。エミリア自身に少し似ている気がするが、もっと幼い。まだ10才にもならないだろう。黒髪が風にあおられて顔にかかり、ほつれてさえいるが、その目線は何か見えないものをみつめるように敬虔に、ひたすら空へ向いている。
 展示説明の額には妹の成長を追いながら幻想の中に取り込んだ一連の作品であることが記されていて、その通りに一枚を経るごとに少女は少しづつ成長していく。
 若草の野原があり、爛漫の花壇があり、きらめく海がある。あの天使と通じる、一点の曇りもない優しさ、綺麗に透き通った慈しみがある。
 ゆっくりとクインは絵の前を移動する。成長する少女の面影はやはりエミリアに次第に似てくるようだった。少女の表情や服装は様々だったが、どの絵もどこか遠い、とりとめない場所をしっかりと見つめているようで、視線の強さが焼き付く。
 そんなことをぼんやり思いながらクインは最後に近い一枚の前に立つ。それは春を迎えて割れ崩れていく氷の上を渡る少女の姿だった。均衡を取るように大きく手を広げ、やはりずっと上の、あらぬ場所を見ている。黒い瞳に何も書き込まれてはおらず、それが何を見ているのかはやはり分からなかったが、現実の何かではあり得なかった。不思議な微笑みは苦悶でも諦観でもなく、試練にうち勝ったときのものでもない。どの風景にいても少女はたおやかに凛としていたが、この一枚には特にそんな表情が強かった。
 綺麗な絵だった。技巧よりも、絵を通して何かが確かに心の底を掴んで優しく揺する。それにゆったりと身を任せていると安らいだ気持ちになる。彼女の絵は、そんな絵だ。誰かの為に描かれた、愛を語る絵。愛を語るゆえに幻想と現実が調和して、美しい絵。
 彼女の胸の中にある幻影がごく一部であっても鮮やかに投影されていることは、疑う余地がなかった。美しく結晶化された彼女の中の無限の夢が押し寄せてくる。
 綺麗だと口の中でクインは呟く。絵の善し悪しなど彼には分からないし、エミリアの絵に一体幾らの値が付くのか、それが高いのか安いのかなど全く知らない。けれど彼の心に根付き、彼に向かって優しく微笑む天使の幻影と同じ血脈が、この絵には宿り、息づいている。確かに呼吸しているのだ。
 そしてこの絵を生み出した絵の主は今、すぐ近くにいる。応接室の扉を開けて彼に話しかけるために、ゆっくりと近付いてくる。
 僅かに呼吸を整えたクインの肩を、全く別の誰かが掴んだ。 
 かたんと自分の前に淡い色の果実酒のグラスが置かれた。天然炭酸のあげる気泡が微かに揺らぎながら、グラスの向こうの風景を時折歪めてみせる。
 クインはグラスの縁を指先で遊び、口を付けた。一息にあおろうとしてそれをやめる。けれど膝の微かな震えはとまりそうになかった。
(なあ、君、もしかして───ほら、君が高等学院に魔導の聴講に来てたとき、俺、君と同じ研究班にいた……)
 掴まれた肩、強引に振り向かされた力の強さ。それに思わずよろめいて均衡を崩し、声を掛けてきた男にもたれて座り込んでしまった。
(中等にいた彼女だよな? 名前───ごめん、名前が出てこない……けどほら、魔導論文で確か賞まで取った───)
 それでも話しかけるのを止めそうにない男を咄嗟に睨み、クインはさっと立ち上がったつもりだったのに、いきなり鞭打たれた事実に足が追い付かなかった。自分は恐らく相当よろめきながら体勢を戻したはずだ。
(誰、それ)
 出来るだけ低く、冷たい声音を出したのは内心のひどい波をそうでもしないと自分で叱りつけることが出来なかったからだ。男はクインに睨まれたのがいかにも存外だったというように目を丸くし、やっと思い出したらしい名前で彼を呼んだ。───それは確かに中等学院に入学した頃彼が使っていた偽名だった。可愛らしくてありふれた少女の名前。
(……俺、男なんだけど?)
 クインは辛うじてそれだけ絞り出した。男の方はぽかんと彼を見つめていたが、やがてかあっと赤くなった。思い違いだと納得したらしい。
(ごめんよ、でも本当に似てるなぁ……彼女、もしかして君の親類とか親戚とかじゃないかな、本当に綺麗な子でさ、大人しくて可愛くて……魔導の方もまさしく天才少女ってああいう感じなんだって……)
(悪いけど)
 割って入ったのはエミリアだった。クインをかばうように自分の背後へ押しやって、男の名前を呼んでいる。知り合いなのだろう。
(この子は私の遠縁なの。帝都に出てきたから今日ここで待ち合わせただけよ、変なこと言わないで)
 ぴしゃりと断言する強さは、あの日にクインの耳を引っ張って叱りつけたものと同じだ。庇われているのだとクインは微かに卑下のために唇をきつく結ぶ。だが、それ以上の言葉はあの頃と同じように喉で凍り付いて出てくる気配がなかった。
 男の方はややあってからクインに向かって軽く頭を下げた。ごめんよ、という口調の丁寧さとぼくとつな雰囲気はあの頃のままだ。……高等学院で魔導学の聴講を受けていた頃のまま。彼の名前も得意だった呪言形態も繋がって記憶から戻ってくる。
 あれから考えてみれば5年は経過していない。まだ彼が高等学院に在籍していても特段奇異な出来事であるわけではなかった。何故あの場にあの男がいたのかなどは知らないが、エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることと無関係ではないだろう。
 とにかく、とクインは画廊から3区画ほど離れた食堂の一番奥でそっと溜息になる。エミリアが咄嗟に庇ってくれたことを感謝するしかないが、それにしても自分はひどく動揺したらしい。真っ青だとエミリアは彼を気遣い、この食堂で待っていないかと言ったのだった。
 それに頷いたのは、やはり呆然のなせる業であった。中等学院に通っていたことさえ忘れかけていたのに、記憶はどこかへ無理矢理紛失させても過去は喪失しない。全て確かにクインが通ってきた欺瞞の歴史そのものだ。
 クインは暗がりに身体を押し込むようにして顔を歪めた。震えはまだとまらない。迂闊だった。エミリアが高等学院の芸術専攻部にいることを、まるきり知らなかったわけではない。カードの出展画家一覧の後援にも高等学院の名前があった。
 名前を呼ばれた時に振り返らなかったのが、今は唯一自分を宥める材料といえそうだった。振り向いていたら全てが雪崩のように露見していくに違いない。自分が男だと言うことくらいは気付くだろう。
 気付けば、過去の欺瞞が剥がれる。剥がれ落ちた欠片を、自分と母を追い続けていた連中が拾う───自分の強迫観念の根深さ、臆病な性質をクインはやや苦く奥歯にかみつぶすが、それでもその経緯は明白で、しかも逃れられない絶対の道筋に見えた。
 クインは痙攣のとまらない指先で自分の額を押さえ、机に肘をついた。まだ膝の細かな動きもやまない。近付いてはいけない。高等学院の関係者にも、あの場所にも、二度と近寄ってはならない。隣接している中等学院の学舎にも、生徒はともかく教授陣はまだ残っているはずだ。藪をつついて妙なことになるくらいなら、最初から逃げてしまえ。
 その考えは既に彼の中に根付いている習慣に近い反射だった。それを繰り返して呟きながら、今日という今日に限って自分がそれになかなか頷かないのが苛立たしい。
 本当はエミリアなど待たず帰るべきだった。酒の一杯でも一息にあおって帰るべきだ、今でも。
 けれど何故か腰が浮かない。彼女を待っているのだ……なんとも不思議なことに。礼を言わなくてはとクインは自分にどうにか刷り込んでみる。エミリアが遠縁なのだと出任せを言ったことでかなり救われた部分があるのは確かだった。
 そうやって答えのでない自問自答を繰り返していた彼の前にエミリアが立ったのは、それから同じ酒の3杯目を終える頃だった。ごめんね、と囁く声音にも苦笑気味の表情にも、先ほどの出来事の欠片も残っていない。まるでなかったことのようだ。
「……何も食べてないの? 少し食べる? 絵が売れたからここ、おごるわよ───えーっと……ね、何か嫌いなものある?」
「食欲、ないから」
 クインは乱暴に返答した。事実、何かを食べる気などまったくおこらなかった。ひどい眩暈に必死で耐えているほどだ。エミリアは軽く溜息をついた。
「でもお酒だけじゃ胃に悪いわ。ここ、窯焼きの鳥が美味しいのよ。香草が嫌いじゃなかったらそうして貰うわね? それとパンと……そうね、何か温かいもの胃に入れた方がいいから、煮込みかなにか」
「要らないって言ってるだろ!」
 クインは机を拳でたたきつけて怒鳴った。一瞬食堂の中の視線が呼び寄せられる。クインは机に突っ伏して要らない、と繰り返した。恋人たちの単なる痴話喧嘩だと思ったのか、やがて注目が散って元の静かなざわめきが戻る。
「……ねぇ、少年」
 それを待っていたようにエミリアがそっと彼の髪を撫でた。
「でも、生きていく限りは食べなくちゃ。あなた痩せてるわ、とってもね。もっとちゃんと食べて、もっとちゃんと生きないと、ね」
 クインは机にうつぶせたまま緩く首を振った。エミリアの言葉はやはり彼に温かくしみこんでくるものだったが、今は聞きたくなかった。
「いいんだ、要らない……本当に、今日は要らない……食べたくないんだ」
 呟く口調がひどく甘えたものになっている。クインは気付いて一瞬きつく眉根を寄せた。誰にでもすりよっていく野良猫と同じ種類の生き物になった気がする。自嘲で苦く頬が歪んだ。クインはそのために更に黙り込み、額を机に押し当てたままで呼吸を殺す。それは自分自身をひどく情けなく思うことでもあったのだ。
 そうしてじっとしていると、やがて耳に仕方なさそうな、けれど甘い苦笑が聞こえた。
「……さっきの、気にしてるの? ごめんね、彼、ちょっと唐突で思いこんだら盲目的なところがあるから」
 クインはそっと視線をあげて自分の前に座る女を見やる。彼女は微笑んでいて、クインの目が自分に向いたことを知ってもう一度小さく、ごめんね、と囁いた。
「……あいつ、あんたの、何」
 クインはふて腐れたような顔を上げ、頬杖を付いてエミリアを見た。彼女の方は肩をすくめた。
「彼は趣味で絵を描くのよ。基礎写生からちょっと教えてるの」
 ふぅん、とクインは流した。エミリアはクインの返答がやっと通常の音調に戻りつつあることを理解したのか、適当に注文を済ませると展示会のあれこれを話し始めた。あの男が口走った内容について、彼女は触れようとしない。それが彼女の気遣いであることは明らかだった。
 食事を適度に進めながらエミリアは料理を取り分けてクインの前に置く。それを義務的に口に押し込むうち、やっと落ち着いてきた心象にクインは深い吐息を落とした。4杯目の酒を、それで最後にしなさいねと苦笑するエミリアに頷きながら注文する。運ばれてきた新しい酒に唇を寄せる瞬間に、クインはぽつりと呟いた。
「……さっきの、聞かないんだ?」
 エミリアもその場にいて、あの男の口走ったことを聞いている。クインが少年であったことで男の方は人違いだと納得した様子だったが、エミリアはそれこそ女装したクインを見ているのだった。もっと幼かった頃にはまさしく少女にしか見えなかったことくらい、想像が出来ない種類の女ではないだろう。
 エミリアはそうねと笑い、でもと続けた。
「あなたが話したくないことなら聞かない。興味はあるわ、正直にいえば。でも、あなたが嫌がっているのにどうして聞こうと思えるの?」
 クインは頷く。彼女の言葉一つ一つが、何かの宝石のようにきらきら胸の中に踊る。ありふれた気遣い、ありふれた言葉、ごく当たり前のいたわり。そんなものに過ぎないと承知していても、それに甘えたくなる。
 誰かという叫びが胸の奥にする日に、遂に与えられなかった安息の気配がする。
 ───泣きたくなる。誰かの無条件の優しさが、胸に痛い。突き刺さるように痛い。痛みがある、それが疼く、心臓を貫かれたような深い疼痛、それら全てが声を合わせて彼女に甘えてもいいのだ、そうしてもきっと慰撫してくれる、助けてくれる、その予感を歌っている。
 高らかに。クインは片手で顔を覆う。本当に泣き出しそうだった。
「……奴の言ったのは、嘘じゃない。あれは俺だ。10歳の時まで、中等にいたんだ。天才だとか神童だとか言われて、いい気になって、魔導論文も書いたよ……」
 自らの擬態や根本の欺瞞など忘れ、豊かな未来を夢見て自分の持つ力を傲慢に発揮していたのはまだ5年も経たないほどの近い過去なのに、ひどく遠い。自分の過去ではないような気がするほど、現実味がなかった。
「……また、戻りたい?」
 クインが声を震わせたのをなんと思ったのか、エミリアはそんなことを聞いた。クインはゆっくり首を振り、分からないと答えた。
「分からない、そんなこと……俺は、同級生なんかみんな馬鹿にしてた。友達なんかいなかった、みんなちやほやしてくれたけど、俺は奴らのことを端から相手にする気なんかなかった……」
 一瞬目の裏に皇子の面影が過ぎる。皇子のことは別のもので塗りつぶされてしまっていたが、彼が特別であることは真実だった。
「分からない、エミリア、俺は、あんな場所に戻るもんかと思ってた、でも、あそこにいた頃が一番……今から考えるなら、一番、ましだったかもしれない……」
 少なくとも母がいて、きっかけはどうであったにせよチアロやライアンなどと友人関係を築くことが出来、学校という閉鎖された特殊な空間の中で自分の能力の限界を楽しむことさえしていたのだから。
「学校、好きだったのね……」
 エミリアのなだらかな相づちにクインは曖昧に首を振った。苦笑になる。
「俺は、学校なんか別にどうでも良かった……そう、確かに受験した時は……将来は学者や役人になって母さんをもっと楽にさせたいと、思ってたはずなのに……」
 自分はあの人の足枷なのだろうか。それともあの人の罪の中核、動かし得ぬ重大な証拠。
 けれど、そんなことは知りたくない。知らなくていい。ただ母と名乗る女のために自分の人生を使い潰したって構わない。
 けれど母の温かな肌は彼に与えられなくなってしまった。時折手を重ねても、手袋の薄い遮断を隔てた体温のもどかしさに訳の分からない衝動を覚えることがある。
 エミリア、とクインは呟いた。
「でも、俺は、中等にいた頃のことなんか、捨てたんだ。捨てたら終わりだ、もう戻れない、二度と戻れないんだ……捨てるってそういうことなんだ、リーリーが……」
 クインはふと唇からこぼれた名前を確かめるように、指でそこをなぞった。今この瞬間まで忘れていた、あの、最初の友人の名前。ずっと彼の話し相手だった、黒い猫のぬいぐるみ。
 何かがこぼれるように、胸の奥から吹き上がってくる。
「あいつを捨てた時から、色んなものを捨ててきて、だから、みんな同じだったけど、でも、もう拾えない、拾えないから、諦めるしかないだろ、だって、もうないんだから、なくしたものは還ってこない、だから」
 酔ってる。クインは自分の唇がせわしなく動くのを放置しながらぼんやり思った。頭がおかしいんだ、きっと。なんでこんなことをべらべら喋ってるんだ。酔ってる。間違いなく酔ってる。帰らなきゃ───でも、どこへ? タリアの奥巣、ライアンが俺に放り投げて寄越したあの部屋へ?
 クインは小さく笑い出した。帰らなきゃ、と思うのにその場所がどこであるのか今ひとつ確信にならない。あの部屋の寝台は確かに彼の寝床ではあったけれど、帰還する場所ではありえないのだった。それはいつか、母の腕の中だった。沢山の不満や不安も激情も、母が彼の波を鎮め慰めてくれた。
 それさえ、自分で切り捨てなければならなかった。母への秘密を持ったのは自分だ。だから結局自分が自分でその場所に封印をしたのだろう。
 クインは喉で笑いながら、捨てたんだ、と呟いた。リーリー。彼を捨てたあの夜から、拾うもの全てを捨て続けてきた。そうしなくては生きていけなかったと分かっているのに、いつまでも拘泥している。
「……もう、帰ってこないから……」
 クインはエミリアが最後だと念を押した酒をあおり、注文をするために片手をあげた。その手がぱちんと弾かれる。クインはエミリアを咄嗟に睨んだが、彼女の方は涼しい顔でやってきた給仕に向かって伝票を振り回した。勘定するときの仕草だ。
「───適量はもうちょっと少ないみたいね、覚えておくわ。……ほら、立って。行くわよ」
 精算を終えてエミリアはクインを促し、彼の鞄を掴んで外へ出た。外はすでに夜の更けていく時間で人通りもまばらだ。石畳の街路を歩くエミリアの後をクインは黙ってついて歩く。鞄、という意識はまだあるのだ。
「どこ行くんだよ。鞄返せよ」
 クインの声にエミリアは少しだけ振り返り、微笑んだ。
「見せたいものがあるの。あなたに見て欲しい」
 その瞬間彼女が浮かべた薄い笑みは、それまで見てきた明朗さとは少し毛色の違った淋しげな影に縁取られているように思われた。
 クインは何かを言おうとしてやめ、だまって彼女の後を追った。


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