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 夕方近くなってくると技楼には次第に活気のようなものが満ちてくる。タリアの火入れの時間はまだ少し先だが、それに合わせて開く店棚の支度のために、遊女達はお互いに品評を試合ながらの化粧に余念がない。
 この時間、彼女たちの忍び笑いや取り交わす言葉で地階の客用の食堂は明るい活気に溢れているのが通常だ。仲の良い遊女達はそれぞれにかたまって、化粧小物や簡単な装身具を貸し合ったりそれぞれにいる想い人の話をしたり、時間が来るまではくつろいでうち解けて過ごす。
 リィザも同じようにそこに入り、いつもと同じ椅子に座って簡単に化粧を始めた。水揚げの時に女将がしてくれた化粧が魔法のようであったと今更に思うがそれでも慣れというものはあって、最初の頃よりは全てがましに傾いている。
 外のざわめきが微かに流れ込んでくる。開業前だから外に面した格子の窓は閉められ、全てに簾がおりているが、音だけは完全に遮断できない。通りの浮かれるような賑わいは全くいつも通りの日常であった。
 リィザはちらりと外を見やり、微かに吐息を漏らした。深闇の始まりがそこに迫り来る時間、外の繁賑が華やかであればあるほど、心が暗くうち沈んでいく。リィザはそれには既に気付いているが、一体どうしたらいいのか自分でも分からないまま、ただ日々を流していることに怯み続けているのだ。
 水揚げから既に9ヶ月と12日を過ぎている。日数までがすらりと出てくるのは自分が一日一日を丁寧に、あるいは執拗に数えているからだ。この一日一日が、終わるのを数えている。指を折りながら日々が過ぎ去っていくのを見ている。
 そうやって待ちこがれているのは恐らく、朝を告げる遠い鐘声であった。あるいは早朝を歌う鳥の声、微かに白み始める空の色。
 その時間になると、明らかにリィザは安堵した。距離感を掴めないままに通り過ぎていく沈殿した空気から僅かな間でも解放されるかと思うと、自分でも情けないほどにほっとするのだ。
 こんなことではいけない、もっと努めなくてはという声が次第に自分の中で小さく縮こまっていくのが分かる。
 その代わりに聞こえてくるのは、何かに潰されるように呻いている自分の声だ。押し殺した呼吸の息づかいがひどく苦しげで、それを聞くだけでも胸がしめつけられそうになる。
 リィザは僅かに溜息をつき、その記憶を振り払おうとした。タリアの火入れの時刻は近い。そろそろ長く赤い夜が始まろうとしている。化粧と身繕いくらいは終わらせておかなくてはならなかった。
 鏡の中にいる自分の瞳にある光は弱く暗い。それを直視しないように気を払いながら、リィザは白粉を軽く肌に乗せた。
 元々日に当たって色素が浮く程度には白かった肌が最近は更に透明になってきている気がする。見習いの頃とは違い、遊女となった今では外で日に照らされることなどあり得ない。そばかすなどすっかり消えて、真白の雪のようだと時折は寝語りに口にする男もいるほどだ。
 それを思い出してふと漏らした笑みを鏡の中に自分で見つけ、リィザは一瞬僅かに唇を結ぶ。それは自分ではっとするほど嘲笑と酷似していたからだ。
 あざけっているのは男達か、それとも労働の質が変わった途端に美しくなっていく肌の現金な作用か───否、多分一番嗤ってやりたいのは自分だ。何もかもを微笑みで誤魔化し、真実をひた隠し、表面だけを慣れたように振る舞う心中で全く別のことを考えている自身なのだろう。
 この妓楼に来た頃、リィザは自分の身に起こった運命の流転を飲み込めなかった。毎日泣いてばかり、帰りたいと呟くばかりだった。それでもこの場所で生きていくことを納得して受け入れて、水揚げを迎えた。その時には確かに未来を良い方に考えようとしていたし、リィザなりに覚悟は決めたつもりであった。これが芝居や物語だったらそれで一件落着、であったのだろう。
 けれどどうしたことなのか、身体は頑なに全てを拒んだままだ。心は受け入れても、身体はぴったりと閉じられたまま、自分の運命を声無く呪い続けている───それが分かる。
 天窓から淡くこぼれ落ちてくる赤い夜光の中で男の手が自分の直肌を遊び始めると、呼吸が止まりそうになる。ぎゅっと目を閉じて一刻も早くその時間が過ぎ去ってしまわないかと息を潜め気配を殺していると、必ず悪い夢を脳裏に見た。
 それはあの貴族荘園で闇雲に働いていた頃の幻だった。幻影としては美しかった。あのころに見知っていた、虹や優しい小糠雨や蝶の乱舞や蜘蛛の巣の朝露や……それに、彼。思い出しては駄目だと必死でうち消そうとするたびに、自分がいかに幸福だったか満ち足りていたかを思い出す。
 そしてその瞬間、身体の上にある違和感に気付いてリィザは小さな悲鳴を上げて目を見開いてしまう。行為の最中におもむろに凝視されるほど男を興ざめさせるものもないらしく、大抵の客は鼻白み、何かを言う。それは直截な怒りであったり苛立たしい嫌味であったりしたが、言われた瞬間からリィザの身体はますます強張って、やがてそれは激しい苦痛に変わるのだった。
 それは勿論、自分が悪い。リィザは理性では理解している。
 相手は客で、自分は遊女だ。見合う金額を支払って楽しむ為にそこにいるはずなのに、歓待する側が醒めていることほど腹立たしいものもないだろう。それは分かる。けれど、何を自分に言い聞かせても納得させようとしても頑なな身体はどうしたらいいのだろう。これだけはどうしていいかも分からずに途方に暮れている。
 ───神様。
 逃げ込む先は、それしかなかった。水揚げの相手の男が無名神教会の僧職者であったのも何の偶然であったのか、最前から興味はあった無名神への祈りの聖句や紋様板の使い方などを教わることが出来た。名無き神は全てを知り、赦し、癒してくれるという教えに逃げ込みたくなるほど現実は閉塞という城壁の中に在って、そこから動こうとしない。
 だからリィザはそれまでよりの何倍も、真剣に祈った。助けてくださいとは言わない。どうか救ってくださいとも思わない。ただひたすらに、この現実から逃れる術として、安息を求める場所として、姿のない相手に黙祷した。祈りをしている時には現実という籠の中に在る疎ましいことも気の重いことも全て忘れていられた。
 ───神様……
 安息を少しでも探そうと、悲鳴と共に目を開けてしまった後はリィザは尚更目を固く閉じ何も考えまいとする。だがその所作をあざ笑うかのように幻は今度はそれまで相手をしてきた沢山の男達が与えてきた様々な苦痛に変わり、脳裏をぐるぐると回り続けるのだ。
 絶望という言葉がうっすらと胸に広がっていくのを感じるのはそんなときだ。その息苦しさを振り払う為にますます瞼を強く閉ざすと、ついには涙になりそうになる。───客といて涙を浮かべるなど、論外以前の問題だ。
 他にどうしようもないではないのだ、とリィザは自分を必死で言い含める。この妓楼以外に居場所などないのは理解せざるを得なかったし、自分でも納得したと女将に告げたからこそ水揚げもその後のこともあるのだからと。
 自分が在るべき場所はこの妓楼であることは明白であった。この中で自分なりの希望も未来も探していくべきで、それがいつか幸福というものへ至るかぼそい道を見つけてくれる……そのはずなのだ。なのに。分かっているのに。
 リィザは長い溜息になって鏡の中の自分に目を凝らす。
 時折訪ねてくるディーと他に二人ほど以外には常連客を持たないリィザは夜ごと客を誘う為に待合室に入らなくてはならない。身の空いている遊女達はそこか食堂かのどちらかにいて、通りすがりにでも目をとめてもらうのを待っているものだ。
 夕食は客のおごりにしてもらうのが殆どで、そうでなければ自分で頼まなくてはならないが、それには金がかかる。勿論妓楼の女なのだから客のものよりも安価だが、それにしても全てにつけて金が要った。
 その金はどうやって作るかといえば、結局客からの小遣いや客が頼む食事や酒に含まれている見返り料、そして指名料だ。何がいいとか嫌だとかご託を並べていては新しい衣装どころか下着の一枚も買えない。水揚げの時に多少のものは揃えてあるが、衣装も2枚や3枚では具合が悪いし、第一リボンや造花などの髪飾りに装身具なども多少無くては淋しく見えて余計に客がつかなくなる。
 この場所で生活をしていく為には客を取らねばならない、そういう機構は既にくみあがっている。なのに、それに馴染めず気付けば日数だけをひたすら数えている自分は一体何なのだろう。
 妓楼に売られた来たときにも自分の中の頑迷さに自分で微かに辟易したことがあった。今、その真芯の強情さをほとほと持て余している。
 男には慣れていくものだし行為自体には馴染んでいくものだと遊女達はみな言った。水揚げの翌朝にはそんなことは信じられないと溜息をついたものだったが、相手には慣れた。僧職のあの男からは女慣れた手つきや仕草などにも関わらず、どこか愛情めいたものの匂いを嗅ぎとった。その頃にはまだ男の腕の中にいるときに目を開くようなことはなかった気がする。
 僧職の男が秋を過ぎてぷっつりと来なくなり、やがてそれが転任であることを女将から知らされて後、完全に身体の感覚は閉じこもった。そんなことではいけないと思えば思うほど、吐息さえぎこちなくかたまっていく。
 他の遊女達の言う歓びというものを得ることが出来ない行為が、苦手から苦痛、苦痛から苦役に変わるまでそう時間はかからなかった。リィザは怯えているのだ。男という生き物全てが空恐ろしく、得体が知れなくて怖い。
 リィザが遊女としての素の部分にひどく乾いたものしか持ち合わせていないことは、肌を合わせていれば分かるらしい。怒る客、白けて不機嫌になる客、または逆にどうにか自分に感覚を与えようと躍起になる客、───そして、一番恐ろしいのはそれを知って殆ど一晩中責め苛む客だ。そういう性質の男はそれこそ文字通り夜の間中、言葉でも肉体でも彼女を追いつめることしかしない。多分、自分の怯えて強張り青ざめた顔もそれをあおっているはずだった。
 水揚げの相手には僅かに感じることが出来た情愛めいた空気は完全に見失い、どう探していいのかも分からなくなっている。こんな状態の自分にも僅かながらいる常連客というものが、一体何が良くてリィザに時折顔を見せるのかも分からない。
 ───それとも自分は彼らを憎んでいるのだろうか。どんなに冷えてあしらってもしつこく自分を買い続けるから?
 自分に問えばいつも答えは分からない、だった。反射的に否定が出てこないところが更にリィザを暗澹とさせる。馴染みの客達は行きずりの相手よりはまだ安堵を覚えることができるのに、彼らさえ厭うているなどと思いたくない。
 だが嫌悪感が少なく悪夢がやや淡いことと、愉楽というものを取り違えることは出来ない───……
 がちゃりという重たい音でリィザははっと我に返った。黒い制服を着た小間使いの少女が表の篝火にくべるための薪籠を扉の側に置いたのだ。細く扉を開けてその支度の為に外へ行く黒い衣装を見送り、リィザは鏡に向き直った。
 化粧はあまり凝ったことをしない。少し前に15になったばかりの肌は下手に飾り付けるよりも素の若さを売った方がいいと皆言ったし、同い年のシアナという姐妓もそうしている。だからごく簡単にそれをすませ、淡い色の口紅を置いて頬にかかる髪だけを後ろでまとめて百合の造花のついた櫛を挿した。
 この櫛はチェインの若い王の側近であるディーという男が彼女に買い与えたものだ。そう高価な品ではないが、衣装の布地がさほどまだ良くない。髪飾りにだけ金を注ぎ込んでいても均衡が取れなくて奇異なだけだろう。
 自分の指先が慣れた仕草で身支度を終えていく。仕上げの真珠粉を軽く目元に掃かせてぱたりと化粧道具の小箱を閉めると、それが合図だったように遠く一つ、空気をふるわせる鐘の音がした。夜の開始を告げる晩鐘の、予告の鐘だ。
 微かに絹のさやかな音がした。僅かに3名の遊女が立ち上がって自分の部屋へ戻っていく。彼女たちは客がつかなくてもこの待合室には入らなくてもいい権利を得ているのだ。この妓楼で一番良い部屋住の遊女達は揚げ代もリィザの5倍からというところで、客を選ぶ権利さえ在る。彼女たちが嫌だと言えば女将は上客を断るであろう。
 そしてそんな権利は彼女たちが特別である証左であり、リィザにはきっと降りてこないものであった。今のままでは無理だと考えるまでもない。
 正直なところリィザはほとほと嫌になっているのかも知れなかった。妓楼での生活も、男も、どこかに現実乖離したままの部分を残している。馴染めないと一言で斬って開き直ることが出来たらどれだけ楽だろうか。
 夕方が近くなるとリィザはいつもこんな気鬱に囚われる。次第に憂鬱は深く重くなっていき、鳴り響く晩鐘と共に簾があげられて通りに火が入ると、それは鉄のように固まって動く気配さえなくなってしまうのだった。
 ───早く、朝が来ないだろうか。リィザはこの夜の身の置き方などへの思考を振り飛ばし、ただひたすらに、解放される時間のことばかりを考えている。
 待っているのは朝、天窓から次第に白ける月が見えなくなって鳥の声がする時刻。自分の隣にいる見知らぬものがようやくいなくなる時間。夜の始まるこの時間にそんなことばかり考えているのがいかにも不遜で、リィザは微かに吐息を漏らし、立ち上がった。
 化粧道具を一度部屋に置いて裏階段から待合いへ下りてきたその瞬間に、耳に響き渡る四点鐘があった。火入れの時間である。巻き上げられた簾の向こう側の赤い光の洪水はこの日も目に痛いほど眩しくて、リィザはつい目を閉じた。

 この日の最初の客は泊まらなかった。まだ部屋にあがるのを差し止める時刻ではなかったから、リィザは身体と部屋の痕跡を丁寧に消してから階下へ降りた。身体の中の倦怠と嫌悪はこのまま自分の部屋で新しい毛布に潜り込んでいたいのだと一心に訴えているが、それに耳を貸してはならないことはよく分かっていた。
 そんなことをしても、結局何の進展にも進歩にも、無論解決にもなりはしない。どんな風に自分を慰めても宥めても潤わない性質に呆れながらも、根気よくつき合っていくしかないことは分かっている。それにどれだけの苦痛が伴うかという問題だけで。
 さすがに待合室には遊女達はまばらだ。そろそろ泊まりの客が主体になってくるほど夜は深まっていて、既に今宵の相手を見繕った娘達は自室に籠もっている。これから先の時間はやや揚げ代もまかることもあるから、外をそぞろ歩く男達の視線がちらちらと待合室の格子の向こうから注がれているのが分かった。
 リィザは格子のすぐへりにある腰台を見やる。身の空いた遊女たちが身体を置いて、外を行き交う男に視線を流して声をかけるための場所だ。数名の女達が既にそこにいて、格子の隙間から手を招いたり、お互いに何かを言い合って笑っている。
 そこに行かなくてはと思う瞬間には、リィザの足は動かない。おっとりとも内気とも表現できる怯えがちな性質が、見ず知らずの男に笑いかけるような真似をさせてくれないのだ。
 第一、何を言っていいのかもまだよく分からない。
 けれどいつまでもそこに杭のように立っているわけにもいかないとリィザが呼吸を飲み込もうとしたとき、後ろから声がかかった。
「空いてるわよ、あそこ」
 振り返るとシアナであった。リィザとは妓楼の中で唯一年齢が同じ少女だ。リィザのたおやかな風情とは反対の、煌めくような華やかさを放つ顔立ちは整っていて美しい。ライアンというチェインの若い王と容貌に共通するものが多かったが、どちらが綺羅しいかというならば、間違いなくこのシアナの方であった。彼女を目にする度に、はっとするほど綺麗だとリィザは思う。それは最初に出会った頃からまるで変わらない。
 リィザが一瞬自分に見とれているのに気付いたのか、シアナは肩をすくめて唇だけで笑った。彼女の仕草はどれも素っ気なくて強いが、そのどれにもさして悪意はなかった。
「今、身体空いてるんだったらあそこで外でも見てればいいじゃない?」
 シアナはまっすぐに腰台を指して淡々と言った。シアナねえさんは、と聞き返すと同い年の遊女は微かに笑って首を振る。
「あたしはこの後指名が入ってんのよ。部屋で待ってるのも暇だから、ここに誰かいないかと思ってさ」
 シアナはいいながら、リィザの背をとんと軽く押した。そこへ行くようにと促されているのが逆に楽に足を動かしてくれた。元々他人に指示されたことをつつがなくやり遂げてきた生活であったから、こうしなさいと強く言われると反射的に頷いてしまう。
 指名の入っている客というのはライアンのことだろうか。遊女間でもお互いの客の個人情報は秘匿が鉄則だったから聞くことは出来ないが、シアナの表情はさほど待ちかねているという風ではなかったから、違うのかも知れない。
 リィザが腰台に身を寄せて座ると、シアナがリィザの黒い髪を手で梳き流して何やら編み始めた。
「黒髪もいいわね、あたしも一度染めてみようかな」
 衣装には規定があるが、髪型なども自由になることの一つだ。リィザは背の中程で揃えているが、シアナの方は肩にまつろうあたりで切ってすそだけを簡単に巻いている。それがふわふわと彼女の秀麗な面差しを彩って、いっそう華やかに見えるのだった。
「シアナねえさん、でも今の髪型もとっても似合ってますけど」
 リィザの言葉にシアナは曖昧に笑い、そうねぇと呟いた。
 彼女の方がリィザよりも3年も早く水揚げを迎えているせいか、男のことにしても妓楼の中のことにしてもよく知っている。お互いに持っている性質が組違っているために実は雑談していても感覚の機微がよく掴めないのだが、これはリィザが薄々感じているならばシアナも思っているだろう。こうしたことは伝播するように正確に相手が鏡になる。
 けれどリィザを経験の浅いいもうととして、何くれと面倒を見ようとする辺り、根は悪い少女ではない。多分、それだけ分かっていれば良かった。
「───姐さん、客待ちかい?」
 格子の外から声がかかる。
 太い銅鑼声にリィザが僅かに怯みながら格子の外を見やると、朱塗りの菱木に手をかけた大柄な男がじっと二人の方を見つめていた。その視線は迷わずシアナの方に向けられている。二人並ぶと紛れもなく、人目を引くのはシアナなのだった。
 この瞬間に自分の胸に湧いたのが、微かな痛みだったのかそれとも大量の安堵だったのか、リィザには区別が出来ない。この男は自分に興味を持たないが、それが何故なのかを考えたいとは思わなかった。
 シアナはふっと唇をゆるめて笑った。リィザよりも遙かに面差しが整っていることを彼女は知っていて、こうした小さな表情に僅かに優越感のようなものが滲む。リィザはそれを当然だと思う。客の前で笑うことさえ難しい自分などよりも、今から美女になると明白で明るく振る舞う彼女の方がよほど大人びて華麗だった。
「あたしは待ってないわ、これから他の旦那様が来るもの……ねえ、この子は? まだ水揚げからそんなに経ってない新人よ。可愛い子でしょ?」
 ぐいとシアナの腕が自分を押し出して、リィザは籠のように巡らされた格子へ縋り付くような格好になった。のぞき込む男を、上目に見上げる。僅かな時間男は考えていたようだったが、急に明るく笑った。この笑顔になったときの返答は決まっている。
「いやいや、俺は姐さんが空いてるときにまた来ることにするよ」
「そう……じゃ、またね」
 シアナはぷいと顔を逸らす。こんな高慢に見える仕草でさえ、彼女は華やかさにすり替えることの出来る、希有な少女ではあった。
 雑踏の中に男が消えるのをリィザはぼんやり見送る。あの行きすがりの男がリィザを買わなかったのはシアナと比べて明らかに顔立ちが平凡だからだろうか、それとも自分の隠し持った性質を素早く嗅ぎとったからだろうか。直感のようにそれを見抜く男達もいる。
 リィザは小さな吐息を漏らした。あの男が自分を買わないという選択をしたことが、明白な安堵になってしまうのが自分でも疎ましい胸の作用だった。と、急に耳が引っ張られてリィザは隣の少女を見る。シアナの方はやや機嫌を曲げたらしく、むくれたようにとがらせた唇からおもむろに溜息を吐いた。
「あんたねぇ、せっかく勧めてんだからさ、お愛想の一つくらい言いなさいよ」
「あ……ごめんなさい……」
 リィザは目を伏せて小さく謝罪を呟いた。違う違うそんな言葉など口にしたくないのだと誰かが耳の奥で叫んでいるような気がしたが、それは黙殺するしかない。今更処女だと気取るわけでもないし、この9ヶ月間で相当の数の男を知っているのは事実だ。
 リィザの反応のにぶさにシアナは顔をしかめ、長い溜息をついた。何かを言われるよりもそのほうが応えた。
 リィザはもう一度ごめんなさい、と言った。
「……謝って欲しいとは思わないけど」
 シアナは中断していたリィザの髪結いを続けながら低く尖った声で言った。
「あんたがそうやって不幸です不幸ですって顔してるとさ、こっちも滅入ってくるのよね。何とかならないの、それ。もうちょっと明るい顔してればお客だってもっとつくわよ」
「そう、なんです、けど……」
 だが実際どうしたらいいのか見当がつかない。男という未知の生き物は、身体を重ね合わせた後でも未知のままであった。
 見えないものに好奇で以て突き進むことが出来るのはそんな性質の女だけで、リィザのように見えないものに対峙したときにまず恐怖を覚えるような者は、ただひたすら怖い恐ろしいと震えているしか出来ない。
 リィザの返答はやはりシアナの気に入らなかったらしい。彼女は苛立ったように軽く舌打ちすると、理解できないと言いたげに首を振った。それも仕方ないだろうとリィザは思う。シアナが自分を分からないのと同じように、自分も彼女がよく分からない。
 ライアンに彼女が夢中になっていることは傍目にも明らかであったが、あの端正な顔立ちの男の一体どこがそんなに好きなのか全く分からない。それに彼を深く恋しながらも他の客もあっけらかんと受け入れていることに、矛盾を感じないのだろうか。
 ……勿論そんなことを聞けば彼女が不機嫌になることは分かっていたから口には出したことがないが、リィザにはシアナの明るさも不思議だった。彼女とは仲の良い姉妹にはなれても、決して愛し合う友人同士にはなれないと思うのはこんな時だ。持っている性質が違いすぎる。
 けれどシアナが何くれと気をかけてくれることも本当だったから、シアナについてはよい先輩としてリィザは彼女を敬った。シアナにもそれは分かっているのだろう、時折かみ合わなくなる会話などには執着せず、構ってくれるのはそのためだ。 
 シアナは今までの会話のことなど忘れたようにリィザの髪をいじっている。細い指が器用にリボンと髪を編み合わせていくのを壁の鏡で見ていると、シアナを呼ぶ女将の声がした。指名の客とやらが来たのだろう。行きがけにしっかりしなさいよ、とリィザの背を軽く叩いてシアナは待合室を出ていった。
 取り残されて、リィザは赤い河のような通りを見やる。そこを流れていく人の波はそぞろに陽気で、これからの夜を楽しむつもりの男達の期待感が見えるような気さえした。
 ふっと溜息をつこうとしたとき、隣にいた遊女がリィザの膝をつついた。女将が自分を呼んでいるのが聞こえた。
 待合室を外から見かけて時折は指名する男もいたし、特に敵娼を指名しない客に女将が空いている遊女をつけることもある。仕事に直接関わらないことは大抵昼間自室に呼んで話をするのが女将の癖だったから、客に違いなかった。
 待合室から出ると、女将が機嫌良く頷いた。その奥に立つ男には、見覚えがある。
 リィザは一瞬翳りそうになった面輪を、会釈のようにして伏せることで誤魔化した。
「指名だよ、リーナ。旦那様をご案内おし」
 女将の声に頷いて、リィザはディーに淡く微笑んでみせる。笑いかけることが出来る程度には、馴染んでいる相手だった。
 ディーはいつもと同じくそれに合わせるように笑う。その笑みには確かに情のようなものが滲んでいる。彼が外で何をしているのか薄々知っていても、リィザの元を訪れるときには血生臭い気配は消すように努めてくれるのはありがたかった。リィザの臆病さも物怖じする性格も、半年も経てば分かってくるのだろう。
 部屋へ入るとディーは服の前ボタンを片手で器用に外した。リィザは彼の背後に回り、上半身を覆っていたシャツを肩から剥がすようにして脱がしてやる。よくついた筋肉があがる右肩に比して、左側にはそれはない。人の体を造り上げる血肉の鎧の替わりに、金属の留め金がにぶく光を反射している。
 機械人という名称は後になってから聞いたが、失った身体の一部をこうして補うことは時折あった。金額によって多少は機能にも差があるが、彼の腕は安くはない部類に入る。その証拠に、簡単な動作なら胸筋と複合させた疑似神経の働きで単独で動かすことが出来た。
 が、腕はそれなりに重く、動かすのにも労力が要るために、神経を休ませるべき妓女の部屋では大抵外してしまうのだとディーは最初の晩に言った。
 今日もその言葉通り、腕を外しにかかっている。手伝うのも初めてではなかったから、リィザはいつものように彼の右手の届きにくい左肩の後の留め金をあげて腕を身体から分離した。ディーは礼のつもりなのだろう、リィザの頬を軽く撫でると寝台の脇の椅子に腰を下ろした。食事は、と聞かれてリィザは済みました、と答えた。それは嘘だったが、先の客が帰った後の気の重さなどで食べる気にはならなかった。
「……お前さんは会うたびに痩せていく気がするな? 大丈夫か」
 彼には気遣われてばかりだとリィザは苦く微笑み、はい、と頷いた。
「水揚げの頃とあまり体重は変わらないんです。ディー様が心配下さるから、そんな風に見えてしまうんでしょうか」
 リィザはディーに気を遣わせたくなかった。本来気遣いをするのは自分の役割であるはずなのに、逆のことをされると気恥ずかしい。但し痩せているというのは本当だ。体重が変わらないというのも嘘ではないが、背が伸びていて、相対的には痩せている。
 ディーは体格のことにはそれ以上触れなかった。リィザが痩せ気味なことを自分で気に病んでいるのを察しているのだろう。こんなところでこの男の優しさを知るにつけて、彼に対して何故もっと心が開いていかないのか、自分で不思議になる。それは数少ない常連客といえる男達全てに共通することでもあった。
 リィザの特性なのか、彼女を気に入って時折通ってくる男達は優しい。多分それはリィザ自身が怯えなくていい空気を持っている相手であるからだろう。相手を怖がっているときの自分の弱々しい怯えに怒りを覚えたり白けて苛立ったりするような男は、まず二度と来ない。
 食事を終えたディーと雑談などに興じていると、遠く鐘が鳴ったのが聞こえた。これは日の最後の鐘だ。雪崩のように遠く幾重にも拍っているのがわかる。
 ディーが天窓を見上げ、時間だな、と呟いた。リィザは一瞬ぴくりと肩が痙攣したのを感じ、それには気付かなかったように部屋の灯りを落とした。
 この最後の一点鐘を合図に妓楼の娘達は闇に潜り込む。妓楼の扉も閉められて、これ以後は翌日の開棚までは客は中にはいることは出来ないことになっていた。
 周辺の妓楼も規定によって同じ行動をしつけている。だから、夜半の一点鐘の後は、赤い格子の町であることが信じられないほど青く澄んだ夜が天窓から差し込むのだった。
 寝台の脇の小卓に残した油皿の炎だけが揺らめいている。ディーが黙ったまま自分を引き寄せて、丁寧に髪をほどいていく。彼の指が自分のこめかみ辺りから髪の中へ入る。ゆっくりと頭部の輪郭をなぞる。
 リィザは目を閉じて、じっと息を潜める。自分が情けなくて、ただ彼に申し訳が無くて、涙がこぼれそうになる。彼のことを嫌ったことなど一度もない。ディーは出会った頃から彼女に辛く当たったこともなかったし、声を荒げたことさえない。
 だのに、心安いはずなのに、身体のほうはいつものような苦痛の予感に強張ってどうにもならない。彼に申し訳ない、悪いという罪悪感はあるのに、それは少しも胸の中からこぼれてこなかった。
 片腕の欠損の為に、ディーはいくつかの要求をいつも囁く。それに頷いて従って、やがて彼の身体が自分に被さると、リィザは現実的なものと罪のものと、両方の重みに耐えかねるように吐息になる。それが何かの加減か、男が快さのものだと思いこんで一言二言、呟く言葉にリィザは答えない。ただ、没頭するふりをする。
 自分は勤勉な女優のようだと思うのはこんな時だ。けれど、勤勉であればあるほど惨めな気持ちになる。一体これはどうしたら解消するのか、それとも一生自分について回るのか。
 一生この妓楼の中にいるという仮定がちらっと脳裏をかすめ、リィザはその想像の荒涼さに呻く。
「……どうした」
 かすれた声が自分のごく近くに聞こえる。いいえ、と首を振ってリィザは彼の首に腕を絡めて引き寄せた。彼の唇が自分の首筋を確かめるようになぞっている。
 ディーの視線が自分のひどく醒めた表情に向かないようにして、リィザは天井の方向を見あげた。
 天窓に映る月。その青ざめた色をじっと見つめ、リィザは待っている。───朝を。解放される時間を。しばらくは放心していられる、その瞬間を。
 いつか彼を愛せるだろうかという問いには答えがない。けれど待ち続けている。誰もがいうように、愛し、愛される、その相手を。全ての苦しいことから解放されるはずの、その愛を。
 それがこの男になるかどうかは分からない。もしくは彼の腕の中でそんなことばかり考えていることが答えかも知れなかった。
 でも。リィザは溜息をつきそうになって、慌ててそれを飲み込んだ。
 いつかという魔法があるのだと、自分に言い聞かせていればそれを遠い明日には信じることが出来るだろうか。いつか誰かと巡り逢うだろうか。いつか誰かを愛するだろうか。自分に欠けているのは恐らくそれだ。
 全てを怖がって閉じこもってしまいそうになる心、追憶と現実の間でばらけて砕けてしまいそうな自分、それをまとめてあげてくれるたった一つの力。
 その魔法を、いつか。
 相手がディーであるならそれも良かったが、今はこうして彼の肩越しに月を見上げる勤勉で怠慢な娼婦だ。リィザは目をすがめた。天窓の月がやわく歪んだ。


探してよ
波間にさすらう魂と 私の欠片をいつの日にか



 まばらな拍手が酒場に起こる。伴奏の竪琴がひときわ大きく込み入った和音を奏で、それはやがて一段高くずれた主旋律を導き出す。
 歌い女はそれに頷き、豊かな胸に手をあてて深く息を吸い込んだ。
 てらてらと安く光る口紅の色が、開いて溢れてくるのは───歌。
 女は歌う。
 あいのうたを。


  生まれつきの海鳥たちが うたいつづける、魂は
  お前がどこかで捨ててきた 真珠のような、涙と似ている

  私は今宵もお前を呼ぶ
  お前を呼び戻す為に うたいつづける、海鳥の歌

  愛してよ
  お前の全てをなげうって
  愛してよ
  お前の胸の中にあるはずの
  愛してよ、愛してよ
  流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ
  愛してよ、愛してよ
  お前の胸に届くまで 叫び続ける、私の声で
  繰り返し、繰り返し
愛して欲しいと、かもめたちはうたう


 ……やがて夜は更けていき、女の歌は記憶の中へ放り投げるようにしまわれる。酒場女は常連客の愛想に頷いて、彼らのおごりの酒をあおった。
「……彼女は昔、どこかで歌を?」
 男は聞いた。酒場の主人はさあねと笑った。
「こんなのは流行歌だからね。劇場に出ている女がこんな安い歌を知っているなんぞ、聞かないね」
 主人の言葉はもっともであった。男は苦笑し、酒と女へ渡す小銭を置いて店を出た。
 外はまだ、夜の半ば。夏の宵は短いが、それをひたすら楽しみ尽くそうとするための赤い格子の町はまだ眠らない。男は僅かに溜息をつき、雑踏の中へ紛れていった。

 どこかから、安い歌が聞こえる。流行歌に乗せた薄っぺらい愛を唇の端で嘲笑しながらクインは赤い迷路の中を歩いていた。
 今日の客は彼の気に入らなかった。初めて買うはずなのにやけに尊大で、それを思い切り顔に出したクインを薄汚いと罵ったのだ。じゃあそれを買うあんたは何なんだよとクインはつい笑いだし、かっとなった客に平手で打たれ、腹を立ててそのまま部屋を出てきたのだ。
 明日になればきっとオルヴィから一くさりあるだろう。この仕事は彼女がとってきたものだから、嫌になったら放り出しても構わないとクインは決めてかかっている。チアロの仕入れてきた話であったなら多少は忍耐することも、オルヴィへの当てつけのためであれば我慢するという選択はなかった。一晩くらい投げても十分に余裕がある程度には、忙しい。
 赤い格子棚の中をぼんやり彷徨いながら、クインは苛々と爪を噛む。
 今日は素の少年の姿であった。身長が最近日ごとに伸びていくようで、女装だと却って目立つようになりつつある。背の高さが既に少女の範疇には修まりが悪くなってきていた。
 だから女装と通常の服装とを最近は取り混ぜている。どちらにしても目立つことには変わりなかったが、少年の格好をしているときには眼鏡をかけているのが普通だ。度は入っていないが、多少印象が変わる。髪は魔導で黒く見せ、体温を安定させる為の保定の魔導を施した指輪をはめて、あとは少しだけ化粧で面差しの印象をいじるのだ。
 妓楼の硝子に映る自分の顔がひどく険立っているのを見つけ、クインは不機嫌にそこから顔を逸らした。この夏が終われば15になる。母の罪という言葉が重く胸に沈んでいて、そこへ歩き続けていく一日一日が息苦しく、気鬱だった。
 二度と会いに行かないわけにもゆかないし、真実の中核となっている部分を知りたい気持ちは確かにある。けれどそれに母と自分の間の血縁の否定や贖罪を含まなくてはならないとなると、理性などとは全く別の部分から、聞きたくない知りたくないと叫ぶ声がして、クインはそれを無視することが出来ないでいる。
 ───苛々している。
 それは確かだった。女の客を取ってみるかという提案に飛びついたのはいいが、これもまったくチアロが最初に言ったとおり、気休めにしかならない。むしろ適当に調子を合わせながら天井の模様で謎解きをしている男のほうが何も考えないでいられる分ましかもしれなかった……若い女がいないのも確かではあったけれど。
 クインは吐息を漏らして髪をぐしゃぐしゃとかき回した。この晩はまるきり空いてしまったが、まっすぐアパートに戻る気にはならない。
 以前同じようなことがあって早戻りしたときに、自分のいないがらんとした建物で微かな声を聞いてしまったのだ。
 彼の住み着いている部屋は最上階だが、地下水路から抜けて上へ向かう階段の途中でそれは聞こえた。不審に思ってそっと声のする部屋に近づきながら、クインは仕方ない笑みになるのを押さえられなかった。
 彼の住処とは階層が違うその部屋にいたのは一組の男女であるようだった。乱雑に放り出されたままの家具が視界をでたらめに遮っていて姿は見えないが、声の具合からして間違いないと見当がつく。無人だと思って紛れ込んできたのだ。ここは俺の城だから出て行けというつもりでクインが口を開こうとしたとき、男のほうが半身を起こした。右肩にはっきりと分かる古い傷が見えた。
 その傷をクインは知っていた。数度とはいえ寝たことのある男にうたれた刻印を、忘れるはずはなかった。苦い感情が口の中に湧いた。何かを言ってやろうとしたとき、女の声が今頃、と呟くのが聞こえた。
(───今頃、あの子も、同じことしてる……)
 その声もクインは知っていた。チアロと共に彼の身辺にいて、仕事を世話し生活の細かな面倒を見る役割を与えられている女。クインはきつく奥歯をかみ合わせた。怒濤のように巻き起こった眩暈は、恐らく怒りのためであった。
(奴のことは今は関係ないだろう)
 ライアンの声が低く答えた。その声には怒りのようなものが籠もっていて、オルヴィは小さく喉で笑ったようだった。クインは足音をたてないようにして、そっとそこを離れた。
 クインの仕事は通常朝までかかる。拘束時間が翌朝の一番鐘までであることで、大抵の客は彼を一瞬でも長く手元に置きたがったのだ。二人とも自分が朝まで戻ってこないと思っていたのだろう。
 自分の部屋で絡み合っていたなら絶対に赦せなかっただろうとクインは思う。そうでなくても、オルヴィのことは最前から気に入らなかった。ライアンと似た寡黙な質の女だったが、彼女が自分に最初から好意の欠片もいていなかったことは肌に感じている。
 それはこのせいだったのだろうかとぼんやり思い、階下から時折聞こえる彼女の声から逃れるように毛布をかぶって目を閉じなくてはならなかった。
 逃げたのだという自嘲と、ライアンへの苦い怒りと、オルヴィへの嫌悪が混じり合った末にクインはこのところひどく苛立っている。だが、今日も早く戻れば同じ光景が広がっているような気がして、居たたまれない。チアロに愚痴のように訴えると友人は決まり悪そうな顔をして、いつか話さなくちゃいけないとは思ってたけど、と言った。チアロも知っていたのだ。
(女がチェインで暮らすのは大変なんだよ。チェインなんて男ばっかりだから下手なことすりゃ便所にされて終わりだし、そんなことなら町に立ってりゃ金になるからな。だからライアンの周りにいることを選んだんだろう。彼女、字が読めて計算が出来るし、無口だからライアンには合うみたいだ)
 ライアンと寝たのはオルヴィなりの保険だろうと付け加え、チアロは気にするなとクインに笑った。
 ライアンがあの女を寄越した理由の一端はそれで分かった。オルヴィはライアンの愛人の一人で、それをつてにチェインでのし上がって行こうとしている種類なのだ。そしてライアンもそれを承知しているであろう。自分の周りにいることがどんな羨望と利益を生むかを知らないわけではあるまい。
 チアロから話が行っているのかいないのか、ライアンもオルヴィもそれ以後態度を変えることはなかった。けれどクインにも見知ったことがある。少し前からライアンの左の耳朶に碧玉が留められているが、オルヴィの右耳にもそれがある。石の形や大きさは殆ど同じだが、彼女のほうが紅玉なのは揃えたのだろうか。オルヴィは時折それを彼に見せつけるためなのか、わざわざ右の耳に髪をかけるような仕草をする。
 嫌な女だ、とクインは歩きながら顔をしかめる。あの女と気が合うなどという幻想は抱いたことがないが、ライアンを挟んであちらが寵を誇るのは、自尊の意地にかけても認めることが出来ない。
 今夜の客があの女の持ってきた話で良かったとクインは当てつけに思い、そして長い溜息になった。今戻れば同じ事が行われているかもしれず、それを関知した瞬間に今度こそ声を上げて彼らをなじれば敗北感だけが残るのは分かっている。面白くなかった。
 不機嫌に俯いたままクインはタリアの赤い格子の中を回遊している。男も女も彼は客として巡りあうままに知ったが、女であっても自分を思うようにしようとする相手には少しの関心も持てなかった。
 同じ女でも、自分が全ての主導権を握ることが出来れば違うかも知れない。恋人を作るという選択肢も本当はあるのだろうが、誰かと巡り逢う機会など無いに等しかった。
 一番身近にいる女といえば実はオルヴィなのであるが、それを思う度に冗談じゃないという白けた気持ちになり、最後は失笑がこぼれてくるのだった。
 けれど今、自分の巣であるはずのアパートには戻りたくない。帰る場所を一時見失い、ふらふらと華やかな迷路の中をうろついている自分が可笑しくて、クインは唇を歪めて鼻を鳴らした。
 母親からの乖離、心預ける相手の不在。その二つが入り混じりあい、手を取り合って踊りながら、胸の内でただ身の切るような寂しさを訴えている。
 お前を心から愛してくれる人、お前が本当に愛する人に出会えればきっと寂しさも消えると母は言った。それは真実だろうとクインも思う。母の語る言葉は彼にとって、いつでも煌めくように美しい真実であった。
 けれど、現実は理想のようにはいかない。その理想を求めて胸の痛みに殉じるのか、手に入らないものだと諦めてこれからも同じように日々を流していくのか、その選択肢は自分の前に並べてみせるだけで辛かった。
 どこからか歌が聞こえてくる。この春先から時折流れる、お仕着せのような愛の歌だ。
『涙を持たない海鳥たちの 悲鳴は海へ墜ちるもの───』
 題名は知らない。かもめがどうとか、海鳥がなんとか、そんな淋しげな歌だった気がする。まともに聞いたことのない歌の俗っぽさにクインは肩をすくめた。こんな物欲しげな歌を考え出す奴はよっぽど強欲に違いない。
 そんなことを思いながらクインは歌の出所を探すようにぐるりと周囲を見回した。
 タリアの大通りからは少し入ったこの界隈も、並ぶ店棚は妓楼が圧倒的に多い。顔見世のための格子部屋から手招いている、白く優しい腕たちと笑い交わす女たち。クインがちらりと視線を向けてやると、彼の尋常でない美貌にあがる歓声。
 今夜はどこかへあがろうかとふとクインは思いつき、自分の耳に嵌めた大ぶりの真珠を撫でた。
 現金はあいにく殆ど持ち合わせていないのだが、以前客からもらったこの耳飾りを換金すれば足りるはずだ。大抵出入りの鑑定屋が妓楼にはいるから、揚げ代とやらを差し引いた釣り銭を、帰る前に貰えば済む。
 ……妓楼などに足を入れるのは実は初めてなのだが、大体の仕組みはチアロとの雑談で知っている。多分相手のほうでどうにかしてくれるはずだし、女そのものは知らないわけではなかった。
 ライアンへの不愉快な怒りも、オルヴィへの苛立たしさも、全て忘れてどこかで明るく華やかに発散するというのは悪い考えには思えない。ただの思いつきにしては欠損はなさそうで、クインはやや考えた末に娼家にかかる絵看板を見つめた。屋号は駒鳥と桜桃だと聞いている。確かライアンが通いつめ、チアロが必死で気を惹こうとしている女がこの近辺の妓楼にいたはずであった。
 ライアンがひたすらに構いあげている女、チアロが夢中になる女というのは一体どんな女なのだろう。オルヴィなどはライアンの愛人に過ぎない───とクインは底意地悪く笑う───あの嫌気の差すほど情感の薄い男が愛しているという女。チアロは美人だと繰り返していたが、この友人の場合は惚れた欲目の無意識の嘘だったとしても不思議ではなかった。
 クインはゆっくりと来た道を戻り始めた。この先は組合に入っている妓楼が少ない、次第に全ての質が落ちていく坂道でしかない。気付かずに通り過ぎたのだろう。歩いていると歌が近くなる。音源はどうやら遠くない場所にあるようだ。
『泣けずに沈んだ宿定は 閉じて籠もった貝のよう───』
 悲しげな声が歌っている。それを聞くともなく耳に入れながら、クインはことさらゆっくり歩いた。自分の部屋に戻れないという奇妙な現象が腹立たしくもあり、けれどたまさか思いついた思案が存外面当てには良さそうだという意地の悪い面白みもある。ライアンへの当て付けとするならこれもよさそうだった。
 妓楼はそう時間をかけずに見つけることが出来た。こぢんまりというには大きいが、タリアの大通りの店に比べれば遙かに気安そうな風情だ。屋号である駒鳥と桜桃の浮き彫りになった看板がぶらさがっている。ライアンの女だという遊女の源氏名は聞いていないが、聞けばなんとかなるだろう。
 クインはそろそろと妓楼へ近寄っていく。大体の話は聞いているものの、最初に足を入れるには多少の踏ん切りがいった。妓楼の地階は大抵食堂と顔見世のための待合室になっていて、両方が塗り格子の向こう側に見て取れるようになっている。赤い衣装を着ているのが遊女、白が見習いで黒がただの下働き、だったはずだ。
 一体どれがライアンの執心するという女なのか、クインは格子の向こう側をほんの少しの間、眺めやる。女達はそれぞれに美しく装っており、待合や食堂で華やかに笑ったり客であろう男と何かを話したりしているが、どれがそうなのかはやはり分かりそうになかった。
 あまりこれは考えることではなかった。思考を重ねて理解できることと、賽を投げてみるまで分からないことがある。クインは自分の性癖を緩く笑いながら、妓楼の格子からこぼれ落ちてくる明るい光のほうへ歩いていった。
 ───と、その耳に微かに異音が聞こえた。硝子が砕ける音はどれほど小さくてもはっと首をすくめたくなるような痛さであった。
「───ごめんなさい……ごめんなさい……」
 一瞬の空白の後、壊れてしまったようにそれだけを繰り返す細い声がする。それに被るのは客であろう男の怒鳴り声、そして怯えたように弱々しくも同じ事をひたすら呟く声、だがそれは何かに窒息するように聞こえなくなる。
 クインは足を止めて格子の向こう側へ視線をやった。食堂が見渡せる格子に男の大きな手が遊女の喉を掴んで身体ごと格子に押しつけ、何かを早口で言っている。
 他の遊女達が悲鳴のような声を上げて客に縋り付く。男は何かを低く言って喉輪にしていた手を離し、おもむろに華奢な体つきの遊女を平手で思い切り打ち据えた。その音が自分の鼓膜の近くに炸裂した記憶が一瞬戻り、クインは顔を引きつらせた。
 殆どたたきつけられたように遊女が食堂の格子に背を打ち、崩れ落ちた。長く豊かな黒髪に挿されていた百合の造花が片方ぽろりと格子の外側へ落ちて、風に送られ通りのほうへ転がる。
 クインは足をとめて顛末を見やった。
 客の男はどうやら女将なのだろう中年の女に食ってかかっているが、女将のほうはそれを適当に慰撫するつもりのようだ。食堂の奥の方に小間使いの少女が先ほどからせっせと上等の酒や食事を用意している。
 遊女達もこぞって男の機嫌を取り始め、とってつけたような明るいさざめきが空気を支配しようとする奔流の中で、黒髪の遊女は誰にも構われずに俯いたまま、打たれた頬を押さえた。細い肩が震えているのが見える。客に打たれることも暴力をふるわれることも、クインは自分の身に甦るようでぞっと背を冷やした。直接の肌の痛みよりも、見えない傷として胸に突き刺される痛みのほうがよほど辛いだろう。
 その遊女がひどく哀れに思われてきてクインは足早に造花に近寄り、拾い上げた。大して良い品でないのはすぐわかったが、遊女は格子の外へ勝手に出ることは出来ない。小間使いの少女がこの花に気付くまでには散々踏みにじられてしまうだろうという予測もなぜだかひどく哀しかったのだ。
 返してやろうと近寄っていくと、彼女がまだ少女と呼べる年齢であることにクインは気付いた。恐らく自分と対して年齢は違わないはずだ。肌の白さ、そこに被さる黒髪の見事な対比、けれど打たれた衝撃のせいなのか、まだごめんなさいと呟きながら震えている。頬を押さえる手では隠しきれないほど大きな赤い痕跡が、くっきりとそこに残っていた。
 クインはそれを見ないようにしながら格子に手をかけ、なあ、と荒ぶる男の気を引かないように小声で言った。
「───なあ、これ、あんたの花だろ……」
 掌に造花を乗せ、クインは格子の隙間から差し入れるようにしてやる。少女が頬を押さえたまま、ゆっくりと彼を見上げた。
 その瞬間に、クインの目の前に広がったのは黒く輝く深淵のような宇宙だった。一瞬遅れてそれが少女の大きな黒い瞳に潤んでいた涙の輝きだと気付く───気付く、時には既に、クインは息苦しさを覚えて喘ぐように喉を鳴らしていた。
 ふっと世界の音がまるで消えてしまったような刹那の時間に、転がり込んでくるのは歌だ。
 誰かが、どこかで歌っている。
『探してよ 波間にさすらう魂と、私の欠片をいつの日にか─── 』
 それだけが聞こえる。まるで何かの暗示のように。
 今自分の前にあるのは一体何だろう。頭の中が次第に白くぼやけて霞み、その代わりに真闇色に美しい夜空とよく似たものが広がっていく。
 何かの壮大な光景に似ている。分からない。これは何だろう……
 魂を抜き取られたように少女の目を見つめていたクインの耳に、微かな、彼と同じほど呆然とした吐息が聞こえた。それはやはり震えていたが、先ほどまでの暗い彩りでは既になかった。
 少女の目が限界までに大きく見開かれ、その中の光がひたと彼を見据えて離さない。
『愛してよ お前の全てをなげうって……』
 かすれた歌声以外には、互いの胸衝かれるような呼吸しか聞こえない。
『愛してよ 流れる血潮 その最後の一滴までに刻んでよ───』
 クインの手から知らず、百合の造花が転がり落ちた。
 星が瞬く束の間、あるいは永遠のような悠久の時間。
 二人は惹かれ合うように、求め合うように、運命を互いの中に探すように、目線さえ離せずただじっと、見つめあっていた。
 ───それは、深くて暗い色であった。心に潜むの深淵の、その更に奥にあるようなひっそりとした闇。通りを照らす沢山の灯火が夜の沼に映るようにぼんやりと輝いている。
 クインは僅かな時間、呼吸さえ殺して目の前に広がっている美しい闇を見つめていた。自分の目に映っている現象が一体何であるのかさえ考えられない、真っ暗で空白の時間。
 どこかで見た。やっとその沼から浮いてきた気泡が割れて、耳の奥で囁いている。どこかで知っている。見たことがある。この色を。瞳の深い美しさを。懐かしささえ覚える奇妙な既視感を、だが不思議と違和だとは思わなかった。
 懐かしい? 知っている? けれど、確かに初めて見る少女だ。それは間違いがない。就学していた頃も飛び級が多かったクインの身辺には、同年齢程度の少女たちは殆どいなかったはずだ。それとも流れていく先々の、沢山の町ですれ違ったのだろうか。けれど、多分出会っていたなら彼女を忘れない。それだけは何故かはっきりと分かる。
 ふっとその瞬間、瞼が動いた。瞬きであることにクインは一瞬置いて気付いた。それでやっと現実の知覚が戻ってきたようになる。
 周囲の雑踏とざわめきは普段と変わらない。けれど、ほんの瞬き一つの間の刹那、確かに時間が止まったような永遠があったことを、クインは半ば呆然と掴むように、自分の胸元あたりに手をやった。
 その耳に微かな吐息が聞こえた。少女が喉を僅かにならしたのだ。彼女もまた驚愕していた。大きな瞳の中の星々がこぼれおちそうなほど、一杯に見開いた目がじっと自分に当てられている。
 魂を吸われるような感覚を覚えてクインは微かに後ずさった。その下がった分を詰めるように少女が格子にすがりつくようにして、彼に指を伸ばそうとする。整えられよく磨かれた爪がそっと自分の袖に触れ、こわごわと撫でてから掴んだ瞬間、クインは淡いしびれのようなものに背をふるわせた。
 身体の末端が痛い。痛くて、───分からない。
 何かを言おうとしてクインは唇を薄く開き、そしてそこが渇いているのに気付いた。長い一瞬、目を閉じてクインは呼吸を深くする。そうすると胸の奥の痛みが僅かに切なく焦れて別の痛みに変わる気がした。きゅっと袖が強く引かれた。クインは再び視線を少女へ与える。
 よく見れば飛び抜けて見目の麗しい少女というわけではなかった。吸い込まれそうなほどの大きな瞳と、黒髪に良くはえる白い肌が美しいが、肌の方は年齢ゆえのものもあるだろう。化粧がごく薄いのは肌の元からの良さを全面に出す為の所作なはずだ……自分だってほとんどしないから分かる。
 少女はまだじっと彼を見ている。彼女の湖沼のように鈍く光をはらむ瞳に自分がいるのが見える。
 彼女が何故自分を見つめているのかは、クインにとっては考えるまでもないことであった。彼に出会う者たちはその時間の多少や驚愕の表現こそ違え、みな一様に彼の圧倒的な美貌の前に呆然とする。
 だが、いつものように何を見ているのだと意地悪く微笑むような仕草はどこかへ消えてしまって出てこない。だからそれ以外にどんな反応をしていいのか分からずに、クインもぼんやり相手を見つめ返すしかできていないのだった。
「お前……」
 クインは低く呟いた。とにかく何かを言わなくてはと思ったのだ。少女がゆっくり頷く。視線だけは彼にぴたりと合ったまま動かない。
 大きな目だ、とそんなことを思った。吸い込まれそうなほど。
 お前、とクインは二度目を言いかけた。だがその後何を続けようかと一瞬迷った彼よりも、気の張った女の声の方が強く、そして早かった。
「リーナ!」
 はっとしたように少女が身を痙攣させ、振り返った。さら、と黒髪が流れて落ちる。片方落ちた髪飾りが押さえていた部分がほどけたせいで、編み込んだ髪が多少甘くほどけてきている。その不揃いさがかえって目に焼き付くようだった。
 リーナというのがこの少女の源氏名であるようだった。リーナとは矢車草の薄紫の品種を意味する。なるほど、彼女の赤い衣装の裾には淡く光る金の糸で矢車草の刺繍があった。
 おいで、と女の声が続けている。その声の方向を見やれば、恐らく遊女たちの部屋へ続く回廊の入り口にあつらえた帳面台に陣取る中年の女が見えた。この女だけは遊女の赤や見習いの白といった符丁のある服を着ていない。通常町中で見かけるような、きちんとした仕立ての灰色の長衣に黒い編み糸のショールを羽織っている。つまりは女将であろう。
 女将の隣には中年の男が帳面台によりかかるようにしてリーナを見ている。彼女を指名した客なのか、少女に向かって軽く手を振った。少女は頷き、クインを振り返った。そして三度かち合う視線の中にお互いを見つけて、少女は困惑したように首を傾げる。
 何だよ、とクインは囁いた。少女は首を振った。その曖昧さに焦れたようになって、クインは思わず顔をしかめた。
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」
 つい乱暴な早口で言ってしまってから、クインはそのために更に渋い顔になる。些細なことですぐ苛立って噛みつく癖がこんな時には自分で舌打ちしたくなるほど疎ましい。
 少女は驚いたようにぱちぱちと目をしばたかせ、それからまた首を振った。彼女の視線がするりと自分の顔から落ちて、格子の下の方へ流れていく。つられるように目線を追って、クインはやっと少女の迷いが何であったのかを分かった。
 自分の足下に転がっている百合の造花を拾い上げる。そうだ、自分はこれを拾ってやろうとしたんだっけ───ほんの僅かな時間の中に濃く深く凝縮された深奥を感じていたせいなのか、ひどく長い時が過ぎた気がするがそれは錯覚だ。何故なら、妓楼を探して彷徨っていた頃と同じ声がまだ同じ歌を歌っている。
 クインは造花をつまんで格子越しに放り投げた。明るい灯火に踊るように百合花がふわんと宙を飛んで彼女の足下に落ちる。少女は造花を大切に拾い上げ、彼に向かってやっと笑った。
 その途端、目を引くような何もない、ごく平凡な面差しが急に様変わりしたようだった。含羞のような仄かな恥じらいを含んだ微笑みは、確かに何かが違う。大仰な美少女ということでは決してなかったが、その笑みには何かの強い力があった。───ほんの僅か、ぽかんと見つめてしまうほど。
 その一瞬が通り過ぎた時、クインはぶるっと一つ震えた。背中の皮膚が粟立っている。
 胸に急に噴出してくるぬるい感情が何であるのか、その瞬間にクインには分からなかった。ただやわらかな湯のようなものが胸の一番奥深い部分にたゆっている。何かがそこにぽつりと灯る───ような、ぼんやりした、曖昧な、感覚。
 それをこわごわ確かめるようにクインは自分の喉元辺りを指で押さえた。かすかに脈打つ血管がやけに敏に伝わってくる。
 何か言おう。そんなことをふと思ったのに唇が動かない。真冬の雪に凍えた時と同じように重く堅く、ぴくりともしなかった。
「……リーナ!」
 先ほどよりは焦れた声が再び促した。少女はさっと振り返り、こくりと頷く。そしてクインの方へ向き直って百合の花を胸に当てるような仕草をした。
「あの……」
 少女の唇が動いて、やっとそれが彼女の声だと気付く。声は細く、弱い。消え入りそうな小さな声だが、面差しや表情ほどは幼くはなかった。けれど、やはり懐かしい。理性の部分ではこれが全くの錯覚だとわかっていても、ひどく遠い匂いがした。
 クインが彼女を見ると、僅かに頬を赤らめる。その頬のふわりとした明るさを見た瞬間に、血の気がかあっと自分の方にあがってきた気がした。クインは慌ててつんと顔を逸らす。反射的に怯んだのだ。
「あの、花、ありがとうございました……」
 囁くような声にクインはそっと視線を戻す。少女はクインが自分の方を見たのが嬉しいのかほっとしたように笑い、深く腰を折った。彼女の髪が肩を滑り落ちる。その圧倒的な量と黒い色の輝きは、夜の滝のようにも見えた。
「ん……ああ、別に」
 素っ気なく返事をし、クインは頷いてみせる。少女はもう一度彼に礼を言い、背を返した。ゆっくりと遠ざかっていく。
 クインは彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめた。少女は振り返らない。女将と客の男が待つ帳面台まで辿り着くと、女将の言葉に首を振ったり頷いたりしている。男が彼女の頬を撫でながら女将に何かを言った。女将がしまりなくしどけない笑みを浮かべたから猥雑な冗談でも言ったのだろうか。
 彼女の方は俯いてしまったが、恥じ入っているのか、男の方は上機嫌だ。やがて少女が男に何かを囁いて二人は回廊の向こうへ消えていく。クインはそれを見ながら今から彼女をあの男が抱くのだという現実につきあたり、ふと奇妙な苛立ちにかられた。
 あの女、一体どんな顔をしてどんな風に啼くだろう? けれどそれが自分の前に他の男が知っていることがたまらなく不愉快だ。ぴくりと頬が不機嫌ゆえに引きつったのをクインは感じ、舌打ちした。一瞬の交感にうつけて惚れたのなんだの言い始めたら、まるきり自分が馬鹿に思えてくる。
 多分あの瞳のせいだ。あれが吸い込まれそうなほどに大きくて深い色をしていたから、どこかで見たことがあるような懐かしさだったから。そのせいで心が落ち着かないのだ。
 どこで見たのか、あの少女でなくても類似した者を自分は知っているような気がしてならないが、それが何であるのか見当が付かない。苛立ちはそのせいだろう。昔から、自分に理解できないことがあるのが途方もなく気分を悪くする。
 突然こんこんという音がして、クインははっと顔を上げた。この妓楼の女将であろう帳面台にいた女がクインに練れた笑みを向けていた。
「───何か用事かい? それとも気に入った娘でも?」
「え? ……あ、いや、別に、用事じゃ」
 咄嗟のことにクインは相当きょとんとした顔をしたらしい。女将は小さく笑った。昔は美女であったろう面立ちは、笑うと意外に深い皺が出る。見かけよりは年齢が上なのだろう。
「用事じゃなければそこをどいて欲しいんだけどね。外からのお客が中を見る為の寄席場所だから」
 言われてクインはやっとその妓楼の中に足を入れた。食堂で給仕をしていた女たちや客たちの視線が一瞬、怒濤のように身に流れてくる。それにいつもの薄い笑みを放り投げてやると、やっと自分の余裕が戻ってきたような気分になる。あの少女と目が合ってそれがなんだか懐かしかっただけのことで、ひどく調子を崩していたのだ。
「ここ、一晩いくら」
 クインは帳面台にさきほどの男がしていたようによりかかりながら言った。女将は彼をちらりと見て、少し意地の悪いような微笑みになった。
「うちはただの旅館じゃないけど?」
 からかわれているのだとクインは女将をきっと見据える。彼の視線のきつさに女将は苦笑して悪かったね、と呟いた。
「でもこんな店は初めてだね? 指名があるなら娘の名を、ないなら部屋が空いているかどうかを聞くんだよ。娘たちの格によって値段は全然違うからね。指名がないなら空いている娘の中からあたしが適当に見繕う」
 クインは頷いた。女将の看破したとおり、妓楼に足を入れるのも初めてであったから、妓楼の仕組みなどは知っていても実地のことは何も知らないのだ。勿体ぶりもせずに淡々と教えてくれた女将に安堵し、クインはこれ、と耳から真珠の粒を外した。
「これで大体どの女でも足りる?」
 女将は彼から真珠を受け取り、鑑定用の小さな拡大鏡でしばらく見ていたがやがて大きく頷いた。
「───十分だね。うちの一番いい娘でも買える、いい真珠だこと。指名は……ないんだったっけ」
 クインは首を振る。彼女のことですっかり飛んでいたが、やっと自分がここに何をしに来たのか思い出したのだ。
「他の奴から聞いて……ライアンっていうチェインの頭がいるだろう? そいつの女がいい」
 女将は長い溜息になった。あのね、と続ける言葉がやけに優しい。だから断られるのだとすぐにわかった。
「どの妓楼も同じだけど、どの遊女にどんな客が付いているかは極秘なんだよ。うちの娘たちにも、娘同士で客の個人情報の話なんかはしないようにしつける。組合に入っている妓楼はどこもそうだ。だから、例えばそのライアンっていう男がいたとして、うちの娘を可愛がってくれてるってことがあったとしても、あたしはそれが誰だかを教えるわけには行かないね」
 客の個人情報は教えるわけには行かないと言われるなら、それも道理であるかも知れなかった。だからクインは別の方向から食い下がる。
「俺がライアンと知り合いだって言っても?」 
「じゃあ源氏名を聞いておいで。聞けないならそれはそういうことなんだよ」
 女将は素っ気なくやり返し、クインの手に真珠を返した。
「で、どうする? あたしに空いている部屋を聞く? それともそっちの食堂で食事でもしていく? 給仕に出ている赤い衣装の子が娘だから、好きな子を選べばいいが。ああ、その場合は指名料は半額つけてもらうからね」
 クインは女将の視線の先にある食堂を振り返った。確かに赤い衣装を着た遊女たちが客の合間を縫っては酌をしたり給仕をしたり、男客は大抵一人だが、一人で黙々と飲み食いしている者は見あたらない。そこで女を選ぶという行為がどことなく腑に落ちなくて、クインは首を振った。そう、と女将は自分の提案に拘泥せずに頷いた。
「それで、どうする。あがる? 帰る? ……それともリーナが空くまで待ってるかい?」
 先ほどの邂逅を見られていたのだと気付いてクインはぱっと自分の頬が赤らむのを感じた。女将は少し笑った。
「あの子がいいなら待っていればいい。あんたは綺麗だから放って置いてもうちの娘たちが相手をしたくて焦れてるよ」
 クインは食堂の方を振り返る。と、いくつかの視線が彼の面輪に当たってほころぶように微笑み咲いた。どれも美しく着飾った女たちであったが、やはり誰からもリーナといった少女に感じたような力はなかった。
 クインは曖昧に返答し、リーナ、と聞き返した。女将は頷き、1刻半もすれば相手が出来るはずだと付け加えた。他の男と寝た直後に買うかと聞かれている生々しさにクインは怯み、首を振った。それはとんでもなく悪趣味である気がしてならなかった。
「いいよ、また来る……リーナ、だっけ、彼女、高い?」
「指名料込みで晩酌が50ジル、泊まりが80ジル。他に飲み食いするならその値段だね」
 クインは苦笑した。それは彼の一晩の値段の僅か10分の1だったのだ。女将はその笑みをなんと思ったのか、帳簿をぱたりと開いて明日、と言った。
「明日は指名が入ってないから相手が出来る。もしあんたがその気があるなら今予約入れていってもらえるなら、少しまけるけど」
 クインは首を振った。明日の夜は夜間の看護学校の入学試験がある。医療の実践と現場を知る為に、クインは看護学校の試験を受けるのだ。首席で試験に通れば学費もかなり特待で安くなるとそれなりに勉強もしてきたのだから、これを放り出すわけにはいかない。
 それから先のことは仕事の予定をチアロかオルヴィからか聞かなくてはわからなかった。
「いや、先のことは俺にもわからないんだ。……今日は帰る」
 クインはそれだけいって帳面台の前を離れた。またね、と女将の声が追いかけてきたがそれには振り向かず、手を軽く振ることで挨拶に代えた。

 住処にしているアパートが見える角を曲がると、部屋に灯りがついているのが見えた。誰かが来ている。少なくとも、だからライアンがオルヴィと密やかに関係を持つようなことは行われていないのだろう。
 クインは僅かに溜息をついた。安堵したことが自分でひどく屈辱的な気もするし、それでも多少は楽になった恩恵にそのままおぼれてもいい気もする。そのどちらに気分を定めるのか思案したまま、クインは自室に辿り着いて扉を開けた。
 入ってすぐにある居間の長椅子にゆったり背を預けていたライアンが、いつもの彼の煙管をくわえたまま、クインに視線を流して頷いた。クインは薄く部屋に漂う煙に眉をひそめ、軽くあごをしゃくった。最近は彼に対して不機嫌な態度を取ることが多い。
 クインの仕草で何を言われているのか悟ったのだろう、ライアンは煙管を灰切りの皿にもたせかけて天窓下の椅子の上に立った。天窓を開ける。ゆっくり手で空気を攪拌して煙を追うが、一瞬充満していた臭いだけはそうそう消えそうになかった。
 クインはライアンが降りた窓下の椅子に座った。何故彼がここにいるのかはわかっている気がしていた。あの客からオルヴィへ、そして彼女からライアンへ、連絡が回ったのだろう。ひとしきり小言でも言うのだろうかとそれを意地悪く待ちかまえていると、ライアンはクインのそんな表情に気付いたのか、薄く唇だけで笑った。
「お前が自分で自分の客を減らすのは勝手だ、好きにしろ」
 いつものように突き放されて、クインは唇を歪めた。ライアンの興味も関心もまったく引きつけておくことが出来ないのは昔からだが、焦れた思いが沈殿しつつあるこの頃には尚更彼の態度がクインの胸をひっかくようだ。
 ちりちりいう痛みを身体のどこかに聞きながら、クインはそう、と声音だけは素っ気なく返した。ライアンは長椅子の背もたれ越しにクインを見ると苦笑したような吐息になった。
「オルヴィの仕事だけ容赦がないな、そんなにあれが嫌いか」
「チアロ以外はみんな嫌だね」
 そこにライアンを付け加えなかったのは当てつけでもあるし、半分ほどは本気かも知れなかった。ライアンの関心の薄い態度を目にする度に、ひどく苛立つし怒りを覚えるし、そして最後には自分自身の持つものの少なさについて思い知る。嫌味に気付いたのかどうか、ライアンの返答はなかった。丁度草が切れたのか、灰切り皿にこつこつと煙管を叩いている。
「何しに来たんだよ。用がないなら帰れば? とってもお忙しいんだからさ」
 クインは極力つまらなそうな声音を作って言った。
 ライアンは曖昧に首を振りながら、腰に下げている煙草入れに手をやっている。中身を変えようとしたところでクインの先ほどの渋い顔を思い出したのかそれをやめたが、代わりに吐き出されてきたのは煙よりも胸に悪い言葉であった。
「悪態がつけるくらいならお元気そうで何よりでございますな」
 自分の嫌味に同じような辛辣が戻ってきてクインはむっと唇を結び、ライアンに聞こえるような舌打ちをした。
 ライアンが振り返り、淡い苦笑のままで長椅子を立って彼の隣あたりの壁に背もたれた。その手がぽんぽんと軽く自分の頭を叩く。子供扱いに怒ってクインが首を振ると、ライアンは懐から小さな包みを取り出して彼の手に握らせた。口を縛る朱紐をほどくとそこからクインの爪先ほどある翡翠が転がり出てくる。
「しばらくタリアを離れる。チアロを残していくから大体のことは用足りるはずだが、何かあったら使え」
「しばらく……って、どれくらい」
 さあな、とライアンは返答を濁した。分からない、と付け加えてライアンはまた腰に手をやった。煙草飲みの習性が自然とそうさせるらしい。
 クインはライアンの手を軽く叩いた。煙草の制止である。叩かれた手をライアンは軽く振り、溜息になった。その指先が手持ち無沙汰に空間を彷徨うのを自分の指を絡めて引き取ろうとすると、ライアンは素っ気なくそれを振り払った。指が離れる一瞬、強かに打ち返してクインは場を離れた。
 居間を挟んで二つの部屋が相対するという簡単な作りの部屋の、片方は寝室でもう片方は書斎として使っている。あまり整理整頓というものが得意でないクインの性質を反映して、居間も寝室もそして書斎も乱雑にものが散乱しているが、その書斎の床に放り出したままの生物学の本を拾い、クインは机の前の無炎灯のつまみをひねった。部屋が本を読める程度には明るくなる。
 開け放したままだった扉がこつこつ叩かれて、クインは不機嫌にそちらを見た。ライアンはゆるく苦笑を浮かべていた。
「たまには顔を見に来てやったのに、そんなに不機嫌にならなくてもいいだろう」
「ふぅん、来てやった、んだ? どうせチアロにうるさく言われたんだろ」
 本の字面に目を走らせるようなふりをしながらクインは返答を待ったが、違うという答えは遂に聞かれなかった。
 クインは軽い溜息と共に本を開いたまま、ライアンを斜めににらみ据えた。
「別に、あんたのしけた面なんか見たって嬉しくないね。しばらく出かけるから俺にお小遣いでもやりに来て下さったんでしょ、チェイン王陛下様々。有り難くも勿体なくも恐縮至極に存じ奉ります……で、用事が済んだんだから、帰れば?」
 ライアンは吐息で笑い、クインの背後から彼の開いた本をのぞき込んだ。彼は字を読めないが図版や写真の具合で学術書だということくらいなら分かるのだろう、熱心だなと呟いている。
 微かにそのライアンの呼吸が首に掛かってクインは身をよじった。他人と寝るのに慣れてきた身体が、愛撫ではないのに僅かに反応しようとするのだ。その反射にクインはきゅっと唇を噛み、乱暴な仕草で立ち上がった。ライアンを睨みながら、彼を振り向く。
「……帰らないの?」
 読みかけの頁に指を挟み、クインは空いた方の腕を伸ばして指先をライアンの胸に強くつきつけた。夏の薄い綿生地を通して、彼の呼吸と体温が僅かに伝わってくる。
 その瞬間に、自分が彼の身体を欲しているのは確かだった。男と寝ることに既に抵抗感はない。自分の身体に道筋をつけたのはライアンだったし、最初の夜が過ぎてもクインが客との行為に慣れていくまでは時折関係を持っていた。
 けれど最近は全く記憶にない。ライアンがタリアの自警のことだけで引き回されていた頃にもあまり会わなかったのだが、最近新しく麻薬の取引筋を一つ手にしたようで、ライアンはそれにかまけて殆ど姿さえ見せない。二人でいることなど、ここしばらくの記憶にまるで見あたらなかった。
 彼に欲情しているのか、それとも単に欲求を解消したいだけなのか、クインは判別しようとしてやめた。数少ない記憶の中で、ライアンが彼を抱く時にだけはひどく優しかったように思われて、それにすがりたいのだろう。何かの温かなもの、愛でなくともそれに似たものの熱を感じ取ることが出来たのは、結局この男だけだったから。
 チアロに縋り付こうとした時、友人はそれを丁寧に拒否した。それはチアロの彼を気遣う心根から来るものであったから不愉快ではなかったが、チアロ以外に心を許せるというならば、やはりライアンしかいなかったのだ。
 自分とその身体と、抱えている破裂しそうな胸の中の何か。小綺麗な器と自分でも持て余しかけている中身の熟爛を過ぎようとしている溶液。それ以外に自分に何かがあるのか、確かめたい。何でもいい、誰かから愛されるような何か───自分の価値。
 母マリアの為に生きていかねばならないことは分かっている。それは彼にとって決して苦役ではなかったが、けれど、それだけなのか。
 俺の価値は、今ここにいる身体と心の意味は、それだけの為に在るのだろうか。
 誰かの為にというなら容易い。母の為にと呟くならそれは決して間違いではない。確かに自分はそのために生きている。
 だけど、でも、俺は?
 俺のために何かはあるのだろうか。俺の為に誰かがいるのだろうか。俺を見て、俺を信じて俺を頼る、俺の相手が。
 多分それはライアンではないのだろう。けれど、今この瞬間に、彼しかいない。肌を重ねる感触に擬態させながら心ほどいて誰かに甘える方法を、クインはこれしか知らない。
 クインは本を挟んでいた指から力を抜いた。本が床に落ちて紙が折れた音がした。
「───帰らないなら、煙草は、いやだよ……」
 彼の胸元へ刺すようにあてた指をしならせてずらし、やがてそっと掌を押し当てると脈が打つのが微かに分かった。クインはライアンの心臓の辺りへ手を這わせながら、彼の目を見ないように自分の指先を見つめた。
 自分の造形美にはクインは一点の曇りもない自負と自信を抱いている。その通りに男にしては華奢な体つきにそぐわう指の細さが頼りなげで、自分でそれに腹が立った。クインが僅かに目端を歪めた時、手首が掴まれた。
「お前は、俺からもう一度同じ事を聞きたいか」
 低い声が言った。クインは黙りこくったまま、掴まれた自分の手首あたりにぼんやり目線をやった。
(俺はお前の保護者でも愛人でもない)
 ライアンの声が遠い記憶の底から低い声で呟いている。クインは唇だけでそっと笑い、返答をせずに俯いた。彼の顔を見ることが出来ない。自分の中にあるものを見透かされてしまいそうで怖かった。
 クインの沈黙がじっと時間をやりすごしかけたとき、ライアンの溜息がした。
「既に契約は終了している。俺はお前と寝る気はない」
 その声にクインは反射的に顔を上げた。契約という言葉が凍ったような胸の中に唐突に切り込んできたのだ。冷えた怒りが背を駆け上がってくる。
 クインは手首を掴んでいるライアンの手を乱暴にふりほどき、視線に強い力をこめて睨み据えた。
「……契約? 俺はそんなことを言った覚えなんか無い。あんたが何をどう解釈するのはご勝手だけど、俺は知らないね、そんな約束は」
「約束だと? 俺も知らんな、約束なんてものは。既にお前にやった金額の分は俺は取り戻したと言ってるんだ」
 彼が最初にクインに与えた1万ジル分は使い切ったと言い、ライアンはクインの視線を同じように睨み返した。クインは舌打ちをしてライアンの肩を突き飛ばすようにし、その勢いで自分の方がよろめいて下がった。
「俺はあんたに金を払えって言ったかよ!」
 怒鳴り、クインはかあっとなってきた頭を宥めるために、左のこめかみを指で押さえた。ライアンが溜息をついたのが聞こえた。
「お前の商売はそれだろう。金は要らない? 俺をお前の愛人にするつもりか? それこそそんな話はどこでしたのだと聞きたいが」
 クインは言葉無く顔を歪めた。ライアンの言葉に何かをたたきつけてやりたいが、言質という意味においてはライアンの言うことが事実だ。クインは縋り付こうとし、ライアンはそれを避け続けているのだから、言った言わないの話になると具合が悪い。
 けれど、そんな些細なことではないのだ。
 俺は、と言いかけてクインは呻いた。自分の怒りも苛立ちも、その根底にある飢えて吠える獣のような声も、全てを言葉にすることはとても難しく、どれも的確でないのは分かり切っていた。何を訴えてもライアンの面差しに歪み一つ与えられないことも。
 だからクインはもっと直截なことをした。自分が床に落とした本を拾い上げ、それをライアンに叩きつけ、帰れよ、と叫んだ。
「帰れよ───帰れ! 知らない、あんたの顔なんかしばらく見なくたって俺には関係ないんだろう! だったら嫌味だけ言いに来るなんて、あんたも案外暇なんだ?」
 殆ど脈絡など通っていない言葉にライアンが小さく鼻を鳴らしたのが聞こえた。それは冷笑と呼ぶべきものであった。
「そうだな、俺もそんな気がしてきた。お前の癇癪の相手など出来るんだから、俺も思っていたより時間があるらしい」
 クインはライアンにさっと手をあげた。何かの言葉も怒りも、全ては反射的な仕草の方が早かった。振り下ろした手はライアンに当たらない。体術ということについてはライアンの方が彼の数段上におり、全く暴力では歯が立たないのだ。
 打ってやろうとした手をするりとよけたライアンが、その手首を素早く掴む。その次の瞬間に訳の分からない眩暈がして、世界がぐるりと一周回った。どさりと床に投げ出され、クインは僅かな時間、ぼんやりする。
 つと肩に掛かっていた引きつるような重みが消えて、それですとんと体重が床に完全に落ちた。ライアンがクインの手首をようやく離したのだ。横に立つ彼を見上げると、ライアンは軽く首を振った。
「お前は自分で自分の吠える声に苛立っている。俺は巻き込まれたくない。もう充分だ」
 激高するでもなく淡々と呟かれた言葉に、クインはそう、と重い声を出した。のろのろ立ち上がって本を拾い、軽くほこりを払うような仕草をしながら呟いた。
「なら、さっさと帰れよ」
 一瞬の間をおいて、ライアンが溜息をついた。お前……と何かを言いかけ、奇妙なところで言葉を句切る。クインも顔を上げ、戸口の方を見やった。確かに扉が開いた音がしたのだ。
 軽い足音がして、部屋の中を覗いたのはオルヴィだった。女としてはやや長身に属するが、やはり女である体の線は明確だ。
 お前か、とライアンが僅かに肩から力を抜いた。オルヴィが彼に簡単な会釈をする。クインはふんと頬を歪めて鼻を鳴らし、何だよ、と不機嫌に言った。
「すっぽかしたんだって?」
 オルヴィの声は低めの苛立ちの範囲に属する冷ややかさであった。だから何だよとクインはつまらなそうに促す。オルヴィは不機嫌な声音のまま、淡々と言った。
「私の時だけそんなふざけた真似をするならもう私は仕事をあつらえない。全部チアロにさせればいい。その代わり、私の繋いできた客に対する始末だけは一度つけてもらう」
 謝れ、という意味であろう。クインがなんと噛みついてやろうかと身構えると、ライアンの声が駄目だと入ったのが聞こえた。
「お前とチアロでこれを切り回すように俺は言ったはずだ。俺に無断で勝手はさせない」
「ライアン」
 オルヴィはクインにする時よりはやや温んだ声を出した。クインは不愉快な気分をますます濃くして眉をひそめた。その声に滲んでいる僅かなおもねりを感じ取ったのだ。
「───態度をわきまえろってことさ」
 ライアンが何かを言う前に、クインは素早く割って入った。オルヴィはそう、と簡単に頷いた。
「……伝えておく。今日の客はもう一度あんたをご指名だ。引継はチアロに伝えてある……あんたが今度はすっぽかすかどうか、帰ってくるのが楽しみだな」
 クインはそう、と何気なく話を流したが、そこに含まれている毒はすぐに察知することが出来た。帰ってくるとオルヴィが言うのならば、ライアンがタリアを離れるのに彼女も同行するのだろう。それをわざわざ言葉にしないで提示しているのだ。
 だからクインはオルヴィに向き直り、華々しい笑顔を浮かべて見せた。
「伝える必要なんか無い。俺はあんたに言ったんだよ」
 オルヴィは僅かに眉を上げ、そして頷いた。クインにとっては相変わらず、冷徹な壁しか感じない相手であった。軽く彼女を睨むと同じような視線が返ったが、さほど長くは続かなかった。オルヴィはライアンに軽く頭を下げる。それは先ほどの自分の発言についての簡単な謝罪のようだった。
 それが済むと、彼女はクインに迷い無く近づいてきて、一枚の紙切れを差し出した。
「次の仕事だ。最前のご希望通り若い女だから、せいぜい楽めばいい」
 オルヴィの手から紙片をかすめるように奪い取り、クインはその内容にざっと目を通した。女客の時にはいつもの連れ出し用の貸し部屋ではなくタリアの外の宿を使うから、場所は毎回変わった。メモには姉妹ということで部屋の予約が取られていること、使う偽名などが記されている。クインは分かったと紙片を机の引き出しにしまいこみ、あごをしゃくった。
「用事が済んだら帰れよ、……二人とも、だ」
 オルヴィが何かを言いかけたのを、ライアンが首を振って制した。彼女の肩を軽く叩いて出ていく背に、クインはよいご旅行を、と怒鳴った。オルヴィだけがちらと振り返り、頬で暗く笑った。それは恐らく、クインに対する嘲笑とライアンの一件の勝利の顕示であった。
 クインはぎりっと奥歯をかみ合わせた。オルヴィのこれみよがしな態度は彼の神経をいつでも一番嫌な音の不協和音で逆撫でる。あの女に小馬鹿にされたのだという屈辱感とライアンへの怒りが急速にあがってきて、クインは拳を握りしめた。中で爪が皮膚につきささるようで痛い。
 戸口が閉まる小さな音が聞こえた瞬間、それが悲鳴になってこぼれた。何にどんな怒りをたたきつけていいのかさえ、知り得ない。
 胸の裂かれそうな苛立ちと痛みと、もの狂おしい怒り。それらに翻弄されるようにクインはふらふらと寝室へ歩き、寝台へ身を投げた。
「母さん───助けて……」
 呟く言葉に救いと癒しを求めても、彼の聖母は遠く離れた場所にしかなくて、彼を暖めてくれる魔法とはなりそうになかった。


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